2002年6月28日(統一テーマ:『神聖ローマ帝国』)
ハインリヒ4世  My


はじめに
 神聖ローマ帝国というテーマは与えられたものの、何をやって良いか分からず、悩みに悩んだあげくハインリヒ4世(1050〜1106)というところに落ち着きました。ただこの辺に関しては全然本を持っていなので、またまた今週も手抜きです。


<ハインリヒ4世登場時の神聖ローマ帝国と教会>
 この頃までの神聖ローマ帝国では、皇帝が司教の任命権を握って教会を支配していた。そして教会の神的な権威を利用することで、王権は各地の諸侯を抑えて強大な力を維持、西欧世界に最強国として君臨していたのである。
 だが皇帝権力と教会の癒着は聖職売買や俗人の叙任の横行を育み、その結果教会は聖職者の妻帯や畜妾、教会財産の横領といった、悪習や不正であふれることになった。そして、このような教会の堕落と、それに伴う教皇の権威の失墜は、他方で教会改革の動きを呼び起こす。教会改革は最初は皇帝主導のもとで進んだが、教会が不正と悪習を絶とうとすれば皇帝権力との癒着を改めねばならず、これは必然的に帝国の支配の弱体化につながる。帝国と教会はしだいに対立を深めていくことになった。

<ハインリヒ4世略伝>
 ハインリヒ4世はザクセンのゴスラールで1050年に誕生。1056年に、父のハインリヒ3世が死亡したため、ドイツ王となり、母が摂政をつとめた。彼は1065年から親政を行うが、父帝の死後の政治的混乱の中で、教会は皇帝の聖職者任命権を排するなど帝国離れが進んでおり、貴族も割拠して、ドイツ王権は著しく弱体化していた。そこで彼はさっそく集権化に乗り出すが、これに反発する貴族が1073年ザクセンで大反乱を起こす。この反乱は1075年にようやく鎮圧に成功、だがこれに自信を得たハインリヒが、教会の支配権を回復するため司教の任命に手を着け、教会との紛争が勃発、1076年にはハインリヒが教皇グレゴリウス7世の廃位を、グレゴリウスもハインリヒの廃位と破門を宣言するという事態に陥った。そしてハインリヒの破門に勢いを得た反皇帝派の貴族たちは王の廃位を目指して結集、ハインリヒは追いつめられていく。この情勢の推移に驚いたハインリヒは、1077年カノッサ城に滞在中の教皇を訪れ、雪中に三日間裸足のままで改悛の意を示し、赦免を得る。しかし反皇帝派の貴族たちはハインリヒの廃位をあきらめず対立王を選出、ドイツは二つの陣営に分かれて内戦を戦うことになった。
 その後ドイツが内戦によって混乱するのを見て、グレゴリウスは1080年に再度ハインリヒを破門、だがハインリヒは対立教皇を立てて戦い、勝利を重ねてドイツ貴族の大半の支持を得ることに成功した。彼はチューリンゲンの戦いでは敗れたものの、この戦いで対立国王が戦死したためさらに政治的な優位を強め、1081年イタリアへと侵入、ローマを包囲する。そして1084年にはローマを占領することに成功した。だが、グレゴリウスが救援を要請していた南イタリアのノルマン軍が大挙ローマを攻撃したため、ハインリヒの軍はドイツへと退却することになった。ただしノルマン軍に救出されたグレゴリウスも事実上の捕虜としてローマから去り、サレルノで1085年病死する。
 こうしてハインリヒは教皇に対して一応勝利を得たのであったが、その後教皇側はウルバヌス2世の登場によって体制を立て直す。そして1090年からハインリヒはイタリアに再度侵入したものの、北イタリア諸都市の抵抗に苦しみ、さらには長子コンラートが反乱、南ドイツの貴族たちも教皇の側につく。ハインリヒはドイツに戻って反乱鎮圧と国家の再建に努めることになるが、1105年には後継と目していた次子のハインリヒも反乱、ハインリヒ5世を名乗る。ハインリヒ4世はこれから逃れて挙兵、ハインリヒ5世の軍を破ったものの、1106年リエージュで失意の内に死亡した。

<ハインリヒ4世後の西欧>
 この戦いによって神聖ローマ皇帝は権威が大きく低下、一方教会は改革に成功して力を伸ばす。その結果、カロリング朝フランク帝国以来西欧を支配した、政治と宗教が一体をなす帝国による政治体制は崩壊した。以後の西欧世界は、教皇を中心とした西欧全体を覆う教会体制と、諸国家分立の政治秩序が、並存する世界となっていく。


おわりに
 手抜きながらも何とかまとまって良かった、良かった。


参考資料
週刊朝日百科世界の歴史41(11世紀の世界・展望)、43(11世紀の世界・人物);朝日新聞社
世界戦争事典;ジョージ・コーン著 鈴木主税訳  河出書房新社


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