2002年7月5日(統一テーマ:『古代インド』)
中国の史書の中の古代インド  田中愛子


 『史記』巻一二三・大宛伝には、中国の西方に位置する国々に関する記述がある。これは、B.C.139年、西域探検の旅に出た張騫による帰朝報告に基づいた資料である。彼は、匈奴挟撃のために大月氏を捜し求め、B.C.128年頃、大月氏の居住地であった藍氏城(現在のアフガニスタン北部)までたどり着いた。この旅の中で、彼は、当時のインドに関する情報を入手しており、それが、この『史記』大宛伝の中に記されている。
 大宛伝の、大月氏に関する記述の中には、「西撃大夏而臣之」とある。
 ストラボンの『地理誌』の中には、「B.C.140年頃、北インドに位置するグレコ・バクトリアが、スキタイ系4民族の南下により滅亡した」という記述がある。うち、「Tokharoi」という民族が大夏に比定されており、また、「Asioi」「Pasianoi」という民族は、月氏もしくは烏孫であると比定されている。張騫が藍氏城にやってくるまでに、北インドは、グレコ・バクトリアが大夏等の南下によって滅ぼされ、続いて大夏が大月氏の攻撃を受け、大月氏が代わってその地を治める、という変遷をたどっていたと思われる。
 大月氏の支配の下、大夏人で、遊牧的封建を受けるものがあった。これがクシャーン(Kusan)である。クシャーナ朝は、これが自立して起こった王朝であるといわれる。
 大宛伝は、大夏について、さらに、インドについても取り上げている。その中には、「其俗土著,有城屋,(中略)無大君長,往往城邑置少長。其兵弱,善賈市。(中略)有市販賈諸物。其東南有身毒国」「臣在大夏時,見?竹杖、蜀布。問曰『安得此?』大夏國人曰『我賈人往市之身毒。身毒在大夏東南可数千里。其俗土著,大与大夏同,而卑湿暑熱云。其人民乗象以戦。其國臨大水焉。』とある。当時の大夏やインドについての情報が、伝聞ながらも詳しく記されていることは勿論、当時の中国にとって非常に都合のよい情報が記されているのである。
 大夏には中国西南部の物産があり、それはインドから入ってきたものであるという情報が、それである。張騫は、この情報や、中国、インド、大夏の位置関係をもとに、中国西南部とインドを繋ぐルートがあると考え、そのルートを用いるよう進言している。当時、西域との貿易のルートであった河西回廊は匈奴の支配下にあり、漢人が通行することはきわめて危険であった。進言を受けた武帝は、中国西南部とインドを繋ぐルートを求めた。だが、北ビルマに関する情報を得られたほか特に収穫はなく、河西回廊から匈奴を駆逐したこともあり、このルートの探索は結局打ち切りとなった。


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