2002年7月5日(統一テーマ:『古代インド』)
「神皇正統記」から見るインド  NF


(1)はじめに
 南北朝時代を代表する歴史思想書「神皇正統記」は日本・中国・インドの三国を照らし合わせて著述しているといわれる。そこで「古代インド」がテーマの今回は、「神皇正統記」においてインドがどのように描かれているかについて述べ、それを一例にして日本においてインドがどのように捉えられていたかを述べる。そして中世・近世初期の日本においてインドに関する知識がどこから手に入れられていたのかも考えてみたい。
(2)「神皇正統記」におけるインド
 神皇正統記は、インドの歴史については釈迦の誕生と入滅を中心に描いている。それによると、仏滅後290年に神武天皇が即位したことになる事から逆算して、瓊々杵尊の初年に迦葉仏が出現しウガヤフキアエズノミコト(瓊々杵尊から数えて5代目)の835667年に釈迦が誕生、同835753年に入滅した事になるという。また仏滅後百年に阿育王(アショーカ王)が即位、正法で天下を治め三宝を崇敬し八万四千の塔を立てて舎利を安置し財を擲って人々に功徳を施したがその三代後の弗沙蜜多羅王(プシャミトラ王)は卒塔婆を破壊しようとし多くの寺を壊し僧達を殺した報いによって護法神に殺されたとも記されている。つまりインドに関する歴史は仏教関連のことしか書かれていない。では、この書の世界構成においてインドはどのような位置に置かれているのかを見てみよう。仏典(「大唐西域記」など)によれば世界の中心に須弥山があり、その周りに7つの金山があるという。そしてその間は香水の海があり、外側に四大海、海中に四大洲がある。そのうち南洲を「瞻部(一般世界のこと)」と呼ぶ。南洲の中心に阿耨達があり、その南は大雪山(ヒマラヤ)、北は 嶺(パミール)、さらに北が胡(北方遊牧民)、南に五天竺、東北に震旦(中国)、西北に波斯(ペルシャ)になるという。その上で「神皇正統記」の著者である北畠親房は、日本はさらに離れた海の仲にあるのであろうと推測している。ここで世界が日本・中国・インド・遊牧民・ペルシャに分かれその中心にインドが位置しているということになる。更に「仏祖統紀」などに描かれるインドの世界観を「神皇正統記」は記している。それによれば、光音天が空中に金色の雲を広げて大雨を降らせ、大風を吹かせることによって地上世界が誕生し、天衆が地上に降りてくるようになったという。当初、人は男女の別もなく歓喜を食物とし、光を放ち自由に飛行できた。しかし大地から湧き出る甘泉をなめることで味覚への執着が生じて神通力を失ったという。更に人間の食物は甘泉が枯れた後に林藤・?稲と移り変わり、?稲により体内に汚物がたまるようになってそれを排出する穴が生じ、男女の別が生まれたという。やがて自然に?稲が生えなくなったために人の手で育てるようになって農耕が生まれ、それに伴い人々の間で争いが起こるようになった。それを調停するものとして王が誕生。代を重ねるごとに王の威光が衰えるに連れて人の寿命も縮んで84000歳となり、百年ごとに一年ずつ縮むようになった。人の寿命が60000歳のときに拘留孫仏、40000歳の時に倶那含牟尼仏、20000歳の時に迦葉仏が現れた後に、人の寿命が120歳の時代に釈迦が誕生したという。やがて人の寿命が10歳に限られるようになった時、餓え・病・戦乱の災いが現れて人類の大半は死に絶える。しかし残った人々が善行を積む事で再び寿命は延び、20000歳に達した時に弥勒が現れるという。こうしたことを18度繰り返した末に世界は消滅するというのだ。こうした世界観に対し、親房は天神の種を受けて世界が建立された点は日本に似ているが皇位に乱れがある点が異なると評価している。中国を乱脈で秩序のない国としていることを考えると、親房は日本を優位としながらも中国よりもむしろインドに親近感を覚えていることになる(因みに中国に対しては、日本が中国より優位であることを示そうとする目的の記述が目立つ)。
(3)インド情報の出典
 「神皇正統記」におけるインドに関する記述の原典は「大唐西域記」「仏祖統紀」「倶含論」などといった仏典であるようだ。では、これは「神皇正統記」に限らずインドについて言及した日本の文書の一般的性格だったのであろうか?これについて考えるために、やはり日本・中国・インドという構成をとっている「今昔物語集」について考えてみよう。「今昔物語集」はインド・中国・日本の3部に分けられ、それぞれ仏法・世俗の部門に分けられている。巻1〜5がインド編にあたり、大半は釈迦の生涯・前世を扱ったものであるという。釈迦が前世で善行を積んだために仏陀となることができたという物語集(ジャータカ)がインドで数多く作られた。そうした物語が「諸経要集」「法苑珠林」など中国の仏書を通じて日本に伝わったものであろう。また「神皇正統記」と並び称される歴史書「愚管抄」におけるインド関係の記述が前述の人の寿命と仏に関するものであったことからも、日本人のインド関係の知識が仏典経由のものに限られていたことをうらづけていよう。以上から考えても当時の日本のインドに関する情報源は、中国からもたらされた仏書・経典に専ら拠っていたといえそうである。思えば8世紀に東大寺大仏開眼の導師を勤めたのはインド僧・菩提遷那であった。しかしこれもこの当時だけの現象にとどまり、後世の日本人とインドとの交流には残念ながらつながらなかったのであろう。日本人がインドに関する生の情報を手に入れるのはかなり後のこととなったのである。
(4)おわりに
 やれやれ、意味をなさん文章になってしまったね。おまけに、日本語としてなってない…。


参考文献
日本の名著 慈円・北畠親房 中央公論社
神皇正統記 岩佐正校注 岩波文庫
新修国語総覧 京都書房
Microsoft ENCARTA百科事典2000


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