2002年10月4日
菊池氏の南北朝  NF


はじめに
 14世紀に日本を混乱に陥れた南北朝の動乱。その中でも南朝は「南風競わず」と言われるようにほぼ一貫して劣勢であったが、唯一地域的支配が成立したのが九州であった。その中核であった菊池氏は楠木氏・新田氏・北畠氏などと並び一族のほぼ全てが南朝のために働いた「忠臣」として知られる。これまで筆者は何人かに焦点を当て南北朝の全体像について述べてきたが、今回は菊池氏を中心に九州での争乱のあらましを追いたい。
菊池氏
 菊池氏は伝えられる所によれば藤原氏の出で、政則は11世紀に刀伊(女真)が攻め寄せた際に功績を挙げている。その子則隆が肥後菊池郡に住み着き菊池氏を名乗るようになったという。しかしその後、隆直は12世紀末の源平合戦において平氏方につき、能隆は1221年の承久の乱において朝廷方につく。こうした事もあって、鎌倉幕府の統治下において菊池氏は不遇な状況に置かれていた。さて、弱体化していた朝廷は13世紀後半から皇位をめぐり皇室が持明院統と大覚寺統に、摂政・関白をめぐり藤原摂関家が五摂家に分裂し幕府の調停を受ける状況になっていた。そうした中で14世紀前半に天皇の位についた後醍醐天皇は親政を行いやがて鎌倉幕府の打倒を目論む。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせるため、そして皇位継承に干渉する幕府を倒し全国支配権を朝廷に取戻すために。1331年、後醍醐は挙兵し笠置山に篭ったが笠置は幕府の大軍により陥落、持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位させられ隠岐に流された。しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵した楠木正成は1333年に幕府軍を大阪平野南部各地で翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。幕府は大軍でこれを囲むが攻めあぐねた。これを受けて、かねてから後醍醐が誘いをかけていた幕府に不満を抱く豪族が立ち上がる。彼等はこの頃盛んになった商業を背景とする新興豪族やかつて幕府に敵対して不遇に陥った土豪が中心であった。菊池氏もその中の一つとして歴史の表舞台に登場したのである。
菊池武時の博多攻め
 元来九州は守護を務める大友・少弐(武藤)・島津を中心として現地の豪族の力が強い地域であった。中でも少弐氏は大陸との外交拠点である大宰府を抱えており貿易の利を得ていた。しかし元寇を契機に、鎌倉と直結して九州を束ねる指揮官として鎮西探題が防衛の為に置かれ、北条一族が代々その職に当った。つまり北条氏が次第に権力を集中させる流れの中で九州の支配権も北条氏に握られたのである。これは少弐氏を中心とする現地豪族に大きな不満を招いていた。さて、こうした中で阿蘇惟澄は1333年、吉野に篭る護良親王(後醍醐の皇子)から令旨を受けている。「菊池武朝申状」によれば菊池氏は後醍醐(隠岐を脱出し伯耆船上山に逃れていた)から直接宣旨を与えられたとされるが、「博多日記」によれば宣旨を持った使者が鎮西探題に捕らえられ斬られている事から宣旨が菊池の手に渡ったかどうかは疑問だ。阿蘇氏と同様に護良から令旨を受けたと考えるのが妥当であろう。ともあれこれを受けて菊地武時は土佐から脱出した尊良親王を奉じ、少弐貞経・大友貞宗と反幕府の兵を挙げることを示し合わせた。しかしこれが時の鎮西探題・赤橋英時の感知する所となり、英時は事実を明らかにすべく彼等を招く。武時は計画が漏れた事を知りすぐに挙兵、少弐・大友に連絡した。しかし少弐・大友共に動かず菊池のみの蜂起となる。武時は3月13日に英時館に攻め入り、一時は英時が自害を覚悟する程の激戦を演じた。しかし少弐・大友が英時側につき六千の軍勢で背後から菊池を攻撃、菊池軍は多勢に無勢で如何ともしがたく敗色濃厚となる。武時は覚悟を決め、長男武重に後事を託して落ち延びさせ自身は次男頼隆と共に討死した。菊池氏の残党狩りは峻烈であったという。この戦いは幕府方の勝利となったのである。しかし中央では状況が激変。畿内における幕府の拠点・六波羅探題は幕府方の名門・足利高氏が後醍醐方に寝返ったため5月8日陥落し、関東でも新田義貞の挙兵により鎌倉も22日に陥落、幕府は滅亡した。こうした影響は当然九州にも及ぶ。皮肉なもので先には幕府方について菊池氏を追落とした少弐・大友は、島津貞久と共に今度は後醍醐方として鎮西探題を攻撃、5月25日に英時は討死しこれを聞いた長門探題北条時直は翌日降伏した。
多々良浜の戦い
 鎌倉幕府滅亡を受けて後醍醐天皇は京に帰り自ら新政府を作る。建武の新政である。少弐・大友・島津は足利尊氏(後醍醐から本名「尊治」の一字を賜り「高氏」から改名)の取成しもあり本領を安堵されていた。一方菊池氏の功績を称えたのが楠木正成である「菊池武朝申状」によれば正成は「元弘で忠義を尽くした中で功を挙げた者が多いといっても、命を保った者ばかりである。勅によって命を落としたのは武時入道のみである。忠に厚いことでは彼が一番であろう。」と述べたという。これによってか菊池氏への恩賞として武重が肥後守・左京大夫、武茂が対馬守、武敏が掃部助に任命されたのである。さて天皇の政府が最も悩まされたのは恩賞の問題であった。天皇は自分の権力基盤を固めるため多くの土地を所有する必要があった一方、手柄を主張する武士や貴族、寺社の数も多くとてもそれに対応しきれない状況に陥る。結局皆を満足させる論功行賞はできず、武士を中心に政府への不満は高まりしかも政府にはそれを押さえるだけの軍事的実力もなかった。こうした中で建武二年(1335)、信濃で北条氏残党が挙兵、鎌倉を陥れた。鎮圧のため鎌倉に出陣した尊氏は鎮圧後、鎌倉に居座って独自に論功行賞を行う。後醍醐はこれを謀反として新田義貞に足利討伐を命じた。因みにその新田軍の中に菊池武重も加わっていたのである。尊氏は竹ノ下で義貞を破りその勢いに乗って上洛、しかし奥州から追ってきた北畠顕家軍の助けもあり後醍醐方は一旦尊氏を退ける。敗れた尊氏は瀬戸内に味方の将を配置して地盤を固め九州に落延びた。建武三年(1336)2月の事である。一方九州のほうでは、中央にいる兄・武重に代わり菊池氏を束ねていたのが武敏であった。尊氏挙兵に呼応して少弐貞経が勢力拡大を図ったので、武敏はそれに対抗して建武二年11月に大宰府を攻撃しているがこの時は破れ逆に翌年正月に本拠の菊池城を落とされている。しかし2月に尊氏が九州に落延びてくると、少弐氏は兵力を二分して貞経が大宰府を守り、子・頼尚が尊氏を迎えに出た。武敏はこの機会を逃さず他の豪族と語らって三千の兵で大宰府を攻撃、貞経は守りきれぬと見て大宰府の東北にある要害・有智山城に篭って戦ったが、遂に敵わず29日に討死。頼尚が尊氏に忠節を尽くし天下人とする事が遺言であった。さて尊氏が長門赤間に着いたのは2月20日。25日に少弐頼尚が彼等を迎え29日に筑前芦屋に到着。この時、頼尚は太宰府が菊池武敏に落とされ父妙恵が討死したことを知ったが士気が落ちるのを恐れそれを伏せた。尊氏は宗像社に陣を置き宗像社から武器・馬を借り受けて3月2日に出陣。多々良浜という干潟の南の外れにある小川の南岸で箱崎八幡の松原を背に武敏は布陣した。その数は七千と「北肥戦誌」は伝える。一方足利軍は香椎宮を背後にした赤坂と松原の間に布陣。正面に三百騎余、東側に少弐頼尚の五百騎余、歩兵も合わせるとそれぞれ千余・千五百余であったろうか。尊氏は余りの兵力差に落胆し切腹を口にするが、直義らに止められて気を取直す。そして全滅を避けるためまず直義・少弐勢を先陣として出撃させた。菊池勢は正面から攻掛かるが足利軍は歩兵が矢を射掛け敵が怯むのを見て決死の勢いで突撃。菊池軍は折悪しく北風に吹き上げられた砂塵が兵達の目に入ったため動揺、一方で直義らは追風に乗る。加えて菊池軍は制圧された豪族達の寄集まりで菊池直属の兵は千人に満たず、内心は後醍醐政権に不満を抱き尊氏に好意を抱く者が多かったため烏合の衆で実際に戦闘に加わる者は多くなかった。そこへの風や足利軍の猛撃であるから菊池勢は浮足立つ。勢いに乗った直義は追撃し松原を過ぎる。そこで武敏は大軍に物を言わせて松原の方面と東の2方向に軍勢を分け直義を挟討とうとした。直義は討死を覚悟し直垂の片袖を形見として尊氏に届けさせ、足利軍はこれを見て感嘆。さて菊池軍のうちで千ほどの隊が小川を渡ろうとした際、足利軍の千葉大隈守が一騎でそれを防ごうとした。それに菊池軍が気を取られた一瞬、尊氏は自ら手勢を率いて突撃。こうして足利軍が有利に戦いを進めるうち、元来烏合の衆であった菊池勢の中で松浦党らが寝返り。更に直義・少弐勢が息を吹返したので菊池本隊の奮戦も空しく勝敗は決し、武敏は辛うじて逃れた。一方尊氏はこれを契機に九州を制圧し、大軍を率いて再び上洛する。
南北朝争乱の推移
 延元元年(1336)5月25日、足利の大軍を迎え撃った後醍醐方は湊川で敗れ、楠木正成は戦死し新田義貞は辛うじて落延びる。再び入京した尊氏は持明院統から光明天皇を即位させ(北朝)自らの政権を樹立。一方足利氏の下で花山院に幽閉されていた後醍醐も吉野に脱出し自分の皇位の正統性を主張(南朝)。この中央での争いにあわせるかのように各地の勢力はそれぞれの思惑で何れかに味方し戦乱が繰り広げられた。九州においてももちろん例外ではない。延元元年(1336)から懐良親王が九州に上陸した正平三年(1348)にかけては、足利方である少弐頼尚と大友氏に菊地氏が対抗するという状況であった。しかし足利政権が九州の押さえとして置いた九州探題・一色範氏と少弐氏とが博多の利権などを巡り激しく対立。正平四年(1349)幕府では政務を担う直義と軍務担当の高師直が対立し、その一環として直義の養子・直冬が九州を直義方の手に収めるべく下向した。少弐氏は一色に対抗するため直冬と結び、窮地に陥った一色範氏や大友氏は菊池と通じる。それに勢いを得た南朝方は正平六年(1351)に北上し直冬と戦うが、この時は果たせず。翌年になると尊氏が関東で直義に勝利し直義は間もなく鎌倉で病没したため、直冬は急速に勢いを失い長門へ逃れた。その結果、今度は少弐氏が一色氏に押されるようになり頼尚が南朝方につく。菊地氏はこれに乗じて再び北上、今度は8月には肥後国府を、10月には博多を落とした。一色範氏は逃走。南朝方は初めて博多・大宰府といった九州の中心地域を手にする事ができたのである。更に豊後の大友氏泰、豊前の宇都宮氏、牛屎高元らが南朝に帰順。正平11年(1356)11月には懐良親王の水軍が九州から上洛しようとしているとの噂さえ流れた。尊氏は事態を重視し正平13年(1358)に九州へ自ら出陣しようとしたがその矢先に病死。このように九州においてのみ南朝がたが健闘できた理由は何であろうか。まずは全国的に見られた傾向であるが、守護と有力土豪の対立がある。そして惣領と庶子の対立もあった。所領の分割相続を繰り返すにつれ、一族の長である惣領の力は弱体化し、それにつれて分家である庶子との主導権争いが激化していた。これらは全国的に見られたことで九州に特殊だったわけではない。その上に守護同士の対立があった。これも全国的に見られたことではあるが、特に九州の場合は少弐が貿易の利が得られる博多を支配化においておりそれを背景に力を強めようとしたため大友・島津など他の守護との対立が激化。更に、九州探題と守護の対立である。幕府から派遣されて九州を統制下に置こうとする探題と、自立傾向を強めようとする守護との間で摩擦が起こるのは当然であった。そもそも鎌倉幕府滅亡の際に守護達が鎮西探題を滅ぼしたのも中央の支配に対し自立を求めようとした側面があったことは前述した。中でも少弐氏と探題は政治・貿易の中心地である大宰府・博多の支配を巡り激しく抗争を続けたのである。こうした複雑な状況下でそれぞれが相手との対抗上、権威を求めて幕府・南朝・直冬にくっついていた。こうして南朝にとって相対的に優位な形成が生まれたのである。菊池氏は比較的一族の結束が固く、更に九州の豪族の中でも割合力のあるほうであったので状況に付け入る事ができたのだ(それでも、菊池氏も一族の分裂に悩まされたようで武重が置文を書いて一族の結束を固めようとしているし、武重の後を武士が継いだ際には一族を率いきれず武時に当主が交代するという事態が起こっている)。しかしながらこうした南朝方の優勢は長く続かない。全国的には幕府方が圧倒的優勢である事が影響し、やがては少弐氏・大友氏が菊地氏から離れる。彼らにしてみれば上から押さえていた九州探題がいなくなってみるともはや幕府に敵対する理由は存在しない。寧ろ菊池から離れた方が本領安堵の近道であり、より大きい自由が得られる道なのだ。
筑後川の戦い
 正平十三年(1358)、武光は畠山直顕の日向六笠城を五千の兵力で攻撃。すると大友氏時が豊後高崎城に篭り、宇都宮宏知が豊前への道を塞ぎ、肥田刑部太輔が筑後への道を塞いで背後で菊池軍を包囲する態勢が作られた。そうした中で翌年春に武光は少弐・阿蘇と共に大友を討つため豊後を攻めようとしたが、少弐頼尚・阿蘇惟村は逆に菊地に対し挙兵。武光は阿蘇軍を破り、その勢いに乗って大敵少弐も破って大宰府を手中に収めようと7月に懐良親王を総大将とし菊池一族を中心に名和氏・新田氏らと共に北上、筑後川南岸に布陣。軍勢は約二万四千程であろう。それを受けて頼尚は少弐一族や千葉氏・松浦氏を中心として筑後川の北・味坂荘に布陣した。総勢は六万と言う。先に動いたのは武光であった。19日、五千の兵を率いて武光は筑後川を渡る。頼尚はこれに対して軍勢を大保原まで後退させた。数で勝る少弐軍が兵を退いたのは菊池軍が高良山地を背にしていたのに対し自分達が平地の真中で包囲されやすいところに位置していたため地形的な不利を避けようとしたのだと考えられる。しかし平地で衝突すれば単純に数の多い方が有利であるはずであり少弐軍の動きは消極的に過ぎる。旧来の南朝方で占められる菊池軍に比べて少弐軍は豪族の寄せ集めで一枚岩でなく統制・士気に不安があったのではあるまいか。ともかく少弐軍が入った大保原は前方が沼で、東には宝満川があり守るに良い地形であった。そして沼は細道でのみ繋がっていたが、少弐軍は更に三箇所堀を掘って細い橋を掛ける。頼尚の作戦としては恐らく守りに徹しながら数で劣る菊池軍の疲れを待つというものであったろう。両軍は睨み合う形になった。敵を誘き出したい武光は、頼尚を辱めるため旗に起請文を掲げる。その起請文は先年に武光が頼尚を救援して針摺原で一色範氏を破った際に感激した頼尚が「今後は子孫七代に至るまで菊池に弓を引き矢を放つ事はしない」と記したものであった。それを掲げる事で少弐軍を嘲って見たがそれでも頼尚は動かない。そこで8月6日、武光は夜襲のため三百の兵を選び出して搦手に回らせる。そして主力を三つに分け川音に紛れて夜中に押し寄せ、頃合を見て先に敵の後方に回っていた三百の兵が鬨の声をあげ駆け回り、敵陣に矢を打ち込む。大軍が密集していた少弐軍は混乱し、暫く同士討ちに陥った。7日の夜明け、先方の菊池武政は正面から攻撃、少弐直資を討取るが朝井胤信により菊池武明らが討死。一方で第二軍の菊池武信は少弐頼泰らと衝突、激戦を繰り広げた。そして総大将懐良親王のいる第三軍は武光・新田氏の下で頼尚本陣に突入。少弐本隊はこれに対し左右に展開して矢を射た。これも非常な激戦で親王自らも三箇所に傷を負ったという。敵陣中に駆け入って戦っていた新田軍数千が壊滅し本陣の日野・洞院ら貴族達も親王を守って次々に討死と苦戦が続く中で、武光は味方を励ましつつ矢の雨の中を突入、敵本陣の懐深く攻め入って少弐軍を混乱に陥れた。そしてついに少弐軍は宝満山方面へと退却した。武光は勝利したものの味方の被害も甚大であるのを見てそれ以上の追撃を自重。血刀を川の水で洗い引き上げた。以来その川を太刀洗川と呼ぶようになったという。
九州制覇とその後
 筑後川の戦いで直接少弐を屈服させる事はできなかったが、この勢いに乗って翌正平十五年(1360)に肥前を制して佐賀・神崎・小城・松浦を従える。更に翌年、南朝方は4月に懐良親王・菊池・新田・名和により筑前を、5月に武光により日向を制圧した。7月には少弐冬資を破って遂に大宰府に入ったのである。そして8月には博多を占領、ここに征西府を移した。以降は今川了俊が九州を攻略するまで13年間、南朝方が九州を支配したのである。懐良親王は後継者として後村上の皇子である良成親王を迎え、正平二十三年(1368)には水軍で上洛しようと図った。この間、懐良親王は明に使いを送り「日本国王」に任じられたらしい。これを以って「九州の独立構想」があったという説もあるがどうであろう。大宰府失陥前後にも東にいる兄・宗良親王と和歌の遣り取りをしたりするなど、吉野の南朝と縁が切れたわけではなさそうである。そして飽くまで「日本国王」であり「九州国王」ではないのだ。更に初め懐良は明と国交を結ぶ事に消極的で、初めの使いは元寇の例に倣い処刑してさえいる。明が海禁政策を取っていた事、そして吉野の南朝はこの頃極めて弱体化しており安全に明の使いを迎える事が不可能である事を考えると、南朝天皇の代理としてそして貿易を行うための便宜として止む無く「日本国王」の冊封を受ける事にしたと考えるのが妥当であろう。南朝の実質上の代表者・九州の王者としての自負は無論懐良にあったであろうが、飽くまで日本の範囲内で独自政権を目指したものであり九州の完全独立ではなかったと思われる。それはさておき、その冊封は懐良の手に届く事は遂になかった。この頃から今川了俊の九州経略が始まり、明使が大宰府に到着したときには大宰府は幕府方の手に落ちていたのである。さて、その今川了俊は建徳二年(1371)に京を出発し、子・義範を豊後、弟・仲秋を肥前に向かわせて菊池軍を兵力分散させた。そして武光が豊後を攻め倦んでいる間に了俊は翌文中元年(1372)正月に豊前に入り、大宰府をつく構えを見せる。武光は慌てて大宰府にとって返し了俊を防ぐ。了俊は豊前・豊後・肥前から大軍に物を言わせて大宰府を攻撃、8月には大宰府を落とした。懐良親王や武光は筑後高良山に落延びる。文中二年11月、菊池武光は病没し、翌年には子の武政も没したと言う。以降、南朝方の戦力は大幅に低下したが、菊池氏はそれでも武朝を中心に抵抗を続けた。一方了俊は九州の守護達を支配化に置くことに苦労し、天授元年(1375)に水島城を攻めた際に命に従わない少弐冬資を酒宴に招いた上で暗殺。これを契機に九州守護達の心が却って離れ九州統一が遅れた。しかし、圧倒的な戦力差はやがてこれを埋めていく。翌天授二年には今川満範が薩摩・大隈・日向方面から、義範が肥前から菊池に迫ったのだ。弘和元年(1381)には菊池氏の本拠である隈府城が落城、更に弘和三年には懐良親王も病没して南朝方は急速に衰微。良成親王が暫く幕府方への抵抗を続けていたが、南北朝が合一した直後の明徳四年(1393)頃には遂に南朝方の支えであった菊池氏も幕府に降伏した。こうして九州での南北朝の戦いは終わりを迎えたのである。
おわりに
 これまで、南北朝の主要な合戦については大体レジュメで言及してきた。しかし、筑後川の合戦についてはまだ述べていなかったので調べてみようと思って書き出したのが今回の作品である。当初はごく短いものに成る予定であったが、割合の分量になったので一つのレジュメとして完成させた。長さも内容も何か中途半端であるが、勘弁してほしい。
おことわり
 このレジュメは菊池氏の立場から書いているので、基本的に一貫して南朝方であったことを考慮し、時代の雰囲気を出すためにも南朝方の年号で記しております。


参考文献
太平記一〜三  岩波書店
新編日本合戦全集2鎌倉南北朝編 桑田忠親 秋田書店
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
南北朝時代史 久米邦武 早稲田大学出版部
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
日本外史(上) 頼山陽 頼成一・頼惟勤訳 岩波文庫
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
週刊朝日百科日本の歴史12後醍醐と尊氏 朝日新聞社
「太平記第一巻 岡見正雄校注 角川ソフィア文庫」より「博多日記」
「群書類従第二十一号合戦部 続群書類従完成会」より「菊地武朝申状」「阿蘇大宮司惟澄申状」
日本の歴史11太平記の時代 新田一郎 講談社
「中世悪党の研究 新井孝重 吉川弘文館」より「南北朝内乱期の戦力」
「校註国歌大系 第九巻 講談社」より「新葉和歌集」
京大本梅松論 京都大学国文学会


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