2002年10月11日(統一テーマ:『古代ギリシャ』)
ペルシア戦争  NF


(1)はじめに
 今回は、古代ギリシア史における山場の一つとも言うべき、ペルシア戦争について簡潔に纏めてみた。
(2)イオニア反乱
 小アジア半島に居住するギリシア人たちをイオニアと呼ぶが、彼らはペルシア勃興前にはリディア王国に従属していた。ペルシアがリディアを滅ぼした後、イオニアは数十年かけて征服され一定の自治権を認める宥和策により支配された。すなわちペルシア王により任命された僭主によって統治される形態が取られたのである。その中でもミレトスは地中海交易や農業によって最も栄えた。紀元前499年、ミレトスの僭主代行アリスタゴラスは、ペルシア王の威光と兵力を借りてナクソス島征服を目指すが失敗。これにより地位の危険を感じたアリスタゴラスはイオニア諸都市に対しペルシアへの反乱を呼びかけ、更にギリシア本土にも援軍を要請した。国内に対立を抱えていたスパルタはこれに応じなかったが、アテネは出兵に応じる。嘗てアテネはスパルタへの対抗上、紀元前507年にペルシアに従属していたが前僭主ヒッピアスがペルシアを頼ったために反ペルシアに傾いていたのである。翌年にはアテネの軍船がミレトスに向かい、サルディスを急襲、焼き討ち。ペルシア王ダレイオス一世はこの時にアテネへの報復を決意したという。さてイオニア軍はペルシアの反攻にあい敗れ、アリスタゴラスも戦死。紀元前495年にはイオニアの海軍が結集されてラデ海戦が行われた。イオニア軍の将ディオニュシオスは、縦列で敵艦隊の横列を突破して混乱するところに衝角の一撃を敵船に与えるという戦術を構想していたという。しかしそれを実行できるだけの充分な訓練を積むことができずイオニア海軍は結局敗退。翌年にはイオニアは再征服されるが、多くの都市では市民の意思が反映する民主制が取られるようになった。イオニア市民にとっては一定の成果が得られたといえよう。
(3)マラトンの戦い
 紀元前490年、ダレイオス一世は先年への報復とギリシア征服のため軍をおこした。その軍勢は軍船200隻に上るといわれる。ペルシア軍はナクソスを焼き討ちしエレトリアを攻略してアテネへ向かう。その道案内をしていたヒッピアスは己の一族の地盤であるマラトンに上陸し、内応者出現に期待するがそれは果たせなかった。アテネのミルティアデスはマラトン平野南端の隘路で敵の南下を阻もうと図る。ここでスパルタの援軍を待って戦いに移る予定であったが、スパルタ軍が間に合わず時間が経過すると味方から内応者が出る危険が高かったのでアテネ軍とプラテイエイ軍だけで決戦に移った。ペルシア軍は総勢四万、上陸して布陣したのは三万といわれ、約1.5qの戦列を組み中央に主力を置いた。一方アテネ軍は総勢一万ほど、中央を薄く両翼を厚く布陣。右翼にはカリマコスが、左翼にはプラテイエイ軍が当たった。アテネ軍は前進し敵の弓兵の射程距離に入ると全速力で突進、中央ではペルシア軍が層の薄いアテネ軍を押し返すが両翼ではアテネ軍が優勢となりペルシア中央軍の背後に回り包囲する。ペルシア軍は敗走に移り、その途上で沼沢に入り大損害を受けた。一方で追撃するアテネ軍でもカリマコスが戦死している。敗れたペルシア軍は船に引き上げて敵内部にいる内応者からの盾の合図を得てアテネに前進。しかしそのときにはアテネ主力軍が帰還していたので攻略を諦めて撤退した。
(4)テルモピュライとアルテミシオン
 マラトン合戦以降もペルシアとの緊張関係は続き、そうした中での紀元前481年にデルフォイ神殿からギリシア全体にペルシアの脅威が迫るが「木の壁」に頼れば救われるかもしれないとの神託が下される。アテネのテミストクレスは「木の壁」を軍船の事として海軍重視の防衛策を構想する。彼は在留外人まで動員して機動力のある三段櫂船を主力に据え様と考えた。アテネはギリシア全体の統一歩調を取ろうとするが必ずしもうまく行かず、日和見に出るところも現れた。一方でダレイオスの後を継いだペルシアのクセルクセス王は陸軍八万・軍船600隻で出兵。翌年にはギリシア側は陸軍がスパルタ王レオニダスを主力にして隘路テルモピュライに布陣し、海軍はアテネの200隻を中心とするギリシア連合艦隊324隻がアルテミシオンで展開して双方が相互連絡する事で共同防衛線を張った。スパルタ軍七千は断崖に囲まれた隘路に展開し間道をフォネス軍千人に守らせる。押し寄せるペルシア軍に対してスパルタ軍はわざと後退して深追いさせ、反転して長槍で倒す戦術を取る事で優位に立つ。しかし翌日の夕方にはペルシアの別働隊が間道を突破して迂回しスパルタ軍を挟撃。そうでなくとも数で劣勢なスパルタ軍はその次の日には全滅、レオニダスも戦死した。一方アルテミシオンではスパルタのエウリュイバデスやアテネのテミストクレスに率いられたギリシア海軍が優勢の内に戦いを進め更に夜の嵐でペルシア艦隊は大きな損害を受けていたが、ギリシア側はテルモピュライでの敗戦を知って撤退。紀元前480年8月下旬の事であった。
(5)サラミス海戦
 ペルシア軍迫るの報に接したアテネ市民は疎開、9月にはペルシア軍がアッティカに入った。貧民と神官はアクロポリスに立てこもっていたが抵抗敵わず陥落。ギリシア海軍はサラミスに、陸軍はコリント地峡に終結した。そうした時に、ペルシア軍にギリシア内の分裂とアテネの親ペルシア派の寝返りを知らせる使いが訪れる。元来ペルシアは親ペルシア派の内応を進めていたためその知らせに応じ、サラミス水道の狭い水域に入り南のプシュッタレイア島に歩兵を上陸させた。しかしその密使はアテネ側の策略によるものであった。狭い中で密集し充分な展開もできぬ情況になったペルシア艦隊はギリシア軍の罠に嵌ったのである。翌日、ギリシア艦隊がペルシア艦隊の前に現れ左翼のアテネ軍が展開。三段櫂船の機動力を生かして、寝返りを期待して油断していたペルシア軍の不意をついて衝角で突入。ペルシア先陣のフェニキア艦隊はこれによって敗退し、後陣のイオニア艦隊が退路を塞ぐ格好となって混乱した。ペルシアは主力であるフェニキア艦隊が完全に戦意を失ない更にイオニア艦隊の忠誠も疑わしくなったために撤退し、これを受けて陸軍も引き上げた。テッサリアで越冬したペルシア軍は翌年には再進軍、再びアッティカが占領された。スパルタのパウサニアス率いるギリシア陸軍はこれをプラタイアイで迎え撃つ。ペルシア軍にとって有利な平野部で両軍は展開し、暫く睨み合いとなる。ギリシア軍が後退する時の混乱を内応者の寝返りと勘違いしたペルシア軍は攻撃を急ぎペルシア軍指揮官が戦死、ギリシア側は勝ちを拾った。一方海上ではミュカレーでギリシア軍がペルシア軍内のイオニア陣に寝返りを進め、サイソン砦を陥落させている。
(6)おわりに
 ペルシアによる軍事攻撃はこれで一応の終結となる。ペルシアの敗因は軍に多民族混成であるための脆さを孕んでいた事と内応者出現に頼りすぎたためで、ギリシアは統一戦線を築くことに一応の成功を収める事でそれに付け入る事ができたのであろう。また地元で地理に明るかった事、海軍や重層歩兵有効に用いた事、士気・規律の高さもギリシアの勝因として見逃せないであろう。この戦いを通じてギリシア人はギリシア内の一体感・自己確立を行ったといえる。しかし以降もペルシアのギリシアへの内部工作は続き、やがてはギリシアはペルシアに従属する形となっていくのである。


参考文献
ペルシア戦争 馬場恵二 教育者歴史新書
戦争の起源 アーサー・フェリル 鈴木主税/石原正毅訳 河出書房新社


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