2002年10月25日(統一テーマ:『室町時代』)
室町期の戦闘について(改)  My


はじめに
 日本の戦闘は、南北朝期に歩兵が散兵として活躍を見せて以来、しだいに騎馬武者も下馬して戦うようになるなど、徒歩での戦闘がその意義を増大させ、戦国期の歩兵集団による組織戦へと移って行くと言われます。けれども室町期の戦闘については良い本が見つからなかったので、『明徳記』と『応仁記』をもとに勝手に妄想を膨らませて、南北朝期と戦国期の間をつなごうと思います。まあ、こういうわけなので、誤読(私は古文を読むのが苦手だし、漢字ばっかりの文章になるとほとんど読めない)や誤った理解があれば、指摘してもらえるとありがたいですし、良い本があれば紹介して下さい。それからここでは義満から室町時代としとくけど、それで良いかい?


<『明徳記』に見る室町初期の戦闘>
 『太平記』に見られる南北朝期の戦闘では、射手として散開して戦う歩兵との分業のもと、騎馬武者は主に騎乗で長大な刀剣をふるって戦った。これに対して、足利義満が山名氏清を討った明徳の乱(1391年)の戦闘について『明徳記』を見ると、歩兵が射手となり騎馬武者は騎馬で突撃するという、以前同様の戦いぶり以外に、騎馬武者が下馬して戦う例がしばしば見られる。(【】は岩波文庫の『明徳記』が章段を分けて付した表題で、貢数も岩波文庫のもの。)
 @上巻【大内義弘の奮戦】p.46〜49では、大内義弘の軍勢が、「五百餘騎の兵共、一度にはらりとおり立て、楯を一面につきならべ、射手の兵二百餘人左右の手崎にすすませて」、「枯野になびく尾ばなの如く、切っさきをそろゑてしづまり返て」敵を待ち受け、これに攻撃をかけた小林義繁・山名高義の手勢も「射立られ、馬の足を立かねて、これもはらりとおり立て、大内勢の眞中へ、鋒をそろゑてきて入」り乱戦におちいっている。
 A上巻【山名上總介高義討死】p.52では、隙をついて大内勢との乱戦から騎馬で抜け出した、山名高義に対し、「御馬廻の人々三十騎ばかり」が「皆々下立て」防戦し、高義を討ち取っている。
 B中巻【山名氏清決戦を覺悟す】p.72では、再び敵を迎え撃つことになった大内勢が「今朝のごとくにおり立て」、敵を待っている。
 C中巻【垣屋・滑良討死す】p.78〜79では、勇戦する垣屋弾正と滑良兵庫の二騎に対して、山名氏清勢の「究竟の兵十四五騎一度にはらりとおり立て、鑓長刀を差合て、透もなくう」った。垣屋・滑良も「二人ながらおり立て」戦ったが、氏清勢はまず垣屋を討ち取ったあと、滑良を「五人前よりすきもなく、鑓長刀にて支えつつ、太刀持ちうしろへ走寄て」討ち取った。
 ではここからこの時代の下馬戦闘の位置づけについて考察しよう。
 これらの例よりわかるのは、@・Bにおける大内軍やAの御馬廻のように、下馬戦闘は、主として防御側において採用されたということである。Cにおける氏清勢の兵士たちの防御的な姿勢も、下馬戦闘は防御用との理解を補強するものであろう。そして、@の小林・山名の手勢は攻撃側でありながら下馬戦闘を行っているが、これは激しい射撃を受けて馬を制御できなくなったからであり、自ら望んでのことではない。あくまで攻撃は、騎乗で行うものだったと言えよう。ところで、防御に下馬戦闘が用いられた理由についても考察しておこう。おそらく、その理由は、防御において、乗馬戦闘に利点が無かったためであろう。馬に乗ることは、機動力と突撃力を大いに高めてくれる反面、高く抜き出た頭を狙われたり、あるいは馬を狙われたりと、かなりの危険を伴う。そのため、突撃も長距離の移動も必要としていない防御戦闘では、不利益しかもたらさないというわけである。
 では下馬した戦士たちはどのように戦ったのだろう。これに関しては、@の「切っさきをそろゑて」や、Cの「鑓長刀を差合て、透もなく」と「すきもなく、鑓長刀にて支えつつ」といった記述から見て、下馬した騎馬武者は、密集し集団として戦ったと考えられる。それではこれは何のために行ったのだろうか。それはおそらくは敵騎兵の突撃をくい止めるためである。そもそも騎兵というものは、歩兵の堅固な隊列を突き破る力は無いのであるが、それは歩兵の側に、騎兵の突撃を受けても逃げ出すことなく隊形を保持する、規律があればの話である。そしてこの時代の一般の歩兵に、このような能力を期待することはできない。この時代の歩兵は、敵騎兵の動きにくい地形を選んで、散開して飛び道具で戦うのが通例であって、敵を阻止するために密集し強固な戦列を組む戦い方など、訓練されてはいないからである。つまり、歩兵では敵騎兵の突撃は止められず、そこで騎馬武者の下馬ということになる。騎馬武者ならば、軍事の専門家とも言うべき階層であって、日頃から武技を練っており、敵前で強固な隊列を維持し続けるだけの、能力が期待できたのである。ちなみに、これとほぼ同時期、14世紀の西洋においても、社会的発展と軍事的発展は我が国と類似の状況にあり、騎士の突撃と弓兵の併用が見られるが、そこでも敵騎兵の突撃をくい止めるためには、軍事の専門階層である騎士が下馬して戦っている。このことから言っても、下馬戦闘の目的を敵の突撃の阻止と見て良いだろう。
 さらに『明徳記』のなかには騎馬武者と、歩兵の力関係を示す記述が二ヶ所ある。一つは@でおちいった乱戦の中での山名高義の「…敵はみな馬放れたれば、なにほどの事か有べき…」との発言で、敗色濃厚ななか討ち死に覚悟の騎馬突撃を実行しようとした時のもの(【大内義弘の奮戦】P.49)。もうひとつは大内義弘の「今度は打こみの軍なり。下立ては敵にあひおくるべし。皆々のれ。」といった発言で、Bで守勢に立っていた大内勢が援軍を得て反撃に転じようとした時のものである(【一色詮範加はる】p.82)。前者からは、一般的には徒歩戦闘が騎兵に対抗し得ないと見なされていたことが見えてくるし、後者は攻撃における騎馬武者の優越を明言している。つまり、この時代においては、騎兵の乗馬戦闘は依然その威力を高く評価されており、とりわけ攻撃の際においてその存在感は絶対的であった。下馬戦闘は、あくまで例外、すなわち防御という戦闘の一側面において、敵の突撃の阻止という特殊な目的のために、限定的に使われた、特異な戦法だったといえる  以上より、歩兵の射手と、騎乗突撃を行う刀剣使用者の分業を従来通り維持しつつ、防御において、例外的に下馬した騎馬武者を、歩兵集団として敵の阻止に使う、という室町期初頭の戦闘の実体が明らかになった。つづいて『応仁記』の戦闘について考察を進める。

<『応仁記』に見る室町末期の戦闘>
 『応仁記』の戦闘においては、軍勢の兵力を表す際に、「騎」ではなく「人」を使っている箇所が多いなど、歩兵使用の拡大が目立つ。そして、従来のように射手が防御で障害物を利用し活躍する例も見られるが、徒歩で刀剣を使用した攻撃のめざましいことが大きな特徴を成す。つまりは歩兵戦闘が戦場の主流となったのである。それではその戦闘の様相を見てみよう。
 @巻一「御靈合戦之事」には、上御霊社に籠もった畠山政長の軍を、畠山義就の軍が攻撃した際、「義就方ノ遊佐河内守、馬ヨリ飛下リ、眞先ニ進テ懸レバ、兵モ馬ヲ乗放々々爭競テ攻入ル」とある。
 A巻二「所々合戦之事」には、「京極衆猛勢ニテ未鹿々ト手當ヲ不定所ヲ、武衛ノ内朝倉弾正左衛門、馬ヨリ飛テ下リ、自カラ敵五六人切伏ケレバ、甲斐、織田、瓜生、鹿野等モ敵卅七人討取テ追立ケレ。」とある。
 B巻二「蓮池合戦附政長武勇之事」では、畠山政長は、二千の軍勢を率いて、自らも「馬ヨリ下立」ち、東條近江守の二千とともに、出撃敵の大軍を挟撃すべく二手に分かれて進んだ。そして政長が、「勢ヲ間荒ニ不遣、一所ニ潜ンデ懸リ候バ、敵小勢ナリトミテ緘マヌ事候マジ。其時一方ニ込カクルナラバ何條切頽サデ候ベキ」との進言を容れ、「楯ヲ眞向ニ指、笄敵ノ虎口ヘ突カケテ、一二百帖ノ楯ヲ捨テ、鑓ヲ入ケレバ」、東條勢もそこに「横鑓ニ懸リ」「士卒ハ主ヲ討セジト吾モ吾モト進ミ」、大勝利をおさめた。
 これらの例のうち、@では下馬しての攻撃が明らかであるし、A・Bも将が下馬して戦っている以上、その指揮を受ける兵士は全て歩兵であるか、騎馬武者が含まれても下馬しているであろう。つまりこの頃の騎馬武者は攻撃に際しても下馬するようになっていたと言える。だが、この時点における徒歩戦闘のあり方は、@の「爭競テ攻入ル」やBの「吾モ吾モト進ミ」の表現から、統制にかける無秩序なものであったことがわかる。さらに、Bで「勢ヲ間荒ニ不遣」とわざわざ提案していることから言って、通常の歩兵は、隊列の荒い、隙間だらけの乱雑な集団だったと言える。つまり『応仁記』の時代には歩兵戦闘が戦場の主流になったとはいえ、未だその歩兵を、戦術的にまとまりのある集団に編成して活用するには、至っていないのである。また、この頃の歩兵=足軽については敵の籠もったところを避け、敵のいない所を打ちやぶる、逃げることを恥としないなどの特徴が、他の様々な資料に述べられている。歩兵が戦術的な集団に編成されていないことは、このことからも明らかであろう。
 ではこのような乱雑な歩兵の群れが戦闘の主流を占めながら、従来のような騎兵の活躍が見られないのはなぜだろうか。このように、徒歩戦闘一般が統制に欠けるものであったとすれば、歩兵の軍事的な優越の前に騎乗戦闘が消えつつあった、とは言えないだろう。このような規律のない歩兵集団ではとても騎兵には対抗できない。もしかすると記述にないだけで、明らかに防御に立つ場合においては、この時代の歩兵も、『明徳記』の下馬戦士たちのように、統制のとれた密集戦法をとっており、その威力の前に騎兵は圧倒されていたのかもしれない。しかしそうであっても、一般的な状況がこのような無規律となれば、騎兵の活用機会はいくらでも見つかっただろう。やはり騎兵の活躍が消えた原因は歩兵の戦術的な威力が優位を確立したからではなさそうだ。となると、騎乗戦闘の衰退の原因は、社会情勢の推移を背景とする、軍事力の構成の変化に求めるしかない。この頃には、没落浮浪民の傭兵としての利用が著しく拡大したほか、農村上層の地侍の軍事力への組み入れも広がりつつあった。そして、これらのもたらす歩兵の爆発的増大=騎馬武者の比率の著しい低下の結果、騎馬突撃はしだいに戦闘全体に与える影響を低下させていったであろう。また肥大した兵力を統制するため、騎馬武者たちは騎馬戦士としての武勇を発揮するより前に、分散して、指揮を執らねばならなかっただろう。全軍中の比率を低下させつつあるところに、さらなる分散が加わっては、騎兵の突撃ももはや微弱な威力しか残るまい。そして突撃が役に立たぬ騎馬武者が、移動中ならいざ知らず、戦闘中騎乗し続けることに、何の意義があるというのか。ただ敵の射手の絶好の的となるだけ。下馬戦闘ばかりになるのは、当然の流れであった。
 以上のように室町期末には、歩兵の著しい増大の結果、騎乗戦闘がほとんど意味を失い、戦闘はもっぱら徒歩で行われるようになった。だが徒歩戦闘員の集団としての使用は、仮にあったとしても室町期初頭と同様、例外的な事例に過ぎなかったはずである。歩兵の集団としての活用は、戦国大名の強大な統制力を待たねばならない。

<補足 室町期の武器の変遷と戦闘>
 ここまでの考察において、意図的に無視してきた問題として、武器の問題がある。この問題についても軽く触れておこう。この時期の武器は、太刀、長刀、鑓と変遷していく。一見これらの武器は全く異なるもののように見え、戦闘の変化を武器抜きで論じたことは、妥当でないようにも見える。だがこれらの武器はいずれも、すなわち太刀すらも他の武器に引けを取らないほど、長大なものであった。さらにこれらの武器はその使用法においても、あまり差異はない。鑓は突くものではなく、振って敵を打ち据えるものだったのである。すなわち、この時期の武器の変遷は、武器の外観だけしか変えておらず、実質的な効用は同じままであって、そのため戦闘に変化をもたらしたとは考えられない。つまり、この時期の戦闘を論じる際に、武器の変遷は必ずしも重要視しなくて良いのである。


おわりに
これは以前のレジュメ『日本前近代軍事史』に添えた、小発表を手直ししたものである。以前のものは、ひらめきと知識を充分に活かすことができず、かえってそれらに振り回されていた。欄外に、後付でアイデアが書き込まれ、あるいは消化しきっていない知識を無理に文章化したため文章が各所でかなりの飛躍を見せ、未完成の度が過ぎるレジュメであった。そのため今回、統一テーマが室町時代であるのを好機と手直しした次第である。だいぶましになったとは思う。ただ、はじめに述べたとおり、私は古文の読解の能力は低いし、この時代のこの分野については、まったく参考にできる文献が見つからなかった。そのため、誤解誤読や未熟な推論等が溢れているだろう。そのような箇所については、遠慮無く指摘して、私を教え導いてもらいたい。以上である。


2002年度発表一覧へ

inserted by FC2 system