2002年12月6日・13日
日本民衆文化史  NF


はじめに
 歴史を見ているとつい華やかな英雄達に目が行きがちになる。しかし舞台裏で歴史を築いてきたのは常に名もなき民衆であった。「民衆不在」の歴史にならぬためには、歴史における民衆の動向に目を配らねばならぬ。とまあ、何処かで聞いたような論法を借用してみたが今回は日本の民衆文化の歴史についてみていきたい。それにより日本文化とは何かについて示唆を与えられるような通史が出来ればよいと思う。但し近現代については少々偏った記述になっているかも知れぬ。
民衆文化とは
 民衆文化の定義については、文字通り「民衆により生出され民衆によって消費される文化」、特にここでは資料の比較的手に入りやすい「都市民衆による娯楽文化」の意味とする。こうした文化が日本史上に現れるのは近世社会が幕を開け始めた14世紀頃、南北朝内乱が展開される時期が最初であろう。つまり産業発達による貨幣経済の展開から都市民衆生活にある程度余裕が生まれ、それを背景に近世から近現代にかけ民衆文化が栄えたのである。
前史    
原始(旧石器・縄文 〜紀元前3世紀頃)
 旧石器・新石器時代であるこの時期の文化については良く分かっていないが、狩猟・採集・原始農耕を中心とした当時の社会は平等・自然崇拝という原始社会に通例の性格を持っていたようである。そしてこうした感覚は、身分が成立した後にもなお人々の底流に残存、もう一つの価値観として文化の一側面をなした。
古代(弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安前期 紀元前3世紀頃〜9世紀)
 稲作文化の伝来を切掛けにムラから都市国家が形成、これが有力な地方国家に成長。地方政権はやがて有力豪族の連合体である統一国家を経て中央集権的古代国家に変貌する。この時代、身分社会の確立に伴い富が支配者に集積、大陸からの技術・文化保護者として文化独占を進めた。しかし神話や「万葉集」の東歌・防人歌など地方民衆が関わる民俗性の強い素朴な文化も見られた。だがこれらはまだ前述の様な「民衆文化」とは言えない。その原型が誕生するには文化の担い手である貴族が在地豪族から都市貴族に転身する9・10世紀まで待つ必要がある。
中世(平安中後期・鎌倉 9世紀末〜14世紀)
 古代国家の統治体系が崩壊し、地方領主を保護する形で大土地所有をする王族・貴族・寺社、後に武家など権門が国家権力を核に連合する中世王朝国家が成立。これら権門の中枢として京都・奈良、後には鎌倉といった都市が発達し、権門構成員が都市文化の担手となる。これ等は支配階級であり一般民衆に文化を担う社会的実力はまだない。しかし担い手が支配階級に限られていたとは言え、その中に関する限り官位・家柄の上下に関係なく本物を見抜く力があるか否かを基準に平等な価値判断がなされていた。これがそのまま後に民衆に広がり、民衆文化の原型となる。
 公式文字である漢字に加え非公式な表音文字で使い易い仮名文字がこの頃生出され、公式の場に出る事の少ない貴族女性達が却ってこれを憚る事無く使う事で大きな表現力を手に入れた。表音文字の使い易さは驚異的で、紀貫之など男でありながら任地からの帰途を女の手によるという体裁で「土佐日記」として記すという悪戯をしている程である。女達はその生活での感情を仮名文字で日記に書き記し、心理描写能力も鍛えられる事になる。10世紀後半の藤原道綱母「蜻蛉日記」や11世紀の「紫式部日記」「和泉式部日記」、菅原孝標女「更級日記」など。そうした物では周囲の様々な物・出来事への感想を書きとめた清少納言「枕草子」が特に著名だ。
 さて、優美に自らの感情を表現する和歌が9世紀後半から再び詩の中心的地位を回復。和歌は、当初は素朴な感情表現であり楽器で節を付けて神仏に奉げるものであったが、書物に記されるようになって次第に決まった型で作られるようになった。始めは長い歌も多かったがやがて五・七・五・七・七の音で作られるようになる。8世紀の「万葉集」ですでにそうした傾向が見られたが、完成するのは9世紀以降になってからである。この頃には漢詩全盛時代を経て、和歌はその異国風の優美な表現・機智に溢れる言回しを吸収し洗練された抒情詩に生まれ変わっていた。在原業平・小野小町に代表される六歌仙の登場に始まり、10世紀には紀貫之らが勅命により「古今和歌集」を編纂。和歌が漢詩に代わり詩の正式な形となったのである。また機智を振い捻り出さねばならぬ和歌だけでなく、雅楽風の節をつけて漢詩・漢文・和歌の名文句を口ずさむ朗詠や同様に民間で流行の歌詞を歌う催馬楽も貴族たちが気軽に口ずさめる流行歌として広まる。才人として知られる藤原公任が編纂した「和漢朗詠集」は朗詠の種本として愛読された。12世紀には流行歌を型にとらわれず歌う今様が流行、後白河法皇自らがその持歌を纏めた「梁塵秘抄」が著されるに至る。
 この頃、物語が続々と登場。女性達を中心に、非公式の仮名文字を用い娯楽として書き綴られ読まれた物であろう。人々は現実世界を離れて虚構の世界に入りこみ陶酔に耽ったのである。異星人との遭遇を描く「竹取物語」を皮切に、幻想的な「宇津保物語」や女主人公が義母らに苛められるも最後には幸福を掴む「落窪物語」が当初は持囃された。物語の当初は伝説として地方で語り継がれた話が題材とされる。また放縦で歌に長じた美男子として知られる在原業平の一代記として彼の歌を中心に歌の「裏話」を多くの人が書き継いだ「伊勢物語」。「大和物語」・「平中物語」も同様の経過で成立したと考えられる。これらは仲間内で長期間に徐々に書き溜められたのではなかろうか。こうした物語の流れは、紫式部の筆になる「源氏物語」で一つの頂点に達する。男性は主人公光源氏に自己投影し様々な美女の中から好みの女性と恋愛するような感覚に耽り、女性は女性で多くの女性に慕われる理想の男性と恋愛するかのような幻想に耽った。元来当時の恋愛は相手の顔を知らずに行うのが普通であったので、実際の恋愛においても想像力は不可欠であった(余談ながら高貴な女性が夫や子供以外の男性に姿を見せるのは恥とされていた。物語で男性によりなされる偶然または意図的な「垣間見」が如何に衝撃的な状況であったか、恋愛物の皮切として如何に用い易い場面であったか分かろう)。洗練された快楽主義的な物語の中でも、女性的な恋愛物の傑作が中世前期に現れたのである。童女への愛・母への慕情・男女倒錯といったこの分野のあらゆる要素がこの物語には埋め込まれている。更に、この時代を生きる人々の不可避の苦しみ・宿命を描き切った点で歴史上にも傑出した文学作品といえる。その後にも「夜の寝覚」「浜松中納言物語」「狭衣物語」「とりかえばや物語」「堤中納言物語」など恋愛物が生まれてくる。中でも「浜松中納言物語」は転生して結ばれる恋を描くなど幻想的な性格が強い。そして時には「とりかえばや」のように手直しされながら多くの作品が現れた。耽美・現実逃避傾向がこの頃から強くなってくるのは遠からずやって来る貴族の失墜を彼等自身が予感していたからなのか。
 一方男性的な戦記物の傑作は、やがて武家が台頭して実力を握る中で成立してくる。「将門記」「陸奥話記」、更には東国(源氏)と西国(平氏)の主導権争いを経て東国の鎌倉にそれまでの政府とは別に武家政権が誕生してから、13世紀に次々現れる「保元物語」「平治物語」そして「平家物語」。特に源氏と平氏の対立を題材に取り、興亡の常なさを貴族的な美意識で美しく描いた「平家物語」は琵琶法師による話芸として長い生命を保った。同様に14世紀の南北朝動乱を生き生きと描写した「太平記」もまた「平家物語」と並び称され後々まで語り物として人気を博した作品である。しかし「太平記」は、前半では儒教・仏教思想を軸にして楠木正成ら名称の活躍を生き生きと描いているが、南朝の劣勢が確定した後の北朝内紛期にあたる後半になると都市民衆・非農業民が力を付けたことによる混沌とした世相を描ききる時代の主軸を見出すことはできておらず中世戦記物の時代の終焉を示す物ともなっている。以降も「明徳記」など軍記物は作られたが、いずれも混迷する時代の全体像を捉えることはできず、合戦の経過を追うルポルタージュ以上の物ではなくなっており読み物としては面白さを失っていることは否めない。ところで、当時の貴族の好奇心は強く、12世紀頃の「今昔物語集」や14世紀の「宇治拾遺物語」は主流として顧られる事は無かったが外国や庶民に至る広い範囲から話を収集した物で、そうした意味では御伽草子・仮名草子の前駆的な物といえる。そしてこの時代の宗教的な空気を反映し「沙石集」が成立。
 また、物語絵巻の登場が文章のみならず画像でも物語を楽しむことで人々を物語世界に陶酔させる大きな助けになった。大和絵と言う日本人の好みに合う絵が9世紀末から登場するようになっていたのがそれを助長。「源氏物語」絵合巻から、遅くとも10世紀末から11世紀初頭にはこうしたものが登場していたと考えられる。現存する物として「源氏物語絵巻」が有名。当時の理想の美を体現した画風で人物を描き、場面場面を繋ぐ様にして物語を通じて見る事が出来る様になっているこの作品は、この風潮を如実に現している。こうした中で絵画技術は益々磨かれた。また当時の貴族達は絵画能力が必須であったという。貴族達は文化の一方的消費者であるのみならず生産者である事も求められたのだ。一方「伴大納言絵詞」「信貴山縁起絵巻」「北野天神縁起絵巻」などの絵巻は事件や寺社の起源を宣伝する上で大きな助けとなったと同時に、「鳥獣人物戯画」と共にユーモラスで躍動感溢れ活動的な絵柄により娯楽としても楽しまれた。
 こうした文化は当初都の中央貴族に限局されていたが、受領の任国下向や下級貴族の地方土着などを通じ12世紀頃には各地の有力豪族に広がり、中世後期には寧ろ彼等が軍事力を背景に政治・経済の主導権を握り文化の牽引役となる。一方当時も「松浦宮物語」「石清水物語」のようにそれまでと同様な幻想的・耽美的な恋物語が生まれている事から分かるように、中央貴族も文化的な役割は決して小さくなかった。貴族達の社会的実力の失墜は彼等の文化を全体的に「栄花物語」「大鏡」といった歴史物語などのより洗練された、そして懐古・耽美趣味という益々現実遊離した物にしていく。和歌も同様な傾向をたどる。一時期、物語の中から和歌をしのぐ叙情性に優れた作品が生み出されるようになる一方で和歌は駄洒落など機知に流れる傾向が見られた。しかし12世紀になると、政治的栄達の道を立たれた中流貴族の中から隠遁生活に入り優れた歌を作り出すことに生涯を費やす歌人たちが多く現れる。「山家集」で知られる西行がその代表といえる。その中から、機知よりも感性を重んじる優れて叙情的な歌が生み出される。藤原俊成はこの境地を「幽玄」と唱えた。俊成の子の藤原定家の時代になると、意図的に物語や絵巻物の世界を意識して妖艶な美を表現する傾向が生まれる。例えば昔の有名な歌の世界を借りて一層優美な幻想の世界を生出す「本歌取」という手法が広く行われていた。また「浦の苫屋」の歌の場合まず何もない漁村のあばら屋を想像し更に花・紅葉を想像して両者を対比して味わうといった何重にも想像を重ね合せた美的感覚であった。これらの歌は斜陽にある貴族の現実逃避という性格を持っていたことは否定できないが、決して惰弱な花鳥風月への詠嘆ではなかった。寧ろ人生の生命力を注ぎ込んであたかも緻密な彫刻を作るかのようにその歌を磨き上げていたのである。当時政権を握っていた後鳥羽院はこの風潮を好み定家らと共に「新古今和歌集」を編纂している。「新古今集」はその妖艶で幻想的な作風もあって本居宣長らにより和歌の最高潮としばしば評価される。因みに定家は晩年には寧ろ父俊成と同様な叙情的な歌を重んじるようになる。「小倉百人一首」を編纂したのはこうした時期のことであった。定家以降は、貴族の社会的な力の低下に並行し、和歌も新たな境地を開くのでなく特定の家系を中心に受け継がれる特殊で守旧的な「教養」と化していくようになる。
 貴族達は、近世の産声が聞こえ始める14世紀になると、後鳥羽即位から後醍醐の統幕・京都還幸までを描いた「増鏡」、風景の変化に着目し淡白平明で叙景的な和歌を詠んだ頓阿の「草案集」、宗良親王により南朝方歌人の軍事的劣勢から来る悲壮さ・活動性が滲み出た作品が集められた「新葉集」で貴族文化最後の煌きを見せ歴史の表舞台から消えていった。主役は、地方豪族や商業を背景に力を付けた町衆に移る。こうして民衆文化の幕が開けられた。
近世    
前期(南北朝・室町 14・15世紀)
 この頃までの農業生産力の向上は、広域な流通・商業の発達・従来の集落を越えた共同体という結果となって現れた。非農業民の活動する範囲は広がりをみせ、支配階級と結付き都市に定着した商人を周辺で台頭した新興商人が脅かし始める。その結果、都市商人は組合(「座」)を作る事で対抗し、自治を行う「町衆」に成長。京・奈良・鎌倉といった政治都市だけでなく地方の宿場・寺社門前・港湾でも同様な経過をたどり小規模ではあるが「都市」化が進展した(本格的都市に成長するのは16世紀頃)。これ等を繋ぐ道路もまた馬借ら運送業者の力により商業において不可欠の役割を果たす。やがてこうした都市と道路は「公界」、すなわち不特定多数の人間が集まる自由度の高い場所として発展。ここに生活を展開する民衆の中には貨幣経済の恩恵を蒙り生活に余裕を持つ者も少なくなかった。彼等は前述の様に支配階級との結び付きが強いことから次第に文化を上流階層から伝えられ、やがて京都・奈良を中心に経済力を背景として文化の生産・消費に参加することとなる。14世紀には支配権を徐々に東国の武家政権に奪われつつあった京都の政府が後醍醐天皇の下でこうした非農業民の力を利用して全国的に専制支配を確立しようと図ったがそれを貫徹するだけの実力はなく吉野の地方政権に転落、代わって有力武家であった足利氏が京都に新たな天皇を擁立し同様の新政府を樹立したがこれも統一を達成するには力不足であった。14・15世紀には足利政権による相対的な支配がなされるが全国的に戦乱が起こっていた。
 元来、表音文字として簡便な仮名文字が発明された事や畿内周辺の民衆と貴族達との交流(元来両者間の垣根はそう高くなく言語的にも共通)から文字の普及が進展、世界的にも第一級の識字率を誇るようになっていた。この識字能力が文化の浸透を極めて円滑なものとした。また、これまでの権門の力が衰え宗教的権威が弱まった事から神職として務めて来た芸能民がその相手を神々から人間に移し始める。農業神への奉納行事であった田楽・猿楽が一般娯楽として広まり始めたのはその一例である。
 13世紀に始まった時宗の念仏踊はこの頃に全盛を迎え、人々は共に踊る事で熱狂に耽った。和歌に比べ卑俗とされた複数人で次々に歌を作る連歌もこの頃広く流行、勅撰連歌集「菟玖波集」が編纂され元関白二条良基により理論書「応安新式」が著されるに至って嘗ての和歌の地位にとって変わった。またそれまで禅宗内で薬品として消費された茶も生産上昇に相俟ち闘茶、即ち賭事の対象として俗世界に普及、「建武式目」で禁止されるに至ったほどである。仏に供える花を活ける活花もこの頃から一般装飾に見られる様になる。佐々木導誉が花見の際に、桜木の前に巨大な花瓶を置きあたかも桜が活けられたかの様にあしらったのは有名だ。
 こうした文化は権力者に愛好されてから民衆に普及していくことによって、次第に洗練され分化する事になる。例えば田楽・猿楽は次第に演劇として発達し、1349年には京都で余りに多くの見物人が集まり興奮したために桟敷が崩壊して多数の死傷者が出る事件が起こるほどの人気を博した。そして14世紀末には主に神・怨霊・貴人の世界を扱った能と人間世界を扱う狂言とに分化。特に能は観阿弥・世阿弥親子により洗練され高い芸術性を持つものに成長。基本的には「弱法師」のように民間の伝説を題材にしたり、高師直一族の没落を扱った「四疋の鬼」や明徳の乱で敗戦を予期しつつも奮戦して討死した山名方の武将の話「小林」といった時事的な話題を劇化したりしていた。世阿弥は幼少期よりその才能・美貌から将軍義満や二条良基らに寵愛され王朝的な文化を吸収。前述のような題材に加えて「源氏物語」「伊勢物語」「平家物語」といった中世文学からストーリーの原案を取るだけでなく、舞台から一切の無駄を削ぎ落として必要最小限の舞台装置・役の動きのみを残し観客の想像力・感性に大きく依るものにした。また題材から純粋な情念を抽出し、その奥にある「真実」を感知させる「夢幻能」を作上げた(世阿弥の能の主役は肉体すら持たぬ事が多い)。こうした能の中にある優美さを「幽玄」と世阿弥は呼んだ様である。武者の霊が己の最後を語り聞かせる「敦盛」「清経」「忠度」や貴族の霊が昔の栄華を語る「融」、神が現れて国の栄えを祝福する「高砂」などが作品の例として挙げられる。これは民衆文化が貴族文化と結び付いて洗練を極めた貴重な一例と言えよう。さて、やがて都市民の交流が盛んになる中で次第に能が普及、ただ鑑賞するのでは物足らぬ人々の間で素人能が流行する。しかしこれは俗化をも意味し、世阿弥に代表される幽玄能が理解できぬ観客の増加も招いた。そうした中、観世信光はストーリー性が強く分かりやすい作品をものす。例えば、美女に酒でもてなされ酩酊した武士が、夢で神により美女たちの正体が鬼であることを教えられ、授けられた宝剣で鬼を退治する「紅葉狩」や頼朝に追われた義経らが奥州へ逃れる途上で関守に疑われた際に忠臣・弁慶が機転と気迫で逃れる「安宅」が知られている。ショー的で観客が盛上がりやすい設定は、後に歌舞伎へと発展する過程といえる。こうした脚本面での俗化(美少年による芸尽くしのための話も現れる)の他、美女・少年を舞台に立たせ売春同様の事を行う例も出現。一方で同じく田楽・猿楽から発展した狂言は、滑稽・風刺の性質を持っており能よりも民衆文化としての性格が濃い。情念の権化である主役(シテ)の実質一人舞台という性格を持つ幽玄能と異なり、同時代の大名と従者のような見物人にとって身近な登場人物が比較的リアルな存在感で個性を衝突させながら喜劇を展開させる狂言もまた投じを代表する演劇分野といえよう。当初はおおよその内容のみが決められ、後は役者が即興で演技・台詞を演じて評判の良かったものが残っていったのである。主君の秘蔵する砂糖を食べてしまった従者たちの話しである「附子」や、主君とその主君を脅かす力を付けた家臣の駆け引きを描いた「武悪」、祝いのためカタツムリを探す男を山伏がからかう「蝸牛」といったものが知られている。新しく力を付けた都市民衆に支持された喜劇である狂言は、時には支配者層を痛烈に皮肉ることで政府の逆鱗に触れることもあったようだ。演劇は語り物よりも視覚で訴える分だけ印象が強く、順調に支持を伸ばす。
 更に、民衆の間で語られた物語、即ちいわゆる「御伽草子」が現れたのもこの時期だ。多くは「秋月物語」「松風むら雨」などの没落貴族により作られた貴公子と美女の恋物語や宗教小説、「あしびき」「秋の夜の長物語」など僧と稚児の情事を扱う児物語といった画一的で冗長な表現と現実離れした内容の空虚な作品が占めており庶民自らの独自性・創造性はまだ高く評価できないが、「三人法師」のような武家の世界を描いたものや「一寸法師」「物ぐさ太郎」などの庶民の逞しさ・狡知を描き出した物も存在している。また軍記物が衰えたのを受けて、義経の幼少期・晩年の苦難を描く「義経記」や12世紀末におこった曾我兄弟による仇討ちを扱った「曾我物語」の様な個人に焦点を当てる作品が生まれた。全体的に見て仇討・恋愛・狂いなど物語の基本パターンは押えられており、後の民衆自身による物語への確かな一歩が踏み出されたといえる。そして何より物語の消費者が特権階級から民衆に移ったこと自体が大きな変化であった。また民衆の間で流行した歌謡を編纂した「閑吟集」もこの頃のものである。中世以来、宮廷で儀式・宴会に歌われた宴曲などの歌が芸能者を介して一般にも普及し、それに影響されて小唄といわれる流行歌が現れたのだ。戦乱の世を背景に世を虚無的に見つつも、現世を肯定し現実的・快楽的に謳歌する姿勢は不安定ながらも近世に突入した社会を反映している。主に恋の歌が多く、直接的な感情表現が当時の歌の特徴といえる。
 一方闘茶も猥雑な賭博性を脱し15世紀後半には足利義政に代表される舶来美術鑑賞会としての書院の茶と、村田珠光が始めた隠者的な充足を求める趣味としての侘茶との二つに発展(あと「一服一文」の茶店が増加、一般民衆にも茶が手に届く物になりつつあった)。この頃には都市の魅力は抗し難く大きなものになっていた様で、以前なら自然への回帰を望む者は山林に隠遁していたのだが、都市の住居の中に山林を模した庭・庵を設けていわば「隠者ごっこ」を楽しむようになった。つまり都市の快楽を捨てるには忍びないのが一般傾向になったのである。この風潮に乗り茶の湯は富裕な町衆に流行する。この頃、活花も15世紀後半に池坊専慶により発展。当初は花を受ける器を楽しむ物であったが当然の如く全体の調和を楽しむ物となった。
 また連歌も飯尾宗祇により更に洗練されたものとなる。和歌の権威である古今伝授を受け源氏物語を学んで貴族文化の最高級の素養を身につけた宗祇は「新撰菟玖波集」を編纂したり水無瀬連韻百吟を催し連歌で後鳥羽院を供養するなど連歌の芸術性をより高いものとした。この流れが後の正風俳諧に繋がる。同じ頃山崎宗鑑が滑稽を重んじる俳諧連歌を唱え「犬筑波集」をものす。茶・花・連歌に共通する当時の文化の特徴として場の空気を読み取る力・鋭い美的感覚が求められると言うことがあった。
中期(戦国・織豊・江戸初期 16世紀・17世紀前半)
 15世紀後半の応仁の乱以後は足利政権の威信は地に落ち、全国で豪族が割拠。長く続いた戦乱の時代に地方に根を下ろした領主達により地域の開発が進められ農業生産力や地域名産品生産、鉱山が飛躍的に発達、地方都市も成長した。そして戦乱の中で保護を求めて各地を旅する貴族達によって畿内の文化が地方に伝えられた。また打続く戦いは商人達に却って商売の機会を与え、明・朝鮮・南蛮との貿易と絡んで京のみならず堺・博多などに大富豪を生出した。やがて信長・秀吉らにより天下が統一されると、平和到来による開放感と蓄積された富とが実態以上に膨張した経済を現出。こうした情勢を背景に、この頃の文化は華やかさ・豪快さ、それと裏腹の隠者への憧れという二面的な雰囲気を帯びる。例えば世間に常識から外れた派手な振舞・出で立ちが流行。14世紀のそれが「婆沙羅」と呼ばれたのに対し当時のそれは「傾き」と言われる。
 こうした風潮の中、能舞台に上がっていた娘達の一人と考えられる出雲阿国が以前から流行した念仏踊と能をアレンジし、当世風の派手な格好で賑やかな囃子にのって踊り遊女との遣取・情交を演じ話題を呼んだ。この演芸は後に「歌舞伎」として全盛を極める事となる。
 同じ頃、堺の豪商である高三隆達により大成されたとされる隆達節が流行。15世紀の小唄と比べ洗練された言葉回しで、楽器に乗せて歌いやすい歌謡となった。17世紀初頭にもこうした歌謡は流行し「松の葉」にまとめられている。これらの歌は当時伝来した三味線に乗せて歌うのが流行したようだ。言葉の響きに磨きがかけられた反面、歌に込められた情感の深さでは小唄に及ばなかったようであるが。
 また当時、部屋の装飾として欠かせなかった狩野永徳・山楽や長谷川等伯・海北友松による金箔で彩られた障壁画はこの当時の風潮を現していると言える。狩野探幽・土佐光起も高い水準の作品を残すが、17世紀以降に狩野派が幕府御抱となり土佐派が朝廷御抱となってそれぞれ安定した給与を受ける存在となり活力を失う。その後には俵屋宗達・尾形光琳といった町人画家によりこうした画風が受継がれた。
  一方、御伽草子に引続いて、この頃も様々な話が民衆の間で作成された。語り物と比べわざわざ盛り場に行かなくともその場で楽しめると言う手軽さが小説にはある。「仮名草子」と総称される当時の物語は、その範囲が「御伽草子」以上に多岐に亘っていた。「清水物語」など神仏の霊験を説いた物や「薄雲物語」といった中世物語風の物、「一休咄」「醒酔笑」といった滑稽物や「枕草子」を基にした「犬枕」や「伊勢物語」を基にした「仁勢物語」など古典のパロディ、大坂の陣を描いた「大坂物語」など実録物や「東海道名所記」の様な名所記、「難波鉦」など遊女を描いた物。これは民衆の創作力向上を意味するが、後の浮世草子のような大人気作を生出すにはまだ至っていない。
 さてこうした文化傾向が最も顕著に表れたのは茶の湯においてであった。16世紀に畿内の豪商の間で茶の湯が普及。織田信長はこれに目を付け、家臣に特に許しを受けた者以外の茶の湯を禁じる。そして「名物狩り」を行い著名な茶道具を集め功績ある家臣に与える事で、流行の茶の湯に参加できるという名誉を領地に代わる恩賞とした。これは茶の湯が社会的地位の象徴となる事に大きく寄与。折からの未曾有の好景気がこの傾向に拍車をかけ、著名な道具は異様な高騰を見せる。豊臣秀吉の時代には、秀吉が愛好した関係もあり茶の湯は空前の繁栄を迎えた。堺を中心とした商人達から茶の湯に精通した巨匠が生まれるのもこの頃であった。今井宗久や津田宗及、そして千利休である。中でも利休は美術鑑賞・隠者志向という二つの流れを再び融合させ、新しい境地を開いた。豪華志向と隠者志向が内部で共存している点で利休とその庇護者秀吉は共通していたと言える。禁裏で茶会を催したり黄金の茶室を作成したり北野の森で華やかな大茶会を行う一方、妙喜庵待庵の様な草庵風の小さな空間での一席をも喜ぶのはその一例であろう。またこれまでの様な中国・朝鮮・南蛮渡来の舶来品に留まらず日常的な道具の中に美を見出し評価、権力者の「美術収集」に隠者の目を持ち込んだとも言える。元来成上り者の趣味としての側面の強い茶を、ただの成金趣味に終わらせず高い芸術性を持ったものに仕上げた点で(宮中に受け入れられたのはこの時代が初めて)稀有の例と言わねばならない。利休はやがて秀吉と衝突し死を賜った。二人の芸術観が対立したからと言うより寧ろ類似した感覚を持つ二人の芸術的天才が権力の頂点と言う余りに高い所で余りに接近したことによる必然的帰結であったのかも知れぬ。利休の死後も、その弟子である古田織部は武家伝統の豪快な文化と融合し茶の湯に新しい要素を導入しようとしていた。その弟子小堀遠州も同様に、修学院離宮・桂離宮に代表される様に公家文化を茶の湯に吸収。しかし17世紀に入り織田・豊臣から政権を受け継いだ徳川氏により世の中が安定すると、茶の湯もまた体制に組込まれ給与を受けるより生残る術はなくなった。金の掛るものである以上、裕福でない一般民衆に広がっていくのは難しかったのである。千宗旦が自ら誰にも仕官せず「乞食宗旦」と言われ清貧を守りながら茶の世界を深めようとしたのは当時の流れへの精一杯の抵抗であった。しかし彼も時流には逆らえず息子達を大名家に仕官させざるを得なかった。その後も茶人達は力の及ぶ限り茶の世界を深めようと努力は続け、川上不白・松平不昧・井伊直弼といった優れた茶人も輩出した。しかし遂に文化の主導的位置を取戻す事は出来なかったのである。かつて利休は述懐した、「私の死後、茶の湯は広まり多くの人達が従事する事になるであろう。しかし茶の心は滅ぶであろう。」と。時代の流れが茶の湯を特定階級の人間にしか手の届かぬ物にしてしまったことをこの言葉は意味していたのかもしれない。
後期(江戸前期以降 17世紀後半〜19世紀)
近世後期前半(17世紀後半・18世紀初頭 いわゆる「元禄文化」)
 17世紀後半に入ると、統一政権によりもたらされた社会の安定を背景に西廻・東廻航路や南海路といった海路の開発や各地の河川改修に代表される全国的な物資流通が発展。商人が力を付け、大名にも彼等から借金し頭が上がらぬ者が続出した。大坂はこうした中、「天下の台所」として経済の中心として繁栄を極める。大坂や京を中心とする上方では経済的繁栄を背景に中流の町人も文化の消費者として大きな役割を果たすようになった。
 神事として始まり音楽と操人形で地方の伝承を語る芸であった浄瑠璃は琉球からの三味線伝来・南蛮趣味の取入れもあってこの頃流行、新しい話も作成される。特に元禄年間(17世紀末・18世紀初)には天才的語り手である竹本義太夫が登場、大坂を中心に爆発的に人気を呼んだ。主に彼のために脚本を書いていたのが近松門左衛門。近松は古典を題材に人間的葛藤・超人的主人公・嗜虐的美で評判になった「出世景清」で名を挙げ以後も多くの作品を著した。特に「曽根崎心中」は英雄でなく同時代・等身大の人々を取上げた物として前代未聞であっただけでなく、主人公らを拘束する社会的建前(義理)と当人等の本音(人情)の板挟みとなり行き詰って死を選ばざるを得なくなる悲劇性が客の涙を呼んだという。中でも主人公らが心中に向かう道行の場面は名文で知られ荻生徂徠もこの作品はこの場面に尽きると感嘆した。同様に「冥途の飛脚」「心中天網島」が心中物として人気を取る。近松は他にも時代物「国性爺合戦」で成功を収めた。葛藤に追込まれた人間的苦悩に美を見出したこと、流麗な名文で作品世界を描いたこと、人形浄瑠璃は役者の個性を考えて脚本を書く必要がなかった事が近松の成功を支えたと言うべきか。浄瑠璃は近松死後も隆盛を続け、中でも竹田出雲・並木千柳・三好松洛・竹田小出雲らの菅原道真の流罪を題材とし道真に恩義を感じる三兄弟がその恩に応えようとする「菅原伝授手習鑑」、竹田出雲(二代目)・松洛・千柳らの赤穂事件を扱った「仮名手本忠臣蔵」・義経の悲劇とそれに仕えた狐の伝説を絡めた「義経千本桜」は、忠義ゆえの悲劇やその中での主従・親子・夫婦の情愛などを描き「時代物三代傑作」として今日まで人気がある。しかし浄瑠璃はやがて人形劇という性格から生身の人間を使う歌舞伎に比べ収容能力に限りがあった事、人形より個性ある人間の役者が喜ばれだした事、浄瑠璃の人気演目が歌舞伎に吸収された事から次第にその人気を奪われていく。
 さてその歌舞伎は16世紀末に出雲阿国によって創始されたが、当初女達によって演じられる女歌舞伎であった。しかし当然の結果として売春の対象となったため風紀を乱すとして禁止され、美少年中心の若衆歌舞伎となったが結果は同じ。結局成年男子によって演じられる野郎歌舞伎のみが生き残り、色事抜き芸のみで客を惹付ける芸能となる。そうした中で人気俳優が生まれまず中村勘三郎が人気を得る。続いて上方では恋愛場面の名手・坂田藤十郎や女形として女性の色気を演じ出す芳沢あやめ、江戸では力強い演技の市川団十郎や二枚目役の中村七三郎が持囃された。藤十郎が茶屋の女将相手に恋を仕掛け色男らしさを体得しようとする一方、団十郎は大きな動作・昂ぶりを表す大仰な仕草(見得)で力強さを観客に印象付ける。共に、写実性よりも「らしさ」を重視した演技を心掛けたが、同時代の人々が憧れる恋愛・戦における肉眼的魅力を追求(そのため具体性が高く道具立てにもそれは現れる)したのだ。
 また落語・講談の原点に当る話芸が発達したのもこの頃だ。話芸の起源は大名の話相手をつとめた御伽衆の話であるが、17世紀初頭に人気を得た前述の仮名草子の中に彼等の笑話を書きとめた本として「戯言養気集」「きのふはけふの物語」「醒睡笑」などが出現。笑話への関心が庶民にも広がり始めた。更に話の筋だけでなく身振を含む立体演出に言及した「私可多咄」が出版され、落ちの技術なども磨かれていく。やがて17世紀後半になると、京都の露の五郎兵衛・大坂の米沢彦八・江戸の鹿野武左衛門らによる「辻ばなし」が登場。河原や寺社の境内、広小路といった人の集まる場所で通行人相手に話芸を披露、話が佳境に入った所で銭を集める大道芸であった。彼等によっても多くの話が生出され、中でも武左衛門は噺集「鹿の巻筆」を著し、五郎兵衛は皇女相手に話を演じそれぞれ話芸の確立・地位向上に一役買った。また軍談も江戸の名和清左衛門や赤松青竜軒・大坂の赤松梅竜が公許の講釈場で演じ、戦闘場面を迫力満点に語る事で客を寄せた。
 演劇・話芸だけでなく文学の分野においても民衆による開花が成された。井原西鶴は俳諧師として著名であったが寧ろ余技として手掛けた小説で後世に名を残すに至った。「好色一代男」で色男世之助を介し様々な階層の女性との恋愛・情交を描き、「好色五人女」では弾みの恋愛で身を焦がしつくす男女を、そして「男色大鑑」では男色に生きる人々の群像を描写。翻って「武家義理物語」では建前に生きねばならぬ武士の苦悩を、「日本永代蔵」では己の機智で財を成した人々を、「世間胸算用」でユーモアたっぷりに一般庶民の生活苦を活写した。「浮世草子」と呼ばれるように現世を肯定的に幅広く、幾許かの同情を示しつつ距離を置いて描き切ることで、近松とは異なるやり方で世の奥底にある「真実」を突いたと言える。
 西鶴が本業とした俳諧においても、松尾芭蕉により新しい境地が生出されていた。俳諧は日常を重視する松永貞徳・機知を重んじる西山宗因ら滑稽を重んじる俳諧連歌を主流としていたが、芭蕉は宗祇に俳諧の理想を見て古典にふれ旅を繰返すことで人生の極致は旅にあると感じ、「野ざらし紀行」「奥の細道」といった紀行文に知られるように旅の中で「真実」を見出そうと努力した。また俳諧が町人の間に広がる中、各地の俳人と交流し世話したり高め合ったのである。こうして次第に俳諧はより広がっていくが、それは蕪村・一茶に繋がると同時に凡庸な俳人の続出にも繋がった。
 絵画もまた上層の独占物ではなくなりつつあった。木版印刷の発達で安価に求める事が可能になったのだ。菱川師宣は男性達にとって憧れの存在・花魁のいる遊里吉原の生態を描き、懐月堂安度が美人画を描いて人気を博した。写真のない当時の事、主に男性達にとっての良い目の保養として需要を伸ばしていったであろうことは近世を通じて美人画・春画において技術の発達(後述する)が見られた事でも分かる。また鳥居清信・清倍の役者絵も人気を呼び、いわば今日で言う所の「お宝」グッズを髣髴とさせるものがあった。当時の上方文化を皮切に、現代と基本的考えの変わらぬ消費行動が形成されていく。
近世後期後半(18世紀後半・19世紀前半 いわゆる「化政文化」中心)
 18世紀には、「将軍の御膝元」江戸を始め政治中枢としての都市が拡大。下級武士や上層町人がまず関東における文化の中心者となった。例えば儒者荻生徂徠の弟子服部南郭が唐詩をモデルとした詩文を作り、それによって都市にいながらにして山河に遊ぶことを提唱した。対象が上級商人・下級武士に限られてはいたが、身分に関係なく虚構の世界の中で「隠者ごっこ」をすると言う姿勢は民衆文化の基本性格を持っていると言って良い。与謝蕪村・池大雅ら中国風の写実を取入れた文人画も同様の傾向を示す。江戸にも独自の都市文化を栄えさせる素地が固まってきた証であろう。また都市を始め地方に至るまで読み書き・算術を基本とする手習いが広がり識字率は極めて高いものとなっただけでなく心学に代表されるように庶民にも倫理道徳への関心が高まった。また知識人の間では医学・本草学・天文学・測量学といった実際的な学問が好まれるようになっていった。こうしたことが文化の受け皿を広く深いものとした。
 そして文学においても江戸発の民衆文学が生まれ始めた。蔦屋重三郎ら出版元の後押しにより多くの作家が作品を通して名を上げる。子供向の滑稽話であった黄表紙は、やがて大人も対象にした洒落・滑稽・世相風刺の書として流行するようになった。恋川春町「金々先生栄華夢」や朋誠堂喜三二「親敵討腹鞁」、山東京伝「江戸生艶気樺焼」「心学早染草」、他に唐来山和・芝全交が有名である。しかし京伝「孔子縞于時藍染」といった世相風刺が寛政改革時に幕府の咎めを受け取締の対象となって後は敵討・勧善懲悪で人々の快楽趣味を満たしていく。また京伝は遊里吉原での機智に溢れた遣取を扱う洒落本でも「通言総籬」や「傾城買四十八手」といった人気作を生出した。しかしこれもまた「仕懸文庫」などで取締を受け廃れていく。こうした作品で、京伝が艶次郎という男を複数の作品に登場させるなどキャラクターの人気を見込む現象が見出される。同じ頃、学者として名高い上田秋成が怪奇物語集である「雨月物語」を著した。そこに描かれているのは正体不明の怪物でなく、追込まれ怨念・愛欲・信義に執着して極限化した人間の姿である。最も恐ろしいのは人間の情念との考えかたは秋成に限らず「源氏物語」・世阿弥や後の鶴屋南北・横溝正史などにも通じる物があり日本の伝統的な見方であるといって良かろう。
 そして俳諧が広がっていく中で与謝蕪村が文人画家として磨いた感性で絵画的な美を見出し句に詠込んだのもこの頃の事だ。同じ詩でも、滑稽・世相風刺を事にしたのが大田南畝・宿屋飯盛らに代表される狂歌、柄井川柳「誹風柳多留」などの川柳がこの頃から広まる。俳諧と比べても制約が少ない事から次第に一般にも普及し素人の作も増えていく。
 また、元来朝廷の神事や武士の武芸鍛錬であった相撲も16世紀末以来力士の職業化が進んでいたが、この頃に興行団体が確立。力士はそれぞれ藩の抱えとなり寺社奉行の許可の下で木戸銭を取り興行が行われた。中でも18世紀には谷風・小野川という強豪力士が登場して人気を呼び、「相撲家元」である吉田追風はこれを利用し二人を顕彰する意味で「横綱」を創設。相撲王者が身にその地位の象徴を纏いパフォーマンスを行うことで、真剣勝負とショーの要素を併せ持つ、現在で言うなればプロスポーツに相当する基本性格が完成した。二人の後にも強豪大関雷電が活躍、相撲は遊里・芝居に並ぶ庶民の娯楽として定着していく。
 浮世絵においてもこの頃大きな進歩が見られた。鈴木春信は多色刷の錦絵を発展させ、それまで以上に華やかな美人画を描く事に成功。あと、笠森お仙に代表される民間の美女が持囃されるようになった。ちょうど今日において等身大の身近な女性がアイドルとされるのと類似したものが感じられる。同じ頃勝川春章が役者絵・相撲絵を描いた。これも現在の俳優・スポーツ選手ら人気者のグッズが人気を呼んでいる事を彷彿とさせる。
 しかしこうした流れも、18世紀後半の寛政改革での老中松平定信による風紀粛正により厳しい取締りを受け、一旦下火になる。18世紀後半から19世紀前半には関東の産業発達やそれに伴う民衆生活・教育水準の向上、江戸への人口流入が起こる。これを背景に江戸でも下層町人が文化の消費・生産の中心となっていった。
 まず歌舞伎においては、元来大きな背景画・大船といった大道具が用いられていたがこの頃に迫上・廻舞台などの大掛かりな仕掛が工夫されるようになる。特に代々歌舞伎の大道具を受持っていた11代目長谷川勘兵衛はがんとう返し・屋代崩しと斬新な工夫を導入。歌舞伎の観客である民衆は心眼では物を見ない一方で舞台に関しては目が肥えている。そこで具体性の高い道具立にしなければならず如何にもそれらしく見える為に手抜きは許されない。職人の腕の見せ所であった。人気作家である並木五瓶が大坂から江戸へ入り「五大力恋緘」をものすなど次第に江戸中心になっていったのもこの時期だ。やがて四代目鶴屋南北が前述の仕掛を存分に利用した「天竺徳兵衛韓噺」を1804年に著し客の入りが悪い夏芝居にもかかわらず大当り。1825年には「東海道四谷怪談」で大好評。やはり仕掛を大いに使って人目を驚かすと共に、追詰められた人間の怨念・残忍・非情による恐怖を活写し人間の本質に迫った。彼により、身近な世界を題材にした生世話物が完成されたとされる。幕末期には河竹黙阿弥が出て、「三人吉三」「十六夜清心」「御所の御郎蔵」「白浪五人男」で悪党の美学を描いて人気を博した。耳障りの良い名台詞でも知られ、生世話物でもより洗練された入りこみ易い世界を描いたといえる。
 浮世絵の方でも美人画人気の担い手であった喜多川歌麿は対象を単なる写生でなく理想の女性に磨き上げて描き、同じく人気絵師であった鳥居清長ら鳥居派は結果的に誰をも同じ様に描いた。そうした美人画では評判の素人女性を題材としたものが評判となる。人々がこれまで以上に偶像に身近さを求めるようになったのである。そうした中で役者絵を中心にした東洲斎写楽の写実的な絵は大勢に一石を投じた物として衝撃を与えたようだ。他、役者絵で知られた絵師として初代歌川豊国がいる。また歌川国貞・葛飾北斎は戯作の挿絵でも優れた物を多く残している。特に北斎は曲亭馬琴「椿説弓張月」で中国画・西洋画の技法を取入れたり柳亭種彦「勢田橋龍女本地」で濃墨と薄墨を使分けて現実・幻想を描分けたりと様々な実験を行った。幕末近くになると、伊勢参詣・富士講など旅人気に合わせ旅行案内として北斎「富嶽三十六景」や歌川広重「東都名所」「東海道五拾三次」など風景画が流行するようになった。北斎が動的な自然を描いたのに対し広重は静的・叙情的な風景を描き対照的な二人として今日まで語り継がれている。中でも北斎は生涯に亘って様々な技法に取組んだことで著名だ。
 この頃落語は、屋内に入って料理屋で自作噺を演じる「咄の会」が流行し立川焉馬らが活躍、寛政十年(1798)には岡本万作が江戸の神田に看板を掲げ、常打の興行場として寄席が誕生。芸能の一分野としてここで確立したといえる。続いて初の職業的噺家として知られる山生亭可楽や圓生、芝居噺を始めた大坂の初代桂文治も寄席を隆盛させながら多くの門人を育てた。可楽の門人・林屋正蔵は怪談を始めた事で知られる。この頃になると滑稽さのみならず噺の筋も整えられ、芝居噺・怪談・艶笑噺など様々な分野の話に手を広げていったのである。また同じ話芸である講談でも馬場文耕・森川馬谷らにより軍談に留まらず御家騒動物・世話物で人気を博し、後には「鼠小僧」など歌舞伎に取上げられる作品も生まれるに至った。共に如何に客の興味を引き付けるか、という点で一人芝居の性格を色濃く持っていたといえる。
 また戯作にも新しい流れが生まれ黄表紙・洒落本に替って滑稽さを専門にした滑稽本、素人同士の恋愛を扱う人情本が挿絵の助けも借り人気を博すようになった。式亭三馬は「浮世風呂」「浮世床」で日常生活中の可笑しさを描出し成功。十返舎一九は旅に出た解放感という設定下で弥次郎兵衛・喜多八の珍道中を描く「東海道中膝栗毛」で人気。「膝栗毛」は金毘羅詣・宮島詣と次々に続編が出され、21年にわたり続けられた。為永春水は人情本「春色梅児誉美」で、悪番頭の策謀で家を追出された若旦那丹次郎が苦労の末に芸者米八・許婚お長と結ばれ生家の家督を継ぐという物語を描いた。春水の描く濡場が女性達の人気を呼んだと言われる。これと人気を競ったのが「源氏物語」に御家騒動を混込み、原作に忠実に貴公子足利光氏の女性遍歴を描く柳亭種彦「偐紫田舎源氏」である。女性達は光氏に憧れ一部男性は自らを光氏に重ね合せ現実には叶わぬ恋の幻想に耽ったのであろう。「田舎源氏」は歌川国貞の妖艶な挿絵もあり幅広い人気を博す。「梅児誉美」「田舎源氏」の二作は、その登場人物の服装・道具立を真似る人々が続出したと言われる。そうする事によって人目を引いたり自分が憧れのキャラクタ−になったかのような感想を持ったのではないか。以前黄表紙や洒落本で絶大な評判を取った山東京伝はこの頃読本(長編小説)に転じ「忠臣水滸伝」や「於六櫛木曾仇討」で当りを取った。中でも「於六櫛木曾仇討」は挿絵の登場人物を歌川豊国が歌舞伎人気役者の顔で描き、それを売りにして「紙上歌舞伎」と言われた。或はその顔触れで歌舞伎舞台化される事も考えていたのかも知れぬ。しかし読本に関しては中国白話小説に精通した嘗ての弟子曲亭馬琴に一歩及ばなかったらしい。その馬琴は源為朝を主人公にした「椿説弓張月」や、八種類の徳を体現した八人の勇士が正義を貫き悪を倒して里見家を復興させる典型的勧善懲悪物「南総里見八犬伝」で名を売った。特に「八犬伝」は28年98巻に及ぶ大長編である。勧善懲悪と言えばお上の取締りに阿った低級な文芸と言う意見が強いが、寧ろ民衆が積極的に求めた一面の方が強いと思う。善悪が明らかでない現実世界に生きているからこそ、せめて物語と言う虚構世界の中では正義が完全に通るのを見て快感を味わいたいと思うものである。またいかにもな悪役に魅力を感じることもあったであろう。こうした消費者の欲求こそ表現の自由が標榜される現代でも勧善懲悪が持囃される所以である。少し脱線したが、「八犬伝」は絵になる名場面の連続で、舞台化しやすく歌舞伎にも取入れられた。「八犬伝」のように一つの作品が様々な表現分野にまたがる様子は今日で言う「メディアミックス」を彷彿とさせる。町人文化の発展程度の高さは評価に値しよう。
 この頃文化が地方に波及、消費が拡大したのみならず地方都市民・上層農民の中からも彼等の地方文化を発信する者が現れる。地方に根を下ろし農民の生活意識を俳諧に歌い上げた小林一茶、土地の農民・子供達と触合いながら人生を見つめた歌人・良寛、「北越雪譜」で越後の気候・風習を紹介した鈴木牧之や「利根川図志」を著した赤松宗旦がその代表と言える。また、各地で素人芝居が催されるようになった。歌舞伎の地方普及と、見物だけでは飽き足らぬ人々の存在を示唆する現象である。ここでも参加者の裾野を広げながら拡大していったのである。
近代    
前期(明治 19世紀後半・20世紀初頭)
 19世紀前半より欧米諸国の進出が日本近辺に及び、西洋諸国の圧力が加わるようになった。19世紀半ばにはついに開国を余儀なくされ日本は西洋を中心とする世界の荒波に投げ出される。日本の独立すら危機に晒された状況を徳川政権は充分に乗り切ることが難しいと見られ政権の威信が急速に低下、薩摩・長州を中心とする有力諸侯の下級氏族らによって明治新政府が樹立される。明治期には独立を維持するに足る実力を付けるべく、旧時代の構造を破壊した上で欧米を手本に社会・産業・軍事の近代化が促進され、それと歩調を合わせるかのように支配階級の間で西洋風の文化が取入れられ始めた。黒田清輝を始めとする西洋画や辰野金吾らの洋風建築、坪内逍遥・二葉亭四迷に始まり自然主義文学や夏目漱石・森鴎外により本格的に展開された写実重視・内面重視の近代文学が歴史上に登場。しかしこの頃には民衆レベルでは江戸時代と同様の歌舞伎・戯作・相撲を中心とした文化が主流であった。
 例えば、歌舞伎においては、西洋文化が持囃される中で九代目市川団十郎は歌舞伎の近代化・高尚化を志向する。その意向に従い、幕末期より人気作家となっていた河竹黙阿弥らが「桃山譚」に代表される史実考証を踏まえた「活歴物」や「土蜘」のような能をアレンジした「松葉目物」を作ったが、人気を呼んだのは依然として黙阿弥「髪結新三」「河内山と直侍」「魚屋宗五郎」「湯殿の長兵衛」「加賀鳶」など江戸以来の雰囲気を持つ生世話物であった。それまでと違う所と言えば幕府を憚って時代を移し変えていたのが江戸期を舞台にしたものが増えて来たこと位であろう。徳川時代が彼等の中でも過去の物になりつつあったのだ。もしかすると急激に変貌する社会の中で、過ぎ去りし昔に郷愁を覚えたのかも知れぬ。河竹新七「籠釣瓶花街酔醒」「江戸育御祭左七」といった全体的な話の筋を二の次に、耽美的場面を売り物とする話も登場。その爛熟性を良く示す現象である。また、歌舞伎は過ぎし昔を懐かしむだけではなく当時流行の「文明開化」を取入れた「散切物」も生出した。
 戯作の方でも、仮名垣魯文「安愚楽鍋」「西洋道中膝栗毛」といった「文明開化」を取り入れている。しかし従来と本質は全く変わらぬ物が喜ばれてはいるが。落語も又この頃再び活況を呈し始める。中でも三遊亭円朝は人情噺や「牡丹燈篭」の様な怪談噺に名人芸を発揮、落語の質を飛躍的に高めた。更に四代目三遊亭円生・二代目三遊亭円馬・三遊亭遊三ら三遊派と柳亭燕枝・三代目春風亭柳枝・二代目柳家小さん・四代目柳亭左楽ら柳派が凌ぎを削った。また上方では幕末に勢力を誇った林家派に対し桂派が台頭、活気あふれる黄金時代をむかえていた。円朝・燕枝・円生の死後の東京ではステテコ踊りの三代目三遊亭円遊を始め初代三遊亭万橘・四代目立川談志・四代目立花屋円太郎が人気を博したが余興の人気の一方で本格的話芸は衰退、そこで初代三遊亭円左らは1905年に第一次落語研究会を結成、話芸を磨き直そうと図る。その中から四代目橘家円喬・三代目柳家小さんなどの名手が生まれた。当時夏目漱石が三代目小さんの贔屓であったのは有名だ。また同じ和芸として当時流行した物に浪花節がある。地方芸能を基に発展し三味線に乗り義理人情話を聞かせるこの分野は浪花亭釣吉らにより確立、吉田奈良丸・桃中軒雲右衛門らが人気を招いた。
 あと当時の特徴としては自由民権運動などを背景に政治色が混じったことであろう。矢野龍渓「経国美談」といった戯作の形を借りた政治小説や川上音二郎「オッペケペ節」などである。
 また、嘗ては諸侯の保護を受けてきた相撲も経済的自立の必要に迫られ、高砂浦五郎を中心に改革。1884年には天覧相撲を行い1889年には東京大角力協会が結成され、常陸山・二代目梅ヶ谷という人気力士を輩出した事もあって空前の人気を博し1909年には両国に常設館(国技館)を建設するまでに至っていた。
 しかし西洋の文化に民衆が全く触れなかったかと言うとそうでもなかった。西洋文学の影響を受けて言文一致運動を担ってきた尾崎紅葉の「二人比丘尼色懺悔」「金色夜叉」、山田微妙「胡蝶」などは民衆に割合広く受入れられたらしい。また部数を増やし始めた新聞・雑誌を舞台に西洋娯楽小説の翻訳が行われた。恋愛小説や黒岩涙香による西洋推理小説の翻訳がその代表である。ここではガボリオやコリンズ、更にはドイルやルブランなどの作家達が紹介された。
 また新聞上で嘗てのかわら版の延長と言うべき風刺漫画が掲載された(直接的には外国新聞の風刺漫画に触発された)。ビゴーの風刺画や1877年に創刊された野村文夫「團團珍聞」、1901年の宮武外骨「滑稽新聞」がその代表と言える。日清戦争前後には北沢楽天「東京パック」(1905年)や赤松麟作「大阪パック」(1906年)が人気を博する。特に楽天はその漫画中で人気キャラクターを生出すなど広く活躍。しかしこれら新しい分野が重要な役割を担うのはもう少し後の事だった。
後期(明治末・大正・昭和初期 20世紀前半)
 日本の近代化は試行錯誤の末に軌道に乗った。国民皆兵・義務教育の成功を経て立憲化・議会開設に至り、清やロシアとの戦争に勝利することでその存在が欧米各国にも認められたのである。そして20世紀には産業革命・大戦景気に伴う近代工業発達・都市拡大により都市人口が増大、それに伴い都市民の購買能力が拡張した。その一方で列強の背中を追っていれば良かった近代前期とは違い、独自で道を探らねばならない段階に入り目標を見失ったという不安が何処かに漂っていたのではないか。そうした不安を忘れる為にも人々は文化に身を注ぐようになる。それを目当てにレジャー産業が成立、子供・老人も含めた家族ぐるみの娯楽が注目され始めた。鉄道を経営する一方で沿線内の宝塚温泉に遊園地・歌劇団を作った阪急の小林一三、軽井沢・箱根に避暑施設を設けた堤康次郎がその有名な例である。また、都市にはコーヒーなどを楽しむカフェが増加、多種類の商品をそろえたデパートメントストアも登場し都市の西欧化や工業化の進展に伴う大量生産大量消費化が徐々に進行し始めていた。こうした風潮の中で、子供も文化の担い手となる。
 また日本が列強の一員として国際情勢に参画する中で、「大正デモクラシー」と呼ばれる様々な社会運動・労働運動に象徴される様に国民の政治への関心が強まった。その結果、新聞・雑誌など出版が拡大。部数の拡大を争う中で、「大阪毎日」「大阪朝日」など大阪系の新聞を中心に広告・娯楽を中心にした商業主義が広がる。そして新聞小説や本が一般市民にとっても身近な物になった。
 こうした風潮の中、従来の純文学のみならず知識層以外の市民に受入れやすいものが新聞・雑誌にも出現。いわゆる大衆文学である。代表的な物を挙げると、中里介山「大菩薩峠」、直木三十五「南国太平記」、大仏次郎「赤穂浪士」「鞍馬天狗余燼」、吉川英治「鳴門秘抄」「剣難女難」、村松梢風「正伝清水次郎長」、林不忘「新版大岡政談」、矢田挿雲「太閤記」といった時代物が多かった。他には「二銭銅貨」で文壇に登場し「D坂の殺人事件」「心理試験」で明智小五郎を登場させた怪奇・エロス漂う作風で知られる江戸川乱歩、徳川期を舞台にした人形左七シリーズの横溝正史、超理論的な幻想怪奇に彩られた「ドクラ・マグラ」で有名な夢野久作、昭和期の「黒死館殺人事件」で知られる小栗虫太郎の活躍で推理小説も人気を博した。外国物の翻訳に終始した明治期を経て日本独自の作品が生出されるようになったこの分野は、日本による近代文化消化の形態を象徴していると言えなくも無い。他に著名な作家として前田曙山・野村胡堂(「銭形平次」シリーズで知られる)・三上於菟吉・土師清二・白井喬二・平山蘆江・菊池寛がいた。特に菊池は最初「父帰る」「恩讐の彼方に」など純文学を書くが早い段階で「真珠夫人」などに代表される大衆小説に転換、小説を書くのは生活の為であり後世に残るような高尚な物を書こうとは思わないと公言していた。
 また子供を対象にした文化が登場するのもこの頃だ。娯楽としてこの頃から紙芝居が流行した他、1918年に創刊された鈴木三重吉「赤い鳥」を舞台に有島武郎「一房の葡萄」・芥川竜之介「蜘蛛の糸」をはじめ小川未明・新見南吉らの童話や北原白秋・西条八十らの童謡が生まれる。
 雑誌においても「サンデー毎日」「アサヒグラフ」など週刊誌の人気に代表される様に大きな発展が見られた。中でも野間清治の講談社は「少年倶楽部」「婦人倶楽部」を始め1925年には「キング」を創刊。娯楽・実用を売り物に大幅に部数を伸ばした。岩波書店が哲学ブームの中で知識人を対象に発展したのと対照的に、講談社は大衆向けの出版社であった。大正末から昭和初期にかけて様々な出版社が円本という廉価な全集を多く出版。粗製乱造に陥る面もあったが本の大衆化に大きく貢献した。また、そうした雑誌に挿絵を描いた画家で著明なのが竹久夢二である。雑誌や広告などに浮世絵の影響を受けた美人画を掲載して人々に親しまれた(余談であるが、近世後期の浮世絵に比べ女性の目が比較的大きく描かれており、現代の大きな目を特徴とする漫画・アニメの美人絵への過渡期とも見ることが出来るかもしれない)。
 そして話芸でもこの頃新しい展開が見られる。古来、二人組で祝儀・鼓演奏を行い新年を寿ぐ万歳が民間芸能として行われていたが、1910年前後に玉子屋円辰が舞台でこれを行い砂川捨丸・中村春代も人気を博した。1913年には吉本興行が設立され万歳を主役に据えて寄席を行った。その中で1930年には横山エンタツ・花菱アチャコが音楽なしに話芸だけで客を笑わせ人気を得る事に成功。万歳はこの頃から「漫才」と言うようになる。関西においては話芸の中心が落語から漫才に移り上方落語は一時衰退の道を辿った。34年には漫才は東京にも進出、芦乃屋雁玉・林田十郎などを生む。
 また演劇においては、歌舞伎で初代中村吉右衛門・六代目尾上菊五郎が人気を博しただけでなく、近代化を図っていた新しい分野も力を持ち始める。1912年に文芸協会が結成され「人形の家」が好評を取り、翌年に芸術座を結成した島村抱月・松井須摩子は「サロメ」「復活」を演劇化し人気を博した。中でも「復活」中で歌われる『カチューシャの唄』(中山晋平作曲)は流行歌となる。同様に「その前夜」での『ゴンドラの唄』、「生ける屍」での『さすらいの唄』が人気を得た。またオペラを移し変えた浅草オペラも人気を博するがハイカラさで客を惹く物に過ぎずやがて廃れていく。
 演劇の他、映画もこの頃に全国に普及した。歌舞伎などと比べ一度の演技で多数の観客を動員できるのが強みであった。剣豪・忍者・仇討といった講談・歌舞伎・浪曲で人気を博していた話が多く映画化され尾上松之助が人気俳優として持囃される(こうした中チャンバラ・忍者ごっこが子供達の間で流行し、教育に悪いと親から非難される一幕も)。フランスやアメリカといった外国映画や、国産人気映画を多く上映する浅草の「ニコニコ大会」は人気を読んだ。当時は映画に音声がなかったためストーリーの流れを弁士が説明していた。それぞれの弁士が個性を生かし面白おかしく語ったため、徳川無声・生駒雷遊・大辻司郎といった人気者も現れた。徳川無声は学士出身のエリートであったが、多くは落語や講談から転じたものが多く、その話芸を映画という新しい分野に生かしたのである。大正末期からは坂東妻三郎・片岡千恵蔵・市川右太衛門らが人気を博するようになり、作品自体もフランス映画の洗練されたセンスやアメリカ映画の優れた技術を吸収しより深みのあるものが増加。当初は歌舞伎と同様に女形が中心で衣笠貞之助・東猛夫らが活躍したが、やがて栗島すみ子・田中絹代のような女優も登場した。「映画の友」をはじめとする映画雑誌もこの頃に多く創刊されている。1930年代になると声・音が加わったトーキーの時代となり五所平之助「マダムと女房」や衣笠貞之助「忠臣蔵」が人気を取る。トーキー撮影には装置などに巨大資本を投下する必要があるので東宝など大企業が有利になっていったが溝口健二監督を擁する第一映画社のような中小企業も健闘を見せていた。
 また蓄音機の発達によりレコードが大量に生産され、吉田奈良丸・桃中軒雲右衛門の浪曲や松井須摩子「カチューシャの唄」が人気であった。中山晋平は「東京音頭」「船頭小唄」でもレコード売上を上げ、昭和に入ると古賀政男「酒は涙か溜息か」・服部良一「別れのブルース」なども登場。
 一方、明治期には風刺が主であった漫画もストーリー重視に変換。映画の影響を受け、活動写真の様な角度やコマ割りで躍動感を出そうと試みられた。ことによると、嘗ての戯作が廃れた後にそれらの代替を果たしたのかも知れぬ。1923年には麻生豊が「ノンキナトウサン」「正チャンノ冒険」を連載、翌年には岡本一平が「人の一生」を連載した。これ等の主人公はキャラクターとして人気を獲得、特に「正チャン」は子供の間でヒットし新聞社により子供を標的にしたファン大会が開催され招待客に関連商品が贈呈されるという現象を引き起こしている。
 また、アメリカのアニメに影響され1917年頃から下川凹天らにより独自のアニメが実験的に作られ始めたが、製作に手間が掛ったり映像にムラがあったりと技術的未熟さが目立った。やがて千代紙を用いて質の良い絵を描いた大藤信郎や、セル導入・商業化を行った政岡憲三などが現れたがアニメが文化的に大きな役割を果たすのは戦中期まで待たねばならない。
 1923年の関東大震災は多くの人命を奪った他、東京付近の文化を一旦破壊し日本経済にも大きな打撃を与えた。しかし震災後の復興過程で生活合理化が都市民の洋化を加速、文化住宅の増加やモボ・モガの登場に代表される様な近代的民衆文化が広がった。中でも、当時の文化風潮を受けて劇場が減少し代わって映画館が増加、演劇から映画への交代が促進されている。こうした生活の西洋化進展は人々を従来の芸能文化に対し生活的実感がわかない様にした面がある。1925年にはラジオ放送が開始。そこでの流行歌・広沢虎造らの浪曲・落語といった人気娯楽番組はレコードの売上を助長した。
 スポーツが発展を遂げたのもこの時期だ。これまで同様に大相撲は太刀山・栃木山ら人気力士を看板として繁栄していたが大戦後の不景気を背景に人気急落。代わって台頭したのが学生野球であった。元来野球は明治初期に導入されて以来、体力増進・思想善導を図る教育の一環として一高や慶應・早稲田などで広がった。1915年には教育目的で全国中等野球大会が開催され、九年後には専用会場として甲子園球場を建設。こうして富国強兵策として発展したスポーツであるが、次第に見物人中心の娯楽に変貌。この風潮を受け1934年、大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)が創設され翌年には大阪タイガース(現阪神タイガース)、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)らと共に7球団で日本職業野球連盟を結成。プロ野球の歴史が幕を開ける。競馬が盛んになったのもこの頃である。元来1862年に横浜居留地で外国人が始めたのがきっかけであったが、明治維新以降に政府は富国強兵策の一環として軍馬改良の目的で競馬を奨励した。形が整い出したのが20世紀初頭の事で、1906年に東京競馬会が設立され各地に競馬クラブが広がった。しかし馬券の売買が盛んに行われ熱中の余り破産する者が続出した関係もあり二年後に馬券売買を禁止した所、競馬は火が消えたようになった。23年に安田伊左衛門の働きかけにより競馬法が制定され馬券売買が公認され競馬は人気を取戻す。29年には日本競馬会が設立され安田を中心にイギリスを手本にしてレースが次々に設けられた。32年に日本ダービーが始まったのを切掛けに38年にはオークスや菊花賞、39年には桜花賞・皐月賞の原型が開始されている。
 ところで、この頃は人気作品が一つの分野に止まらず広がる現象が以前とは比較にならぬほど多くなった時期でもある。例えば松井須摩子人気が舞台に止まらず映画に進出、前述の様に「カチューシャ」のレコードが大量に売れた。また人気小説が続々と映画化。例えば立川文庫の忍者物が松之助映画に、介山「大菩薩峠」が妻三郎主演映画になり、菊池寛「東京行進曲」映画化の後にそのテーマ曲が流行という現象が次々に起こった。
 昭和前期に入ると1931年の満州事変を切っ掛けに日本は長い戦争に突入、次第に国を挙げて戦争に従事するようになる。こうした暗い世相の中で1932年に慶大生と恋人の心中事件を題材に映画「天国に結ぶ恋」が作成され大ヒット、心中事件を多く誘発。翌年には「伊豆の踊子」も映画化された。社会の建前に阻まれ死を選んだ恋人達や一高生と少女の淡い初恋といった耽美的なこれ等の映画が人気を博したのは、日本人の伝統的好みとも言えるが忍び寄る暗い影への不安をこうした世界に耽溺し現実逃避する事で一時的にでも忘れようとした為でなかろうか。阿部定事件が起こり世論の注目と同情を呼んだのもこうした雰囲気の強い1936年のこと。さて軍国主義の流れの中で当然、文化産業も戦争協力を強いられる。例えば漫画界では講談社・中村書店が中心だったが人気作品にも田河水泡「のらくろ」や島田啓三「冒険ダン吉」など戦争協力の色が強い物が増加。競馬は国の資金収集源としての一面を強め流行歌でも軍歌が大半を占めた。文化にとっての暗黒時代と言うべき状況であったが、それでも1944年に空襲が本格化するまでは物資の欠乏傾向は見られながらも都市生活は機能しており、文化的な次代への収穫も少なからず見られたのがこの時期である。
 例えばスポーツにおいては大相撲が空前の人気を呼ぶようになるが、中でも1939年1月場所に安芸ノ海に敗れるまで三年にわたり69連勝を成し遂げた横綱双葉山は「常勝日本軍」とイメージが重なり「神国日本」のシンボルとされ(因みに双葉山は力士としての傑出性から後世に至るまで模範とされている)、相撲自体も健児の手本として「国威発揚」に従事した。
 一方、映画産業は軍の機密保持による資料不足(例えば兵器についての情報は外部に漏らされなかったので実写が出来なかった)の中で戦意高揚映画を作らされる状況であったが、そうした中で縮小模型を用いて戦闘シーンを実写らしく見せようという工夫が円谷英二ら「燃ゆる大空」「ハワイ・マレー沖海戦」に結実、日本の特撮技術の大きな発達を呼んだ。また瀬尾光世「桃太郎空の神兵」「桃太郎海の神兵」のような戦意高揚目的のアニメーションにも、優れた躍動感を出し表現技術を進歩させた例があった。そして、反戦・反政府的な思想に対する検閲が厳しい中からも小津安二郎「父ありき」(1942年)や稲垣浩「無法松の一生」(1943年)、黒澤明「姿三四郎」(1943年)「虎の尾を踏む男達」(1945年)といった家族愛・人間愛を主題にした名作映画が生まれ、戦後に至っても評価されている。戦後日本文化は戦時統制の中で産声を上げたと言えるのである。
現代(昭和中後期・平成 20世紀後半〜)
 1945年8月15日に日本はアメリカを始めとする連合国に降伏し、アメリカの占領下に入った。当時はアメリカを中心とする資本主義陣営とソビエト連邦を中心とする共産主義陣営の間で対立が激しく、貧困や貧富の差の拡大により共産主義化が進まないよう懸念した関係もありアメリカは日本の民主化・経済復興に尽力。折からの朝鮮戦争による特需により経済復興が加速したが、アメリカの占領下に入ったことにより軍事的な負担・圧力が著しく軽減したことや旧軍の解体によりその先端技術が民間企業に流れたことも自由主義・民主主義の定着や経済成長の助けとなった。戦争終結により文化に課せられた規制も撤廃され、活発に民衆文化の展開が再開。戦勝国であるアメリカから絶えず文化が流入、一部から「文化的植民地」と言われる状態になった。しかし実際には日本従来の文化の流れも強くそこにアメリカの影響がより豊かさを加えたのである。また大正期に受け手として開拓された子供を当初から主な担い手として発展した事や大衆社会の成熟と共に多様化していくのも戦後の特性であろう。特に1960年代以降は高度経済成長で経済大国となるに伴い、20世紀前半から見られていた大量生産・大量消費の傾向に拍車がかかる。
 最初に活動を再開した分野の一つは大衆小説である。時代物では吉川英治「新平家物語」「私本太平記」・山岡荘八「徳川家康」などに加えて日露戦争を扱った「坂の上の雲」などで独自の歴史解釈を盛り込み人気を得た司馬遼太郎も登場、推理物でも横溝正史が1946年「本陣殺人事件」で名探偵金田一耕助を登場させ戦前に勝る人気を博すなど戦前からの作家達が活躍する他、新しい顔触れも登場する。例えばこれまでシュールな世界を描いた推理物の中で、50年代後半には松本清張が「点と線」などリアルに見える犯罪を描き社会派という新しい流れを作った。また、日本の鉄道が性格に運行されていることを利用してか鉄道の時刻表を駆使しその盲点をついたトリックを作る傾向の作品が多く見られるようになり、鮎川哲也・西村京太郎などが有名である。推理小説のほかにも80年代頃から、荒巻義雄「紺碧の艦隊」を切欠にして太平洋戦争に超現実的な新兵器のような現実にはなかった条件を(時には御都合主義的に)仮定して日本が勝つ展開を夢想したり、檜山良昭「大逆転」シリーズのように歴史的に思考実験を行ったりする仮想戦記が一部で支持を受けるようになる。
 また当時の新しい文化の息吹としてテレビの登場が挙げられる。1953年に放送が開始され、高価なため一般には手が届かなかったが人々は争って街頭テレビに見入った。中でも力道山が悪役外国人レスラーを倒すプロレスは敗戦後の日本人を元気付けた。後にはジャイアント馬場・アントニオ猪木らスター選手が生まれプロレス人気を引き継ぐ。
 映像と言えば映画も活発な活動を再開。黒沢明・小津安二郎が世界的に評価された他、50年代には人気作家石原慎太郎の当時の若者を描いた「太陽の季節」「狂った果実」が映画化され流行。1969年には嘗ての庶民を描き郷愁を呼んだ山田洋次「男はつらいよ」といった人気シリーズが生まれた。60年代・70年代の主流は、侠客の世界を描く任侠映画や「肉体の市場」に代表される性を描いたピンク映画であり、これらは「仁義なき戦い」「団地妻・昼下りの情事」といったリアルな作品へと発展。しかし映画産業の繁栄も長くは続かなかった。小企業分立の関係もあり低予算に悩まされ思うような作品作りが出来ず、また同じ頃に発展する漫画(更に後に登場するアニメ)という比較的簡単に躍動感あふれるストーリーを提供できしかも消費者にとって安く寛いで楽しめる媒体に人気を奪われることとなったからである。そうしてやがて映画は特撮・アニメ作品に人気の上で依存するようになる。また高度成長の中で50年代末から60年代にかけ急速にテレビが普及、次第に映画人口をテレビに奪われていく。
 この頃テレビを通じ人気を得たスポーツでは相次いで人気選手が生まれ活況を呈した。相撲では栃錦・初代若乃花・大鵬・柏戸・輪島・北の湖・千代の富士・二代目貴乃花・三代目若乃花や初の外国出身大関でその巨体で有名であった小錦や初の外国出身横綱・曙など。野球では巨人軍九連覇の主力であった長嶋茂雄・王貞治らや彼らとの対決に燃えた阪神の名投手である村山実・江夏豊ら、85年阪神優勝の原動力となったバース、阪急で盗塁記録を打ち立てた福本豊、連続試合出場記録を達成した広島の主砲・衣笠祥雄など。特に野球ではプロ野球の他、高校野球も三沢高校の太田幸司や早稲田実業の荒木大輔、PL学園の清原和博・桑田真澄などスターを輩出し人気を呼ぶ。90年代以降に入ると野球では野茂英雄・佐々木主浩・イチロー・新庄剛志・松井秀喜らの米国大リーグへの挑戦、サッカーでも三浦知良・中田英寿らの海外挑戦・2002年に韓国とW杯共催・日本代表の実力向上といった世界規模の話題が流れる一方で日本プロ野球・Jリーグ・大相撲は低迷。「世界の中の日本」を観客は求めるようになった様だ。
 そしてギャンブルも同様にして活況を呈する。戦後間もなく、競馬の国営化により公正さへの期待が高まり人が集まった。48年には場外馬券売買が開始されその便利さが好評を博す。54年に日本中央競馬会が設立され二年後に中山グランプリ(有馬記念)が開始。馬券売買という形でしかこれまで参加できなかった観衆を、ファン投票による出走馬決定という手段によって惹き付けた。そしてシンザン・ハイセイコー・オグリキャップ・ナリタブライアンといった名馬達や岡部幸雄・福永洋一・武豊ら名騎手が生まれ人気を盛り上げたのである。一方、48年に自転車産業復興のため小倉市三萩野で競輪が開始され多くの自治体に広がる。ここも中野浩一といった名選手を生み人気を呼んだ。同様に中小造船振興のため52年に長崎県大村を皮切りに競艇が始まっている。戦後のギャンブルとして外せないのはパチンコであろう。20年代頃からイギリスのウォールマシンなどを元にして玉が釘の打たれた盤面を複雑な軌道で落ち入賞穴に入ると賞品が当るというのが子供の遊びとして駄菓子屋などで流行。46年頃から大人の間でも少額でも楽しめるギャンブルとして広がっていく。70年代には盤面のコンピュータ制御やスロットマシンの導入、大当りを出せるフィーバー機の登場で人気を呼び、80年代のデジタル化や90年代のカードシステムにより女性にも普及した(若い母親が車中に子を置き去りにして熱射病で死亡させる事件が続出し社会問題になった事も)。
 他には話芸もテレビを利用して人気を延ばした。落語においては八代目桂文楽・五代目古今亭志ん生・六代目三遊亭円生が人気を博し、絶滅寸前であった関西の上方落語においても六代目笑福亭松鶴の努力により三代目桂米朝やその弟子二代目桂枝雀といった名手が生まれた。そして桂文珍など落語に留まらず広い分野で活躍する人物も現れている。漫才でもミヤコ蝶々・南部雄二を始め、横山やすし・西川きよし、オール阪神・巨人、今いくよ・くるよといった人気漫才師が吉本興行を中心に登場し視聴者を沸かせた。
 また流行歌においてもアメリカの影響が強い。終戦直後にはラジオでアメリカ音楽が流され、46年に並木路子「リンゴの唄」が人々を元気付けた。昭和中後期にわたり活躍する美空ひばりが登場したのもその頃のこと。またこの頃は人々を元気付ける旋律の服部良一作曲「東京ブギウギ」「青い山脈」や時が止まったかのような雰囲気で心を癒す古賀政男「湯の町エレジー」が支持を受ける。52年に講和条約発効により米軍の大部分が撤退しそれまで米軍相手に商売していた演奏家が一般向けに進出、ジャズの流行がおこりフランク永井などが台頭。そうした中で様々な洋楽が流入した。異国情緒と軌を一にした都会憧憬の歌も経済成長による都市人口増加を背景に流行。美空ひばりはこの頃「悲しき口笛」「リンゴ追分」など洋楽・民謡と幅広く歌いこなし圧倒的人気を誇る。60年代も若者を中心に洋楽が流行。洋楽を基にした坂本九「上を向いて歩こう」等の日本生まれの音楽も人気を呼んだ。また66年のビートルズ来日を切掛けに加山雄三などポップス音楽の流行が進む。この頃には会社と契約しない作詞作曲家が増え、70年代に吉田拓郎・井上陽水・南こうせつ・荒井由実・中島みゆきといった自分で作詞作曲を行う歌手の登場によって専属性解体が促進。一方でピンク・レディやキャンディーズ、山口百恵・松田聖子といった身近な雰囲気を売り物とする「アイドル」が70年代後半から人気を呼ぶ。82年にはCDが登場、過去の曲が次々にCD版として再発され消費者にとり選択肢を広げる結果となった。またこの頃にバンドハウスが多様化し様々なアマチュアの音楽バンドが台頭、生産者と消費者の距離は縮まる。90年代に入ると米米CLUBやDreams Come Trueなどが大ヒット作を飛ばすがその背景にはドラマ・CMのテーマとなった事や、素人が流行歌を中心に演奏に合わせて歌うカラオケボックスの普及で一般人に歌い易い曲が好まれた事が考えられる。また安室奈美恵などを売出した小室哲哉、モーニング娘。を流行させたつんくなどプロデューサーの手腕が注目されたのもこの頃。素人バンド流行やカラオケなど生産者・消費者の垣根低下、種類の多様化が他分野と同様に起こった。多くが文化先進地アメリカの言いまわしを取入れ英語が洗練された表現として多用された。また多くは恋愛を主題にしている(世の中平和な証と言える)。この二点は中世前期の和歌を彷彿とさせる。一方で、アニメ放送が開始されて以来そのテーマ曲も広く歌われてきた。特に「鉄腕アトム」「ドラえもん」「宇宙戦艦ヤマト」などは長く安定した人気を博している。近年では人気歌手による歌い易さ・格好よさを重んじる歌が増加、他の流行歌との境界は小さくなった。
 さて最も戦後に大きく発展した文化といえば漫画であろう。映画の影響を受けストーリー重視になる流れは従来あったが、戦後になり益々加速されていく。中でも手塚治虫は人物を戦前の影響の強い絵で描きながらもストーリーの点で成長・死を内包させ各段に重厚な作品を描いた。また手塚は平和・平等を謳い命の尊さを説く理想主義者である一方で怪奇・性愛・悪など全てを拒まず作品に描いた。これこそ手塚が戦後最大の巨人となった所以かもしれぬ。人間同様の感情を持つロボットの物語である「鉄腕アトム」や不老不死の架空の鳥を介して過去・未来に渡り壮大なスケールで人間の業を描く「火の鳥」、白いライオンを主人公に愛や命の尊さなどを描く「ジャングル大帝」、ヒトラーがユダヤ人であるという説に絡めて第2次大戦前後の人間ドラマを描いた「アドルフに告ぐ」などが挙げられる。彼の下には多くの信奉者が手塚の嘗ての下宿「トキワ荘」に集った。その中から心理描写を追及した石ノ森章太郎、未来から来たロボットが便利な秘密道具で問題を解決する「ドラえもん」や普通の小学生が正義の味方に変身し様々な問題に当たる「パーマン」などで子供の世界・夢を描いた藤子・F・不二雄や「怪物くん」「魔太郎がくる!」などで怪奇世界を描く藤子不二雄A、「天才バカボン」「おそ松くん」で知られる笑いの追及者赤塚不二夫、「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」などで宇宙を舞台に無頼的な人々のロマンを描く松本零士、「月のたてごと」などスケールの大きな作品で少女漫画家の先駆けとなった水野英子などが出た。「トキワ荘」以外にも、中国の三国時代の歴史ドラマを描く「三国志」、超能力者による正義と悪の戦いを主題にした「バビル2世」、大型ロボット漫画の元祖「鉄人28号」など万人に受入れられる多様な娯楽漫画を描く横山光輝に手塚の影響が強い。他、腕利きの狙撃手を介して様々の世界情勢を絡ませドラマを展開する「ゴルゴ13」(さいとう・たかを)や型破りな警察官を主人公にして幅広い知識を組み入れたドタバタ喜劇「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(秋本治)など長期にわたり連載される作品も現れている。変わった所では、生活水準の向上に伴い美食を追及する傾向が現れたのに伴って「包丁人味平」(牛次郎・ビッグ錠)を皮切りに「美味しんぼ」(雁屋哲・花咲アキラ)など美味い料理を追及する様をストーリーとして展開するジャンルも登場した。また少女漫画も心理面を追及する作品を中心に発展。少女漫画の画風を確立させたのは雑誌や文具などの挿絵を主にこなしていた画家・高橋真琴である。中で星が輝くかのように描かれる大きな目・背景に散りばめられた花といった現在の美少女絵は高橋により確立されたのだ。これまでの美人画の流れを受けつつも、進駐軍の家族の少女をモデルに西洋風女性像を作り上げた。その後、「トーマの心臓」などで成長・死・性を扱う萩尾望都・「ベルサイユのばら」などで独自の歴史観を描いた池田理代子らが出現し人気を博す。また70年代頃から漫画は成人男子・主婦にも対象を広げていった。しかし中心にいたのは常に少年漫画である。女性漫画家がその旺盛な創作力で参加した事もあり、元来スポーツや戦闘といった勝負が中心であったのだが題材に関して何でも有りの状況を呈する。そのため少女・成人も含めた数多くの読者を獲得。したがって以下は少年漫画を中心に漫画の推移を書く。1959年に小学館「少年サンデー」・講談社「少年マガジン」と週刊少年漫画雑誌が誕生、当初は藤子不二雄「オバケのQ太郎」や横山光輝「伊賀の影丸」など手塚やその門弟達を擁した「サンデー」が優位であった。さて手塚達とは別に、被差別民などにもスポットを当て重厚なストーリーを展開する忍者物である「カムイ伝」で有名な白土三平や様々な妖怪が登場する「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる水木しげるのような、嘗て紙芝居を書いていた挿絵画家達が映画やテレビに押されて失業し貸本屋用に漫画を描いていた。彼等はより迫力のある絵柄・話をものし、「劇画」と呼ばれる。60年代後半から「マガジン」は彼等を採用し、原作者を雇い編集側で話を作って描かせた。これ等は物語作者と画家の合作として作品が生出される近世後期の戯作に近いと言える。中でもひたすら栄光を目指しスポーツに励む「スポ根」が流行、プロ野球で活躍する主人公を描いた「巨人の星」(川崎のぼる)・プロレスを舞台にした「タイガーマスク」(辻なおき)・ボクシング漫画の最高傑作と今日でも言われる「あしたのジョー」(ちばてつや)が人気を博し読者年齢も上昇。いずれの作品にも流れる原作者・梶原一騎の描いた根性賛歌に、所得倍増を目指しひたすら働く高度経済成長時代の人々は熱狂。「巨人の星」は主人公が投げる魔球が後に至るまで知られているし、「タイガーマスク」は後に現実のプロレスにも主人公のように虎の仮面を被ったレスラーが登場するという現象を引き起こし、「ジョー」の場合も旅客機ハイジャック犯が「我々は明日のジョーである」と声明したり主人公・矢吹丈の好敵手・力石徹が作品中で死亡した時にファン達が実際に葬儀を挙げたりした話は余りに有名だ。しかし梶原の物語の多くは束の間の栄光の末に破滅を迎えて終わるのである。ひたすら「根性」で頑張る先にあるものを梶原は無意識の中に感じ取っていたのかも知れぬ。なお、梶原の影響を受けた熱血物語は少女漫画の世界にも見られ、バレーボールで世界の頂点を目指す物語である「アタックNo.1」(浦賀千賀子)や修行を重ね師の死をも乗り越えて成長する主人公を描いたテニス漫画「エースをねらえ」(山本鈴美香)が有名である。70年代前半の石油ショックで低成長時代に入りやや時代が落付くと、独自路線を歩む秋田書店「チャンピオン」が注目された。スポーツ物でも熱血より駆け引きを重視する高校野球漫画「ドカベン」(水島新司)など以前より冷めたものが人気を呼び、つのだじろう「うしろの百太郎」や古賀新一「エコエコアザラク」といった怪奇物も評判になった。中でも手塚治虫の天才無免許医を主人公にした医学漫画「ブラック・ジャック」は怪奇趣味に加え倫理を問い医学界・世情に一石を投じる作風が評判になった。高度成長が終わり、ひたすら上昇していれば良い時代は過ぎ去った。熱血だけでは客を引き寄せられなくなっていたのである。尚、この頃に人気を博した漫画家に永井豪がおり、暴力・悪魔・性的描写・ギャグと幅広い分野にわたり作品を残している。巨大ロボット漫画の人気を確立させた「マジンガーZ」や悪魔の能力を持ち人間のために戦う主人公を通し人間の業をも描く「デビルマン」、学園を舞台に性的なギャグを描き物議をかもした「ハレンチ学園」や美少女ロボットが正義のために戦い時に色気シーンでも人気を呼んだ「キューティーハニー」等が代表作として挙げられ、これらの作品は長い期間にわたりシリーズ化もされている。70年代後半から80年代前半にかけて、安定した好況を背景に恋愛への関心が高まった。その中で強みを発揮したのが漫画家の感性を重視する「サンデー」である。従来も少女漫画を中心に恋愛は扱われてきたが、その中で培われてきた心理描写を駆使し少年漫画でも人気作が登場した。中でも有名なのは、下宿人と美人管理人の恋愛を描く「めぞん一刻」(高橋留美子)や宇宙人の美少女との恋愛を軸にした喜劇である「うる星やつら」(高橋留美子)、義妹との同棲を扱う「みゆき」(あだち充)や幼馴染の少女の夢を叶えるため高校野球に打ち込む双子の兄弟の物語である「タッチ」(あだち充)である。中でも、「タッチ」は心理描写に巧みなだけでなく恋愛とそれまでのスポーツ路線との融合に成功し新しい流れを作った作品とされる。80年代後半・90年代初頭には土地投機によるバブル景気を背景に集英社「ジャンプ」の努力・友情・勝利を売りにした気宇壮大な話が好まれた。サッカー人気の先駆けとなった「キャプテン翼」(高橋陽一)、超人たちの戦いと友情を描いた「キン肉マン」(ゆでたまご)や「ドラゴンボール」(鳥山明)、架空の出版社による破天荒な技に対する一見尤もらしい解説やギャグで豪快な格闘ストーリーを彩った「魁!!男塾」(宮下あきら)、核戦争後の荒廃した世界を舞台に男たちの戦いと愛を主題にした「北斗の拳」(武論尊・原哲夫)、主人公一族と吸血鬼との1世紀以上にわたる対決を描き独特の台詞回しや擬音・絵柄で人気を博す「ジョジョの奇妙な冒険」(荒木飛呂彦)など根強い人気を誇る作品が生み出されている。基本的に夢や正義を信じる事が出来た時代の産物と言えよう。バブルが崩壊した90年代には読者の好みが分かれ、その中で漫画も多様化。冨樫義博「幽★遊★白書」は、当初は80年代「ジャンプ」が売りとする努力・友情・勝利の物語を描いていたが終末近くにそれを破綻させ人間の暗部をも覗き込む独自の世界を切り開いた点、多くの美少年キャラクターを登場させそれによる女性ファンを多く獲得した点(美少年キャラによる女性人気は前述「キャプテン翼」や車田正美「聖闘士星矢」辺りから見られた)でもこの時期を代表する作品と言える。同時期の武内直子「美少女戦士セーラームーン」は明確な勧善懲悪・決め台詞や決めポーズによる分かりやすい型・多くの美少女キャラクターにより幅広い支持を獲得。また小林よしのり「ゴーマニズム宣言」の様に作者が漫画中でエッセイ風に意見開陳し言論界に影響を与えるという現象も現れた。そしてこの頃には嘗ての人気漫画の文庫化が進み、読者の選択肢は更に広がっている。恋愛物も様々なものが生まれ、「ラブひな」(赤松健)のように主人公と美少女がただ結ばれるだけでなく、様々な美少女が多数登場し様々な状況を経て平凡な主人公に想いを寄せるようになる物語を描くことで男性読者の好みや願望に対応し人気を得た作品も現れた(これには後述する恋愛ゲームの影響も考えられる)。また推理物が漫画でも流行。大時代的トリックや怪人・悲惨な動機で怨念の権化となった犯人で読者を魅了した「金田一少年の事件簿」(天樹征丸・金成陽三郎・さとうふみや)やファンタジー的基本設定と堅実なトリックで人気の「名探偵コナン」(青山剛昌)である。伝えられる情報量が文章に比べて多い漫画は推理物を進める上で有利であったのだ。因みに90年代後半から2000年代初頭には好みの多様化からか嘗ての様な広い支持を集める作品が生まれにくくなり、以前の人気作品の読者を目当てにそれらの続編や外伝が多く生み出される傾向がある。
 一方で娯楽小説の分野でも、漫画やアニメに強い影響を受けたり若者を中心にこれらと同様な消費者層に受け入れられたりして、作品自体も漫画やアニメに導入され人気を博するものも現れるようになった。銀河系を舞台にスケールの大きい架空歴史ドラマを展開する田中芳樹「銀河英雄伝説」、異世界での群雄割拠を描く小野不由美「十二国記」などが代表として挙げられよう。
 映像の主役となったテレビにおいて人気を博したのは特撮・アニメである。さて特撮においては、円谷英二の技術により53年に映画「ゴジラ」が登場。怪獣の破壊力で観客を魅了するのみならず核の時代における不安を表現し海外にまで評判となった。以降、怪獣映画の流行が起こりゴジラもシリーズ化した。60年代にはテレビで怪獣と戦う勧善懲悪物「ウルトラマン」を放映、70年代には石ノ森章太郎「ゴレンジャー」を基にした戦隊シリーズや同じく石ノ森「仮面ライダー」が登場しこれらも同様にシリーズ化された。これ等は大掛かりな大道具・派手な趣向・大仰な動作といった点で嘗ての歌舞伎と共通しているかもしれない。
 アニメにおいてはまず56年に東映がアニメ会社東映動画を設立、動きを重視した作品作りを行った。当初は従来の映画と同様に「白蛇伝」など時代物を作っていたが、68年に高畑勲・宮崎駿が「太陽の王子・ホルスの大冒険」を発表。年長者向けの作品に仕上った事もあって当初は不評であったが次第に人気が上昇。宮崎は78年の「未来少年コナン」や翌年の「ルパン三世・カリオストロの城」で人気を獲得、以降は高畑と共にスタジオジブリを設立。高畑が対象から距離を置いた冷厳な視点で現実的な物語を描き「火垂るの墓」などで名を挙げる一方で、宮崎は自然への回帰を理想に「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」を発表。大空を駆け巡る躍動的で幻想的なストーリーに加えて巨大兵器・美少女のような日本人の好みに合った要素を持ち絶大な人気を勝取る。一方63年に手塚治虫が虫プロを設立、日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」を放映した。極度の低予算で作成されたため、静止画を多用する手法や絵の一部分だけを動かす手法、セルを使い回す手法で凌いだが、その結果として静止画を効果的に用いて雰囲気を出す技術が磨かれる事になる。そうした中で出崎統・真崎守・杉井ギサブローらが育ちテレビアニメを担っていく。テレビアニメは漫画を原作にしたものが多く、漫画ファンが漫画での場面をそのまま見たいと望む事もあり静止画を重視して美しく用いる傾向に拍車が掛った。74年には松本零士「宇宙戦艦ヤマト」や、「アルプスの少女ハイジ」が登場。「ハイジ」は「ムーミン」(69年)と共に「フランダースの犬」(75年)「小公女セーラ」(85年)など名作童話アニメ化の基となった。また勧善懲悪物の一環としてロボットアニメが人気を博す中、79年に富野由悠季が勧善懲悪を離れ迫力ある戦争・新人類を描いた「機動戦士ガンダム」を発表。テレビアニメでも年長者向作品が生まれてきたのである。アニメ作品の質の向上に伴い、アニメを大変愛好する「オタク」と言われる年長者が登場するのもこの頃のことだ。またファンの拡大の結果、コスプレといいキャラクターと同じ格好をする現象も見られるようになった。そしてかつての歌舞伎役者と同様にキャラクターの声を担当する人々(声優)がスターとしてもてはやされる様にもなった。それはさておきオタクの一部は80年代にスタジオぬえ「超時空要塞マクロス」(石黒昇)やガイナックス「王立宇宙軍オネアミスの翼」(山賀博之)などを作成。こうした作品はオタクが消費者の代表として自分達の作りたい物・見たい物を作るという姿勢で作られた。90年代青少年の日常・心性を描いたと言われる庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」もそうした自画像的作品の流れを汲んでいるという。消費者と製作者の垣根は低くなっており、それに伴いアニメも多様化して新世紀を迎えている。
 実際の俳優を用いるテレビドラマもまた数多く作られており、「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「名奉行遠山の金さん」「銭形平次」といった年長者を中心に支持される時代劇や「はぐれ刑事人情派」「踊る大捜査線」などの刑事物、「古畑任三郎」「火曜サスペンス劇場」などの推理物や「東京ラブストーリー」「ロング・バケーション」といった恋愛物、「3年B組金八先生」などの学校物などに人気作品も出現している。しかし、絵や音声のみで豊かな表現が可能な漫画・アニメと違い現実の人間で演技をすることによる表現力の限界があるためか、我が国ではアニメや漫画と比較して今一つ振るわず時に海外の作品に押される傾向があるのは否めない。漫画を原作にしたドラマも多く見られるが評価の高いものは数少ない。だが、日本史を題材にして一年を通じて放送する「大河ドラマ」シリーズは一定の支持を得ており「武田信玄」「太平記」など高い評価を受ける物も存在する。
 次にテレビを用いるもう一つの分野としてコンピュータゲームについて述べる。ビデオゲームは72年に米国で電子テニスゲーム「ポン」が発明されたことに始まり、色々な物が作られ始めた。日本では78年にタイトーが「スペースインベーダー」を喫茶店に配備し一部で流行を巻起こした。この時点では大きな注目を浴びているとは言えなかったが、80年の「パックマン」辺りから商業的可能性に着目される。様々な会社がビデオゲーム機器を開発、ゲームウォッチのような携帯ゲームも作られた。こうした中で83年に任天堂が「ファミリーコンピューター」を発売、「ゼビウス」(ナムコ)・「スーパーマリオブラザーズ」(任天堂)・「ドラゴンクエスト」(エニックス)といった専用ゲームソフトの人気も手伝いゲーム機器は任天堂の独壇場となる。携帯ゲームでも「ゲームボーイ」で人気を獲得。当初ゲームではスポーツ・格闘・冒険・戦闘機による射撃といった多彩な分野の戦いを扱うものが主流であった。例えば「スーパーマリオブラザーズ」に代表されるアクションや、アメリカの「ウルティマ」などから影響を受け「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」(スクウェア)などある程度の自由を持ってゲーム世界を冒険するロールプレイングゲーム、「三国志」「信長の野望」「元朝秘史」(いずれもKOEI)など主に乱世の平定を目標とする歴史物、「ゼビウス」・「グラディウス」(コナミ)などの戦闘機物、「ストリートファイター」(カプコン)・「鉄拳」(ナムコ)・「バーチャファイター」(セガ)などの格闘物が人気を博し、シリーズ化されて続編が次々登場した。スポーツゲームでも、「ファミリースタジアム」(ナムコ)・「実況パワフルプロ野球」(コナミ)など現実のプロ野球での動きに連動させてシリーズ化する人気作品が登場(サッカーでも同様な事態が生じている)、中には「プロ野球チームをつくろう!」(スマイルビット)のようにスポーツチーム経営者となって経営と強いチーム編成を両立させる手腕を問われるユニークなゲームも登場している。ゲーム技術の進歩に伴い、リアルな画像を用いたり操作性を改善したりと様々な方向からゲームは消費者の支持を広げていく。遊戯としても凝った仕掛けがなされるようになり、「ゼビウス」辺りからゲーム中に隠されたアイテムが仕組まれるようになったり、また迷路のように決められたルートをたどらないとゴールできないような仕掛けが出来たり特定の方法を用いないと倒せない敵が現れたりするようになった。「ドルアーガの塔」や「スーパーマリオブラザーズ」などでは攻略本が売り上げを伸ばすようになる。そうしたゲームの中には早くから漫画やアニメの人気作品を導入した作品も多数見られたが、キャラクターの人気に頼って売り上げを伸ばす事を考えゲーム性が二の次になり、しかも十分に原作の醍醐味を盛り込むだけの技術がなかったためかこうしたゲームには長らく傑作は生まれなかった。しかし近年には技術の進歩により、ゲーム性を保ちつつ原作の魅力も十分に表現された作品が出現するようになっている。また、都市の繁華街を中心に設置されたゲームセンターで数多くの専用ゲーム作品が置かれ若者を中心に盛り場となった(しばしば犯罪事件の舞台ともなり社会問題にもなった)が、そこで流行してから一般ゲーム機に移植導入された作品も多い。一方この頃広がり始めたパソコンを用いて男性を対象に性的欲望を満たすための18歳未満禁止ゲーム(エロを扱うゲームということで「エロゲー」と呼ばれることが多い)が作られていた。すでに1980年代初頭にこうしたゲームは登場しており、女体を描くには必須であろう曲線を表示できないパソコンですら作成された。最初の作品は 「ナイトライフ」(光栄マイコンシステム 1982年)らしい。この頃は光栄(後のKOEI)やエニックス・日本ファルコム・アスキーといった一般向けゲームの分野で大成することになるメーカーも恋愛ゲーム制作に従事していた。最初期の傑作としては「団地妻の誘惑」(光栄マイコンシステム 1983年)が挙げられ、他にも光栄は幼女を手術して楽しむ「マイ・ロリータ」(1985年)という病的でグロテスクな作品も製作している。当時の最重要作品はドラマや女性達のキャラクターとしての魅力を追求した「天使たちの午後」(JAST 1985年)。この作品はグラフィックの面でも新時代を開拓し、アニメ調恋愛ゲームの草分けとなった。これまでの絵柄はほとんどが劇画調と過度に幼女風の絵の傾向を持つものに二極分化していたが、以降恋愛ゲームは通常アニメ調の絵で描かれる。この頃の他の作品には光栄「オランダ妻は電気ウナギの夢をみるか?」やエニックス「マリちゃん危機一髪」などもある。1980年後半には現在につながるメーカーおよび市場が形成される。光栄やエ ニックスのような後の大メーカーが撤退する一方、フェアリーテール(現F&C)やエルフ、アリスソフトといった現在に続くメーカーが成立。この時期にははまず「ドラゴンナイト」(エルフ 1989年)でストーリーの重要性が認識される。更に92年には好きなキャラクターを選ぶ事ができキャラクター毎に魅力的なストーリーが展開されるエルフ「同級生」が登場した。美しいグラフィックや巧みに描写された恋愛物語、優れたゲームシステムによって爆発的な人気となる。ここで恋愛ゲームは性的な絵を見るためのゲームから恋愛を絡めた物語を楽しむゲームへと進化した。更に1996年から97年にかけては「ビジュアルノベルシリーズ」(Leaf)が大成功。これにより複雑なゲームを作らずとも、ストーリーを絵や音楽・効果音などで簡単に演出するだけで高評価を受けることができることが判明。これに多数のメーカーが追随し、同時期に起こったWindows95の登場によるパソコンの一般家庭への普及と相俟って恋愛ゲーム市場は大幅に拡大する。この「ビジュアルノベルシリーズ」は恋愛を絡めつつ、ほのぼのとした日常・切ない別れ・血湧き肉躍る伝奇活劇・成長など色々な要素を含む多様なストーリーを描いたが、中でも感動的なストーリーが好評を博し、この局面に特化したゲームの流行に繋がる。このシリーズの最大のヒット作である「To Heart」(Leaf 97年)はゲーム性を回復しようとしているが、ビジュアルノベルと銘打って販売したことやまたゲーム性がストーリーを阻害するという悪影響しかもたらしていないことから恋愛ゲームの紙芝居化を加速することになった。その結果、98年から99年にかけては「Kanon」(Key 99年)に代表される、感動的なストーリーにより寧ろメロドラマとして評価の高いゲームが続出した。2000年には素人の集団であるTYPE-MOON制作の同人ゲーム「月姫」が登場、しだいに評価を高め大ヒットしアニメ化に至る。更に2000年から01年頃には、悲劇的なストーリーによる精神的な重圧を楽しむ傾向が一層強まり「君が望む永遠」(アージュ 01年)などが流行。なおこの時期は、恋愛を絡めたストーリーを描くゲームが流行する一方で、「SEEK」(PIL 95年)「悪夢」(スタジオメビウス 96年)のように、鬼畜ゲームと呼ばれる、性描写において女性への辱めを中心に描く系統のゲームも成立した。中には「Natural」(フェアリーテール 98年)のように恋愛と陵辱を並存させた作品も存在する。その後は「妻みぐい」(アリスソフト 02年)に代表される低価格ソフトが登場したほか、夕方にアニメ放送した「らいむいろ戦奇譚」(エルフ 02年)など、積極的にアニメ化や漫画化する例もある(後述する「メディアミックス」参考)。中には漫画を原作とする恋愛ゲームも登場している。またリアルな3次元風の水着美女と戯れる「セクシービーチ2」(イリュージョン 03年)やアニメ調の3次元風美少女を描きゲームとしても質の高い「セイクリッド・プルーム」(TEATIME 03年)がかなりの好評を博する。ゲーム作成の技術が向上した一例といえよう。一方、18歳未満禁止ゲームに画質向上や描写の熟練、ストーリー発達がみられるのに従い一般市場でもそれに影響されて恋愛を扱うゲームが現れ始め、「ときめきメモリアル」や明確な勧善懲悪の下でのロボット戦闘と恋愛を融合させた「サクラ大戦」といった大作が登場。そうした中で「To Heart」のように一般向きに改作されて成功するものも現れた。ただしこの市場は短期間の内に成熟しきっており、例外的な大作を除いては、現在では一般市場の恋愛ゲーム市場は18歳未満禁止作品の移植を中心に細々と生きるのみと言っても良い。しかしその中で12人の「妹」(血縁的姉妹と言うより寧ろ庇護下にある潜在的恋人と解すべきであろう)との交流を扱う「Sister Princess」(メディアワークス 01年)のような特殊な作品も登場している。そうした中で女性向け恋愛ゲームもやがて登場した。94年に「アンジェリーク」(光栄)が出て、これを中心に小規模ながら堅実な市場を形成していたが、その後「ときめきメモリアル Girl's Side」(コナミ 02年)が低迷を始めた男性向けの本家作品を尻目に大いに好評を博して以降は多くの作品が発売されるようになっている。そして女性向け恋愛ゲームとしては初の18歳未満禁止作品である 「星の王女」(美蕾 03年)も発売された。なお女性向けの恋愛ゲームとしては男性同士の情交を描いたボーイズラブゲームと呼ばれる分野(後述する「やおい」を参考)も存在している。以降も恋愛ゲームは様々な作品を生み出しているが、過去の作品の続編であったり、過去の作品と同様な作風のものが多かったりと新たな流行を創る勢いはなく業界全体がやや停滞気味であることも否定できない。しかし恋愛ゲームは性欲という人間の基本的な欲求に結びついており、常に一定の需要が見込める。またゲーム性を放棄してキャラクターやストーリーを商品価値の基礎に据えているため、プレイにおいて比較的少ない労力と時間で多くの刺激を得ることができ、一般のゲームと比べれば飽きられにくい。さらにもともと小規模の市場であり縮小する余地が小さい。以上から考えて、かつて過剰に膨らんだ市場が停滞によって適正な規模にまで縮小はするにしても、それが恋愛ゲームの存在自体にとって壊滅的打撃となることはないと考えられる。さてゲーム機器においては任天堂がその後も「スーパーファミコン」で優位を保つが90年代後半に入るとソニーの「プレイステーション」がゲーム市場の覇権を握った。一方で育成ゲームの一種である「たまごっち」更にキャラクター人気のある「ポケットモンスター」がヒット、携帯ゲームも更に人気を獲得。ゲームの種類もこの頃には多様化し、95年にはWindows95の登場でパソコンの性能が飛躍的に向上し急速に普及した結果として前述の「月姫」のような素人が作成する同人ゲームも登場、ここでも生産者と消費者の差は縮小している。
 またビデオデッキ普及を背景に、情交場面を中心に男性の性的欲望を満たすアダルトビデオが80年代頃から広まる。折しも風俗営業法などで風俗業の生き残りが厳しくなった関係もありかつてその業界で勤務していた女性達が流れこんだ。そうした中で桜樹ルイ・豊丸など人気女優が生まれている。これによりビデオデッキの広がりに拍車が掛ったとされる。この分野でも90年代には素人作品も多く生まれ生産者・消費者の境目が消えつつある。
 戦後になり分野を横断した作品展開の傾向は前述の様に益々強まった。これまでの様に人気に乗り拡大するだけでなく、娯楽産業が当初より戦略的に多分野への展開を目論むようになる。例えば角川書店が1976年に「犬神家の一族」を皮切に横溝正史作品をまず小説で売り評判を取った所で映画化、更に映画音楽をレコードで売るという販売戦略を取っている。また「鉄腕アトム」を切掛けに人気漫画のアニメ化が多く行われ、加えてゲームも同様に漫画を題材にする。また漫画がアニメ・ゲーム化されるだけでなく「スーパーマリオ」「ドラゴンクエスト」など逆の現象も出現。90年代にはこうした傾向は更に強まり、「メディアミックス」と称して一つの作品が複数の表現媒体を通じて消費されるようになる。例えば漫画・アニメ・ゲームの間に境目が判然とせずどれを中心としている訳でもなく登場するキャラクターの人気により売る戦略も登場したのだ。近年のキャラクタービジネスでは消費者に好まれるキャラクターがまず作られ漫画・アニメ・ゲームに展開される。90年代末のギャグ作品「デ・ジ・キャラット」はキャラクター中心に人気を得た例といえる。キャラクタービジネスは娯楽作品にとどまらず玩具等の関連商品も含めて展開されており、娯楽産業以外の産業も深くかかわるものとなっている。また、80年代以降には天使と悪魔の戦いを題材にした「ビックリマン」シールや動物型巨大機械兵器の模型「ゾイド」のように、玩具の流行が漫画・アニメ化される例も見られた。
 娯楽作品関連の玩具の中でも特に一部の人々の間で愛好されたのが食品などのおまけの玩具(以降は「食玩」と略記)、更にキャラクターなどの縮小立体模型であるフィギュアである。80年代以前にも「ガンダム」の模型や「キン肉マン」のキャラクターのゴム人形が大流行した例があるが、一分野として台頭するのは90年代に入ってからである。一般に発売されるキャラクター模型の出来に満足がいかない映画・アニメ等のファンが、自分の欲しいキャラクター等の模型を満足の行く造形で自ら製作しそれを同好の人々に分け与える現象が70年代後半から見られるようになった。そうした模型作品は「ガレージキット」と一般では呼ばれている(アメリカでかつて流行した素人による車庫等で演奏されたロック「ガレージロック」に因んだともいうが詳細は不明)。やがてそうした作品群は映画雑誌等で紹介され徐々に広がり、海洋堂・ゼネラルプロダクトといった集団を中心に盛んになった。当初は特撮作品に登場する怪獣を中心に作っていたがやがて美少女など様々な分野に対象が広がっていく。美少女のフィギュアは当初はロボットなどの影に隠れた分野であったが、90年代半ばに格闘ゲームや「セーラームーン」の流行によりそれらの作品に登場する人気女性キャラクターの模型が次々に作られるようになる。その中でBOMEや秋山徹郎ら人気造形師も現れた。90年代後半になると、アメリカから質の高い量産型可動人形が流入し人気を博す。それに影響されるかのように海洋堂が日本の作品のキャラクターでガレージキット同様に高品質の量産型可動人形を作成。可動部位を制限し様々な見栄えの良い「決めポーズ」を取れるなど独特の工夫を凝らし人気を得た。99年ごろから海洋堂が食玩にも進出し、「チョコエッグ」のように写実的な造形の動物模型などそれまでになく質の高い作品が現れるようになっている。美少女フィギュアもやがて食玩に登場、細かい塗装・肌色の表現への工夫・パーツ分割しての細かい造形により2003年ごろから「リカヴィネ」「週刊わたしのおにいちゃん」など多くのファンの欲求にも応えられる質の作品が現れつつある。
 ところで、キャラクター中心の展開が推し進められる中で特定タイプのキャラクターに執着する「キャラ萌え」という言葉も現れ、生産者側の方でも読者が同人誌などの形でキャラクターを用いて生産に参加することを当初から計算に入れて作品作りをするようになった。また女性ファンを中心に、同人誌の中で好みの美少年キャラクターと別の男性キャラクターの間に恋愛情交関係を作り上げる「やおい」(「山なし、落ちなし、意味なし」と製作者達が自分達の作品を卑下した事に由来)も一部で流行。男女間恋愛に付きまとう煩わしさを避け、憧れのキャラクターへの想いをその中に込めたのであろう。全体的に作者と消費者の間に存在する垣根は益々低くなっている。
 作者と消費者の垣根が低くなった一例としてオタク達が大規模に集まりそれぞれ様々なジャンルの同人誌をはじめとする彼ら自身の作品を交換・売買するコミックマーケットと呼ばれる行事が定期的に行われるようになったことが挙げられる。また、生活水準の向上に伴う電化製品の普及や家電量販店の分散によりその存在意義を薄れさせつつあった東京の秋葉原や大阪の日本橋といった電気街でも、家電に代わる商品として恋愛ゲームや同人誌・フィギュアといったオタクが求める物を扱う店が増加しオタク達の姿が多く見られるようになった。その結果、現代の文化は作者と消費者の差を縮めるにとどまらず、個人の趣味の集合により都市景観をも変化させるに至ったといえる。
 漫画・アニメ・ゲ−ムを中心に民衆文化が東南アジアや中南米・欧米・中東など世界各地に広がり人気を博している。江戸後期においては江戸文化が印象派など一部美術に影響を与えたに過ぎぬのに比べるとその違いは大きい。日本民衆文化は国境を越える段階に入った。特にWindows95登場によりパソコンが急速に普及、世界的な情報網であるインターネットへの関心が急増しオタク達の発信力も各段に増進、生産者・消費者格差の消滅に拍車をかけつつある。
 ところで近年、国や「知識人」により一部民衆文化が評価されると同時に別の民衆文化が非難されるという状況だ。これも或は一種の思想善導といえようか。しかし民衆文化の主役はあくまで民衆である。本居宣長が日本の文芸は「もののあはれ」つまり世間の道徳とは関係なく情念を描き切っているが否かが命だと述べている通り、「知識人」の言う事に惑わされず自分で良い物を見抜き判断する眼力・意志を持ちたいものだ。
まとめ
 日本は西洋やインド・中国とは違い、一神教・仏教・儒教といった普遍的な世界宗教を遂に生まずまた染まり切ることも無かった。しかし、日本はこれまで述べてきたような「民衆の、民衆による、民衆のための」都市文化が最も強く栄えたところの一つである。その普遍性・誘引力を見ると、日本人は世界宗教の代わりに最高級の民衆文化を得たのではないかとさえ思う。現に日本民衆文化の作品が今日に伝播する様子は世界宗教興隆期を彷彿とさせるものさえある。ただし、民衆文化の担い手は日本のみではなく、日本はあくまで民衆文化発信先の一つに過ぎない。現に、世界的に頂点にいるのはアメリカであるし、韓国・台湾などでも様々な秀作が生まれ始めているようだ。我々は世界中のライバルに負けない様、本物を見抜く目を磨かねばならぬ。日本人は自分達の文化の真髄は日本人にしか分からないと思い込む悪癖がありそれが油断に繋がる危険がある。しかし努力さえ怠らなければ日本人は世界の文化において重要な位置を勝ち得る可能性は充分にあるであろう。ただ、気掛かりな面がないでもない。民衆文化は外国文化の他に田舎の習俗からも影響を受けてきた。が、都市への集中の結果としてその田舎そのものが消えつつある様である。民衆文化にエネルギーを与えてきた民俗文化の衰退で民衆文化が力を失う恐れはないであろうか。また、最近はどの分野でもネタ切れなのか多様化の極致なのかやや活力不足で新しい人気作品が生まれにくいようだ。少しその点が心配である。
おわりに
 「まとめ」で現代日本文化を少々褒めすぎた気がしないでもないが、まあ大きな外れではないでしょう。日本文化史全体を概観した通史を作ってみたのですが、我ながら何とも妙なものに仕上がりました。因みに近代純文学・美術はエリートによって成された物なので今回は敢えて取り上げませんでした。しかし民衆文化繁栄の裏面で、今日では「指導者層」がそもそも存在しないこともあって指導者たちがエリートとしての教養を持っていない。これは人間としての「深み」という点でかなり不利であり国際社会で日本が侮られる一因ではないだろうか。困ったものだ。

    参考文献 
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新講日本史三訂版 家永三郎・黒羽清隆 三省堂
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戦後日本の大衆文化史1945〜1980年 鶴見俊輔 岩波現代文庫 
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日本中世への視座風流・ばさら・かぶき 守屋毅 NHKブックス 
戦国乱世の文学 杉浦明平著 岩波新書
中世の文学伝統 風巻景次郎著 岩波文庫
茶の湯を楽しむもてなしの心と作法 講談社 
お茶人の友19必携千利休事典 世界文化社
漫画の歴史 清水勲 河出書房新社 
百姓の江戸時代 田中圭一 ちくま新書
日本の歴史23大正デモクラシー 今井清一 中公文庫 
日本の歴史16元禄時代 児玉幸多 中公文庫 
名作義太夫二百段 加○入登編 三芳屋書店
マンガ日本の歴史38野暮が咲かせた化政文化 石ノ森章太郎 中公文庫
マンガ日本の歴史36花ひらく江戸の町人文化 石ノ森章太郎 中公文庫
マンガ日本の歴史27桃山文化と朝鮮侵略 石ノ森章太郎 中公文庫
教養としての<まんが・アニメ> 大塚英志+ササキバラ・ゴウ 講談社現代新書
のらくろ上等兵 田河水泡 講談社 
ENCARTA百科事典2000 マイクロソフト
オペラと歌舞伎 永竹由幸 丸善ライブラリー 
新修国語総覧 京都書房
ジュニア日本の歴史3武士の実力 永原慶二編 小学館
室町記 山崎正和 朝日選書 
寺社勢力 黒田俊雄著 岩波新書
異形の王権 網野善彦 平凡社 
合理主義 会田雄次 PHP文庫
新訂閑吟集 浅野健二校注 岩波文庫
軍記物語の世界 永積安明 岩波現代文庫
サブカルチャー世界遺産 サブカルチャー世界遺産選定委員会編 扶桑社
ELECTRONIC GAME COLLECTORS 1970−80's choice 厚木十三・水崎ひかる オークラ出版
能・文楽・歌舞伎 ドナルド・キーン 吉田健一・松宮史朗訳 講談社学術文庫 
Shotor Museum歌舞伎鑑賞ガイド 小学館 
小学館フォトカルチャー能狂言鑑賞ガイド 小学館
日本史探訪8南北朝と室町文化 角川文庫 
子ども落語(一)(二) 柳亭燕路 ポプラ社文庫
大正文化 南博+社会心理研究所 勁草書房 
昭和文化 南博+社会心理研究所 勁草書房
決定版!大相撲観戦道場 「相撲」編集部編 ベースボール・マガジン社
落語ハンドブック 三遊亭圓楽監修・山本進編 三省堂
能楽ハンドブック 戸井田道三監修・小林保治編 三省堂
茶道入門ハンドブック 田中仙翁著 三省堂 
歌舞伎ハンドブック 藤田洋編 三省堂
本居宣長(上)(下) 小林秀雄 新潮文庫 
真夜中のミステリーガイド 藤原宰太郎 ワニ文庫
夜つくられた日本の歴史 須藤公博 祥伝社黄金文庫
愛と欲望の日本史 須藤公博 祥伝社黄金文庫 
誹風柳多留八篇 室山源三郎校注 教養文庫
マンガの国ニッポン ジャクリーヌ・ベルント 佐藤和夫/水野邦彦訳 花伝社
元禄御畳奉行の日記 神坂次郎 中公文庫…元禄の時代相が良く分かる
カニバリズム論 中野美代子 福武文庫 
日本文化史概説 村岡典嗣 岩波書店
映画から見えてくるアジア 佐藤忠男 洋泉社
手塚治虫の真実と謎と秘密と履歴書 テヅカニアン博物館監修 山河社
誰か「戦前」を知らないか 山本夏彦 文春新書
趣都の誕生萌える都市アキハバラ 森川嘉一郎 幻冬舎
アニメの世界 おかだえみこ・鈴木伸一・高畑勲・宮崎駿 新潮社 
週間朝日百科世界の文学110テーマ編・マンガと文学 朝日新聞社
世界名作劇場大全 松本正司著 同文書院
無名草子評解 冨倉徳次郎著 有精堂 
海洋堂クロニクル あきのまさひこ編著 太田出版
月刊モデルグラフィックス 1998年6月号 大日本絵画
岡野勇劇場(http://www2u.biglobe.ne.jp/~captain/)
竹久夢二オンライン(http://www.ryobi.gr.jp/yumeji/)より
  竹久夢二の紹介
関心空間:高橋真琴(http://www.kanshin.com/?mode=keyword&id=592209)
朝日新聞大阪版 平成17年3月14日夕刊 3面
美少女ゲームマニアックス 1〜3 KTC
同人ゲームマニアックス  KTC
この美少女ゲームで萌えろ!  洋泉社
美少女ソフト全カタログ'90→'94  笠倉出版社
エロゲーを中心とする恋愛ゲームの歴史に関するごく簡単なメモ My 京都大学歴史研究会
 (http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/s2004/050311.html)
リトルナイトカーニバル
 (http://homepage3.nifty.com/s-hazuki/index.html)より
  チャンピオンソフトの歴史(美少女ゲームの歴史)
古い男の部屋
 (http://homepage2.nifty.com/furuiotoko/index.html)より
  工画堂作品を語る部屋
2ちゃんねるスレッド  より
  今日に至る【エロゲー】の歴史を教えてください
 エルフ対アリス
  今日に至る【ギャルゲー】の歴史を教えてください
マイペディア99 日立デジタル平凡社 
Bookshelf Basic Microsoft/Shogakukan


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