2002年12月20日
藩札  貫名


◎はじめに。

 江戸時代の経済体制において、藩札というのは大きな意味を占めている。最終的には全国のほとんどの藩で発行が行われており(明治初期に急増しているが)、現在に至る信用通貨の嚆矢としても歴史的に大きな意味を持っている物と考えられる。しかしその反面、中央政府ではなく各地方において行われていた制度であるせいか、歴史的にはやや地味な印象を受けることは否めない。今回は簡単なものではあるが、藩札という制度の実態についてまとめてみた。
 ……というのが建前であり、実は旅行中に資料館で何気なく藩札を見掛けてこのテーマを決めた、というのは公然のヒミツである。

◎紙幣の発祥

 そもそも紙幣というのは、日本においてはいつ頃生まれたのだろうか。
 記録上においては、「建武記」建武元年三月二十八日の項によると、後醍醐天皇の詔勅によって「乾坤通宝」なる銅銭と同時にそれと同価の楮幣(紙銭)の発行が宣されたとされている。しかしこの実物は現存しておらず、おそらく計画のみに終わったのであろうと考えられている。
 その後、最初に紙幣らしきものが生まれたのは、16世紀末から17世紀初頭にかけての伊勢の神領特別地域において生まれた「羽書」であった。ここでは信用証券を起源として、手形様の札が従来の貨幣に代わって用いられるようになる。この発生の由来としては、金子の授受に際して端数が出て不便だったためその端数を、後で何時でも引き替えられるよう紙片に書いて渡していた「端書」が元であったと言われている。この時代はまだ寛永通宝が発行される時期の前であり、鐚銭ばかりで善銭は少なく、また銀貨も当時の鋳造技術では少額銀貨を作るのは困難だった、ということが挙げられる。この羽書は、現存する日本最古の紙幣と推測される慶長15(1610)年発行のものが残る「山田羽書」をはじめ、宇治羽書、松坂羽書、射和羽書などが残っている。
 一方畿内においては、商人資本によって「江戸堀河銀札」(元和4(1617)年)「夕雲開銀札」(元和8(1621)年)などが発行されている。これらは、土木工事において人足賃として一時的に大量の少額貨幣の需要が生じた際に、その不足を補うために一時的に発行されたものと考えられる。
 このような私札は、その後に幕府の幣制統一の過程の中で、特例で官許された山田羽書を除いては一時はほとんど消滅してしまう。その後、文政の改鋳以降に再び、寺社・公家・町村・宿駅・鉱山・その他私人などにより大量の私札が発行され、日本銀行には現在も1000ヶ所5000種の私札が所蔵されている。これらの多くは狭い流通範囲における少量の発行であるが、江戸時代にこのような貨幣体系も存在したことは押さえておくべきだろう。

◎藩札の誕生

 以下、藩札の性格は後述するとして、まずは通史的に見てみることにしよう。なお、本来江戸時代に「藩」という言葉は存在しておらず、本来はこの時代の藩札は「金札」「銀札」などと呼ばれるのが正当だが、以下では煩雑になるので簡単にこれらをまとめて「藩札」と書いておくことにする。
 藩札を最初に発行したのは、福井藩の寛文元(1661)年であると一般には言われている。それ以前に、福山藩で寛永7(1630)年に使用開始された、尼崎藩で寛永14(1637)年の版木が発見されている、などいくつかの説はあるようだが、現在のところは藩札発行の確証があるとは言えないようだ。
 その後、これに続いて多くの藩において貨幣の発行が行われることになる。この時期の藩札は、多くは藩当局が直接行っており、またほとんどは銀遣いによる西日本の諸藩による発行だった。
 しかし宝永2(1705)年、幕府は諸藩に対し、札遣いの現状について報告するように命じている。その調査を踏まえた上で、その2年後の宝永4(1707)年10月、幕府は全国的に札遣いを禁止し、50日の猶予期間内に藩札を回収するように命じている。これは名目上は藩札のある藩と無い藩との間では貨幣流通に障害がある、という理由であったが、実際には、この時期は元禄銀から宝永銀への改鋳の最中であり、幕府幣制を強く浸透させる時に、質の悪い新貨を流通させる上で藩札が邪魔だった、というのが真の理由であるように思える。
 後述するが、本来兌換通貨であるはずの藩札は、実際には発行高に相当する銀貨や金貨はほとんど準備されていなかった。その為、多くの藩ではこの回収に際して大混乱になったようである。
 しかし、その後享保15(1730)年に、幕府は再度札遣いを解禁する。これは、宝永4年以前に既に藩札を発行していた所に限定して、20万石以上の藩は25年、それ以下の藩は15年の期間限定で藩札の発行を承認し、以後は勘定奉行に継続願いを出すものとされた。これによって、藩札はようやく幕府の体制下の制度として組み入れられることになる。もっとも、実際にはこの時に初めて申請して藩札発行を認められる藩もあるなど、実態はやや甘いものであったようだ。
 この解禁が何故行われたかは法令上には何の根拠も記されていないが、正徳・享保の改革の過程で、従来元禄期に粗悪な改鋳が行われた貨幣の品位が元に戻されたことが背景にあるようだ。元禄期の激しいインフレから一転して経済はデフレ状態に陥っており、この結果米価が低落し、各藩の財政は困窮しており、大名への救済策としてこの解禁も行われたと考えられる。
 こうして解禁された結果、以前から藩札を出していた藩のほとんどは発行を再開し、また更に多くの藩が新しく藩札を発行し始める。その後幕府は、宝暦9(1759)年には新規の藩札発行を禁止し、更に安永3(1774)年にはいったん藩札が中絶した藩の再発行を禁じる、更には天保7年に以上の禁令を再確認するなどの取り締まりを行うが、これらの禁令にも関わらず藩札の発行は続いていた。金銀札が禁止されると米札・傘札その他の名称を変えて発行するなど、藩札は減少するどころかますます多くの藩で発行されるようになっていたのである。(なお、米札は寛政10年に禁令が出ていた)
 なお、藩札と似たようなものとして、旗本も自己の領内において通用する旗本札を発行しているが、これについては規模が小さいのみでほとんど藩札と同様のものであり、また研究もあまり行われていないため、特に詳述することはせず、藩札と同様のものとして存在したことを簡単に触れておくに留めておこう。
 以上で歴史的な経緯を終えることにして、次に藩札発行の形態及びその意味について考えてみたい。

◎前期の藩札の発行状況

 そもそも藩札は、何故発行されることになったのだろうか。その原因としては、大きく2つのことが考えられる。
 その一つは、藩内における貨幣流通量の絶対的な不足である。この当時の貨幣の鋳造能力はさほど高くなかったため、藩内では往々にして貨幣量が不足し、経済的に不便を引き起こしていた。それを解決するために、藩札が発行されて流通量を増やしていたとみられる例が見られる。また、藩の経済自体の困窮を救済するのも、藩札発行の一つの大きな目的となっていた。そして、藩札の発行によって、領内の消費膨張に対応すると共に、正貨を藩の元に集め藩主の経済力は増されることになった。更に、近隣の藩が藩札を導入したために、自領の貨幣が他藩に吸収されることを回避するために藩札を導入したと見られるケースもある。もちろんこれらは完全に分かれるわけではなく、複合的に色々な理由が関わっているのは言うまでもない。
 宝永の禁令以前の早期の藩札は、前述の通り藩当局が直接行っている例が多かった。藩の手によって藩札会所が設けられ、そこで藩札の発行及び正金の管理を行う、というのが大同小異はあるが一般的な藩札発行のありかたと言えそうである。
 また、藩札の発行においては通用規則が領内に公布されることが原則だった。そこでは、正貨との両替規定こそあるものの、領外取引や藩札の最小額面以下の銭貨の使用をのぞいては領内において正貨の使用を禁止して藩札を強制通用させるものが多かった。しかし、これらの藩札は兌換紙幣とされていたが、実際には藩札の発行高分の金銀は準備されていないことがほとんどであり、実質的には不換紙幣と化していたと考えられる。そのため、藩札の発行をした結果、藩札の価値が低落して激しいインフレを起こしたり、あるいは領外との取引が不便になったので領内の経済が停滞してしまう、などの財政悪化を起こす例も少なくなかった。例えば尾張藩では寛文6(1666)年に藩札を発行したが、その2年後には失敗して藩札を回収する羽目になっており、しかも幕府に届け出を行っていなかったため回収資金を幕府に拝借することもできずに苦汁をなめることになっている。
 なお、この時代はまだ幕府側には藩札に関する体系的な規定は作られていなかった。最初に藩札を発行した福井藩は幕府の許可を得ているが、その後の各藩の藩札発行においては幕府に届け出ずに無許可で行っている事例が多い。
 さて、このような不換紙幣となっている状況が一気に問題となったのは、宝永4年の札遣い禁止令の時であった。例えば徳島藩では、回収資金が足りないために大阪商人阿波屋太郎助に金策を依頼し、さらにその借金が焦げ付いて藩屋敷で取り付け騒ぎが発生、最終的には阿波屋が私財を売り払って返済した、という記録が残っている。また広島藩では、藩札停止令により経済が混乱し、一説には物価が89倍にもなったともいう急激なインフレを引き起こした。結局正貨への引き替えは10%程度しか出来ず、不足分は預かり証を渡して後日引き替えることになった。ちなみにこの兌換は結局無期延期となり、のちの藩札復活の際に新しい藩札に交換された。

◎後期の藩札

 一度幕府の禁令によって中断した藩札は、享保の禁令解除により再び復活する。この時に、以前発行していた藩のほとんどは発行を再開するとともに、多くの藩が新しく藩札の発行を始めることになる。
 この頃から、藩札の発行過程に変化が現れてくる。藩札の発行目的としては従前とほとんど変わりはないが、藩の財政を潤わせる目的が強くなってくる。そしてそれに伴って、藩当局が発行の主体となるのではなく、領内もしくは領外の富農や富商に藩札の発行を委託する、いわば私札型藩札と呼べる発行形態が徐々に増えてくる。この背景には、前期から問題になっていた藩の兌換準備金不足が挙げられる。この変化はこの時期に特有というわけではなく、江戸時代を通して徐々に起こってくる変化ではあるが、一つの切れ目として押さえておいても良いだろう。
 またこの頃から、藩札を貸し付ける手法が見られるようになる。これは、銀札を貸し付けるときには、期間を定めた上で正銀と引き替えに数%のプレミアを付けて貸し出され、その代わり毎月利息を正銀をもって上納させる、という制度である。これを商人資本により行わせることで、藩は兌換の責任を貸し付け先の札元に負わせる一方で、利息収入をそこから得られることになる。また、江戸時代後期には、任意で貸し付けるだけでなく、領民に対して強制的に貸し付け、利子を得るとともに村々に兌換準備金の積み立てを共用する、などのことも行われていた。

 ではここで、具体的な例に則してここまでの話題を見ることにする。

◎尼崎藩での藩札の発行

 尼崎藩の藩札は、前述の通り寛永14年(1637)年のものと目される版木が存在してはいるが、これが藩札の発行かどうかは分からない。しかし少なくとも、貞享元(1684)年以前には藩札は発行されている。
 この最初の藩札は、西宮銀札引替所を通じて発行された銀1匁札だった。この藩札が実際に民間で流通していたことは、元禄10年ごろの奉加帳の記述に、銀や銭より多い形で札による奉加が行われていたことが記録されていたことからも分かる。
 その後、一度は宝永の禁令により藩札の発行は止まるが、享保の解禁令によって再度藩札の発行は再開される。この頃には既に、貨幣不足を補うものとして町中だけでなく農村部にまで藩札は浸透しており、藩は本格的な藩札発行を考えるようになる。

 寛保3(1743)年、尼崎藩は藩札の通用規則を設ける。この規則の中で、藩札の最低価額である100文以上の取引は藩札のみで行われること、藩当局から銀札を借用する場合には、正銀を持参して銀札と交換すること、その時の引き替え割合は正銀100匁につき銀札101匁5分、あるいは銀札101匁8分につき正銀100匁とすること、また銀札の利子は月利0.7%とし、この利子は正貨で 支払われること、また町方や村方で銀札の借用を希望するものは正銀に相当する質物を入れて借用できること、などが定められた。特に最後の制度により、貨幣不足の状況が打破されることになり、尼崎藩では領主・領民共にその経済的危機からようやく逃れられることになった。
 こうした不動産金融的な要素を盛り込んだ規則とともに同年に発行された銀札はその名も「御救銀札」と付けられ、以後藩内での藩札の使用は一気に加速することになる。(ただし、藩札の強制使用は上手くいかず、結局のちには藩札と正貨の両方の流通を藩が認めることになった。)
 この規則により銀札を借用して札元となるのは、無利子で豊富な資本の貸付を受けられることを意味しているので、札元希望者は多く、中には札元の経済的不安から札遣いを中止して回収する羽目になる事態も存在した。これは藩が頑張って何とか乗り切ったが、その後もっと重大な事態が発生する。
 明和6(1769)年、尼崎藩の領地編成替えにより、西宮・兵庫津が収公されてしまい、尼崎藩は今まで経済力を維持してきたその根元を大きくこそぎ取られることになった。これにより通貨不安が発生し、藩は札元制度の再編に乗り出す。それは商人資本を札元として統一的な新しい銀札制度を導入すると共に、従来庄屋層の札元によって出されていた旧銀札を回収しようというものだった。これによって、最終的に安永6(1777)年をもって、全ての旧札元発行の札は通用停止とされてしまった。

 新銀札では、少数の札元による藩の統一的な藩札発行が目指され、札元の整理が何度も行われている。しかし、このころから尼崎藩は財政窮乏状態に陥り、さらには江戸藩邸が類焼するなどの事件によって急激に財政状態が悪化、銀札は乱発状態とならざるを得ない状況になっていた。これによって、天保のはじめには銀札の流通は停滞してしまう。
 これらの結果、農民側が冥加金を集めて領主に献上するという運動が起こり始めた。本来は領主側が農民の生活維持に細心していたはずが、逆に領主側が農民に助けられているというこの事態は、農民経済の成長と領主経済の停滞を物語っているように思える。

その後、尼崎藩は何度も改革を試み、辛うじて藩札の発行は続けられる。明治以後の藩札回収の際の尼崎藩札の評価額は、全国平均程度の水準は保っており決して悪いわけではない。しかし、藩権力の後退に伴って、尼崎藩内では従来の藩札に代わり私札として商人が特定の範囲内に流通させていた「両替手形」が幅をきかせるようになり、これが正貨や藩札と並んで流通していた。これには京阪神に近く、尼崎藩が領国経済の独自性を必ずしも保ち得なかったのも一因と考えられるが、最初は領国内での経済体制だったものが、徐々に領域を越えた経済圏を形成するようになっていた現われとも言えそうである。
ともかくも、尼崎藩の藩札についての考察はこれで終わっておこう。

◎藩札の消滅

 明治維新後も、藩札は残存することになる。それどころか、明治になってから藩札の発行量は一層大きくなり、従来はあまり発行されていなかった東日本の諸藩や、旧天領が改組された県においても発行されることになる。
 しかし明治元(1868)年5月に銀目廃止令が出て全国の銀立ての藩札が銭札に改造されたのに引き続き、明治2年(1869)年10月には全国諸藩の藩札が新政府によって調査され、同年12月には藩札の新規発行が禁止される。そして、明治4(1871)年7月、廃藩置県と同時に藩札廃止令が発され、この日の時点の各地の藩札の実勢相場をもって新貨幣に引き換える旨が全国に告知された。
 しかし実際には、藩札の流通高は当時の価格で4000万円近い額が存在しており(多少時期がずれるが、明治2年の調査によると日本の貨幣流通量全体の13%強が藩札である)、また少額貨幣があまりにも大量だったので藩札の一部は貨幣制度が整うまで残されたことなども手伝い、実際にこの回収が終了したのは明治12(1879)年6月末のことであった。



◎まとめ

 正直言って、この発表のテーマを決めた段階では、私は藩札というものをかなり軽視していました。日本史の時間に習った印象では、地方でせせこましく色々とやっている、との印象しか受けず、このテーマが面白いものになるかすら謎でした。しかし実際に調べてみると、次から次へと面白いネタが見つかり、当初の予定は吹っ飛んでしまう羽目になりました。しかし今回は(「も」かも……)正直言って荒っぽいものになってしまいました。本当はもう少し江戸時代の信用通貨について全体的に述べてみたかったんですが、力不足と時間不足と私のサボりとで結局こういう感じになってしまったようです。申し訳ないです。


◎参考資料

 本稿は、基本的には「日本史小百科」の論旨展開を基本的なベースとし(かなり丸写しに近い箇所もあります……)ながら、「日本貨幣金融史の研究」を中心とした数冊の所論を随所で参照しています。「藩札」以下の数冊は主として資料参照のために用いており、論旨の中ではあまり使用していません。


「日本史小百科・貨幣」(瀧沢武雄・西脇康編/東京堂出版、1999.1)
 (分かりやすくまとまっていて読みやすい。基本的な流れを押さえるには最適)
「日本貨幣金融史の研究」(作道洋太郎/未来社、1961.4)
 (藩札に限らず江戸の信用通貨の歴史に関して非常によくまとまっています。
  藩札を本格的に研究する上ではこの本がいちばん良い本かな? 
  今回の発表に必ずしも上手く組み込めなかったのがかなり残念です)
「日本通貨経済史の研究」(阿部謙二/紀伊国屋書店、1972.12)
(江戸から明治に掛けての通貨史。中央政府寄りで藩札に関しては一部の記述)
「日本の貨幣の歴史」(滝沢武雄/吉川弘文館、1996.3)
(通史的。藩札に関してはそんなに詳しくないですが)
「藩札(上・下)」(荒木豊三郎/〔印刷:いそべ印刷所〕、1958.6-9)
(どちらかと言えば資料的。各藩藩札のデータが豊富です)
「大日本貨幣史」(大蔵省編/内閣印刷局朝陽会、1925-6〔原著:大蔵省刊明治9〕)
(明治期の大蔵省の調査記録。データとしては荒木氏の本の方が便利かな?)
「国史大事典」(国史大辞典編集委員会編/吉川弘文堂)

 取り敢えず並べてはみたもののきっちり読み込めたのが何冊あったのか……。
 必要部分だけ抜き出して読んだ本がどれだけ多かったか。反省。


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