2003年1月10日
中国の銅鏡  田中愛子


<はじめに>
 今回は、中国における銅鏡の歴史について取り上げたいと思います。なるべく幅広い事柄をからめつつ述べるよう留意し、まともでかつ面白いものができるよう努力したつもりではありますが、果たして実際はそうなっているのやら、実に不安ではあります。

<銅鏡の誕生>
 現在までに発見された東洋の金属鏡で最古のものは、B.C.2000年頃甘粛省・青海省に分布していた斉家文化期の銅鏡である。
 殷代の遺構からも、幾何学文の銅鏡が発見されている。西周初期には、小ぶりで文様のまったくない銅鏡が主となるが、中期には再び殷代と同様の幾何学文が見られるようになる。周は、いったんは殷を制圧し、それにとって代わったものの、生活様式・制度・文化などは、殷のものに近づいてゆく。その傾向が、鏡にも表れたものと思われる。

<春秋戦国期>
 春秋戦国期の銅鏡の文様は、細かな地文の上に大ぶりの主文を重ねるという様式をとる。その題材は多彩・豊富である。そのうちで最も代表的なものは、龍などの伝説上の動物である。それらは、中国の精神世界の原初的基盤の一部分を反映したものであり、特に龍は、この後も一貫して銅鏡の文様の題材であり続ける。
 文様表現の技法も、非常に発達しており、多様である。浮き彫り・透かし彫りや金銀の象嵌で文様をつくりだしたもののほか、ガラスや玉を嵌め込んだもの、陶器に着彩して文様をつけたものなどがある。
 なお、戦国時代末期には、「鏡」の文字が、それまで用いられていた「鑑」という文字に代わって、文献に登場する。

<秦漢代>
 漢代に突入すると、農業生産の拡大・経済の安定を背景に、手工業生産が発達した。金属器の鋳造技術も向上し、漢代には多くの青銅製日用品が次第に土器・陶器や漆器にとって代わられたが、その一方、銅鏡は著しい発展を遂げた。
 秦代から漢代にかけては、春秋戦国期のように文様表現技法に技巧を凝らしたものはなくなる。文様の面では、主文が複雑化する一方、地文が消滅してゆく。漢代前期以降は、地文のない、単層の文様配置が用いられるようになる。また、文様が同心円状に配置される傾向が強くなる。
 こうした文様の配置・題材等の様式から、その銅鏡の制作年代を割り出すことができる。また、銅鏡は、多く墓葬の副葬品として出土するが、その墓葬の年代から銅鏡の年代を特定したり、逆に銅鏡の年代から墓の年代を特定したりすることが可能である。
 前漢代に盛行した文様は、銘文である。前漢中期の銘文は、主に、富貴享楽を追求したものや、相思の情を詠ったものである。前者の例には、「常楽貴富」「長楽未央」などがある。こうした銘文には、当時の世俗の富貴享楽への願望が反映されている。
 前漢末から新代にかけて、新しい文様形式の創出が活発化する、文様の写実性・現実性が高まる、などの変化があった。
 この時期に出現した文様のうち、もっとも代表的なものは、四神文である。四神とは、東西南北四方を象徴する青龍・朱雀・白虎・玄武のことである。これに、天を象徴する二十八宿の星座を円形に配した文様や、地を象徴する十二支名を方形の枠内に記したものをあわせることもある。これらの文様には、当時の中国の世界観がよく表れている。
 このころの銅鏡の銘文には、高位厚禄・子孫繁栄・不老長寿などの願望を記したものや吉祥句などがみられるほか、鏡の品質を賞賛するものや、製作地や製作者名等、銅鏡製作に関する事項について記したものもある。そうした銘文には、その内容から、銅鏡製作の中心地や当時の銅の産地、政府機構のうち銅鏡製作を行っていた部署などが読み取れるものもある。
 後漢代には、西王母など神仙世界や歴史的人物などを題材とした画像鏡が盛行する。この時代の銅鏡装飾は、後漢中期頃に半立体的な浮き彫り技法が開発されるなど、写実性や躍動感がさらに強まる傾向にある。
 後漢代、最も盛行した題材は、西王母・東王公等の神仙、瑞獣など、伝説や神仙世界にまつわるものであった。こうした画像鏡の盛行の背景には、神仙思想の流行があった。西王母や東王公、黄帝らにまつわる神話・伝説は、当時民間に広く流布し、親しまれていたものであり、彼ら、そこに現れる神仙たちは、道家系統の神仙思想の尊崇対象であった。それらを配した画像は、当時の人々の強く希求した神仙の世界を描きだしたものであった。
 画像鏡には、歴史上の人物の故事や当時の風俗が描かれることもある。たとえば、当時好まれていた故事である伍子胥の自刎が、画像鏡の題材として用いられている。
 こうした画像鏡から、当時の風俗の一部を窺い知ることができる。当時の風俗を描いたものだけでなく、神仙を描いたものや歴史を描いたものにも、画像には、ある程度当時の現実の生活が反映されている。そのため画像鏡は、当時を知る貴重な史料ともなるのである。
 後漢代にも、銘文を主文とする様式は盛行している。その内容は、昇官・蓄財・家常・不老長寿といった、世俗的・現世的な願望や、神仙世界への憧憬・希求が多い。たとえば、「位至三公」「貴富大楽」「宜官秩保子孫」「延年益寿」「受長命寿萬年」といった銘文がある。こうした欲求を満たしてくれることを期待されたものこそ、当時流行していた、神仙思想であったのだろう。
 また、前漢代に引き続き、製作年次、製作者の姓、製作地を記した銘文や銅鏡を賞賛する内容の銘文も盛行している。
 こうした、両漢代の、銅鏡製作にまつわる事柄を記した銘文からは、当時の銅鏡製作環境についてのさまざまな情報を読み取ることができる。それによって、漢代には「尚方」という、皇帝用の物品を生産する役所が銅鏡製作を行っており、官営・私営ともに鋳鏡業が発展し、銅鏡が次第に一般的な商品となっていたこと、会稽郡山陰(現在の浙江省紹興)や江夏郡(現在の湖北省)、広漢郡(現在の四川省広漢)が、後漢代の鋳鏡業の中心地であったことなどがわかる。
 前漢中期以降全国の銅鏡に見られていた画一性が、後漢代には薄れている。後漢代の銅鏡には、各生産地の特色が現れており、文様等に地域性が生じている。南方は、北方とは違う様式の鏡が盛行している。南方を中心に盛行した神獣鏡や画像鏡がそれである。

<魏晋南北朝期>
 後漢末の割拠状態から隋の統一まで、中国は動乱の時代が続く。戦争が相次ぎ、各地が分裂・割拠する中、生産力は低下し、それとともに銅鏡の鋳造も衰退した。南方は前代からの発展の勢いを比較的維持しており、手工業の一部門としての鋳鏡業も盛んであった。しかし、全体的に見てこの時期は中国銅鏡の停滞期である。
 この時代、銅鏡の生産量は少なく、品質も粗雑なものであった。新たに文様の意匠が創出されることが少なくなり、ほとんどが漢代までの様式を踏襲したものであった。また、文様の種類も乏しかった。魏晋南北朝期の銅鏡が、規格化・定型化され、創造性・多様性を欠いていた結果、前代からの銅鏡のつくりや文様が、隋唐代にいたるまで、長期間にわたって維持されることとなった。
 魏晋南北朝期の銅鏡生産の特徴として、地域色、ことに、南北の地域色が強くあらわれていることがあげられる。当時の中国の分裂・割拠状態の結果であろう。
 この時代、もっとも広く流布し、盛行した様式に、「神獣鏡」と呼ばれるものがある。これは、瑞獣を配した文様で、後漢の中ごろに出現、三国・西晋時代に流行し、時代の経過とともに、写実性を増すなど徐々に変化しつつ、南北朝までつづいた。神獣鏡の盛行の背景には、当時の神仙思想の流行がある。
 また、三国時代頃から、仏や、仏を模倣した神仙の図像が描かれるようになった。後漢代に仏教が中国に伝来し、以来、黄老信仰などの神仙思想と混交しつつ流布していたことを反映している。
 三国時代以降も、長江中・下流域の鋳鏡業は引きつづき発展した。会稽郡山陰は後漢中期以降、鋳鏡の中心地であり、呉代に最盛期を迎えた。三国時代、中国でもっとも重要な銅鋳造地区となっていた山陰は、北方にもその製品を輸出していた。これは、山陰産であることを記した銘文を持つ銅鏡が北方からも出土していることなどからわかる。この時代についても、銅鏡の製作地や製作者名を記した銘文は、鋳鏡業の情況を知る上での重要な史料となっているのである。

<隋唐代>
 589年、隋は陳を滅ぼし、中国の分裂期に終止符を打った。続いて興った唐は全国を統一し、そのもとで政治・経済、文化は繁栄を遂げた。経済・社会の安定を背景に、手工業が発達、なかでも鋳造業の発達は著しかった。また、活発な東西交流の結果、国際色豊かな文化が花開き、長安・洛陽を中心に華麗な宮廷文化や仏教美術が栄えるなど、文化面でも大いに隆盛を誇っていた。
 後漢中期以降、銅鏡に南北の地域性が見られるようになっていたが、唐代には再び統一に向かうようになる。各地から出土する銅鏡は、文様や鋳造技術などの点で、多くの共通性が認められるようになる。
 このような特徴は、当時、鋳鏡の中心地が存在し、そこで集中的に銅鏡が生産されていた可能性を示している。
 その最大のものは、おそらく楊州であろう。『新唐書』地理志には、朝廷に鏡を献上する地域が二箇所記載されている。并州と楊州である。しかし并州に関する資料は少なく、楊州銅鏡については豊富である。また、楊州では、盛唐の長安・洛陽の両地区で流行した鏡の形式のうち、ほぼ全種類が発見されている。
 楊州は銅鏡の重要な市場でもあった。楊州は経済の拠点として発展しており、銅鏡を売買する市場も活発であった。楊州で生産された銅鏡は、楊州の市場で取り引きされ、運河を伝って各地へと運ばれた。
 隋代から唐代にかけて、前代の銅鏡の様式や規範が徐々に打ち破られてゆく。
 唐代の銅鏡の文様配置は、これまでの同心円状のものばかりでなく、鏡背面いっぱいに大きな図像を配する形式のものも多くなる。
 文様の題材・形態にも変化が見られ、より動的で活発、開放的なものが用いられるようになる。当時の東西交流や仏教美術の影響を受け、新たな文様が多くとりいれられた。これらは、唐の社会・文化の隆盛を反映し、非常に華麗である。唐代の銅鏡の最大の特徴の一つは、様式・文様や手法が非常に多彩かつ華麗であることである。それらには、前代のような、あらわな世俗的欲求や、神仙世界の希求はみられなくなっている。
 隋から初唐にかけては、まだ前代までの様式の名残があるものの、写実的な動物文や銅代に非常に盛行する葡萄文が取り入れられるなど、唐代の鏡の特徴が現れはじめる。
 初唐から盛唐にかけて、仏教美術の興隆や対外交流の活発化を反映し、仏教的な文様や、西方からの影響の強く現れた文様が流行する。
 唐代は非常に国際的な時代であった。当時、内外の往来はきわめて活発であり、交通網も発達した。首都長安は国際都市となり、国外からの訪問者が集まった。さまざまな地域の文化が伝わり、当時の中国の文化に大きな影響を与えた。唐代の銅鏡の文様の意匠には、中央アジアや西アジアなどの外来文化との接触の影響が認められるものが多い。国外の文化から影響をうける一方、無論のことながら、中国文化が国外に影響を与えてもいる。多種多様な文物が唐から輸出されていったが、銅鏡も多数国外へと輸出されていた。日本、朝鮮半島、モンゴル、ロシア、イランなどで唐代の銅鏡が発見されている。
 こうして、政治経済・文化の繁栄、東西交流の活発化を背景に、唐代の銅鏡は隆盛を極め、玄宗の開元・天宝期、唐代の銅鏡は最盛期をむかえる。
 初唐から盛唐にかけて最も盛行した銅鏡の様式に、「瑞獣葡萄鏡」と呼ばれるものがある。これは、海馬葡萄鏡とも呼ばれ、葡萄文と禽獣を配したものである。その起源や意味についてはさまざまな説があり、張騫の西域行に起源を求める説、前代からあった瑞獣文に、当時流行していた葡萄文様を添えたものであるという説、仏の守護神を表したものであるという説、ペルシャ方面から渡来した図案である、あるいはそれが瑞獣文様など在来の文様に影響した結果生まれたものであるという説、さらに、ギリシア・ローマに起源を有するとする説などがある。
 唐代後期、再び中国は混乱期に突入し、銅鏡は急速に衰退する。鋳造技術は低下し、品質は粗末なものになってゆく。
 この時代、宗教的意味を含んだ文様が盛行する。たとえば、仏教において「吉祥万徳があつまる」という意味をもつとされる卍や、道教的な星象、八卦などである。
 唐代の銅鏡は、文様だけでなく、形もまた多彩である。円形のものだけでなく、方形、稜形、花形などの形の鏡が出現した。内容と形が結び付けられ、文様にふさわしい形が選ばれるようになる。
 唐代の銅鏡は、鋳造技術にも多くの革新があった。また、螺鈿、七宝を用いる、金銀箔を漆で貼りつける、金銀で文様を刻みだすなど、装飾技法にも新たなものが現れた。こうした技法を用いたものは、宝飾鏡と呼ばれる。

<宋代から清代>
 唐の滅亡後、中国は再び分裂期に突入し、宋の統一の後も複雑な王朝の変遷をとげている。唐代の銅鏡に見られた強い共通性は消え、地域的・時代的にも民族的にもそれぞれに特有の様式をもつようになる。
 宋初期の銅鏡は、実用中心で文様もやや粗雑である。北宋代に製鏡技術が回復し、再び精緻な文様の鏡が生産されるが、南宋代には再び衰退する。鋳造の技術が衰退した結果、青銅の面に水銀を塗って、かろうじて実用可能なものを生産するというまでに至った。
 宋代からは、古い銅鏡の「踏み返し」が流行している。「踏み返し」とは、出来合いの鏡を土に押しつけて鋳型を製作する技法である。この技法を用い、古い銅鏡を元に量産した銅鏡も多数見うけられるようになっている。
 鏡形の多様化は、宋代の銅鏡の重要な特徴の一つである。唐代までの銅鏡は、円形がほとんどで、ごく少数の方形がある程度であった。唐代には、稜形・花形といった鏡形のものが現れていた。これが、宋代に入ると、さらに多種多様な鏡形が現れるようになる。また、これまでの中国の銅鏡はすべて、柄がなく、台座にすえつける、鏡背面中央の鈕と呼ばれる部分に紐を通し、何かに掛ける、あるいは直接手で支えるといった形で使用されていたのだが、柄のある鏡も、宋代に登場している。
 鏡形が多様化する一方、文様は、多彩さを失っている。採用される題材が減少し、偏ることも、宋代の銅鏡の特徴の一つである。
 北宋末以降、特に南宋において、鋳鏡した場所・人名のみを記したほかはまるきり無地の鏡が盛行した。これ以降、こうした、製作関係の銘文を記したのみの鏡が多くなる。中国の銅鏡は、実用性が重視され、文様は尊ばれなくなる段階に入ったのである。
 金代には、故事や魚などを題材とする文様が好まれた。
 金代の銅鏡の特色のひとつに、政府機関の許可を得て鋳造したことを証明する印が刻まれていることがある。金代には、銅の不足が深刻な問題となっていた。そこで、民間で銅製品を鋳造することが厳しく規制されていたのである。
 元代の手工業は金銀器中心であり、銅鏡の出土数はあまり多くない。出土した銅鏡も、文様が次第に粗雑化、簡略化している。
 明清代にも銅鏡は引き続き日常生活品として用いられたが、工芸美術の面からいえば日増しに衰退してゆき、ついには18世紀頃、実用的なガラス鏡にとって代わられた。

<鏡の位置づけ・とらえ方>
 『詩経』には、「殷鑑不遠」とある。ここでは「鑑」という語は、歴史の教訓という意味で用いられている。鑑とは、自らの姿を見ること、あるいはそのための水盤、すなわち鏡のことである。鏡が、現在を省みる材料となる歴史を表す語として用いられているわけだが、これは、鏡によって自らを省みるという行為がより哲学的にとらえられたためである。ほかにも、鏡の、自らを省みる道具であるという性質に注目し、鏡を比喩として用いた訓戒は、多く見られる。
 火と水という、二つの相反する根源的な要素の結合に鏡の持つ力の源がある、という考え方があった。鏡の本質を、陰陽二元を兼ねそなえるものとして、陰陽五行的な世界観によって捉えようとする観念である。この、火と水の結合とは、鋳造・焼き入れという鏡の製作工程にその起源があるとされる。
 鏡の、ありのままの姿を映すという性質から、鏡には、物事の真実を映し出す能力があるとされた。そこから、鏡には破邪の力があるとする発想が生まれた。始皇帝が邪心のあるものを鏡によって見破っていたという話があるほか、人問の姿をとって現れた動物や妖怪変化の正体を、鏡によって見破ったという話が、『抱朴子』など、道教系統の書物や、六朝期の志怪小説などに見られる。
 ものを映しだすという性質から、鏡には、破邪に限らず、さまざまな神秘的・霊的能力を有すると考えられた。そのため、鏡は、さまざまな呪術的能力を求められ、呪術に用いられた。たとえば、漢代には、鏡は魂を遺体にかえすものとして、多く墓に副葬された。これも、鏡の呪術的用法の一種である。とくに魏晋南北朝期、鏡の呪術的な能力が強調されるとともに、それが神仙思想・道教信仰と結びつきあうようになった。
 諸子百家の中でも、とくに道家は、鏡に神秘的意味を見出していた。鏡の、ものをあるがままに映す性質故に、鏡を、常にありのままに逆らうことのないあり方、すなわち「無為自然」の象徴と考えたのである。こうした鏡に対する意味づけは深化されてゆく。たとえば、自他の同一化という神秘的体験を「玄鑑」という語で呼んでいる。
 後漢時代に盛行した識緯思想では、徳をそなえた天子が、天下を安定させ、善政をしけば、神秘的な能力を持った宝鏡が現れ、逆に暴君が現れると、その鏡が消えるとされた。鏡が、政治における「天命」を表すものと考えられていたのである。
 道家以来の観念をうけて、道教経典の中で鏡の語が比喩的に用いられている。また、鏡は魔よけの道具や修行の道具としても用いられた。『抱朴子』には、鏡を前にして思念をこらし、鏡の中に神仙たちの姿を出現させるという修行方法についての記述がある。

<おわりに>
 本当は、製法や日本とのかかわりなど、もう少しいろいろなネタがあったのですが、時間の都合で割愛となってしまいました。やや残念です。もし改訂版を出す機会があれば、そのときはここで使えなかったネタをもう少し入れたいものです。


参考文献
・梅原末治『歐米に於ける支那古鏡』刀江書院、1931年。
・梅原末治『漢以前の古鏡の研究』同朋舎出版、1984年。
・梅原末治『漢三國六朝紀年鏡圖説』同朋舎出版、1984年。
・小澤正人『世界の考古学F 中国の考古学』同成社、1999年。
・川村宗嗣『中国古鏡図説』東北出版企画、1978年。
・孔祥星・劉一曼著、高倉洋彰・田崎博之・渡辺芳郎訳
『図説 中国古代銅鏡史』中国書店、1991年。
・駒井和愛『中国考古学論叢』開明堂、1974年。
・駒井和愛『中国古鏡の研究』岩波書店、1953年。
・馬承源監『上海博物館 中国・美の名宝@』
日本放送協会・上海人民美術出版社、1991年。
・樋口隆康『中国の銅器』中央公論美術出版、1967年。
・『世界大百科事典』平凡社、1988年。


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