2003年1月17日
北畠親房  NF


(1)はじめに
 京都で高師直らが専権を振るい、栄華に酔いしれていた頃、遥か遠くで密かに宮方の勢力回復に腐心していた男がいた。それが北畠親房である。
(2)後醍醐即位前の官歴
 北畠氏は村上源氏で、鎌倉時代初期に頼朝と駆け引きを繰り広げた源通方の末裔である。その孫雅家が京都北畠に居を構えたことが北畠の姓の始まりである。正二位権大納言が極官の中流公家の家柄であった。親房は雅家の孫・正二位権大納言師重を父とし、入道左少将隆重の娘を母として永仁六年(1293)正月に生まれた。その年6月には従五位下に叙任されている。正安二年(1300)には後伏見朝の下で元服して従四位上となり兵部権大輔に任じられた。乾元二年(1303)には後二条天皇により正四位下右中将となる。嘉元三年(1305)の権左少弁を経て翌徳治元年(1306)に左少弁、翌年に家督を継ぎ弾正少弼となった。この年、冷泉頼俊が弁の官歴なく大蔵卿から右大弁に昇進するという異例の人事に異議を唱えて左少弁を辞任している。翌延慶元年(1308)の従三位を経て同三年には正三位参議に任官。さらに翌年には左中将、備前権守、左近衛督兼検非違使別当、権中納言に昇進した。次の年には左近衛督と検非違使別当の職を辞し従二位となる。正和二年(1313)には石清水臨時祭において庭座公卿権中納言に任じられる。同四年には父師重が没して喪に服するため権中納言を辞官し、翌年に正二位に昇進。持明院・大覚寺両統の迭立の中でも、伝統貴族として、それに流されず順調に出世していたことがわかる。こうした状況下で後醍醐天皇の即位を迎えたのである。
(3)第一次後醍醐親政の下で
 後醍醐天皇が即位して間もない文保二年(1318)、親房は権中納言に還任、世良親王の養育を依託された。世良は英邁で父後醍醐が将来の帝にと考えていたといわれ、親房への信任の厚さが窺える。元応元年(1319)には中納言、そして翌年には按察使、さらに源氏のトップを意味する淳和院別当となっている。元享二年(1322)には長子顕家が従五位上となる。この年、親房は後醍醐により洛中支配を司る使庁別当に任じられている。前任者・中御門経宣が特に不手際が無いにもかかわらず辞任させられたという事実は、後醍醐の洛中支配への並ならぬ意欲と親房への信頼を表して余りあろう。親房が吉田定房・万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれる所以である。この職にあった数ヶ月の間、酒鑪役賦課にあたっての神火との違反を調べている。後醍醐は商業を把握する事で専制的政権を確立しようとしており親房もその一環を担ったものであろう。しかしやがてこの役目は日野資朝によって交替される。朝廷は急速に倒幕へ向けて傾斜し始めるのである。旧来秩序を重んじる親房は身分低い家柄の物が重用されるのを快く思わず、彼等の唱える倒幕に対しては冷淡な態度を取ったと考えられる。翌年、親房は権大納言に昇進、更に二年後には北畠氏の極官を超えて大納言となっている。同じ年、世良親王が元服加冠した。正中の変が起こったのもこの年である。翌年正中二年(1325)まとめられた続後拾遺集に二首入首。因みに、親房の歌風は二条派流で、続千載集にも二首載せられている。嘉歴二年(1327)、世良が踏歌節会に参加、親房も法勝寺上卿となる。しかし、元徳二年(1330)、世良親王が死去、後見人であった親房は出家して法名を宗玄とし、政治の表舞台から身を引いた。再び歴史に親房が登場するには建武の新政を待たねばならない。
(4)建武政権で
 鎌倉幕府が倒れ、後醍醐が再び入京すると同時に親房も再度召し出され、従一位・准大臣の待遇を与えられた。この年十月、長男顕家が義良親王(後の後村上)と共に陸奥多賀城に向かうこととなり、親房も同行した。顕家はこの時まだ十代の少年であったため、親房が実際の指揮においてかなりの部分を請負ったと考えられる。顕家は元弘元年(1331)に十四歳で左中弁から参議に昇進し「幼年人、参議に任ずる例」(「師守記」)といわれた。この際、「陵王の入綾」を舞い「花陵王」と呼ばれた。美少年とする伝承はここから生まれたという。さて、陸奥において、八人による式評定衆を頂点に、三番制の引付、その下に政所執事・評定奉行・安堵奉行・侍所を置いた。他、行政・警察を司る郡奉行、特設軍事警察の郡検断が存在した。式評定衆の顔ぶれは、冷泉家房・藤原英房といった公家、結城宗広・伊達行朝など現地豪族、二階堂行朝・同顕行など鎌倉以来の法曹吏僚であった。こういった寄合所帯がこの陸奥将軍府の特徴であった。命令は陸奥院宣のほか、陸奥守袖判下文で出され、所領安堵は郡内郷村の裁断に任されていた。すなわち、幕府の小型ともいえる統治組織なのである。奥州は「日本半国」といわれ、蝦夷対策が政権にとって死活問題であった。それだけに建武政権としても奥州を重大視していたのだ。また、関東の足利勢力に対抗するためでもあった。しかし一方で足利尊氏が鎮守府将軍、そして旧得宗領の陸奥外ヶ浜・糖部の惣地頭職となっていたので、足利勢力と微妙な関係にあった。やがて、北条氏残党・諏訪氏が高時の遺児時行を擁立して信濃で蜂起、鎌倉の足利直義は戦いに敗れ退去する際に家臣淵辺義博に命じて拘禁していた護良親王を殺させた。護良の母・民部卿三位は北畠師親の娘、すなわち護良と親房が従兄弟同士であるという説が唱えられてきたが、「神皇正統記」の護良殺害についての記述が冷淡で、後醍醐・顕家の死の時と対照的であることから、どうもそれは疑わしいという説もある。それはともあれ、知られているようにこの乱は足利尊氏によって鎮圧されたが、尊氏が現地に留まり無断で武士たちに論功行賞を行ったこともあって朝廷は尊氏を謀反人として討伐しようと考えた。「太平記」によると親房はこの時に三条公明と共に「罪の疑わしきを以て、功の誠あるを棄てられん事は、仁政に非ず」と後醍醐に諫言し、尊氏を弁護したという。しかし、実際には親房はこの時点では奥州にいたため、このエピソードは明らかな虚構である。周知の様に結局後醍醐は新田義貞を大将として尊氏討伐を行った。尊氏は義貞を箱根竹ノ下で破り入京したが、北畠顕家が西上して義貞・正成と協力して尊氏を破った。この時に親房は共に上洛している。そして顕家が奥州に帰った後、親房は次男顕信と共に伊勢国度会郡田丸城に入った。ここで親房は「逆本地垂迹説」で知られる伊勢神宮の度会家行の下、「類聚神祇本源」などの神書で神道への造詣を深める。
(5)親房東国へ
 延元二年(1337)、親房は記紀などによって日本の根源を歴史的に究明しようとした「元元集」全八巻を執筆している。早くも伊勢神道の思想的影響が強く現れている。この年、再入京した尊氏によって花山院に幽閉されていた後醍醐は脱出の後、度会家行の支援もあって吉野に入った。新田義貞は越前金ヶ崎に篭り、河内・和泉では楠木氏が戦力を糾合し、そして伊勢では親房が檜垣常昌・度会家行らと共に田丸城を中心にして水軍を掌握し、大湊から尾張宮崎にかけてを支配した。そして親房は顕家や結城宗広に書状を送り上洛を促している。これを受けて顕家は上洛を開始し、鎌倉を落として翌年に青野原を経て奈良に入ったが、高師直によって石津で戦死した。この知らせを聞いた親房は、
なげけとて老の身をこそ残しけめあるはかずかずあらずなる世に(新葉集)
(数々の人が多く先立っていく世の中に、一人嘆かせようとして天はこの老いたる親房を残したのであろうなあ。)
と詠んで嘆いた。「神皇正統記」にも「同(延元三年:筆者注)五月和泉国にてのたたかひに、時やいたらざりけん、忠功の道ここにきはまりはべりにき。苔の下にうずもれぬものとては、ただいたづらに名をのみとどめてし。心うき世もはべるかな。」とこの時のことを記している。しかしいつまでも嘆いているわけには行かなかった。次男の中将顕信を従三位陸奥大介鎮守府将軍とし、東国へ下向させて再び奥州の味方を糾合することが決まった。親房は顕信、結城宗広、義良親王、宗良親王とともに伊勢大湊から出航した。大湊は下総相馬・相模大庭・駿河鮎沢など東国に集まる伊勢御厨の年貢集積港として問丸・廻船業者が発達していた。それらの有力な支配者の一人である光明寺恵観は建武三年に親房から大勝金剛法の修法・祈祷を命じられるなど南朝と強い結びつきを持っていた。彼等の力によって親房達は手配・出発が可能となったのだ。途中で嵐に会い、宗広・義良は知多半島に、宗良親王は遠江に流れ着いた。宗広は間もなく病死し、義良は吉野へ戻り間もなく父後醍醐の後を受け後村上として即位する。一方親房は九月に常陸国信夫郡東条浦に上陸、「関宗祐着到状」によるとそこは南朝系荘園だったため地頭の東条氏らが馳せ参じたという。そしてまず神宮寺城に入る。神宮寺の外、小田、関、大宝、駒氏が宮方であったという。一方足利方として小野崎正通・二方左衛門尉・鹿島幹寛・宮崎幹顕・畑田時幹らがいた。さて親房は後に小田氏に守られて阿波崎城に移り、さらに霞ヶ浦を渡り10月に小田城に入城した。親房が関東に下るに当たって任された権限は検断奉行・任官・所領安堵・闕所処分などであったようで、親房は吉野から中級・下級貴族を呼び寄せて吏僚とし、奥州将軍府のような態勢を整えた。ここで親房は陸奥軍団結集・下向通路確保のため白河の結城親朝に出陣を要請するなど味方の結集に尽力することになる。
(6)「大日本ハ神国也」
 延元四年(1339)、親房は小田城である書物を根つめて書き始めていた。その書き出しは次の通りである。「大日本ハ神国也。天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ伝給フ。我国ノミ此事アリ。異朝ニハ其タグヒナシ。此故ニ神国ト云也。」その書名は、「神皇正統記」である。前述した度会家行らの伊勢神道の影響が顕著に見られる。日本史の教科書に必ず登場する有名な書物なので、ここではこの書物について少し述べたいと思う。神代から後村上即位までを記している。「或童蒙」に示すため書かれたと最初に記されているが、その「童蒙」が誰かをめぐって論争が為されてきた。幼年の後村上天皇のことだという説が長い間有力だったが、東国で味方につくよう長い間呼びかけていた白河の結城親朝ではないかという説もある。現在では、主に親朝をはじめとする関東の豪族達に南朝の正統性を訴え味方につくよう説得するため書かれたというのが最も有力だが論争の決着をみていない。あるいは味方の結束を固めるためのアジテーションとしての側面もあったかもしれない。さて「神皇正統記」は歴代天皇順に書き記されているが中でも神代・後醍醐の項目が多い。神代が多いのは天竺・中国と比べての神の国である日本が優位であることを示すためといわれる。そのためそこでは三国の歴史が併記されている。(何しろ神話なので日本の歴史が年代的に無茶苦茶なのは言うまでもないが。)後醍醐の項目が多いのは三種の神器を持つ後醍醐の朝廷こそ正統の日本の統治者であることを主張するためであろう。もっとも、天皇を最高統治者としているものの、親房の政治的理想というのは天子は君臨して直接統治せず、摂関家など有力公家が輔弼するというものであって、独裁者として支配しようとする後醍醐の思想とは異なる物であった。したがって、天皇は三種の神器の鏡・玉・剣がそれぞれ象徴する正直・慈悲・正義の徳目を体現する人物でなくてはならないというのである。「その人をえらびて官に任」じ「国郡を私にせず」「功あるをば必ず賞し罪あるをば必ず罰」することで民の生活を守るという考えは一応あるものの、公家中公家中心的な思想である。公家を「人」、建武の新政に貢献した武士を「者」、一般武士を「輩」と呼んでいる事でもそれはわかる。復古的な政治思想で、革新性に欠けていると言わざるを得ない。楠木氏などの革新性・商業性を持った武士との不和があったのもわかる気がする。それゆえ、武士の支配には当然否定的である。頼朝や泰時については「頼朝と云人もなく、泰時といふものなからましかば、日本国の人民いかがなりまし」とその功績を認め、承久の乱に関して「一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申べき」と後鳥羽院を批判しているものの、朝廷の統治に帰るべきという考えは揺るがない(但し朝廷を立てて筒所を守っている限り幕府容認の立場ともいえる)。それゆえ足利氏への非難は激烈なものである(足利氏を討つよう訴えかけるものであるから当然であるが)。「源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人にをごらば二神の御とがめありぬべし」と皇室・藤原氏にくらべて源氏を低く見ているのもその一つであろう。(尤も、親房自身村上源氏であるのでこれは自己卑下と見られないこともない。)また、実朝の鶴岡八幡参拝の記事で、足利義氏が「地下前駆二十人の中に相加」ったと記して、足利氏の家格の低さを指摘している。この乱世の中で、これだけの信念と論理を持って生きていたというのは驚くべきことかも知れぬ。「愚管抄」に見られた諦めを伴う下降史観ではなく、困難な現在はあるべき時代を築くために乗り越えられるべき物と考えたことが特筆すべき点であろう。しかしながら、その中に矛盾を抱えていたのである。例えば、北朝は神器が偽物であるので正統でないと主張している。にもかかわらず、かつて後鳥羽天皇が後白河法皇の決定で神器なしで即位したことについて、親房は法皇が「国の本主」であることを理由に認知しているのだ。これが論理を弱いものにしているのは否めない。また、公家が家の本来のランクを超えて出世するのを批判した。例えば、吉田定房が中納言の家柄にかかわらず大臣になったことを非難しているのだ。しかし、自身は権大納言の家柄であるに関らず准后となり、しかも出家の身に前例のない従一位を望んだりしている。無論、親房自身己の論理が矛盾を抱えている事は分かっていたであろう。しかし現地豪族達を強い調子で説き伏せ味方のアジテーションを行うには少々の無理は押しとおす必要があった。ただ結果として鋭い論理を持ちながら、変革性にかけ、固定概念に満ち溢れたものとなったのは否めない。こうした点が当代随一といえる教養人親房の限界となって行くのである。
(7)東国の親房
 さて、親房が「神皇正統記」を執筆している頃、東国では激戦が繰り広げられていた。延元四年(1339)、春日中将顕国が親房のいる小田城に入り、下野・陸奥への途上である中郡城や矢木国城・益子城・箕輪城・上三川城・飛山城を確保した。これにより、顕信は鹿島郡に下向。親房はこの頃常陸水戸吉田神社に吉田郷を寄進している。この年10月、高師冬が鶴岡八幡で戦勝祈願の後常陸を経て下野結城へ進出、更に鬼怒川を渡って中御門実寛の篭る駒館城を包囲。親房は関宗祐・春日顕国を援軍に派遣した。しかし五月、師冬の夜襲により落城。だが翌日に南朝方の反撃を受けて師冬は瓜連へと逃れた。興国二年(1341)6月に師冬は大掾高幹らを安堵、志筑城をも落とした。親房は同じ頃「二十一社記」を執筆し、阿蘇大宮司宇治惟時に贈り協力を求めている。関東にあっても全体的戦局が常に親房の脳裏に有ったと考えられよう。ところで後醍醐が延元四年に崩御して以来南朝が分裂、律僧浄光・多田入道宗貞や前太政大臣近衛経忠ら和平派が有力となり浄光が使者として下向し親房の地位を否定した。また経忠は関東の有力豪族である小山朝郷らと「藤氏一揆」(摂家である近衛家は当然藤原氏であり、小山氏も藤原秀郷の末裔とされる)を結び興良親王(護良の子)を迎えて独自の態勢を作ろうとしたという。こうした状況の下で親房が味方を纏められるはずもなく、この年11月、小田治久が降伏。親房はこれにより関城に移動、顕国は下妻政泰の大宝城に逃れた。この頃、親房は結城親朝にしばしば挙兵を促す手紙を記している。中でも関城に移ってから書かれた関城書は著名である。これに対して親朝は傍観的態度を取ったとされているが、彼も決して何も行動を起こさなかったわけではなく、興国二年(1341)に石川荘村松に軍事行動を起こしている。寧ろ周囲を佐竹・常陸大掾・下総結城・伊東・石川・岩城・相馬など敵に囲まれて思うように動けなかったと言うのが実情であったようだ。その中で親朝は白河・高野・岩瀬・安積郡や石河荘・田村荘・依上保・小野保の検断奉行を南朝方から与えられている事を背景に南奥州・北関東の豪族を纏めようと図っていた。さて親房はこの頃「職原抄」を記して官職の起源・沿革、相当位階・唐名並びに任官慣例・任用家格を論じている。これは現地武士の官職要求への彼なりの対応と評価できるが、彼はどこまでも公家第一主義であった。例えば石川某が味方につく条件として新しい所領を要求したとき、親房は「降参半分」が慣例の中、旧領を安堵するのでも温情と思うべきなのに新しい領地を求めるのは「商人の様な所存」、と非難している。それでも、現実問題として現地豪族達を味方につけるために彼らの要求を無視するわけには行かなかったらしい。結城親朝と一揆を結んでいた(手を組んでいた)地方豪族達が、少し後になるとそれまでには考えられなかったような官職を帯びているのである。親房は文書では非難しながらも、彼らに官職を与えるよう吉野に推薦していたと考えるのが妥当だ。しかしそうした努力にもかかわらず南北の戦力差を埋めるのは難しかった。やがて、中立を守っていた結城親朝が北朝方に付く。南朝についている状況では現地豪族を纏める事が不可能になったのであろう。それでも親房と完全に縁が切れたわけではなく、金を贈ったりしているし親房も「獲麟書」で説得を試みたり上総守護に推挙したりしている。しかし事態がここに及んで、興国四年(1343)11月に遂に関・大宝両城が落城、関宗祐や下妻政泰は討死。この間、闇夜を利用しての湖上連絡で抵抗したものの、大宝沼に二重の乱杭で遮断されてしまったりして空しい結果に終わった。更に西明寺・中郡・真壁や伊佐も陥落。こうして親房の東国経営は頓挫した。これはとりもなおさず南朝方の東国での勢力が絶望的になったことを意味する。
(8)吉野への帰還
 興国五年(1344)、親房は吉野へ帰還し、准三后に叙せられた。丁度この頃から近畿の南軍の動きが活発化している。また、この年4月13日付けで「近日諸国、時分を定めらるるの子細あり、殊に計策の沙汰あるべきの旨、征西将軍宮に申され了んぬ。其の旨を存じて早速に勇力を励むべし」という文書が存在する。北は奥州、南は九州の諸国の南朝方が一斉に上洛しようというものであろう。この様な大掛かりな作戦が立てられるには、中枢に重鎮が存在することが前提となる。すなわち、親房の帰還がきっかけと考えられる。二年後、親房は「東家秘伝」「熱田本紀」を記し、「日本書紀」を書写して養子顕能に送った。この年、年号が「正平」と改められた。翌年も権律師亮運に「霊棋経」を送る一方、勅により「古今和歌集註」を編纂している。この年、楠木正行の活躍が目覚しい。南軍の攻勢が本格化したのである。しかし翌年正月、正行らは四条畷で高師直の圧倒的大軍と正面から衝突して戦死、近畿の南軍は壊滅した。これにより後村上天皇らは吉野を捨て賀名生へ逃れる。ところでこの時の無謀な作戦行動は親房の命令と考えられる。というのは、戦いの翌日の和泉国「和田文書」に「(親房が)このあいだ当国に御下向」したと記されており、この時に親房が正行に師直の大軍との正面衝突を命じたとするのが妥当なのだ。いづれにしろ親房はその壮大な全国的南朝反攻作戦を自らの手で事実上不可能としてしまった。賀名生の奥地に僅かに命脈を保つ状況が暫く続くのである。
(9)正平一統
 その頃、都では執事高師直と副将軍足利直義の対立が深刻化し、直義は師直を罷免するが今度は師直が直義を軍勢で攻め囲み、政務から退かせた。出家して慧源と称した直義は、尊氏と結びついた師直と対抗するために、正平五年(1349)、南朝に降伏を申し出た。賀名生の御所では受け入れるか否かで論争となったが、これに決着をつけたのは親房であった。「太平記」によると、劉邦が項羽と偽りの講和を結び勝利を収めた前例を述べて降伏受け入れを主張したのだ。直義はこうして師直を破ってこれを殺し尊氏と和睦したが、同時に南朝と直義の和睦は不調に終わる。やがて尊氏・直義兄弟が再び対立するに及ぶや、今度は尊氏が降伏を申し出た。南朝側は官位などを「元弘一統の初め」に戻すことを条件に受け入れた。これが親房の画策であったのは言うまでもない。これを「正平一統」と呼ぶ。尊氏は後村上から直義追討の綸旨を受け長男義詮を京の留守として鎌倉へと出陣。それに応じる形で親房は中院具忠を京へ送り、北朝の崇光天皇・皇太弟直仁親王を廃し、北朝派公卿の更迭を通告した。しかし、彼を迎えた北朝方公卿の重鎮・洞院公賢は左大臣に留められ、後院別当に任じられた。京都の不安を鎮める為には彼の力を借りる必要があったのだろう。その後、後村上が行幸、義詮はこれを出迎える態勢を取った。天皇は賀名生を出、天王寺を経て八幡に入ったが、それと同時に北畠顕能、楠木正儀ら南朝軍が洛内に乱入。足利方は何の備えも無く、細川頼春は戦死し、義詮は近江へ逃逃れた。作戦の総司令であった親房は京へ乗り込み、洛内の統治に当たる。天皇は八幡宮に行宮を置き「八幡城」と呼ばれる程守りを固めた。地元の牧・片野の郷民が食糧を調達。一方で鎌倉で直義を殺害した尊氏も、信濃の宗良親王や新田義興・義宗と脇屋義治の大軍に直面させられていた。親房は再び全国の味方を一斉蜂起させて敵を殲滅する作戦を発動したのだ。敵方の和睦を逆用して一発逆転を図ったわけだ。しかし、京での親房の政策は全てを「元弘」の先例に戻すこと、社務を「南山の勅裁」とすることに終始していた。海田荘地頭職に高野山蓮華乗院を補任したのはその一例である。この現実に対応する視点に欠けた施策故に不満が高まる。一方、近江の義詮は味方を糾合し、敵方の糧道を断ち包囲する作戦に出ていた。摂津・河内・和泉・大和・伊勢から高野街道や木津川・淀川を通じて兵糧輸送が行われていたが、義詮自ら高野街道を押さえ山名時氏・細川顕氏・赤松則祐の水軍で水路が封鎖された。そして石清水の別当・権別当が足利に寝返り淡輪則重も内応した。こうした情勢の下、顕能は三度退却し、あっけなく男山へ逃れる。楠木正儀が洛内で奮戦したが空しかった。湯浅庄司、矢野下野守は降伏。結局親房らは天皇を奉じて5月11日に撤退。この時の戦闘で四条隆資・一条内嗣・滋野井実勝らは戦死、親房らは楠木勢などの奮闘でようやく賀名生へたどり着いた。親房は後に伊勢多気城へ入り、勅命により「後醍醐天皇御撰年中行事」を著す。一方関東でも宗良親王や新田一族の軍勢は尊氏によって武蔵野での一戦で敗北した。親房の作戦は、戦力的に圧倒的劣勢であった南朝方が一発逆転を図るための唯一の手段と言うべき作戦であり、幕府方と妥協をしながら生き延びてもジリ貧に追い込まれた事を考えると最良の方法と言える選択ではあった。しかし親房のせっかくの大規模な作戦も、命を受けてからの急発進となるための準備不足や畿内軍勢の手薄さなどから結局失敗に終わったのだ。
(10)それから
 翌正平八年、南朝方は足利直冬を大将に任じて再び京を制圧したが、これも短期間に終わった。これ以降、親房の姿は歴史の表舞台にあまり見えない。晩年、親房の娘で後村上の女御となっていた女性が男と駆け落ちし、親房は怒ってそれに関った農民を晒し首にしたため、農民が暴動、天皇も避難するという事件が起こったらしい。これもあってか精彩を失い、翌年に没した。この知らせを聞いた後村上天皇の嘆きは一通りでなく、
仕ふべき人や遺ると山ふかみ松の戸ざしもなほぞ尋ねむ (新葉集雑歌)
(自分に仕える人物がまだ何処かに残っているだろうか。それを頼みに山の奥、松の庵でもやはり訪ねて行こう。)
と詠んだ。この歌から想像できる様に、南朝方にはもはや中枢において全体をまとめられる人物はいなかった。北朝方の混乱に乗じて上洛したり九州を懐良親王が制圧するなどするものの内部分裂もあって弱体化の一途をたどるのである。北畠氏は南北朝合一後も抵抗を続けるが、満雅が小倉宮を奉じて抵抗したのを最後に足利幕府に降伏。家名は信長に滅ぼされるまで存続した。
(11)あとがき
 本編で挙げた他にも彼は一生を通じて数々の書物を著してきた。彼が当時最大の教養人であることを考えるとこれらの思想、歴史、歌集、有職故実について挙げておくことも無駄ではないと思う。そこで本文では挙げなかった書名を参考までにここに記す。「古今集抄」「東家秘伝」「神教秘伝」「建武元年禁詠集」「延元礼節」「鹿嶋香取両社勘文」「本朝葬祭記」「伊賀記伊賀史」「真言内証義」和歌は前述した勅撰集の他「臨永和歌集」六首、「吉野拾遺集」一首、「新葉集」二七首、「李花集」八三首載せられている。


参考文献
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
東国の南北朝動乱 伊藤喜好 吉川弘文館
南北朝動乱と王権 伊藤喜好 東京堂出版
足利尊氏 高柳光寿 春秋社
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
国史大事典 吉川弘文館
日本全史 講談社
神皇正統記 岩佐正校注 岩波文庫
慈円・北畠親房 吉川弘文館
茨城県の歴史 瀬谷義彦、豊崎卓 山川出版
図説太平記の時代 佐藤和彦編・河出書房新社
史談太平記の超人たち 上田滋 中央公論社
太平記の群像 森茂暁 角川選書
内乱のなかの貴族 林屋辰三郎 角川選書
鎌倉・室町人名事典 新人物編集社
建武政権 森茂暁 教育社歴史新書
闇の歴史、後南朝 森茂暁 角川書店
物語新葉集太平記時代の美意識 山口正著 教育出版センター
ピクトリアル足利尊氏南北朝の争乱 学研
週刊朝日百科日本の歴史 後醍醐と尊氏 朝日新聞社


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