2003年4月18日
遣唐使〜その歴史的経緯と役割〜  貫名


 新年度一発目のレジュメと言うことでちょっと緊張してます。
 本当は先週に発表する予定だった内容ですが、風邪をひいてしまい延期する羽目になってしまいご迷惑をお掛けしました。しかも1週間伸ばした割にはほとんどクオリティの向上が見られないばかりか、発表当日になってまだレジュメを作っているという醜態を晒す羽目になってしまいました。
 今回はメジャーに遣唐使を題材にしてみました。この存在自体は小学生でも知っているかと思いますが、実態としてどのようなことが行われていたかはあまり知られていないかと思います。

0.遣隋使の時代
 最初に、遣唐使のいわば前史と言えそうな遣隋使の経緯について簡単に述べることにする。

 中国側の史書「隋書」によると、最初に日本(厳密にはこの時代に「日本」の国号はまだ無いが便宜上こう呼ぶ)から使節が送られたのは、600年、初代文帝の時代である。この遣隋使については、日本側の史書には一切記述が残っていない。これははかばかしい結果が得られなかった為とも、実は聖徳太子が私的に派遣したので公的記録に残らなかったためとも説が出ているが、どちらも確実な証拠はない。
 これに続く、607年に派遣された遣隋使が、一般的に有名な小野妹子を正使とする遣隋使である。隋第2代皇帝煬帝を激怒させたと言われる「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや……」という一節で始まる聖徳太子の国書については、今更述べるまでもなく有名なものであろう。ちなみにこの国書も『隋書』の伝えるところであり、日本側の史書には一切載せられていない。無事この使節の役目を果たした小野妹子は、隋使裴世清を伴って帰国する。ちなみにこの時隋は返書を持たせているが、途中海賊にあって盗まれたと小野妹子は報告している。かし実際には、おそらくこの返書には日本を属国的に取り扱った屈辱的な文面があったので、小野妹子が自身の判断で献上しなかったのではないかと考えられる。
 この遣隋使の特徴は、その性格にある。今までの対外使節は、基本的に、対朝鮮半島の勢力圏維持や日本の存在のアピールといった政治的な目的を主眼としていた。それに対し、聖徳太子の政策は、半島問題から一次的に手を引き、国内の改革を主眼とすることにしていた。このため、遣隋使の目的も従来とは違い、大陸文化の受容及び仏教の受容を目的としていた。小野妹子に託した国書が今までと違って対等であろうとしていたのは、この使節がこのような宗教的・文化的目的を主としていたため、唐に媚びへつらうことが必要なくなったからだとも考えられる。
 その翌年、裴世清を隋に送り届けるのを兼ねて、再度遣隋使は派遣される。この遣隋使には、小野妹子以外に、高向玄理、南淵請安、僧旻など8人の遣隋留学生が乗り込んでいた。その後長い者では三十年以上も唐に滞在した彼らは、南北朝の分裂時代を終えて律令体制が急速に整備されて行く中国の状況を目にして刺激を受けたことは間違いない。そして帰朝した彼らは、大化の改新に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。
 その後、614年にも遣隋使は派遣されるが、その後、派手好みで国力を消耗していた煬帝に対し内乱が起こり、結局617年に隋は滅びてしまう(従って、前述の留学生達はそのまま遣唐留学生になっていることになる)。

1.遣唐使の歴史

 遣唐使の回数については、諸説があって必ずしも一致しない。多いものではは東野治之や王勇の説によると20回、少ない辺りでは藤家禮之助説だと12回、とされている。このような大きな差が出るのは、中止となった遣唐使や、送唐客使(唐からの使いを送り返すための遣唐使)などをカウントするかどうかによって回数が変わってくるからである(特に、結局派遣されなかった遣唐使を入れるかどうかで大きく変わってくる)。
 どれが正当かについては議論の余地がありそうであり、正直言って20回説は広範に遣唐使を認めすぎという印象を受けるが、取り敢えず以下では最多の20回説をベースに回数を書いておくことにする。

 本節では、遣唐使を取り巻く諸問題は後述することにして、まずは遣唐使派遣の歴史について、適当に大きなトピックに触れながら簡単に通観することにする。

 第1回の遣唐使の派遣は630年、大使は犬上御田鍬。ちなみにこの大使は、614年の遣隋使の大使でもある。ただこの時点では、実態としては従来の遣隋使の続きと考えて良いように思える。
 その後、第2回の遣唐使では、往路に第2船が薩摩近海で遭難して120人中生存者5人という悲劇に見舞われている。これが、後に増えてくる遣唐使の遭難の最初の例である。
 その後、654、659、665、667、669年に遣唐使は送られているが、この時期の遣唐使に関して大きなトピックは存在しないので詳述はしないことにする。この河内鯨を大使とする669年の遣唐使を最後に、702年まで遣唐使の派遣は途絶えることになる。

 この辺りまでの遣唐使を前期、以後を後期として区別する見解がある。
 この間の大きなトピックとして、663年の白村江の戦いが挙げられる。ここまで日本は、親百済政策を採っていたと考えられるが、この数年前に百済は滅亡、更に668年には高句麗も滅亡してしまう。ここまでの日本は懸命に対中対等外交を行おうとしていたと考えられるが、この白村江の戦いで唐の力を見せつけられてしまい、この後はどうやら対等外交を放棄したように見られる。669年に派遣された遣唐使は、翌年唐の高宗と謁見して「高麗を平ぐるを賀した」とされているが、これは実質的には日本の降伏表明だったと考えられる。
 ここまでは政治的な色合いが強かった遣唐使だったが、以後はどちらかと言えば唐の先進文化を受容していくのが主な目的となっているように見える。また、この頃まで主として2隻で構成されていた遣唐使船は、8世紀に入って復活した後は倍の4隻で構成されるのが通常となっていく。また、新羅との関係悪化により、遣唐使の渡海ルートも北路から南島路・南路へと変化を遂げている。これらの詳細については後述することにして、まずは引き続き遣唐使の派遣過程を追っていこう。

 しばらく国内制度の整備にいそしんでいた日本が、再び遣唐使を派遣したのは702年、大使粟田真人以下4隻による大船団だった。その後、717年の遣唐使では阿倍仲麻呂・吉備真備らが渡航、更に733年にも派遣されている。
 752年派遣の遣唐使は特に触れた方が良いだろう。この時の遣唐大使は藤原清河、副使は大伴古麻呂と吉備真備だった(なお、吉備真備は先の2人が叙任されたしばらく後に追加で叙任されている。留学経験を買っての人事だろう)。この遣唐使は無事唐に到着し、翌年753年の正月に長安で行われた朝賀に参加しているが、この時に新羅との席次の問題に対し副使の古麻呂が厳重に抗議し、玄宗皇帝に席次を新羅の上に改めさせた、という事件であり、これは日本の対外的な立場を象徴した事件と言っても良いだろう(特に対新羅にはこだわりがあったものと考えられる)。
 この遣唐使は、帰りに鑑真らを載せて帰っている。また、藤原清河や阿倍仲麻呂を乗せた第1船は帰路に難破して遥か南方の安南に漂着してしまい、彼らは帰朝することが出来ず唐で生涯を終えている。なお、759年には藤原清河を迎えるために迎入唐使が派遣されているが、これも安禄山の反乱によって成功していないことを思うと、余程不運だったとしか言いようがないのだろうか。
 その後、取り敢えず派遣されたものだけを述べると、777、779(送唐客使)、804年にそれぞれ遣唐使は派遣されている。特に804年の遣唐使では、空海や最澄、橘逸勢らが帰朝している。
 しかしこの頃から、徐々に遣唐使の意味合いは薄れる方向になってくる。838年、最後の遣唐使となる承和の遣唐使が派遣されるが、この遣唐使では副使の小野篁が出港直前に逃亡してしまうと言うトラブルに見舞われる(なお余談だが、百人一首に収録された「ひとにはつげよあまのつりぶね」という和歌は、この罪で篁が隠岐に流されるときに詠んだとされている)。
 この承和の遣唐使を最後に、遣唐使は長期に渡り中断する。そして894年にようやく遣唐使が企画されるが、大使に任命された菅原道真の献策により中止されてしまうのは、歴史上有名なことだろう。

2.遣唐使の航路

 本節では、実際に遣唐使がどのように派遣されていたかを追っていくことにする。

 まず、出発までの過程を見て行くことにする。
 遣唐使に任命された大使・副使たちは、遭難しないように祭祀を行ったりした後、大使が節刀を受け取ることでいよいよ出発となる。この節刀はいわば天皇大権の一部を受け継いだ象徴であり、これを受け取ると大使は自宅に帰れないことになっている。
 遣唐使船が出航するのは、難波の三津浦という地である。この難波の地は古代から朝鮮半島との交通の発着路とされていて、対中国においても小野妹子以来ずっとここを出航・帰港の地としている。ここを出た遣唐使船は、瀬戸内海を通って九州に入り、博多津でしばらく風待ちをした後に、いよいよ唐に向かうことになる。

 遣唐使の船団は、初期は2隻で合計250人程度だったが、8世紀以降は4隻で計550人程度、末期の遣唐使では600人を超える大船団となっている。この人数の半分ほどは水手、すなわち船の漕ぎ手であり、他にも医者や通訳、細工師などの実務スタッフや、あるいは留学生・留学僧の従者などが大半を占めている。実際には使節団が20人弱、留学生・留学僧が10人ぐらいから多くても20人弱ではないか、と考えられている。ちなみに、遣唐使全体を通して、派遣された留学生・留学僧は確認できるだけで149人、という研究もある。

 遣唐使の航路としては、一般的に北路、南島路、南路の3種類があるとされている。
 北路は、前述の前期遣唐使の時代に用いられたもので、博多を出てから壱岐、対馬を経由し、そこから朝鮮半島の西岸沿いの百済・新羅の領海をしばらく北上し、途中から高句麗領を避けるために黄海を横断して山東半島に上陸する、というルートだった。7世紀の遣唐使のほとんどは、陸伝いでいちばん安全と考えるこのルートを辿っていた。しかし前述の通り、朝鮮半島の統一後に新羅との関係が悪化したので、徐々に他のルートが取られるようになっていく。
 南島路は、8世紀初頭から中頃までの遣唐使が採ったと考えられていたルートで、九州から南西諸島伝いに屋久、奄美、沖縄、石垣などの島々を伝って南下し、そこから東シナ海を突っ切って揚子江の河口地帯に向かうというものだった。このルートは従来の北路と所要時間としてはほぼ同じだったが、外海を突っ切っていることから、この頃から遣唐使船の遭難率は上昇し始めている。
 (なお、この南島路については、特に帰路に漂流して採るケースが多いだけで、意識的にこのルートを採ることは少なかった、とする見解も出て来ている。ここでは一応、通説に従っておくことにする)
 これらのルートを経て、最終的に後期の遣唐使が採ったのが南路である。このルートは、博多を出た後に五島列島に寄港し、そこから一気に東シナ海を突っ切るルートであり、上手く行けば航海期間をかなり短縮できるルートだった。ただ、それだけに危険性もいちばん高いルートである。遭難の記録が後期になって急増しているのは、後述する原因もあろうが、このルートを採っていたことも一つの要因であることは間違いないように思える。

 その他、渤海を経由して入唐した使節や、新羅経由で帰国した使節などもいる。これらでも分かるように、新羅はこの後も非協力的ではなかったことは留意しておく必要がありそうである。

 なお、この点、遣唐使の造船技術や航海技術について考察を加えておくことにする。
 まず造船技術に関して、新羅船はほとんど遭難しないのに遣唐使船はよく遭難しているのは、日本の造船技術がひどく拙劣なせいである、とよく言われている。しかしこれに関しては、船の大きさの問題を考えなければならない。新羅船や渤海船はせいぜい1隻100人程度の中型船であるのに対し、日本の遣唐使船は初期でも1隻に120人や130人、後期に至ると多いときには1隻に160人以上が乗っている。当然ながら、このように人数が増えることで、その船に積む物資も同じように増えることになる。当時は日本に限らず大型船の造船技術はそれほど上がっておらず、どうしても遭難の危険性が高いのは避けられなかったのではないかとも考えられる。遣唐使船自体のデザインについてはあまり資料が残っておらず、中国のジャンク船のような船が想定されているが、この点に関しては布の帆も併用していたという資料も残っている。根本的にまだ未熟とはいえ、当時の大型船の最新技術を反映した船だったと言っても良いように思える。
 また、航海技術について、当時の日本人は季節風の知識がなく技術が稚拙だともよく言われる。夏には中国から日本へ、秋には日本から中国へと季節風が吹いているのに、遣唐使はその逆に夏に中国に渡ろうとしている、という点である。しかし、同時期の遣渤海使はちゃんと季節風を利用しているのであり、日本人がこの点に本当に無知だったとは考えられない。むしろこの行動は、気象条件より朝貢貿易を重視したためだと考えられる。毎年正月には長安で各国の大使が集まって朝賀の儀が行われており、これに出席するのも遣唐使の大きな役割だった。唐側もあまり長く逗留させてくれない遣唐使としては、気象の悪条件をおしても、この正月に長安に行くことを最優先に日程を組んでいたのではないだろうか。
 ともかくも、後期になって遭難率が急上昇したのは、南路を採るようになったことに加えて、船の大型化が大きな要因となっているようである。

3.遣唐使の本音とタテマエ

 遣唐使の問題を語るときに問題となる点の一つとして、中国との間の関係が挙げられる。
 中国の歴代国家はいわゆる中華思想を持っており、これに基づき、他の国との関係は常に、最高たる中国皇帝に向かって周辺の諸民族国家が朝貢してくる、という考えをもっていた。一方、日本側は対等外交を目指していたのであり、そこにはおのずから乖離が生じる。例えば小野妹子の国書は煬帝を怒らせることになったし、その返書は盗まれたとして日本の天皇に見せられていない。
 他の国は、程度の差はあれ中国を宗主国と考えるような概念を持っていた。しかしこの点、日本は中国近辺の国家ではほとんど唯一の、自国を中心とする中華思想を持っている国だったのである。実際、新羅や渤海に対しては、自らに対する朝貢国のような態度を取っており、これは特に新羅との間では軋轢を生んでいる。唐ですら、律令の条文上は「蕃」とされていたのである。
 しかしこのような態度のままで唐と接していけるわけがない。日本はこの点、かなりはっきりと対外的な顔と内部的な顔を使い分けていたように思える。表立っては対等な関係としての派遣をしようとする反面、実情では使節が朝貢使であることをよく理解していたと考えられる。
 一方、中国側から見れば、日本という国は利用価値の高い国だった。何度か日本に唐から使節が派遣されていることから考えても、日本の裏表はおそらくある程度は唐も察知していたであろう。実際、778年に中国から送使が日本に向けて派遣されており、正使は遭難したが副使以下は無事に日本に辿り着いて天皇と会っている。この時には日本は当たり障りのない対応をしていたが、他の新羅や渤海の如く唐使に日本側が官位を与えようとしたことから、幸か不幸か唐使たちは慌ただしく暇乞いをして帰って行き、事なかれを得ている。
 しかし、実際に日本は、遠いとは言え朝鮮半島政策の上で重要な戦略的位置を占めている。また、事実として日本の遣唐使たちは唐文化の重要な伝播者となっており、また遣唐使の実際の資質や朝貢による物資の交流は、「中華帝国」としての優越感を満足させるのに充分だったものと考えられる。

 さて、遣唐使の役割も時代と共に変化している。以下、再度時代を追って記すことになるので、繰り返しとなる内容がかなり多くなることをご了承いただきたい。

 そもそも、初期の遣唐使が派遣されたのは、主に朝鮮半島問題に対応するためであったと考えられる。唐の先進的な制度を日本に輸入するとともに、朝鮮半島における自国の権益を守るために唐の軍事情報を探るという目的が大きく存在していた。特に、第4回の659年の遣唐使では大使以下に一時的に軟禁の処置が取られてしまっている。これは、遣唐使が何らかの情報収集を行って唐にとって都合の悪い事態が起こったため、と考えられる。
 しかし、結局朝鮮は新羅によって統一され、日本は白村江の戦いで大敗を喫してしまう。これによってまた、遣唐使の意味合いは変化する。この後2回ほどの遣唐使は、日本が孤立しないように宥和策をとる目的があったものと思われる。

 その後、しばらく途絶えていた遣唐使の派遣は、8世紀の頭に復活する。そしてこの702年の遣唐使からしばらくの遣唐使は、まさに文化使節としての派遣だったと言って良いだろう。この時期、唐の文化は最盛期を迎えており、遣唐使の派遣はまさにこの盛唐文化を受容して日本に持ち帰ることであったと考えられる。実際、遣唐使の歴史を彩る、阿倍仲麻呂、吉備真備、玄ム、あるいは鑑真と言った人々は、皆この時期に唐との間を行き来している。遣唐使は同時に貿易使も兼ねており、帰路の遣唐使は大量の文物を日本にもたらしたが、この中には唐の書物が数多く含まれており、唐でも日本人が書籍を好むことはよく知られていたらしい。

 しかし、大唐帝国の栄華も、安史の乱を経て陰りが出始める。777年以降、大規模な使節は3回派遣されているが、これらは唐に滞留している留学生や留学僧を迎えに行くという側面が強まっていた。既に唐の最盛期は過ぎ去っており、遣唐使の派遣意義には疑問が出始めていた。
 
 これは余談だが、遣唐使の風格を保つために、日本政府は遣唐使の容姿にまで気を使っていたようである。この点で特に有名なのは702年の遣唐使において執節使を務めた粟田真人であり、「容止温和なり」として中国の史書にも褒め称えられ、時の則天武后にも気に入られて名誉職まで授けられている。これによって、日本は君子国であり礼儀の厳粛に行われた国だ、という印象を唐に与えたことは間違いないだろう。他にも、藤原清河、阿倍仲麻呂なども中国の史書にその容姿を誉める文章が残っている。また、長大少髪の舎人が「日本国使人」と渾名されたという逸話も伝わっている。当時の遣唐使にそのような印象が伝わっていたことを示す逸話であろう。

 また、遣唐使の中には現地で結婚する者もおり、彼らの子供たちも国際交流の中で重要な役割を果たしている。例えば、阿部仲麻呂の従者として入唐した羽栗吉麻呂は、翼、翔の2子を設け、この2人は共に成長してから日本に帰り、共に遣唐使として活躍している。また、藤原清河の娘の喜娘も、777年派遣の遣唐使で帰国している。

4.遣唐使の廃止

 894年8月、50年以上途絶えていた遣唐使の派遣計画がまとまり、大使として菅原道真、副使として紀長谷雄が選ばれる。しかしその1ヵ月後、道真は遣唐使の停止についての上表を提出する。
 承和の遣唐使の段階で、既に国力は疲弊しており、また徐々に商人による唐との行き来が盛んになっていた。実際、承和の遣唐使で入唐した円仁は、847年に新羅の商人の船によって帰国している。こうした状況の中、既に遣唐使の派遣は無意味と化しており、そもそもこの寛平の遣唐使計画がどこまで本気で入唐させる気だったかも疑わしい。
 この前年には、当時唐にいた中?という僧が唐の商人に託して状況を伝えている。当時唐は「凋弊」しており、また渡航も安全でなく、今まで遣唐使を保護していた唐の国力も衰退していた。このような状況の中、大枚をはたいて遣唐使を派遣する必然性は既に消滅していたと言って良さそうである。大唐帝国は既に終焉のときを迎えようとしていたのだ。(なお、唐の滅亡はこの13年後、907年のことである。)

 こうして、遣唐使という行事は終焉を迎える。この後はいわゆる平安貴族の国風文化が栄え、独自の文化を形作っていく、と言うのは言うまでもない。
 そもそも、日中の公式の外交関係が存在した期間というのは、以外に思えるほど短く、この遣唐使の時期と、日明貿易が行われていた時期ぐらいだ。しかも日中関係の特色は、ここで交流している人間がごく限られた文化層に限られていたことだろう。これによって、一つは文化を選択的に受容することが可能となっていたし、あるいは少数の人間が大きな影響力を持って文化を書き換えてしまうことも可能になっていた。これは中国と交流のあった他の国家にはあり得ないことだろう。この点で、ある意味日本は効率的な文化受容を行っていたのかも知れない。

5.最後に

 今回のレジュメは主として政治的観点からの内容になってしまい、遣唐使による文化的交流やその影響についてはあまり触れることができませんでした。正倉院宝物とかその辺のネタを期待した方、至らなくてごめんなさい。
 次こそはもう少し良い発表をしたい、とはいつも思ってるんですけどね……。


◎参考資料
 探せば細かい文献が膨大にありそうだったんですが、時間不足も手伝って
 正直言ってかなり片手落ちな状況になってしまいました……。

 森克己「遣唐使」(日本歴史新書、至文堂1955年〔1979年再版?〕)
  ※遣唐使全体を通した概説書としては今も唯一かつベースになる本のようです。
   ただし50年近く前の本なので、他の本と比較して情報が古いところも散見されますね。
 東野治之「遣唐使船−東アジアのなかで−」(朝日選書644、朝日新聞社1999年)
  ※私は図書館で読みましたが、現在も入手可能。おそらく現在での遣唐使の学説について
   いちばん詳しい部類の本かと思います。わりあい平明。
 佐伯有清「最後の遣唐使」(講談社新書520、講談社1978年)
  ※タイトル通り最後の承和の遣唐使に限定して論じた本ですが、読み物としても面白いです。
   後期の遣唐使の役割については整理されてます。
 王勇「唐から見た遣唐使−混血児たちの大唐帝国−」
  ※今回の後悔本その1。本当はかなり使えそうだったんですが、時間不足でこの本は
   正直あまり使えないまま終わってしまいました。反省。
 佐伯有清「悲運の遣唐僧−円載の数奇な生涯−」(吉川弘文館、1999年)
  ※どちらかと言えば個人に焦点を当てた読み物的な本。
   実は今回のレジュメを書く上ではほとんど使っていないのですが……。

 アジア遊学第3号(特集:東アジアの遣唐使)より
 王 勇『東アジアから見た遣唐使−序言にかえて−』
  〃 『遣唐使時代のブックロード』
 石見清裕『唐朝発給「国書」一覧』
 高明士『隋唐使の赴倭とその儀礼問題』
 同・第4号(特集:日本の遣唐使--波濤万里・長安を目指す)
 毛昭晰『遣唐使時代における五島列島と明州の関係』
 王金林『唐の東アジア交流における遣唐使の使命および地位について』
 王 勇『遣唐使人の容姿』
  ※この雑誌2冊に関しては未読の論文が多数あります。一応は学術雑誌に属しますが、
   ややくだけた雰囲気の雑誌で、読みやすいものが揃ってました。
   なお、今回の資料としては時間不足もあり使っていないんですが、
   第27号でも「特集・遣唐使をめぐる人と文学」として組まれていることを付記しておきます。

 宮田俊彦『遣唐使に国書なし』(日本歴史470号、1987年)
 増村宏『遣唐使の停止について』(鹿大史学21号、1973年)
  ※どうやら抄録版で、筆者本人曰くかなり舌足らずなもののようです。これに関しては
   鹿大史学・鹿児島経大論集・地域研究に4回にわたり論文が掲載されているようですので
   深く興味がある方はそちらを参照した方が良いかと思います。


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