2003年5月2日
平安期の緑釉陶器  田中愛子


<はじめに>
 今回、平安時代の貴族達によって用いられていた陶器である緑釉陶器について、考古学資料をもとにまとめてみようと思う。専門用語はできるだけ注釈なく使わないようにし、あまり細かなこと・専門的なことは、煩瑣であるので省略する。できれば発表時、アルバイトの経験を利用してうまくレジュメの不足を補うような話が出来ればと思う。


<概略>
 古代日本では、珪酸鉛を基礎釉とする釉薬が施された焼き物、すなわち鉛釉陶器が生産されていた。その内、平安期頃に生産されていたのは、緑釉陶器といわれる緑色単彩の陶器である。
 緑釉陶器は、鉛釉陶器の一種で、緑色一色の釉薬が施されたものである。唐文化の影響のもと、中国磁器の模倣として生み出された。8世紀後期頃から生産が開始され、全国に普及、防長・畿内・近江・東海で生産、12世紀中期頃に生産が停止された。奢侈品として、貴族層・寺社に愛好された。


<歴史>
 緑釉陶器誕生の背景には、唐文化の移入がある。奈良時代末から平安前期、唐の文化・制度の移入が進められる中、青磁や白磁といった中国の磁器を理想とし、その模倣として、緑釉陶器は生み出された。器形や装飾に、中国磁器にそのルーツが見出されるものもある。ただし、唐文化の影響は次第に薄れてゆき、中国磁器の模倣のためにとられた形態も、次第に形骸化してゆく。
 緑釉陶器の技術のルーツは、奈良三彩と呼ばれる、奈良時代に生産された三彩の鉛釉陶器にある。緑釉陶器は、基本的に、奈良三彩の技術・製作技法を継承している。奈良三彩と平安緑釉陶器との間の違いは、何であるのか。まず、施釉に違いがあるのは勿論のこと、器種構成・器形にも変化がみられる。生産量が増大し、生産地・供給地ともに畿内から畿外へと拡張、奈良三彩よりはるかに普及している。また、使用形態・機能にも差異がある。奈良三彩は、祭祀用具の要素が強かったが、平安緑釉陶器は、ほとんど祭祀用具としての性格を無くしている。
 奈良時代末期頃、唐文化の影響のもと、鉛釉陶器に単彩化等の変化が生じ、緑釉陶器が生産されるようになった。しかし、8世紀末〜9世紀初めには、奈良三彩の生産が少量ながら継続されており、奈良三彩と平安緑釉陶器の中間の、移行段階の鉛釉陶器も生産されていた。この頃、緑釉陶器の生産量はまだ少なく、生産地はほぼ畿内のみである。供給先も、宮都を中心とした地域がほとんどであった。また、この頃の緑釉陶器の器種構成は、竈・羽釜・甑など、この段階に生産がほぼ限られ断絶する、特殊な器種を主体とするものであった。
 しかし、9世紀前半期には既に、椀、皿といった供膳具が主体となっている。これは、以降も同様である。その他、香炉、瓶、水注なども生産されるようになった。また、この頃、畿内に加え、長門・尾張でも緑釉陶器生産が拡大、まだ生産量はごく少ないものの、畿内のものとはやや異なる特色を持った製品が作り出されていった。畿内産は他に比べて生産量が多く、少量ながら全国に分布している。また、生産域が拡大したのみでなく、生産量も増加し、全国的に供給が行われるようになった。ただし、全国的にといっても、官衙など、公的要素の強い施設の周辺がほとんどである。
 9世紀後半には、器種構成がより豊富になる。生産国に変化はないものの、生産国内で生産地区が拡大し、新たな地区が各国での生産の主体となってゆく。畿内・尾張が飛躍的に生産量をふやし、長門も一定程度の生産量をあげている。全体的に生産量が大きく拡大、緑釉陶器出土遺跡数が全国的に増加している。この頃には、越後・美濃・三河以東の東日本では東海地方産が多数を占め、越中・近江・伊賀以西の西日本では畿内産が多数を占めるようになる。防長地方産が多数を占めるのは長門周辺のみで、大宰府など北九州地方へ主体的に供給を行っていた。なお、この地方では、一貫して中国陶磁の量が国産施釉陶器の量を圧倒している。
 10世紀前半には、国を超えて生産地区が拡大され、近江・美濃・周防で緑釉陶器生産が開始される。その反面、山城・尾張・長門では緑釉陶器生産が衰退化傾向をたどり、主要生産国は新興生産国にとって代わられる。全体に、器種減少、法量縮小化傾向がみられる。また、畿内とそれ以外の地区の相違が激化する。これらの傾向は、以降も進んでゆく。
 簡略化・粗雑化が目立ち始めるのもこの頃で、以降、急速に簡略化・粗雑化が進んでゆく。緑釉陶器は、地域・時期を問わず全体に、時代が下るにつれて簡略化・粗雑化の傾向をたどる。表面調整・施釉・装飾などに、その傾向が見られる。特に、畿内は真っ先に生産を開始したとされるが、それだけあって、省略化が早いように思われる。高台・施釉範囲・表面調整に、その特徴が見られる。
 簡略化・粗雑化の原因は何であるのか。一つは、作業効率化であろう。一つには、次世代、あるいは他地区へ技術を伝承してゆく過程で、技術が劣化していったとも考えられる。また、緑釉陶器のような奢侈品の需要者たる貴族層・寺社の衰退ということも、背景にあるのかもしれない。
 簡略化・粗雑化は、量産そして普及ということと、深い関係にある。どちらが原因でどちらが結果とはいえないが、普及し需要が増えれば、量産の必要が生じ、簡略化・粗雑化が進むし、簡略化・粗雑化が進めば、量産可能となり、購買層が厚くなり、普及する。例えば、洛西の小塩窯の製品は、成形が粗雑で、釉の発色も悪いが、これは、需要の増大に応えて、大量生産を行ったためと思われる。
 10世紀中期、近江産の生産量が急速に増加し、西日本では畿内産に代わって近江産が主体となる。東日本では依然東海産主体ではあるものの、東海道諸国では東海産搬入量減少、近江産も搬入されるようになる。
 10世紀後半には、新たに成立した近江・美濃・周防などの生産地が比較的安定した生産量をあげており、三河でも生産が開始される。
 11世紀前半には、地方分立化傾向を反映してか、地域色がいっそう著しくなる。緑釉陶器生産は衰退し、11世紀後期にはほぼ終焉を迎える。
 そして、12世紀中期頃には緑釉陶器生産は生産が停止され、日本古代鉛釉陶器は消滅する。


<生産手法>
 ここで、緑釉陶器生産過程の概要を紹介したい。

・陶土
 陶土は、基本的に窯場付近で採取される。
 緑釉陶器製作に用いられた土は極めて精良であり、水簸などによって精選されていたようである。

・釉
 釉薬の基本成分は、珪酸鉛である。そこに、呈色材として銅化合物が加えられる。これにより、緑色の発色が得られる。
 具体的な原料は、黒鉛(金属鉛)・緑青・白石(石英)であったと記されている。原料入手経路は不明である。高価で入手が難しかったことは間違いないようだ。
 釉薬の製造方法は、釉原料を混合し坩堝内で一度溶融させ、その固化させたもの(フリット)を粉砕して釉薬とする、というものである。そしてその釉薬を水に混ぜで泥漿とし、素地に塗っていた。

・成形
 器種には、碗・皿・段皿・耳杯・壺・香炉・花瓶などがある。
 成形方法は、粘土塊から一気に挽きだして、轆轤成形していたとも、粘土円柱の上に粘土紐を積み上げ、轆轤成形していたともいわれている。どちらともにそれを裏付けるような例があり、定説は無い。
 轆轤からの底部切り離しは、基本的に糸切りによる。ただし、表面調整により跡が消え、分からなくなっているものが多い。
 高台(底部の台)の製作方法は、削り出しもしくは貼り付けによる。生産された地域・時代により、どちらの方法がとられたかが分かれる。
 成形が終了し、やや乾燥した段階で、表面調整が施される。表面調整の質には、地域により精粗がある。また、時期が下ると省略される傾向にある。
 石作窯、熊ノ前第1地区窯で陶製の研磨具らしきもの出土
 表面調整の後、装飾が施されることもある。装飾技法には、陰刻(線刻)・透かし彫り・釉書き(緑彩)等があり、装飾図案には、花文・幾何・沈線等がある。

・焼成
 珪酸鉛を基礎釉とする釉薬は焼成温度が低く、施釉後は800〜850度の比較的低い温度で焼成される。しかし、800〜850度では、素地を焼成するには温度が低すぎる。そのため、素地を一旦焼成した後、施釉し、再度焼成するという、二度焼きが行われる。
 施釉範囲は、はじめ全面施釉が基本であったが、時代が下るにつれて、各地とも部分施釉に切り替わってゆく。
 焼成時には、トチン・ツク・サヤといわれる窯道具が用いられることがある。トチン・ツクは、重ね焼きの際、素地の下にかませ融着を避ける道具で、サヤは、製品を中に納め、製品が灰を被るのを防ぐための円筒状容器である。
 焼成のための燃料は、主に薪で、窯近辺から供給されていたようである。


<生産体制及び消費の実態>
 奈良時代及び平安時代初期、鉛釉陶器は、律令体制の下、畿内の官営工房で閉鎖的に生産されていた。しかし、9世紀頃、律令体制の弛緩と共に、鉛釉陶器生産体制が崩壊、変貌を遂げ、これまで官営工房で独占的に保持されてきた生産技術が拡散し、また、私営工房でも鉛釉陶器が生産されるようになった。10世紀頃には官営工房による鉛釉陶器生産体制は消滅し、もっぱら私営工房で生産するのみとなったようである。鉛釉陶器生産が中世に継承されていないことを理由に、鉛釉陶器生産は平安時代を通じて一貫して官の直営方式で閉鎖的に行われたとする説もあるが、官営工房による独占体制は9世紀に消滅し、以降は各地の私営工房でも鉛釉陶器生産が行われていたとする説が有力である。
 緑釉陶器を使用したのはどのような人々か。緑釉陶器は奢侈品であり、当然使用層は限られる。緑釉陶器使用者は、皇族・貴族層(国司・受領レベルまで)、寺社である。
 緑釉陶器はどのような場で用いられていたのか、ということについても、諸説ある。大まかにいって、祭祀の場で用いられたとする説、儀式の場で用いられたとする説、饗宴の場で用いられたとする説、日常生活中で用いられたとする説があげられ、また、それが公的性格のものであったか、私的性格のものであったか、ということも議論されている。現在のところ、緑釉陶器を祭祀用具とみなす説は有力ではなく、儀式・饗宴のための器、あるいは日常品として実用したとする説が主流である。まとめると、ごく一部に祭祀具としてのようとは認められるものの、主に、皇室・貴族層が公私の儀式・饗宴の場で、あるいは日常生活中で使用した、とするのが妥当であろう。


<おわりに>
 資料が少ないこともあり、諸説ばらばらであり、かなりまとめづらいものであった。一部、資料から結論を出せず、素人の憶測が入っている部分も出てしまったところもあることを、お詫びしておきたい。


参考文献
・高橋照彦『概説 中世の土器・陶磁器』、真陽社、1995。
・尾野善裕
 「嵯峨朝の尾張における緑釉陶器生産とその背景
  ――平安時代初期の喫茶文化との関わりを通して――」
 『古代文化』526号より、2002。
・尾野善裕「平安時代における緑釉陶器の生産・流通と消費」
 『国立歴史民俗博物館研究報告』より、2002。
・寺島孝一「平安京出土の緑釉陶器」
 『考古学雑誌』より、1976。
・井上喜久男「東国官衙遺跡にみる三彩・緑釉陶器」
 『月刊考古学ジャーナル』475号より、2001。
・山本信夫「九州の官衙関係遺跡出土、鉛釉三彩・緑釉の検討」
 『月刊考古学ジャーナル』475号より、2001。
・吉田恵二「奈良三彩の生産と伝播」
 『月刊考古学ジャーナル』475号より、2001。
・高橋照彦「三彩・緑釉陶器と地方官衙」
 『月刊考古学ジャーナル』475号より、2001。
・高橋照彦「地方官衙出土の平安時代の緑釉陶器」
 『月刊考古学ジャーナル』475号より、2001。


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