2003年5月23日
飛鳥時代の軍制改革  My


はじめに
 6世紀末から8世紀初頭にかけての飛鳥時代は、日本の国家権力の強大化が急速に進んだ改革の時代ですが、今回は当時の改革の軍事面を軽く見ていきます。
 適当に手元の資料だけで作ろうと思ったら、資料が偏っていて、こんなレジュメしかできませんでした。たまには違った分野にも手を出した方が良いとは思うんですが。


<改革の背景>
 日本列島では、4世紀頃から、全国的な政治力を持つ政権が成立していく。この段階の国家は、天皇と豪族の緊密な連携のもと維持されていたが、その後6世紀を通じて、天皇の権力は直属の武力を編成し、豪族の力を抑えることに成功する。しかし、大陸における隋唐の成立により、東アジアは6世紀末に強力な国家統一と激しい抗争の時代に突入、当時の日本は、朝鮮半島に介入していたものの、その軍事力は雑然とした原始的なもので、この激化した戦争に対処することはできなかった。日本は、このような情勢を乗り切るため、より一層の国家権力および軍事力の強化に乗り出さざるを得なくなり、大陸に倣った国家と軍事力の建設が急速に推進されることになった。そして、7世紀半ばからの改革を経て、8世紀初頭、日本古代帝国と、整然とした編成を持つその軍事力は、一応の完成を見る。


<改革以前の軍隊>
・中央軍
 改革以前の7世紀前半の軍隊の中央軍は、天皇直轄の軍事力と、有力豪族である大伴氏によって統率される軍事力に大別される。
 天皇直轄の軍事力の中心的な戦力であったのは舎人(トネリ)である。これは東国の豪族の子弟を中心に編成された精鋭部隊で、天皇の側近に仕えた。改革後の兵衛府はこの舎人を前身に成立する。
 大伴氏によって統率される軍隊は、大きく分けて二つの系統がある。まず、当時は国家の職務は特定の氏族集団が世襲によって担当しており、そのような集団を伴(トモ)と言ったが、軍事的な伴も存在しており、そのような氏族が大伴氏の統率下に入っていた。これら軍事的氏族は天皇や宮廷の警護に当たっている。さらに、地方官である国造に任命された地方豪族が、隷属する民衆を率いて中央に上番した軍隊を、靱負(ユゲイ)と言うが、これも大伴氏の統率を受けた。宮廷の警護に当たっている。なお、これらの部隊は改革後の衛門府の前身に当たる。

・地方軍
 改革前の地方軍は、国造である地方豪族が編成した私的軍隊が、遠征などの必要に応じて中央政府のために用いられた。地方軍の規模や装備、訓練は、編成を行った国造の勢力に左右されてまちまちであり、また内部の構成は村落を単位とした雑然としたもので、戦力としてきわめて脆弱であった。このような不均等で脆弱な編成の地方軍を、均質な常設部隊である軍団へと転換していくことが、7世紀後半の改革の目的である。
 なおこの頃の朝鮮半島派遣軍は、国造の軍隊を基本単位として編成し、皇族を将軍として統率する体制が採られている。


<改革の経過>
 645年、大化の改新によって改革開始。60年代の百済復興を掲げた朝鮮半島出兵、および敗戦後の城塞建築によって、行政機構と人民の把握を強化。70年代以降、法制の整備が進み、701年の軍防令で軍制改革は完成する。


<改革後の軍隊>
・中央軍
 都の警備に、衛門府、左右衛士府、左右兵衛府の五衛府が置かれた。衛門府と兵衛府は改革以前の制度を前身に成立したものである。衛士府は改革によって新たに設けられたもので、衛士とは諸国軍団兵士のうち交代で都に上番する者を指す。

・地方軍
 全国各地に軍団が置かれた。各軍団は兵力1000人で、軍団内部は200人、100人、50人の隊に整然と編成されていた。当時の総人口5〜600万人に対し、総兵力は20万人に上った。年間60日の訓練が全国共通の方式で実施され、規格化された官給兵器による武装を目指して、武器の生産、修理が為された。
 だが、このようにして維持される効率的な軍団は、その一方で国造の系譜を引く豪族層が指揮に当たるなど、改革後であっても国家の軍事力は豪族の伝統的な支配力に大きく依存していた。


おわりに
 改革の経過がすごく雑ですが、見逃してください。


参考資料
日本古代兵制史の研究;直木孝次郎著  吉川弘文館 人類にとって戦いとは2 戦いのシステムと対外戦略;松木武彦・宇田川武久編  東洋書林 古代国家と軍隊 皇軍と私兵の系譜;笹川晴生著  中公新書


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