2003年6月6日/13日
日本流刑史  貫名


 刑罰制度の歴史の中で、現在の目から見るといちばん異質に見えるのが流刑という制度であろう。例えば死刑や懲役は現在も存在しているし、あるいは鞭打ちなども身体刑として理解できるが、流刑という制度に相当するものは現在は残っていない。
 今回はこの流刑について論述することにする。なお、本来は洋の東西や歴史的にある程度後半に論述しないと全貌は掴めないであろうが、今回は特に資料が多く、またイメージとしても一般の民衆にもっとも膾炙していると思われる日本の江戸時代の流刑制度を中心に据え、他の制度については補足的に触れるに留めている。

1 中国における流刑の成立

 日本の流刑について触れる前に、簡単に中国における流刑の発生について触れておくことにする。
 史書を紐解くと、古くは帝舜が蛮族を流刑に処したことなどが記されている。古代中国における流刑は、共同体からの追放の意味を持って施行されていたと考えられている。従って、春秋時代になって個々の村が閉鎖的な共同体だった時代が終わると、追放刑は他の共同体への移動に過ぎなくなってしまい、刑罰的な意味が弱まってしまい、徐々に消え去ることになる。
 その後、流刑が再度出現するのは、南北朝時代の北斉・北周においてであり、これがそのまま隋から唐へと継承されることになる。この律令における流刑は、北周の律に規定されていた距離による流刑の等級付けをそのまま引き継ぎ、それに北斉に存在した労役制度を組み込んだものと解される(なお、南朝では漢以来の法制が踏襲されており、このような制度は存在しなかった)。
 従って、直接的には春秋以前のものと律令の流刑とは連続性を持っていない。しかし、当時の人々は流刑について触れる時にしばしば古代の先例について言及しており、また北周の制度は古代の周礼を範としていたことから考えると、間接的に影響があると言っても良いように思える。

2 中世までの流刑

 日本においてそもそも流刑の発祥がどこにあるか、という点は明言できない。一般的には、日本の法制度は中国からの輸入に因るところが大きく、流刑制度についても唐の律令を直輸入したところというのが妥当なところだろう。
 しかし、それ以前に日本にそのような概念がなかったというと微妙なところになる。例えば、古事記において、素盞嗚尊が神逐らい(かみはらい)になって高天原を追い出された、という記述があり、これは追放刑とも取れるが、一種の流罪と捉える事もできるであろう。
 このような神代のことを除外するとして、日本の史書で初めて「流」が記録の中に現れるのは、このはるか後、允恭天皇24年(西暦換算435年)のことになる。この時代についてはまだ歴史上信用に足るかどうかは怪しいところだが、取り敢えずこの事件を追うことにしよう。
 允恭天皇24年6月、天皇の羹が突然氷になるという事件が起きた。これを怪しんだ天皇が卜を立てたところ、近親相姦している者がいる、という卦が出た。これを元に調査したところ、ともに美男美女として知られていた、皇太子の木梨軽皇子とその妹の軽大娘皇女が密通していたことが明らかになった。
 この後については日本書紀と古事記で記述に違いがある。日本書紀によると、皇太子は罰するわけにいかず、結局妹の軽大娘のみが伊予に流されたという。一方、古事記のほうはもう少し記述が多い。秘密が露見した軽皇子は反抗の用意をして大臣宅に籠もるが、弟に包囲され、結局大臣によって引き渡される。そして、伊予に流されるのも軽皇子の方である。その後、都に残された妹の軽大娘は太子への恋心が忘れられず、ひそかに都を抜け出し、伊予の湯の町で再会し、そのまま二人で抱き合って心中したということである。

 その後、流刑の記事が現れるのは、大宝律令の成立を待つことになる。701年の大宝律令制定により、笞・杖・徒・流・死の五罪が設定され、ここで流罪は死罪に次ぐ刑罰として位置づけられる。この流罪は具体的には三段階に分けられており、近流は300里、中流は560里、遠流は1500里と定められた。そして配流所では労役1年が課され、労役を終えるか大赦により免じられるかすれば、現地で元通りに民籍を復し、口分田を支給した。なお、この労役1年の常流の他に、重罪人については労役3年の加役流も施行されていた。
 この制度は、その後724年に従来の里による規定からより具体化され、越前・安芸を近流、諏訪・伊予を中流、伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐を遠流の対象国とするように改められた。
 さて、この律令における五罪は、当時の唐の律令の刑罰制度である五刑をほとんど直輸入したものと言える。大宝律の条文は現在ほとんど残っていないが、現存する養老律の条文は、唐律の条文とほとんどそっくりのものである。
 しかし、他の4つは唐における刑罰思想もそのまま導入されていたと考えられるが、流に関してはその思想において大きな違いがあったようである。唐律では、配流=本籍の強制移転と服役によって完了する罪として流刑は捉えられていたが、日本では流罪はすなわち、共同体からの追放による社会的生命の剥奪を意味していたと考えられている。
 701年の大宝律令を修正して752年に成立した養老律令によって、律令は完成した。その後、奈良時代から平安時代、そして更には武家政権が出来ても、公家法として律令は残存し続け、そして流刑制度は執行されていた。鎌倉幕府の幕府法では没収刑などの財産刑や出仕停止などの名誉刑が中心だったが、律令の中から死刑としての斬刑とともに、遠流の制度を採用している(これは、所領没収に当たる刑を犯した者が所領を持っていなかった場合に。室町時代になっても、例えば観世元清(世阿弥)は1434年に佐渡に流されている。この律令による流刑制度が最終的に消滅したのは、戦国時代を迎えてからのことだった。
 応仁の乱によって、日本全国を統一的に支配しうる政治勢力は存在しなくなり、従って遠国に罪人を追放する流罪の制度も消滅した。もっとも、周防近辺を支配していた大内家の分国法をまとめた大内家壁書には、長門国見島への流刑制度が記されている。

 さて、実際にこの頃の流人はどのような生活をしていたのだろうか。制度上は先ほどの通り、徒と死の間の罪として流は規定されていたが、実際には流罪を適用されるのはほとんどがある程度の上流階級の人々だった。従って、後述する江戸時代の流人とは、この点でも様相を異にすることを踏まえておく。
 従って、流されてくる流人というのは知識も教養もあり、現地の人間からはむしろ自分たちより数段上の尊敬すべき人物として扱われていたようである。また、流人とは言え、それ以前の官位に応じて国から扶持が普及されている。延喜式によると、通常は一日に米1升と塩1勺が支給され、また春には田と種子が支給されていた。大抵はそれを付近の民に耕作させて、割合安楽な生活を送っていたと言われる。その意味では、京の栄華からは遥か遠く離れた異境の地で寂しくはあっても、生活自体は特に厳しいものではなかったようだ。
 なお、このような実態と律令の記述の間の乖離については、今回のレジュメを作るまででは記述を見つけられなかった。タテマエとホンネという関係だったのかも知れないが、今回はこの点について曖昧となってしまったことを了承いただきたい。

3 江戸時代の流刑

 江戸時代前期については、実は情報はさほど多いわけではない。統一的かつ明確な刑法典は、徳川吉宗によって1742年に公事方御定書が編纂されるまで存在せず、そこまでの刑事制度は慣習法の基盤の上に立っていた。この公事方御定書は今までの慣習法の集大成のようなものであり、実質的に公事方御定書の成立によって大転換を遂げたという訳ではないが、この成立以降から流刑が定式化されて行われたことは間違いないだろう。
 しかし、この成立以前から、伊豆や時には佐渡に向けての流刑は行われていた。江戸時代最初の流刑と言えそうなのは、関ヶ原の戦いで敗北した宇喜多秀家およびその一族の八丈島への流罪である。なお、これは八丈島への史上初めての流罪だった。彼がこの地に流されたのは、まだ豊臣家の影響も無視できない状況の中で、彼を、幕府の目の届く、可能な限り辺境の地に送る必要があったからだ、とも考えられる。ちなみに、宇喜多家はその後も八丈島で子孫が繁栄し、脈々と現在にまで続いている。
 さて、江戸時代において、流罪は遠島刑とされ、死刑に次ぐ重罪と考えられていた。初期には流刑地は一定化されていなかったが、公事方御定書により、江戸から流される者は伊豆七島に、京・大阪以西の各地から流される者は薩摩五島・隠岐・壱岐・天草諸島に流されることになった。
 その後、1798年に、伊豆七島のうち伊豆大島、御蔵島、神津島、利島は流人地指定から外れる。これに関しては、伊豆大島以外の3島は物資不足が原因とされているが、伊豆大島については江戸に近すぎて不適格という理由とされている。この結果、後述する島替の場合を除いては、八丈島と三宅島、新島の3島に限定された。そしてこの体制は、明治維新までそのまま踏襲されることになる。

4 伊豆の流刑人

 では、実際に流刑はどのような手続きの元で行われていたのかを見ていくことにする。以下では、特に代表的な伊豆七島への流刑を例に追っていくことにする。

 罪を犯した者は、吟味の結果として遠島を申し渡される。この申し渡しの段階では、通常どの島に流されるかは決まっておらず、実際に送り先が決定するのは出帆の前夜のことになる。
 出帆の前日までは牢屋に収監される。この際、身寄りのある流刑者に対しては、前日まで、幕府の制限の範囲内で差し入れを受け取ることが出来るが、実際には上限いっぱいまで差し入れを受けられる者は稀少だった。身寄りがなく差し入れのない者には、幕府から、例えば一般庶民の場合は金2分が支給されている。
 流人船は、初期は春と秋の年2回、1798年に島会所と呼ばれる物産の交易書を作ってからは春夏秋の年3回派遣されるのが常だった。浦賀を出た流人船は、外洋をなるべく避けて伊豆半島沿いに南下し、下田近辺から初めて外洋を横断して三宅島に向かっていた。
 なお、流人船の行き先は三宅島までであり、八丈島に向かう流人は数ヶ月から半年程度、三宅島に滞在してから八丈島に向かうのが常だった。これは、三宅島から八丈島まではかなりの距離があり、また八丈島は風待ちを行って流人船を直接派遣していては運用が難しいというのも1つの理由であったと考えられる。なお、この間に難破したという事例も充分存在しており、三宅島から八丈島に向かった船が嵐に巻き込まれ、当時の八丈島の島名主以下の乗組員が八丈島の目の前で遭難死する、という悲劇も残っている。
 ちなみに、流人にとってもこの三宅島滞留は辛かったようである。そもそも三宅島では自分の島の流人ならともかく他の島の流人に対しては冷淡だったらしく、また流人から見ても落ち着き先の島ならともかく、その途中で待たされると言うのは精神的に厳しいものがあったようだ。せっかく幕府から支給された金をここで生活費に飛んでしまい、無一文で八丈島に向かった者も少なくないと言う。また、この地で病死したり自殺したりした流人も多い。

 島に到着し護送役人から村役人に引き渡された流人たちは、次に村割りを行われてどの村に配するかを決定される(集落の1つしかない小さな島では行わないが)。ちなみに、この時代に流人を引き受けるというのはそのまま村の負担増にも関わっていたので、どこの村も流人を嫌って押しつけ合う傾向が強かったと考えられる。

 さて、こうして流刑地に到着した流人たちだが、実は流人にとって義務的な労役などは存在せず、それどころか島民は流民を大事にして生かしていくことが江戸幕府から義務づけられていた。そして実際に、島民は余程困窮していない限りは流人を大事にしていたようだ。例えば三宅島では年に何度か、収穫の最後の一日を流人に開放し、落ち穂を拾わせたり残り芋を掘らせたりしていた。もちろん時代によって島役人が多少厳しかったりすることはあったが、大雑把に言えば伊豆七島に置いて島民は流人に対して親切であったようである。
 もっとも、島全体を飢饉が襲ったときには、島民ですら生きるのに必死なのに流人にまで配慮する余裕があろうはずもない。特に元禄13年から14年に掛けて八丈島で大飢饉が起こったときには、多くの流民が餓死もしくは餓死同然の病死を遂げている。越後高田藩のいわゆる越後騒動で八丈島に流された永見大蔵など、徳川家康の血を引く人間であり見届物には事欠かなかったようだが、千両箱を抱きながら餓死した、という哀れな話が伝わっている。

 島の人口に対する流人の割合は、だいたい5%から多いときで10%ぐらいとなっていた。前述の通り島において特に義務を課されることはなかったが、その反面、幕府からは何も助けが出ることもなく、基本的に全て自給自足するのが前提だった。手に職のあるものはその職を生かして生計を立てていたが、その職が島では役に立たなかったりそもそも手に職を持ってない者は、農家や漁業の手伝いをして食いつないでいた。こうして働ける者は何とか生きて行けたが、老人や病人となるとどうしようもなく、島民の家々を回る乞食として生計を立てさせていた。逆に言うと、ともかくも乞食をさせて、見殺しにしない態勢だけは作っていたとも取れるが、一度飢饉が起きると真っ先に犠牲になるのは当然ながらこれらの人々だった。

 島では流人は「流人小屋」と俗称される建物に住んでいたが、これもピンからキリまであり、良いものは島民の住んでいた空き家や片隅の隠居所を借りて住んでいたが、悪いものだと床と天井としかないような吹きっ晒しの小屋もあったという。流人たちは共同生活をすることは禁じられ、原則的には一人暮らしだった。また、これらの流人小屋は主に内陸部にあったが、これは海を見ていると流人が島抜けをたくらむのではないかという恐れだった。
 ちなみに、流人の妻帯は禁じられていた。余裕のある流人は「水汲女」という名目で実質的な妻を持つこともできたが、それにしても流人小屋で起居することは最後まで禁じられており、また多くの流人はそんなことが出来るほどの余裕もなかった。そして、女流人もある程度はいるとは言え、流人の男女比は男性が圧倒的に高い。このような状況下で、しかし男女の性問題を巡るトラブルというのはほとんど伝わっていない。ここから先は正式の記録に残っていないので断片的な伝承を手がかりに想像するしかないが、どうやら女流人が多くの男流人たちに共用されていたような状況であったらしい。
 そしてこの問題は、実際に子を孕んでしまった時に悲哀を呼ぶ。元々、前述の通り伊豆の島々は貧しく、島民間でも間引きが儀式的に定式化されていたような状況である。誰の子とも分からない嬰児は、母親自身の手によって沢に沈められるのが習慣化していた。

 こうして、取り敢えず健康かつ無難に過ごしていれば飢饉でも来ない限り取り敢えずは食いつないでいける流人生活だったが、ここで犯罪を起こした場合は過酷な刑罰が待っている。
 1つは島替と呼び、より条件の厳しい別の島へのさらなる流罪の処分である。例えば、八丈島のそばにある八条小島は、このような「更なる流罪」専用の島のような位置づけになっていた。
 また、もっと重罪を犯した場合は、死刑が待っている。特に八丈島の場合は独自の方法をとっており、宇右衛門ヶ嶽と呼ばれる断崖絶壁から突き落とされていた。
 そして、流罪生活でいちばん重いものとされていたのが島抜け、要するに島からの脱出である。これが発覚すると流人はおろか島役人たちも処罰されるので、島民はこれをもっとも警戒していた。前述の通り流人小屋は海の見えない場所に限っていたし、極端な例だと海を見ながら「今日は凪いでいるなぁ」と呟いただけで役所に連れて行かれて尋問されたという。
 当然ながら、これは例え計画だけであろうと発覚するとたちまち死罪である。また、本土までの航路は長く、それまでに島民に捕まったケースがほとんどであり、例え脱出できたとしても一生を逃げ回って過ごさねばならず、結局それに成功した例は万に一つも存在しない。
 それにも関わらず、島抜けの企みは頻発した。このように多発する理由には、遠島刑というものに刑期の設定が無かったことが挙げられるだろう。目安としては15年ほどいれば赦免される可能性も出てくるが、結局それは淡い望みであり、50年以上も島にいて結局赦免されないまま亡くなったケースも多々ある。このような終わりのない生活への不安から、死を覚悟で島抜けは行われていたのであろう。

5 流罪に処される条件

 さて、このような流罪に処される条件というのはどのくらいの罪だったのだろうか。ちょっと長くなるが、「御定書百箇条」に示されているものをいくつか列挙してみる。
・寺持ちの僧の女犯
・幼女に不義をしかけ怪我をさせたもの
・車を引っかけ人に怪我をさせたもの
・幼年(15歳以下)で弁えなく人を殺したもの
・無実の実子や養子、あるいは弟妹甥姪を短慮で殺したもの
・人殺しの手引きをしたもの
・指図を受けて人を殺したもの
・過剰防衛で人を殺したもの
・バクチの胴元、インチキ賭博
・辻番所でバクチをしたもの
・親を殺され死骸も確認したのに訴え出ないで隠していたもの
・渡船が沈んで溺死者が出た場合の船主
・日蓮宗三鳥派、日蓮宗不受不施派
・いわゆる抜け荷

 ただし、これはあくまで一例に過ぎない。江戸時代における刑法制度には罪刑法定主義の概念はなく、類推適用によってさらにさまざまな犯罪について遠島刑が適用されており、それに加え、本人が無罪でも、親兄弟などに連座して遠島刑に遭う者も少なくなかった。また、そもそもこの御定書百箇条が出来たのは1742年のことであり、それ以前の流刑者については統一的な基準はなかったと見られる。伊豆諸島においては、この制定以後に非人や無宿などの一般庶民の流人が増えていることが特徴として挙げられる。一方、天草地方においては、初期は単なる勘当された無宿人の軽罪などで遠島に処置されている。中には、他人の女房に横恋慕してエスカレートしてストーカー状態になって遠島に処置された、というケースまで存在する。その他、お家騒動の犠牲、軽罪の累犯により最終的に遠島にまで達してしまったヤクザ、捨て子を番所で預かっていたら犬に食われてしまった番人、あるいは生類憐れみの令の下で、犬を殺した、死んだ馬を殺した、更には熊を殺したなどの自由で遠島となった人間、などなど流刑になった事由は多種多様である。

6 佐渡の流人と水替人足

 一般的に流人という言葉を出したときに、よく想定されがちなのが佐渡の水替人足という存在であろう。佐渡の金山で重労働に就かされる姿は、悲惨な流刑、というイメージと重ねられて語られることが多い。
 しかし本来、佐渡人足は、刑事制度上の流刑ではない。だが、江戸時代の流刑史を語る上で無視できない存在ではあるので、簡単に触れておく。
 確かに中世以前には、佐渡は遠流地の1つとして重要な役割を占めており、承久の乱の際に流された順徳上皇や、正中の変に際して流されてのちに現地で斬罪に処された日野資朝など、歴史に残るような人物も佐渡に流されている。更には、江戸時代の初期にも、相川流人と呼ばれる流人たちが佐渡に送られている。しかし、元禄13(1700)年を最後に佐渡への流刑は途絶え、そして公事方御定書の配流地からも外されてしまう。
 1000年近くも流人が送られてきた佐渡が外された主な理由はいくつか考えられる。1つは、幕府の財政を担う金山の所在地に罪人が送られることに際して佐渡奉行が難色を示したこと。更には、佐渡まではそのほとんどが陸送になるので、流人の護送に際して沿道警護などの負担が重かったことなどが考えられる。
 しかし、18世紀後半になって、今度は江戸におけるヤクザまがいの無宿人の増加が問題になってきた。ここで当時の勘定奉行石谷清昌は、これを人手不足の佐渡金山で働かせれば、江戸の治安も良くなり一石二鳥と考えた。当時の佐渡奉行は前述の理由から渋ったりしたようだが、結局1778年に第1陣が送られる。そしすぐに、人足たちが以外に大人しかったことと、水替人足の人手不足を安価に補えることから、以後はむしろ佐渡側が人足を送るように頼むようになる。これに対して江戸側は、佐渡まで陸送する手間と、無宿狩りが徐々に効率が悪くなってきたことから渋るが、結局は有罪の無宿を送ったり、更には全国の無宿を集めて送ったりすることで対応した。

 さて、この佐渡の水替人足の扱いは、流人とは比べものにならないほど酷いものであった。何も罪を犯していないにも関わらず、佐渡までの行程での扱いは重罪人同然の扱いであり、更に佐渡に着けばまったく自由もなく、隔日一昼夜交代で、わずかな灯りしかない闇の中でひたすら鉱山のわき水を汲み続ける労働に従事させられる。佐渡金山は掘り進むに連れて出水が激しくなっており、一瞬とも水汲みを休むことは出来ず、一瞬でも休めば監督官の鞭が飛んでくる状態だった。また労働から離れても、小屋に閉じこめられて一歩も外出は許されず、食事だけは一日一升五合とたらふく出されたものの、自由は全くない生活だった。

 ここで注意すべき点は、これらの無宿者は何か罪を犯した訳ではない点である。名目上は、あくまで無宿人の改心矯正を目的としており、現実に佐渡側は数年後には改悛した者を江戸に帰すことを申し出た。しかし、江戸側はこれを身許引受人がないことを理由に拒否する。江戸側にとってこれは体の良い厄介者払いの棄民政策であったのだ。結局、10年を目安として改悛の情のある者は現地で平民に戻して良い、という規則が出来たのは、最初の人足が送られてから45年後の1823年のことだった。ただし、実際にはこれは死の労働であり、解放されて普通の生活に戻れる者はごく少なかった。江戸時代を通して佐渡人足に送られた者は数千人を数えるが、そのほとんどは重労働と油煙の害により三年もすると黒い血を吐いて死んだと言われている。

 その他の流刑地については、残念ながら資料は伊豆や佐渡ほどには残っていないので省略することにする。
 また、藩法によっても流刑は行われていた。例えば加賀藩においては、越中五箇山に流人を送っていたことが分かっているし、仙台藩などでも藩法に遠島刑は記されている。また、流刑に処する場所がない藩については、これを永牢で代行することも可能とされていた。

7 流刑地の実像

 一般的に流刑というと、かなり悲惨な生活が目に浮かぶ。特に前述の佐渡の水替人足のイメージが強く意識されていることから、遠島刑には悲惨な印象が付きまとっている。

 しかし、無事生活が軌道に乗ってしまえば、決して島の暮らしも悪くはなかったらしい。長年島に住んだ者の中には、赦免されて一度は江戸に戻ったものの、結局は島に戻ってこの地で骨を埋める者も少なくなかった。もちろん、このような感情を抱けるのは恵まれた者であろう。国許の親類縁者からは「見届物」として生活物資を送ることが制度的に許可されており、この見届物を得られる流人は流刑地でもそれなりの身分をもって暮らせたらしい。悪女として歴史に残る白木屋お常などは、庭に花壇を作り、花見や月見の宴を催したりする何とも風流な生活を送っていたという。

 流人の生活が楽だ、とは到底言えない。今までの生活から一切切り離された世界で暮らしていくのはそもそもそれ自身もの凄く大変なことであるし、恵まれた流人はごくごく一部である。さらには飢饉になれば、多くの流人たちが餓死をしている。しかし、想像していたよりは自由も多い生活だった、というのが正直な印象だった。島民はわりあい暖かく流人を迎えており、流人島は、多少不利で苦しいながらに、それなりに生きていくこともできる場所であった。

 また、一部の文化人は、その文化を通じて島の発展に非常な貢献をしている。御蔵島に流された奥山交竹院(絵島事件の関係者である)などは、当時三宅島の属島的な扱いで三宅島民に冷遇されていた御蔵島島民のために尽力し、江戸の知り合いのコネを活用してついに三宅島からの独立を勝ち取ったとして、現在でも島民に感謝されている。また、19世紀前半に三宅島の産業が大きく発展した影には、常に流人たちの姿があったといわれている。
 このように、実際には流人たちは、少なくとも疎外されたよそ者ではなく、島の住人の一員として迎えられていたようである。

 このような流人を迎える島民たちにとって流人とはどのような存在だったのだろうか。そもそもただでさえ孤島の生活は苦しい。島には耕地もほとんどなく、人口の5%から多いときには10%近くの人数の流人を受け入れることはかなりの負担であった筈である。しかしこの点に関して、史料上は明らかな見返りは確認できない。「見返りは一切無かった」と書いてある参考資料すらあった。
 前述の通り、流人は必ずしもマイナス要素ではなかった。例えば八丈島は無医村の状態であり、わずかでも医術の心得があるものが配流されてきたときには村人たちは大歓迎でそれを迎えていたという。また、他にも教育、建築、宗教等々で江戸の最新文化が流人たちによって運ばれていたのも事実である。
 しかし確かにマイナス要素は大きい。後期は無宿や非人もたくさん流されており、単純な食い扶持の問題だけでなく治安の面でも良くなかった筈である。特に時代が下がって流人の数が増えて来るに従って、どうしても流人と島民との間には反目もあったようである。
 ただ、狭い島のこと、流人は島民の力を借りねばなかなか生きて行けず、そして島民としても流人たちと喧嘩して無駄な労力を使った上に幕府に弾圧されるのは避けたい。そのような思惑が重なって結局は共生の道を選ぶしかなかったのではないか、と私は考える。

8 明治時代の流人

 明治維新後、明治元年に制定された「仮刑律」により、遠島の刑期が3年、5年、7年の3段階と初めて設定された。更に明治3年の「新律綱領」により、従来の流刑地を廃してこれを北海道に限定し、同時に刑期終了後はその地に居住させることにした。
 これによって、流刑の様相は一変する。流人たちは海路北海道に送られると共に、この流刑は同時に配所での強制労働を伴うものとされた。
 その後、10年ほど何度か法律が改正された結果、明治15年には、国事犯のみを流刑に処することにした。
 この明治の流刑では、流刑の目的がまったく違っている。従来の江戸時代の流刑は単純に遠隔地に追放するだけのものだったが、明治時代のこの流刑は、長期刑の囚人たちという確実安価な労働力を利用して北海道開拓に当たらせる」というその強制労働こそが第一の目的だった。
 そのため、北海道に送られた流刑囚たちは、集治監と呼ばれる牢屋に送られて過酷な強制労働に従事させられることになる(余談になるが、現在の網走刑務所もこの集治監を発祥として作られたものである)。開拓や道路建設、あるいは炭坑労働や硫黄鉱労働など、北海道ではいくらでも労働はあった。
 時は自由民権運動の最盛期であり、多発する事件で捕まった志士たちが捕らえられて北海道に送られ、原生林を伐採し開拓に勤しんでいたらしい。しかしここでの様子は江戸時代とは一変しており、監獄に住み警官の監督の元で労働をしていた。また、食料は国の手により支給されており、自分で探す必要はなかった。もっともその代わり、監獄では24時間厳しい監視の目が光っており、当時の報告書によるとまだ炭坑にいる方が自由があって桃源郷だった、という流刑囚の供述も残っている。
 このころが、流人が存在した最後の時期になる。その後、大日本帝国憲法の成立により国事犯も減少し、またわざわざ北海道に流すことは既に不便不利となっていたため、ほとんど実行されなくなってしまった。
 明治41年10月1日、現行刑法の成立により、正式に流刑の制度は消滅した。


◎参考資料
・単行本
大隈三好 「江戸時代流人の歴史」(生活史叢書20 雄山閣、1970年)
大隈三好 「伊豆七島流人史」(雄山閣歴史選書20、雄山閣、1974年)
今川徳三 「八丈島流人帳」(毎日新聞社、1978年)
今川徳三 「八丈流人犯科帳」(毎日新聞社、1979年)
森末義彰編「流人帳−伊豆・佐渡・隠岐の流人−」(人物往来社、1964年)
石井良助 「刑罰の歴史」(明石書店、1992年)
石井良助 「江戸の刑罰」(中公新書31、1964年)
大久保治男「江戸の刑法−御定書百箇条」(高文堂新書21、1978年)
森永種夫 「流人と非人」(岩波書店、1993年/原著岩波新書青502、1963年)
東京都  「都史紀要12 江戸時代の八丈島」(東京都、1964年)
大隈三好 「明治時代流人史」(雄山閣歴史選書25、雄山閣、1974年)

・論文
辻正博  『流刑とは何か−唐律の流刑再考−』
(「滋賀県医科大学基礎学研究」第10号、1999年)
生駒啓  『越中の秘境五箇山を訪ねて−加賀藩流刑小屋について−』
(「罪と罰」21巻4号、1984年)
梅村恵子 『「流」の執行をめぐる二、三の問題−日唐の家族意識の違い−』
(「中国礼法と日本律令制」(池田温編、東方書店1992年)所載)


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