2003年7月4日・11日・10月17日
『晋書』 宣帝紀  田中愛子


  はじめに

『晋書』は、晋(西晋・東晋あわせた)の歴史を記した史書である。二十四正史の一であり、形式は紀伝体。唐の太宗李世民の勅のもと、房玄齢らが撰した。それまでに存在した十八の晋代史をもとに編纂されたものである。
ところで、この『晋書』には、いわゆる「三国志」の登場人物とされる人々の伝も含まれている。だが、ポピュラーで需要の多い『三国志』と異なり、『晋書』には和訳が少ない。したがって、彼らの伝を現代日本語で読むことはなかなかに困難である。
そこで、今回、「三国志」中最も著名な人物の一人である、晋の宣帝、すなわち司馬懿(仲達)の紀を、翻訳してみたい。拙い訳ながら、何らかの形で役に立つことができれば、幸いである。
テキストは、中華書局発行の標点本テキストを用いた。基本的にこのテキストに基づいて訳を作成している。また、汲古書院発行『和刻本正史晉書(影印本)(一)』及び徳間書店発行・『中国の思想』刊行委員会訳『正史三国志英傑伝U 成る(魏書・下)』を、和訳の参考とした。
 最後に、なさけない話ではあるが、誤訳の可能性が大いにあることを、お詫びしておきたい。


  晋書  宣帝紀

 宣帝は、諱を懿、字を仲達という。河内郡温県孝敬里の出身で、姓は司馬氏である。司馬氏の祖は、高陽(註1)の子重黎(註2)から出た。重黎は、軍事職である祝融(註3)に就いた。唐王朝、虞王朝、夏王朝、商王朝と経てゆく間、一族は代々軍事職を継いでいった。周代になると、一族の者は、軍事職に就いていたことから司馬の職を務めた。その後、周の宣王の時代、程伯休父は、司馬として徐州を平定した。その功により、官職を姓として賜り、司馬という氏を創始した。楚漢抗争期、司馬卬は趙の武将となり、国君たちと共に秦を討伐した。秦が滅ぶと、自ら王位に就いて殷王となり、河内に都を置いた。漢は河内を郡としたが、司馬の子孫はそのままそこに居住しつづけた。司馬卬から八代目に生まれたのが、征西将軍となった司馬鈞(字は叔平)である。司馬鈞の息子が、豫章太守となった司馬量(字は公度)であり、司馬量の息子が、潁川太守となった司馬儁(字は元異)であり、司馬儁の息子が、京兆尹となった司馬防(字は建公)である。宣帝は、この司馬防の第二子である。宣帝は、若い頃から並外れて優れた志を秘めていた。賢く、数多くの大計を有しており、学識や見聞が広く、儒教の経典をしっかりと諳んじていた。後漢末期、世の中は非常に乱れており、宣帝はいつも、嘆き、天下を憂いていた。南陽太守で司馬氏と同じく河内郡出身である楊俊は、優れた人物批評家であった。宣帝に会い、まだ若いが非常な大器であるとした。清河出身で、尚書を務めていた崔琰は、宣帝の兄司馬朗と親しくしていた。彼は司馬朗に、「君の弟御は大変聡明で、果断且つ優秀な人物だ。君など到底及ばない」と言った。

 建安六年[二〇一年]、河内郡は宣帝を計掾に推挙した。この年、魏の武帝[曹操]は司空となった。武帝は、宣帝のことを聞き、宣帝を仕官させようとした。宣帝は漢の命運が尽きかけていることを知ってはいたが、節を曲げて曹氏に仕えようとは思わなかった。そこで、中風で起き上がれないと理由をつけて断った。武帝は人を遣わし、夜中にこっそり宣帝の様子を探らせた。宣帝は臥せてじっとしたまま動かなかった。武帝が丞相となると、再び宣帝を仕官させ、文学掾にしようとした。武帝は、使いの者に勅した。「もしまたぐずぐずしているようであれば、捕縛せよ」。宣帝は恐ろしくなり、武帝に仕官した。また、こうした事情から、魏の太子[曹丕]と交際するようにもなった。黄門侍郎に転任し、次に議郎兼丞相東曹の属官となり、それからまもなく主簿となった。
 張魯討伐に付き従ったとき、宣帝は武帝に進言した。「劉備はぺてんをはたらいて劉璋(註4)を捕らえましたが、蜀(註5)の人々はまだ劉備に心を寄せていません。その上、こちらからは離れた場所にある江陵を争奪しあっています。この機会を逃してはなりません。今もし漢中にこちらの武力を示してやれば、益州は動揺します(註6)。そこでこちらから兵を進めて蜀軍と対峙すれば、蜀の軍勢は瓦解します。この勢いに乗ずれば、たやすく戦果を挙げることができます。聖人は時を違えず、時を逃さぬものです」。武帝は、「まったく人は足ることを知らない。既に隴右を得ているというのに、なお蜀を望むか」と言い、とうとう宣帝の言葉に従うことはなかった。しばらく後、孫権討伐に付き従い、孫権を打ち破った。軍を返すところへ、孫権が使者をよこして降伏させてほしいと乞い求めてきた。上表の中で、孫権は自らを武帝の臣下と称し、天命について述べた。武帝は、「この小僧が、跪いてみせながら、私をいろりの炭の上に据えようというのか(註7)」と言った。宣帝は答えて言った。「漢王朝の命運は尽きております。殿下は天下を十のうち九まで握っていらっしゃいますが、それでも漢に臣下として仕えていらっしゃいます。孫権が臣下であると称してきたのは、天の、そして人々の意思なのです。虞・夏・殷・周の初代が謙遜して天子の位を受けないということがなかったのは、天を畏れ且つ天命を悟っていたためです」。

 魏が建国されると、宣帝は転任して太子の中庶子となった。常に国家の大計に与り、そのたびにずば抜けて優れた策を献じていた。太子の信任篤く、陳羣・呉質・朱鑠とともに四友と呼ばれた。
 転任し、軍司馬となった。宣帝は武帝に進言した。「昔、箕子(註8)は治国の計を述べましたが、その際、食糧問題を最重視しました。今、天下に、農耕に従事していない者が二十数万人います。治国というものを深慮するに、このような事態を看過するわけにはゆきません。まだ戦乱が続くとはいえ、自ら耕作しかつ防衛してゆかなくてはなりません」。武帝はこの進言を採用した。これにより耕作に励み穀物を蓄え、国は豊かになった。また、宣帝は、荊州刺史の胡脩は粗暴であり、南郷太守の傅方は驕傲であるため、この二人を国境に配置するべきではないと進言した。武帝はこの進言を採用しなかった。蜀の武将関羽が樊で曹仁を包囲している上、于禁らの七つの軍がみな洪水で壊滅するという事態に陥ると、胡脩と傅方とははたして関羽に投降し、曹仁に対する包囲はますます切迫した。
 このとき、漢の献帝[劉協]は許昌を都としていた。武帝はそれでは賊(註9)に近すぎると考え、河北に遷都しようとした。宣帝は、「于禁らの軍は洪水で壊滅してしまいましたが、戦って防衛しようとした地点を失ったわけではなく、国家の大計においてはさしたる損害ではありません。遷都すれば、敵に弱みを晒したこととなりますし、淮沔の人々が非常に不安に思うでしょう(註10)。孫権と劉備とは、親しそうに見えても実際には互いに疎ましく思っております。現状(註11)は、関羽にとっては好都合、孫権にとっては望ましくない状況です。孫権に、関羽の後方を攻撃するよう教えてやれば、樊の包囲は自然と解けるでしょう」と、武帝を諫めた。武帝はこの諫めに従った。宣帝の考え通り、孫権は、武将の呂蒙を使わして西方の公安を襲撃、これを攻略し、その結果、関羽は呂蒙に捕らえられた。
 南からの敵の攻撃が迫っているため、武帝は、かつて荊州の支配下にあった人々や屯田兵たちが潁川に住んでいるのを、みな移住させてしまおうとした(註12)。宣帝は「荊楚の人々は軽はずみで、とかく動揺しがちで落ち着きのないものです。関羽が敗れたばかりである今、悪事をなす者どもがこそこそと日和見をしています。今もし善良な者たちを移住させてしまえば、彼らの気持ちをそこない、彼らは二度と帰ってこなくなるでしょう」と言った。武帝は、この意見に従った。その後、逃亡していた者たちはみな元の仕事に就いた。
 武帝が洛陽で薨去すると、朝野に動揺が広がった。宣帝が葬儀をとりしきったところ、内外ともに粛然となった。宣帝は、棺を奉って鄴に戻った。

 魏の文帝[曹丕]が魏王の位についた。宣帝は河津亭侯に封ぜられ、丞相府の長史に転任した。ちょうどそのとき、孫権が兵を率い、西へと軍を進めた。朝議では、樊と襄陽には穀物がないことから、この二城では呉の侵入をくい止めることは不可能であるとされた。このとき曹仁が襄陽の守りにあたっていたのだが、文帝に曹仁を宛に召還するよう要請がだされた。宣帝は言った。「孫権は関羽を破ったばかりで、基盤を固める時間を必要としており、決して攻めてくることはないでしょう。襄陽は水陸両面における要衝であり、呉の侵入を防ぐには好都合です。放棄してはなりません」。文帝は、とうとうこの言葉に従わなかった。結局、曹仁はその二つの城を焼き捨てた。宣帝の考え通り、孫権が攻めてくることはなかった。文帝は、宣帝の言葉に従わなかったことを悔やんだ。

 魏が漢から禅譲を受けた。この時、宣帝は尚書となった。しばらく後に、転任して督軍兼御史中丞となり、安国郷侯に封ぜられた。

 黄初二年[二二一年]、督軍の職が廃止され、宣帝は侍中兼尚書右僕射となった。

 黄初五年[二二四年]、皇帝は南方へ巡幸し、自軍に対して呉が如何に強いかを示した。宣帝は抑えとして許昌にとどまった。向郷侯に改封され、撫軍兼仮節となった。領兵は五千に及び、その上さらに給事中と録尚書事の位を与えられた。宣帝はこれを固く断った。皇帝は言った。「私は夜昼なく雑事におわれ、片時も心安らぐことがない。これは貴方に栄誉を与えようというのではない。憂いを分かち合いたいのだ」。

 黄初六年[二二五年]、皇帝は再び大水軍を起こし、呉に出征した。宣帝には再び、留守居をして後を守り、内政面では民衆の統括を、軍事面では物資の補給を行うよう命じた。出発前、皇帝は「私は、後事を非常に気にかけている。だから後事を貴方に任せるのだ。曹参(註13)にも戦での功績はあった。だが、漢にとって本当に重要な功績を挙げたのはやはり蕭何(註14)である。私に西を案じさせないようにするのも、またよいではないか」と詔した(註15)。皇帝は、広陵から洛陽に帰ると、宣帝に詔した。「撫軍である貴方には、私が東に行ったときには西を、西に行ったときには東を、まとめていてほしい」。そこで宣帝は、今度は許昌で抑えを務めた。
 皇帝の病が重くなると、宣帝と曹真・陳羣らは、崇華殿の南堂で皇帝にまみえ、政務を輔弼してゆくようにと、共に遺命を受けた。太子[曹叡]には、「この三名を謗る者があっても、みだりに三名を疑ったりしないように」と詔した。明帝[曹叡]が即位し、宣帝は舞陽侯に改封された。
 孫権が江夏を包囲し、武将の諸葛瑾と張霸を派遣して襄陽を攻撃すると、宣帝は軍を指揮して孫権を討伐、敗走せしめた。さらに軍を進め、諸葛瑾と張霸を破り、あわせて千あまりの首級をあげた。宣帝は、驃騎将軍に転任した。

 太和元年[二二七年]六月、皇帝は宣帝に、宛に駐屯し、荊州・豫州の二州の諸軍事を統監するよう詔を出した。
 以前、蜀の武将の孟達が投降してくるということがあった。魏朝は彼を大変厚遇した。宣帝は、孟達はへつらいが巧みで信用ならないと考え、諫めたが、聞き入れられなかった。魏朝は孟達を新城太守とし、侯に封じ、節(註16)を貸し与えた。そこで孟達は、呉及び蜀と誼を結び、密かに国家(註17)をうかがうようになった。蜀の丞相諸葛亮は、孟達の反逆を憎み、かつ孟達が蜀に災いをなすのではないかと恐れていた。孟達と魏興太守の申儀は仲が悪かった。諸葛亮は孟達の決起を促そうと考え、郭模に偽装投降させた。郭模は諸葛亮の命に従って、申儀のもとへ行き、孟達の謀略を漏らした。孟達は謀略が漏れたと聞き、兵を挙げようとした。宣帝は、孟達がすぐに兵を挙げてしまうことを恐れ、孟達に手紙を送って諭した。「将軍は昔、劉備を捨て、国家に身を寄せられました。国家は将軍に国境防衛の任務を委ね、蜀の攻略を任せました。国家の将軍に対する思いには一点の曇りもないといえるでしょう。蜀の者は知者も愚者もみな、将軍に憤りを覚えぬ者はありません。諸葛亮は将軍を攻めようとしています。そうしていないのは、ただその方法が全く無いためです。郭模は将軍が呉・蜀と謀反を起こそうとしていると言いますが、これは蜀にとって重大事であるはずです。諸葛亮は、どうしてそのような重大事を軽くみて表ざたにしたりするでしょう。この程度のことは簡単に分かるのではないでしょうか」。孟達は手紙を受け取ると大喜びしたが、まだ挙兵するともしないとも決断しきれなかった。宣帝は、密かに軍を進め、孟達を討ちにかかった。諸将は、孟達は賊どもと誼を結んでいるのだから、しばらく様子を見てから行動すべきであろうと言った。だが、宣帝は「孟達には信義というものが無い。今、やつは迷っているのだ。やつがどうすべきか決めかねている間に、さっさとやつを始末してしまうべきだ」と言い、昼夜兼行で通常の倍の道のりを進み、八日で孟達の城のもとへ到達した。呉と蜀は、それぞれ自軍の武将を西城の安橋及び木闌塞へと向かわせ、孟達を救出させようとした。宣帝は諸将を分遣し、敵軍の侵攻を阻止した。
 それよりも前のことであるが、孟達は諸葛亮にこう書き送っていた。「宛は、洛陽から八百里離れており、私のもとから千二百里離れています。私がことを起こしたと聞きつけ、私を討つよう天子に上奏し、とって返して戻ってくるには、一ヶ月かかります。その間に私はもう城を固めてしまっておりますし、呉や蜀の諸軍を整えるにも十分でしょう。また、私の居るところは大変険しいので、司馬仲達殿もきっと自らやって来はしないでしょうし、ほかの武将たちが来ても、私は心配無用です」。兵が迫ると、孟達はまた諸葛亮に告げた。「私がことを起こしてから八日しかたっていないのに、もう兵たちが城のすぐ下まで迫っています。どうして彼は、人のなせるわざでないほどに俊敏なのです」上庸城は三面を川に阻まれている。孟達は城の外に木柵を作って守りを固めた。宣帝は川を渡り、柵を破壊し、城の下に到達した。様々な経路から孟達を攻撃し、十六日にして、孟達の甥のケ賢や武将の李輔らが城門を開き、投降してきた。宣帝は孟達を斬り、その首を伝令で都に送った。一万人あまりを捕虜とし、軍を整えて宛に戻った。その後、宣帝が農業を奨励し浪費を禁じる政策をとったため、南の者たちは喜び、宣帝に心を寄せた。
 もともと、申儀は長く魏興におり、国境で威勢を縦にしていた。そのため、彼が勅命を受けたと称しても、それは偽って勅命を受けたふりをしたものであることが多かった。孟達が誅殺されると、自分の身についても不安を抱くようになった。その頃、宣帝は孟達を討ち果たしたところであったため、郡太守たちが宣帝のもとに奉賀に訪れてきていた。宣帝は、これをすべて聴いていた。宣帝は人をやり、申儀も来るようにと、それとなく促した。申儀がやってくると、彼が勅命を受けたと称していた件について問いただした。宣帝は彼を捕らえ、都へ送還した。また、かつて孟達の配下であった七千家あまりを幽州に移住させた。蜀の武将の姚静・鄭他らが一族郎党七千人あまりを率いて投降してきた。
 その頃、国境地帯の郡が新たに魏に加わったが、多くは戸名が無かった。魏朝は明らかになっていない実体をはっきりさせようとしていた。ちょうどその頃、宣帝は都へ行き、朝廷に詣でた。皇帝はこの件について宣帝に相談した。宣帝は答えた。「賊は厳しい法令によって下々の者をまとめています。それ故に彼らは賊を見限ったのです。大まかで根本的な内容のみの法を布き、あるがまま安楽に暮らせるようにするのがよいでしょう」。また、皇帝は、二つの敵のどちらを先に討伐するのがよいかと尋ねた。宣帝は答えた。「呉は、中原の者は水戦に慣れていないと思っています。だから呉は東関(註18)に散らばっているのです。そもそも敵を攻めるには、必ずその喉元を押さえつけ、その心臓をつきくだくことです。夏口と東関とは、賊の喉元と心臓とです(註19)。もし、陸軍を編成して皖へ進撃し、孫権を東に引きつけておき、水戦を起こして軍を夏口に向かわせ、東に気をとられている隙に乗じて呉を討てば、これは神兵も天に従って堕ちるというもので、必ず呉を破ることができます」。皇帝は、どちらの進言もその通りであると考えた。そして、再び宣帝に宛に駐屯するよう命じた。

 太和四年[二三〇年]、宣帝は大将軍に転任し、さらに大都督兼仮黄鉞の地位を与えられた。また、曹真と共に蜀を討伐することとなった。宣帝は、西城から山を切り開いて道を作り、水上からも陸上からも同時に軍を進め、沔水を遡上した。に到着後、新豊県を攻略した。軍は丹口に宿営したが、雨に遭い、軍を返した。

 翌年、諸葛亮は天水に攻め入り、武将の賈嗣と魏平を祁山で包囲した。皇帝は「西で有事が発生した。そなたにしか任せられない」と言い、長安に駐屯して雍州と梁州の諸軍事を統括し、車騎将軍張郃・後将軍費曜・征蜀護軍戴凌・雍州刺史郭淮らを指揮して諸葛亮を討伐するよう、宣帝に命じた。張郃は宣帝に、軍を分割して雍県と郿県に配置し、後方の守りとしてはどうかと勧めた。宣帝は「前軍をととのえ、それだけで敵軍に当たることができるなら、将軍の仰るとおりです。しかし、もしできないのなら、軍を前後に分割するのは、楚が大軍を擁しながらも黥布の虜となった故事(註20)同様の結果を招くものです」と言い、そのまま軍を隃麋へと進めた。諸葛亮は、魏軍が大軍でやってきたと聞き、自ら民衆を率いて上邽の麦を刈り取ろうとした(註21)。武将たちはみなそれに不安を抱いたが、宣帝は「諸葛亮は思慮深いが決断力に乏しい。必ずや自軍の守りを固めて安泰にし、それから麦を刈り取るだろう。私なら二日間昼夜兼行で進めば十分間に合わせることができる」と言った。そこで、兵の装備を軽装にし、昼に夜をついで上邽に向かった。諸葛亮は魏軍の巻き上げる砂塵を遠くから見、逃げた。宣帝は「我々は通常の倍の道のりを進んで来たため、疲労している。兵法を知る者であればむさぼりかかるところである。だが、諸葛亮は渭水を天険に我々に攻めかかろうとはしない。これなら与し易い」と言った。さらに軍を進めて漢陽に宿営し、諸葛亮と遭遇した。宣帝は陣をかまえて諸葛亮を待ちうけた。武将の牛金に軽騎を率いて諸葛亮をおびき寄せさせた。両軍が接触したが、それだけに終わり、諸葛亮は退却した。宣帝はこれを祁山まで追撃した。諸葛亮は鹵城に屯営し、南北の二つの山を天険とし、川をせき止めて二重に防御を固めた。宣帝が攻撃して防御を破ると、夜になって諸葛亮は逃亡した。宣帝はこれを追撃して破り、捕虜と斬られた者とは数万にのぼった。皇帝は使者を遣わして軍を労い、宣帝に封邑を加増した。
 その頃、軍師の杜襲と督軍の薛悌とが、「来年麦が実れば、諸葛亮は必ず攻め入ってくるでしょう。ところが隴右には穀物がありません。冬になったら予め穀物を隴右に運び込んでおくべきです」と言ってきた。宣帝は言った。「諸葛亮は、二度祁山に侵攻し、一度陳倉を攻撃したが、いずれも敗北し、退却した。たとえ今後出撃してきたとしても、再び城を攻撃することはない。野戦を仕掛けてくるはずだ。戦う場所は、隴東であって隴西(註22)ではない。また、諸葛亮はいつも食料不足をかこっている。帰還すれば必ずや穀物を蓄えにかかるだろう。推測するに、三年間以上は動けないであろう」。そして、宣帝は、冀州の農民を上邽に移住させて耕作させ、京兆・天水・南安の製鉄を統制してゆくよう、上表した。

 青龍元年[二三三年]、成国渠を掘削し、臨晋陂を築いた。これによって数千頃の農地を灌漑して整備し、国力を充実させた。

 青龍二年[二三四年]、諸葛亮は再び、十数万の兵を率いて斜谷から出撃し、郿の渭水南岸に砦を築いた。皇帝はこれを憂慮し、征蜀護軍の秦朗に歩兵と騎馬二万を統轄させ、宣帝の指令に従わせた。諸将は渭水の北に軍を置いて諸葛亮を待ちうけようとしたが、宣帝は、「民は渭水の南に集中している。ここは争奪の的となるだろう」と言い、すぐに軍を率いて渡河し、川を背にして砦を築いた。そして諸将に、「諸葛亮がもし剛勇であるのならば、武功に出てきて、山にそって東に進むはずである。もし西に進み五丈原に出たのであれば、我々の軍は事なきを得るであろう」と言った。はたして諸葛亮は五丈原に出、渭水を北へ渡ろうとした。宣帝は武将の周当を陽遂に駐屯させ、諸葛亮をおびき出させた。数日の間、諸葛亮は動きをみせなかった。「諸葛亮は五丈原で戦おうとしている。陽遂に向かいはしない。やつの狙いは分かっている」と宣帝は言った。武将の胡遵と雍州刺史の郭淮を陽遂の防衛に当たらせ、積石で諸葛亮と対峙した。こうして、五丈原に臨む地で戦いが始まった。諸葛亮は軍を進めることができず、五丈原に退却した。ちょうどそのとき、彗星が諸葛亮の砦に堕ちた。宣帝は諸葛亮が必ずや破れるであろうことを知り、奇襲部隊を送りこんで諸葛亮の背後を攻撃した。その結果、五百あまりの首級をあげ、捕虜千あまりを獲得した。降伏した者は六百人あまりであった。
 その頃、朝廷は、諸葛亮は遠来の軍であるため、諸葛亮にとってはすぐさま戦う方が有利であると考えていた。そこで、宣帝には常に、慎重にかまえ、蜀軍の乱れをうかがうよう命じていた。諸葛亮は何度も戦いを挑んだが、宣帝は出撃してこなかった。そのため、諸葛亮は宣帝に女物の髪飾りを送りつけた。宣帝は怒り、雌雄を決したいと上表した。皇帝はそれを許さず、剛直で厳しく諫言する性格の家臣である衛尉の辛毗に旌節(註23)を与え勅使として派遣し、彼を軍師として宣帝をとどめさせた。その後も諸葛亮はまた戦いを挑んで来、宣帝は兵を出して応戦しようとしたが、辛毗が旌節を盾に陣営の門に立ちはだかったため、宣帝は諦めざるを得なかった。これより前のことであるが、蜀の武将の姜維は、辛毗がやってきたと聞き、諸葛亮に、「辛毗が勅使としてやってきましたから、賊が出てくることはもうありませんね」と言った。諸葛亮は言った。「彼には、もともと出撃するつもりなど無かったのだ。決戦を強く願い出た理由は、自軍の兵たちに己の勇武を示しておきたかったからだ。『将、軍に在れば、君命も受けざるところあり』。もし本当に出撃して私に勝てるつもりでいるのなら、どうしてわざわざ千里の道を行き、戦いたいと願い出たりするだろうか」。
 宣帝の弟の司馬孚が、手紙で軍の様子について尋ねてきた。宣帝は、「諸葛亮は、志は遠大であるが、機を見るに敏でない。謀計に優れるが、決断力に乏しい。戦術に長けるが、正攻法しかとることができない。十万の兵を連れているといっても、すでに私の術中に堕ちているのだ。必ず打破できる」と返事を送った。諸葛亮と対峙すること百日あまり、諸葛亮は病で逝去した。蜀の武将たちは軍営を焼き払い遁走した。住民があわててそのことを告げてきたため、宣帝は兵を出して蜀軍を追撃した。諸葛亮の長史の楊儀は、旗指物をかえし戦鼓を鳴らして宣帝に向かってくるような様子であった。宣帝は、窮した敵を追い立てはすまいと考えた。そこで楊儀はこれを助けに陣を整え、撤退した。数日たち、蜀軍の軍営跡に行った。蜀軍の遺していったものを見、文書や糧秣を大量に獲得した。宣帝は、諸葛亮は間違いなく死んでいると判断し、「彼は天下の奇才であった」と言った。辛毗はまだ本当に諸葛亮が死んだのかどうかは分からないと考えていた。宣帝は「武人が重んじるものは、軍の文書や機密、兵馬や糧秣である。今、蜀軍はこれらをみな置きすてていってしまった。五臓をみな捨ててなお生きながらえている人間など、どうしておろうか。すぐに追撃すべきだ」と言った。関中にははまびし(註24)が多い。宣帝は兵士二千人に、底が平らで柔らかな木でできた履き物を履いて前を進ませた。はまびしがみな履き物に踏みとられると、そのあとを騎馬兵や歩兵が進んだ。追跡して赤岸に至ったところで、諸葛亮の死の詳細を掴んだ。時の民衆は、「死んだ諸葛が、生きた仲達を逃走させた」と諺に言った。宣帝はこれを聞くと、笑って言った。「私は生きている者であれば何とかすることもできるが、死んだ者はどうしようもない」。
 それより前のことであるが、諸葛亮の使者がやってきたとき、宣帝が「諸葛孔明殿はどのようにお暮らしか。どのくらい食事を摂っておられるか」と問うたところ、使者は「三、四升です」と答えた。次に政務について問うと、使者は「罰棒二十以上にあたる案件はすべてご自身でごらんになります」と答えた。しばらくして、宣帝は人に告げた。「諸葛孔明も、そう長くはあるまい」。はたしてその言葉通りになった。諸葛亮の武将である楊儀と魏延とが軍権を争い、楊儀が魏延を斬ってその兵団を自軍に併合した。宣帝はその隙に乗じて兵を進めようとしたが、勅令により許されなかった。

 青龍三年[二三五年]、大尉に転任し、封邑を加えられた。蜀の武将である馬岱が攻めこんできた。宣帝は武将の牛金にこれを迎え撃たせ、千あまりの首級をあげた。
 武都の氐族の王である苻雙と強端とが、一族郎党六千人あまりを率いて投降してきた。
 関東で飢饉が発生した。宣帝は長安の粟五百万斛を都に運び込んだ(註25)

 青龍四年[二三六年]、白鹿を捕らえ、これを宣帝に献上するものがあった。皇帝は言った。「嘗て周公旦(註26)が成王(註27)を輔弼していたとき、白雉が献上されるということがあった。今そなたは陝西(註28)での任務にあたっている折り、白鹿を献上された。これこそ、そなたが忠誠をつくし、千歳にわたって変わらぬ契りを結び、国家を治め、とこしえに安んじ続ける証でなくて何であろう」。
 遼東太守公孫淵(註29)が反逆すると、皇帝は宣帝を都に召し出した。皇帝は言った。「この件はそなたの手を煩わすほどのものではないが、必ず勝利をおさめたいのだ。だからそなたの力を借りたい。やつはどのような策をたてていると、そなたは思うか」。宣帝は、「城を放棄して戦うより前に逃げる、これが上策でございます。遼水を天険となして我らが大軍を阻む、これが次善の策でございます。何も手を打たずただ襄平を守る、これでは捕らわれるよりほかございません」と答えた。皇帝は、「やつの策はどれであろうか」と問うた。宣帝は「賢明な者であれば、自軍と敵軍とについて深く考えをめぐらし、戦う前に城を棄てることができます。ですが、これは彼に出来ることではありません。今回、我々の軍は遠征するのでございます。一般的に、遠征軍は長期戦に持ちこたえられないとされています。したがって、彼は必ずや、まず遼水を防衛線とし、その後に城を守るでしょう。これは、中下の策でございます」と答えた。皇帝は問うた。「進発から帰還までどのくらいの時間がかかるか」。宣帝は「行きに百日、帰りに百日、攻撃に百日、あと六十日を休息の時間としてとるとして、一年あれば十分でございます」と答えた。
 この頃、宮殿を大々的に修築し、その上さらに戦が起こったため、民衆は疲弊し、飢えていた。宣帝はちょうど戦に赴こうとしていたところであったが、皇帝を諫めて言った。「嘗て周公(註30)は洛邑(註31)を建設し、蕭何は未央宮(註32)を築きました。現在、宮室がいまだ整備されていないのは、私の責任でございます。けれど、黄河以北では、民が外事に内事にとかり出され、困窮しています。これでは、外事か内事のどちらかが破綻してしまいます。ひとまずは宮殿造営を停止し、当面の危急を乗りこえるべきでございます」。

 景初二年[二三八年]、牛金や胡遵ら、歩兵・騎馬あわせて四万を率い、都を出立した。皇帝自ら西明門から送り出した。皇帝は、宣帝の弟の司馬孚と宣帝の子の司馬師に詔し、宣帝を温県(註33)まで見送らせた。また、穀物・布帛・牛・酒を与え、郡太守や典農以下の役人たちに勅して宣帝を出迎えさせた。宣帝は、父老や旧友たちに会い、連日酒宴を開いた。宣帝は溜め息をついた。しんみりとして胸にこみ上げてくるものがあり、歌った。「天地開闢以来、名君が次々と現れ出てきた。その名君に邂逅し、遠方の土地を平定すべく力を尽くしてきた。ちょうど塵芥を払い清めようというときに、道すがら故郷へと帰ってきた。万里を正ししずめ、地の果てまでも統べおさめよう。ことの成就を陛下に奏上したあとは、既に老いた身、官を辞そう。それまでは、舞陽にて任を忝くしていよう」。軍を進め、孤竹を経て碣石を越え、遼水に宿営した。宣帝の予測通り、公孫淵は、歩兵と騎馬あわせて数万を派遣し、遼隧で防御を敷き、南北六、七十里にわたって堅固な壁を築いて守りを固め、宣帝の軍を阻んだ。宣帝は、兵たちの勢いを盛り立て、旗指物を多数かかげて、賊軍の南側に軍を出した。賊軍はみな、そちらに向かった。そこで、船を浮かべ密かに川を渡って賊軍の北側に軍を出し、双方から賊の砦に迫った。宣帝は、船を沈め橋を焼き払い、遼水のほとりに長い防御陣を布くと、賊軍を放置して襄平に向かった(註34)。諸将は、「賊を攻撃せず防御を築いただけではないですか。兵たちにこれをなんと説明するのです」と言ってきた。宣帝は、「賊は堅固な砦を築き、我が軍の疲弊を待ち望んでいる。ここで賊を攻撃すれば、まさしく賊の計略にはまったというもの、これが王邑が昆陽で恥をさらした(註35)理由だ。古人は言った、『敵が防御を固め、戦おうとしないときは、もし攻撃を受けたら敵が援軍を送り出すに違いない地点を攻撃せよ』と。賊は大軍を擁してここにある。したがって、その本拠地には兵力がない。私がまっすぐに襄平を目指せば、城内の者たちは恐れおののく。そのような状態で彼らが戦おうとするなら、我々は必ず彼らを破ることができる」と言い、すぐに陣を整えて襄平に向かった。宣帝の予想通り、賊は、魏軍が背後にまわるのを見、これを迎え撃った。宣帝は諸将に言った。「砦を攻撃しなかった理由はまさに、こうなることを待ち構えていたためだ。し損じてはならない」。兵を送りこんで反撃し、大勝した。幾度か戦闘があったが、みな勝利した。賊軍は襄平に立てこもり、魏軍は軍を進めてこれを包囲した。
 以前のことであるが、公孫淵は魏が出兵したと聞き、孫権に救援を要請した。孫権もまた兵を出すとともに、遠方から彼を励ますために手紙を送った。「司馬仲達殿は用兵の達人であり、変幻自在なること神の如く、向かうところ敵なしである。そなたのため、このことを深く憂慮している」。
 長雨で濁流にみまわれ、平地には数尺の水があふれた。魏軍はみな恐れを抱き、陣営を移動しようと考えるようになった。宣帝はそのようなことを口にする者があれば斬罪に処す、と軍中に指令を出した。都督令史の張静がこの指令に違反し、宣帝が彼を斬罪に処すと、軍中は静まった。賊軍は出水を良いことに、薪を切り出したり牛馬を飼い養ったりと、のんびりしていた。諸将はそれを奪おうと考えたが、宣帝は全く聞き入れなかった。司馬の陳珪が、「以前上庸を攻撃したとき、八つの軍を当時に進発させ、昼夜兼行で進軍し、そのため五日で防御の固い城を攻略し、孟達を斬り捨てることができました。今はといえば、遠征してきたというのにのんびりとしています。私は心中とまどいを覚えております」と言い出した。宣帝は言った。「孟達の軍は、兵の数は少ないが食料は一年分あった。我々の軍の将兵はその四倍の数であったが、食料は一月分も無かった。一月分の食料で一年分の食料を持つ軍を相手に策を講じるなら、迅速を旨とするよりほかはない。四の兵力で一の兵力の軍を攻撃するのだから、たとえ半分を失ってでも、やはりそうすべきであろう。死傷者の数を考えず、糧秣の量を第一として戦ったのである。今、賊は大軍、我々は寡兵である。だが、賊は糧秣不足に陥っており、我らには十分な糧秣がある。長雨にしてもそうだ。結果の上がらないことをせっせとやったところで何になろう。私は、都を出立したときから、賊が攻撃してくることは恐れておらず、ただ賊が逃走することばかりを恐れていた。今、賊の糧秣はほとんど尽きかけている。また、こちらの包囲にもまだ欠けがありまとまっていない。牛馬や薪を奪い取れば、これは賊を逃走へと駆り立てる要因となる。そもそも戦というものは如何に人を騙すかであり、事態に応じて変化するものである。賊は兵の数と雨とを恃みとしている。そのため、糧秣不足に苦しんではいるが、まだ降伏しようとはしない。こちらが戦えないように見せ、賊を安心させるのだ。小利を得ようとして賊を恐れさせるのは、良策でない」。朝廷に軍が長雨に遭ったと伝わると、みな、軍を召還するよう願い出た。皇帝は言った。「司馬仲達殿であれば、危機に瀕しても事態を切り抜け、時節を見計らって公孫淵を捕らえてくるであろう」。しばらく経つと雨が止み、包囲陣が完成した。土盛りをし、地下道を掘り、楯や矛をくり出し、矢を放ち石を雨の如くに浴びせかけ、昼夜を問わず攻め立てた。
 ちょうどその時、流れ星があった。色は白く、ぼんやりとした尾を引いており、襄平城の南西から北東へと流れ、梁水に墜ちた。城中の者は、恐れおののいた。公孫淵は非常におびえ、相国の王建や御史大夫の柳甫らを自ら選んで使者にたて、降伏を認めるよう乞い求め、包囲を解き、自らの身を縛って投降することを許すよう願い出た(補註1-1)。宣帝はこれを許さず、王建らを捕らえ、二人を斬った。宣帝は公孫淵に文書を送って告げた。「昔、楚と鄭は対等国であったが、それでも鄭の国君は肌脱ぎになり、羊(註36)を牽いて敵を迎え入れた(註37)。余は王族につらなる者であり、位は公に上った。しかし、王建らは余に囲みを解いて退却するよう願い出てきた。これは楚鄭のためしにかなうだろうか。二人は耄碌しているためにそなたの考えの主旨を伝えそこなったのであろう。だから既に斬りすてた。もし何かまだ伝えたいことがあるのなら、若く聡明な者を改めて遣わしてくるがよかろう」。公孫淵は侍中の衛演を再度遣わし、日を決めて人質を送ることを許すよう乞うた。宣帝は衛演に言った。「軍事には重要なことが五つある。戦うことができれば戦うこと、戦うことができなければ守ること、守ることができなければ逃げること。あと二つは降伏することと死することのみだ。そなたは降伏してこようとしない(補註1-2)。これは死を覚悟したということだ。人質を送る必要などない」。公孫淵は南側の包囲に攻撃を加え脱出しようとしたが、宣帝は兵を送りこんでこれを打破し、梁水のほとり、流星が落ちたところで公孫淵を斬った。そして襄平に入城し、二つの立て札を立てて新しい住民と元からの住民とを分けた。男子で十五歳以上の者七千人あまりがみな殺され、累々たる屍の山ができあがった。公孫淵が不正に任じた公卿以下の者もみな誅殺し、その武将の畢盛ら二千人あまりを死罪とした。四万世帯、三十数万人を得た。
 以前、公孫淵は、その叔父の公孫恭の地位を奪取し、彼を囚えていた。また、公孫淵が反乱を起こそうとしたとき、その武将である綸直や賈範らが厳しく諌言したが、公孫淵は彼らをみな殺してしまっていた。宣帝は、公孫恭を解放し、綸直らの墓を築き、その遺子を顕彰した。宣帝は命じた。「古くは国を討つ際、そのおおもとの悪人のみを討つのみとしたものだ。公孫淵にだまし惑わされた者たちは、みな許すことにする。中原の出身者で故郷に帰りたいと願う者は、自由にそれを許可する」。
 この時、兵士が寒さに凍えており、肌着を欲しがったが、宣帝は与えなかった。ある者が「幸い古い肌着がたくさんあります、これを与えましょう」と言ったところ、宣帝は「肌着は官のものであり、臣下の者が私的に施しあたえてはならない」と言った。宣帝は、兵のうち六十歳を超える者は引退させるよう奏上して千人あまりを退役させ、将兵や官吏で従軍中死亡した者には葬儀を行ってやり、亡骸を家に送った。そして軍を率いて帰還した。皇帝は使者を遣わして薊で軍を労い、宣帝に、元の二県に加えて昆陽を食邑として増封した。
 以前、宣帝が襄平に到着した時、夢に皇帝が現れ、宣帝の膝を枕として横たわって「顔を見せよ」と言った。うつむいて皇帝の顔をのぞきこむと、いつもとは違っており、不吉な予感がした。これより前、皇帝は宣帝に詔し、復命せずまっすぐ関中をまとめに向かうよう命じていた。だが、白屋で宿泊していると、宣帝を都に召還する詔勅が、三日の間に五つも届いた。直筆の詔には、こう書かれていた。「この頃は息も絶え絶えにそなたの到着を待っている。到着したらすぐに、通用門からでよいから入ってきて、顔を見せよ」。宣帝は大急ぎで、追鋒車に乗り昼夜兼行して、白屋から都への四百里あまりの道を一泊のみで走りきった。嘉福殿の寝所の中に駆け込み、寝台の側に寄った。宣帝が涙を流して体の具合を聞くと、皇帝は宣帝の手を握り、斉王[曹芳]を見ながら言った。「後のことは任せる。死は致し方のないことであるが、そなたを待ちわびたままで死ぬのは耐え難いことであると思っていた。今そなたと会うことが出来て、もう思い残すことはない」。そして、宣帝は大将軍曹爽とともに、幼君を輔弼してゆくよう、最後の詔を受けた。
 斉王が即位すると、転任して侍中兼持節兼都督中外諸軍兼録尚書事となった。曹爽と各々三千人ずつの兵を統率し、共に朝政を執り、交代で殿中にひかえることとなり、輿に乗ったまま朝廷に入ることを許された。曹爽は、尚書が奏上を伝える際にはまず自分のもとを通させたいと考え、皇帝に言って宣帝を大司馬に転任させた。しかし朝議において、大司馬が相次いで在任中に薨去していることを理由に、宣帝を太傅とすることとなった。また、漢の蕭何(註38)の故事にならい、朝廷内で小走りに歩かず、皇帝に拝謁する際に名を称呼されず、剣を佩び履物を履いたまま昇殿することが許された。婚儀や葬儀の際には官から手当が与えられた。嫡男司馬師を散騎常侍とし、子弟のうち三人を列侯とし、四人を騎都尉とした。宣帝は、子弟の官については固辞して受けなかった。

 正始元年[二四〇年]春正月、東倭が複数の通訳を介して朝貢してきた。焉耆・危須等の諸国、弱水以南の地方、鮮卑の名王が、みな使者を遣わして来貢した。皇帝はこの威風を宰相の功によるものとし、宣帝に増封した。
 以前、魏の明帝が宮殿造営を好み、諸制度を華美なものにしていたため、民衆は困窮していた。宣帝が遼東から帰って来た時、まだ一万人あまりが労役にかりだされており、愛玩物数千個が制作されていた。そこで、宣帝は、これらを全て止めさせ、倹約して農業に力を入れるよう奏上した。天下の人々は喜び、宣帝に信頼を寄せた。

 正始二年[二四一年]夏五月、呉の武将の全jが芍陂に攻めこんできた。朱然と孫倫が樊城を包囲し、諸葛瑾と歩隲が柤中を攻撃した。宣帝は自らこれを討伐したいと申し出た。朝議参列者はみな「賊は遠来し樊城を包囲しているのですから、攻略することは出来ますまい。堅固な城の前に侵攻を阻まれ、勢いを失うでしょう。もっと良い手を講じてから対処してもよいのではないですか」と言ったが、宣帝は言った。「辺境の城が敵の攻撃を受けているというのに安穏と廟堂に坐していて、国境地帯が不穏になり、民の心に不安が生じる。これこそが国家の大憂である」。
 六月、諸軍を率いて南征した。皇帝は自ら津陽門から軍を送り出した。宣帝は、南方は暑く湿気が多いので、持久戦に持ち込むべきではないと考え、軽騎に攻めかからせたが、朱然は全く動かなかった。そこで兵士たちを休ませ、精鋭を選り抜き、先鋒を募り、号令をかけ、今にも攻撃するかのように見せかけた。すると夜中に呉軍は逃走した。宣帝は三州口までこれを追撃し、一万人あまりを斬首あるいは捕縛し、その軍船や物資を手に入れて帰還した。皇帝は侍中常侍を遣わし、宛で軍を労った。
 秋七月、郾と臨潁が食邑として増封され、以前からの四県と合わせて一万戸を領するようになった。また、子弟十一人はみな列侯となった。宣帝の勲徳は日ましに盛んになっていったが、それにつれて宣帝はますます謙虚で慎み深くなっていった。太常の常林は同郷の年長者であるからということで、宣帝は、彼と顔を合わせるたびに拝礼していた。宣帝は、常々子弟に戒めて言っていた。「権勢をほこるは道家の忌むところである。季節でさえ移ろうものであるのだから、まして我が身などどれほどの勲徳をもってしてもその移ろいを止めることは出来ない。謙譲の上にも謙譲することが、凋落を免れるに近い道だ」。

 正始三年[二四二年]春、皇帝は宣帝の亡父である京兆尹[司馬防]に対し、追封して舞陽成侯と諡した。
 三月、宣帝は、廣漕渠を掘削し、黄河の水を汴水に引き込み、東南地域の堤沿いの地域を灌漑し、淮北の開墾を始めるよう奏上した。
 以前から、呉が武将の諸葛恪を派遣して皖に屯営させていたため、辺境地帯の人々は苦しんでいた。宣帝は自ら諸葛恪を討伐したいと思った。朝議参列者の多くは、「賊は堅固な城に拠り、穀物を備蓄して、官軍をおびき出そうとしています。今、軍を動員して遠征などすれば、必ずや賊の援軍がやってきて、軍を進めるも退かせるもままならなくなりましょう。こちらに利はありません」と言った。だが、宣帝は言った。「賊が得意とするのは水戦である。今、賊の城を攻撃すれば、向こうの出方を見ることができる。もし賊が己の得意とする戦法を用いるなら、賊は城を放棄するよりほかない。これにより、居ながらにして勝利を得られる。もし敢えて守りを固めるというなら、湖も川も冬には浅くなって船が航行できなくなり、水軍抜きで救援を出さなくてはならない。賊はその不得意とする戦法を取ることとなる。やはり我が方に有利である」。

 正始四年[二四三年]秋九月、宣帝は諸軍を指揮して諸葛恪を攻撃した。皇帝は自ら津陽門から軍を送り出した。魏軍が舒に宿営すると、諸葛恪は備蓄物資を焼き、城を捨てて逃げた。
 宣帝は、賊を滅ぼす要は備蓄食糧にあるとして、屯田を盛んにし、淮陽・百尺の二渠を拡張した。また、潁水両岸の堤沿いの地域一万頃あまりを整備した(補註2)。これにより、淮河の北側の倉庫はお互いに見えるほど密に置かれるようになり、寿陽から都に到るまで、農官や屯田兵が途切れることなく設置されるようになった。

 正始五年[二四四年]春正月、宣帝は淮南から帰還した。皇帝は勅使を遣わし、軍を労わせた。
 尚書のケ颺や李勝らが、曹爽に功名を立てさせようとして、蜀を討伐するよう進言した。宣帝はこれを止めようとしたがかなわず、はたして曹爽は何ら功を挙げることなく帰還した。

 正始六年[二四五年]秋八月、曹爽は中塁営・中堅営(註39)を解体、その兵を弟である中領軍の曹羲の属下にいれた。宣帝は先帝の旧制に理由にこれを禁じようとしたが、できなかった。
 冬十二月、皇帝は宣帝に詔し、朝会の際に輿に乗ったまま昇殿することを許した。

 正始七年[二四六年]春正月、呉は柤中に攻め入った。民族を問わず一万戸あまりがそれを避けて沔水を北へと渡った。宣帝は、沔水以南は賊に近いため、もし民衆が戻ってくれば、必ず賊がまた攻め入ってくるから、しばらくは民衆を沔水の北に留めておくべきであると考えた(註40)。曹爽は、「今、沔南を防衛することも出来ず、民衆を沔北に留めたままにするというのは、良い策とは言えないでしょう」と言った。宣帝は言った。「そうではありません。およそ事物は、安全な地に置けば安全になり、危険な地におけば危険になるものです。それ故に古の兵法書にも『成否は形の問題であり、安危は勢の問題である』とあるのです。形と勢とは民を御するための要、これを深慮しなくてはなりません。もし、賊が二万人で沔水を断ち、三万人で沔南の諸軍と対峙し、一万人で柤中を蹂躙したならば、どうやって民たちを救うおつもりです」。曹爽はこれに従わず、民衆を沔南に帰らせた。はたして賊は柤中を撃破し、莫大な損害を出した。

 正始八年[二四七年]夏四月、宣帝の夫人張氏が薨去した。
 曹爽は、何晏・ケ颺・丁謐の謀略を容れて太后(註41)を永寧宮に移し、朝政を縦にするようになった。兄弟ともに禁軍を司り、多くの取り巻きをとり立て、頻繁に制度を改めた。宣帝はこれを禁じることが出来なかった。このようなことがあったため、宣帝と曹爽との間に不和が生じるようになった。
 五月、宣帝は病と称して政務に関与しなくなった。このため、時の人々はこのような歌を謡った。「何・ケ・丁が京城を乱す」。

 正始九年[二四八年]春三月、黄門(註42)の張当が、後宮の才人(註43)である石英ら十一人を後宮から勝手に連れ出し、曹爽に与えて妓女とした。曹爽と何晏は宣帝の病は重いとみて、主君をないがしろにするような考えを起こすようになった。さらには、張当と密かに謀をめぐらし、社稷を危うくせんと図り、その期をうかがっていた。宣帝もまた、密かにこれに対し備えをなそうとしたが、曹爽一派の者たちもやや宣帝を警戒していた。河南尹の李勝(註44)は、ちょうど荊州刺史に就任しようというところであった。彼が宣帝のもとを訪れると、宣帝は病が重いふりをした。下女二人に両脇を支えさせており、衣服はかけてもずり落ちてしまう。口を指さしてのどの渇きを訴えるので、下女が粥を差し出すのだが、宣帝が器を持たずに粥を啜ろうとするものだから、粥はみなこぼれて胸元を濡らした。李勝が「貴方様が持病の中風の発作を起こされたという噂はうかがっておりましたが、まさか御尊体がこれほどのことになっていようとは思いもよりませんでした」と言ったところ、宣帝は辛うじて声を絞り出して言った。「年老いてすっかり病みついてしまっており、今日明日にも死ぬかもしれない。貴殿はこれから并州を治めるわけだが、并州は夷狄の地に近いから、しっかりと備えを為すように。恐らく私はもう君と会えないだろうから、子の師・昭兄弟のことをお願いしたい」。李勝は「私はこのたび帰郷し、故郷である荊州の刺史を仰せつかることとなりました。私が仰せつかったのは并州ではありません」と言うが、宣帝はその言葉を取り違えて「貴殿は并州に行くのだろう」と言った。李勝は「荊州を仰せつかったのです」と言った。宣帝は言った。「年老いて耄碌してしまい、貴殿の言っていることが分からなかった。今度帰郷して故郷の刺史になるのか。実に見あげたものである。ぜひとも立派な手柄を立ててくれたまえ」。李勝は宣帝のもとから下がった後に、曹爽に言った。「司馬仲達殿は死人にわずかばかりの命が残っているようなもので、肉体と魂とは既に離れてしまっています。ご心配には及びません」。また、別の日にも「太傅[司馬懿]はもう何をなすことも出来ません。いたましいものです」と言った。このため、曹爽らは宣帝に対し備えをなさなくなった。

 嘉平元年[二四九年]春正月甲午、皇帝は高平陵(註45)に詣でた。曹爽兄弟はみな付き従った。この日、金星が月に重なった(註46)。宣帝はこの時をとらえ、永寧太后に奏上し、曹爽兄弟の地位を剥奪した。この時、景帝[司馬師]は中護軍であった。景帝は兵を率いて司馬門の守りにあたった。宣帝は宮門のもとに布陣した。曹爽の屋敷の門の前を通りかかったとき、曹爽の幕下の督であった厳世は、楼に登り、弩を引いて宣帝を射ようとした。だが孫謙が「事態がまだどうなるか分からない」と言い、彼を止めた。幾度か矢を番えたが、そのたびに制止された。いずれも孫謙が彼の肘を引いて彼を止めたので、弓を射ることができなかったのである。大司農の桓範が皇宮を脱出し、曹爽のもとに向かった。蒋済が宣帝に「知恵袋(註47)が曹爽のもとに行ってしまいました」と言うと、宣帝は言った。「曹爽は桓範を心中疎ましく思っているし、大して知恵があるわけでもない。所詮駑馬が餌を欲しがっているだけのことだ(註48)(補註3)。やつに桓範を使いこなすことなど出来まい」。司徒の高柔に節を貸し与え、大将軍職を代行させ、曹爽の軍を統轄させた。宣帝は高柔に言った。「君は周勃(註49)となってくれ」。また、太僕の王観に命じて中領軍を代行させ、曹羲の軍を管轄させた。宣帝は、太尉の蒋済らを自ら率い、兵をまとめて皇帝を出迎え、洛水の浮橋のほとりに駐屯した。宣帝は、上奏文をしたためた。「先帝は、陛下や秦王、そして私に詔され、ご寝台の側にお寄せになり、私の手をとって『後事が本当に気がかりでならない』と仰いました。今、大将軍曹爽は、先帝の遺命に背き、国法を乱し、内には身分を弁えず思い上がった真似をし、外には軍権を独占しております。諸々の官位要職には全て自分の息のかかったものを置き、古くから国を守ってきた者どもはみな退けられました。彼らは徒党を組んでそれを恃み、その専横ぶりは日ましに甚だしくなっております。また黄門の張当を都監として、しきりに連絡を取りあいながら、御位をうかがっております。天下はびくびくとし、人々は恐れを抱いております。陛下はこのような状況の中に御身を置いていらっしゃるのです。どうして御身の安寧を保てましょうや。これは先帝が詔して陛下や私をご寝台にお寄せになった際のお気持ちに悖るものです。私は老い衰えたりとはいえ、先帝のお言葉を忘れることなどございません。昔、趙高(註50)が専横の限りを尽くしたとき、秦はこれが原因で滅びました。漢は呂霍(註51)を早くに処断したために、その国祚が永く続きました。これこそ陛下の倣われるべき鑑、今まさに私が御命を受くるべき時です。公卿群臣はみな、曹爽には君をなみする心があるため、彼ら兄弟は兵権に与るべきではないと考えております。皇太后に奏上致しますと、皇太后はそのようにせよと勅せられました。私はすぐに主者及び黄門令に勅して曹爽・曹羲・曹訓のもとに置かれた官兵を没収し、曹爽らを各々解任して元の官位に戻しました。もし陛下のご帰還を阻む者があれば、軍法に照らして処断致します。私は病をおして軍を率い、洛水の浮橋に伺い、急事に備え控えております」。曹爽はこの上奏文を皇帝に取り次がず、皇帝の帰還を留めて伊水の南に宿営し、木を切りだして逆茂木とし、屯田兵数千人を徴発して守りを固めた。桓範は、皇帝を奉じて許昌に行幸し、布令を出して国中の兵を徴発するよう、曹爽に勧めた。曹爽はこの案を用いることができなかった。夜に侍中の許允と尚書の陳泰を宣帝のもとに伺わせ、状況を探った。宣帝は曹爽の過ちを数えあげて詰責したが、ことを免官で留めた。陳泰は帰ってこれを曹爽に報告し、上奏文を取り次ぐよう勧めた。宣帝はまた、曹爽が信頼していた殿中校尉の尹大目をやって曹爽を説得させた。洛水を指さして誓いをたてたところ、曹爽はこれを信用しようという気になった。桓範らは古今の故事を引用してあの手この手でそれを諫めたが、曹爽はとうとうそれに従うことができなかった。曹爽は言った。「司馬仲達殿はただ私の権勢を奪いたいと思っているだけだ。私は、解任されはしたものの侯のままでいられるのだから、金持ちのじいさんくらいではいられるだろう」。桓範は地団太を踏んで言った。「貴方に連坐して、私の一族は滅亡だ」。曹爽はその後すぐに宣帝の上奏文を皇帝に取り次いだ。しかし既に、官吏が黄門の張当を摘発しており、同時に曹爽や何晏らの謀反も明るみに出ていた。曹爽兄弟及びその徒党である何晏・丁謐・ケ颺・畢軌・李勝・桓範らは、捕らえられ、誅殺された。蒋済は「曹真の勲功を祀る者を絶やしてはなりません(註52)」と言ったが、宣帝はそれを許さなかった。
 それより前、曹爽の司馬の魯芝と主簿の楊綜は、関所を破って曹爽のもとに馳せ参じた。曹爽が罪に服そうとすると、魯芝と楊綜とは泣いて諫めた。「貴方は伊尹や周公(註53)の如き任にあるのです。天子を擁し、そのご威光を恃めば、従わぬ者がありましょうか。それなのにその道を捨てて死罪を甘受されるとは、なんといたましいことでしょうか」。官吏は魯芝と楊綜を捕らえて処罰するよう奏上したが、宣帝は彼らを許し、言った。「彼らを主君に仕える者の鑑としよう」。
 二月、皇帝は宣帝を丞相とし、潁川の繁昌・鄢陵・新汲・父城を増封した。以前からの八県と合わせて二万戸を領有することとなった。また、上奏の際に名を称呼されないことを許された。宣帝は、丞相の位についてはこれを固辞した。
 冬十二月、九錫の礼を加えられ、朝会において拝礼せぬことを許された。宣帝は、九錫についてはこれを固辞した。

 嘉平二年[二五〇年]春正月、皇帝は宣帝に、洛陽に司馬家の廟を立てるよう命じた。また、左右の長史(註54)を置き、掾属(註55)と舎人(註56)を増やして十人とし、年毎に掾属を推挙して御史(註57)及び秀才(註58)に各一人ずつ任じることとし、官騎を百人、鼓吹を一四人増やした。子の司馬肜を平楽亭侯に、司馬倫を安楽亭侯に封じた。宣帝は長患い故に朝務に堪えられないため、重要な問題があるごとに、皇帝が自ら屋敷に行幸して宣帝に諮問した。
 兗州刺史の令孤愚と太尉の王淩が、宣帝に背いて、楚王の曹彪を帝位に立てようと謀った。

 嘉平三年[二五一年]春正月、王淩は、呉の者が涂水に砦を構えていると偽り、出兵してこれを討ちたいと申し出た。宣帝は密かに王淩の計略を察知していたので、これを認めなかった。
 夏四月、宣帝は自ら中軍を率いて、船を浮かべて流れに沿って進み、九日に甘城に到着した。王淩はなすすべも無く、武丘で宣帝を出迎え、自らを縛って宿営まで進み出、言った。「私に罪があるというなら、貴方は書簡を送って私を召喚すれば良かったものを。どうしてわざわざ御自らお出でになるのです」。宣帝は言った。「君は書簡で呼びつけるべき相手ではなかったからこそだ」。そして王淩を都に送還した。道中賈逵(註59)廟の前を通りかかったとき、王淩は叫んだ。「賈梁道殿(註60)よ、王淩こそは大魏の忠臣である。もし神がいるのなら、これを知るはずだ」。王淩は、項まで来たところで、鴆毒をあおって死んだ。残党は捕らえられ、みな三族に到るまで誅され、曹彪も殺された。宣帝は、魏の諸王公をことごとく集めて鄴に留め置き、官吏に命じて監視させ、連絡を取りあえないようにした。
 皇帝は侍中の韋誕を勅使として遣わし、五池で軍を労わせた。宣帝が甘城から帰還すると、皇帝は大鴻臚兼太僕の庾嶷に節を持たせ、策命(註61)を与えて宣帝を相国とし、安平郡公に封じ、孫及び兄の子供を一人ずつ列侯とした。こうして、食邑はあわせて五万戸、侯となった者は十九人にのぼった。宣帝は、相国と郡公の位については固辞して受けなかった。

 六月、宣帝は病の床についた。夢に賈逵と王淩とが現れ、祟りを為した。宣帝はひどく不安に思った。秋八月戊寅、都において、宣帝は崩御した。享年七十三才であった。皇帝は喪服で弔問に訪れた。葬儀の格式は漢の霍光(註62)の故事にならったものとされた。相国と郡公とが追贈された。弟の司馬孚は故人の遺志であるからといって、郡公の位と輼輬車を受けなかった。
 九月庚申、河陰に埋葬した。文と諡し、のちに改めて宣文と諡した。宣帝は死の前に、あらかじめ自分の葬り方を遺言してあった。「首陽山に埋葬せよ。土盛りをしたり樹木を植えたりしないように。天子のご遺言を三篇作って収めるように(補註4)。平服で納棺し、祭器を副葬しないように。後で死んだ者と合葬しないように」。遺命の通りになされた。晋が建国されたとき、宣王と尊号が追贈された。武帝が授禅すると、宣皇帝と尊号を奉り、陵を高原と名付け、廟を高祖と言うようになった。
 宣帝は内心では嫌悪している相手に対してでも表向きには寛大に振舞う人物であった。猜疑心が強く、応変の術に長けていた。魏の武帝は、宣帝が壮大な志を有していることを察していた。武帝は、宣帝には狼顧の相があると聞き、これを確かめてみたいと思った。そこで、宣帝を召し出し、前を歩かせ、後ろを振り向くよう命じた。すると、顔は完全に真後ろを向いているにもかかわらず、首から下は全く動いていなかった。また、武帝はかつて三頭の馬が一つの飼い葉桶から餌を貪り食っている夢(註63)を見、甚だ不吉であると感じた。そこで、太子曹丕に言った。「司馬懿は臣下の身分にとどまっているような男ではない。必ずやお前にとって代わるだろう」。太子は以前から宣帝と親しく、常に何かにつけてお互い助け合っていたので、宣帝は事無きを得た。宣帝は、武帝から嫌疑を受けていると知り、職務に励んで夜寝ることも忘れ、常に何もかもを悉く自分で処理した。これにより、武帝も漸く疑いを解いた。公孫淵を平定する際には、大殺戮を行った。曹爽を誅殺する際には、徒党の者を、悉く、三族に至るまで老若男女を問わず皆殺しにし、おばや姉妹ら既に嫁いでいた女性もみな殺した。そしてやがては魏の鼎を覆してしまうのである。
 明帝(註64)の時代、王導という人物が皇帝の側近くに仕えていた。皇帝は王導に、祖先はどのようにして天下を得たのかと問うた。そこで王導は皇帝に、晋の創業のはじめ、そして魏の文帝から高貴郷公[曹髦(註65)]に至るまでの経緯を述べた。明帝は顔を寝台に伏して言った。「もしあなたの言うとおりなら、晋の国祚も長くはあるまい」。宣帝の猜疑心と残忍さとを辿るに、まさしく狼顧の相がさし示すとおりのものであった。

 詔して言った(註66)。そもそも、広大なる天地の基をなすのは民であり、国家の尊貴を顕すのは元首である。治世と乱世との変転は常無く、興亡にはさだめがある。それ故、五帝(註67)より先の時代には万乗の位にありて憂いを抱き、三王(註68)より後の時代にはその憂える中にあって楽しみを為した。知謀を競い、利害を争い、大国と小国とが併呑しあい、強国と弱国とが攻撃しあった。魏室の歴史を辿るに、まさに三国鼎立の時、戦乱は止むことなく、世は不穏な空気に満ちていた。宣皇帝は天賦の姿により(註69)、期に応じて君を佐けた。内政においては先人の徳風を受け継ぎ、軍事においては峻厳なる武威を有していた。自らの手足の如くに人を用い、賢者を求める際には謙譲を尽くした。その心中は外に表れることなく測り難いものであり、性格は寛容で度量があった。その智謀を韜晦して世に紛れ、時に従い身を処した。鱗を収めて翼を潜め、されど心は風雲にあった。忠義を装って狡猾な心を隠し、虎口にある命を保ち長らえた。その壮大なる計略と内政面における判断とを見るに、謀に優れ、政事に関して決断力がある。百日にして公孫淵を滅ぼし、十日にして孟達を虜とした。自ら兵を率いて動けばあたかも神の如く、作戦は練り直されるということがなかった。軍を率いて西に出兵し、諸葛亮と対峙した。そもそも魏軍の兵には戦意が無かったが、女物の髪飾りを送られたことにより発憤した。偽りて、勅使が門前に立ちはだかり、雄図を屈してなお、千里の戦を興さんと請うて、その勇武を示そうとした。秦蜀の者は惰弱で、魏軍の勇猛に及ぶべくもない。魏軍が平坦な道を楽々と進むことができる一方、秦蜀の軍は険しい道にてこずらされる。このような状態で戦って功を争うわけで、どちらに利が有るかは明らかである。それにもかかわらず、退却し、守りを固めて立て篭もり、鉾を交えようとしない。敵が生きては目の前の敵を恐れて前進せず、敵が死しては敵の偽計を懸念してなおも逃げた。これが良将の道にかなうといえようか。文帝の世にあっては、国家の大権をよく輔弼した。許昌においては蕭何と同様の信任を受け(註70)、崇華においては霍光(註71)の如き遺託を受けた。真心をこめ忠節を尽くせしこと、まさに伊尹・傅説(註72)にも等しいといえよう。明帝の世が終わろうとする頃には、国家の重鎮となっていた。二主の遺命を受け、三代の皇朝を支えた。だが、皇帝の遺託を受けながら、それに報いることはなかった。皇帝の行幸中に兵を挙げ、先帝の陵も乾かぬうちに、宰相を誅殺している。どうしてこれが忠臣の行いといえようか。善を尽くしたのかどうかという面については、こうした理由により疑わしい。そもそも、どうして東征の策は優れ征西の策は劣るなどということがあろうか。帝室を輔弼せんとする心は忠烈であったものを、何故姦邪の心を起こしたのか。故に晋の明帝は顔を覆い、詐謀によって功を成したことを恥じた。石勒(註73)は放言し、奸悪によって業を定めたことを笑った。古人曰く、「三年間善行を重ねてもそれを知る者は少ないが、一日悪行を為せばそれは天下に知れわたる」。その通りというほかない。たとえ己が所業を隠して年月を過ごしたとしても、結局は後世の笑いものとなる。鐘を盗む時自分の耳を覆い、それで他人にもその音が聞こえないと思ったり、金を盗む時周りに目もくれないでいて、町中であっても自分を見咎める者はいないと思ったりするようなものである。故に、目先の利を貪る者は先々の利を逸し、利に溺れる者は名を傷つけるのだと知れる。己を犠牲にすることなく人を利するのであれば、人に災いを齎して己に幸いを齎すこととなる。道理に従ってことを起こせば勲を為すのは容易く、時勢に逆らって行動すれば功を為すのは難しい。晋の基も定まらぬときに、まだ命数尽きぬ魏の国祚をうかがい得るということがあろうか。道理が天下に至っており、人民に徳が行き渡っていても、天命未だ至らざるうちは、天子の位はなお侵し難いものである。知略を以って競おうとも、武力を以って争おうとも、手に入れることはできない。それ故、宣帝は、子孫が天子の血脈となったといえども、その身はついに南面することなく終わったのである。



   

註1  顓頊のこと
註2  顓頊の子。火の神・夏の神・南海の神である祝融のこと。
註3  (1)顓頊の子で火・夏・南海の神。
    (2)一説に、古の官職の名。
    ここでは、(2)の意を採用
註4  益州刺史であった人物。劉備は彼を捕らえ、益州を獲得した。
註5  行政区分上、蜀は益州にあたる。
註6  漢中は、曹操の勢力圏のうち、劉備の勢力圏に接した地点である。
註7  人を危険な状況に陥らせることの喩え。
註8  殷の紂王の諸父。紂王を諫めた人物。のち、周の武王に洪範を訓じた。
    武王は彼を臣とせず、朝鮮に封じた。
註9  敵方をいう。
註10 淮沔(淮水・沔水流域)は魏の南部で、呉に近い。
註11 于禁は関羽に降伏していた。
註12 潁川は比較的呉に近い。
註13 前漢の政治家。蕭何とともに漢の高祖の天下統一を補佐した。
註14 漢初の人物。劉邦に仕えた宰相で、漢建国に最も功績のあった人物とされる。
    戦時には常に関中で留守居役を務め、物資補給の任にあたっていた。
    また、「(漢建国の功は)蕭何第一、曹参之れに次ぐ」と言われ、
    帯剣履上殿・入朝不趨の特権を与えられた。
註15 呉=東・蜀=西と位置付けられている。
註16 権限を委託された証明である割符。
註17 魏のこと。魏を正統としているため、魏こそが唯一の国家であるとみなされているのである。
註18 濡須のこと。
註19 東関・夏口ともに水路の要所。
註20 黥布は劉邦の家臣。楚軍との戦いにおいて功績があった。
註21 魏軍が侵攻してきた際、現地の麦が魏軍の食料となり得るためである。
註22 隴右に同じ。
註23 勅使のしるし。
註24 植物の名。棘が多い。
註25 関東は函谷関以東を指す。都洛陽は函谷関のすぐ東に、長安は函谷関よりずっと西にある。
註26 周の文王の子。旦は名。周公とも呼ばれる。周の武王の子である成王を輔弼した人物。
    名相として知られる。
註27 周の武王の子。
註28 周公旦の故地。
註29 原文では文懿。唐の高祖李淵の諱を避けるため、字によって表記されている
    (中国には、時の王朝の皇帝及びその祖先の諱に当たる文字を表記しないという決まりがある)。
註30 註26参照。
註31 西周の副都。洛陽の前身。
註32 前漢の宮殿。
註33 司馬懿の故郷。
註34 襄平は公孫淵の本拠である城市。
註35 王邑は、王莽の家臣。昆陽において劉秀と戦い、敗れた。
註36 犠牲の羊。
註37 鄭の襄公が楚の荘王に降伏した際のこと。
註38 註14参照。
註39 近衛軍。
註40 人狩りをし人口を獲得することが呉の狙いであると考えたのであろう。
註41 大后は司馬懿に信頼を寄せていた。
註42 皇宮内での奥向きの役職である。
註43 後宮の女官の官職の一。
註44 李勝は、曹爽派の一人。
註45 明帝陵。
註46 将が殺害されるという兆候である。
註47 桓範のこと。
註48 凡庸な人物が地位を欲しがる喩え。
註49 劉邦の家臣。呂氏が劉氏をうかがおうとした際、これを誅した。
註50 秦の宦官。専横の限りを尽くし、秦滅亡の要因をなしたといわれる。
註51 呂氏と霍氏。ともに専横を極めたとされる外戚。
註52 曹爽は魏の功臣であった曹真の子である。
註53 伊尹は殷の湯王の宰相。周公は周の成王の宰相。
註54 王公の府に置かれる属官。
註55 属官。
註56 公府や王府におかれる近侍官。
註57 官職の一。
註58 官吏登用科目の一。
註59 曹操・曹丕・曹叡に仕えた人物。
註60 賈逵のこと。梁道は字。
註61 命令書。
註62 漢代の人物。武帝の遺詔を受けて幼主昭帝を輔弼。
註63 飼い葉桶(原文では「槽」)は「曹」に、「馬」は「司馬」に通じる。
    司馬懿・司馬師・司馬昭の三人が曹氏から実権を奪うという予兆。
註64 晋(東晋時代)の明帝。
註65 司馬師により曹芳の次の皇帝に擁立された人物。実権は司馬師・司馬昭に握られていた。
    司馬昭討伐を目論むも失敗、誅殺された。
註66 『晋書』編纂を命じた唐の太宗李世民の詔。
    紀伝体の史書においては、伝の最後にその伝の人物に関する評価やまとめを書くこととなっている。
    通常は筆者が書くのだが、ここでは李世民自らが筆を執っている。
註67 (1)少昊・顓頊・帝嚳・堯・舜。
    (2)黄帝・顓頊・帝嚳・堯・舜。
    (3)太暭・炎帝・黄帝・少暭・顓頊。
    (4)伏羲・神農・黄帝・堯・舜。
    いずれを指すかは不明。
註68 夏の禹王・殷の湯王・周の文王若しくは武王。
註69 狼顧の相のことを指すと思われる。
註70 軍のための物資補給にあたっていたことを指す。
註71 註61参照。
註72 殷の湯王の宰相伊尹と殷の高宗の宰相傅説。ともに名相として知られる。
註73 後趙の建国者。主君であった劉曜を殺してその国家である前趙を滅ぼし、皇帝となった。

補註1 原文、1「乞降請解囲面縛」、2「汝不肯面縛」。
    矛盾があるように思われる。
補註2 原文、「修諸陂於潁之南北万余頃」。
    「頃」は、長さを表す単位でもある。したがって、「堤を一万頃あまり修築した」とも訳し得る。
    しかし、「陂」を「堤沿い」と解釈し得ること、これまで「頃」は面積を表す単位としてのみ
    用いられていたことから、本文どおりの訳とした。
補註3 凡庸な人物が地位を欲しがる喩えであるが、この喩えについて、
    (1)駑馬=曹爽。「曹爽は身の程知らずに権勢を求めてはいるが、大した人物ではない」の意。
    (2)駑馬=桓範。「曹爽は桓範を、地位目当てで忠義立てしているだけの人物であると考えている」の意。
    という二通りの解釈がある。ここでは、(1)の解釈を採用した。
補註4 原文、「作顧命三篇」。
    「顧命」の意は、
    (1)皇帝の遺命。
    (2)かえりみて命じること。
    (3)生命をかえりみること。
    (4)いつくしみ深い命令。
    (5)『書経』の篇名。顧命篇。
    であるが、ここでの「顧命」の意味について、
    [1]魏の文帝及び明帝の遺命のことである。
    [2]司馬懿の遺言のことである。
    [3]『書経』顧命篇のことである。
    という三通りの解釈がある。ここでは、[1]の解釈を採用した。


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