2003年10月3日
後桜町天皇  貫名


0.イントロダクション

 試しに高校時代使っていた日本史B用語集(山川出版社)で『後桜町天皇』を調べてみると、こう書かれている。
「後桜町天皇 @ 1740〜1813 日本最後の女帝。在位1762〜1770」
 ちなみにこの@というのは、当時の日本史Bの教科書19社における出現頻度である。その中のわずか1社であり、用語集に付けられた説明もごく簡単な物に過ぎない。(※1)
 現在に至るまでの125代の天皇の中で、女帝は8人10代いる(※2)。その中で、おそらくいちばんマイナーなのがこの後桜町天皇であり、「現在のところ最後の女帝である」という事以外はほとんど知られていないのが実情であろう。
 今回は、この後桜町天皇についてスポットを当ててみることにする。18世紀後半、突然彼女が女帝になった事情とはどのようなものであろうか。そして彼女の果たした事績は何だったのか。以下では、特に近代天皇制への流れの中で彼女が果たした役割を追ってみたいと思う。

1.生い立ち

 後桜町天皇、本名智子内親王(さとこ→としこ)は、1740(元文5)年8月3日、桜町天皇(※3)の第2皇女として誕生している。幼少期のことについては、例えば2歳で御垂髪、5歳で御着裳、と言ったような行事程度しか分からない。そこで、まずは彼女の即位までの皇位の流れを簡単に年表風に記述しておくことにする。

 1741年2月9日 異母弟(桜町天皇第1皇子)假仁親王誕生。
 1746年6月25日 姉・盛子内親王死去(10歳)。
 1747年3月15日 假仁親王元服、翌日皇太子となる。
  〃 年5月2日 桜町天皇から譲位、皇太子假仁親王が即位(桃園天皇)。
 1750年4月23日 桜町上皇崩御(31歳)。
 1758年5月8日 桃園天皇第1皇子・英仁親王誕生。
 1762年7月12日 桃園天皇崩御(22歳)。
 1762年7月27日 後桜町天皇践祚。

 本来ならば、彼女は普通の皇族の女性として、さしたる足跡も残さないまま終わるべき人物であっただろう。前述したが、この頃までの彼女自身の事績については、儀式的なもの以外は全くと言っていいほど明らかになっていない。
 まずは取り敢えず。事実を追っていくことにしよう。霊元天皇からこの桃園天皇に到るまで5代の間、皇位継承は順当に父子間で順に行われていた。……しかし、この時代になって事情は変わる。桜町天皇は皇子1人、女性を入れても3人しか子供を産まず31歳で若くして亡くなり、、しかもそのうち1人は夭折してしまっている。そして唯一の皇子である桃園天皇は、幼い息子を残したまま22歳で亡くなってしまう。
 この当時、まだ英仁親王はまだ幼年である。強力な後ろ盾やあるいは院政を行う上皇がいればともかく、そのようなものがないまま幼年で即位するというのは考えられないことであった、と言えよう。
 後桜町天皇の即位は、この英仁親王が大きくなるまでのピンチヒッター的なものであった。ちなみにこの即位の際、朝廷は江戸幕府に伺いを立てて、その上で彼女の即位を決めている。また、天皇の空位を避けるためか、実際に桃園天皇の崩御が発表されたのは7月21日であったことも付け加えておく。その前日20日に後桜町天皇が後継することが決定して、初めて崩御が発表されたのである。

 こうして、日本最後の女帝として後桜町天皇が即位することになった。以後、1770年11月24日に当初の予定通りに英仁親王が後桃園天皇として即位するまでの約8年間、彼女は日本最後の女帝として皇位にあたることになった。

2 勤王論の形成と後桜町天皇

 さて、この時代における天皇の役割というのはどうだったのであろうか。
 彼女の生まれた1740年というのは、江戸幕府においては8代将軍徳川吉宗が享保の改革を行っていた時期にあたる。大雑把な書き方になってしまうが、徳川吉宗は朝廷に対しても理解があり、この時期には朝儀の復興も行われている。たとえば、彼女の父親の桜町天皇の代には大嘗祭が復活されており、依然として江戸幕府の影響が強くその下に置かれているとはいえ、徐々に朝廷の独立性というものが意識され始めてきた。(※4)そのような時代として彼女の時代は捉えることができるだろう。

 そしてこの時代をはかる上で特に重要なのは、1757年、彼女の弟である桃園天皇の在位中に起こった宝暦事件である。簡単に言えば、江戸幕府によるはじめての勤王論の弾圧事件であり、日本書紀などに基づく勤王論を説いていた神道家の竹内式部が弾圧された事件である。彼は若手公卿に非常に高い支持を得ており、桃園天皇自身に講義したこともあったという。しかしその結果危険人物としてにらまれ、結局は京都を追放されることになる。
 更に、京都とは直接関係ないが、1766年には第2の勤王派弾圧事件である明和事件が起き、尊王的な歴史を説いていた山県大弐・藤井右門らが処刑されている(なおこの時、前述の竹内式部も、直接的には関わっていないが遠島に処されている)。
 このような勤王運動が、後桜町天皇と完全に無縁だったとは考えられない。宝暦事件で勤王派の公卿はいったんは処罰されているが、天皇に侍講するまで至った勤王思想が、簡単に払拭できたとは思えない。まして、後述するが後桜町天皇は学問に熱心だった人物であり、現在も和歌1600首あまりと20年以上に思う日記が残されている(根拠はないが、彼女が女性にも関わらず即位に至った理由も、単なる血筋だけでなく実際に聡明な人物だったからではないかと私は考えている)。ある程度の勤王的な思想は、彼女の身についていたのではないかと思われる。

3 光格天皇の即位

 こうして後桃園天皇が即位し、彼女の役割は終わったはずだった。若い天皇のために、彼女は熱心に教育を行っており、自ら「論語」「中庸」などの和歌の仮名延書などを行ったり、添削なども行っていたらしい(皇太子時代に彼が熱心に勉強しているという話題が、数度後桜町天皇の日記に出てくる)。しかし、天皇家の不安定な相続はこれで終わらなかった。1779年11月、後桃園天皇も父と同じ22歳で急逝してしまったのである。今度は彼には生まれたばかりの娘が1人いるだけであり、また彼の弟で伏見宮家を継いでいた貞行親王もその7年前に12歳で亡くなっていた。
 そこで、前回と似たような事態が起こる。後桃園天皇の死は秘されて、幕府などと調整が行われた結果、閑院宮家(※5)六男の祐宮(兼仁親王)が跡を継ぐことになる。この祐宮は、後桜町上皇から見て又従兄弟、先代の後桃園天皇から見れば父の又従兄弟ということになり、血筋から言えば言えば傍系もいいところであった。本来であれば、法親王としてどこかの門跡寺院に入れられるだけだった彼は、よく分からないうちにあっという間に天皇にされてしまった。
 後桜町上皇は、この当時9才の新天皇のことをとても心配していたらしい。即位直後に前関白近衛内前に、「をろかなるわれをたすけのまつりごと なをもかはらずたのむとをしれ」との和歌を書き送っている。また、その翌年の歌会始では、「民やすきこの日の本の国のかぜなをたゞしかれ御代のはつ春」と詠んでいる(なお、これ以前に、彼女は光格天皇の和歌をとても熱心に添削していたらしい)。和歌として上手いかどうかは私には分からないが、光格天皇の今後をとても案じて思っている歌であると言えるだろう。(※6)

4.光格天皇期

 光格天皇という人物は、一般的に、近代の天皇に至る道筋を作った、天皇権力を強く主張した人間として捉えられている。30年以上も在位し、退位後にも霊元天皇以来の院政を行い、幕末近くに至るまで50年以上も権力を握っていた人物である。なかでも有名なのは、寛政の改革期に松平定信と争った、いわゆる尊号一件と呼ばれる事件であろう。自分の父親に対して天皇号を贈位しようとしたことに対して、松平定信がそれを拒否して争った事件である。その他、朝儀の復興や、石清水臨時祭や賀茂社臨時祭の復興など、彼の事績は数多い。この光格天皇に関してはそれ自体に多数の論文があり、私がここで簡単に触れられるようなものではない。
 さて、このような光格天皇の考えの形成には、最大の要因として彼が傍系であったことが想定されている。元々傍系であったことから、天皇としての自己の立場も当初は微妙な位置であり、そのことから自己のアイデンティティを持つために天皇権威というものを強く意識したのではないかと考えられている。また、近臣が年老いていたことから、わりあい若い時期から親政を行っていたのも一因であろう。
 しかし、この光格天皇の在り方には、その教育を行っていた後桜町天皇の影響も大きかったように思える。そもそも、閑院宮家からいきなり天皇家を継ぐことになった光格天皇は、血統としてはよそ者の存在であった。この点、明確な史料はないが、そもそも天皇経験者であり、まして本来の天皇家の嫡流で唯一の人間である後桜町上皇は、重い存在感を持っていたのではないかと推測される。実際、特に光格天皇の初期治世においては、時々後桜町天皇の影が散見される。彼女は直接的に何か権力を動かすわけでもなく、むしろ至って静かに余生を送っていたが、いくつかの事件の際には光格天皇と同様に後桜町上皇の意向も記されており、上皇としての影響力は確固として存在していたといえそうである。また、光格天皇は非常に学問好きな天皇であったとされており(これも前述のコンプレックスの裏返しのようである)、その学問の際に後桜町上皇は、後桃園同様に世話を焼いている。1799年、後桜町60歳・光格29歳の時、まだ彼女は光格に対して「人君とは何か」という教示を行っていたようである。そもそも光格が和歌を重視したのも彼女の影響ではないかという説もある。

5.最後に

 後桜町上皇は、1813年11月2日、数え74歳でその生涯を終えている。当時としては長生きな部類に入るのではないだろうか。
 確かに彼女自身の事跡は非常に少ない、といわざるを得ない。実際、ここまでの記述のほとんどは他の天皇に関する記述の中で点景的に浮かび上がってきているものに過ぎず、私自身の想像で書きつないでいる部分がかなり大きくなっている。しかし、この時代では数少ない73歳の長寿を全うし、朝儀復興を夢見た父の桜町天皇や明暦・明和事件を生で体験し、そして幕末の勤王論への道筋を作った光格天皇に大きな影響を与えた彼女の存在は、朝廷の歴史を追う上で決して見過ごせない存在であろうと考えられる。
 

※1 余談であるが、この項目が書かれているのは「紫衣事件」「後水尾天皇」「明正天皇」の次であることを付言しておく。これらの人物は17世紀前半の人物であり、当然ながら後桜町天皇が在位した18世紀後半から19世紀前半とはかけ離れた時代である……。

※2 参考までに記しておくと、推古、皇極=斉明、持統、元明、元正、孝謙=称徳、明正、後桜町、である。このうち称徳までは飛鳥〜奈良期の天皇であり、明正以下の2人は江戸時代の天皇である。

※3 正確には天皇号は死後に送られるものであるが、以下の論考では天皇の在位中から追号もしくは謚号を用いて記述することにする。同様に、親王名も途中の変遷などを省いて、その人物にいちばん長期に使われたものを原則的に記述しておく。

※4 桜町天皇は幕府の圧力で退位させられた、との記述も、今回ネットで調べているうちに見かけた。しかしこの点は私は確実な証拠を確認していない。

※5 このとき、後桜町上皇は伏見宮家当主の貞敬親王を立てようとしたが、関白の主張により光格天皇に決まった、という記述もネットで見かけた。同じく詳細が不明なためこの点も今回は採用しないことにしておく。

※6 このころ、光格天皇は和歌のスパルタ教育を受けていたようである。このため、光格期は朝廷において和歌文化が非常に隆盛した時代となった。

資料紹介
後桜町天皇に関する論考は、現在のところ数えるほどしかない。多くは光格天皇についての論や日本の女帝についての論から浮かび上がるものを探すことになる。

◎後桜町天皇についての論文
(本稿に使用したもの)
後桜町女帝宸記研究会『後桜町女帝宸記−明和元年大嘗祭記事−』
 (「京都産業大学日本文化研究所紀要」6号、2001年)
所京子『後桜町女帝年譜稿』
 (「史窓」58号、2001年)

◎光格天皇に関して
藤田覚「幕末の天皇」(講談社選書メチエ、1994年)
藤田覚『寛政期の朝廷と幕府』
 (「歴史学研究」599号、1989年)
藤田覚『光格天皇の意味−復古と革新−』
盛田帝子『光格天皇論−その文化的側面−』
米田雄介『近世末期の朝儀再興』
 (以上3つ、「大航海」45号、2003年)

◎女帝論に関して
荒木敏夫「可能性としての女帝」(青木書店、1999年)


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