2003年12月19日
はじめてのさんごくしin歴研  My


<はじめに>
 最近歴研では、三国志がらみで、晋書翻訳の発表なんかが行われているわけですが、中には三国志がよく分からない会員もいるようです。そこで、歴史としての三国志の入門用にレジュメを作ってみました。歴史としての三国志ですから、当然、三国志演義は無視するようにつとめましたが、なんといっても私自身、吉川英治や光栄のゲームで三国志に足を踏み入れているもので、その意図がどこまで達成できたか不安があります。

<三国志の背景>
 中国では、漢の時代を通じて、豪族が力を伸ばしていくが、その反面、前漢後期以降、小農民が圧迫され没落する。この流れは止まることはなく、しだいに豪族は没落した人民を吸収、隷属させ、私的な地方支配を確立していく。
 この過程、2世紀の終わりには、国家権力が豪族を統御する力を完全に失い、豪族の圧政は一層の激化を見せる。
 だが中国はこのまま豪族による割拠状態には陥らなかった。豊かな中国社会には、なおこれに対抗するだけの余力があったし、中国社会における儒教を中核とする教養の普及は、圧政を抑制する性質を持っていた。結果、社会には大衆のみならず知識階層をも巻き込んだ、豪族に対する激しい抵抗が生じた。そして社会からの激しい抵抗は、豪族の支配に修正を強いた。そもそも豪族自身も知識階層であるから、そこに豪族支配と社会的抵抗の妥協の可能性があったのである。
 こうして豪族は、圧制者として地方に君臨することを止め、中央政府の抑制の下で、貴族階層を形成して、地方と中央つなぐ役割を果たすようになっていく。
 この社会の再構成を通じた、統一回復の過程が、いわゆる三国志の物語にあたる。

<三国志のあらすじ>
 後漢末、暗愚の皇帝が続き、宦官と外戚の専横により、大いに政治が乱れる。社会不安の中で、張角の興した新興宗教の太平道は、その相互扶助の精神によって急速に拡大。
 やがて太平道の運動は、反政府の革命運動へと転化する。黄巾の乱である(184年)。
 これ以降、黄巾の乱鎮圧に活躍した武将たちが以降の政局を動かしていく。

 霊帝が死亡(189年)。これを機に宦官と外戚の何進が権力を争い、何進は殺害されるが、何進の部下の袁紹が宦官を皆殺しにする。董卓が、少帝とその弟の陳留王を手中に収め、権力を握る。董卓は少帝を廃して陳留王を帝位につける(献帝)など、専横の限りを尽くし、暴政を敷く。諸将は董卓に反対して都を離れ、根拠地で実力を養う。この時点で実質的に後漢は崩壊。
 諸将は董卓討伐を掲げて挙兵、盟主を袁紹として連合軍をつくる(190年)。連合軍はその後、不和から解散。
 その後、董卓を部下の呂布、王允が殺害(192年)。

 以降、袁紹、袁術、曹操、董卓残党、公孫瓚、劉備、呂布といった勢力が華北で争う。これら群雄で有力なのは、名門の袁紹と、董卓残党の下を脱出した献帝を迎えた曹操。他の勢力はしだいに淘汰される。
 董卓残党は激しい内紛や追討によって解体、無力化していき、張繡の軍勢のみが多少の勢力を保ち、しばしば曹操の攻撃を退ける。呂布は、曹操や袁術、劉備と争うが、結局、曹操に敗れ滅亡(198年)。公孫瓚は袁紹と激しく争うが、滅亡(199年)。袁術は皇帝を称していたが、曹操等に敗れ弱体化が進行、暴政で完全に民心を失い、孤立無援の中で病没(199年)。劉備は、領地を得ても、それを維持して自立を続けることができず、公孫瓚や呂布、曹操、袁紹といった他の群雄の部将となり転戦する。
 一方、四川地方に当たる益州では劉焉とその後を継いだ子の劉璋、長江中流の荊州では劉表が、覇権争いから距離を取って割拠。長江下流の揚州では孫策が挙兵し、連戦連勝で急速に支配を確立。
 そして、華北の二大勢力となった曹操と袁紹は、官渡で対峙(200年)する。
 この間に、劉備は袁紹の下を離れる。張繡は曹操に帰順。孫策は曹操の背後を狙うが、刺客の手にかかり、弟の孫権が後を継ぐ。
 曹操は袁紹に大勝、袁紹の勢力は後退する。
 さらに曹操は劉備を討ち、劉備は荊州の劉表に身を寄せる(201年)。
 袁紹は憂悶のうちに病を得て死去(202年)。そこから曹操は、袁紹の息子たちを討つ。

 曹操は華北の大部分を統一すると、つづいて荊州に攻撃を向ける(208年)。劉表は病死し、その後を継いだ次子の劉jは曹操に降伏。劉備は曹操から逃れ、劉表の長子の劉gを勢力下に組み入れ、さらに孫権と同盟。曹操は赤壁で孫権の部将周瑜が率いる水軍に大敗する。
 曹操の勢力は荊州の北部まで後退し、劉備が荊州中南部を領有する。以降、劉備と孫権の同盟は荊州を巡ってしばしば関係が険悪化するが、周瑜の死後、孫権軍の戦略を主導した魯粛が対曹操戦を優先し劉備との同盟を重視したため、破局には至らず。
 なお、この頃、南方の交州が孫権の支配を受け入れる(210年)。
 一方、曹操は西方の諸勢力を討つ(211年)。
 劉備は益州に侵攻、劉璋は降伏(214年)。魏、呉、蜀の三国鼎立の態勢が定まる。

 呉と蜀は荊州問題で互いに敵意を抱きつつも連合を維持していたが、魯粛が死ぬと対蜀強硬派の呂蒙が呉軍を指導するようになる。そして荊州の蜀軍が魏に対して攻勢に出た際、呉は背後を突いて荊州を制圧する(219年)。
 曹操が死去(220年)。後を継いだ曹丕は献帝に帝位を譲らせ、名目上も後漢滅亡。劉備は呉に侵攻するが、呉将陸遜の前に大敗したため、両国は関係を修復(222年)。劉備は失意のうちに死去(223年)。劉禅が後を継ぎ、諸葛亮が宰相として蜀の実質的な指導者に。

 魏では曹丕が曹操の後継者として十分な才覚を発揮していたが、ほどなく死去(226年)。後を継いだ曹叡も若年ながら、十分な指導力を発揮する。だが曹叡が死去して幼君が即位すると(239年)、以降、対蜀防衛戦等で活躍した名門の司馬懿が勢力を拡大、クーデターで魏の実権は完全に司馬懿の手に移る(249年)。そして司馬懿の死後もその子の司馬師、司馬昭が魏の実権を握る。その後司馬昭の子司馬炎の代に、魏帝曹奐に帝位を譲らせ、晋が成立する(265年)。
 蜀は国家戦略として攻勢をとる。諸葛亮は積極的に魏を攻撃するが、戦果を挙げられぬまま、陣没(234年)。諸葛亮死後の蜀軍を指導した姜維も出兵を繰り返すが、これも戦果は挙がらない。そして魏が攻勢に転じると支えきれず、劉禅は降伏、蜀は滅亡する(263年)。
 呉は陸遜やその子の陸抗といった軍事指導者の下、国家戦略としては基本的に守勢をとった。ただし、魏に出兵することも少なくなく、その出兵の規模は、国力を反映して蜀よりも大きい。なお呉は、孫権の晩年以降政治的に混乱し、以降も暗君が続出、臣下の専横が続く。そして孫晧が即位すると、その暴政によって民心を完全に失う。長江北岸と上流からの侵攻を支える余力はもはや呉には残っておらず、孫晧は晋に降伏、呉は滅亡する(280年)。

<三国の国力>
 三国の国力を比較するためにその戸数および人口を見ると以下のようになる。
  魏  66万戸  443万人(263年)
  呉  52万戸  230万人(280年)
  蜀  28万戸  94万人(263年)
 ただ、魏を継いで中国統一を果たした晋の人口は246万戸、約1600万人(280年)に上っており、三国の合計戸数から100万戸の増加を示している。もちろん、ここには、自然増加や、支配の安定に伴う流民や未登録の戸の戸籍編入等も含まれているだろう。そして、人口増加は旧魏領のみならず、旧呉蜀領でもあったはすである。だが、それでもこの100万戸の大半は、旧魏領における屯田兵の戸籍編入で生じたと考えられている。したがって、魏の人口は上述の数値よりはるかに多かったと考えられる。
 この点、213年の荀攸らの上申では、いにしえの魯の戸数を400万としたうえで、魏の戸数をその三分の一に満たないとしている。すなわち魏の戸数は、魯の戸数の三分の一が比較対象となる程度のものということである。したがって、魏は戸数がおよそ130万戸、人口にして900万人弱と見てよいだろう。三国鼎立と言いながら、圧倒的なまでの一強二弱である。
 なお、軍事力については、呉が23万人、蜀が10万人と、魏以外の二国は人口のほぼ一割を兵士に当てていたことが分かっている。このことからいって、魏の軍事力は90万人近かったと考えられる。
 魏には長大な国境を北方異民族から防衛する必要もあり、魏の総力が呉蜀に向いたわけではないだろう。また、前線の指揮官の反乱・独立の可能性を考えれば、常に中央に巨大な戦力を残さざるを得なかっただろう。だが、それでも呉蜀の二国は、日常的に大きな圧力を受け、すさまじい緊張を常時強いられていたと言える。
 三国鼎立、それは国力の比から見れば、三国による覇権争いでは決してない。それは、地の利を生かして呉蜀が、大国魏の隙を虎視眈々と狙う姿ですらない。そこに見えるのは、統一を回復しつつある大中国を前に、二つの小軍閥が、秦嶺山脈と長江の険阻のみを頼りに、避け得ぬ滅亡の時機を引き延ばそうと、必死に張りつめる姿にすぎないのである。

<三国の形成とその内情>

 諸侯が反董卓で蜂起した際の曹操の勢力はわずか兵力5千であり、小規模な群盗、山賊のたぐいと同程度の規模にすぎない。他の群雄が、数万の兵力で蜂起していることを考えると、この時点での曹操は、群雄と呼ぶにも値しないと言える。
 だが曹操の勢力は、192年青州に残存する黄巾勢力の降伏を受け入れたことで、一挙に、巨大化、他の群雄から頭一つ抜き出ることになる。このとき曹操は降兵30余万、と100万の民衆を受け入れ、そこから精兵を選抜したとされる。
 そして196年には献帝を迎え、以後、曹操は朝廷の権威を利用しつつ争覇を有利に戦い、四周の群雄を打ち倒す。
 なお196年は曹操の勢力確立にとって、もう一つの重要な施策が為されている。戦乱による荒廃地に、流民を定着させ、必要設備等を供給し食糧生産に従事させる屯田制の、大規模な組織的展開である。これは、公権力が隷属民を保有して土地経営を行うものであり、いわば公権力が公たることをやめ、巨大な私権力へと転落したに等しい。だが国家が衰退して公的な人民の把握が困難な状況下で、税収を確保する策としては、有効に機能した。これ以降、屯田は曹操に、他の群雄と一線を画する、巨大な食料生産を与えたのである。
 ところで、このころの曹操の軍事力であるが、10万強の遠征軍を繰り出した袁紹との官渡の戦いが、かなりの苦戦だったことから言って、総兵力で10万人強といったところだろうか。
 200年に袁紹を破って以降、曹操は袁氏の領土を制圧、さらに袁氏に協力的だった異民族の烏丸を征討、順調に勢力を拡大する。なお、烏丸を討って得た騎兵は精強でその名を天下に轟かすことになる。
 曹操は赤壁の戦いの敗北で、天下統一こそ逃したものの、その後も、その圧倒的な優位が覆ることはなかった。魏の勢力が、外敵の侵攻に動揺を示したのは、219年にただ一度あるのみである。

 魏は、曹操の天才的な軍事的・政治的手腕が、流民や盗賊、異民族といった多種多様な勢力を、結集し組織化することで成立した専制権力であり、その運営には、軍事的・政治的に政府の中心となる、強力な統率者を必要としていた。しかも、曹家の家柄は低く、伝統ある漢王朝を力ずくで簒奪した政権であるため、実力以外の権威で、文化的に政権を正当化することができない。
 そのため魏は、非常に脆弱な政権でもあった。曹叡が死んで幼君が後を継ぎ、魏帝に専制君主としての能力が失われると、数々の軍功に輝き、しかも名門の司馬氏の手に、権力が移行するのは当然の流れであった。結果、魏は、実質的に、三国で最も早く滅亡してしまったのである。そして、魏が漢に対してしたように、265年晋が魏の帝位を奪うのである。


 袁術の部将として活躍していた孫策は、194年は兵力1千余で挙兵するが、その名声で軍勢は5、6千に増加、勝利を重ねてこの年のうちに2万余人の兵力を獲得する。そして196年には揚州を制覇、199年には袁術の残党を吸収し、曹操の背後を突こうとするまでの勢力を持った。
 そして孫策は200年に死ぬが、孫権が後を継いで国内を固め、208年には南下した曹操の軍を退ける。なお、この頃の呉の総兵力は10万だったようである。
 その後、荊州制圧によって、呉は長江中下流域全体を支配下に収める。そして、劉備の侵攻を退けると、以後呉蜀国境は安定。
 なお、呉は国内の山岳地帯の異民族である山越の征討にも大きな労力を割いている。この山越討伐は呉の重要な兵力供給源である。

 呉は、長江流域に割拠していた豪族が、用兵に優れた孫策を見込んで、その下に連合した政権である。その軍事力のかなり大きな部分は、豪族が世襲する私兵が占めており、政権の結束は余り強くはなかった。したがって、君主に指導力が欠けると、政権は解体していく運命にある。
 そのため、孫権晩年の寵姫に溺れた後継者選定の混乱や、それ以降の暗君と臣下の専横の連続は、政権の維持にとって致命的であった。それに加えて、暴君孫晧の登場に及んでは、呉のために尽くそうという者は残っておらず、280年の晋軍の侵攻に際しては、兵士も部将も戦いを放棄してしまい、これを防ぎ止めようとする者はほとんど誰もいない有様であった。


 劉備は194年、淮河の北の徐州に根拠地を得て、群雄の一人に数えられるようになる。それまでは1千の私兵に烏丸の騎兵を抱えていたにすぎなかったが、ここで飢えた民衆を配下に組み入れるなどして、だいたい1万程度の兵力を持つに至っている。この勢力は群雄としては極めて弱小であるが、劉備は漢の王族とされており、また当人の人望もあって、この当時でも群雄の中ではかなり高い名声を得ている。
 その後荊州に曹操が侵攻した際には、劉備は逃走しながら、荊州の水軍の一部に、劉gの軍1万余人を手中に収めている。また劉備軍の逃避行には10余万の民衆が付き従ったという。したがってこの時点で劉備は3、4万の軍を編成できるようになったのではないかと考えられる。
 その後、劉備は荊州中南部を領有、さらに益州にも支配を伸ばす。
 この頃、蜀と呉の間では荊州の領有を巡って対立があり、両国の境界線も何度か変化することになるが、蜀の勢力が最盛期を迎えるのは219年である。この年は、益州北方から魏の勢力を駆逐するとともに、荊州中部の蜀軍が大規模な攻勢に出ており、その勢いに曹操は一時遷都して、蜀の攻勢を避けることさえ検討している。だが魏の誘いに応じて、呉が蜀軍の攻勢の背後を突き荊州を制圧したため、蜀は荊州の支配を喪失。221年からの劉備の出兵によっても荊州奪還はならず、以降蜀は益州一州に封じ込められてしまう。
 そして劉備死後、諸葛亮は南蛮制圧によって物資・兵力の増強を行い、魏に対しても積極的に侵攻を図るが、二度と蜀が一時の勢いを回復することはなかった。

 蜀は、劉備というカリスマの率いる流浪の兵団が、益州に逃れて樹立した、亡命政権である。その支配は、漢王朝の王族とされる劉氏の血脈のカリスマと、外来の亡命者の支配権を守る軍事力、そしてその軍事力を統率・維持する指導者の能力に依拠している。そのため、蜀においては、初代劉備は言うに及ばず、諸葛亮や姜維といった益州外の出身の軍事に優れた人物が、政権の中心となっている。さらに、蜀は国勢が下降する中で、しばしば出兵を行っているが、これは兵員や軍需物資獲得のためであった可能性も指摘されている。また、凡庸な君主であった二代劉禅など実務的にはほとんど権力を行使していないにもかかわらず、君主の権威を脅かすような臣下は登場していない。
 その一方で、この政権は、地元民の支持を得ることにもかなりの成功を収めていたようである。滅亡に際しては兵士たちは無念のあまり刀で石をたたき切っているし、姜維が蜀再興を画策して果たせず倒れた物語は、後々まで語り継がれ、人々はその失敗を惜しみ続けていたらしい。
 これらの点から言って、蜀の滅亡は、圧倒的な国力差に押しつぶされた、という感が強い。

<晋の統一と崩壊について>
 貴族、豪族の権威によって、国家への権力集中が阻まれる中、晋が中国の再統一を果たせたのは、曹操の樹立した専制権力の余波というべきだろう。王族に過大な権力を与え、統一の源たる軍事力を分散させてしまっては、その統一が短命に終わるのも当然である。

<おわりに>
 当初の予定では、人物伝とエピソード集、三国時代の軍隊と戦争、の二つもレポートするつもりだったのですが、結構な分量になったのでひとまずここで切ります。残りは、気が向くことがあればやります。

<参考資料>
正史三国志 1〜8;陳寿著 今鷹真、井波律子、小南一郎訳 ちくま学芸文庫
歴史群像シリーズ 17三国志・上、18三国志・下、28群雄三国志;学研
グラフィック戦史シリーズ戦略戦術兵器事典 @中国古代編、F中国中世・近代編;学研
中国史 上;宮崎市定著 岩波書店
中国の歴史 上;貝塚茂樹著 岩波新書
六朝貴族制社会の研究;川勝義雄著 岩波書店
中国中世史研究続編;中国中世史研究会編 京都大学学術出版会


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