2004年5月14日・21日
『晋書』 武帝紀  田中愛子


  はじめに

 『晋書』は、晋(西晋・東晋あわせた)の歴史を記した史書である。二十四正史の一であり、形式は紀伝体。唐の太宗李世民の勅のもと、房玄齢らが撰した。それまでに存在した十八の晋代史をもとに編纂されたものである。
 ところで、この『晋書』には、所謂「三国志」の登場人物とされる人々の伝も含まれている。だが、ポピュラーで需要の多い『三国志』と異なり、『晋書』には和訳が少ない。したがって、彼らの伝を現代日本語で読むことはなかなかに困難である。
 そこで、今回、「三国志」中最も著名な人物の一人であり、中国を統一し三国時代に終止符を打った人物である、晋の武帝、すなわち司馬炎(字は安世)の紀を、翻訳してみたい。拙い訳ながら、何らかの形で役に立つことができれば、幸いである。
 テキストは、中華書局発行の標点本テキストを用いた。基本的にこのテキストに基づいて訳を作成している。
 なお、なさけない話ではあるが、誤訳の可能性が大いにあること、訳文が非常に拙劣であること、結局釈然としないままに終わった箇所があることをお詫びしておきたい。
 最後になったが、翻訳作業に多大なるご協力を賜った貫名氏に、心からの感謝を捧げたい。


  晋書  武帝紀

 武帝は、諱を炎、字を安世という。文帝(註1)の長子である。寛大で情けがあり、慈しみ深く、沈着で思慮深く、度量があった。魏の嘉平年間に、北平亭侯に封ぜられ、給事中、奉車都尉、中塁将軍を歴任し、散騎常侍を加増され、つづいて中護軍及び仮節に転任した。常道郷公(註2)を東武陽に迎え(註3)、中撫軍に転任し、新昌郷侯に進封された。晋が建国されると、世子に立てられ、撫軍大将軍を拝命し、官府を設け、相国の輔佐役となった。
 武帝が世子に立てられる以前の話である。文帝は、元来景帝(註4)こそが宣帝(註5)の嫡流であると考えていた。景帝は早世したため、後嗣が無かった。そこで、文帝は、武帝の弟の司馬攸を景帝の後嗣とし、特別に目を掛けていた。また、自分は嫡流に代わって相の位に就いているが百年の後には大業は全て司馬攸に帰すべきであると考え、常に「これは景王の天下である。私はどうしてこれに与ろうか」と言っていた。立世子について評議しようという時、意向は司馬攸に向いていた。ところが、何曾らは強硬に争って言った。「中撫軍(註6)は聡明で神の如き武威があり、並み一通りでない才をお持ちです。また、髪は地につき手は膝下に達しますが、これは人臣の相ではありません」。その結果、このことにより、武帝が世子となると定まった。咸煕二年(註7)五月、武帝は晋王の太子に立てられた。
 八月辛卯、文帝が崩御した。武帝は太子として相国と晋王の位を継いだ。下に対しては、刑罰を緩め罪を許すよう命じ、人民を慰撫して労役を休止した。また、国内は三日間喪に服した。この月、襄武に巨人が現れた。背の高さは三丈であり、地元の者である王始に「今はまさに太平の時である」と言った。
 九月戊午、魏の司徒の何曾を丞相とし、鎮南将軍の王沈を御史大夫とし、中護軍の賈充を衛将軍とし、議郎の裴秀を尚書令とし、光禄大夫とした。みな官府を設けた。
 十一月、四護軍を新設し、京城城外の諸軍の統轄に当たらせた。乙未、諸郡の中正官に、六ヶ条の条件のもと、才が有りながら低い地位にとどまっている者を推挙させた。第一には、忠実で慎み深く、我が身を顧みない。第二には、親や目上の者によく仕え、礼を尽くす。第三には、兄弟と仲睦まじくする。第四には、身の廉潔を保ち、骨折り努めていながらも謙る。第五には、報いるべき信義を有する。第六には、学問をし、それによって修養する。
 この時、晋の徳は既に広まっており、天下の者はみな晋に心を寄せていた。そこで、皇帝(註8)は易姓の時がめぐり来たことを知り、太保の鄭沖に策命を奉じさせた。曰く、「嗚呼、汝晋王(註9)よ。我が皇祖有虞氏(註10)は大いに霊運を享け、陶唐(註11)から帝位を引き継ぎ、また、有夏(註12)に帝位を禅った。三人の名君(註13)は亡き天子を天とともに祀り、みなその威光によって聖なる徳を敷き広めた。その後、天はさらに大命を漢の上に集めた。火徳(註14)が衰えると、我が高祖(註15)にいつくしみを垂れ重任を賦与した。私は虞夏四代(註16)の明哲に従い、自ら進んで統治を為さんとはしない。王の祖父と父は、如何なる時も賢明で、我が皇室を輔弼し、勲徳は四海に輝いた。天地の神々をも動かしめ、秩序は治められざる無く、天地は平らげられ、万邦は安んぜられる。上帝の命を受け、大中至正(註17)に合すべし。今、朕は、謹んで天序を受け、敬意をもって汝に位を授ける。帝位に就くべき命運はまことに汝の身に在る。中庸の道を執り守れば、天祚はとこしえに続く。嗚呼、王よ謹んで天命に従え。人民を導いて訓典に従い、四方を安んじ、それによって天祚を保て。我が二皇(註18)の大業を廃らしむるなかれ」。武帝は初め礼を以って辞退していたが、魏朝の公卿である何曾や王沈らに強硬に請われ、彼らの要請に従うことにした。

 泰始元年(註19)冬十二月丙寅、南郊(註20)に壇を設けた。在任中の百官及び南匈奴の単于ら四夷、集まった者は数万人に及んだ。柴を焚き、上帝に報告して言った。「皇帝たる私司馬炎は、黒馬を用いて明らかに天に告げる。魏帝は皇帝たる命運を計えそれに従い、明らかなる天の命を取り次いで私に皇帝となるよう命じた。古、唐の尭は、大道を起こし盛んにし、虞の舜に位を譲った。舜はさらに禹に禅譲し、徳を努め行い訓えを垂れた。長い年月を経、漢の徳が衰えると、太祖武皇帝(註21)は乱を平定して時節を救い、劉氏(註22)を輔弼し、さらに、それによって漢から帝位に就くよう命を受けた。嗚呼、魏室にあっては、代々難多く、帝室が覆りかけていた。まことに晋の匡正救難の徳を頼りとし、それによって先祖の祭祀を保つを得、広く艱難から救われた。これは、晋に魏に対する大功があるということである。大いなる四方は、謹み従わざる無く、梁岷(註23)を払い清め、揚越(註24)を包み懐き、八紘を統一する。瑞祥が相次ぎ、天と人とが協応し、恭順せざる者は無い。今、私は三人の名君にのっとりこれを明らかにし、それにより大命をここに集める。私は徳を慮りこれを継がず、辞退して命を受けなかった。すると、数多の公や卿や士、諸侯、官吏達、黎民中の賢者、奴隷、夷狄の君長達に至るまで、みな言うには、『大いなる天は下をみそなわし、人の苦しみを探します。既に天命は定められています。もとより謙って辞退したところで拒みおおせ得るものではございません。天序は統べざるところある能わず、人も神も主を空しくすることは出来ません』と。私は、謹んで皇帝たる運を奉り、天威を畏れかしこみ、吉日を選び、壇に登って禅りを受ける。上帝に報告し、永く人民の望みに応えよう」。礼が終わると、洛陽宮の太極殿(註25)前殿に行幸し、詔して言った。「昔、朕の祖父宣王は、智徳優れ道理に明らかで慎み深く、大いにめぐりあわせに応じ、皇帝たる者の事業を広め、初めて帝業の基を啓いた。伯父景王は、正しき道を踏み行いあまねく思慮をめぐらし、中華の地に光り輝いた。父文王に至り、叡智は遠くまでも照らし、まことに神霊に和合した。天に応じ時に従い、ここに明らかなる命を受けた。その仁は世界を救い、その功は天地を動かしむ。今、魏氏は広く古の訓えを鑑み、唐虞(註26)にのっとり、諸侯に諮ってその器を求め、ここに朕の身に大命を集めた。朕は天の命を畏れ、そのためこれを拒まなかった。朕は徳寡き身でありながら、先祖の大勳を引き継ぎ、王公の上を託り、四海に君臨することとなった。畏れおののき、何を為すべきか全く分からない。汝ら股肱爪牙の臣の佐け、叛くことなき文武の臣よ。汝の祖父や父は、まことによく我が先王を輔弼した。我が大業を興隆せしめ威耀有らしめよ。万国に与ることを思い、共に天祚を享けよ」。こうして、大赦を行い、改元した。天下の者に一人あたり五級ずつ爵を下賜した。配偶者を亡くした者、あるいは親を亡くした子供や子を亡くした老人で、自活できない者には、一人あたり五斛(註27)ずつ穀物を与えた。また、全国の租税・通行税・営業税各々一年分と、未納税、従前の債務を免除した。前々からかけられていた嫌疑を解き、禁錮(註28)を解除し、官職や爵位を失った者はみな元通りとした。

 丁卯、太僕の劉原を遣わして太廟に報告させた。魏帝を陳留王に封じ、知行地一万戸を与え、鄴の宮殿に住まわせた。魏室の諸王はみな県侯とした。宣王に宣皇帝と、景王に景皇帝と、文王に文皇帝と、宣王妃の張氏に宣穆皇后と追尊した。太妃の王氏を皇太后と、その宮殿を崇化と尊称した。皇叔祖父の司馬孚を安平王に封じた。皇叔父の司馬幹を平原王に、司馬亮を扶風王に、司馬伷を東莞王に、司馬駿を汝陰王に、司馬肜を梁王に、司馬倫を琅邪王に封じた。皇弟の司馬攸を斉王に、司馬鑑を楽安王に、司馬機を燕王に封じた。皇従伯父の司馬望を義陽王に封じた。皇従叔父の司馬輔を渤海王に、司馬晃を下邳王に、司馬瑰を太原王に、司馬珪を高陽王に、司馬衡を常山王に、司馬子文を沛王に、司馬泰を隴西王に、司馬権を彭城王に、司馬綏を范陽王に、司馬遂を済南王に、司馬遜を譙王に、司馬睦を中山王に、司馬陵を北海王に、司馬斌を陳王に封じた。皇従父兄の司馬洪を河間王に封じた。皇従父弟の司馬楙を東平王に封じた。驃騎将軍の石苞を大司馬とし、楽陵公に封じた。車騎将軍の陳騫を高平公とした。衛将軍の賈充を車騎将軍とし、魯公とした。尚書令の裴秀を鉅鹿公とした。侍中の荀勖を済北公とした。太保の鄭沖を太傅とし、寿光公とした。太尉の王祥を太保とし、睢陵公とした。丞相の何曾を太尉とし、朗陵公とした。御史大夫の王沈を驃騎将軍とし、博陵公とした。司空の荀を臨淮公とした。鎮北大将軍の衛瓘を菑陽公とした。その他も、各々分に応じて増封され爵位を進められた。文官・武官ともに位を二等加増された。景初暦を改めて太始暦を作成した。臘(註29)を酉とし、社(註30)を丑とした。
 戊辰、下民にまで詔して大いに倹約を広めた。御府(註31)の宝物や玩弄物を放出し、王公以下の者に各々分に応じて分かち与えた。中軍将軍を設置し、宿衛七軍の統轄に当たらせた。
 己巳、陳留王(註32)に詔して、皇帝の旌旗を設けさせ、五時(註33)の副車を備えさせた。魏の暦を行わせ、天地を祀らせた。礼楽制度をみな魏の旧来のものと同様にし、上書する際に「臣」と称さずともよいとした(註34)。山陽公劉康(註35)と安楽公劉禅(註36)の子弟一人ずつを駙馬都尉とした(註37)。乙亥、安平王司馬孚を太宰とし、仮黄鉞とし、大都督中外諸軍事とした。詔して言った。「昔、王淩(註38)は斉王(註39)を廃さんと謀ったが、王(註40)をかついだところで、結局、地位を守る手段とするには不足であった。ケ艾(註41)は功を誇っていたけれど節を失い、そのため縛に就き罪に服した。今、それらの一門に対して大赦を行い、再び後継者を立てさせる。滅びたものを盛んにし、絶えた世を継ぐ。法律や刑罰は簡潔にする。魏室の宗室の禁錮(註42)を解く。諸将諸吏で三年の喪(註43)に遭った者には、帰郷させ喪を全うさせる。人民の徭役を免除する。部曲の将や高官以下の者の人質を廃止する。郡や国の奏楽を省き、音曲や華美で派手な見世物、細工物や狩りの道具を禁ずる。直言の道を開き、諌官を設けてこれを管轄させる」。
 この月、鳳凰六体、青龍三体、白龍二体、麒と麟(註44)各一体が、郡や国に現れた。

 泰始二年(註45)春正月丙戌、兼侍中の侯史光らに節(註46)を持たせて四方へ派遣し、風俗を巡察させ、祈祷や修祓の儀式でその典礼を行う者が無いものは、廃止した。丁亥、官吏が皇帝の廟を建設したいと申請してきた。武帝は労役が重いと考え、許可しなかった。庚寅、雞鳴歌(註47)を廃止した。辛丑、景皇帝夫人の羊氏を景皇后と、その宮殿を弘訓と尊称した。丙午、楊氏を皇后に立てた。
 二月、漢の宗室の禁錮(註48)を解除した。己未、常山王司馬衡が薨去した。詔して言った。「五等の封爵について、みなかつての勳を調査せよ。もともと県侯であった者は、子に爵を受け継がせて亭侯とし、郷侯であった者は子を関内侯とし、亭侯であった者は子を関中侯とする。みなもとの知行地の十分の一を食むものとする」。丁丑、宣帝を天とともに祀り、文帝を明堂(註49)で上帝とともに祀った。庚午、詔して言った。「古、百官は王の過ちを戒めたが、その中でも特に保氏(註50)は王を諌めることを職務としていた。今の侍中と常侍が事実上この地位に当たる。謹厳で、過ちを正すことができ、劣った者を救い正すことのできる者を選り分け、これを兼ね備えていることを条件に選抜せよ」。
 三月戊戌、呉の者が弔祭を訪れた。官吏が答詔を下すよう奏上した。武帝は、「昔、漢の文帝(註51)と光武帝(註52)とは、尉他(註53)と公孫述(註54)とを懐け従わせた。二人ともまだ君臣の儀を正さなかったので、賓客として待遇せず、臣下として扱った。孫皓は使いをよこし始めたが、まだ国慶というものを知らない。ただ書状だけでこれに答えよう」と言った。
 夏五月戊辰、詔して言った。「陳留王は品行高く謙虚であるが、事あるごとに上表してくる。頻繁に上表してくるからといって彼を優遇するわけではない。主君が意思を表明する際には、大した事でないのならみな王の官吏を遣わして上表させよ」。壬子、驃騎将軍の博陵公王沈が逝去した。
 六月壬申、済南王司馬遂が薨去した。
 秋七月辛巳、太廟を造営した。荊山の木を取り寄せ、華山の岩を採取した。銅柱十二本を鋳、黄金を塗った。様々な彫刻を制作し、宝玉を飾った。戊戌、譙王司馬遜が薨去した。丙午晦、日蝕があった。
 八月丙辰、右将軍の官職を廃止した。
 以前、武帝は漢や魏の制度に従っていた。だが、既に埋葬が済み喪が明けた(註55)にもかかわらず、深衣(註56)と素冠(註57)を身につけ、席を降りて膳を下げさせ、喪中にある者のように悲嘆にくれ慎みを行っていた。戊辰、官吏が、衣服を改め膳をすすめるよう奏上したが、聞き入れなかった。礼が終わった後、平常に戻った(註58)。太后の喪の際もまたこのようであった。九月乙未、散騎常侍の皇甫陶と傅玄が、諌官を受領し、上書して武帝を諌めた。官吏がこれを廃止するよう奏上した。武帝は詔して言った。「およそ主君に何かを言うことは、人臣にとって非常に難しいことであり、聞き入れられないことに苦しむ。古くからこれは忠臣や直言の士の憤り嘆くところである。物事を述べる際にはいつもそれを責任者に提出するが、多くは厳しく言ってきた者に従ってしまう。『恩沢は当然主君によるものであるべきである』とあるが、これは一体何を言っているのか。この点を詳しく評議せよ」。
 戊戌、官吏が奏上した。「大いなる晋は、三皇(註59)の蹤蹟を継承し、舜と禹の事跡を踏襲し、天に応じ時に従い、魏から禅譲を受けました。すべて前代の暦と服色(註60)とを用い、みな虞(註61)が唐(註62)にのっとった故事の如くになさるべきでございます」。奏上は認められた。
 冬十月丙午朔、日蝕があった。丁未、詔して言った。「昔、舜は蒼梧に葬られたが、農民は畝を変えることが無かった。禹は成紀に葬られたが、市は店を変えることが無かった。祖父と父の清廉で慎ましやかなお考えを尊び思う。移転させていた、陵から十里以内の住人が、動揺し騒ぎを起こしている。そこで、一切移転を止めることとする」。
 十一月己卯、倭人が来てその産物を献上した。南北の郊外で円丘(註63)と方丘(註64)とを合し、冬至の祭祀(註65)と夏至の祭祀(註66)とを南北の郊外で合した。山陽公国の督軍を廃止し、その拘束を解除した。己丑、景帝夫人の夏侯氏に景懐皇后と追尊した。辛卯、先祖の廟と位牌とを太廟に移した。
 十二月、農官を廃止して郡県とした。
 この年、鳳凰六体、青龍十体、黄龍九体、麒と麟各一体が郡や国に現れた。

 泰始三年(註67)春正月癸丑、白龍二体が弘農と澠池に現れた。
 丁卯、皇子の司馬衷を皇太子に立てた。詔して言った。「朕は不徳の身でありながら、四海の上を託った。畏れ謹み、天下を安んじ救えないことを恐れる。天下に与り明らかなる王法に則ることについて思うに、根本を正し清めることは、世継ぎを立てるにおいては、先務とすべきところではない。さらに、近年、太子を立てる度に恩赦や施与がなされ、僅かの間も止むことが無い。王や公、卿、士の評議に従うばかりである。現在の世の運は平らかに垂んとしている。徳義にもとづいてこれを述べ、善悪にもとづいてこれを示し、人民に、多くの幸いを得ようという考えをやめさせよ。一貫して行いを篤くすべし。偏った恵みやつまらない情けは、故に得ることは無い。みな、聞き知らせよ」。
 三月戊寅、初めて地方長官に三年の喪を全うさせた。丁未、昼に暗かった。武衛将軍の官職を廃止した。李憙を太子太傅とした。太山で岩が崩れた。
 夏四月戊午、張掖太守の焦勝が上言してきた。「氐池県の大柳谷の口に黒い岩がありました。そこには白く何かが書かれていてそれが文章をなし、大晋の国祚について述べておりました。このことについて考えをめぐらし、その結果、これを献上することにいたしました」。詔して制幣(註68)を用いて太廟に報告し、天府(註69)に収蔵した。
 秋八月、都護将軍を廃止し、そのもとにあった五つの官署を光禄勳のもとに戻した。
 九月甲申、詔して言った。「古には、徳をもって爵位を与え、中庸をもって秩禄の制を定めた。身分の低い士(註70)は裕福な農民から食い扶持を得ているようであったとはいえ、外には己を忘れて奉公するに足り、内には親を養い恩恵を施すに足るものであった。今、在任中のもので、俸禄を受けながら自ら耕作している者がある。これは教化の根本に悖るものである。官吏の俸禄を増やすことを評議せよ」。王公以下の者に各々分に応じて絹を下賜した。太尉の何曾を太保とした。義陽王司馬望を太尉とした。司空の荀を司徒とした。
 冬十月、士卒で父母の喪に遭った者は、国境地帯での任務から外れることを許した。みな急いで駆けつけることができた。
 十二月、宗聖侯孔震(註71)を移封して奉聖亭侯とした(註72)。山陽公劉康が来朝した。星気(註73)や讖緯(註74)の学問を禁じた。

 泰始四年(註75)春正月辛未、尚書令の裴秀を司空とした。
 丙戌、律令が完成し、各々分に応じて爵位に封じ、絹を下賜した。軫(註76)に彗星が現れた。丁亥、武帝は藉田(註77)を耕した。戊子、詔して言った。「古には、法律を定めると人民はそれを犯さなかった。今は、たとえ三族(註78)皆殺しにしたとしても、邪なことが絶えない。徳と刑とはなんと遠くかけ離れてしまったのであろうか。先帝は民草を深くあわれみ、訴訟事が絶えないのを不憫に思った。そこで、群侯に命じ、刑や法を考え正した。朕はその遺業を守り、長らく、皇基を安んじ治めることを考え、万国に与るに、賢人の抜擢及び徳を以っての人民教化により政治を為すことを思ってきた。まさに今、陽春の候、万物を育む季節であり、春の耕作が始まりまた盛んになる。朕は自ら王公卿士を率いて藉田を千畝耕した。さらに、律令が完成した。これを天下に布告し、まさに、簡明な法により根本に力を尽くし、海内を恵み育てようとしている。罪ある者を許し、自ら更正できるようにさせ、天下に大赦を行う。また、高官・郡丞・長史にそれぞれ馬一頭を下賜する」。
 二月庚子、山陽公国に相・郎中令・陵令・雑工宰人・鼓吹車馬を各々分に応じて増設した。中軍将軍を廃止して北軍中候の官職を設置した。甲寅、東海の劉倹に非常に立派な行いがあったので、郎の地位を賜与した。中軍将軍の羊祜を尚書左僕射とし、東莞王司馬伷を尚書右僕射とした。
 三月戊子、皇太后の王氏が崩御した。
 夏四月戊戌、太保の睢陵公王祥が薨去した。己亥、文明皇后王氏を崇陽陵(註79)に合葬した。振威・揚威護軍の官職を廃止し、左右積弩将軍を設置した。
 六月丙申朔、詔して言った。「郡国の守及び相は、三年に一度、自らの属する県を巡察せよ。その時期は必ず春とせよ。これは、古に、諸侯が天子に自分の職務について報告し、教化を広め、徳義を浸透させる手段であったものである。官吏を査察し、風俗を視察せよ。礼律を遵守し、度量を吟味せよ。老人達を見舞い、自ら彼らに会え。囚人を調査し、冤罪を解明せよ。政治や行刑の得失をつぶさに見、人民の憂いや苦しみを知れ。遠近を問わず、朕自らが臨むが如くにせよ。五教(註80)を篤く諭し、農作に励むことを奨励し、学問をする者を督励し、正典に尽力することを思え。つまらない技芸を為してはならない。遠きに尽くし近きを正せ。身分を問わず、学問を好み道理に篤く、父兄によく仕え忠実で信義があり、清廉で行いの抜きんでた者は、推挙して位を進めよ。父母に孝行せず、一族において目上に仕えず目下を慈しまず、礼に背き常道を逸し、法に従わぬ者は、糾弾して処罰せよ。田畑が拓かれ、生業が修められ、礼教が整っており、禁令が行われている。こうであるならば、それは高官の有能さ故である。人々が困窮し、農事が荒廃し、奸盗が発生し、刑罰が煩雑で、上下の序が乱れ、礼や義が盛んでない。これは高官の非である。こうした高官で、官にあって公正廉潔で、私事を顧みず、謹厳で節義を通し、名誉を飾りたてぬ者も、考えや行いが欲深く下劣で、諂い汚職をなして登用を求め、公正なる節義が無く、己の一門が日増しに富裕になってゆく者も、謹んで視察せよ。清廉なる者を称揚し貪汚なる者を排除し、善良なる者を推挙し邪悪なる者を弾劾する。これが朕自らは政の大綱を統ぶるに手を下さず、地方長官に業績を要求する所以である。嗚呼、戒めんかな」。
 秋七月、太山で岩が崩れた。星が多数西に流れた。戊午、使者の侯史光を派遣して天下を巡行させた。己卯、崇陽陵(註81)に拝謁した。
 九月、青州・徐州・兗州・予州の四州で大水害が起きた。伊水と洛水が氾濫し、黄河に流入した。そのため、官倉を開き、この四州を救援した。詔して言った。「何か求めることがあって奏上し、詔によって許可が下りたものの、それを実行してみると不都合が生じたという場合、すべて事実を覆い隠してはならない」。
 冬十月、呉の武将の施績が江夏に侵入し、万郁が襄陽に侵攻した。太尉の義陽王司馬望を派遣して龍玻に駐屯させた。荊州刺史の胡烈が万郁を攻撃、打破した。呉の武将の顧容が鬱林に侵攻した。太守の毛Qがこれに大勝し、呉の交州刺史の劉俊と将軍の修則を斬首した。
 十一月、呉の武将の丁奉らが芍破に進軍した。安東将軍の汝陰王司馬駿と義陽王司馬望がこれを攻撃、敗走させた。己未、王公卿尹、郡太守及び国相に、賢明善良、品行方正で直言する立派な人物を推挙するよう詔した。
 十二月、五ヶ条の詔書を郡や国に布告した。第一には、身を正しくせよ。第二には、人民のために励め。第三には、孤児や寡婦を慈しめ。第四には、根本を篤くし枝葉末節にかかずらってはならない。第五には、縁故の者に便宜を図るまたは図らせることをやめよ。庚寅、武帝は聴訟観に出御し、廷尉及び洛陽の獄囚を臨検し、自ら公平に判断を下した。扶南と林邑が使者を派遣して来貢した。

 泰始五年(註82)春正月癸巳、郡国の計吏・郡太守・国相・県令若しくは県長に対し、その土地の利益を尽くすことに躍起にならぬよう重ねて戒め、遊蕩や商事を禁じた。丙申、武帝は聴訟観に出御して囚人を臨検した。その結果、多くの者が釈放された。青龍二体が栄陽に現れた。
 二月、雍州の隴右の五郡及び涼州の金城、梁州の陰平を分割して、秦州を設置した。辛巳、白龍二体が趙国に現れた。青州・徐州・兗州の三州で水害が起きた。使者を派遣してこの三州を救恤した。壬寅、尚書左僕射の羊祜を都督荊州諸軍事とし、征東大将軍の衛瓘を都督青州諸軍事とし、東莞王司馬伷を鎮東大将軍とし、都督徐州諸軍事とした。丁亥、詔して言った。「古には、年毎に諸官吏の能力の有無を記し、三年ごとに賞罰を与えた。しかるに、諸令史は、これまで、ただ浅薄で劣った者を排除するのみで、優れた人物を招聘してこなかった。これは功無き者を退け有能な人材を登用するという趣旨に外れている。勤勉で有能で、最も抜きん出ているとの評判の者を挙げることを、毎年常とせよ。私はその功労について評議しよう」。己未、詔して、蜀の丞相の諸葛亮の孫の諸葛京を才能に応じて官吏に登用した。
 夏四月、地震が起きた。
 五月辛卯朔、鳳凰が趙国に現れた。交趾・九眞・日南の懲役五年の者を法を曲げて赦免した。
 六月、鄴の奚官督の郭が上疏し、五点の事柄を述べて諌言した。その言は極めて適切に失過を正すものであったので、抜擢して屯留令とした。西平の麹路が登聞鼓(註83)を打った。その言は妖言や誹謗が多かった。そのため、官吏が棄市(註84)に処するよう奏上した。武帝は「朕の過ちである」と言い、放置し不問に付した。鎮軍将軍を廃止し、左右将軍の官職を再度設置した。
 秋七月、諸侯を招き、諮問して直言を求めた。
 九月、紫宮(註85)に彗星が現れた。
 冬十月丙子、汲郡太守の王宏に行政上の業績があったとして、穀物千斛を下賜した。
 十一月、皇弟の司馬兆に城陽哀王と追封諡し、皇子の司馬景度をその後嗣とした。
 十二月、州や郡に勇猛で秀でた才を有する者を推挙するよう詔した。

 泰始六年(註86)春正月丁亥朔、武帝は、正座ではなく平台に御した。また、楽を設けなかった。呉の武将の丁奉が渦口に侵入した。揚州刺史の牽弘がこれを攻撃、敗走させた。
 三月、懲役五年以下の者を赦免した。
 夏四月、白龍二体が東莞に現れた。
 五月、寿安亭侯司馬承を南宮王に立てた。
 六月戊午、秦州刺史の胡烈が、反乱を起こした蛮族を万斛堆で攻撃した。力戦し、死亡した。詔して、尚書の石鑑を安西将軍代理とし都督秦州諸軍事として派遣し、奮威護軍の田章とともにこれを討伐させた。
 秋七月丁酉、隴右の五郡で戦災に遭った者の租税を免除し、自活できない者には官倉から穀物を貸し付けた。乙巳、城陽王司馬景度が薨去した。詔して言った。「泰始年間以来、重要な事柄は全て秘書(註87)に選録し、控えを書写していた。今後これを行う際には、綴り集めるのを常とすべし」。丁未、汝陰王司馬駿を鎮西大将軍とし、都督雍涼二州諸軍事とした。
 九月、大宛が汗血馬を献上した。焉耆が来てその産物を献上した。
 冬十一月、辟雍(註88)に行幸した。郷飲酒の礼(註89)を行い、太常博士と学生に各々分に応じて絹と牛と酒を下賜した。皇子の司馬柬を汝南王に立てた。
 十二月、呉の夏口督で前将軍の孫秀が人民を率いて逃亡してきた。驃騎将軍・開府儀同三司の地位を賜与し、会稽公に封じた。戊辰、鎮軍の官職を再度設置した。

 泰始七年(註90)春正月丙午、皇太子が加冠を行った。王公以下の者に各々分に応じて絹を下賜した。匈奴の首領の劉猛が反乱を起こし、国境を侵した。
 三月、孫晧が人民を率いて寿陽に赴いた。大司馬の司馬望を淮北に駐屯させ、これを防御した。丙戌、司空の鉅鹿公裴秀が薨去した。癸巳、中護軍の王業を尚書左僕射とし、高陽王司馬珪を尚書右僕射とした。孫秀の部隊長の何崇が人民五千人を率いて投降してきた。
 夏四月、九真太守の董元が呉の武将の虞氾によって攻撃された。軍は敗北し、董元は死亡した。北地胡が金城に侵攻した。涼州刺史の牽弘がこれを討伐した。だが、多くの蛮族が国内で反乱し、牽弘を青山で包囲した。牽弘の軍は敗北し、彼は死亡した。
 五月、皇子の司馬憲を城陽王に立てた。雍州・涼州・秦州の三州で飢饉が起きた。これらの州内の死刑以下の者を赦免した。
 閏月、盛大に雨乞いを行った。このために、太官(註91)は食事の量を減らした。詔して、交趾の三郡と南方の諸郡では、この年の戸調(註92)を納めないものとした。
 六月、公卿以下の者に各々将帥を一人推挙するよう詔した。辛丑、大司馬の義陽王司馬望が薨去した。ひどい長雨が降り、伊水・洛水・黄河が氾濫した。住居を流された者は四千家あまり、死者は三百人あまりに及んだ。詔して、救援及び物資貸与を行い、棺を支給した。
 秋七月癸酉、車騎将軍の賈充を都督秦涼二州諸軍事とした。呉の武将の陶璜らが交趾を包囲した。太守の楊稷と鬱林太守の毛Q及び日南等の三郡が呉に投降した。
 八月丙戌、征東大将軍の衛瓘を征北大将軍とし、都督幽州諸軍事とした。丙申、城陽王司馬憲が薨去した。益州の南部の四郡を分割して、寧州を設置した。この四郡で死刑以下の者を法を曲げて赦免した。
 冬十月丁丑、日蝕があった。
 十一月丁巳、衛公姫署が薨去した。
 十二月、大雪が降った。中領軍と北軍中候を廃止した。光禄大夫の鄭袤を司空とした。

 泰始八年(註93)春正月、監軍の何驍ェ匈奴の劉猛を討伐し、これを幾度も打破した。左部帥の李恪が劉猛を殺して投降した。癸亥、武帝は藉田を耕した。
 二月乙亥、彫文や綾紐で違法なものを禁じた。壬辰、太宰の安平王司馬孚が薨去した。内外の諸官吏に、辺境の郡で任に就いている者を各々三人推挙するよう詔した。武帝と右将軍の皇甫陶が議論したところ、口論になった。散騎常侍の鄭徽が上表し彼を罰するよう申し出た。武帝は言った。「理に適った正しい言葉や諂うこと無き直言は、左右の者に望むところのものである。人の主は常に阿諛追従を内憂と見なすものである。どうして諌臣を退けようか。鄭徽は職分を越え妄りに奏上するものである。朕の意に適おうはずがない」。すぐに鄭徽の官職を罷免した。
 夏四月、後将軍を設置し、それにより四軍(註94)を整備した。六月、益州の役所の張弘が、益州刺史の皇甫晏が反乱を起こしたと誣告し、彼を殺害、首級を都に送った。張弘は誅罰され、三族を皆殺しにされた。壬辰、大赦を行った。丙申、詔して隴右の四郡で戦災に遭った者の田租を免除した。
 七月、車騎将軍の賈充を司空とした。
 九月、呉の西陵督の歩闡が投降してきた。衛将軍と開府儀同三司の地位を賜与し、宜都公に封じた。呉の武将の陸抗が歩闡を攻撃した。車騎将軍の羊祜に人民を率いて江陵まで出撃させ、荊州刺史の楊肇に西陵で歩闡を迎えとらせ、巴東監軍の徐胤に健平を攻撃させて、歩闡を救援した。
 冬十月辛未朔、日蝕があった。
 十二月、楊肇は陸抗を攻撃したが、勝てずに帰還した。歩闡の城は陥落し、彼は陸抗に捕縛された。

 泰始九年(註95)春正月辛酉、司空の密陵侯鄭袤が薨去した。
 二月癸巳、司徒の楽陵公石苞が薨去した。安平亭侯司馬隆を安平王に立てた。
 三月、皇子の司馬祗を東海王に立てた。
 夏四月戊辰朔、日蝕があった。
 五月、旱魃が起きた。太保の何曾に司徒を受領させた。
 六月乙未、東海王司馬祗が薨去した。
 秋七月丁酉朔、日蝕があった。呉の武将の魯淑が弋陽を包囲した。征虜将軍の王渾がこれを攻撃、打破した。五官左右中郎将・弘訓太僕・衛尉・大長秋等の官職を廃止した。鮮卑が広寧に侵攻し、五千人を殺し略奪した。詔して公卿以下の子女を集めて後宮に用意しておき、選抜が終わるまで、一時的に婚姻を禁じた。
 冬十月辛巳、娘が十七歳になって父母が嫁にやっていない者は、高官が娶せると制定した。
 十一月丁酉、宣武観に出御して諸軍に対し大閲(註96)を行った。大閲は甲辰に終わった。

 泰始十年(註97)春正月辛亥、武帝は藉田を耕した。
 閏月癸酉、太傅の寿光公鄭沖が薨去した。己卯、高陽王司馬珪が薨去した。庚辰、太原王司馬瑰が薨去した。
 丁亥、詔して言った。「嫡子と庶子の別は、上下を分かち貴賎を明らかにする方途である。しかし、近来、多くの皇帝が嬖妾を寵愛し、后妃の職にのぼらせ、尊卑の序を乱してきた。これより後、嬖妾を登用して正夫人とすることは一切無いものとする」。
 二月、幽州の五郡を分割して、平州を設置した。
 三月癸亥、日蝕があった。
 夏四月己未、太尉の臨淮公荀が薨去した。
 六月癸巳、聴訟観に出御し、囚人を臨検した。その結果、多くの者が釈放された。この夏、蝗が大量発生した。
 秋七月丙寅、皇后の楊氏が崩御した。壬午、呉の平虜将軍の孟泰や偏将軍の王嗣らが人民を率いて投降した。
 八月、涼州の蛮族が金城の諸郡に侵攻した。鎮西将軍の汝陰王司馬駿がこれを討伐し、その首領の乞文泥らを斬首した。戊申、元皇后を峻楊陵に葬った。
 九月癸亥、大将軍の陳騫を太尉とした。呉の枳里城を攻撃、攻略し、呉の立信校尉の荘祐を捕縛した。呉の武将の孫遵と李承が人民を率いて江夏に侵攻した。太守の嵆喜がこれを撃破した。富平津に河橋を掛けた。
 冬十一月、城東の七里澗に石橋を掛けた。庚午、武帝は宣武観に出御し、諸軍に対し大閲を行った。
 十二月、彗星が軫に現れた。藉田令を設置した。太原王(註98)の子の司馬緝を高陽王に立てた。呉の威北将軍の厳聡と揚威将軍の厳整と偏将軍の朱買が投降してきた。
 この年、陜の南山を開削し、黄河の堤防を切り、東流して洛水に注ぐようにし、水運用の水路を通した。

 咸寧元年(註99)春正月戊午朔、大赦を行い、改元した。
 二月、将士は既に妻を娶っている者が多いであろうことから、家に五人の娘がある者に対して税を免除した(註100)。辛酉、元鄴令の夏謖に良い評判があったため、穀物百斛を下賜した。俸禄が少なかったため、公卿以下の者に各々分に応じて絹を下賜した。反乱した蛮族である樹機能が人質を送って投降を許すよう請うた。
 夏五月、下邳・広陵で強風が吹いた。このため、木が抜け、家屋が倒壊した。
 六月、鮮卑の力微が息子を派遣して来貢した。呉の者が江夏に侵攻した。西域戊己校尉の馬循が反乱した鮮卑を討伐、これを打破し、その首領を斬首した。戊申、太子・事官を設置した。
 秋七月甲申晦、日蝕があった。郡や国で螟(註101)が発生した。
 八月壬寅、沛王の司馬子文が薨去した。亡き太傅の鄭沖・太尉の荀・司徒の石苞・司空の裴秀・驃騎将軍の王沈・安平献王司馬孚ら、そして、太保の何曾・司空の賈充・太尉の陳騫・中書監の荀勖・平南将軍の羊祜・斉王司馬攸らをみな銘饗(註102)に列した。
 九月甲子、青州で螟が発生した。徐州で大水害が起きた。
 冬十月乙酉、常山王司馬殷が薨去した。癸巳、彭城王司馬権が薨去した。
 十一月癸亥、宣武観で大閲を行った。大閲は己巳まで行われた。
 十二月丁亥、宣帝の廟号を高祖と、景帝の廟号を世宗と、文帝の廟号を太祖と追尊した。この月、疫病が大流行し、洛陽では大半の者が死亡した。裴頠を鉅鹿公に封じた。

 咸寧二年(註103)春正月、疫病のため政務を停止した。職務の定まっていない官吏達から士卒に至るまでの者に、各々分に応じて糸を下賜した。
 二月丙戌、河間王司馬洪が薨去した。甲午、懲役五年以下の者を赦免した。東夷八国が帰順した。幷州の蛮族が塞を侵犯した。監幷州諸軍事の胡奮がこれを撃破した。
 以前のことであるが、燉煌(註104)太守の尹璩が逝去した時、州は燉煌令の梁澄に郡太守の政務を治めさせたが、議郎の令狐豊が梁澄を廃し、自ら郡の政務を治めた。令狐豊が死亡すると、その弟の令狐宏がこれに代わった。この時に至って、涼州刺史の楊欣が令狐宏を斬首し、首級を洛陽に送った。
 以前から武帝は病に罹っていたが、治癒した。そこで、群臣が、武帝に杯をすすめて長寿の祈りを為した。武帝は詔して言った。「近頃疫病に罹って死ぬ者を思うたびに、痛ましい気持ちになる。どうして我が身一つの治癒ごときで、人民の艱難を忘れられようか。最上級の礼をとることは今後一切やめよ」。
 夏五月、鎮西大将軍の汝陰王司馬駿が北胡を討伐し、その首領の吐敦を斬首した。国子学(註105)を設立した。庚午、盛大に雨乞いを行った。
 六月癸丑、茘枝を太廟に供えた。甲戌、氐(註106)に彗星が現れた。春から旱魃であったが、この月になって雨が降り始めた。呉の京下督の孫楷が人民を率いて投降してきた。彼を車騎将軍とし、丹楊侯に封じた。白龍二体が新興の井戸の中に現れた。
 秋七月、大角(註107)に彗星が現れた。呉の臨平湖は、漢末以来塞がっていたが、自然に開いた。父老らは「この湖が塞がれば、天下は乱れる。この湖が開けば、天下は平らかになる」と相伝えていた。癸丑、安平王司馬隆が薨去した。東夷十七国が服従してきた。河南・魏郡で大水害が起き、百人あまりが死亡した。詔して棺を支給した。鮮卑の阿羅多らが辺境に侵攻した。西域戊己校尉の馬循がこれを討伐した。四千人あまりを斬首し、九千人あまりを生け捕りにした。そこで、阿羅多らは投降してきた。
 八月庚辰、河東・平陽で地震が起きた。己亥、太保の何曾を太傅とし、太尉の陳騫を大司馬とし、司空の賈充を太尉とし、鎮軍大将軍の斉王司馬攸を司空とした。彗星が太微(註108)に現れ、九月にはさらに翼(註109)に現れた。丁未、太倉(註110)を城東に設置し、常平倉(註111)を東西の市に設置した。
 閏月、荊州の五つの郡で水害があり、四千家あまりが流された。
 冬十月、汝陰王司馬駿を征西大将軍とし、平南将軍の羊祜を征南大将軍とした。丁卯、楊氏を皇后に立てた。大赦を行い、王公以下の者及び配偶者を亡くした者に、各々分に応じて下賜を行った。
 十一月、白龍二体が梁国に現れた。
 十二月、民間人である安定の皇甫謐を召し出し、太子中庶子とした。皇后の父である鎮軍将軍の楊駿を臨晋侯に封じた。この月、平州刺史の傅詢と前広平太守の孟桓が清廉潔白で評判高かったので、傅詢には絹二百匹を、孟桓には絹百匹を下賜した。

 咸寧三年(註112)春正月丙子朔、日蝕があった。皇子の司馬裕を始平王に、安平穆王司馬隆の弟の司馬敦を安平王に立てた。詔して言った。「宗室や外戚は、国の枝葉である。徳義を受け継いで行い、天下の法となるよう命じたい。しかし、富貴にして行いを慎める者は少ない。召穆公(註113)は、兄弟を集めてにわうめの詩(註114)を詠った。これが、姫氏(註115)が本家分家ともに栄え、百世に達した所以である。今、衛将軍の扶風王司馬亮を宗師(註116)とする。何か行うに当たっては、みな宗師に諮るようにせよ」。庚寅、始平王司馬裕が薨去した。彗星が西方に現れた。征北大将軍の衛瓘に鮮卑の力微を討伐させた。
 三月、平虜護軍の文淑が反乱した蛮族である樹機能らを討伐、これらをみな打破した。彗星が胃(註117)に現れた。乙未、武帝は雉を射ようとしたが、麦の苗を傷つけることを慮って止めた。
 夏五月戊子、呉の武将の邵凱と夏祥が、人民七千人あまりを率いて投降してきた。
 六月、益州と梁州の八つの郡で水害があった。三百人あまりが死亡し、邸閣(註118)や別倉(註119)が水没した。
 秋七月、都督予州諸軍事の王渾を都督揚州諸軍事とした。中山王司馬睦を罪により廃して丹水侯とした。
 八月癸亥、移封して、扶風王司馬亮を汝南王と、東莞王司馬伷を琅邪王と、汝陰王司馬駿を扶風王と、琅邪王司馬倫を趙王と、渤海王司馬輔を太原王と、太原王司馬顒を河間王と、北海王司馬陵を任城王と、陳王司馬斌を西河王と、汝南王司馬柬を南陽王と、済南王司馬耽を中山王と、河間王司馬威を章武王とした。皇子の司馬瑋を始平王に、司馬允を濮陽王に、司馬該を新都王に、司馬遐を清河王に、鉅平侯羊祜を南城侯に立てた。汝南王司馬亮を鎮南大将軍とした。強風が吹き、木が抜けた。寒波に見舞われ、氷が張った。五つの郡や国で霜が降り、穀物に損害を与えた。
 九月戊子、左将軍の胡奮を都督江北諸軍事とした。兗州・予州・徐州・青州・荊州・益州・梁州の七州で大水害が起き、秋の収穫に損害を与えた。そこで、詔して、この七州に対し救援及び物資支給を行った。斉王(註120)の息子の司馬蕤を遼東王に、司馬賛を広漢王に立てた。
 冬十一月丙戌、武帝は宣武観に出御し、大閲を行った。大閲は壬辰まで行われた。
 十二月、呉の武将の孫慎が江夏・汝南に侵入し、千家あまりを略奪して去った。
 この年、西北の様々な蛮族及び鮮卑、匈奴、五渓蛮夷、東夷三国とその周辺の十あまりの者が、各々種族内の者や部族を率いて服従してきた。

 咸寧四年(註121)春正月庚午朔、日蝕があった。
 三月甲申、尚書左僕射の盧欽が逝去した。辛酉、尚書右僕射の山濤を尚書左僕射とした。東夷六国が来貢した。
 夏四月、蚩尤旗(註122)が東井(註123)に現れた。
 六月丁未、陰平・広武で地震が起きた。甲子、さらに地震が起きた。涼州刺史の楊欣が蛮族の若羅抜能らと武威で戦った。敗戦し、死亡した。弘訓皇后羊氏が崩御した。
 秋七月己丑、景献皇后羊氏を峻平陵(註124)に合葬した。庚寅、高陽王司馬緝が薨去した。癸巳、范陽王司馬綏が薨去した。荊州・揚州の二十の郡や国で大水害が起きた。
 九月、太傅の何曾を太宰とした。辛巳、尚書令の李胤を司徒とした。
 冬十月、征北大将軍の衛瓘を尚書令とした。揚州刺史の応綽が呉の皖城を討伐した。五千人を斬首し、穀物や米百八十万斛を焼き払った。
 十一月辛巳、太医司馬の程據が雉頭裘(註125)を献上した。ところが、武帝は、奇異な細工や珍奇な衣服は典礼により禁じられているとして、殿の前でこれを焼き払った。甲申、内外に、進んで法を破る者があれば罰するよう勅した。呉の昭武将軍の劉翻と歯随ォ軍の祖始が投降してきた。辛卯、尚書の杜預を都督荊州諸軍事とした。征南大将軍の羊祜が逝去した。
 十二月乙未、西河王司馬斌が薨去した。丁未、太宰の朗陵公何曾が薨去した。  この年、東夷九国が服従してきた。

 咸寧五年(註126)春正月、蛮族の首領の樹機能が涼州を攻撃、陥落させた。乙丑、討虜護軍で武威太守の馬隆にこれを攻撃させた。
 二月甲午、白麟が平原に現れた。
 三月、匈奴都督の抜弈虚が部族を率いて帰順した。乙亥、人民の飢餓を理由に、皇帝の食事を半分に減らした。柳(註127)に彗星が現れた。
 夏四月、さらに女御(註128)に彗星が現れた。大赦を行った。また、部曲督以下の者の人質を廃止した。丁亥、八つの郡や国で雹が降った。秋の収穫に損害を与え、人民の家屋を損壊した。
 秋七月、紫宮に彗星が現れた。
 九月甲午、麟が河南に現れた。
 冬十月戊寅、匈奴余渠都督の独雍らが部族を率いて帰順した。汲郡の不準が魏襄王(註129)の墓を掘り、竹簡や小篆で書かれた古書十万言あまりを入手した。秘府(註130)に収蔵した。
 十一月、大軍を挙げて呉を討伐した。鎮東将軍の琅邪王司馬伷を涂中へ、安東将軍の王渾を江西へ、建威将軍の王戎を武昌へ、平南将軍の胡奮を夏口へ、鎮南大将軍の杜預を江陵へ出撃させた。また、龍驤将軍の王濬と広武将軍の唐彬に巴蜀の兵卒を率い、長江に船を浮かべて下らせた。東西合わせて二十万人余りであった。太尉の賈充を大都督とし、冠軍将軍代理の楊済を副官とし、諸軍を統轄させた。
 十二月、馬隆が反乱した蛮族である樹機能を攻撃し、これに大勝、樹機能を斬首した。涼州は平定された。粛慎が来、楛(註131)の矢や石の鏃を献上した。

 太康元年(註132)春正月己丑朔、五色の気が太陽を覆った。癸丑、王渾が呉の尋陽・頼郷の諸城を攻略し、呉の武威将軍の周興を捕縛した。
 二月戊午、王濬・唐彬らが丹楊城を攻略した。庚申、さらに西陵を攻略し、西陵都督で鎮軍将軍の留憲・征南将軍の成璩・西陵監の鄭広を殺害した。壬戌、王濬はさらに夷道・楽郷城を攻略し、夷道監の陸晏・水軍都督の陸景を殺害した。甲戌、杜預が江陵を攻略し、呉の江陵督の伍延を斬首した。平南将軍の胡奮が江安を攻略した。こうして、諸軍そろって進撃し、楽郷・荊門の守備は相次いで投降してきた。乙亥、王濬を都督益梁二州諸軍事とした。詔を下して言った。「王濬・唐彬は、長江を東へ下り、巴丘を掃討せよ。胡奮・王戎とともに夏口・武昌を平定せよ。流れに従って遠方へと馳せ行き、瞬く間に秣陵に至り、どう処理してゆくのが適切であるかを胡奮・王戎と検討せよ。杜預は零・桂の鎮静に当たり、衡陽を懐に収めよ。大軍が行き過ぎ、荊州の南の境界の守備が、檄を伝えて平定されたら、杜預は、兵を分割し、一万人を王濬に与え、七千人を唐彬に与えよ。夏口が平定されたら、胡奮は七千人を王濬に与えよ。武昌が片付いたら、王戎は唐彬の軍を六千人増やせ。太尉の賈充は駐屯地を項に移し、諸方を総督せよ」。王濬は進軍し、夏口・武昌を打破し、そのまま船を浮かべて長江を東へ下り、到達した地点をみな平定した。王渾・周浚は呉の丞相の張悌と版橋で戦い、これに大勝した。張悌及び彼の武将の孫震・沈瑩を斬首し、首級を洛陽に送った。孫晧は切羽詰まり、降伏を許すよう乞い、璽と綬を琅邪王司馬伷のもとに送った。
 三月壬寅、王濬は船で建鄴(註133)の石頭に至った。孫晧は大いに恐れ、面縛し棺を担ぎ、軍営の門まで出てきて降伏した。王濬は節義に従い縄目を解き棺を焼き払い、彼を都へ送致した。孫晧の地図・戸籍を接収し、四州・四十三郡・三百十三県・五十二万三千戸・官吏三万二千人・兵二十三万人・人民男女あわせて二百三十万人を征服した。また、孫晧の郡太守・州牧以下の者をみな呉が設置していた通りに設置した。孫晧の苛政を除き、そのことを分かりやすく簡潔に告げ知らせた。呉の者は大いに喜んだ。乙酉、大赦を行い、改元を行った。五日間にわたって大酺(註134)し、孤児や老人、困窮した者を救恤した。
 夏四月、河東・高平で雹が降り、秋の収穫に損害を与えた。兼侍中の張側・黄門侍郎の朱震を揚越に分遣し、揚越の恭順してきたばかりの者を慰撫させた。白い麟が頓丘に現れた。三河・魏郡・弘農で雹が降り、麦に損害を与えた。
 五月辛亥、孫晧を帰命侯に封じ、孫晧の太子に中郎の地位を賜与し、その他の息子達に郎中の位を賜与した。呉の人望のあった者を、才能に応じて抜擢した。孫氏の上級の武将で戦死した者の家を寿陽に移した。長江を渡って移住してきた者に対し、武将・官吏は十年間、農民及び職人は二十年間、免税するものとした。
 丙寅、武帝は大会合に臨軒し、孫晧を連れて昇殿した。群臣はみな万歳を唱えた。丁卯、太廟に酃淥の酒(註135)を供えた。六つの郡や国で雹が降り、秋の収穫に損害を与えた。庚午、詔して、士卒で六十歳以上の者を退役させ、家に帰した。庚辰、王濬を輔国大将軍とし、襄陽侯とし、杜預を当陽侯とし、王戎を安豊侯とし、唐彬を上庸侯とし、賈充・琅邪王司馬伷に増封した。こうして、論功行賞を行い、公卿以下の者に各々分に応じて絹を下賜した。
 六月丁丑、翊軍校尉の官職を新設した。丹水侯司馬睦を高陽王に封じた。甲申、東夷十国が帰順した。
 秋七月、蛮族の軻成泥が西平・浩亹に侵攻し、督や将以下の者三百人あまりを殺害した。東夷二十国が朝貢した。庚寅、尚書の魏舒を尚書右僕射とした。
 八月、車師が村落を率いて、息子を出仕させた。己未、皇弟の司馬延祚を楽平王に封じた。白龍三体が永昌に現れた。
 九月、群臣は、天下一統が為ったことを理由に、しばしば封禅を行うよう願い出たが、武帝は謙譲してこれを許さなかった。
 冬十月丁巳、五人の娘を持つ者に対する免税を廃止した。
 十二月戊辰、広漢王司馬賛が薨去した。

 太康二年(註136)春二月、淮南・丹陽で地震が起きた。
 三月丙申、安平王司馬敦が薨去した。王公以下の者に各々分に応じて呉の生口を下賜した。詔して、孫晧の妓妾五千人を選抜し、後宮に入れた。東夷五国が朝貢した。
 夏六月、東夷五国が服従してきた。十六の郡や国で雹が降り、大風が吹いて木が抜け、人民の家屋が損壊した。江夏・泰山で水害が起き、住居を流された者は三百戸あまりになった。
 秋七月、さらに、上党で暴風が吹き雹が降り、秋の収穫に損害を与えた。
 八月、張(註137)に彗星が現れた。
 冬十月、鮮卑の慕容廆が昌黎に侵攻した。
 十一月壬寅、大司馬の陳騫が薨去した。彗星が軒轅(註138)に現れた。鮮卑が遼西に侵攻した。平州刺史の鮮于嬰がこれを討伐し打破した。

 太康三年(註139)春正月丁丑、秦州を廃止し、雍州に編入した。
 三月、安北将軍の厳訽が鮮卑の慕容廆を昌黎で打破し、数万人を殺傷した。
 夏四月庚午、太尉の魯公賈充が薨去した。
 閏月丙子、司徒の広陸侯李胤が薨去した。癸丑、白龍二体が済南に現れた。
 秋七月、平州刺史・寧州刺史が三年に一度入朝し奏事を為す制度を廃止した。
 九月、東夷二十九国が帰順し、その特産品を献上した。かつて呉の武将であった莞恭・帛奉が挙兵、反乱し、建鄴令を攻撃、殺害し、そのまま揚州を包囲した。徐州刺史の嵆喜がこれを討伐、平定した。
 冬十二月甲申、司空の斉王司馬攸を大司馬とし、督青州諸軍事とし、鎮東大将軍の琅邪王司馬伷を撫軍大将軍とし、汝南王司馬亮を太尉とし、光禄大夫の山濤を司徒とし、尚書令の衛瓘を司空とした。丙申、詔して、全国の水害や旱魃の被害がひどかった者は田租を納めなくてもよいとした。

 太康四年(註140)春正月甲申、尚書右僕射の魏舒を尚書左僕射とし、下邳王司馬晃を尚書右僕射とした。戊午、司徒の山濤が薨去した。
 二月己丑、長楽亭侯司馬寔を北海王に立てた。
 三月辛丑朔、日蝕があった。癸丑、大司馬の斉王司馬攸が薨去した。
 夏四月、任城王司馬陵が薨去した。
 五月己亥、大将軍の琅邪王司馬伷が薨去した。遼東王の司馬蕤を東萊王に移封した。
 六月、九卿(註141)に対する礼制・秩禄面での待遇を向上させた。牂柯獠が二千人あまりの集落とともに服属した。
 秋七月壬子、尚書右僕射の下邳王司馬晃を都督青州諸軍事とした。丙寅、兗州で大水害が起きた。兗州の田租を免除した。
 八月、鄯善国が息子を出仕させた。暫定的に帰義侯に封じた。隴西王司馬泰を尚書右僕射とした。
 冬十一月戊午、新都王司馬該が薨去した。尚書左僕射の魏舒を司徒とした。
 十二月庚午、宣武観で大閲を行った。
 この年、河内及び荊州、揚州で大水害があった。

 太康五年(註142)春正月己亥、青龍二体が武器庫の井戸の中に現れた。
 二月丙寅、南宮王の息子の司馬玷を長楽王に立てた。壬辰、地震が起きた。
 夏四月、任城及び魯国で、池の水が血のように赤くなった。
 五月丙午、宣帝廟の梁が折れた。
 六月、黄沙獄を新設した。
 秋七月戊申、皇子の司馬恢が薨去した。任城・梁国・中山で雹が降り、秋の収穫に損害を与えた。全国の戸課(註143)の三分の一を減じた。
 九月、南安で強風が吹き、木が折れた。五つの郡や国で大水害があり、また、霜が降り、秋の収穫に損害を与えた。
 冬十一月甲辰、太原王司馬輔が薨去した。
 十二月庚午、大赦を行った。林邑と大秦国が使者を派遣して来貢した。
 閏月、鎮南大将軍の当陽侯杜預が逝去した。

 太康六年(註144)春正月甲申朔、毎年不作であるため、租税・貸付・従前の債務を免除した。戊辰、征南大将軍の王渾を尚書左僕射とし、尚書の褚を都督揚州諸軍事とし、楊済を都督荊州諸軍事とした。
 三月、六つの郡や国で霜が降り、桑や麦に損害を与えた。
 夏四月、扶南等の十国が来貢した。参離が四千人あまりの集落とともに服属してきた。四つの郡や国で旱魃が起きた。十の郡や国で大水害が起き、人民の家屋が倒壊した。
 秋七月、巴西で地震が起きた。
 八月丙戌朔、日蝕があった。人民の綿絹(註145)の三分の一を減じた。白龍が京兆に現れた。鎮軍大将軍の王濬を撫軍大将軍とした。
 九月丙子、山陽公劉康が薨去した。
 冬十月、南安で山崩れが起き、出水した。南陽郡で足が二本の獣が捕獲された。亀茲・焉耆国が息子を出仕させた。
 十二月甲申、宣武観で大閲を行い、十日で終わらせた。庚子、撫軍大将軍の襄陽侯王濬が逝去した。

 太康七年(註146)春正月甲寅朔、日蝕があった。乙卯、詔して言った。「毎年、災難や変事がしばしば発生しており、日蝕が三日間(註147)あり、地震や山崩れが起きた。国の災禍の原因は、まことに朕の身にある。公卿大臣は各々封事を奉り、その原因を存分に述べよ。憚ってはならない」。
 夏五月、十三の郡や国で旱魃が起きた。鮮卑の慕容廆が遼東に侵攻した。
 秋七月、朱提で山崩れが起きた。犍為で地震が起きた。
 八月、東夷十一国が服属してきた。京兆で地震が起きた。
 九月戊寅、驃騎将軍の扶風王司馬駿が薨去した。八つの郡や国で大水害が起きた。
 冬十一月壬子、隴西王司馬泰を都督関中諸軍事とした。
 十二月、侍御史を派遣して水害に遭った諸郡を巡察させた。後宮から才人・妓女以下の者二百七十人あまりを出し、実家に帰した。初めて大臣に三年の喪を全うすることを許すと制定した。己亥、河陰に赤い雪が二頃(註148)にわたって降った。
 この年、扶南等二十一国と馬韓等十一国が使者を派遣して来貢した。

 太康八年(註149)春正月戊申朔、日蝕があった。太廟の階が崩落した。
 三月乙丑、臨商観が震動した。
 夏四月、斉国・天水で霜が降り、麦に損害を与えた。
 六月、魯国で強風が吹き、樹木が抜け、人民の家屋が倒壊した。八つの郡や国で大水害が起きた。
 秋七月、前殿の地面が陥没した。その深さは数丈で、中に壊れた船があった。
 八月、東夷二国が服属してきた。
 九月、太廟を改築した。
 冬十月、南康の平固県の官吏の李豊が反乱を起こした。人民を集めて郡や県を攻撃し、自ら将軍と号した。
 十一月、海安令の蕭輔が人民を集めて反乱を起こした。
 十二月、呉興の蒋迪が徒党を集めて反乱を起こし、陽羨県を包囲した。州や郡がこれを捕縛あるいは討伐し、みな誅罰された。南夷の扶南と西域の康居国が各々使者を派遣して来貢した。
 この年、五つの郡や国で地震があった。

 太康九年(註150)春正月壬申朔、日蝕があった。詔して言った。「教化興隆の根本は、政治が平らかで裁判が理に適っていることに由来する。地方の高官は、人民の辛苦の救恤に努めることができず、軽々しく私の事情をはさみ、訴訟沙汰を増やし、その上、貪汚なる者が多く、人民を煩わし乱している。刺史や地方長官に、貪汚なる者を糾弾し、公正廉潔なる者を推挙し、官吏が登用と罷免とについて評議するよう、勅令を下す。内外の諸官吏に、清廉で有能な者を推挙させ、質素倹約に努める人物を抜擢させる」。江東の四郡で地震が起きた。
 二月、尚書右僕射の陽夏侯胡奮が逝去した。尚書の朱整を尚書右僕射とした。
 三月丁丑、皇后が自ら西郊で桑を摘み、各々分に応じて絹を下賜した。壬辰、初めて仲春と仲秋の豊穣祈願祭を合して一つにした。
 夏四月、江南の八つの郡や国で地震が起きた。隴西で霜が降り、麦に損害を与えた。
 五月、義陽王司馬奇が罪を犯したため、爵位を下げて三縦亭侯とした。内外の諸官吏に、郡太守と県令で才能ある者を推挙するよう詔した。
 六月庚子朔、日蝕があった。章武王司馬威を移封して義陽王とした。三十二の郡や国で大旱魃があり、麦に損害を与えた。
 秋八月壬子、星が雨のように落ちた。詔して、郡や国の懲役五年以下の者について審判を下し、諸獄に残る者を無くした。
 九月、東夷七国が校尉のもとに来て服属した。二十四の郡や国で螟が発生した。
 冬十二月癸卯、河間平王司馬洪の息子の司馬英を章武王に立てた。戊申、青龍・黄龍各一体が魯国に現れた。

 太康十年(註151)夏四月、京兆太守の劉霄と陽平太守の梁柳に行政上の業績があったとして、各々穀物千斛を下賜した。八つの郡や国で霜が降りた。太廟が落成した。乙巳、位牌を新しい廟に移した。武帝は道の左側で(註152)それを迎え、祭祀を行った。大赦を行い、文官・武官ともに爵を一等加増し、廟を建設した者には二等加増した。丁未、尚書右僕射の広興侯朱整が逝去した。癸丑、崇賢殿が火災に遭った。
 五月、鮮卑の慕容廆が投降してきた。東夷十一国が服従してきた。
 六月庚子、山陽公劉瑾が薨去した。再度二つの豊穣祈願祭を設けた。
 冬十月壬子、南宮王司馬承を移封して武邑王とした。
 十一月丙辰、守尚書令で左光禄大夫の荀勖が逝去した。武帝の病が治癒した。そのため、王公以下の者に各々分に応じて絹を下賜した。含章殿の蹴鞠室で出火した。
 甲申、汝南王司馬亮を大司馬とし、大都督とし、仮黄鉞とした。改封して、南陽王司馬柬を秦王と、始平王司馬瑋を楚王と、濮陽王司馬允を淮南王とし、みな節を貸し与える権限を有する国とした。各々州や郡の軍事を統轄した。皇子の司馬乂を長沙王に、司馬穎を成都王に、司馬晏を呉王に、司馬熾を予章王に、司馬演を代王に立てた。皇孫の司馬遹を広陵王に立てた。濮陽王(註153)の息子の司馬迪を漢王に、始平王(註154)の息子の司馬儀を毘陵王に、汝南王(註155)の次男の司馬を西陽公に立てた。移封して、扶風王司馬暢を順陽王とし、また、司馬暢の弟の司馬歆を新野公と、琅邪王司馬覲の弟の司馬澹を東武公と、司馬繇を東安公と、司馬漼を広陵公と、司馬巻を東莞公とした。諸王国の相を内史に改めた。
 十二月庚寅、太廟の梁が折れた。
 この年、東夷で遠方にあるもの三十国あまりと西南夷二十国あまりが来貢した。蛮族の奚軻が男女あわせて十万人を連れて投降してきた。

 太煕元年(註156)春正月辛酉朔、改元を行った。己巳、尚書左僕射の王渾を司徒とし、司空の衛瓘を太保とした。
 二月辛丑、東夷七国が朝貢した。琅邪王司馬覲が薨去した。
 三月甲子、右光禄大夫の石鑑を司空とした。
 夏四月辛丑、侍中で車騎将軍の楊駿を太尉とし、都督中外諸軍とし、録尚書事とした。己酉、武帝が含章殿で崩御した。享年五十五歳であった。峻陽陵に埋葬された。廟号は世祖である。

 武帝は、度量が広く、常に慈しみ深く、寛大で公正で、人前で取り乱すということが無かった。事理に通じ策謀に長け、大事に対する判断力があった。それ故に、万国を安んじ、四方を静めることが出来た。魏室の奢侈により甚だしく疲弊した後を受け、人民は古の遺風を思い、恭倹に努め、寡欲を尊んだ。かつて官吏が皇帝の牛の青い絹の鼻紐が切れていると奏上した際、詔して青い麻のものと取り替えさせた。朝廷に臨んでは鷹揚で、法に常があった。高陽の許允はかつて文帝に殺された人物である。許允の子の許奇は太常丞(註157)であった。ちょうど太廟に事件が起きた時のことである。朝議により、許奇は文帝から害を被った一門の出であるため、廟の側近くに近づけるべきではないとされ、彼を太常府から退けて長史(註158)とするよう申請が出された。しかし、武帝は、許允に若い時から名声があったことを述べ、そして、許奇の才を称賛し、許奇を抜擢して祠部郎とした。時の世論はその寛容を称賛した。呉を平定した後、天下は治まり安らかになった。しかし、そのまま、政務を怠り、遊宴に耽るようになった。皇后の一族を寵愛し、寵愛故に高位に就いた者が権勢を握り、旧臣だけで任を占めることが出来なかった。常に守るべき法は乱れ廃れ、権勢ある人物に内々に頼むことが行われた。末年に至り、恵帝(註159)は先祖の事業を受け継ぐに堪えないと知ったが、皇孫の聡明を恃みとし、それ故に廃立の意思は無かった。だが、今度はまた、皇孫達のうち賈后(註160)の産んだ子ではない者が、果てには政争に敗れ危難に陥る結果を招くことを恐れ、すぐに腹心とともに後事を図った。議論は紛然とし、久しく定まらなかったが、結局、王佑の策を用い、太子(註161)の同母弟の秦王司馬柬に関中を統轄させ、楚王司馬瑋と淮南王司馬允に要害の地の抑えに当たらせ(註162)、帝室を強化した。さらに、楊氏の圧力を恐れ、王佑を再び北軍中候とし、禁兵を司った。やがて、武帝の病臥が長引き、病が篤くなった。だが、建国の大業を輔弼してきた元勲達は、みな既に亡く、群臣は恐れ惑い、考えをめぐらしても何に従えばよいのか分からなかった。ちょうどこの時、武帝は小吏を派遣し、詔して汝南王司馬亮に政務を輔弼させ、さらに、朝廷の官吏のうちで名望があり年若い者数人にこれを補佐させようとしていた。だが、楊駿がこれを良しとせず、隠匿した。武帝はまた幾度も錯乱状態に陥った。楊后はその度に詔を出して楊駿に政務を輔弼させ、また、司馬亮の京師への進発を促した。武帝は取り巻きの者に汝南王はまだ来ないかと尋ねた。汝南王に会いたいと考えており、また、託すべきことがあったのである。だが、左右の者は、まだ到着しないと答えた。武帝はその後すぐに危篤に陥った。朝廷内の乱れは、まことにここから始まったのである。

 詔して(註163)言った。武皇帝は、帝業の基を受け継ぎ、大いに天命を受け、版図を握って世界を統べ、教化を敷いて民を導き、労苦を安楽に替え、乱世を治世に変えた。縑帛や粗糸の貢納をやめ、彫刻や宝玉の装飾を廃し、奢侈な風俗を抑制して倹約へと変え、軽薄な風俗を抑止して純朴へと帰した。平素より直言を好み、人材抜擢に気を配った。劉毅・裴楷は質朴実直であったために寛大なる処遇を受け、嵆紹・許奇は仇であったにもかかわらず退けられるということが無かった。慈仁故に御物を放出し、寛大故に人心を掌握した。宏図大計を持し、帝王たる者の思慮を有していた。時に、民草は和し、風俗は静まり、どの家でもどの人も豊かに暮らしていた。こうした折、軍術を修め、国境を拓くことを思った。神算を真心の内に決し、雄図を評議の中で断じた。馬隆は西を討伐し、王濬は南を征服した。軍を延ばさぬ間に、蛮族は跡を絶ち、兵が刃を血に染めることなく、揚越は廃墟となった。上代に通せなかったものを通し、前王の服さしめ得なかったものを服さしめた。瑞祥は明らかに応じ、風教は正しく清らかであった。天と人との功が相成るかな。覇王の業は大いなるかな。ところが、封禅の礼は謙譲して行わなかったとはいえ、驕慢の心がここより生じたのである。土地の広きを見、万代までも虞は無いと考え、天下の安らかなるを見、千歳にわたって永く治まると考えた。広きに居りて狭きを思えば、広きをより広くできるものであり、治にあって危うきを忘るれば、治は常の治たりえないのではなかろうか。これに加えて、器でない者を太子に立て、才無き者に委ね頼り、志は太平の世に就かんとするも、行く先では禍乱に出迎えられた。これはまるで、越(註164)に行こうという者が砂漠(註165)を目指して道を辿るようなものであり、山に登ろうとする者が船で水を渡りながら道を探すようなものである。行き先はますます遠くなり、所願はその実現が困難になる。南北がその差異を広げ、貴賎が相反目する。その相和するを求めるなど、困難でない筈があろうか。新たに出来上がったばかりで動じやすい基ともなれば、久しく安泰無事であることを望むなどなおのこと出来ない。それ故に、賈充は悪を企む者であり、懐中に奸計を抱き、権力を抱え込み、楊駿は豺狼の如く貪欲で、悪事を為さんとする心を腹蔵し、輔政を壟断した。世祖が崩御するに及ぶや、その喪も未だ明けざるうちに、藩鎮は親しきを変えて疎きを成し、兵を連ねて争いその本を滅ぼし、重臣は忠義を翻して詭偽を起こし、人民を抱えて各々その威を挙げた。数年も立たないうちに、法令は大いに乱れ、海内は乱世に陥り、宗廟は転々とした。帝や王たる者の道は傾覆して刺青を入れる(註166)風俗となり、中華の地は変容して髪を振り乱す(註167)村郷となった。才能ある人物という大なるものを捨て、その小なる者を庇って自らそれに寄託し、天下の笑い者となった。その原因は何であろうか。前には慎みを失い、後には患いを残したことが原因である。子を知る者は賢父であり、臣を知る者は明君である。子が不肖であれば家は滅び、臣が不忠であれば国は乱れる。国が乱れれば安寧であることは出来ず、家が滅びれば無事であることは出来ない。こういうわけで、君子はその肇始を防ぎ、聖人はその端緒を防ぐのである。ところが世祖は、荀勖の姦謀に惑い、王渾の偽計に迷った。心はしばしば衆口の間を移り、自身で物事を図る際に定見が無かった。元海は排除すべきであったものを、排除せず、結局、天下を擾乱させた。恵帝は廃立すべきであったものを、廃立せず、ついには帝業の基を傾覆した。そもそも、人一人の身を保つは徳軽く、天下を救うは功重く、一人の子を捨てるは酷小さく、社稷を安んずるは孝大きい。世祖は、三世を頼みとして大業を成し遂げながら、二人の庶子をとりたててこれを失った。言うところの、軽い徳を取って重い功を捨て、小さな酷を恐れて大きな孝を忘れることの最たるものである。聖賢の道というものが、どうして斯くの如くであろうか。初めは良く始まったのであるが、終わりは法に背いて終わった。丁寧に歴史記録をとる理由は、嘆き恨むことを無くし得ないためである。


   

註1   司馬昭。
註2   曹奐。魏の元帝。
註3   曹奐を擁立し皇帝の位に即けたことを指す。
註4   司馬師。司馬炎の伯父。司馬懿の長男。
註5   司馬懿。司馬炎の祖父。
註6   司馬炎を指す。
註7   二六五年。
註8   曹奐。魏の元帝。
註9   司馬炎。
註10  舜。
註11  尭。
註12  禹。
註13  尭・舜・禹か。
註14  漢の受けた徳。皇帝は五行の徳のうちの一つを受けて新王朝を建てるとされる。
註15  曹操。
註16  虞夏は舜と禹。「四代」が誰を指すかは不明。
註17  広大で偏らず正しいこと。治世の要道の一つである。
註18  魏の宗室の誰か二人を指す。曹操と曹丕か。
註19  二六五年。
註20  南の郊外。皇帝が天を祀る場所。
註21  曹操。
註22  漢の帝室である。
註23  四川。蜀漢を指すと推測される。
註24  呉越。呉を指すと推測される。
註25  宮中の正殿。
註26  尭と舜。
註27  体積の単位。
註28  @任官停止。A幽閉。この場合いずれであるのかは不明。
註29  冬至の後の三番目の戌の日。
註30  春分・秋分の後の五番目の戊の日。
註31  皇帝の物を収める蔵。
註32  曹奐。魏の元帝。
註33  五つの時。立春・立夏・大暑・立秋・立冬。
註34  前王朝の皇帝に対する特別措置である。
註35  漢の最後の皇帝である劉協の嫡孫である。
註36  蜀の最後の皇帝である。
註37  旧王朝の帝室に対する特別措置である。
註38  魏の人物。時の皇帝であった魏の廃帝(曹芳)を廃し、曹彪を推戴して帝位に即けようとするが、失敗。
註39  曹芳。魏の廃帝。
註40  楚王であった曹彪のことであると解釈した。訳文は、この解釈を前提とした上でのものである。
註41  魏の人物。蜀平定に功有るも、謀叛に問われ、誅殺される。
註42  註28参照。この場合いずれであるのかは不明。
註43  父母・君主・長子等に対して行う喪。最も重い喪である。
註44  麒麟は聖獣の一種であるが、雄を麒、雌を麟という。
註45  二六六年。
註46  使者のしるし。
註47  歌の名。京師で、夜、巡邏が唱える歌。
註48  註28参照。この場合いずれであるのかは不明。
註49  皇帝の太廟。
註50  周の官職の名。王を戒め、公卿大夫の子を教育する。
註51  前漢の皇帝。賢君と称される。
註52  後漢の皇帝。後漢王朝を建設し、漢朝中興の英主と称される。
註53  尉佗とも。秦から前漢の人物。劉邦により南越王に封ぜられる。その後南越武帝を称し反乱。文帝に敗れ、謝して帝号を捨て、臣となる。
註54  後漢初期の人物。皇帝を称し、益州を保つが、光武帝に敗北。
註55  父である司馬昭の埋葬と喪のことであると推測される。
註56  衣服の一種。喪服であると推測される。
註57  装飾の無い白絹の冠。凶事に用いる。
註58  漢と魏は喪の制度を簡略化していたが司馬炎は正規どおりの喪の礼を行ったという内容であると推測される。
註59  @天皇・地皇・人皇。A天皇・地皇・泰皇。B伏羲・女媧・神皇。C伏羲・神皇・祝融。D燧人・伏羲・神皇。E伏羲・神皇・黄帝。
註60  衣服や車馬等の色。王朝毎に定められた色がある。
註61  舜の王朝。
註62  尭の王朝。
註63  円い丘。南の郊外にあり、皇帝が冬至に天を祀る丘である。
註64  四角い丘。北の郊外にあり、皇帝が夏至に地を祀る丘である。
註65  南の郊外で冬至に皇帝が天を祀る祭祀。
註66  北の郊外で夏至に皇帝が地を祀る祭祀。
註67  二六七年。
註68  祭祀に用いる道具。
註69  宮中の蔵。
註70  臣のうち、諸侯、卿、大夫に次ぐ者。支配者のうちでは最も下位である。
註71  孔子の子孫。
註72  孔子を祀る子孫に対しては特別の待遇が付与されている。
註73  占星術と望気術。吉凶等を占う。
註74  未来を予言して書き記したもの。
註75  二六八年。
註76  星座の名。
註77  皇帝が祖先の祭祀に用いる米を作るため、自ら耕す田。
註78  @父・子・孫。A父の兄弟・子の兄弟・孫の兄弟。B父母・兄弟・妻子。C父の親族・母の親族・妻の親族。
註79  司馬昭の墓。王氏の夫の墓である。
註80  五倫の教え。@父の義・母の慈・兄の友・弟の恭・子の孝。A父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信。
註81  註79参照。司馬炎の父の墓である。
註82  二六九年。
註83  臣民が君主を諫める、あるいは訴え事を述べる時に打ち鳴らすために設けた太鼓。
註84  死刑の一つ。死刑中最も重い刑。
註85  星座の名。
註86  二七〇年。
註87  皇帝の秘密文庫。
註88  帝立の学校。
註89  周代、郷学で、学業終了時に優等者を君主に推薦する際、郷大夫が主人となって開く送別の宴。ここでは学校で開かれる同様の宴であろう。
註90  二七一年。
註91  宮中の食事官。
註92  家毎に税として出させる品物。
註93  二七二年。
註94  左軍・右軍・前軍・後軍の四つの軍。
註95  二七三年。
註96  三年毎に行う軍隊の検閲。
註97  二七四年。
註98  司馬瑰。
註99  二七五年。
註100 女子を嫁がせることが困難になっている状況下で、女子を扶養する負担の大きい者に対し、免税を行ったのであろう。
註101 ずいむし。
註102 名を列して祭祀対象とされること。
註103 二七六年。
註104 敦煌。
註105 都城内に設けられた、貴族の子弟や全国の英才のための学校。
註106 星座の名。
註107 星座の名。
註108 星座の名。
註109 星座の名。
註110 京師に設けた政府の米倉。
註111 米の価格を調整し平均に維持するために政府が設けた倉庫。米価が下がれば米を買い、米価が上がれば米を売る。
註112 二七七年。
註113 周の人物。宗族が不和であったので、一同を集め、兄弟和楽の情を詠った「常棣」を詠った。
註114 「常棣」のこと。常棣とは、にわうめの意。「常棣」は、註113を参照。
註115 周の王家。
註116 宗族の子弟の取り締まりを行う役職。
註117 星座の名。
註118 政府が設けた食料等物資の倉庫。
註119 政府が設けた財物庫。
註120 司馬攸。
註121 二七八年。
註122 星の名。兵乱や災害の前兆とされる。
註123 星座の名。
註124 司馬師の墓。羊氏の夫の墓である。
註125 雉の頭の美しい毛で作ったかわごろも。
註126 二七九年。
註127 星座の名。
註128 星座の名。
註129 戦国時代の人物。魏の王。張儀を相とする。
註130 宮中の図書・機密文書を保管する書庫。
註131 木の名。
註132 二八〇年。
註133 建業。呉の首都。
註134 国に慶事があった時に皇帝から飲食を賜る宴。
註135 現在の湖南省にある酃湖の水で作った酒。美酒として知られる。
註136 二八一年。
註137 星座の名。
註138 星座の名。
註139 二八二年。
註140 二八三年。
註141 九人の最高官。
註142 二八四年。
註143 戸税。
註144 二八五年。
註145 布帛税。
註146 二八六年。
註147 『晋書』武帝紀には日蝕が三日間続いたという記述は無いが、『晋書』賈充伝等には、「三日間日蝕があった」という記述がある。
註148 面積の単位。
註149 二八七年。
註150 二八八年。
註151 二八九年。
註152 道の中央は皇帝のためのもの、つまり、最も尊貴なる者のためのものである。ここで、武帝は、己より尊貴なる者である先祖に対し謙り、中央を譲るため、道の左側に就いたのである。
註153 司馬允。
註154 司馬瑋。
註155 司馬亮。
註156 二九〇年。
註157 祭祀礼楽を司る官職の補佐官。
註158 王公府の属官。
註159 司馬衷。武帝の次子。暗愚で知られる。
註160 司馬衷の后。荒淫放恣と姦邪を以って知られる。
註161 司馬衷。
註162 帝室一門を重用し、要地に配置したという内容であると推測される。
註163 『晋書』編纂を命じた唐の太宗李世民の詔。紀伝体の史書においては、伝の最後にその伝の人物に関する評価やまとめを書くこととなっている。通常は筆者が書くのだが、ここでは李世民自らが筆を執っている。
註164 中国東南部の地方。
註165 中国西北部に位置する。
註166 未開地の風俗。
註167 未開地の風俗。


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