2004年10月1日
ビザンツ軍事史  My


はじめに
 ヨーロッパとアジア、アフリカを東西南北につなぐ水陸交通の要所に建てられたビザンツ帝国は、その地理的な条件のせいで、繁栄する一方、絶えず四周からの脅威を受け続けた。このような国にあっては、軍事力の維持こそが最優先事項であり、国制とは軍制であると言っても過言ではない。すなわちビザンツ史とはなによりまずビザンツ軍の歴史である。それでは、これから、そのビザンツ軍の発展と衰退の歴史を概観していくことにしよう。



<前史;ローマ地中海帝国の崩壊>
 地中海全域を支配下に置き、西洋世界に覇権を打ち立てて平和と繁栄を謳歌するローマ帝国。だが2世紀末以降、帝国の支配は衰えを見せる。
 まず衰退の要因として国外政治の局面を見れば、ラインからドナウにかけての北方国境にゲルマン人、メソポタミアの東方国境地帯にはパルティア、ペルシアが存在し、帝国の安全を脅かしていた。これらの勢力は、どれも帝国の覇権を覆すほどの力は持たなかったけれど、その並はずれて長大な国境を支えるための軍事負担は、帝国を支える地中海諸都市の活力を確実に削ぎ落としていった。
 一方国内政治に目を転じると、帝国の権力確立が不十分なために、しばしば内乱が社会を混乱に陥れていた。ローマ帝国は帝位継承の規則を持たず、しばしば皇位をめぐって混乱が起きたが、軍隊の社会的影響力の強い政治風土のため、その混乱は政府内での暗闘には収まらず、しばしば内乱を引き起こしたのである。
 そしてそれらの政治的要因にもまして、社会発展の大きな流れが、ローマ支配の弱体化を推し進めていた。帝国の平和は、国内の開発や交通を促進するが、その結果イタリアから地方への産業技術の移転が起こり、地方の自給自立がしだいに可能となってきた。こうしてイタリア、ローマの求心力が低下し、古代地中海社会および帝国はその結合を緩めていく。なお、このような地方の自給自足による帝国支配の解体は、経済的に後進地域で商業活動の基礎体力に劣る、西方の諸州で一層顕著であった。
 以上のような社会情勢の中で、帝国はその基盤を、未だ活力と結合を失ってはいない東方に求め、4世紀には中枢をコンスタンティノープルに移す。一方、西方では5世紀に帝国支配が崩壊する。社会的な結合力を失った西方の諸州は、時に両刃の剣の傭兵集団として、時に暴虐な侵略者として、着実に域内に浸透してくるゲルマン諸族に抵抗するだけの力を、もはや持ち合わせていなかったのである。
 その後も帝国支配の崩壊はつづく。西方が失われたのみならず、東方でも、スラブ人の侵入で都市が荒廃し、バルカン半島の帝国の支配はしだいにエーゲ海沿岸地方に押し込められていった。また独自の文化的風土・伝統を有するエジプトとシリアも、しだいに帝国の支配から抜け落ちつつあったのである。その間、ベリサリウスやナルセスといった名将を用いて、西方のゲルマン人諸国に勝利を重ねた6世紀中頃のユスティニアヌス帝、あるいは自らペルシアを大いに破った7世紀はじめのヘラクレイオス帝のように、ローマ軍の勇武を大いに輝かせた人物もいないではない。だが、個人の資質で歴史の流れを覆すことはできない。それらの壮挙によっても、帝国支配が崩壊していくのを食い止めることはできなかった。
 そして7世紀半ば、覇権を失いつつも、辛うじて西洋世界の中心としての地位を保っていたローマ地中海帝国に、イスラームという破滅が訪れる。


<ビザンツ帝国誕生;地中海帝国からギリシア帝国へ>
 630年代、イスラームの教えの下に結集したアラブ人が大移動を始める。それまでペルシアの侵入を打ち破り、エジプト・シリアを帝国支配下につなぎ止めていたヘラクレイオス帝であったが、新たな侵略者の勢いを前にしては、もはやこれを防ぎ止める余力はなかった。
 ここにおいてヘラクレイオス帝は地中海帝国の維持をあきらめ、損害無く軍事力を小アジアに撤退・集中させることに専念する。
 かつて帝国が地中海全域を支配していたときには、陸海軍を合わせて最大で60万人以上、帝国東部のみで30万以上の兵力を誇ったローマ軍も、この時点では約13万人に減少、その勢威の衰えは数字の上では極めて大きい。だが巨大なローマ軍の過半は、治安維持活動を主任務とし、6世紀までに軍事的に無力化していた無給半農の国境軍であり、この時点で失われた兵力のほとんどは、国土喪失に伴う国境軍の消滅による。そして正規の兵員である野戦軍は、前代から受け継いだ約15万のうち3分の2が残存しており、ヘラクレイオスは国防再建に足る戦力を後に残すことに、成功したと言える。
 そして7世紀後半、帝国は軍管区制(テマ制)を採用し国防体制を再建していく。小アジアに撤退してきた軍団に、それぞれ軍管区を割り当てることで、帝国は、国土の隅々にまで充実した防衛力を行き渡らせたのである。
 ただイスラームの奔流は、シリア・エジプトおよびエーゲ海を、瞬く間に制圧していた。そのため帝国は、最も富裕なシリア・エジプトを失い、またコンスタンティノープルを中心に回転する地中海交易網を破壊され、経済的に困難な中で大軍を維持せねばならず、そのための方策として、兵士保有地制度が導入されている。
 これは兵士が、譲渡不可能な世襲財産として、農地の配分を受ける制度であり、代わりに兵士は給与を削減され装備を自弁した。これにより国家の支給する個々の兵士の給与は、6世紀の水準と比べて実質3分の1、国家の存亡への危機感から給与の低下を兵士達が受容したヘラクレイオス帝の時と比べても、2分の1に低下することになった。
 これらの制度の成立時期については詳細は不明であるが、小アジア内陸部の遺跡から発見される貨幣に、658年以降に鋳造されたものが少なく、貨幣流通の減少が見られること等を根拠に、コンスタンス2世治下の660年前後とする見解が説得力を有しているのではないだろうか。
 なおこれらの制度を導入した効果は、軍隊の維持費の軽減のみではない。土地の配分によって、兵士にとって所属する軍管区ならびに国家の防衛は、自己の財産の防衛と同義となった。結果、兵士の国防意識が高まったのである。
 ところで国防意識の高まりという点からは、帝国の支配が十分に及ぶ領域がギリシアと小アジアを中心とする、ギリシア文化圏に限定され、国内の文化的な同質性が高まったことも好影響を与えただろう。
 これらに加えて、ギリシアおよび小アジアは、西北ではエーゲ海とコンスタンティノープルの堅城、東南ではタウルス山脈の険阻で堅固に守られていた。
 こうして、かつて西洋世界の大半を包括支配したローマ地中海帝国は、特権的な兵士身分を基盤とし高い国防意識に支えられた、堅牢なギリシア国家へと、生まれ変わった。これを以て、古代ローマ帝国とは異なる中世ビザンツ帝国の成立とみるべきだろう。
 そしてこれ以降、ビザンツ帝国はイスラームの猛攻にねばり強く抵抗を続けることになる。


<対イスラーム防衛戦>
 軍管区制と兵士保有地制度の採用以降、ビザンツ軍はイスラームの大軍との正面衝突を避けての持久戦を基本戦略として、その領土を保持し続けた。そしてこれによりイスラームのビザンツ領侵食はその速度を急激に落とすことになった。
 もちろん全体的な状況を見ればビザンツが圧倒的に劣勢なのは言うまでもない。たとえばイスラームは、ビザンツ海軍の抵抗の前に大敗に終わったものの、674年から5年間にわたってコンスタンティノープル攻撃を繰り返した。
 また軍管区制のもたらす軍事力の分散は、すなわち中央権力の弱体を意味しており、しばしば帝位を狙う軍団司令官の反乱が発生して、それがイスラームを利することもあった。7世紀末から8世紀はじめにかけての内乱期、717年にはまたもコンスタンティノープルが攻撃を受けている。またイタリアやアフリカに一応残ったビザンツ領の多くが、失われたのもこの時期である。
 ただ、717年のコンスタンティノープル攻囲もまたイスラーム軍の大敗に終わっている。ビザンツは680年代にシリアからの難民を受け入れて、それまで約2万人の人員を有した海軍をそこから倍増させていた。この時、攻囲に対抗したレオン3世は、陸上ではひたすら守りを固める一方、海戦でイスラーム軍に何度も打撃を与え、イスラーム軍を退けるのに成功する。大損害を受けたイスラーム軍は、一年余の攻囲の後、退却することになった。
 なおこれらのコンスタンティノープル攻防戦においては、ギリシアの火なる火攻兵器の活躍が有名である。もちろんその兵器の活躍を喧伝する逸話そのものについては、軍事的にたいした意義は認めることはできない。だが、そこからビザンツ海軍が、状況に応じて様々に戦術を展開する、優れた能力を有していた事実を、読みとることは許されるだろう。
 そしてこれ以降、海上においてはビザンツが完全に優位に立つようになったし、陸上のイスラームのビザンツ領侵入は、多くが、征服目的ではなく、小規模な略奪目的のものとなった。
 両国の間には、ようやくある程度の均衡が成立したと言える。800年頃の両国の歳入が、15倍以上の差をつけてイスラームが勝っていることを考えると、ビザンツの軍管区制は国防組織として、見事に機能したと言える。


<軍団との闘い>
 外敵の脅威が弱まった後も、ビザンツ帝国に平穏がもたらされたわけではない。ビザンツ帝国は依然国内の強力な地方軍団の反乱に悩み続けていた。
 そこで、支配の安定の為、ビザンツは、8〜9世紀にかけて、地方軍団の勢力の抑制に力を注ぐ。
まず帝国政府の採った措置としては軍管区の分割が挙げられる。8世紀半ばコンスタンティノス5世の時に、首都コンスタンティノープルに近く、政府にとって最も脅威であった有力軍管区オプシキオンが、複数軍管区に分割された。そして9世紀になると各地の軍管区が細分化されていく。対イスラーム戦の戦況が好転した以上、個々の軍管区があまり強力である必要はなかったのである。
 また、コンスタンティノス5世は、反乱から首都を防衛するため、地方軍団から兵力を割いて強力な中央軍(タグマ)の創設も行った。ビザンツではイスラームの侵入に際して小アジア防衛に戦力を集中した結果、中央にまともな軍事力が存在しない状態が続いており、その結果反乱が容易に成功していたからである。以後しだいに中央軍は増強されていく。
 なお、中央軍は皇帝の近衛部隊としての役割も有しており、その隊員となることは非常に名誉であった。そのため、中央軍の創設には、地方軍団の忠誠心を直接皇帝に結びつける効果もあったであろう。
 そしてこれらの措置の結果、地方の軍団の反乱は減少していき、820〜823年のものを最後に帝国が大規模な反乱に苦しむことは無くなった。ようやく帝国はその領域を完全な統制下に置いたのである。以後の時代において軍管区は、しだいに戦略単位としての性質より行政区分としての性格を、強めていくことになる。
 なお、軍団の統制に成功したからと言って、この時点のビザンツ帝国には未だ周辺勢力に拡大攻勢を仕掛けるだけの力は存在しない。ビザンツが周囲に反攻していくためには、さらなる軍制改革が必要であった。


<守勢の軍隊から攻勢の軍隊へ>
 9世紀はじめまでのビザンツ帝国の軍制改革は、帝国を安定させるための政治的なものであったが、以後は、軍の能力向上のための軍事的に重要な改革が進む。
 とりわけ840年頃に、デオフィロス帝が行った軍制改革は大規模なもので、防衛区画の追加変更による国境防衛強化に加えて、給与と部隊編成の見直しが行われている。
 まず兵士の給与に関しては、この改革によって倍増している。政治的安定期を迎えたビザンツは、その徴税能力も強化され、この頃までには国庫も充実していた。これを受けての給与改定であった。これにより当然兵士の忠誠心と士気は向上したであろうし、また増加した給与は装備の改善にも多少は使われただろう。結果、ビザンツ軍の性能は大いに向上したと考えられる。
 部隊の編成としては、地方軍団の編成を中央軍に近づけることが行われた。この頃の軍事作戦は200人の部隊を基本単位に行われたが、この時期まで平時の管理体制の中にこの単位部隊が組み込まれていたのは、常時臨戦態勢をとる中央軍のみで、通常の軍団は1000人単位で管理が行われていた。それが、地方軍団の管理体制の中にも200人の部隊区分を新設することになった。これにより、兵士の監督が強化され、訓練や召集の効率が向上したし、中央軍と地方軍団を合同しての遠征軍編成も速やかに行われるようになった。
 なおその後の10世紀初頭には、この200人の部隊が地方軍団においても兵士管理の基本単位とされた。これにより小規模の軍団を創ることが可能となり、敵地に小規模な軍管区を設置しつつ徐々に浸透していくことが可能となった。結果、ビザンツ帝国は、急激な兵力増強や旧来の軍団の防衛負担の増加を招くことなく、無理のない征服を着実に行うことができるようになった。そして920年代から、ビザンツ帝国は攻勢に転じる。
 ところでこの間、海軍も増強されている。イスラーム海賊が、820〜823年の反乱の隙にクレタ島を占領して以来、エーゲ海の安全を脅かすようになったため、これに対応する措置がとられたのである。地方海軍強化によってエーゲ海域の防御態勢を固める一方、中央艦隊も強化して、海賊に対する大規模な攻撃が行われるようになっていく。


<ビザンツ黄金時代>
 920年代以降ビザンツ帝国は周辺勢力に対して攻勢に転じ、およそ100年の間、勝利と征服に満たされた栄光の時代を過ごす。とりわけ、10世紀後半のニケフォロス2世の活躍はめざましい。帝国は大いなる飛躍の時を迎え、10世紀のおわりから11世紀はじめにかけてのバシレイオス2世の時に、その最盛期を迎える。
 メソポタミア、シリア、アルメニア、バルカン、エーゲ海、あらゆる方面で帝国は征服を重ね、この100年でビザンツの領土・国力は倍増した。北方のバルカン半島ではビザンツの領土はドナウにまで達した。西方ではクレタ島を奪回し、エーゲ海域の支配権は再び完全にビザンツのものとなった。東方のアルメニアも完全にビザンツの支配下に入り、南に向かってはメソポタミアやシリアにまでビザンツの勢力が及んだ。
 これとともに軍事力も増大し、兵力は最大で28万人に及んだと見られる。
 だが、征服に次ぐ征服の結果、国土の大半にもたらされた平和の中で、この大兵力の大半はしだいに精強さを失っていた。その一方、兵力の増大は帝国財政を蝕んでいった。11世紀半ばからは、ビザンツは栄光絶頂から一転、急激に破滅へと落ち込んでいく。


<ビザンツ軍制の崩壊>
 国土の大半が平和に包まれると、地方軍団の兵士は弱体化していく。地域に密着したビザンツの地方軍団は、当該地域に危険が及ばなくなると、国防への意識を失い急速に士気・練度が低下していったのである。
 そもそも、征服の時代にあっては、地域に密着した地方軍団よりも、常時出征可能な中央軍の方が有用であり、帝国は中央軍への依存を強めていった。このことも地方軍団の劣化に拍車をかける。
 さらに、相次ぐ軍事作戦に軍高官として活躍することで、貴族が勢力を拡大、大土地所有者に成長していった。貴族は一般兵士から土地を奪い従属させていく。あるいは生活に困窮した一般兵士が進んで農地を手放し貴族の庇護化に入っていった。兵士は、土地を失い軍役を果たすことができなくなるか、貴族の私兵と化していった。こうして貴族勢力の台頭も、地方軍団を大いに弱体化させていった。
 さらに、軍事エリートである貴族の力は中央軍団すら貴族の影響下に収めていった。
 政府は、貴族による兵士からの土地取得を禁じようとしたが、政権を支える重要な柱に育っていた貴族に対し、敵対的な政策を貫き通すことはできず、このような禁令は実効性を持たなかったようである。
 こうして、大征服の陰で、もはやビザンツの軍団は政府にとって巨大な財政負担をもたらすだけの存在になり果てた。帝国の国防体制は完全に空洞化していた。
 そのため11世紀になると、ビザンツ政府は外人傭兵に依存するようになっていく。一方、軍団に対しては、軍役の金納化などの措置を採るのが見られる。平和の中で堕落した弱兵も、貴族の勢力下に入った兵士も、もはや当てにはならなかったからである。
 ここにセルジュク・トルコが急速に台頭してくる。だが以前のような強靱な軍事力を、帝国は用意することができなくなっていた。1071年、マンツィケルトの戦いでビザンツ軍は脆弱さをさらけだす。トルコに立ち向かったビザンツ軍は、皇帝に反発する貴族の裏切りを受けて崩壊、惨敗を喫したのである。その後セルジュク・トルコは小アジアの大半を支配下に収めることになる。


<後期ビザンツ帝国>
 11世紀の終わり、セルジュク・トルコの前に滅亡するかに思われたビザンツ帝国は、アレクシオス1世のもと態勢を立て直し、小アジアの沿海部とバルカンにその領域を残すことに成功した。
 帝国は、国内では、アレクシオス1世の姻戚関係による広い人脈を通じて、各地でトルコへの抵抗を展開していた貴族勢力を結集する。こうして帝国は、貴族勢力の連合政治体制を構築することで、分裂しつつあった勢力を再結集することに成功した。一方国際的には、帝国は、西洋から招いた十字軍やセルジュク・トルコ、地中海への台頭著しいヴェネツィア等の間に立って、反覆巧みに立ち回り、滅亡の危機を乗り越えた。
 こうして、ビザンツ帝国は、大幅に領域を減らしつつも、東地中海の雄としてなお100年の間、存在感を保ち続けた。
 なお、この時期以降の、ビザンツ軍は、貴族の私兵の連合体と傭兵とによって構成されるようになる。
 そして、海軍に関しては、以後、ヴェネツィア等のイタリア諸都市がエーゲ海域の主導権を握るようになっている。そしてビザンツは、海上活動については、軍事的にも商業的にも、ヴェネツィアに大きく依存するようになっていた。
 ところで、海上活動をヴェネツィアに依存したことは、貴族共同体として復興した帝国が、解体していく原因となった。各地方が商業的に直接ヴェネツィアと結びつき、首都コンスタンティノープルの商業中心地としての影響力が低下、帝国は地方貴族に対する求心力を失っていったのである。帝国は、しだいに分裂を生じ、12世紀の終わりにはその力を失い、ついにはその存続すらエーゲ海域の支配者たるヴェネツィアの意向に左右されるに至った。すなわち1204年にはヴェネツィアの支援する十字軍がコンスタンティノープルを陥落させる。
 その後、亡命ギリシア人政権のうち最有力であったニカイア帝国が、1261年、コンスタンティノープルを奪回して、ビザンツを継承する。このニカイア帝国が兵士に小農地を与え国境防衛の軍事力を育成したことや、モンゴルに追われた遊牧民クマン族を軍事力として受け入れたこと、また巧みな農業経営による健全な財政で余裕を持って多数の傭兵を抱えていたことなどは、多少は注目に値する。だが、十字軍によって荒廃したコンスタンティノープルを奪回したことで、ニカイア帝国は巨額の復興費用に苦しむことになる。そして一時は、数万はあったと思われる兵力は、14世紀に入る頃には、数千にまで落ち込んでいた。
 これ以降もビザンツ帝国は、巧みな謀略と外交を駆使して、一応1453年のオスマン・トルコによる征服まで存続している。
 だが、12世紀の末に力を失って以降のビザンツは、弱小国家として東地中海の勢力均衡状態の一角を占めたにすぎず、オスマン・トルコの台頭に際しては為す術もなく滅亡の淵へと追いつめられていった。この間、ビザンツが政治的・戦略的な存在感を回復することはなかった。それは実質的にはビザンツ帝国の残骸にすぎなかった。13世紀以降の西洋史において、ビザンツの存在感は文化面においてのみ示されたのである。



おわりに
 一応、ビザンツの軍事力の変遷を一通りたどってみました。軍制の変遷の戦術的な側面を調べられなかったのが少し残念です。あと、あいかわらず英語は苦手なので、誤読して、変なことを書いていなければ良いのですが……。



参考資料
世界の歴史 5ギリシアとローマ 11ビザンツとスラヴ;中央公論社
週刊朝日百科 世界の歴史;朝日新聞社
古代末期の世界 −ローマ帝国はなぜキリスト教化したか?−;ピーター・ブラウン著 宮島直機訳  刀水書房
ビザンツ帝国史;尚樹啓太郎著 東海大学出版会
ビザンツ帝国史;ポール・ルメルル著 西村六郎訳  白水社文庫クセジュ
ビザンティン帝国の軍隊 886−1118 ローマ帝国の継承者;イアン・ヒース著 柊史織訳 新紀元社
特輯 ビザンティオン帝国(中世ローマ帝国)の軍制;井上浩一、中谷功治、根津由喜夫、小田昭善著  (古代文化41)
テマ反乱とビザンツ帝国 −「テマ=システム」の展開−;中谷功治著  (西洋史学144)
十一世紀における小アジアのビザンツ貴族;小田昭善著  (西洋史学144)
コムネノス家 −十一世紀ビザンツ軍事貴族家門の相貌−;根津由喜夫著  (金沢大学文学部論集 史学・考古学・地理学篇 第二十号)
アレクシオス一世とビザンツ軍事貴族 −コムネノス朝支配体制の組織原理−:根津由喜夫著  (西洋史学151)
最後の「海の軍人皇帝」 −レオン3世とビザンツ艦隊−;小林功著  (オリエント 第45巻 第1号)
ビザンツ帝国の海軍組織について−最近のビザンツ海軍史研究を中心に−;相野洋三著  (関西学院史学12)
九世紀における地中海世界とビザンツ海軍;相野洋三著  (関西学院史学14)
Byzantium and Its Army 284−1081;Warren Treadgold  STANFORD UNIVERSITY PRESS
THE ART OF WAR IN THE MIDDLE AGES A.D.378−1515:C.W.C.Oman CORNELL UNIVERSITY PRESS
WARFARE;Geoffrey Parkar,ed.  CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS


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