2004年10月8日
甘露元年及び宝鼎元年の呉の遷都  田中愛子


  「甘露元年及び宝鼎元年の呉の遷都」の発案に関するお詫び

 「甘露元年及び宝鼎元年の呉の遷都」中、「孫晧は対蜀進出の為に武昌遷都を行った」とする論がある。論文の中核をなす、要となる論である。
 この論は、歴史研究会のMy先輩の発案によるところのものである。My先輩は、武昌遷都理由が見出せず頭を悩ませていた私に見事な案を提供してくださり、その上、その立証のための典拠の一部をも提示してくださった。したがって、本来、この論については「発案:My、立証:田中愛子・My」との旨を明記すべきところである。
 しかし、京都大学東洋史研究室夫馬進教授より、「会話を先行研究及び参考文献として扱うことは出来ない」とのご指導を受けたため、論の出所について何も記述せずに論文を公開した。結果、My先輩の発案の剽窃を行うことになってしまった。
 ここに、この件についてお詫び申し上げるとともに、問題の論の発案者がMy先輩であることを明記しておきたい。


  目次

はじめに
一 遷都の概要
二 『三国志』中に記された遷都理由
三 新都武昌の備えていた条件
四 遷都の動機
五 遷都の動機の背景
おわりに


  はじめに

 中国史における、三国時代。それは、漢という統一帝国が崩壊し、分裂へと向かう時代、中世の初めの時代である。
 従来、三国時代の研究において、呉は他の二国に比べて見過ごされがちであった。また、呉についての研究は、呉の前半期、すなわち、呉の成立過程や孫権の統治についての研究に偏るきらいがあり、後半期についての研究は手薄であった。特に、呉の最後の皇帝孫晧は、正史に残る奇矯且つ残酷な行動の記録故、ややもすると彼のとった行動は全てただの暴君の乱行として片付けられてしまい、きちんと研究されることがなくなってしまいがちであった。しかし、きちんと考証することなく彼の行動の全てを暴君の乱行と見なしてしまうのは、いささか乱暴である。以上の理由から、当論文は、孫晧と彼が呉を統治していた時代を研究対象とした。
 孫晧とその時代を研究するに際して、彼の行った遷都を題材とすることにした。この遷都は彼のとった行動中有数の大事であるため、そして、首都の位置というものは、時代や時の統治者の思惑をよく反映するものであり、題材として適当であると判断したためである。
三国時代後期の甘露元年(二六五年)、呉の首都が建業から武昌へと移され、その翌年の宝鼎元年(二六六年)、再び建業に移された。一体何故、この二つの遷都は行われたのか。この遷都の動機や背景を考察することで、当時の呉の情勢や政局、そして、その中で皇帝孫晧の置かれた立場を明らかにしていきたい。
 孫晧の行った遷都について研究するに先立って、まず、先行研究を確認しておきたい。孫晧の行った遷都についての先行研究は、以下の通りである。
 張儐生氏は、『魏晋南北朝政治史』(注1)中、「孫晧之迷信妄動」の例として、武昌遷都を挙げている。『三国志』の記述をまとめた内容である。
 岡崎文夫氏は、『魏晋南北朝通史』(注2)中、武昌遷都について「孫晧のやり方の突飛な一例は、一時都を武昌にうつしたことである。これ現今湖北の宜昌、当時西陵の督をして居た歩闡の表に従ったといわれるが、その理由は明白ではない。おそらく北伐計画によるものではないかと想像される」と述べている。村田哲也氏は、「孫呉政権後期政治史の一考察」(注3)中、武昌遷都の目的を「西方国境の緊張という事態に長江沿いの荊州の対北方防衛の最前線の重要軍事拠点である武昌に都を置くことで、変化する情勢に対して孫呉中央政府が積極的に対応する」ことと、「様々なしがらみが多くなった建業からのがれて政治的気風と人心を刷新する」こととし、この遷都の意図について「北方への積極的な攻撃の展開を目論んだものではなかったか」と推測した。そして、建業に首都を戻した理由を、国内の疲弊を意識していた陸凱が遷都に反対し、実力者である陸凱の発言を孫晧も無視できなかったことと、旧都の建業周辺で反乱事件が勃発したこと、そして、孫権以来の数十年で形成された、首都建業を中心とした社会のあり方が堅固であったこととしている。また、渡邉義浩氏は、「孫呉政権の展開」(注4)中、この遷都について「国際状況の激変に対応して武昌に遷都を行い、「世兵」を廃止して中央軍の強化を図るなど、着々と中央集権化のための施策を実行している」と述べている。岡崎氏・村田氏・渡邉氏とも、遷都の目的・理由について述べてはいるが、その論拠にはほとんど言及していない。
 張承宗氏・田澤濱氏・何栄昌氏らは、『六朝史』(注5)中、武昌遷都及び建業遷都について、同盟国である蜀の滅亡により長江上流域の藩屏を失い、長江中流域の防衛のために武昌に首都を移したものの、官僚貴族の反対と人民の物資供給の負担故、やむを得ず建業に首都を戻したと述べている。他の論よりは明瞭に論拠が述べられている。
 いずれの論も、一度再考察を加えてみる価値はあろう。
 なお、本文中に引用した『三国志』の訳文は、筑摩書房発行、井波律子・今鷹真・小南一郎訳『正史三国志』(注6)の訳文を転載したものである。また、本文中及び注中に引用した原文及び書き下し文は、一九五九年中華書局発行『三国志』(注7)、一九七四年中華書局発行『晋書』(注8)及び香港迪志文化出版有限公司発行『文淵閣四庫全書電子版』(注9)に基づくものである。


  一 遷都の概要

 後漢の滅亡後、中国には魏・蜀・呉の三つの国が成立し、それぞれ抗争を続けていた。このうち、蜀は、永安六年(蜀の炎興元年、二六三年)に魏によって滅ぼされた(注10)
 そうした中、元興元年(二六四年)、孫晧が呉の皇帝として擁立され、即位した(注11)。そして、その翌年の甘露元年九月、西陵督の歩闡の建議に従って、建業から武昌へ首都が移された(注12)。裴松之の注によると、武昌へ行幸し、そのままそこに首都を移すことに決定したようである(注13)。御史大夫の丁固と右将軍の諸葛靚とが、旧都建業に留まり、守りにあたった。遷都後、大赦が行われた(注14)。遷都の後、左丞相の陸凱が、皇帝孫晧に対し、家臣に遷都について諮ることがないまま遷都を実行してしまったと批判している(注15)。さらに、孫晧は、首都を武昌に移すことを決定した際、誰も反対しないように、家臣一人を惨殺している(注16)。どうやらこの遷都は孫晧の独断によるところが大きかったようである。また、『三国志』及びその注には、新都とするに際して武昌に整備を加えたことを示す記述は見られない。武昌へ行幸し、そのままそこに首都を移すことに決定したというのであれば、実際、それほど大規模な造営は行われなかったと考えられる。また、遷都の際、首都のどの機能を移転したのかは、『三国志』及びその注に記述されていないため、不明である。遷都の中心人物である皇帝孫晧は当然移転したに違いないが、それ以上のことは分からない。
 首都が武昌にある間、呉には改革や軍事行動等、大きな動向は無かった。ただ、この間、魏では事実上の最高権力者である相国の司馬昭が死亡していた(注17)。また、その世子の司馬炎が魏から禅譲を受けて皇帝となっていた(注18)
 遷都を行ったところ、揚州民の首都への物資供給の負担が重くなった(注19)。そのため、陸凱が、武昌は首都たるに相応しくないとし、童謡や天文の異変を挙げ、天意や人民の苦しみを説いてこの遷都を批判した(注20)。結局、武昌遷都の翌年の宝鼎元年十二月、首都は再度建業に移された。衛将軍の滕牧が武昌に留まり、守りにあたった(注21)


  二 『三国志』中に記された遷都理由

 武昌遷都及び建業遷都の理由は、何であったのか。『三国志』及び裴松之による注には、
  「西陵督歩闡の表に従い,都を武昌に徙す」(注22)
  「望気者云く荊州王気有りて揚州を破り建業宮利ならず,故に晧武昌に徙る」(注23)
  「又建業宮利ならず,故に之を避く」(注24)
  「晧巫史の言を用い,建業宮利ならずと謂い,乃ち西のかた武昌に巡り,仍りて遷都の意有り」(注25)
としか記載されていない。武昌遷都の理由として挙げられているのは、歩闡の建議と建業宮の不吉のみである。建業遷都の理由は何も挙げられていない。『三国志』の記述中建業復帰理由であると考えられそうなものは、揚州民の負担の増大と陸凱の遷都批判程度である。
 まず、歩闡の建議についてであるが、この歩闡の建議に関する記述が他に無く、その内容は不明である。
 次に、建業宮の不吉が武昌遷都の動機であったのか否かを考察したい。前述の『三国志』の記述によると、武昌遷都の主な理由は建業宮の不吉であったようである。だが、本当に、建業宮の不吉が遷都の主たる動機だったのであろうか。
 それを解明するために、孫晧や彼の家臣達が「不吉」というものをどのように捉えていたのかを探ってみたい。陸凱は、孫晧に対し、武昌遷都や新宮殿造営を批判して、
  そもそも王者たるものがその事業を盛んにいたしますのは、天より命を受け、徳行を修めることによって事をつつがなく運んでゆくのであって、宮殿をどこに置くかといったことは何の関係もないのでございます。(注26)
  臣は、主君たる者は、徳を積むことによって災異を攘い、義を行うことによって天の降す咎めを除くのだ、と聞いております。さればこそ殷の湯王は大きな旱に遭うと、わが身を犠牲にして桑林で雨乞いをし、熒惑(火星)が心宿(サソリ座)に留まって〔動かなくなったとき〕、宋の景公は宮殿を出て〔斎戒の生活を送り〕、その結果、旱魃は去り、妖星もほかの星座に移ったのでございました。ただいま宮殿に不吉なことがございますれば、ただひたすらおのれを抑えて礼の道にもどられ、湯王や景公が行なった最高の道をみずからも実行されて、民衆たちの困苦をあわれんでおやりになるべきであって、〔そうされますとき〕宮殿に気がかりな怪事がおこることや、災異がひき続いておることなど、どうして心配される必要がございましょう。(注27)
と述べている。また、華覈は、孫晧に対し、新宮殿造営を批判して、
  昔、殷の大戊の時代に、宮殿の前庭に桑と穀物とが生えるという異変がございましたが、大戊がこれにおそれをいだいて徳を修めましたがため、怪異が消滅し、殷の王朝はかえって盛んになったのでございました。また熒惑星(火星)が心星(アンタレス)の所に留まり、宋の国の人々は災禍がやってくるしるしだと考えましたとき、景公が〔その禍いを誰かに移せという〕瞽史(占いや天文観測にあたる役人)たちの言葉に従わず〔みずからがその災禍をひき受けようとしましたため〕、熒惑星は別の星座に移り、景公も長寿を得ました。(注28)
と述べている。陸凱と華覈は、不吉を理由に遷都や新宮殿の造営を行うことに対し、凶兆には徳を修め、身を正すことによって対処するべきであると批判している。陸凱と華覈は孫晧の有力な家臣である。つまり、彼らと孫晧とは、その時代・地域・階層をほぼ同じくしていたということである。したがって、孫晧は陸凱や華覈と同じ文化の中で生きており、基本的に同じ世界観を有していたと考えられる。孫晧は巫覡を信仰していた(注29)。だから、巫覡の言葉を信じて建業宮を不吉と考えるということがあったかもしれない。しかし、孫晧も、彼の家臣達も、不吉な場を離れるばかりが災厄を免れる方法ではないという認識を持っていたであろう。したがって、武昌遷都には他に何らかの道理があったと考えられる。
 次に、揚州民の負担の増大と陸凱の遷都批判が建業遷都の動機であったのか否かを考察したい。『三国志』の記述中、建業遷都の動機となりそうなのは揚州民の負担の増大と陸凱の遷都批判程度である。だが、これらは本当に建業遷都の動機だったのであろうか。
 武昌に遷都したことによって揚州民の物資輸送の負担が増えたというが、反対に、武昌に遷都したことによって負担が軽減されたという人々もいたはずである。したがって、揚州民の物資輸送の負担が増えても、それだけを理由に首都を建業に戻しはしないのではなかろうか。また、孫晧は家臣を惨殺して遷都反対を防ぐという行動をとっている。孫晧は遷都に対する反対が出るのを予想しており、その上で無茶な手段をとってまで遷都を強行したということである。したがって、いかに左丞相という高い地位にあるとはいえ家臣一人が反対したというだけでは、首都を建業に戻しはしないのではなかろうか。
 では、武昌遷都及び建業遷都の理由は、一体何であったのだろうか。歩闡の建議の内容を知るのは困難であるため、当時の呉や孫晧のおかれていた状況から、武昌遷都及び建業遷都の理由を探究してみたい。


  三 新都武昌の備えていた条件

 甘露元年の遷都の際、新都に選ばれた武昌であるが、この都市は、様々な好条件を有していた。
 武昌は、長江と漢水の合流点という交通の要衝にある。孫休の
  みな長江に船を浮べ、商売のため江を上下している。(注30)
という言葉から分かるように、この時代にも無論長江は重要な交通路であった。また、武昌は古くから栄えてきた大都市であった。武昌は、こうした条件を備えた、首都に相応しい都市であった。孫権の時代に一時首都であったこともあるし(注31)、以前に遷都が構想されていた時にも、遷都先とされていたのは武昌であった(注32)。こうしたことからも、武昌が首都たるに相応しい都市であったことが分かる。
 また、武昌は、大都市であり、すでに都市として十分な発展を遂げていたため、新都とするに際してあまり開発・整備をしなくてもよい。その上首都経験があるため、さらに整備の負担は省けたであろう(注33)。したがって、遷都先としてこの場所を選べば、出費や労役の負担を軽減することができる。
 こうした条件は、建業から武昌に遷都した動機にはなり得ない。だが、遷都先の都市として武昌を選んだ理由にはなる。蓋し、こうした武昌の好条件が、武昌を新都に選んだ理由の一環だったのであろう。


  四 遷都の動機

 では、遷都の動機は何であるのか。中国の遷都についての先行研究から予想されるのは、中央行政機構からの有力者の排除、改革の断行、反乱対策、開発の促進、領土・人口・経済の変化への対応、旧都の状態の悪化、軍事面での利便である。
 中央行政機構からの有力者の排除、改革の断行、開発の促進、人口・経済の変化への対応は、首都を武昌に移してから建業に移すまでの一年三ヶ月という短い期間に急にその必要性を生じるものではない。したがって、これらが遷都の動機となり得るのは、はじめの武昌への遷都のみであろう。また、宝鼎元年に行われた武昌から建業への遷都は、武昌遷都の僅か一年三ヵ月後のことであること、遷都先が旧都建業であることから、武昌遷都とは別個の問題が新たに発生したために行われたものではなく、武昌遷都によって生じた弊害のため、あるいは、武昌遷都の挫折のために行われたものである可能性が高い。
 これに対し、反乱対策、領土の変化への対応、旧都の状態の悪化、軍事面での利便は、突然にその必要性を生じ得る。反乱は突如起こり得る。領土は他国の侵攻や滅亡等によってたちまちにして変更されることがある。都市の状態は不意の変事によって悪化することがある。軍事情勢は急変し得るものである。したがって、反乱対策、領土の変化への対応、旧都の状態の悪化及び軍事面での利便は、武昌への遷都と建業への遷都の両方の動機となり得る。勿論、これらを武昌遷都の動機と考えた場合にも、建業遷都は武昌遷都の失敗の結果であると考えることは可能である。

 まず、中央行政機構からの有力者の排除がこの遷都の動機であったのか否かを検討してみたい。
 当時の有力者の一に、
  呉郡顧、陸、朱、張有りて,四姓たり。三国の間四姓盛んなり(注34)
と称された「呉の四姓」があった。岡崎文夫氏の前掲書はじめ多くの論で述べられていることであるが、ケ艾が
  呉の名家・豪族はみな私兵をかかえており、軍兵をたのみ勢力にたよれば、独立できるだけの力をもっております。(注35)
と指摘していることからも分かるように、彼等は強い権勢を有していた(注36)
 後述するが、孫晧は、遷都当時、自己の権力を強化しようとしており、その一環として、己の立場を脅かす虞のある者を排斥しようとしていた。強大な権勢を有する家臣は、皇帝の立場を脅かし得る。有力な者であっても己に従順であれば排除はしないかもしれないが、孫晧の家臣の中には、有力であり且つ孫晧に従順でない者もいる。「呉の四姓」の一つ陸氏の出身である陸凱は、武昌遷都を批判する(注37)、何定の任用に反対する(注38)など、たびたび孫晧の政策に対し異を唱えている。孫晧もそれを決して快く思っていなかった(注39)。さらに、陸凱が孫晧廃立を企てていたと言う者がいたという記述すらある(注40)。こうした点から、孫晧は己に対する脅威となり得る有力者を排除しようとしていたのではないかとも考え得るかもしれない。
 しかし、遷都の十一ヵ月後の宝鼎元年八月、その陸凱が、左丞相に昇進している。孫晧は、遷都して首都が武昌にある間に、有力者を昇進させているのである。このような人事を行うということは、あまり積極的に有力者排斥を行うつもりは無いということではなかろうか。有力者排斥を行うつもりであったが遂行できなかったとも考えられるが、もともと独断のもと強行された遷都であるから、有力者排斥も、多少の障害があろうとも少しくらい断行してしまいそうなものである。したがって、有力者を排斥しようという意図も少しはあったのかもしれないが、主たる動機としては弱いのではなかろうか。

 次に、改革の断行がこの遷都の動機であったのか否かを検討してみたい。
 確かに、遷都することで、有力者の入れ替え、機構再編など、抜本的改革を行いやすくなることが見込まれる。人心一新という効果も期待できるかもしれない。
 しかし、武昌に首都がある間、改革は何も行われていない。改革を行うつもりであったが遂行できず、結局建業に首都を戻したとも考え得る。だが、改革を目的として強引に遷都したにもかかわらず改革が全く無いというのはおかしい。もともと独断のもと強行された遷都であるから、改革も、多少の障害があろうとも少しくらい断行してしまいそうなものである。したがって、改革を行おうという意図も幾分かあったにせよ、それは重要な動機ではないと考える方が自然である。

 次に、反乱対策がこの遷都の動機たり得るのか否かを検討してみたい。
 呉は常に山越と呼ばれる異民族の反乱に悩まされ続けていた。しかし、山越の反乱を避けるあるいは山越に対する攻撃を活発化させるために遷都したとは考えにくい。武昌遷都及び建業遷都の前に以前と比べて山越の反乱が激化していたということも、山越に目立った動向があったということも無いし、遷都の前後で山越との戦いの状況に変化はほぼ無い。山越反乱対策はこの遷都の動機ではないと考えられる。
 では、漢民族による反乱についてはどうか。武昌遷都前には、建業でも武昌でも目立った反乱は発生していないため、建業と武昌とで反乱に関する状況に違いは無い。『三国志』孫晧伝には、
  孫休が逝去したとき、ちょうど蜀が亡びたばかりで、しかも交阯が離叛していたところから、呉国の人々はみな心をおののかせ、なんとかして立派な主君を得たいものと切望していた。(注41)
とある。武昌遷都当時は寧ろ交阯での反乱が問題視されていたと考えられる。反乱対策のために武昌に首都を移す意味は無かろう。武昌遷都の動機が、反乱を避けるあるいは反乱の鎮圧にあたることであるとは考えにくい。
 ただ、建業への遷都の動機が反乱である可能性はある。建業遷都二ヶ月前の宝鼎元年十月、山賊の施但らが、孫晧の異母弟で永安侯の孫謙を担いで反乱を起こし、一万人あまりを率いて建業に進軍してくるという事件が起こっている(注42)。この反乱が建業遷都に何がしかの影響を与えた可能性は否定できない(注43)

 次に、開発の促進がこの遷都の動機であったのか否かを検討してみたい。
 岡崎文夫氏の前掲書や大川富士夫氏の「三国時代の江南とくに揚州について」(注44)はじめ多くの論で述べられていることであるが、呉は比較的未開発地が多く、開発が活発であった。この点から、開発の推進のために首都を移動させたという考え方も生じ得る。
 しかし、遷都前後で武昌方面の開発を促進する政策をとったという記述は『三国志』に無い。しかも、武昌遷都の一年一ヶ月後、孫晧は、
  いま呉郡の陽羨・永安・余杭・臨水、それに丹陽の故鄣・安吉・原郷・於潜の諸県は、その地勢と水流の便がみな烏程に集中している。ここに郡を立てて山越の鎮めとなすのが便宜であるうえに、その郡に明陵(孫和の陵)の守りに当らせ、大祭を執り行なわせるのは、まことに適宜なことではないか。すみやかにこの九県を分割して呉興郡を立て、烏程にその役所を置くように。(注45)
と述べている。孫晧は、烏程方面の地域に力を注いでいたのである。この発言からして、開発目的の遷都を行うなら、どちらかというと烏程周辺に遷都しそうなものである。したがって、開発の促進が遷都の動機である可能性は低い。

 次に、領土・人口・経済の変化への対応がこの遷都の動機たり得るのか否かを検討してみたい。
 武昌遷都前、建業遷都前ともに、呉の領土に変化は無い。したがって、領土の変化は遷都の動機たり得ない。
 『後漢書』と『晋書』には、郡ごとの人口の統計がある。だが、郡ごとの人口からでは、人口の変化が武昌遷都の原因であるか否かを知ることはできない。そもそも、黄初二年(二二一年)に武昌やその周辺の県からなる新郡が設置されているため、この統計資料を利用して建業周辺や武昌周辺の人口の変動を知ることは不可能である。
 経済についても資料は乏しい。ただ、孫休の
  みな長江に船を浮べ、商売のため江を上下している。(注46)
という発言から、長江沿岸の都市である建業と武昌とは、ともに経済面における繁栄を遂げていたと考えられる。
 第一、何らかの重大な事変が発生しない限り、経済のあり方や人口分布が急変するとは思えない。武昌に首都がある間、人口や経済に急変を齎すような出来事は起こっていない。そして、武昌遷都の一年三ヵ月後に首都はまた建業に戻されている。その上、その後も数百年にわたって建業は華南の首都であり続けた。ということは、武昌遷都前の経済及び人口の状況も、建業を首都としておいて問題のないものであったのではなかろうか。経済や人口という要因故に遷都したのではないと考えられる。

 次に、旧都の状態の悪化がこの遷都の動機たり得るのか否かを検討してみたい。
 状態の悪化の要因には、戦乱、災害、火災、気候変動、地殻変動等がある。武昌・建業とも、首都でなくなる前に、戦乱等都市が使用不可能になるような重大な事変が起こってはいない。建業や武昌を修繕したという記録も残っていない。気候変動等徐々に発生してゆくものであれば記録に残らないかもしれないが、武昌の状態が悪化しつつあるというならば建業から武昌に遷都したりはしないし、建業の状態が悪化しつつあるというならば武昌から建業に首都を戻したりはしない。それに、建業・武昌ともその後問題なく都市として機能し続けている。したがって、旧都の状態の悪化は、この遷都の動機ではなかろう。

 最後に、軍事面における利便がこの遷都の動機であるのか否かを考察してみたい。
 孫晧が皇帝となる直前、蜀が魏によって滅ぼされた。蜀の滅亡直前、呉は、魏の攻撃を受けている蜀を救援するため、魏を攻撃することを計画していた(注47)。当時、呉にとって、蜀は同盟国、魏は敵対国だったのである。蜀が魏によって滅ぼされたということは、同盟国が消滅し、敵対国が強大化するということであり、呉を攻撃するのに有利な長江上流域が、同盟国から敵対国に変わるということである。当然、呉が魏の侵攻を受ける危険性、特に、長江上流から長江を下っての侵攻を受ける危険性が増大する。華覈は、
  蜀は、西方の防禦線として、その地勢は険固であり、加えて先主劉備の統治方法を受けついで、末永くその領域を安全に保ってゆけるものと思われておりましたが、思いがけなくも一朝にして、あっという間に傾き倒れてしまいました。唇が亡びると歯が寒くなるというのは、古人が惧れたところでございます。(注48)
と指摘している。西側の防衛の役割を果たしていた蜀が滅亡することにより、呉も魏の侵攻にさらされる虞があったのである。武昌・建業両遷都後の発言ではあるが、呉の対魏晋戦略及び魏晋の対呉戦略のうち地勢に基づくものは、蜀の滅亡から晋による統一まで、ほとんど変化しなかったと考えられる。また、大司馬の陸抗は、
  西陵と建平との二郡は、わが国の外に対する垣根なのでございますが、敵がその上流をおさえておりますため、二つの方向から敵の勢力の進出を受けとめねばなりません。(注49)
と指摘している。これまで、西側が同盟国蜀であったため、侵攻を受けるとすれば北側からのみであったが、蜀の滅亡により、北と西の二方向からの侵攻を受け止めなくてはならなくなったのである。
 そのため、呉は蜀の滅亡に震撼していた。『三国志』孫晧伝には、
  孫休が逝去したとき、ちょうど蜀が亡びたばかりで、しかも交阯が離叛していたところから、呉国の人々はみな心をおののかせ、なんとかして立派な主君を得たいものと切望していた。(注50)
とある。呉の人々は魏の侵攻に対して大いに危機感を抱いていたのである。
 情勢は、呉に不利であった。元興元年、魏の相国である司馬昭は、呉に対して降伏勧告文書を送った(注51)。その降伏勧告文書中には、
  蜀を降すと、戦意にはやる部将や参謀たち、朝臣や庶士たちは、みなそろって、天の与えられた時運の宜しきに恭み従い、すでに遠征に動員された軍隊をそのまま用い、敵を圧倒した余勢をかって、このまま軍旗をめぐらせて東に向い、呉との境界にまで軍を進めるべきだと主張いたしました。(注52)
とある。魏の家臣の間からは、蜀を討伐したその足で長江を下り、呉を討伐すべきであるという意見が盛んに出されていたようである。魏から降伏勧告文書が送られたこと、呉討伐論が盛んに上がっていたことから、如何に情勢が呉に不利であったかが分かる。
 このような切迫した情勢下にあったため、対魏・対晋策が当時の呉の急務であったと考えられる。呉は、魏及び晋からの攻撃を防ぐべく、和平策をとった。前述の降伏勧告書に対して穏便な返書を送り(注53)、司馬昭が死亡した際には弔問の使者を派遣した(注54)。当たり障りの無い、無難な行動をとっている。その一方で、やはり、魏晋との戦争に備える必要もある。戦争への備えのうち、まず、防衛という観点から、軍事と遷都との関連性を考察してみたい。
 防衛において、首都の位置は重要である。ではどのような場所に首都を置けば防衛に有効であると考えられていたのか。『三国志』孫奐伝には、
  孫権が武昌にいたころのこと、都を建業にもどしたいという気持は持っていたが、〔建業から武昌へやって来るには〕水路を二千里も遡らねばならず、もし緊急事態の発生を知らせる警報がきても、すぐにはかけつけることができぬのを心配して、そのため心を決めかねていた。夏口までやって来たとき、とりでの中に百官を集めてこのことを議論させ、〔まずはじめに孫権自身が〕詔を下していった、「部将たちも軍吏たちも、その官位や任務にはこだわらず、よい考えのある者は、国家のためを思って、それを遠慮なく申し述べよ。」(注55)
とある。呉の初代皇帝である孫権は、武昌に首都を置いていた時、建業に遷都したいと考えた。しかし、防衛の要地である漢水‐長江合流点周辺から遠く隔たった地点に首都を置いてしまうといざというときに対応しづらいことを慮って遷都を躊躇った。そして、漢水‐長江合流点周辺の防備の問題について、百官に議論させた。敵の攻撃に対応しやすいよう、首都は防備の拠点に近い場所に置くのがよいと考えられていたのである。
 魏によって蜀が滅ぼされ、長江上流域が敵国と化したという状況の下で特に重視されたのは、長江上流から長江を下っての攻撃に対する防備であろう。大司馬の陸抗は、孫晧に対し、
  西陵と建平との二郡は、わが国の外に対する垣根なのでございますが、敵がその上流をおさえておりますため、二つの方向から敵の勢力の進出を受けとめねばなりません。もし敵が軍船を浮べて流れに乗り、千里にもわたる艦隊を連ね、流星のごとく進み、稲妻のごとく走せて、急遽おしよせてまいりますれば、この絶体絶命の危機を救うべく他の郡からの救援をあてにすることは不可能なのでございます。そうした事態に至ったとき、それは社稷存亡の分れ目であり、単に領土に侵攻を受けたという小さな損害にはとどまりません。(注56)
と説いた。晋が長江上流から長江を下って攻撃してくると予想し、それに対する防備を非常に重視していたのである。実際、晋は、呉を滅ぼす際、武昌や夏口、江陵等の長江中流域の都市を攻撃するとともに、巴蜀地方から長江を下って進み、長江中流域の都市を攻略し終えると、その軍の一部を長江を下ってきた軍と合流させ、更に長江を下るというルートを取った(注57)。このことからも、長江中・上流域からの長江を下っての攻撃に対する防備が如何に重要であったかが分かる。
 漢水‐長江合流点は、その地理的条件故に、漢水を下っての攻撃及び長江中・上流域から長江を下っての攻撃に対する防備の要地であった。華覈は、孫晧に対し、
  夏口の地は、敵方の攻撃の集中してくる場所であって、名将を選んでこの地の守りに当たらせねばなりません。(注58)
と説いている。この論から、漢水‐長江合流点は要地であり、この地域の防備が重視されていたことが分かる。長江上流からの攻撃が危惧されていた遷都当時、この地点の防備は特に重視されていたと考えられる。
 武昌は、この漢水‐長江合流点の近くにある。このような地理的条件を有する武昌に首都を置くことは、防衛に非常に有効であると考えられていたに違いない。以上から、危機的な情勢の下、敵の攻撃に対応しやすくして防衛を強化するために、漢水‐長江合流点という防衛上の重要地点の近くである武昌に首都を置いたのではないかという考え方も生じ得る(注59)

 以上考察してきた通り、確かに、武昌に遷都することで、防衛の効率は上がる。しかし、だからといって、遷都の目的が防衛であるとは限らない。他に遷都の動機があったのではなかろうか。長江上流からの攻撃の危険性が増している状況下で建業から武昌に首都を移すということは、わざわざ攻撃される可能性がより高まった地点に首都を移すということである。孫権の述べていた通り、敵の攻撃を受ける可能性の高い地点の近くに首都を置けば、敵の攻撃に対処しやすくなる。だが、それは同時に、首都陥落の危険性を高めることでもある。敵の進攻を阻止できるのであれば問題はないが、もし阻止できなければ、敵の攻撃が即座に首都に及ぶことになる。『晋書』宣帝紀には、
  蜀の武将関羽が樊で曹仁を包囲している上、于禁らの七つの軍がみな洪水で壊滅するという事態に陥ると、胡脩と傅方とははたして関羽に投降し、曹仁に対する包囲はますます切迫した。このとき、漢の献帝は許昌を都としていた。魏の武帝はそれでは賊に近すぎると考え、河北に遷都しようとした。(注60)
とある。当時国内随一の軍事力を誇っていた曹操でさえ、一部の戦局がやや不利になったというだけで、その地域から首都を遠ざけようとしたのである。孫権の時代ならいざ知らず、圧倒的劣勢に立たされた孫晧の時代にあえて攻撃される可能性がより高くなった地点に首都を移すのは、非常に危険であり、防衛策としてはいまいち筋が通らないやり方である。それに、防衛の他に遷都の目的があったと考えないことには、防衛という重要事を覆して建業に再遷都する理由も、呉滅亡直前のようにもっと危機的な状況に陥った時に武昌に遷都しようとしなかった理由も説明できない。
 甘露元年(晋の泰始元年)十二月、魏は晋に禅譲した。おそらく、呉は、その少し前から、禅譲がなされそうな情勢であると察知できたであろう。禅譲の一ヶ月前に魏皇帝から司馬炎に対して皇位に即くよう策命が出される(注61)など、禅譲の前兆はあった。前述の返書を届けるために魏に派遣した使者から、魏の政情に関する情報が齎されたかもしれない。呉は、こうした情報から禅譲の気運を察知し得たと考えられる。
 禅譲がなされそうな情勢になれば、あるいは、禅譲が行われれば、何らかの動乱が起こる可能性がある。禅譲を迫られた現王朝側が反撃に出るかもしれない。禅譲が成立した後、前王朝側の者が新王朝に対して反乱を起こすかもしれない。呉も、そう考えたのではなかろうか。
 勿論、禅譲時に必ず動乱が起こるというわけではない。しかし、動乱が起こる可能性があると考えるのは、あながち不自然なことではない。実際、司馬氏が政権を掌握している現状を憤っていた者はいたようである。例えば、魏の重臣である諸葛誕は、同じく魏の重臣であった賈充から、
  洛中の諸賢がみな〔晋朝への〕禅譲を願っていることは、君の知っているとおりだ。君はどう思うかね。(注62)
と問われ、
  あなたは賈豫州(賈逵)の子ではないのか。代々魏のご恩をお受けしながら、どうして国家を裏切り、魏朝を他人に差し出そうとするのだ。わしが平気で聞き流せることではない。もし洛中で事変が起れば、わしは当然命を投げ出すつもりだ。(注63)
と言っている(注64)。また、金禕という人物は、漢から曹氏へと王朝交代が行われそうな情勢であったため、曹氏政権に対して謀叛を起こそうとするという事件を起こしている(注65)。こうした例から、王朝交代時に、旧王朝側が新王朝側の打倒を図る可能性があるということが分かる。したがって、呉が動乱の可能性をかなり高く見積もったとしても不思議は無い。
 もし、魏に、あるいは晋に動乱が起これば、呉にとってはまたとない攻撃の好機である。呉の家臣である劉簒も、孫晧に対し、
  もし敵にすきがあるのであれば、どうして見過ごしてよいものでしょう。(注66)
と説いている。実際、呉は、しばしば敵国の動乱につけいるという形での軍事行動をおこしている。例えば、魏の家臣である毌丘倹と文欽が反乱を起こした(注67)際、呉は寿春を攻撃、魏と交戦している(注68)。また、諸葛誕が反乱を起こした際(注69)、呉は彼に助力している(注70)。甘露元年には、呉が魏晋を攻撃する絶好の好機が発生する可能性を有した情勢が展開されていたのである。
 村田哲也氏の前掲論文でも述べられていることであるが、蜀滅亡の対応策として、呉は、旧蜀領へ侵攻している。
 前述の通り、長江上流域が同盟国から敵対国と化したがために、呉は長江上流からの侵攻を受ける危険性に直面することとなった。呉にとって、長江上流域が敵国であるのは非常に手痛いことである。出来るものなら、是が非でも蜀の故地を獲得し、長江上流域からの圧力を除いておきたいところであったはずである。蜀滅亡の三ヵ月後、呉は、
  鎮軍将軍の陸抗、撫軍将軍の歩協、征西将軍の留平、建平太守の盛曼らは、軍勢をひきいて蜀の巴東の守備隊長の羅憲を包囲した。(注71)
という行動に出ている。何とか蜀地方を一部でも獲得しようとしたものであろう。前述の通りの危機的な状況の下でこのような行動をとるのは、かなり無茶なことである。呉にとって、蜀地方は、無理をしてでも何とか獲得しておきたいものであったのだということが分かる。
 敵に攻撃をかける好機が到来しそうで、且つ、蜀地方獲得が非常に強く望まれていた。とあれば、蜀地方を獲得しに出る可能性が非常に高い。自己の上流にある者を警戒する考え方もあったようである(注72)。呉は、蜀地方に侵攻するつもりであったのではなかろうか。
 孫権は、秣陵に本拠を置こうと考えていたところへ、同盟相手の劉備から、蕪湖を本拠とするよう勧められた(注73)。それに対し、孫権は、
  私は徐州の攻略をもくろんでおりますので、下流に近いほうがよいのです。(注74)
と答えている。そして、この問答について、裴松之は、
  秣陵と蕪湖とを比較してみるに、〔徐州への〕道のりの点ではほとんど差がなく、北方侵攻についての利便の点でも、両者にいかなる違いがあったろう。(注75)
と注をつけている。孫権は、徐州攻略の利便のため、本拠には長江下流に近い場所を選択すべきであると述べている。そして、この孫権の言葉について、裴松之は、秣陵と蕪湖とでは徐州からの距離に差が無く、徐州攻略の利便性に違いは無いと述べている。このことから、どこかの地点を攻撃しようとしている時には、その地点に近い場所に首都を置くのがよいと考えられていたことが分かる。その理由は、戦闘の前線に移動しやすい場所に首都があれば、前線の状況に対応しやすい、軍を動かしやすい等であろう。呉は、蜀地方への侵攻を企図し、その利便のため蜀地方に首都を近づけておいたほうがよいと考え、建業より蜀地方に近い武昌に遷都したのではなかろうか。
 となると、わざわざ建業宮の不吉を遷都の口実にしたのは、おおっぴらに敵国を攻撃するつもりだと公言するわけにはいかないためと考えられる。また、迅速に遷都しなくてはならないはずであるから、前述の裴松之の注にある通りの突然の遷都にもなるというものである。造営にもあまり手を回していられなかったであろう。
 そして、結局、動乱の類は一切発生しなかった。『晋書』や『三国志』中、禅譲の前後に司馬氏に対して反旗を翻した者がいたという記述は無い。好機は実際には訪れずじまいであった。劣勢にある以上、好機が実際に発生しないことには手を出せない。武昌遷都四ヶ月後の宝鼎元年正月、呉の家臣である丁忠が、孫晧に対して、
  北方には防戦の具えがありませんから、弋陽は、不意を打って攻撃をかければ、手に入れることができます。(注76)
と説いた。さらに、劉簒が、
  もし敵にすきがあるのであれば、どうして見過ごしてよいものでしょう。間諜を遣って敵の情勢を窺わせられるべきであります。(注77)
と説いた。しかし、結局、
  孫晧は、心中では劉簒の意見を取りあげたいと思ったが、蜀が平定されたばかりであるところから、すぐにはそれを実行せずにいるうちに、そのままさたやみとなった。(注78)
という結果に終わった。晋を攻撃してはどうかという意見が出、孫晧もそれをとりあげたいと思ったものの、実行されずじまいに終わったのである。好機をうかがっていたもののそれが結局発生しなかったためであろう。
 こうなると、もう建業を離れている理由は無くなった。あるいは、前述の施但の反乱も、建業遷都のきっかけになったのかもしれない。もともと、武昌への遷都はかなり無理をしてのものであった。それに、その後数百年間にわたって建業が華南の首都でありつづけたということは、やはり武昌よりも建業の方が、首都たるに相応しかったのであろう。そういった理由から、武昌から建業へと首都が戻されたのではなかろうか。


  五 遷都の動機の背景

 では、どうして孫晧はこのような危険な軍事行動に出ようとしたのか。その背景を検証してみたい。
 前述の通り、陸凱が、皇帝孫晧に対し、遷都について家臣に諮ることがないままそれを実行してしまったと批判している。また、孫晧は、首都を武昌に移すことを決定した際、誰も反対しないように、家臣一人を惨殺している。このことから、この遷都は孫晧の独断によるところが大きいと考えられる。したがって、孫晧の思惑が遷都実施に大きな影響を与えた可能性がある。
 村田哲也氏の前掲論文でも述べられていることであるが、孫晧の即位は強固な基盤を持たないものであったため、孫晧は、即位と同時に人心掌握策をとり、さらに、即位後すぐ、先帝の功臣の排除や自らの親族の登用等、権力基盤の強化を目論んだ行動をとった(注79)
 孫晧は、廃されて太子の地位から追い落とされ、最後には自殺させられた父(注80)と、一騎兵の娘という生まれで側室の立場にあった母(注81)との間に生まれた。また、姻戚の滕氏は、族内の者が一族皆殺しに遭ったという一族であり、孫晧の妃の父も、その者との親戚関係が薄かったために殺されずに済んだものの、強制移住させられている(注82)。孫晧は、弱い立場にあり、後ろ盾のほとんど無い人物であった。
 このように、本来ならば到底皇帝になどなれそうにない立場にあったにもかかわらず、孫晧は、万ケや濮陽興・張布らによって擁立され(注83)、先帝孫休の太子であった孫を退けるという形で(注84)即位した。正統性の低い即位である。
 即位後の世論も、孫晧に対し批判的であった。『三国志』孫晧伝には、
  孫晧は、思いがかなって帝位に即くと、粗暴で驕慢となり、胆ったまが小さくて執念深く、酒や女色を好んだため、地位のある者もない者もみな失望をした。(注85)
とある。孫晧は人々みなから不評をかっていたのである。そのため、孫晧の立場は非常に危ういものであった。
 それ故、無用の政争を避けるためか、あるいは保身のためか、孫晧は自己の権力の強化を図った。孫晧は、即位直後、人道的政策をとって人心を掌握した(注86)。また、元興元年十一月、孫晧を帝位に即けたことを後悔していた濮陽興と張布を誅殺し(注87)、つづいて、甘露元年七月、先帝の皇后及び皇子を誅殺あるいは追放した(注88)。こうして、孫晧は、己を脅かす虞のある者を次々と排除していった。さらに、近親者である何氏や滕牧、そして寒門出身者を登用した(注89)。自分に従順であろう者を高位に就けることで、己の立場の安泰をはかったのである。これらは、権力強化策の一環であろう。
 こうした権力強化策が、一層の非難を呼んだ。『三国志』孫晧伝には、
  孫晧は、景后の朱氏をおいつめて殺した。朱氏が死んだのが正殿においてではなく、また御苑の中の小さな建物で葬儀が取り行われたことから、人々は朱氏の死が病気によるものでないことを知り、悲しみ痛まぬ者はなかった。(注90)
とある。孫晧の評判がさらに落ちていたことが推測される。己の立場を安泰にしようと躍起になって無茶をした結果、ますます己の立場を危うくしてしまったのである。
 こうした状況の中、孫晧は焦っていたであろう。そこへ、魏晋攻撃の好機が生じ得る情勢が現出した。近く魏が司馬氏へ禅譲を行うであろう気運が高まりつつあったのである。孫晧が、もしかすると生じるかもしれないこの機に乗じて蜀地方を獲得し、呉の危機を救うことで、己の権威を向上させようと考えたとしても不思議は無い。孫晧は、後ろ盾や正統性を欠いており、人々からの評判も悪かったために、何とか己の立場を安泰ならしめようと功を焦り、蜀獲得という軍事行動に出ようとしたのではなかろうか。
 当然ながら、蜀地方獲得による地位向上を図るなら、部将まかせにせず、自らが蜀地方獲得のための軍事行動の中心とならねばならない。皇帝自らが動く遷都という行動をとった理由には、蓋し、そのような要因もあったのであろう。

 では、どうしてこのような立場の弱い人物が皇帝にされたのであろうか。孫晧擁立時、既に、先帝孫休が立てた太子孫が存在していた(注91)。孫に何らかの問題があったという記述も無い。それにもかかわらず、孫は退けられ、孫晧が帝位に即けられたのである。一体、これは何故であろうか。
 一つ考えられるのが、太子孫が幼すぎたということである。孫は孫休の四人の息子のうちの一人であった(注92)。孫は朱氏が皇后に立てられるのと同時に太子に立てられた人物であり(注93)、しかもその際に紛擾が発生していないことから、孫の母親は皇后朱氏であると推測される。孫休は死亡時三十歳であった(注94)。そして、孫休が朱氏を妻としたのは彼が死亡する約十五年前である(注95)。断定はできないが、もしかすると、孫は幼かったのかもしれない。もしそうであれば、国難の迫る危機的な状況の下では、国君として戴いているのが幼君であってはやはり心もとないと判断された可能性がある。
 しかし、やはりここでも、政治的背景が大きく絡んできていよう。
 孫晧擁立の中心人物は、濮陽興及び張布である。はじめに孫晧を推薦したのは万ケだが(注96)、先帝の皇后である朱氏に対し孫晧を皇帝としたいと働きかけたのが彼らである(注97)ことから分かる通り、擁立活動の領袖となったのは彼らである。
 濮陽興と張布は、孫休統治下において最も有力な家臣であった。彼等の地位は、孫晧擁立当時で、濮陽興が丞相、張布が左将軍であった(注98)。彼等は、皇帝孫休の信任を得、国事を専らにしていた(注99)
 孫は、前述の通り、皇后朱氏の息子であろう。朱氏の父朱拠(注100)について、『三国志』朱拠伝冒頭に
  朱拠字は子範,呉郡呉人なり(注101)
と述べられている。このことから、朱氏の一族つまり孫の外戚は、呉の四姓の一つ朱氏であると推測される。仮に呉の四姓ではないにしても、有力な一族であったことに違いはあるまい(注102)。そして、孫の母の一族は、孫の後ろ盾につき、皇帝の外戚として権勢を振るっていくと考えられていたことであろう。もし孫が幼かったのであれば、余計である。
 もし、有力な後ろ盾を有する人物が皇帝となれば、その時点まで権力を掌握してきた濮陽興・張布と、新たに権力を掌握した皇帝の後ろ盾あるいは後ろ盾を味方に付けた皇帝との間に、利害の対立、政策の衝突、また、それによる政争が生じる可能性があると予測される。そして、後ろ盾が強力であればあるほど、濮陽興・張布側が後ろ盾側や皇帝側に敗北する可能性が高くなると予測される。己の利益のためであるにしろ、国家の利益のためであるにしろ、それは、濮陽興と張布にとって望ましからざる事態であるに違いない。現時点での最有力者である濮陽興と張布は、新たな権力者の出現を厭い、現状維持を志向したであろう。現状維持のためには、皇帝の後ろ盾にあまり有力な者に付かれては不都合である。立場が弱く、後ろ盾の無い者を皇帝とすれば、皇帝の後ろ盾や皇帝自身と利害や政策の衝突をきたす可能性は低くなるし、仮にそうなったところで、政争に敗北する虞は低減する。したがって、濮陽興と張布にとって、有力な後ろ盾を有する孫が皇帝となるより、後ろ盾の無い孫晧が皇帝となったほうが好都合である。彼らはそれ故に孫晧を擁立したのではなかろうか。もしかすると、濮陽興と張布が孫晧擁立を後悔した(注103)のは、孫晧であれば傀儡皇帝となると予想して擁立したものの、あてがはずれてしまったためかもしれない。濮陽興と張布は、自身が権限を掌握している現状を維持するため、弱い立場にあり後ろ盾の無い孫晧を皇帝としたのではなかろうか。


  おわりに

 以上、どうして甘露元年の武昌遷都及び宝鼎元年の建業遷都が行われたのかを考察してきた。まとめると、以下の通りである。
 永安六年、呉の同盟国蜀が魏によって滅ぼされた。呉は、蜀地方が敵国魏の領土と化したため、長江上流域からの侵攻に脅かされることとなった。
 その直後、呉の皇帝孫休が死亡した。時の最有力者であった濮陽興と張布は、新たな権力者の出現を避けるため、皇族のうち立場が弱く後ろ盾の無い人物を孫休の後継とした。こうして即位したのが孫晧である。孫晧は、後ろ盾や正統性を欠く上、即位後には世論からもそっぽを向かれていた。そこで、彼は、自己の権力を強化し、己の立場を保全しようと躍起になったが、成功しなかった。
 孫晧が焦りを感じていたちょうどその頃、魏国内の情勢は禅譲へと傾きつつあった。孫晧は、敵国に動乱が起こる可能性があり、もしそうなれば敵国を攻撃する絶好の好機であると考え、この機を利用して軍事上の成功を収めることで、己の権威を向上させようと図った。そこで、動乱につけ入って蜀地方を獲得しようと、蜀地方への侵攻を企図した。
 その利便のためには、蜀地方に首都を近づけておいたほうがよい。それ故、建業より蜀地方に近い武昌に遷都した。こうして、孫晧は、蜀地方侵攻に有利な態勢をとって動乱を待ち構え、攻撃の好機が訪れるのをうかがっていた。
 しかし、結局動乱は起こらず、蜀地方獲得の好機は実際には訪れずじまいであった。そのため、最早建業を離れる必要はなくなり、建業に首都を戻した。
 この二つの遷都から浮き彫りになったもの。それは、同盟国を失った呉の危機、現状維持を志向する有力者達の思惑、権威向上に躍起になる孫晧の焦燥である。当時の呉の情勢のごく一部を垣間見たに過ぎなくはあるが、これらを見出したところで、ひとまずは筆を置こう。


  

注1 張儐生『魏晋南北朝政治史』(中國文化大學出版部、一九八三)。
注2 岡崎文夫『魏晋南北朝通史』(弘文堂書房、一九三二)。
注3 村田哲也「孫呉政権後期政治史の一考察」(『東洋史苑』52・5
   3、一九九九)。
注4 渡邉義浩「孫呉政権の展開」(『大東文化大学漢学会誌』39、二
   〇〇〇)。
注5 張承宗・田澤濱・何栄昌等主編『六朝史』(江蘇古籍出版社、一九
   九一)。
注6 陳寿撰、裴松之注、井波律子・今鷹真・小南一郎訳『正史三国志』
   (筑摩書房、一九九二‐一九九三)。
注7 陳寿撰、裴松之注『三国志』(中華書局、一九五九)。
注8 房玄齡等撰『晋書』(中華書局、一九七四)。
注9 『文淵閣四庫全書電子版』(香港迪志文化出版有限公司、二〇〇〇)。
注10 『三国志』巻三十三蜀書三後主禅伝「六年夏,魏大興徒衆,命征
   西將軍ケ艾、鎮西將軍鍾會、雍州刺史諸葛緒數道並攻。(中略)冬,
   ケ艾破衞將軍諸葛瞻於綿竹。用光祿大夫譙周策,降於艾」。
注11 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「左典軍萬ケ昔爲烏程令,
   與晧相善,稱晧才識明斷,是長沙桓王之疇也,又加之好學,奉遵
   法度,屢言之於丞相濮陽興、左將軍張布。興、布説休妃太后朱,
   欲以晧爲嗣。(中略)於是遂迎立晧」。
注12 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「九月,從西陵督歩闡表,
   徙都武昌」。
注13 『三国志』巻六十五呉書二十王蕃伝注『江表伝』「乃西巡武昌,
   仍有遷都之意」。
注14 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「御史大夫丁固、右將軍
   諸葛靚鎮建業。(中略)晧至武昌,又大赦」。
注15 『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝「凱上疏曰:(中略)又夫王
   者之興,受之於天,脩之由コ,豈在宮乎?而陛下不諮之公輔,便
   盛意驅馳」。陸凱の遷都批判に建業宮の不吉を挙げて反論する孫晧
   に対し、陸凱が作成した上疏の一節である。
注16 『三国志』巻六十五呉書二十王蕃伝注『江表伝』「乃西巡武昌,
   仍有遷都之意,恐群臣不從,(中略)即於殿上斬蕃。出登來山,使
   親近將(跳)[擲]蕃首,作虎跳狼爭咋齧之,頭皆碎壞,欲以示威,使
   衆不敢犯也」。
注17 『晋書』卷二帝紀第二太祖文帝昭紀「秋八月辛卯,帝崩于露寢」。
注18 『晋書』卷三帝紀第三世祖武帝炎紀「泰始元年冬十二月丙寅,設
   壇于南郊,百僚在位及匈奴南單于四夷會者數萬人,柴燎告類于上
   帝曰:「皇帝臣炎敢用玄牡明告于皇皇后帝:魏帝稽協皇運,紹天明
   命以命炎。(中略)炎虔奉皇運,寅畏天威,敬簡元辰,升壇受禪,
   告類上帝,永答衆望。」」。
注19 『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝「晧徙都武昌,揚土百姓泝流
   供給,以爲患苦」。
注20 『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝「凱上疏曰:(中略)又武昌
   土地,實危險而塉确,非王都安國養民之處,船泊則沈漂,陵居則
   峻危,且童謠言:「寧飲建業水,不食武昌魚;寧還建業死,不止武
   昌居。」臣聞翼星爲變,熒惑作妖,童謠之言,生於天心,乃以安居
   而比死,足明天意,知民所苦也」。
注21 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「十二月,晧還都建業,
   衛將軍滕牧留鎮武昌」。
注22 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「從西陵督歩闡表,徙都
   武昌」。
注23 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝注『漢晋春秋』「望氣者
   云荊州有王氣破揚州而建業宮不利,故晧徙武昌」。
注24 『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝「又建業宮不利,故避之」。
   陸凱の遷都批判に対する孫晧の反論の一節である。
注25 『三国志』巻六十五呉書二十王蕃伝注『江表伝』「晧用巫史之言,
   謂建業宮不利,乃西巡武昌,仍有遷都之意」。
注26 『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝「又夫王者之興,受之於天,
   脩之由コ,豈在宮乎?」。陸凱の遷都批判に建業宮の不吉を挙げて
   反論する孫晧に対し、陸凱が作成した上疏の一節である。
注27 『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝注『江表伝』「臣聞爲人主者,
禳災以コ,除咎以義。故湯遭大旱,身禱桑林,熒惑守心,宋景退
殿,是以旱魃銷亡,妖星移舍。今宮室之不利,但當克己復禮,篤
湯、宋之至道,愍黎庶之困苦,何憂宮之不安,災之不銷乎?」。孫
晧の顕明宮造営を批判したが宮殿の不吉を理由に聴き入れられな
かったため、陸凱が為した再上疏の一節である。
注28 『三国志』巻六十五呉書二十華覈伝「昔太戊之時,桑穀生庭,懼
   而脩コ,怪消殷興。熒惑守心,宋以爲災,景公下從瞽史之言,而
   熒惑退舍,景公延年」。
注29 『三国志』巻五十呉書五妃嬪孫晧滕夫人伝「晧信巫覡」。
注30 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫休伝「皆浮船長江,賈作上下」。
注31 『三国志』巻四十七呉書二呉主権伝「權自公安都鄂,改名武昌」。
注32 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫亮伝注『呉録』「諸葛恪有遷
   都意,更起武昌宮」。
注33 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫亮伝には「雷雨,天災武昌端
   門;改作端門,又災内殿」とあり、それに対し、「孫權赤烏十年,
   詔徙武昌宮材瓦,以繕治建康宮,而此猶有端門内殿。吴録云:諸
   葛恪有遷都意,更起武昌宮。今所災者恪所新作」と注がつけられ
   ている。甘露元年当時も武昌に宮殿等の設備がある程度残ってい
   た可能性がある。もっとも、孫晧が「西宮室宇摧朽,須謀移都」
   (『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝より)と述べていることから、
   やはり整備が必要であったようではある。
注34 『世説新語』賞誉篇第八注『呉録』士林「吴郡有顧、陸、朱、張,
   爲四姓。三國之間四姓盛焉」。
注35 『三国志』巻二十八魏書二十八ケ艾伝「吴名宗大族,皆有部曲,
   阻兵仗勢,足以建命」。
注36 呉の四姓の隆盛については、大川富士夫「呉の四姓について」(『歴
   史における民衆と文化―酒井忠夫先生古稀祝賀記念論集―』酒井
   忠夫先生古稀祝賀記念の会編、一九八二)に詳しい。なお、この
   論文や岡崎文夫氏の前掲論文は、呉の初代皇帝孫権が建業に首都
   を置いた理由を、呉の四姓をはじめとする呉郡の大族達の掣肘を
   避けるためであるとしている。
注37 『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝「凱上疏曰:(中略)又武昌
   土地,實危險而塉确,非王都安國養民之處,船泊則沈漂,陵居則
   峻危,且童謠言:「寧飲建業水,不食武昌魚;寧還建業死,不止武
   昌居。」臣聞翼星爲變,熒惑作妖,童謠之言,生於天心,乃以安居
   而比死,足明天意,知民所苦也」。
注38 『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝「凱陳:「何定不可任用,宜
   授外任,不宜委以國事。(中略)」」。何定とは、孫晧の信任を受け、
   重用されていた人物である(『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧
   伝注『江表伝』「定,汝南人,本孫權給使也,後出補吏。定佞邪僭
   媚,自表先帝舊人,求還内侍,晧以爲樓下都尉,典知酤糴事,專
   爲威福。而晧信任,委以衆事」、『三国志』巻六十一呉書十六陸凱
   伝「時殿上列將何定佞巧便辟,貴幸任事」)。
注39 『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝「晧常銜凱數犯顏忤旨」。
注40 『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝「或曰寶鼎元年十二月,凱與
   大司馬丁奉、御史大夫丁固謀,因晧謁廟,欲廢晧立孫休子」。
注41 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「休薨,是時蜀初亡,而
   交阯攜叛,國内震懼,貪得長君」。
注42 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「冬十月,永安山賊施但
   等聚衆數千人,劫晧庶弟永安侯謙出烏程,取孫和陵上鼓吹曲蓋。
   比至建業,衆萬餘人」。
注43 前述の通り、村田哲也氏も、前掲論文中、この施但の反乱が建業
   への遷都の動機であるとしている。
注44 大川富士夫「三国時代の江南とくに揚州について」(『山崎先生退
   官記念東洋史学論集』山崎先生退官記念会、一九六七)
注45 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝注「今吴郡陽羨、永安、
   餘杭、臨水及丹楊故鄣、安吉、原郷、於潛諸縣,地勢水流之便,
   悉注烏程,既宜立郡以鎮山越,且以藩衞明陵,奉承大祭,不亦可
   乎!其亟分此九縣爲吴興郡,治烏程」。
注46 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫休伝「皆浮船長江,賈作上下」。
注47 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫休伝「甲申,使大將軍丁奉督
   諸軍向魏壽春,將軍留平別詣施績於南郡,議兵所向,將軍丁封、
   孫異如沔中,皆救蜀。蜀主劉禪降魏問至,然後罷」。
注48 『三国志』巻六十五呉書二十華覈伝「蜀爲西藩,土地險固,加承
   先主統御之術,謂其守御足以長久,不圖一朝,奄至傾覆。脣亡齒
   寒,古人所懼」。
注49 『三国志』巻五十八呉書十三陸抗伝「西陵、建平,國之蕃表,既
   處下流,受敵二境」。
注50 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「休薨,是時蜀初亡,而
   交阯攜叛,國内震懼,貪得長君」。
注51 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「晉文帝爲魏相國,遣昔
   吴壽春城降將徐紹、孫ケ銜命齎書,陳事勢利害,以申喩晧」。
注52 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝注『漢晋春秋』「于時猛
   將謀夫,朝臣庶士,咸以奉天時之宜,就既征之軍,藉呑敵之勢,
   宜遂回旗東指,以臨吴境」。
注53 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「甘露元年三月,晧遣使
   隨紹、ケ報書曰:「知以高世之才,處宰輔之任,漸導之功,勤亦至
   矣。孤以不コ,階承統緒,思與賢良共濟世道,而以壅隔未有所縁,
   嘉意允著,深用依依。今遣光祿大夫紀陟、五官中郎將弘璆宣明至
   懷。」」。
注54 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「寶鼎元年正月,遣大鴻
   臚張儼、五官中郎將丁忠弔祭晉文帝」。
注55 『三国志』巻五十一呉書六宗室孫奐伝注『江表伝』「初權在武昌,
   欲還都建業,而慮水道泝流二千里,一旦有警,不相赴及,以此懷
   疑。及至夏口,於塢中大會百官議之,詔曰:「諸將吏勿拘位任,其
   有計者,爲國言之。」」。
注56 『三国志』巻五十八呉書十三陸抗伝「西陵、建平,國之蕃表,既
   處下流,受敵二境。若敵汎舟順流,舳艫千里,星奔電邁,俄然行
   至,非可恃援他部以救倒縣也。此乃社稷安危之機,非徒封疆侵陵
   小害也」。
注57 『晋書』卷三帝紀第三世祖武帝炎紀「十一月,大舉伐吴,遣鎮軍
   將軍、琅邪王伷出涂中,安東將軍王渾出江西,建威將軍王戎出武
   昌,平南將軍胡奮出夏口,鎮南大將軍杜預出江陵,龍驤將軍王濬、
   廣武將軍唐彬率巴蜀之卒浮江而下,東西凡二十餘萬」、「復下詔曰:
   「(中略)大兵既過,荊州南境固當傳檄而定,預當分萬人給濬,七
   千給彬。夏口既平,奮宜以七千人給濬。武昌既了,戎當以六千人
   摯j(中略)」」。『三国志』巻五十八呉書十三陸抗伝にも、「天紀四
   年,晉軍伐吴,龍驤將軍王濬順流東下,所至輒克,終如抗慮」と
   ある。
注58 『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝「夫夏口,賊之衝要,宜選名
   將以鎮戍之」。
注59 前述の通り、張承宗氏・田澤濱氏・何栄昌氏らも、前掲書中、同
   盟国蜀が滅ぼされ、長江中流域の防備を固めなくてはならなくな
   ったために武昌遷都を行ったのであるとしている。
注60 『晋書』卷一帝紀第一高祖宣帝懿紀「及蜀將關丁。曹仁於樊,于
   禁等七軍皆沒,脩、方果降羽,而仁圍甚急焉。是時漢帝都許昌,
   魏武以爲近賊,欲徙河北」。この遷都案に対し、司馬懿が、孫権に
   関羽を攻撃させればよいと説いて反対している(『晋書』卷一帝紀
   第一高祖宣帝懿紀「帝諫曰:「(中略)孫權、劉備,外親内疏,
   之得意,權所不願也。可喩權所,令掎其後,則樊圍自解。」」)こと
   から、この「賊」は関羽のことを指すものと考えられる。
注61 『晋書』卷三帝紀第三世祖武帝炎紀「天子知暦數有在,乃使太保
   鄭沖奉策曰:「咨爾晉王:(中略)肆予一人,祗承天序,以敬授爾
   位,暦數實在爾躬。(中略)」」。ただし、この策命自体は、武昌遷
   都の後のことであり、武昌遷都に影響を及ぼしてはいない。
注62 『三国志』巻二十八魏書二十八諸葛誕伝注『魏末伝』「洛中諸賢,
   皆願禪代,君所知也。君以爲云何?」。
注63 『三国志』巻二十八魏書二十八諸葛誕伝注『魏末伝』「卿非賈豫
   州子?世受魏恩,如何負國,欲以魏室輸人乎?非吾所忍聞。若洛
   中有難,吾當死之」。
注64 ただし、裴松之は、『魏末伝』について「魏末傳所言,率皆鄙陋」
   (『三国志』巻二十八魏書二十八諸葛誕伝注)と批判している。
注65 『三国志』巻一魏書一武帝操紀注『三輔決録』注「時有京兆金禕
   字コ禕,自以世爲漢臣,(中略)覩漢祚將移,謂可季興,乃喟然發
   憤,遂與耿紀、韋晃、吉本、本子邈、邈弟穆等結謀」。
注66 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「若其有闕,庸可棄乎?」。
注67 『三国志』巻四魏書四三少帝高貴郷公髦紀「二年春正月乙丑,鎮
   東將軍毌丘儉、揚州刺史文欽反」。
注68 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫亮伝「二年春正月,魏鎮東大
   將軍毌丘儉、前將軍文欽以淮南之衆西入,戰于樂嘉。閏月壬辰,
   峻及驃騎將軍呂據、左將軍留贊率兵襲壽春,軍及東興,聞欽等敗。
   (中略)魏諸葛誕入壽春,峻引軍還」。
注69 『三国志』巻四魏書四三少帝高貴郷公髦紀「乙亥,諸葛誕不就徴,
   發兵反」。
注70 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫亮伝「五月,魏征東大將軍諸
   葛誕以淮南之衆保壽春城,(中略)六月,使文欽、唐咨、全端等歩
   騎三萬救誕」。
注71 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫休伝「二月,鎮軍〔將軍〕陸
   抗、撫軍〔將軍〕歩協、征西將軍留平、建平太守盛曼,率衆圍蜀
   巴東守將羅憲」。
注72 『三国志』巻五十四呉書九呂蒙伝「與關羽分土接境,知羽驍雄,
   有并兼心,且居國上流,其勢難久」。
注73 『三国志』巻五十三呉書八張紘伝注『献帝春秋』「權曰:「秣陵有
   小江百餘里,可以安大船,吾方理水軍,當移據之。」備曰:「蕪湖
   近濡須,亦佳也。」」。
注74 『三国志』巻五十三呉書八張紘伝注『献帝春秋』「吾欲圖徐州,
   宜近下也」。
注75 『三国志』巻五十三呉書八張紘伝注「秣陵之與蕪湖,道里所校無
   幾,於北侵利便,亦有何異?」。
注76 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「北方守戰之具不設,弋
   陽可襲而取」。
注77 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「若其有闕,庸可棄乎?
   宜遣闥ウ,以觀其勢」。
注78 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「晧陰納纂言,且以蜀新
   平,故不行,然遂自絶」。
注79 なお、渡邉義浩氏は、前掲論文中、孫晧は中央集権化を図り、世
   兵制の廃止や校事制度の復活、寒人の寵用といった君主権力強化
   の施策を行ったと指摘する。また、村田哲也氏も、前掲論文中、
   武昌遷都及び建業遷都の後のことについてではあるが、孫晧は中
   央集権的なあり方を強化しようとしていたと指摘する。
注80 『三国志』巻五十九呉書十四呉主五子孫和伝「權由是發怒,夫人
   憂死,而和寵稍損,懼於廢黜。(中略)權沈吟者歴年,後遂幽閉和。
   (中略)竟徙和於故鄣」、「太元二年正月,封和爲南陽王,遣之長
   沙」、「孫峻因此奪和璽綬,徙新都,又遣使者賜死」。
注81 『三国志』巻五十呉書五妃嬪孫和何姫伝「父遂,本騎士。孫權嘗
   游幸諸營,而姫觀於道中,權望見異之,命宦者召入,以賜子和」。
   また、「遂勸峻徙和居新都,遣使賜死,嫡妃張氏亦自殺」(『三国志』
   巻五十呉書五妃嬪孫和何姫伝)という記述から、孫晧の母何姫は、
   正妃ではなかったことが分かる。
注82 『三国志』巻五十呉書五妃嬪孫晧滕夫人伝「孫晧滕夫人,故太常
   胤之族女也。胤夷滅,夫人父牧,以疎遠徙邊郡」。
注83 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「左典軍萬ケ昔爲烏程令,
   與晧相善,稱晧才識明斷,是長沙桓王之疇也,又加之好學,奉遵
   法度,屢言之於丞相濮陽興、左將軍張布。興、布説休妃太后朱,
   欲以晧爲嗣。(中略)於是遂迎立晧」。
注84 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫休伝「立子爲太子」、『三国
   志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「封休太子爲豫章王」。孫は、
   孫休が皇帝であった時代に太子に立てられ、孫晧即位時まで太子
   であった。
注85 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「晧既得志,麤暴驕盈,
   多忌諱,好酒色,大小失望」。
注86 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝注『江表伝』「晧初立,
   發優詔,恤士民,開倉稟,振貧乏,科出宮女以配無妻,禽獸擾於
   苑者皆放之。當時翕然稱爲明主」。
注87 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「晧既得志,麤暴驕盈,
   多忌諱,好酒色,大小失望。興、布竊悔之。或以譖晧,十一月,
   誅興、布」。
注88 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「秋七月,晧逼殺景后朱
   氏,亡不在正殿,於苑中小屋治喪,衆知其非疾病,莫不痛切。又
   送休四子於吴小城,尋復追殺大者二人」。
注89 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「封后父滕牧爲高密侯,
   舅何洪等三人皆列侯」。『三国志』巻六十一呉書十六陸凱伝「時殿
   上列將何定佞巧便辟,貴幸任事」。「時」とは、陸凱が武昌遷都を
   批判した頃を指す。何定とは、元は孫権の側仕えであったが、孫
   晧の信任を受け、重用された人物である(『三国志』巻四十八呉書
   三三嗣主孫晧伝注『江表伝』「定,汝南人,本孫權給使也,後出補
   吏。定佞邪僭媚,自表先帝舊人,求還内侍,晧以爲樓下都尉,典
   知酤糴事,專爲威福。而晧信任,委以衆事」)。
注90 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「晧逼殺景后朱氏,亡不
   在正殿,於苑中小屋治喪,衆知其非疾病,莫不痛切」。
注91 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫休伝「立子爲太子」、『三国
   志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「封休太子爲豫章王」。孫は、
   孫休が皇帝であった時代に太子に立てられ、孫晧即位時まで太子
   であった。
注92 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫休伝注『呉録』「休詔曰:「(中
   略)孤今爲四男作名字:太子名(中略)」」。
注93 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫休伝「乙酉,立皇后朱氏。戊
   子,立子爲太子」。
注94 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫休伝「休薨,時年三十」。
注95 『三国志』巻五十呉書五妃嬪孫休朱夫人伝「赤烏末,權爲休納以
   爲妃」。孫休が朱氏を妻としたのは赤烏の末年、赤烏年間は二三八
   年から二五一年、孫休が死亡したのは二六四年である。
注96 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「左典軍萬ケ昔爲烏程令,
   與晧相善,稱晧才識明斷,是長沙桓王之疇也,又加之好學,奉遵
   法度,屢言之於丞相濮陽興、左將軍張布。(中略)於是遂迎立晧」。
注97 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「興、布説休妃太后朱,
   欲以晧爲嗣。(中略)於是遂迎立晧」。
注98 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「丞相濮陽興、左將軍張
   布」。孫晧擁立についての記述の一節である。
注99 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫休伝「休以丞相興及左將軍張
   布有舊恩,委之以事,布典宮省,興關軍國。休鋭意於典籍,欲畢
   覽百家之言,尤好射雉,春夏之間常晨出夜還,唯此時舍書」。
注100 『三国志』巻五十呉書五妃嬪孫休朱夫人伝「孫休朱夫人,朱據女」。
注101 『三国志』巻五十七呉書十二朱據伝「朱據字子範,吴郡吴人也」。
注102 『三国志』巻五十七呉書十二朱據伝「權遷都建業,徴據尚公主,
   拜左將軍,封雲陽侯」。朱拠は皇室と姻戚関係を有し、高位に就け
   られていた。
注103 『三国志』巻四十八呉書三三嗣主孫晧伝「晧既得志,麤暴驕盈,
   多忌諱,好酒色,大小失望。興、布竊悔之」


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