2004年10月15日
ビザンツ宗教外史 コプト教会史  ライカーカ゛ス


@はじめに
 4,5世紀のキリスト教の布教、神学の発展と教派の分裂、離脱といった運動は、いわゆる五大教会、即ちローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムを中心に展開された。
 コンスタンティノープルとローマは、主にローマ帝国における政治上の中心地であったので、キリスト教界における表面上の主導権争いに奔走したが、キリスト教神学の発展に関してはむしろ東方のアレクサンドリアやアンティオキアで盛んだった。キリスト教世界の統一をめぐって多くの神学者が争った全地公会議において、異端とされる側も、また正統であるとされた側も、みな東方教会の出身者、あるいは東方教会におけるある学派の信奉者であったのだ。この事実は、元々キリスト教というものの起源が、ヨーロッパではなく、これらオリエントにあったという事を如実に物語っている。
 今回は、エジプトとその周辺でキリスト教がどのような歴史をたどったのかについて簡潔に記す。


Aエジプトのキリスト教
 キリスト教は、エジプトにおいては1、2世紀ごろに布教を開始した様だ。1945年に発見されたナグ・ハマディ文書(注1)は、この地で少なくとも2,3世紀にはキリスト教の神学が発展し、教派の分裂に伴う、教義論争と異端の迫害が行われていたことを示すものである。またエピファニオスやエイレナイオスといった異端を記録した者たちの記録によると、1,2世紀のキリスト教会内部で問題となっていた、キリスト教の最初にして最大の異端とされるグノーシス主義の最初期の指導者であったウァレンティウスやバシリデス等はみなエジプト出身であったとされる。
 エジプトのキリスト教徒は、他の地域のそれと同様に、4世紀初期に至るまで帝国による断続的弾圧を受けた。特にエジプトでは、コンスタンティヌスによるキリスト教公認以後も、東方で弾圧を継続しつづけたマクシミアヌス=ダイアによって迫害された。実際、キリスト教徒の殉教者が最も多く出たのはエジプトにおいてだったと言われる。しかしそれにも関わらず、(あるいはその為というべきか)キリスト教はこの地で根強く発展し、この後のキリスト教史において重要となるいくつかの要素がここから現れた。

 この地でキリスト教は、主にアレクサンドリアにおいて、ギリシア語を用いて表現される知識人階層のキリスト教と、ナイル上流河畔に成立し、コプト語を用いて表現される、主として農民階層に支持されたキリスト教とに区別することができる。
 アレクサンドリアでは、聖書の解釈学が発達し、いわゆるアレクサンドリア学派が形成された。アレクサンドリア学派からはキリスト教史上最初のフマニストとされるクレメンス、初期キリスト教の根本的分裂を孕む問題を引き起こしたアリウス(注2)、それを異端として排除すべく論戦を行った「正統派」のキリスト論者達やひいては今日まで続くカトリック普遍とオーソドックス正統のキリスト教徒達の思想的基盤をなしている三位一体説を提唱した(注3)アタナシウスなどの、初期キリスト教における逸材を輩出した。
 一方でアレクサンドリア以外の地域ではキリスト教以前から存在する禁欲主義的志向と、原始キリスト教団へ回帰せんとする志向が相まって、修道思想が形作られ、多くの修道士が現れた。修道ははじめ、1人で無人の地に瞑想する陰修士達によってなされたが、その後パコミウスの修道院建設を始めとして、自給自足による集団生活を基礎として、厳格な規則のもとに修行を行う者も現れた。修道士達は修道生活の内で様々な書物をコプト語(注4)で記し、コプト文学を成立させた。また修道士達はさまざまな神学的思想を生み出し、アレクサンドリアの神学者達に大きな思想的、政治的影響力をもった。また修道院はアレクサンドリアの神学者達の拠点となり、後には修道士達が武装し、僧兵のような存在となることもあった。修道思想はエジプトだけにとどまらず、その生活と修行の形式はシリアをとおってローマにまでもたらされた(注5)

 エジプトのキリスト教はこの様に5世紀末まではキリスト教世界全体の中でも極めて強い力をもっており、実際に教義論争においてはアレクサンドリア教会に常に有利に展開していたが、6世紀に入るとローマやコンスタンティノープルに独立した学派が形成され、アレクサンドリア学派の影響力が急激に低下すると共に、ビザンツ皇帝がローマ教皇への宥和政策を取って、アレクサンドリアへ対抗する姿勢を見せるようになった。451年のカルケドン公会議においてアレクサンドリア司教ディロスコロスの思想が異端であるとされるに及んで、エジプト教会はビザンツ帝国教会から分裂した(注6)。ビザンツ皇帝はカルケドン信条を奉ずる司教をアレクサンドリアに擁立し、コプト側がこれに対し司教を立てたことで、エジプトでは二司教が対立する時代が続いた。ビザンツはエジプトを懐柔する為に様々な手段をとった(注7)が、コプト側は断固としてこれを拒否し続けた。コプトの僧侶達の一部は僧兵としてコプト側の司教の守衛隊となったり、皇帝派や異教徒の思想家を虐殺したり、皇帝の軍隊と武力衝突を繰り返したりした。
 639年、アラブ人がエジプトに侵入し始めると、多くのコプトのキリスト教徒たちは彼らを解放者として迎え入れ、アラブに協力してビザンツの軍隊と戦った(注8)。アラブ人は641年にエジプトの支配権を確立したが、概して彼らはコプト人に対して少なくとも宗教的には寛容な政策をとった(注9)。こうしてコプトは法的な安定を得ることができた。その一方でアラブ人達は他のズィンミーと同様に人頭税を課した。彼らはイスラームに改宗すればこの課税を免れることができたので、コプト貧民の多くは次第にイスラーム化していった。こうして今日ではエジプト内部においてコプト教徒は総人口の1割にまで減少したが、この様な背景からそれは知識人階層に多くいるため、エジプトの政治に影響力を依然として強く保持している様だ。(注10)


B注について
注1> 1945年にエジプトの町ナグ・ハマディで見つかった52の文書からなる、コプト語で書かれたパピルス諸本で、『真理の福音書』や『トマス福音書』をはじめとするグノーシス主義の諸文書、プラトンやユダヤ教徒や非キリスト教グノーシス派の著作の翻訳を含む。
注2> 彼は、一度はニケヤ公会議において異端を宣告されたが、その政治的影響力の絶大さから破門を解かれ、死ぬまでコンスタンティヌス帝の顧問役として活躍した。
注3> 彼はニケヤ公会議の時はアレクサンドリア大司教のアレクサンドロスの補佐役に過ぎなかったが、その後アリウス派が再び台頭してから三位一体説を提唱した。それが正式にキリスト教の正統とされたのはコンスタンティノープル全地公会議においてである。
注4> ギリシア文字で書かれた(より正確にはいくつか異なる文字も含まれる)古代エジプト語で、ヘレニズム以降、エジプト人の日常会話や典礼の時に用いられた。エジプトへのイスラームの浸透に伴い衰退し、今ではコプト教徒の典礼の時にしか使われていない。
注5> エジプトの修道思想をシリアにもたらした人物としてバシレイオス、さらにヨーロッパに持ち込んだ人物としてヒエロニムスが知られている。(彼はギリシア語で書かれた聖書をラテン語に翻訳した人物としても知られる。)
注6> この時のエジプトやシリア教会の立場をカトリックや正教では異端の意をこめて、単性説と呼ぶが、無論、今日でもコプト教会はカルケドン信条を認めず、それを異端であるとしている。
注7> 単性説をとるコプト教会らの懐柔のためにさまざまな政策や教説がとられたが、そういった教説もまたキリスト教多数派から非難を受け、公会議で異端とされることもあった。
注8> 当時のコプト派の知識人曰く、
「私はわがアレクサンドリアの都にいて、異端の徒が惹き起こした困難と迫害の後で平和と安全の時を見出した。」
注9>もっとも、コプト教徒も税金がきびしければ反乱を起こしたし、イスラームも時の政権の政策によっては迫害されることもしばしばあった。特に11世紀前期にはシーア派のハーキムによって大迫害がなされたという。
注10>例えば元国連事務総長ガリはコプト教徒であると言われている。


C参考文献
「オリエント史講座3 渦巻く諸宗教」 前嶋 信次他 編/学生社
「キリスト教史2 教父時代」 H・I・マルー 著/上智大学中世思想研究所 編訳/平凡社
「キリスト教史3 中世キリスト教の成立」 M・D・ノウルズ他 編/上智大学中世思想研究所 編訳/平凡社
「異端事典」 C・S・クリフトン 著/田中 雅志 訳/三交社


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