2004年11月20日
ビザンツ帝国史  会員一同(文責:田中愛子)


<はじめに>
 ギリシア史といえば一般に思い浮かぶのは、アテネなどの古代都市国家であろう。だが、ギリシア史はただ都市国家時代のみではない。ギリシアはその後も二千年間、世界史上に存在感を示し続けた。殊にビザンツ帝国は、ギリシア史上古代マケドニア帝国に次ぐ国家規模に達し、千年の長きを誇った。ビザンツ帝国こそギリシア史の最も偉大なる時代ともいえよう。そのビザンツ帝国の歴史――ビザンツ帝国の形成・発展より滅亡に至る全過程――を、ギリシア的国家としての再生から十字軍によるコンスタンティノープル陥落までを中心に、概観する。


<前史 地中海世界の崩壊――ローマ帝国の解体――>
 3世紀、ローマ帝国は衰退の時代を迎えていた。商業が停滞し、経済状態は低迷の一途をたどった。さらに、経済状況の悪化及びそれに伴う国力低下により、内乱や外冦が相次いだ。経済状況悪化の原因には諸説あるが、地方の成長による自給自足化等が挙げられる。この衰退の度合いには、地域により差があった。ヨーロッパ地方が没落してゆく一方、4世紀にコンスタンティヌス帝により建都されたコンスタンティノープルをはじめとするオリエント地方は繁栄を維持していた。先進地域であり、活発な経済活動を行っていたオリエント地方と、後進地域であったヨーロッパ地方との、根本的な経済力の差が原因である。
 多難な時代にあって、広大な版図を支配力の低下した中央政府一つで統治することは困難であった。そこで、ディオクレティアヌス帝の四分割統治以降、たびたび東西二人の皇帝が設けられるようになり、次第にそれが定着していった。帝国の支配力の低下は、ゲルマン民族の台頭をも許した。それは特に弱体化の激しかった帝国の西半で顕著であり、いくつものゲルマン国家が建設され、やがてそれらの国家は帝国の支配を離れていった。
 経済停滞による広域交渉の減少やローマ帝国西半の自立化により、地中海世界は崩壊した。ユスティニアヌス帝による地中海周辺地域の再統一が一時的なものに過ぎなかったことも、それを表している。


<前期 集権国家の時代――ギリシア的国家への転身と皇帝専制――>
 6世紀末から、スラブ人をはじめとする諸民族の侵入が激化、定住が進行し、バルカン半島がスラブ化された。また、7世紀前期から、アラブが帝国に対する侵攻を開始、帝国からエジプトやシリア・パレスチナ等の地域を奪取した。アラブは、帝国にとって大きな脅威となった。
 外冦のため国内は混乱した。中央政府が弱体化し、諸制度が機能しなくなった。産業・商業が衰退し、都市は要塞都市化した。土地制度が解体し、小土地所有農民からなる閉鎖的な村落共同体が形成された。7世紀以降、この村落共同体が、徴税等、国家による支配の基本単位とされた。
 激しい外冦の中、地方単位で編成された軍の長官に行政権と防衛の任が委ねられるようになった。中央政府には、もはや軍の長官が行政権を掌握するのをとどめる力も、彼らを廃した後自らが国家を防衛してゆく力も無かったし、何より、相次ぐ外冦と中央政府の弱体化という状況の下では、この方法が国土の防衛と国内の統治に最も効率のよい方法であったためである。これが、テマ制である。
 領土喪失の結果、帝国の領土は小アジアとバルカン半島沿海部のみとなった。この版図は、国力に見合い、従来に比べて等質性が高く、維持しやすい版図であった。また、版図がこの地域に絞られたことにより、ヘラクレイオス帝のギリシア語公用語化に見られるように、帝国のギリシア化が進んでいった。「ローマ帝国」という意識をまだ残してはいたものの、帝国は、ローマ帝国からギリシア的国家への転身を遂げたのである。

 8世紀になると、アラブの侵攻は収束し、帝国は平和を回復した。平和の回復により国内が安定、生産力が向上し、経済活動が活発化した。平和回復後、混乱により機能しなくなっていた国家体制の再建に力が注がれた。テマの権限縮小と行政単位化、官僚制・身分制の整備、法整備等が行われ、皇帝を頂点とする中央集権体制が樹立された。


<後期 封建国家の時代(前)――集権体制の動揺そして封建化――>
 生産の向上、経済活動活発化により、農民間での階層分化が進行、多数の農民が没落した。没落した農民は、土地を手放し、有力者の下へ逃亡した。有力者は、彼らの土地を入手し、また、彼らを隷属農民として抱え、地代を徴収した。没落農民と彼らの土地の兼併を進めた有力者は、強大化していった。一方、それに伴い、皇帝権は弱化していった。
 11世紀、有力者間での権力抗争が続き、内乱が頻発した。抗争に勝利して帝位に就いた者は他の有力者を押さえようとし、それに反抗してまた有力者が抗争を起こす、といったことが繰り返された。内乱を収拾し安定をもたらすだけの力を持った者は無く、国内は混乱した。
 こうした中、セルジューク=トルコの侵攻はじめ外冦が激化した。国内の混乱と外冦という危機を前にして有力者達は結束し、アレクシオス1世を中心とする新たな政権を生み出した。

 新政権は、有力者の連合政権であり、彼らの利害を反映した政権であった。彼らの権益、特に土地・人民の私有を追認し、彼らに帝国を支持させることで、帝国を維持しようとした。プロノイア制はその一環であるといえよう。こうした有利な条件の下、有力者達は成長し、封建領主化していった。


<後期 封建国家の時代(後)――滅亡へ――>
 封建領主化した有力者達は自立し、帝国は分裂、内乱が相次いだ。帝国維持の試みは、失敗に終わったのである。この時代、ジェノヴァ等イタリア商業都市が台頭、地中海貿易に進出するとともに、帝国内でも数々の特権を保有し、帝国の経済を脅かした。こうした背景の下、帝国は衰退の一途をたどっていった。
 11世紀から十字軍の遠征が始まった。教皇やイタリア諸都市をはじめ、十字軍にまつわる者たちには様々な思惑があった。その思惑の中には、帝国を狙いとするものもあった。
 1204年、第4回十字軍によってコンスタンティノープルが攻撃され、陥落した。

 コンスタンティノープル陥落後、帝国の残存勢力は各地に地方政権を築いた。1261年、そのうちの一つニカイア帝国が、コンスタンティノープルを奪回した。しかし、かつての帝国の地は戦乱のためにすっかり荒乱していた。
 14世紀初め、オスマン=トルコが帝国に対する侵攻を開始した。帝国は西欧諸国やローマ教皇らに譲歩策をとり救援を求めるが、ついに得られることはなかった。1453年、オスマン=トルコによりコンスタンティノープルが陥落、ビザンツ帝国は滅亡した。

 こうして、ビザンツ帝国は滅亡した。しかし、その内に保たれていた古典古代文化の遺産は、次代のルネサンスへと引き継がれてゆくのである。


  参考文献
井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店,1982
井上浩一・栗生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』(世界の歴史11)中央公論社,1998
ゲオルグ=オストロゴルスキー著,和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社,2001
F.ティンネフェルト著,弓削達訳『初期ビザンツ社会 構造・矛盾・緊張』岩波書店,1984
尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会,1999
根津由喜夫『ビザンツ幻影の世界帝国』講談社,1999
米田治泰『ビザンツ帝国』角川書店,1977
ポール=ルメルル著,西村六郎訳『ビザンツ帝国史』白水社,2003
渡辺金一『ビザンツ社会経済史研究』岩波書店,1968


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