2004年11月20日
ビザンツ文化史  NF


@ はじめに
ビザンツの文化といえば教会建築やそれを彩る聖像を思い浮かべる人は多いと思う。しかしそれ以外の文化については知られていないように思われる。今回、ビザンツの文化についての概要を調べてみたい。

A 前史(古代後期、「東ローマ帝国」の時代)
地中海世界を支配したローマ帝国は、東西に分裂した以降も7世紀ごろまでは東の領域においては専制的な中央集権体制の維持に成功していた。このころは、ローマ時代から引き続き競馬等の競技・演劇といった見世物が政府から市民に提供されていた。こうした見世物は党派が分かれて意思表示をする政治的な集会の場でもあったのである。この頃はエジプト等の穀倉地帯を支配下に置いており、市民たちに「パンとサーカス」を提供することができた。またユスティニアヌス帝が絢爛で壮大な聖ソフィア大聖堂をコンスタンチノープルに築いたのもこのころのことである。強固な支配を誇る政府による文化の主導が当時はまだ可能であったのだ。

B 中世
地方の自給自足傾向が進んで商業が衰退し、政府の集権的支配が弱まっていたところに、7世紀以降、イスラムやスラブ人などの外部勢力からの攻撃を受け、ビザンツ国内は混乱、文化的活動は長らく低迷する。
しかし秩序を建て直したビザンツでは、9世紀中ごろより古代ギリシア文化の復興が盛んに行われるようになった。哲学書・数学書などの注釈が行われ、著名な学者としては哲学・歴史・文学の編纂を行い「文庫」に纏め上げたフォティネスや数学者のレオンがこのころの学者として知られている。中でもレオンは当時の宮廷から技術者としても評価されている。他にも聖人伝をものしたシメオンやメタフラステス、数学者・詩人として知られたヨアネス、「続テオファネス年代記」の著者であるプセロス、叙事詩を得意としたディゲネスやアクリタスがこのころに活躍している。また当時の皇帝コンスタンティノス7世も文化人として知られ「帝国統治論」「軍管区」「ビザンツ宮廷の儀礼」といった著作を残している。このころの文人の活動は古典注釈・技巧的な詩・儀礼研究(いわゆる有職故実)が中心であり、教養ある知識人により育まれたものであった。
この当時の文書には小文字体に書き直し、句読点をつけて読みやすくするなどの工夫がなされている。それは、わが国の平安文化において、漢籍に返り点をつけよみやすくしたり、カタカナの送り仮名をつけることで漢籍を日本語文として理解できるようにした事例を髣髴とさせる。またコンスタンティノス9世により都に哲学・法律の学校が設けられ、こうしたギリシア文化を中心とした教育が行われていた。一方同じ頃にローマ帝国時代の法律の編纂・整理も行われている。知られたところではバシレイオス1世の「提要」「法律入門」やレオン6世の「バシリカ」が挙げられる。これもやはり平安時代のわが国で律令に伴う追加法を格式として編纂していた事実を連想させる。
ビザンツの歴史を通じてその文化の中心は古代ギリシア文化の模倣であった。ビザンツ絵画が平面的で独創性・写実性・個性に欠けているのは、神の定めた普遍の秩序を描き出すために、あえてそうしているのだといわれているが、学問においてもそうした性格は共通しているといえる。ビザンツ末期、ますます古代ギリシア文化はさかんとなり、ミカエル8世・マヌエル2世ら学問好きの皇帝も多く出現した。地中海の小国に転落し滅亡が不可避となる中で、そうした現実から目をそむけようとした一面があったのかも知れぬ。その中で自分たちはギリシア人であるという自覚がビザンツの知識人たちのなかで強まっていった。また、このころには俗語を用いた娯楽読物が散見されるようになる。中でも「ベルタンドロスとクリュサンツァ」は皇后選びの美人コンテストを題材にした恋愛・冒険の物語として知られる。読み書きが可能な階層に限られたものではあったが、現世中心的な娯楽文化の姿が現れつつあったのである。

C おわりに
商業が発達し再び地中海世界が、地域別の自給自足から、広い範囲での貨幣経済へと発展しようとする過程において、ビザンツはその主導権をベネチアなど外来勢力に握られることとなった。またそうした中でかろうじて命脈を保っていたビザンツは、オスマン帝国によりその歴史を絶たれる。ビザンツは近世を目の前にしてその幕を閉じた。そのため貨幣経済により力をつけた都市民衆主体の娯楽文化は、ついにビザンツにおいては花を咲かせることはなかったのである。

D 参考文献
世界の歴史11 ビザンツとスラブ 井上浩一・粟生津猛夫 中央公論社
ビザンツ帝国史 ポール・ルメルル著 西村六郎訳 白水社


2004年度例会発表一覧に戻る
2004年度11月祭発表に戻る
西洋史に戻る
文化史に戻る

inserted by FC2 system