2004年11月20日
分裂する東西キリスト教会  ライカーカ゛ス


@はじめに
 ビザンツ帝国の正教の歴史はビザンツ皇帝と、西方のローマ教会との協調と対立の繰り返しの歴史である。正教は極めて保守的な傾向をもった宗教であると同時に、正教の教会組織は帝国の政治機構から完全に独立した存在ではなかった。それは帝国の統治の拡大には正教の宣教師が異民族を改宗させ、彼らをビザンツの文化面から同化させていくことが重要だったからだ。また、ビザンツ帝国そのものが地上における神の国であって、帝国の拡大はキリスト教の布教の拡大でもある、という意識をビザンツの皇帝を始めとするビザンツの文化人達が持っていたために、西ヨーロッパのカトリックにおける様な聖と俗の徹底した分離が起こることはありえなかったのだ。正教会は基本的にビザンツ帝国の政策に協調していたし、ビザンツ帝国も正教会の布教を強く支援した。しかし時にはビザンツ帝国は正教の布教の手法やその儀式に強く干渉し、正教会もビザンツ帝国の政策に反発することがあった。従って今回のレジュメにおいては、ローマ教皇を中心とする西方教会、コンスタンティノープル総司教を代表とする東方教会、そしてビザンツ帝国の「キリスト教的」皇帝という三者の関係(後にはフランク王国も含め四者間の争いとなる)を中心に簡潔にまとめることにする。

Aローマとコンスタンティノープルの台頭
4世紀半ばにローマ帝国内で公認されたキリスト教は、4〜6世紀を通して順調な発展を遂げた。キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝に始まり、彼以後のキリスト教教育を受けたローマ皇帝達は(無論それには東ローマ皇帝も含まれる)、ユリアヌス帝等の一部の皇帝を除いてキリスト教を厚く保護し、異教徒を弾圧、あるいは異教徒に不利な政策を実施した。そして遂に、381年、テオドシウス帝の時にキリスト教がローマ帝国の国教となると、キリスト教の布教を妨げる法的・物質的な要因はいっさい取り除かれ、キリスト教は布教範囲を大きく拡大した。拡大したキリスト教世界を統治するために、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムに大司教区が置かれ、それぞれの都市でいくつかの学派が発生した。
しかし布教範囲の拡大によって、必然的にキリスト教は他の文化や宗教の世界観の影響を受けることになる。キリスト教の神学者達は、信条の正当性を守り、統一性を高める為に数世紀にわたって教義論争を行った。特に東方においては他の宗教や文化の影響を強く受けた教派が勢力を強める傾向が強く、統一性に欠けた。多数派のキリスト教派は、時にはこれらの異端に妥協する事もあったが、結局それらの教派はニケヤ公会議を始めとする、7回にわたって行われた全地公会議を通して異端として廃絶された。この様な全地公会議は、当時はローマ皇帝が主催し、会議の趨勢に対して、直接的にも間接的にも強い影響力を持っていた事は注目すべき事実である。キリスト教会の中に十分な支配機構が育っていなかった当時において、彼らローマ皇帝はただ宗教界に政治的な影響力を持つのみならず、キリスト教の権威者として自らキリスト教における論争に積極的に参加していたのだ。
また、6世紀に入ると、それまで多数の神学者を輩出することでキリスト教世界において大きな影響力を保持していたアレクサンドリアやアンティオキアに代わり、政治的にも重要な位置を占めるローマとコンスタンティノープルが、当時アレクサンドリアで支配的な教説となっていた単性説を異端と決定づけたカルケドン公会議を切っ掛けとして、キリスト教世界における主導権を持つようになった。この時代、ローマとコンスタンティノープルは、キリスト教世界の首長権をめぐって小規模の論争を行っていた。また、単性説という異端を廃絶するか妥協するかについての争いで、一時的にヨーロッパのキリスト教世界の統治が形式的に東西に分裂したこともあった。しかしながら、4世紀から6世紀にかけては全般的にローマとコンスタンティノープルの関係は良好で、キリスト教世界は統一を保つことができた。しかし、こうした中で、東方ではギリシア文化の影響を受けたキリスト教知識人が、一方西方ではラテン文化を教養とするキリスト教知識人が育つ土壌が形成されたことは見逃せない事実である。

B特に聖画像論争について
4世紀から6世紀にかけて順調な発展をとげたキリスト教は、7世紀に入り、アラブ人とスラヴ人がヨーロッパ世界を圧迫し始めたことで調和を崩し始めた。
アラブ人の侵入によりビザンツ帝国の支配地域が後退し、アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリアがイスラーム帝国の支配下に落ちた。一般的に三位一体説になじまず、単性説を信奉していたこれらの大教会が失われたことは、かえってコンスタンティノープル大司教区の東方支配の安定をもたらした。
一方スラヴ人の中部・東部ヨーロッパへの侵入は、キリスト教世界の東部と西部を物理的に断絶し、ビザンツ帝国のローマ教皇座への影響力を決定的に弱めた。また、スラヴ民族をどちらの教会が教化し、その影響下に置くか、という問題が8世紀から浮上する東西間の争いの大きな火種となる。
また、東方キリスト教世界においては、当時布教の為に用いられ、大衆的な崇拝の対象となっていた聖像(イコン)を偶像と見なし、それを崇拝する者を異端とする教派が小アジアに一定の勢力を持つようになった。帝国の統治機構の内部での権力を次第に増し、大きな政治勢力となった教会を従属させるために、726年、レオン3世はそれら聖像破壊論者を強く支持し、聖像破壊を積極的に推し進め、反対勢力を法的に厳しく取り締まり始めた。レオン3世の子、コンスタンティヌス5世は754年にコンスタンティノープルにおいて公会議を招集し、聖像崇拝論者を公式に異端とし、さらに激しい弾圧を行った。この間帝国の辺境地域(クリミアなど)に逃げ、抵抗した聖像崇拝論者達はその後勢力を盛り返し、787年の公会議で、754年の公会議の決定を無効とし、聖像破壊論者は異端とされた。しかし聖像破壊論者の勢力はその後も残存し、一時は破壊論者がイニシアチブを再び奪取することもあったが、最終的には崇拝論者が勝利を収め、破壊論者の書いた書物や記録は全て焼却された。
結果として聖像破壊論争は、かえって東方教会において聖像崇拝の傾向を強めることになり、この後にビザンツ帝国では聖像美術が大きな発展を遂げる要因とさえなった。またこの論争を通じて、ローマ教皇は一貫して聖像崇拝賛成の立場をとり、ビザンツの聖像崇拝論者たちを援助した。その為、レオン3世はローマ教会を敵視し、いくつかの管区を奪い、コンスタンティノープルの管轄下に置いた。こうした処置に対抗するために、ローマ教皇は当時西欧の有力な新興勢力であるフランク王国と手を結び、ビザンツ帝国と袂を分かった。こうしてローマ教会と正教会の間には政治レベルでの断絶が生じた。しかし、この時点ではまだ教義レベルでの対立は現出していなかった。依然ローマ教皇はキリスト教世界の中で教義的には最高の存在であり、コンスタンティノープルの大司教はこれに緩い教義上の従属をなしていたのである。事実9世紀に、いわゆるキリル文字の基となったグラゴール文字を使った古代教会スラヴ語を創案し、スラヴ民族の布教に尽力したキュリロスとその兄メトディオスが、モラヴィアおよびパンノニアの布教を行う際、フランク王国の司教と対立した時に、ローマ教皇ニコラウス1世はその和解を買って出た。ビザンツ正教会はローマの司教座が他の全ての教会に対して絶対的な権限をもつ事は認めなかったものの、首位権の存在を承認し、教皇はキリスト教世界における第一の司教であるということを認めていたし、ローマ教皇は政治的にはフランク王国の保護下に入ることになったとはいえ、フランク王国に権威的に圧倒されないようにする為には、この頃はまだまだビザンツの正教会の力を必要としたのである。しかし、こうした政治レベルでの断絶は、ローマ教会とビザンツ正教会との文化的相違をますます大きなものにしていくことになる。

C最終的分裂
10世紀から11世紀にかけて、西ヨーロッパでローマ・カトリックの権威が絶対的なものになると、三位一体説に関するローマ教皇とビザンツ正教会との解釈における論争、いわゆる<フィリオクエ(また御子から)論争>を発端として、典礼上、教義上、教会機構上、布教上における東西の教会のあり方の違いに関する問題が噴出した。そして遂に1054年、教皇レオ9世の特使フンベルトゥスは聖ソフィア大聖堂においてコンスタンティノープル大主教ミカエル・ケルラリオスを破門した。これを受けて皇帝コンスタンティヌス9世は破門の大勅書を焼き、教会会議を開いてフンベルトゥスとその随行員の破門を行った。これをもって東西教会は完全に分裂した。これ以降、今日まであらゆる再統一の試みは無意味であった。西欧普遍教会と東方正統教会はお互いに、どれほど政治的立場が悪化しても、他方に譲歩することはついに20世紀後半まではなかった。もはや東西のそれぞれのキリスト教は、ギリシア文化、ラテン文化と分かちがたく結びついてしまったのであった。

Dおわりに
東方正教に関する資料は極めて少ない。しかもそれらのほとんどはカトリックか正教のどちらかに偏った記述がなされており、ビザンツ帝国時代の正教の正しい姿を示すのは非常に難しい。今回はそうした中で私なりの公平性をもって記述したつもりだが、私の記述力、知識量の未熟ゆえ、不足な点も多々あるかと思われる。そうした点は以下に挙げるような参考資料を参照していただければご理解いただけるかと思う。また、カトリック、プロテスタント、正教以外のキリスト教にご関心をお持ちの方は、私の『ビザンツ宗教外史 コプト教会』の方も参照していただけたならば幸いである。

E参考文献
「キリスト教史A 教父時代」 H.I.マルー著 上智大学中世思想研究所編訳 平凡社
「キリスト教史B 中世キリスト教の成立」 M.D.ノウルズ・D.オボレンスキー著 上智大学中世思想研究所編訳 平凡社
「オリエント史講座B 渦巻く諸宗教」 前嶋信次他著 学生社
「ギリシア正教」 高橋保行著
「正教のイコン」 C・カヴァルノス著
「東方正教史」 ポール・ルメルル著


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