2004年12月3日・10日
西洋軍事史  My


下記の文章は管理・修正を凍結した旧版です。
誤り等が発見されましても修正はいたしません。
こちらに新版が掲載されていますので、なるべく新版の方をご覧ください。
また文章に関するご指摘・ご質問等ございましたら、新版掲載サイトの方へ、くださいますよう、お願いいたします。




はじめに
 今回は核登場前の西洋軍事史を概観することにします。これまでも西洋軍事史についてはいくつか発表しており、多くの時代は既にそこで触れてしまっているのですが、できの悪い箇所を改めるため、さらに日本、中国、インドについてまとめたものと形式をある程度一致させるため、改善し、不足を補い、あるいは些末な事項を削りして、大幅に作り直すことにしました。そのため一部には、ほとんど昔の発表そのままな箇所もあります。また、急に思い立ち、慌てて仕上げたものなので、最低限読むべき本すら読んでいないとの批判もあり得ますが、どうか寛大な心で見逃して下さい。なお参考資料に中途半端に洋書が挙がっていますが、これはかつての発表で使用し、その記憶やメモが残っていたのを参考にしたためで、特に重要な書のみを選んで使用したとかいう訳ではありません。とても手が回らないため、今回は原則として洋書は使用していません。不勉強で申し訳ありません。
 ところで、本編に入る前に一つだけ、理解しておいてほしいことがあります。それは、軍事活動の大半は地味な小競り合いであり、華々しい決戦にもとづく大規模な征服は例外的な異常事態に過ぎないということです。国家や民族の強力な興隆期、あるいは戦力差の圧倒的な勢力が隣接する場合などには、決戦が志向され、大征服が成し遂げられることも多いのですが、あくまでそれは例外で、利害を対立させつつも共存せざるを得ない諸勢力の、地味に日常的に続ける小競り合いこそが、人類の行ってきた戦闘行為のほとんどを占めています。この発表では、もっぱら決戦のための組織および決戦に勝利するための技巧について、観察の対象としていますが、それはこれらが社会の発展状況を良く反映し、歴史的な変遷をたどりやすいからであって、決戦が軍事活動の主流を占めているからではありません。
 前置きが長くなりました。そろそろ本編に参りましょう。



陸軍編
<先史時代>
 旧石器時代の遺跡から発見される戦いの形跡としては、狩猟画や、石や骨でできた槍の穂先があるものの、武器を人に向けて使用した証拠は得られてはいない。
 しかし、氷河が後退し、人類の生活が狩猟・採集段階から農耕・牧畜段階へと移行し始めた亜旧石器時代および前期新石器時代(前1万2000〜8000年)、さらにその後の新石器時代の初期において、人類は戦争を行うようになっていく。この時期には、武器技術が飛躍的に進歩、弓、投石器、短刀、槌矛など様々な武器が姿を現している。そして、武器の対人使用を描いた戦闘画が見られるようになる。
 さらに、前8000年から前4000年にかけての近東では、集落の要塞化が進んでおり、ここからしだいに闘争が激化していったことを見て取ることができる。


<古代前期;文明と国家の誕生>
 その後、大河流域における灌漑農業の発展および生産力の上昇につれ、古代近東では、人口が増加、交易も活発化し、それに応じて社会組織が高度に発達していく。結果、前3000年頃には、古代近東世界は高度な文明を組織し、国家建設の時代に入る。この時期、メソポタミアでは多くの強力な都市国家が成立したし、エジプトでは早くも諸部族を統一する国家が出現している。そして国家のさらなる発展とともに、次第に、覇権を巡る大きな戦争や征服も行われるようになっていく。
 まず、この時代の武器技術の進歩を見ると、人類は、文明および国家の形成とほぼ時を同じくして、メソポタミアで青銅の使用を身につけており、これにより鋭利な武器が出現した。ところで、エジプトはこの時代の初期において青銅器より劣弱な銅器を武器としていたが、前18世紀に遊牧勢力のヒクソスが侵入したことにより、青銅器の使用が伝えられている。
 この他、弓兵や投槍兵を乗せる移動射撃台である戦車も、前3000年から2500年には、既にメソポタミアで普及している。最初期の戦車は、ロバの牽く大型の四輪戦車で機動性に欠けたが、数世紀にわたる改良を経て、前1000年代の機動性に長けた馬が牽引する二輪戦車へと繋がっていく。そして前1000年代において、戦車は軍隊の最良の戦力として活躍することになる。なお、エジプトに戦車の使用が伝わるのもヒクソスの侵入によるものである。
 ところで、この時代の戦闘組織については、前25世紀頃のメソポタミアの戦勝碑の彫刻で既に、槍と盾を持つ歩兵が、密集隊形を組んでいるのを見ることができる。この他、前21世紀頃に流行したエジプトの埋葬用木製模型において、巨大な盾で身を守った槍兵に加えて、弓兵が密集隊形を組んでいるのも見ることができる。
 以上のように、既に青銅器時代において人類は、馬の使用による機動力、遠距離兵器の射撃力、歩兵密集部隊の近接戦闘力という、前近代の戦闘における基本要素の全てを、組織的に使用していたと言える。


<古代中期;巨大帝国の時代>
1.アッシリア
 前1200年頃から古代近東では鉄器が普及していく。そして、当時ほとんど唯一の鉄資源産地であった小アジア東部のアルメニア地方に近いメソポタミア諸国は、強力で量産に優れた武器を得て、大征服が可能な軍事力を手に入れることになった。
 こうした情勢下、アッシリアは、前900年頃から勢力を拡大、周辺諸国との死闘の末、前8世紀半ばにメソポタミアを統一し、さらに征服を続ける。そして前7世紀には、征服はついにエジプトにまで及び、アッシリアは一時的にではあるが、古代近東を統一する大帝国へと成長した。
 アッシリア軍の主力は、封土の所持者と町村に割り当てた軍役によって維持された。アッシリア軍を構成する主な要素は、騎兵、戦車兵、歩兵、工兵であり、歩兵は槍兵、弓兵を含んでいたが、槍兵よりは弓兵のほうが重要な戦力であった。そして、これ以外に、略奪の公認を報酬にして一般民衆から集められた、極めて軽装の歩兵も存在した。
 このうちで特に活躍がめざましいのは戦車兵と工兵である。戦車兵はアッシリア軍の最精鋭として中心的な活躍をしているし、工兵は諸々の攻城兵器を駆使しての攻囲戦や、山岳地帯を切り開いての迅速な進軍に大いに貢献した。
 ところで人間が馬に直接乗ることができれば、その機動力および起伏のある地形への対応能力は、戦車よりも圧倒的に優れている。そしてアッシリア軍においては、投槍や弓で武装した騎兵が重要な戦力となっており、アッシリアは、騎兵を正規の戦力に組み入んだ最初の大国として知られている。だがそれにもかかわらず、アッシリア騎兵は、未だ戦車隊に取って代わるには至っていない。

2.ペルシア
 アッシリア帝国の武断的な統一帝国は被征服民の反発が強く、前7世紀の末にアッシリアは滅亡に至る。だが、その後イラン高原からアケメネス朝ペルシアが台頭し、前6世紀後半、再び古代近東を統一する。アケメネス朝は、地方や民族ごとの独自性を尊重する穏健な統治で、被征服民の反発を小さく抑え、巨大帝国を長く維持することに成功した。
 ペルシア帝国は広大な領域から巨大な兵力を徴用していたが、その主力は、イラン高原西部のメディア人およびペルシア人の封土所有者であった。ただ、前5世紀の終わりには、これらの封土所有者が均等相続によって困窮し、傭兵への依存が高まっている。
 ペルシア軍の武器について見ると、主力であるペルシア人は、歩兵が槍と弓、騎兵が投槍と弓で武装している。ペルシア軍は様々な民族を含んでいるため、この他にも、多種多様な武器が使用されている。
 ペルシア帝国軍では、戦車に代わり、騎兵がその中核として戦局を主導する活躍を示している。騎兵は主に、敵側背への包囲攻撃や、投擲による敵の攪乱等に使用されている。
 そして歩兵については、巨大な兵力を並べ、大量の矢を射かけて敵を圧倒する戦法が目立つ。
 なお、戦車の使用も見られないわけではないが、全く役に立っておらず、既に軍事的な意義を失っていると言って良い。

3.マケドニア
 ペルシア帝国はイラン高原から地中海東南部にかけての広大な領域を支配したが、その影響力はさらに地中海西北部にまで及ぼうとしていた。実現はしなかったものの、エジプト征服直後には、西地中海のカルタゴへの遠征計画が持ち上がっているし、北方のギリシアは、前5世紀の終わりには、ペルシアの圧倒的な富力の前に事実上の属国と化していた。こうして、これまで中東を中心に展開していた西洋世界の歴史に、地中海西北部の勢力が無視できない要素として姿を現すようになる。
 そして、前4世紀後半、ギリシア辺境からマケドニア王国が台頭、精強な軍事力によってペルシア軍を粉砕、ペルシア帝国を乗っ取る形でイラン高原から東地中海にかけての支配者となった。
 このマケドニアの征服を支えたのは、ギリシアと中東の軍事的な長所を融合させた軍隊であった。
 当時のギリシアは、前8世紀に農民共同体として成立した多数の都市国家に分割支配されていた。社会組織の発展は、未だ初歩的な農民共同体の段階を完全には脱しておらず、そこに高度に組織された効率的な軍隊は存在しなかった。そのため、当時のギリシア諸国の軍隊は、戦略的に大規模な作戦を遂行する必要性も能力も欠いていた。そして戦術展開能力も、ギリシア諸国の軍隊は未発達で、戦闘は、自力で武装可能な富裕農民兵士が、槍を武器に密集部隊をつくり、全部隊一団となって平原で単純に正面衝突する形で行われた。貴族の騎兵や、貧民や異民族からなる軽装の弓兵・投擲兵のような、富裕農民の共同体を脅かしかねない兵科は、十分には活用されていなかった。明確な意図をもって実施され成功した戦術的な工夫は、戦列の一点で厚みを増やして敵中枢部を踏み破った、前4世紀前半のエパメイノンダスの戦術ぐらいであろう。ただ、歩兵密集部隊の近接戦闘力に限って言えば、ギリシア諸国の軍隊は他のいかなる軍隊をも圧倒していた。ギリシア諸国は、地中海世界の活発な商業網に参加することで、経済的にはかなりの発展を遂げており、歩兵の密集戦闘法が採用された前7世紀には、豊富かつ低価な金属武器が、個々の兵士に、非常に強力な武装を行うことを可能としていた。こうして、ギリシア諸国の農民共同体は、それまでに類を見ない重厚な甲冑を身に着けた重装歩兵部隊を生み出した。そして、この重装歩兵の戦法は、農民共同体が崩れ、傭兵が社会にあふれ出した前4世紀にも消えては行かなかった。
 ここにマケドニア王ピリッポス2世は、マケドニア人に戦闘技術をたたき込み、ギリシアにあふれる大量の傭兵を集め、徹底した訓練で部隊の戦闘力を極限まで高めた。さらに諸兵科の連携にもとづく中東の優れた軍隊組織に学び、高度な戦術・戦略能力を開発した。
 ギリシア諸都市に倣って重装歩兵部隊を育成するとともに、古くからマケドニアを含むギリシア北部で見られた槍を武器とする重騎兵を、強力な突撃部隊に鍛え上げた。投槍で武装した軽騎兵や、弓や投石で戦う軽装歩兵も導入され、敵の攪乱や突撃部隊の支援に使われた。こうして重装歩兵の卓越した近接戦闘力が、遠隔兵器や、騎兵の機動力と連携し、巧妙な戦術と圧倒的な破壊力が融合することになった。ピリッポスはこの軍隊の力で、ギリシアを統一する。
 そしてピリッポスの子アレクサンドロス大王は、このマケドニア軍の威力を最大限に引き出す戦法を開発して、ペルシアを打ち破る。アレクサンドロスの駆使した戦法は、強力な騎兵隊によって敵戦列を突破、敵兵を背後から、自軍の重歩兵の密集部隊が一団となってつくる巨大な壁へと追い込み、粉砕するというものである。

4.ローマ
 アレクサンドロス大王の死によってマケドニア統一帝国は崩壊する。だが、マケドニアの軍事的影響はその後も強く受け継がれることになる。西洋の主要国家は、かつてはアレクサンドロスの軍勢に吸収されていた、高度な戦闘能力を持つ傭兵集団を用いて、抗争を続ける。地中海の全域に傭兵集団があふれ、巧みな戦略・戦術を駆使した争いが広まっていった。
 このような情勢下、イタリア半島にローマが台頭する。この時点のローマは農民共同体としての性質を強く残しており、大規模な戦略や巧妙な戦術を駆使して覇権を争う能力が、十分に備わっていたわけではなかった。だが前3世紀のカルタゴの傭兵軍との長く激しい抗争を通じて、ローマは高度な軍事的能力を体得する。そしてこれ以降、ローマとその軍隊は、着実に成長を続け、地中海の東西に勢力を広げて西洋の最強国家へと成長する。その後、ローマの領域は、前1世紀には西ヨーロッパからエジプト・シリアに至る地中海沿岸の全域におよび、その勢力はイラン高原の強国パルティアをも圧倒することになった。
 ローマの軍隊は、前6世紀にイタリア半島南部のギリシア人都市国家から重装歩兵の密集戦闘法を受容していたが、前4世紀後半の山岳民族サムニウム人との戦いを通じて、これを、山地でも適用可能なより柔軟な独自の戦闘法へと発展させていった。ローマの歩兵は、投槍の束を持った軽装兵を前面に広げ、その後ろに主に剣と投槍で武装した重装歩兵の密集部隊が三段の戦列に、散開配置して戦うようになった。この戦闘法は、旧来の全部隊が一団となって戦う戦闘法とくらべて、正面の敵に対する戦闘力の点では劣ったものの、戦術的な柔軟性において圧倒的に優れていた。まず、各部隊が分散独立していることで、起伏のある地形でも隊列が乱れにくいし、状況に応じて適切に移動、戦術展開することも可能であった。さらに、予備兵力を用意した結果、これを適宜戦闘に投入し、疲労した敵兵に追い打ちをかけたり、破れた味方戦列を立て直したりすることができた。
 もっともローマ軍は、この柔軟な歩兵戦闘法の潜在能力を、採用当初から完全に引き出していたわけではない。だが当時最高の戦術家であるカルタゴ軍司令官ハンニバルとの戦争を戦い抜くことで、ローマ軍は戦術展開能力を飛躍的に強化していった。強力な騎兵と、敵兵を自軍戦列の中に深く誘い込む巧妙な歩兵の運用によって、ハンニバルは鮮やかな包囲戦術を展開、ローマ軍は戦うたびに壊滅的な打撃を受けることになった。それでもローマ軍は屈することなく戦い続け、しだいにハンニバルの優れた用兵術を、自軍の戦闘法の中へと組み込んでいった。この戦争の後期に登場した、ローマ軍の最も優秀な指揮官スキピオの用兵を見れば、それが敵将ハンニバルの用兵と非常によく似ているのが分かる。ローマ軍は、騎兵を活用した戦術を体得したし、その歩兵部隊は敵側背へと展開することを学び、戦術的柔軟性を最大限に発揮するようになっていった。
 その後、ローマ領の拡大につれ、しだいに農民兵は遠隔地での軍務の負担に耐えられなくなり、前1世紀までには貧民からの志願兵が専門の兵士となる体制が確立していった。これにより、ローマ軍はより一層その軍事能力を高めていくことになった。なお、農民兵が自己負担で武装する体制が崩壊したことで、富力による兵士の区分が消え、軽装歩兵は消滅、歩兵は全て重装歩兵となっている。


<古代後期;ローマ帝国の後退>
 2世紀末以降、ローマは衰退期に入る。広範囲にわたる平和の中でイタリア半島から産業技術の移転が進んで、地方は経済的に自給自立に向かいつつあった。頻発する内乱は中央権力の弱体化を加速させた。そして、帝国領を防衛するローマ軍は、外敵の侵入の大半を占める散発的で小規模な襲撃に対応して、組織の細分化が進行、土着傾向を強めていった。これらの結果、帝国政府の威令はしだいに地方に及ばなくなっていった。特に、帝国西部は元より経済的に後進地域で、広域の商業や交通の地力に劣るため、帝国の支配力の後退は著しい。帝国西部はしだいに異民族が浸透し、異民族と同化していった。
 こうして5世紀にローマ帝国は領域の西半分を失い、以後6世紀の一時的な軍事的成功を除いて、帝国の支配は後退するばかりであった。
 6世紀の帝国軍は、この時代の衰退しつつある帝国軍の特徴をよく表している。帝国の兵力は無数の要塞を拠点として各地方の防衛戦を成功させるに十分な量があったが、指揮系統が細分化されており、大兵力を単一の遠征や会戦に結集することはもはや不可能であった。そのため、強国ササン朝ペルシアと対峙した東方国境でさえ、戦争は主に、略奪目的の小規模な侵入やこれに対する待ち伏せ攻撃、城塞の攻防戦等の形で行われていた。征服戦争や会戦が行われることがあっても、そのために作戦や戦場に投入された兵力は、大した規模ではなかった。この時期、帝国は大きな軍事的成功を収め、一時的に西地中海の支配権を回復しているが、これは十分な規模の遠征軍を繰り出すことができたわけではなく、成功はベリサリウスのような有能な指揮官の個人的力量に大きく依存していた。
 そして小規模な戦闘に慣れたローマ兵は、激しく決定的な戦闘を行う能力が衰えつつあった。また中央権力の弱体化のもたらす訓練の劣化が、兵士の規律をしだいに低下させており、この傾向を一層強めていった。既に3世紀において、ローマ歩兵は、投槍をより軽量なものに代えたり、あるいは弓兵に頼るなど、攻撃の射程距離を伸ばして近接戦闘を回避しようとする傾向を生じつつあったが、6世紀の歩兵は投槍や弓矢による一斉攻撃を主な攻撃手段とした。もはや歩兵は、会戦において敵軍に向かって近接戦闘を挑むことはなく、もっぱら防御的な役割を担い、騎兵が態勢を整えるための拠点として機能した。歩兵を攻撃的に展開することができないので、帝国軍は騎兵頼みの戦術展開を行うようになった。騎兵は重装備で、槍と弓を持ち、近接戦闘と射撃戦の両方が可能であった。そしてこの騎兵は指揮官が個人的に召集し訓練することで維持されていた。


<中世;騎士の時代>
 7世紀から8世紀にかけて、中東から地中海南部においてイスラームが急速に台頭、しだいに分裂を強めつつあった、ローマ帝国を中心とする地中海世界体制は、ここに完全に崩壊する。ローマ帝国は地中海東北部のギリシア文化圏へと押し込められることとなり、西洋世界の中心国家としての地位を失ったが、これをビザンツ帝国の誕生と呼んで良いだろう。そして、以後の西洋世界は大きく分けてヨーロッパ、ビザンツ、イスラームの三領域に分裂、互いにそれなりに意識し干渉しあいつつも、それぞれ独自の歴史を形成する。
 このうち、この時点で、最も軍事技術に優れていたのはおそらくビザンツであるし、最も文化的に発展していたのはイスラームである。だが、今日に繋がる軍事的な発展の流れを創ったのは、そのどちらでもなくヨーロッパであった。ここからは、ヨーロッパ地域での軍事的な発展を追うことにしよう。
 ローマの支配が崩壊した5世紀以降、ヨーロッパの社会は、無数の豪族が自給自足して私兵を養い割拠するようになっていった。強力な中央政府を樹立することは不可能になり、国家権力のもとに強力な軍隊を育成し、大規模な戦争を実行することはほとんどできなくなった。軍隊は小豪族の私兵の寄せ集めで構成されるようになり、戦争の大半は豪族同士の小競り合いで、ごく小規模な略奪や砦の攻防に終始するものであった。
 こうした社会情勢の変化は、軍隊の戦闘法にも大きく影響していった。国家によって与えられる高度の訓練と規律を失った歩兵は、8世紀から9世紀頃までに野戦における有効性をほとんど失ってしまった。この時代において、なお野戦に通用する高い戦闘力や規律を保っていたのは、富裕で個人的に武勇を鍛え重武装することのできた、領主階級の構成員だけであった。この富裕者たちは重武装の騎士として戦った。騎士は各々軽装の騎乗従者や歩兵を従えていたが、これらは補助的な兵科で、戦場での役割は騎士の攻撃を支援するにすぎない。騎士が一団となって構成する重騎兵部隊の素早く整然たる密集突撃が、この時代の会戦における中心的な戦闘法であった。騎士達は、側面攻撃や、中央突破などの戦術を巧みに駆使して、敵の隊列を崩すべく戦った。敵の隊列が崩れ混乱に陥ると、そこに騎乗従者や歩兵が続いた。歩兵は多くが投槍で武装したが、弓も使用され、11世紀末からは弩も見られるようになった。だが、それでも歩兵は重装騎兵の突撃に対抗する力はほとんどなく、騎兵の突撃が始まると、通常はただちに逃亡した。歩兵を敵の攻撃に対して踏みとどまらせるためには、騎士が下馬して歩兵の戦列に混じり、歩兵の士気を支える方法が有効であった。このような方法で防御を行った戦闘は12世紀以降にその例を見ることができる。
 ところで、騎乗従者や歩兵にも、会戦以外の場では活躍の機会はあった。騎乗従者は偵察や小競り合いでは重装備の騎士に代わって力を発揮するし、歩兵は攻城戦で重要な役割を果たしている。


<近世前期;荒れ狂う傭兵団と歩兵の台頭>
 その後のヨーロッパでは、経済発展の結果、商業流通の活性化と人口増加が起こり、政治的軍事的な制度もこれに応じた姿へと少しずつ変化を始める。
 活発化した商業は、各豪族の支配する狭い自給自足世界を越えた、広域の経済圏を形成しつつあった。一方、人口増加はしだいに余剰人口を生み、騎士の子弟が、あるいは貧民が傭兵と化していった。やがてはヨーロッパ中に傭兵があふれ出して、各地を略奪して回るようになった。このような情勢下14世紀頃には、国家は商業を財政基盤に、ほぼ全軍を傭兵軍として構成し、豪族を圧迫して中央集権化政策を採るようになった。
 こうして、武装領主たちによる政治面での分権的支配が動揺を始めた頃、野戦においても、しだいに歩兵が活用され、騎士の優越的な地位を揺るがし始めていた。
 イギリス軍では、14世紀半ばまでに、エドワード3世が、下馬した騎士が強固な隊列で敵攻撃を受け止めつつ、両翼に突出した陣地から弓兵が敵兵を側面攻撃で殲滅してゆく、防御戦闘法を完成した。
 この他、旺盛な郷土防衛意識によって、歩兵で騎兵に対抗する例も見られるようになった。まず、北海沿岸地方の都市クルトレでは、14世紀初頭の戦闘で、市民兵が槍兵の密集部隊によって、フランス騎兵の突撃を防ぎきることに成功した。もっともこの密集部隊は、攻撃に転じると堅固な隊形を維持できず、手痛い反撃を受けている。またスイス人は、14世紀の初めより、起伏の激しい地形を利用することで、農民兵によりオーストリア軍の騎兵を退けることに成功していた。
 ところでこれらは主に守勢の戦闘法で、未だ歩兵には自ら前進して敵を打ち破る力はほとんど備わってはいない。だが、そうであったとしても、歩兵が会戦の戦術展開において、重騎兵に対抗しうる重要な要素となったことは否定できない。もはや歩兵は、野戦においても、騎兵に追われるだけの副次的な兵科であることを止めたのである。
 さらに、14世紀の後半からは、火器の使用も普及し始めている。この時期の火器は主に攻城戦で用いられたが、一部で野戦に効果を発揮した例も見られる。最も早い例では、北海沿岸の都市ヘントの軍勢が、領主であるフランドル伯の軍に、大砲を撃ちかけて戦意喪失させ、勝利を収めている。また、火器が心理的な効果を越えて決定的な活躍をしたと見られる最初の例としては、チェコのキリスト教異端であるフス派の戦いがある。フス派は、15世紀の初めにヤン・ジシュカの指導の下、荷車を繋いで防壁を作り、その陰から大砲や火縄銃、弩を撃ちあるいは投石するという戦法を確立する。この防壁はそれほど丈夫なものではないが、野戦における大砲の使用が未発達なこの時期には、十分な機能を果たした。この戦法によって、フス派は、農民や商工業民の寄せ集めの軍隊でありながら、ドイツの騎士団を相手に連戦連勝であった。なお、フス派の戦いにおいて、小火器はあまり多くは用いられておらず、未だ大きな役割を果たしていたわけではない。


<近世中期;軍制改革と火器>
1.スイス傭兵と槍兵密集戦法
 ローマ帝国弱体化以降のヨーロッパで、歩兵に、自ら前進して敵を破壊する力を初めて与えたのは、15世紀後半のスイス人であった。すでに歩兵戦闘の伝統を有していたスイス人は、ここに槍を導入した。そして、強力な団結力を誇る地域の共同体において、少年から熟年に至るまで軍事訓練を行い、攻勢に出ても崩れることのない、強力な槍兵の密集部隊を創り上げた。なおスイス人は一連の戦いで、全軍を前衛、後衛と中央部隊の三つの巨大な密集部隊に分けて運用し、柔軟な戦術展開を見せている。この優れた密集部隊の力によってスイス人は、フランス東部ブルゴーニュの騎兵軍を、大いに破ることとなった。
 スイスの密集部隊は、その後、余剰人口処理のため、国策で傭兵として出稼ぎに送り出され、その精強さと残虐なまでの激しい戦いぶりにより、ヨーロッパ中の畏怖を受けるようになった。そして、スイス傭兵の密集戦闘法は各地で模倣されていき、これ以降ヨーロッパの戦争は組織的・集団的に訓練された軍隊によって戦われるようになっていく。ドイツでは手工業者の職業組合をもとに、強力な団結力を持った傭兵団が生まれ、スイス傭兵とともに戦ってその戦法を学び、スイス傭兵に迫る名声を獲得していった。この他スペイン人も、槍兵の密集戦闘法を身につけていったが、ここでは国家が、既存の共同体的結合に頼らず、徴兵しあるいは志願兵として集めた部隊を、訓練と長期の勤務で鍛え上げており、注目に値する。
 こうして槍兵の密集戦闘法が普及したことにより、15世紀末までに、野戦における歩兵の価値はついに騎兵を凌ぐことになった。重騎兵も、敵槍兵が移動や地形あるいは味方の歩兵との戦闘の影響で、その隊列を崩した時には効果的な攻撃が可能であり、未だその価値は十分に高い。だが騎兵が、堅固に組まれた槍兵の隊列を、自力で崩すことはまずできない。いまや戦場にあって、攻防いずれにおいても歩兵が中心的な地位を占めるようになった。
 ところでこの頃には、銃が、弓のように威力を発揮するために特殊な熟練が要らず、弩と比べても操作が容易であり、しかも弩よりも安価であるという特性を活かして、これら兵器に取って代わり始めた。そして大砲も野戦において、敵歩兵の戦列を崩すために、使用が広まりつつあった。だが、当時の火器は遅い射撃速度と低い命中精度といった点で余り優れた兵器とは言えず、しかも大砲は重く動きが鈍かった。そのため火器は未だそれほど役には立っていない。ブルゴーニュ軍が、重騎兵のみならず、銃砲にも力を注ぎながら、スイス軍に敗北したように、火器は槍兵の襲撃にすら対抗できなかった。そして、高い機動力を有し素早く迫る騎兵の前には、火器は一層無力であった。この時点における火器は、これまで同様あくまで要塞戦用の兵器であった。

2.スペイン軍と火器の躍進
 16世紀には、スペイン軍が他国にさきがけ銃を活用する戦闘法を開発、発展させていく。さらに当時のスペインの勢力は豊かなイタリアにも及んでおり、そこでの軍務は快適で兵士達に好評であったため、スペイン軍の中核部隊はイタリアに駐屯して長期の訓練を受けることになった。またスペインは、アメリカ大陸で獲得した豊富な貴金属を財源に盛んに外征を行ったため、兵士の雇用が長期化して、このことも兵士の熟練度を向上させていった。これらの結果スペイン軍は、その兵士の質と優れた戦闘法によって、この時期のヨーロッパにおける最良の軍隊となる。
 スペイン軍における戦闘法の進歩としては、まずコルドバ将軍が、土塁と壕で守られた陣地によって敵を足止めし、そこを火縄銃兵が射撃するという防御戦闘法を、16世紀の初頭に確立する。この戦闘法によって銃は、会戦の勝敗を決するだけの威力を持つことを証明することになった。そして、これ以降もスペイン軍は、積極的に火縄銃を使用、陣地によって火縄銃兵を守る戦闘法の他、陣地の代わりに槍兵によって火縄銃兵を守る戦闘法を採用し、戦闘に銃を組み込みための試みを続ける。また銃兵が二組交替で射撃して、発射間隔を縮小するという試みも為されている。
 その後、スペイン軍は16世紀の半ば頃からは、歩兵の密集部隊を、槍兵と火縄銃兵の混成で構成するようになり、槍兵の周りを火縄銃兵で囲む形が採用されていく。巨大な槍兵集団は外周部を銃兵で形成するようになり、弾薬の装填によって生じる発射の間隙は、内側から槍兵が槍を伸ばして守った。そして、この槍兵集団の四隅の接近戦からの退避が可能な位置には、銃兵の小集団が連結されるようになっていった。ただ、この戦闘組織の中心的な機能はあくまで槍兵の密集戦闘であり、銃撃は補助的な機能であった。重騎兵の突撃を受ける恐れがある以上、歩兵は槍兵として、敵を圧倒できるだけの近接戦闘力を発揮しなくてはならなかったのである。
 なお、この頃より、会戦における部隊配置は、幅のある戦列を二段か三段形成するのが通例となっている。
 ところでこの時期、16世紀半ばのドイツを端緒として、騎兵のあいだで、黄鉄鉱と金属製歯車の摩擦発火によって点火する、歯車式点火装置を用いた拳銃が普及し始める。この方式の銃なら、燃えながら揺れる火縄を操作する方式とは違って、動く馬上での片手による射撃が可能なためである。そして、拳銃なら小型で多数携帯することができ、後退して再装填するまでの射撃数もある程度確保できたのである。もちろん拳銃を武器とする場合、より射程の長い火器を持つ歩兵と戦えばほとんど無力である。だが、拳銃に騎馬の機動力を併せ持つことで、槍を武器とする重騎兵に対しては、圧倒的な優位を占めることができた。重騎兵を射程内に収めて接触前に攻撃し、弾が尽きると、素早く立ち去ることができるためである。そのためこの時期、槍を構えた重騎兵は姿を消していった。この結果、騎兵は歩兵に対して有効な攻撃を加える能力を完全に失ってしまった。
 こうして重騎兵の突撃の脅威から解放された歩兵は、しだいに槍に頼ることが少なくなり、火器を用いる割合が高まっていく。

3.オランダとスウェーデンの軍制改革
 16世紀末から17世紀の前半にかけての諸国の軍制改革の結果、戦闘において、火器が中心的な役割を果たすようになる。
 オランダ軍司令官のマウリッツ公は、銃兵の隊列を重ね、一斉射撃した最前列の兵士が次々に隊列の最後尾に回り交替で火力を維持する、連続射撃法を導入した。これによって銃兵は途切れることなく射撃を続けることができるようになり、歩兵は専ら銃によって戦うようになった。歩兵の密集部隊は、連続射撃が維持できる限界内においてではあるが、可能な限り薄い隊形で、無駄なく火力を発揮するように構成された。もっとも、近接戦闘の可能性が皆無ではない以上、部隊から槍兵を排除することはできず、各歩兵部隊は、槍兵集団の両脇に銃兵集団をつなげた隊形や、槍兵集団の背後に置いて銃兵集団を守る隊形を駆使して戦い、状況に応じて素早い隊形変換を行った。
 ところで、このような戦闘法を実施するには、各兵士が複雑な運動を行わねばならず、これには非常に高度の技量と規律が要求された。これまで以上に兵士の訓練が重要になり、兵士を長期雇用し、不満を抑えて継続的に訓練に服させるための、定期的で充実した給与が必要になった。16世紀の末にこのような条件を満たすだけの財力を持っていた国は、貿易で繁栄するオランダのみであった。だが、それでもオランダの戦闘法は、17世紀、しだいに周辺諸国に広まっていく。
 そしてオランダの戦闘法を受容した国のうち、戦闘法をさらに進化させ、その後のヨーロッパ諸国の模範となったのはスウェーデンであった。
 スウェーデン王のグスタフ・アドルフは、前世紀から続く自国の徴兵制度に改革を行い、長期勤務の精強な軍隊を創り上げ、オランダ式の歩兵戦闘法を導入した。この軍隊はスウェーデン本土防衛を目的に創られたもので、海外遠征に当たっては、スウェーデン軍の兵力の大半が、傭兵団を雇い入れることで賄われることになった。ただし、この傭兵軍にもスウェーデン式の訓練が施された。スウェーデン軍歩兵は、射撃速度をオランダ軍よりも著しく向上させ連続射撃の効率を高めたほか、必要に応じて部隊全体で一斉射撃することもできた。
 またグスタフ・アドルフは、他の兵科の改革にも大きな成功を収めた。
 当時スウェーデンは、豊富な森林資源を燃料に製鉄・兵器産業の一大中心地であったが、グスタフ・アドルフはこのような産業力を背景に大砲を改良、スウェーデン軍には、人力による戦場での移動が可能な軽量の野戦砲が多数導入された。これにより、大砲は歩兵や騎兵に随伴して支援することができるようになり、野戦用の兵器としても確固たる地位を占めることとなった。
 騎兵については、甲冑を軽装化して機動力を高めるとともに、銃兵の小部隊を支援用に付加することで、突撃部隊としての機能を回復させることに成功した。騎兵の武装から拳銃が消滅することはなかったが、これにより騎兵の基本的な戦闘法は、敵戦列の側面に回って、銃兵の開けた突破口に、剣を構えて突撃することになった。


<近世後期;中央集権国家と傭兵常備軍の完成>
 相次ぐ戦争は国家機構の能率を高め、17世紀の後半には、強力な財政基盤を持つ中央集権専制国家が完成する。そして、これまで長きにわたってヨーロッパを荒らし回ってきた傭兵団は、全て国家の常備軍に吸収されることになった。これ以前も、戦闘法の発達に伴い、しだいに傭兵軍の雇用が長期化して行く傾向はあったが、それでも国家の財政能力の限界から、傭兵団を常時管理下に置くことも、強く統制することもできなかった。それが今や、国家は傭兵軍を完全にその管理統制下に置き、高度な軍事的能力を行使できるようになった。
 まず徹底した訓練を施し、前時代から受け継いだ火力中心の戦闘法をさらに高めていくことになった。技術面でも、この傾向を後押しするような改良が相次いだ。17世紀の終わり頃には、銃口を塞がずに装着できる型式の銃剣が登場し、銃兵に近接戦闘能力が備わって、槍兵は消滅することになった。さらに同時期、火縄銃に、燧石の打撃による発火で点火する銃が取って代わるが、火縄を使用しないことで操作が簡易化し、射撃速度の向上が見られる。これは、厳しい訓練による兵士の能力向上と相まって、交替射撃によらずに火力を継続的に発揮することを可能にした。この結果、銃兵は一斉射撃で戦うようになったが、この際できるだけ多くの兵士で無駄なく同時攻撃するため、非常に薄い隊形を広げて戦うことになった。こうして18世紀には、会戦は、歩兵が火力を最大限発揮できるよう、平原において薄く長大で直線的な戦列を隙間無く展開し、素早い一斉射撃の継続により、弾幕を張る形で行われるようになっていった。なお、一斉射撃を続けるかぎり、騎兵の襲撃は全く歩兵の脅威とならないが、射撃の応酬に敗れ崩れた戦列に向かうことで、騎兵は絶大な威力を発揮することができた。
 ところで、このような戦法は火力の発揮を助ける一方で、戦術的な硬直化も招いた。整然たる戦列を素早く構築できるよう、各部隊は厳密に戦列内での配置が定められており、混乱を生じないよう、軍隊はほとんど全部隊を一団として硬直的に運営するしかなかったのである。そのため一部の部隊が独立した運動によって、敵戦列を突破したり、敵側面を包囲攻撃したりすることは、まず不可能であった。決定的な戦果を挙げることのできる戦術は、ドイツ辺境のプロイセンのフリードリヒ大王が行ったような、全軍挙げての迂回運動により、敵側面へ向けて戦列を構築する攻撃法のみであった。
 この時代は軍隊の戦略能力も大いに向上している。これ以前の傭兵軍は、国家の補給能力が低いため、しばしば飢えを満たすために略奪目的の放浪、都市の備蓄目当ての攻囲戦を行い、戦略的考慮にもとづく移動は容易には行えなかった。だがこの時代になると、軍隊は、国家が進撃に伴い順次設置する食糧倉庫から補給を受け、戦略的に移動するようになった。もっとも、そのせいで進軍速度は非常に遅く、しかも食料倉庫や後方連絡線を制圧すれば簡単に侵入軍を撤退させることができた。そして敵の要塞は、倉庫や後方連絡線に対する無視できない脅威となり、侵入軍はこれを攻略せずに前進することはできなかった。結果、この時代の戦争は、国境地帯における要塞攻防戦や補給線を巡る小競り合いとして、行われることが多かった。


<近代の萌芽;フランス革命と国民軍>
 18世紀後半、人口密度が高く、既に耕作地拡大の余地を失っていた西ヨーロッパ地域では、人口増加の圧力が限界を超え、巨大な社会変動が始まる。農村における失業と都市人口が拡大し、やがてこれら余剰人口が商工業の大幅な発達と軍隊の拡大を引き起こすことになる。そしてこの際、軍隊の拡大が特に顕著であったフランスでは、これに応じて戦争遂行の技法にも大きな変革が発生する。
 18世紀末、フランスでは困窮した群衆が蜂起して革命が勃発、国王を打倒する。ここで革命の波及を警戒した周辺諸国はフランスへの介入を開始するが、フランス革命政府は徴兵制を実施して余剰人口を軍事力に転化、巨大な国民軍を創出し、軍需産業を統制下において戦備を整え、国家の総力を挙げてこれに立ち向かった。
 これに先立つ時期、フランスは、プロイセン軍に戦闘能力で遅れをとって敗戦しており、そのことへの反省から、様々な戦闘組織上の新思考と実験が積み重ねられていた。そしてこの時までにフランス軍には、それらフランス軍事思想を集大成したギベールの構想が教範として導入されていた。フランス国民軍の組織は、これにもとづき、数年のうちに強力な戦力へと創り上げられていく。この軍隊は、ナポレオンに率いられてヨーロッパ中に征服の手を伸ばすことになるが、フランスとの戦争を通じて、軍事的変革がしだいに全ヨーロッパに波及していくことになる。
 このナポレオンの軍隊は、使用する兵器はこれまでと何ら変わらない物であったが、その改良された組織により、旧来の軍隊に優越する能力を発揮することになった。
 まず戦略面では、旧来の軍隊と比べて圧倒的に機動力が増強された。愛国心に燃える市民兵は士気が高く、飢えにも耐えることができたため、食糧倉庫に頼らず現地調達で補給して、素早く、敵地の奥深くにさえ、移動することができた。しかもこの軍隊は、独自の兵站組織を持ち単独で作戦行動可能な軍団に分割されていたから、各軍団が別経路をたどって進撃することで、大兵力であっても迅速に移動し、必要な地域に必要なだけ、戦力を送り込むこともできた。これによってナポレオンは、広範囲に展開した大兵力を統一的に運用し、全ヨーロッパ規模で戦略を構想した。そしてナポレオンは、壮大な戦略構想の下、主要な作戦や決定的会戦の場に戦力を迅速に集中、そこに兵力の優勢や、有利な部隊配置を確保することができたのである。
 戦闘法としては、歩兵戦闘において、従来の薄い横隊による一斉射撃に加えて、縦深隊形による突撃と散開戦闘による攪乱が採用された。縦深隊形による突撃と、散開戦闘については、敵に立ち向かう高い士気はありながら、経験に劣る市民兵でも可能な戦闘法として、やむを得ず採用したという側面もある。だが、古参兵の横隊一斉射撃とこれらの戦法を組み合わせることで、地形や状況に応じた戦いが可能となった。
 そして戦術については、軍団を基本単位として構想し、戦況の推移に合わせて柔軟に展開するようになった。軍団は単独で作戦行動ができるように編成された部隊であるから、当然、歩兵、騎兵、砲兵の全兵科を含んでおり、地形や状況に応じて諸兵科や歩兵の各戦闘法を駆使して臨機応変に戦い、長時間、単独でも戦線を維持することができた。そのため、戦場で待機させた軍団、あるいは戦場外から急行させた軍団を、前衛を務める諸軍団との交戦で敵戦列が綻びたところに投入、敵戦列を突破して壊滅させる、という戦い方ができるようになったのである。これまでの時代においては、戦場内で諸兵科の能力、特色をいかにうまく組み合わせるかが戦術の核心であったが、ここに至っては、戦場の内外を広く見渡して予備兵力を確保し、戦場においてそれを投入する地点と機会を見計らうことが、戦術の中心課題となった。戦場内での戦術展開の具体的な経過にまで、全体的な戦略が結びつくようになったと言える。
 ナポレオンの軍隊においては、戦争は圧倒的に巨大化し、戦略・戦術は、融合を始めていた。戦争はこれまでの長い歴史に見られた姿とは、全く異なるものになり始めていた。


<近代前期;飛躍する産業力と巨大化する戦争>
19世紀、ナポレオン戦争後のヨーロッパではさらに戦争が巨大化していく。
 鉄道の発達は、巨大な国民軍の兵力を最大限に活用する道を開いた。鉄道輸送によって、巨大兵力を容易に前線に送り込むことができた。戦場付近の一倉庫の備蓄や不確実な現地からの略奪に頼ることなく、国中から集めた物資を迅速に前線に届け、この大軍に十分な補給を行うことも、鉄道末端から部隊への人馬による輸送に困難はあるにせよ、一応可能であった。これにより、戦場に集結する兵力はますます大きなものになっていった。
 だが、このことは会戦における戦術展開に非常な困難をもたらす。戦闘に参加する兵力の巨大化によって戦線が大幅に拡大し、これを迂回して側面攻撃することは、ほぼ不可能となったのである。ところが、敵戦線を突破することも、この頃には不可能となっていた。当時は、施条火器が大幅に発達し普及した時代である。施条火器とは、砲身内部に螺旋状の溝を彫り、射出される弾丸に回転を与えるもので、これにより弾丸は曲がらず真っ直ぐ飛んで、射程距離と命中精度が大いに向上することになった。そして、火器の精度と射程が向上した結果、この頃には、敵防御陣地へ正面から接近して攻撃することは、完全に自殺行為となっていたのである。こうして戦術的に決定的な成果を挙げる方法は失われてしまった。
 ここで、このような戦術的な手詰まりに対する解決法を示したのは、プロイセンのモルトケである。
 19世紀後半、モルトケは、敵軍に対する包囲を戦場での迂回運動によって戦術的に実現するのではなく、兵力の動員から戦場での戦闘に至る全過程を通じて、分散して進撃した戦力により戦略的に敵を包囲する体勢を作り、会戦における決定的勝利につなげるという手法を開発した。これ以前の時代には、会戦に参加する兵力は、分散して進軍した場合であっても、大半が戦闘に先立って戦場で合流していた。だが、このモルトケの手法では、会戦に際しても、兵力をいくつかの軍に分散したまま、事前の合流無しにそれぞれ別方向から戦場に突入、敵軍を包囲する体勢に入った。ここにおいて戦術は、完全に戦略と融合し、戦術的運動は戦略的運動の最終局面に、その末端として組み込まれることになった。
 ところで、このような包囲作戦の実行には、広範囲に分散して進む大兵力の全体を、いかにして統制下に置くかが重大な問題となる。この課題をモルトケは、電信および、参謀本部制度の活用により乗り越えた。電信は、戦略的な指令を広範囲に伝えることを可能にした。参謀本部は、作戦計画の研究・立案を行う機関であるが、そこで同質の知的訓練を受けた参謀将校を各独立部隊に配置し、指揮官と合同して作戦上の決定に参画させることで、単一の戦略構想を全軍に浸透させることが可能であった。これらの手段の活用によってモルトケは全軍を緩やかながら、自己の戦略構想の下に統制することに成功、見事な包囲戦略を実行して、プロイセンのドイツ統一戦争に決定的な勝利をもたらしている。


<近代後期;肥大化する戦争と機械化軍隊>
 その後も軍事力と戦争の巨大化は止まるところを知らない。ヨーロッパ諸国は国家の資源と工業技術の総力を挙げて軍拡競争に乗り出し、軍事力の規模は一層巨大化していくことになった。そして軍事力の肥大化の結果、戦略的手法はこれに対応するさらなる発展を必要としており、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ドイツのシュリーフェンによって、この発展はもたらされることになった。
 シュリーフェンは来るべきフランスとの戦争を短期決戦とするため、比較的小規模の兵力で独仏国境を支えつつ、大兵力でオランダ・ベルギーを通過、そこからパリの西方を迂回し、国境のフランス軍の背後を突いて包囲するという、壮大な戦略構想を組み立てた。それは、国境全体を覆い尽くすほどに延びた長大な戦線で戦い、戦役全体を一つの巨大な包囲体勢に創り上げるものであった。そこではもはや、単独で戦争の行方に決定的な影響を及ぼす会戦など存在せず、個々の戦場における戦闘は、全体的な巨大戦闘の中の無数に連続する小局面を構成するにすぎない。戦術は戦略的運動の無数の小構成要素として、その中に完全に埋没してしまった。
 ただし、シュリーフェンがここで構想したような壮大な包囲戦略は、当時はまだ実行不可能であった。当時の軍隊は戦場では専ら人馬の力に頼って行動するしかなく、このような戦略の実施には全く力不足であった。肥大化した戦線全体を包囲するには、機動力が絶望的に不足しており、防御軍は、攻撃軍の進撃より早く反撃用の兵力を用意し、戦線を延長して容易に側背への進出を阻むことができた。そして当時は火薬の高性能化や機関銃の導入など、火器の性能の大幅な発達により、防御戦闘の威力が異常に向上していたため、延長された敵戦線を突破することは非常に困難であった。しかも兵站は依然として鉄道に依存しており、鉄道末端からは、未だほとんど人馬による輸送に頼っていた。そのため軍が機動力を発揮して鉄道から遠ざかれば、大兵力の補給はしだいに困難となる。また鉄道破壊により容易に補給が妨害される危険もあった。これだけの規模の作戦を支えるには、兵站も力不足だったのである。現に、シュリーフェンの構想を基本的には受け継いでいた、第一次世界大戦開戦当初におけるドイツの戦略は、補給不足で消耗しきった迂回軍が、フランスの急遽準備した反撃軍の前に阻止されて、失敗に終わっている。
 このような壮大な規模での包囲戦が可能になるのは、その後、軍隊が機械化・自動車化して機動力と兵站能力を高めるとともに、航空機の支援を密接に受けるようになってからである。さらに一次大戦後の無線通信の発達があればこそ、機械化軍隊の急速な作戦展開の指揮統制が可能であった。ドイツでは一次大戦後、グデーリアンらによって、軍隊の機械化が推進され、機械化軍隊の用法について研究が進む。そしてドイツは二次大戦の初期において、マンシュタインの戦略にもとづき、英仏軍に対し鮮やかな大包囲戦を成功させることになる。
 機械化された軍隊の戦闘は戦車を中核として、だいたい以下のように行われる。まず敵の戦線の弱体部分に機械化された戦力を集中投入、戦車や様々な砲、航空機による爆撃を組み合わせて、圧倒的な火力の優越を作り、突破口を拓く。航空機の攻撃による攪乱で敵の反撃を防止しつつ、そこから戦車が突入し迅速に進軍、これに続く自動車化歩兵は敵の対戦車拠点を掃討して回る。こうして、敵に対応する余裕を与えることなく戦果の拡張を続け、素早く敵後方深くまで突き進んで、敵の補給網と通信連絡網を切断する。そして、指揮連絡の混乱と背後に交錯する補給網に妨げられ、反転もままならない麻痺状態に陥った敵戦闘部隊を、壊滅させるのである。



海軍編
<古代〜中世;地中海と櫂船の時代>
 水上戦闘の起源は歴史の始めにまで遡る。エジプトでは、文明の形成された紀元前3000年頃に、すでにナイル川で河川用の軍船が使用されており、古王国時代(前2650〜2150年頃)には航海用の船が建造されている。そして新王国時代(前1550〜1070年頃)のエジプトは軍船で海洋に進出し、同時期のエーゲ海の諸国でも海軍の活動が見られる。また、その後もフェニキア人やギリシア人が地中海上で活躍し、アッシリアやエジプトが、ペルシア湾や地中海、紅海に艦隊を繰り出すなどしている。だがこれらの海軍は未だ小規模なものであり、海軍活動が大戦争において重要な地位を占めているわけでもなかった。
 その後、フェニキアを支配下に置いたアケメネス朝ペルシアは、前5世紀のはじめ、歴史上初めての大規模な海軍を組織する。これ以後、地中海は大海軍による海上争覇の舞台となり、海軍および海戦はその価値を高め、大戦争の結果をも左右することになった。
 まず前5世紀のペルシアによるギリシアの軍事的征服の失敗には海戦での敗北が大きく影響している。またローマとカルタゴは前3世紀に西地中海の覇権をかけて海上に争ったし、前1世紀に、ローマの内乱を終結させた戦いは海戦であった。その後、中世においては、ビザンツ帝国は優秀な海軍力に頼って、イスラーム勢力の侵攻を防いでいるし、イスラーム諸国にしても、その海軍はかなり大規模であった。
 ところで、地中海は夏場に風のない凪に陥るため、これらの時代の軍船は主に人力で動かす櫂船であった。ただ、櫂船は多くの漕ぎ手を必要とするため、戦闘艦隊は多数の乗組員に休息と物資を与える必要がある。そのため戦闘艦隊は、基地から遠く離れて行動することはできず、海軍の活動は主に陸地のすぐ側で行われていた。
 戦闘法について見ると、櫂船は櫂の並ぶ側面が弱点であり、敵に船首を向けて戦うよりほかない。そこで古代の櫂船は、主な攻撃方法として、船首の衝角を敵船体に突き入れての撃破を採用していた。そのため陣形は、広い水面で敵に船首を向け、横陣に展開するのが基本であった。だが船を巧みに操作して陣形を組み、効果的に戦術を展開するには熟練を要したため、未熟な艦隊は、狭い水面を利用するなどして乱戦に持ち込み、甲板に乗せた兵士の白兵戦に勝負を賭けることもあった。
 なお衝角は、中世にはその役割を変え、以後は敵船に乗り込むための橋として使用されることになり、攻撃においては敵船へ突入しての白兵戦が決定的な役割を担うようになった。


<近世;火力と海軍>
 その後ヨーロッパ地域の経済発展につれ大西洋に海上交易網が発達、しだいにその価値を高めていくが、東洋との交易が地中海を経由していたこともあり、あくまで西洋世界の海軍活動の中心は地中海のままであった。そこではベネツィア、ジェノヴァなどのイタリア商業国家に、オスマン・トルコやスペインといった大国も入り交じり、あいかわらず櫂船で構成された海軍を駆使して、覇権をかけて争っていた。
 ただし戦闘法には大きな変化があり、15世紀半ばからは、大砲が大きな役割を果たすようになっている。もっとも、櫂船が側面を弱点とすることに変わりはなく、また船体の大部分に漕ぎ手が密集しているため、大砲は主に船首に搭載され、基本陣形としてはこれまでと同じく横陣を展開することになった。
 やがて、東洋との貿易で大西洋経由の迂回航路が拓かれたほか、海上交易にアメリカ大陸が重要な要素として組み入れられ、さらにはトルコの軍事的脅威が弱まった結果、16世紀末以降、海上の覇権争いは外洋へと舞台を移す。そこでは、スペイン、オランダ、フランス、イギリスといった国々が、長距離航行が可能な帆船によって海戦を戦うようになった。
 戦闘について言えば、帆船では砲を舷側に多数並べて戦うことができる。そのため縦陣を組んでの砲撃戦が基本的な戦闘法となる。ただ、この戦法は既に16世紀初頭には有効性が認められていたものの、衝角攻撃と接舷斬り込みに代わって、海戦の基本戦法としての地位を占めるのは、ようやく17世紀半ば、オランダの戦術的成功以後である。この他、帆船の戦闘がそれ以前の海戦と異なるのは、風の影響を受けることであろう。帆船による海戦においては、風上を占めた側が攻撃の開始および形態について決定権を有し、風下の艦隊には戦闘を回避する自由しかない。だがその一方で風上側は、攻撃のため敵に接近する際は、敵に船首を向けることになって砲の力を発揮できないし、乱れた陣形で敵の整然とした迎撃を受けることになる。


<近代;工業技術の飛躍と海軍>
 19世紀初頭には蒸気推進の軍艦が出現、19世紀の半ばには鉄で装甲を施した軍艦が登場する。そしてクリミア戦争で、フランスの装甲を施した浮砲台がロシアの砲撃に対する優れた防御力を示すと、装甲艦の建造が本格化、装甲蒸気艦の時代が到来する。
 装甲蒸気艦の戦闘法としては、当初は衝角攻撃による撃沈を最も有効な攻撃方法とする見解が強く、そのための陣形として横陣が採用されていた。だが日清・日露戦争の海戦において、日本海軍が砲撃による見事な勝利をおさめた結果、衝角は消滅して、縦陣による遠距離砲撃戦が定着する。その結果、各国は大艦巨砲主義にもとづき、競って海軍力を整備していくことになる。
 そして20世紀に入ると第一次世界大戦において、イギリスとドイツの大艦隊がユトランド沖で大海戦を戦う。この戦いは参加した艦艇の数を見れば空前の規模であったが、ドイツ艦隊が砲戦で見事な成果を収めながらも戦場を離脱したため、決戦とはならず、戦局にはほとんど影響を与えなかった。これは、艦隊決戦は、容易に回避され、戦争においてそれほど大きな意味を持たない、ということを示している。
 艦隊決戦に代わって、一次大戦の戦局を左右するほどの効果を発揮したのは、ドイツの通商破壊作戦であった。通商に対する破壊行為は、古代の櫂船時代から見られたが、潜水艦の使用によって強力な効果を発揮するようになり、ドイツ潜水艦の作戦は、その不徹底な実施にもかかわらず、イギリスを窮地に陥れたのである。そしてこれ以後、潜水艦による通商破壊作戦は、海軍活動において非常に重要な位置を占めることになる。
 だが、これらの事実が、大艦巨砲を偏重した決戦志向の艦隊建造に、疑問を投げかけたにもかかわらず、列国はドイツの巨砲が挙げた表面的な成果にとらわれて、ますます大艦巨砲主義を強めていったのである。
その後、著しい発達を遂げた航空機が二次大戦で活躍し、大艦巨砲主義の時代は終わりを迎える。日本海軍が、太平洋戦争における攻勢で航空機の威力を示し、戦艦に対する航空機の優越を証明したのである。そしてその結果、艦隊の主役は空母となって、砲撃による艦隊決戦は姿を消し、軍艦の砲は空母の護衛や上陸支援に使われるようになって行く。また島嶼が不沈空母として非常に大きな意味を持つようになった。陸上の航空基地は艦隊に匹敵する力を持って海上に支配を及ぼし、海上作戦は主に基地をめぐる航空戦として展開されて行くのである。
 空母による戦闘について見ると、空母の弱点は、上空に向けて開けた脆弱な飛行甲板が、敵の攻撃の恰好の標的となることである。飛行甲板が破損して使用不能になると、空母は役に立たたないし、それが搭載機の発艦前であれば、その戦いにおいてはほとんど無意味な存在になる。そして攻撃を受けたときに飛行機が甲板にあれば、その燃料と爆弾が誘爆を起こして大惨事となるのである。また艦内の飛行機や爆弾が誘爆を起こす危険性も大きい。そのため正確な偵察にもとづいた先制攻撃が絶対的に重要である。そして、敵機の襲撃に対処するため、十分な戦闘機と、戦艦その他の艦艇の対空砲火で、空母を援護することも必要である。



空軍編
 航空機は第一次世界大戦から戦争に登場し、陸海において、偵察や戦場での爆撃に使用されている。そして、第二次世界大戦では陸海いずれの作戦においても、制空権の確保が戦術的成功の必須条件であり、航空機は不可欠の戦力となっている。
 この他、空軍が独立して行う作戦として、敵国の政治中枢や産業拠点、人口集積地への攻撃によって敵の戦争遂行能力や士気を破壊し、戦争の早期決着を図る戦略爆撃がある。そして、この形態の作戦も既に一次大戦で実施されており、二次大戦では非常に大規模に行われている。だだし、爆撃によって敵国の士気が挫けることはなかったし、工場の疎開や地中化等の対抗策、あるいは復旧の努力を乗り越えて、戦略爆撃が敵国の産業力を破壊するには、膨大な物量で執拗に攻撃を繰り返さねばならず、準備期間だけでも異常に時間がかかった。そのため、戦略爆撃が戦争の早期決着に貢献したかどうかは相当に怪しい。



おわりに
 以上で核登場前の西洋の軍事的発展についての概説を終わります。最後に、核登場以後を扱わないことについて、一応の弁明をしておこうかと思います。
 そもそも核登場前の戦争は、例えば騎士の戦いや17、18世紀の補給線をめぐる機動戦がいかに遊戯じみた姿をとろうとも、それは社会の発展状況の強いた限界内での最高度の武力行使であり、戦争とは国家や民族にとって全力をもってする生存闘争でした。たとえ決戦が回避され、あるいは戦死者が少なかろうと、戦争は殺人そのものを目的とするわけではないので、それが最高度の武力行使であることは否定できません。かつての戦争は国家や民族、あるいはその他の政治集団の利益を最大化するための有力な手段であり、国際政治上、最高度の重要性を持っていたと言えるでしょう。ですが、核の登場は戦争のこのような位置づけを一変させました。人は文明を全滅させるほどの破壊力を行使できるようになり、もはや世界の主要国がその武力を限界いっぱいに高めて全面戦争を行うことは、許されなくなりました。軍事力の技術的・質的な進歩は止まるところを知りませんが、世界の主要国がその国力の限界まで軍事力を量的に高めることはもはや無いでしょう。国家の防衛力はおそらくは永遠に必要なものであり、さらに武力の政治的意義が消失することはあり得ないにせよ、それでも核以後の戦争はその価値を大きく減じることになりました。かつて最高度の重要性と光輝をもって政治の世界に君臨していた戦争は、いまや世界の主要国家ではその威力と価値を抑えられ、代わって全面戦争のもたらす破滅を回避するための活動こそが、国家の最高の利益となり、主要諸国間の国際政治における最重要課題になりました。このような戦争の価値の低下を踏まえるなら、現時点では、核以後の戦争を異質なものとして軍事的発展の通史から除外することも許されるのではないかと、私は考えます。
 ところで話は変わりますが、今回は長くなったので、具体的な戦例については扱わないことにします。



参考資料
 週刊朝日百科 世界の歴史;朝日新聞社
 世界の歴史;中央公論社
 世界の戦史;人物往来社
 世界の戦争;講談社
 世界戦争史;伊藤政之助著  原書房
 戦略の歴史 抹殺・征服技術の変遷;ジョン・キーガン著 遠藤利国訳  心交社
 オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ;新紀元社
 Staatsverfassung und Heeresverfassung;Otto Hintze
 最終戦争論・戦争史大観;石原莞爾著  中公文庫
 マルクス=エンゲルス全集;大内兵衛、細川嘉六監訳  大月書店
 馬の世界史;本村凌二著  講談社現代新書
 兵器の歴史;シャルル・アイユレ著 伊奈重誠訳  白水社文庫クセジュ
 戦略論;リデル・ハート著 森沢亀鶴訳  原書房
 戦争の起源;アーサー・フェリル著 鈴木主税、石原正毅訳  河出書房新社
 図説 古代ギリシアの戦い;ヴィクター・デイヴィス・ハンセン著 遠藤利国訳  東洋書林
 アレクサンドロス大王の父;原隨園著  新潮社
 アレクサンドロス大王 「世界」をめざした巨大な情念;大牟田章著  清水新書
 世界伝記双書アレクサンドロス大王;ジェラール・ヴァルテルほか著 大牟田章訳  小学館
 アレクサンダー大王 未完の世界帝国;ピエール・ブリアン著 福田素子訳  創元杜
 アレクサンドロス大王 「世界征服者」の虚像と実像;森谷公俊著  講談社
 図説 古代ローマの戦い;エイドリアン・ゴールドワーシー著 遠藤利国訳  東洋書林
 ローマ人の物語;塩野七生著  新潮社
 ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて;長谷川博隆著  清水新書
 ローマ帝国衰亡史;エドワード・ギボン著 朱牟田夏雄・中野好之訳  筑摩学芸文庫
 ヨーロッパ史と戦争;マイケル・ハワード著 奥村房夫・奥村大作訳  学陽書房
 戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ;ロジェ・カイヨワ著 秋枝茂夫訳  法政大学出版局
 西欧中世軍制史論 封建制成立期の軍制と国制;森義信著  原書房
 ブーヴィーヌの戦い 中世フランスの事件と伝説;ジョルジュ・デュビー著 松村剛訳  平凡社
 RICHARDT AND SCIENCE OF WAR IN THE MIDDLE AGES;John Gillingham(WAR AND GOVERNMENT IN THE MIDDLE AGES/THE BOYDELL PRESS・BARNES&NOBLE)
 火器の誕生とヨーロッパの戦争;バート・S・ホール著 市場泰男訳  平凡社
 戦争の世界史;W・マクニール著 高橋均訳  刀水書房
 グラフィック戦史シリーズ戦略戦術兵器事典Bヨーロッパ近代編;学研
 現代戦略思想の系譜 マキャベリから核時代まで;ピーター・パレット編 防衛大学校「戦争・戦略の変遷」研究会訳  ダイヤモンド社
 近世軍事史の震央−人民の武装と皇帝凱旋−;西澤龍生編著  彩流社
 長篠合戦の世界史 ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500〜1800年;ジェフリ・パーカー著 大久保桂子訳  同文舘
 傭兵の二千年史;菊池良生著  講談社現代新書
 中世への旅 農民戦争と傭兵;ハインリヒ・プレティヒャ著 関楠生訳  白水社
 ドイツ傭兵の文化史 中世末期のサブカルチャー/非国家組織の生態誌;ラインハルト・バウマン著 菊池良生訳  新評論
 戦うハプスブルク家−近代の序章としての三十年戦争;菊池良生著  講談社現代新書
 ドイツ三十年戦争;C.ヴェロニカ・ウェッジウッド著 瀬原義生訳  刀水書房
 世界史の名将たち;リデル・ハート著 森沢亀鶴訳  原書房
 大砲と帆船 ヨーロッパの世界制覇と技術革新;C・M・チポラ著 大谷隆昶訳  平凡社
 ドイツ参謀本部;渡部昇一著  中公文庫
 ナポレオン;アンリ・カルヴェ著 井上幸治訳  白水社文庫クセジュ
 ナポレオン戦争−欧州大戦と近代の原点−;デイヴィッド・G・チャンドラー著 君塚直隆/糸多郁子/竹村厚士/竹本知行訳  信山社
ナポレオン言行録;オクターヴ・オブリ編 大塚幸男訳  岩波文庫
 歴史群像シリーズ48 ナポレオン戦争編;学研
 ドイツ参謀本部;バリー・リーチ著 戦史刊行会訳  原書房
 グラフィック戦史シリーズ戦略戦術兵器事典CヨーロッパW.W.U;学研
 ドキュメント・ロンメル戦記;リデル・ハート編 小城正訳  読売新聞社
 電撃戦 グデーリアン回想録;ハインツ・グデーリアン著 本郷健訳  中央公論新社
 電撃戦;レン・デイトン著 喜多迅鷹訳  ハヤカワ文庫
 歴史群像シリーズ43アドルフ・ヒトラー戦略編;学研
 海上権力史論;アルフレッド・セイヤー・マハン著 北村謙一訳  原書房
 西欧海戦史 サラミスからトラファルガルまで;外山三郎著  原書房
 近代西欧海戦史 南北戦争から第二次世界大戦まで;外山三郎著  原書房
 日清・日露・大東亜海戦史;外山三郎著  原書房
 地中海の覇者ガレー船;アンドレ・ジスベール、ルネ・ビュルレ著 深沢克己監修  創元社
 バルチック艦隊 日本海海戦までの航跡;大江志乃夫著  中公新書
 日本海海戦の真実;野村實著  講談社現代新書
 太平洋戦争;児島襄著  中公文庫
 空母入門 動く前線基地徹底研究;佐藤和正著  光人社NF文庫
 ミッドウェー戦記;亀井宏著  光人社NF文庫
 山本五十六;阿川弘之著  新潮文庫


2004年度例会発表一覧に戻る
西洋史に戻る
軍事史に戻る

inserted by FC2 system