2005年2月4日
フランス史概説  田中愛子


<はじめに>
 私は、学識継承システム化会議から、以下のことを学んだ。歴研には、世界史TB未履修で入会された会員もいらっしゃる。そうした方々への便宜をはかるべく、通史をコンパクトにまとめたものが必要である。また、短時間で手軽に読める史学書があれば、たとえ将来日々の業に忙殺されて歴史研究から遠ざかることがあろうとも、少しでも学識を維持しておくことができる。そこで通史概説を
 ……というのは口実で、平生より、殊に、2004年度11月祭発表展示「ビザンツ帝国史」を作成してより、歴史の本質のみを述べた通史を作成する楽しさにすっかりハマってしまったのである。というわけで、歴史の本質を探究する世界の通史、世界通史概説シリーズを作成したいと思う。
 最後に、歴研会員の皆様にお願いしたい。私の能力のみでは、到底このシリーズを質の高いものにすることはできない。このシリーズを良質で価値ある作品と為すべく、是非皆様にご質問・ご意見・ご批判・ツッコミその他をどしどし入れていただきたい。


<古代>(紀元前1000年紀後半〜5世紀頃)
 紀元前5世紀から紀元前1世紀にかけて、ケルト人がヨーロッパ全域に拡大した。彼らは、部族単位で牧畜・農耕の生活を送っていた。
 紀元前1世紀頃、現在のフランスに当たる地域は、ローマの支配下に置かれた。


<中世>(5世紀頃〜14世紀頃)
 3世紀、ローマ帝国の経済状態は低迷の一途をたどった。さらに、経済状態の悪化及びそれに伴う国力低下により、内乱や外冦が相次いだ。中でも、後進地域で経済力の低いヨーロッパ地方はとりわけ激しく弱体化した。経済状態の悪化の原因には、地方の成長による自給自足化等が挙げられる。地方の自給自足化により商業活動が衰退、経済状態が悪化したのである。そして、地方の自給自足化は、広域流通停止による地中海世界体制の解体という結果をも齎した。
 国力低下や動乱によるローマ帝国の支配力の低下は、傭兵や小作農として帝国内に移住してきていたゲルマン民族の台頭を許した。この現象は弱体化の激しかった帝国の西半で顕著であり、いくつものゲルマン国家が建設され、やがてそれらの国家は帝国の支配を離れていった。この結果、現在のフランスにあたる地域は、フランク王国の領域となった。フランク王国は9世紀に分裂、3つの王国を形成する。そのうちの一国が、フランスである。
 ローマ帝国解体後の混乱の中、有力者達が支配領域を巡って抗争。多数の領主が割拠した。領主は王の家臣となることもあったものの、その自立性は極めて高かった。領内の小作農に対し、地代を徴収する権限のみでなく、裁判権をも保有していることを考えると、領地ごとに一つの国家を形成していると言ってもよい。王もまた実質的には一領主であり、各領主との間で軍役と引き換えに保護・不可侵の契約を結んでいるに過ぎない。


<近世>(14世紀頃〜)
 11世紀の農業革命や十字軍により再び商業が活発化した。商業の活発化は、貨幣経済の発達や商人の台頭という変化を引き起こした。貨幣獲得のための地代徴収権及び裁判権の放棄、火器の使用による戦争形態の変化、十字軍やイギリスとの戦争への従軍、アメリカ大陸からの銀の流入によるインフレーション等により、領主の没落が進んだ。その結果、領主は独立性を失い、やがて王の官僚と化していった。一方、13世紀頃から、イギリス王との戦いという外冦を通じて国内は統一へと向かい、その中枢たる王権は強化されていった。王は、領主から戦費を獲得するため、及びその代償として領主に要求を提示させるための場として議会を開き、議会を通じて国内の領主たちを纏め上げるようになった。また、領主による割拠状態を不都合とする大商人と王との提携もなされるようになった。こうして、王権は伸張、領主による割拠状態が続いていた国内を次第に王の支配下に置いていった。
 ヨーロッパの各国は、アメリカ大陸からの銀の獲得や、国内の毛織物産業の育成及び貿易による国力増強に努めていた。また、貿易の拠点、安価な原料の供給地、生産物の販売市場を得るべく、植民地獲得に乗り出していた。アメリカ大陸の銀を獲得できなかったフランスは、毛織物産業の育成やインド進出により商工業を発展させようとした。
 近世ヨーロッパでは、力の均衡を守るために、最強国が各国から攻撃されるという現象が見られる。16世紀から17世紀前期にかけてヨーロッパ最大の勢力を誇っていたのは、ハプスブルク家であった。そのため各国はしばしばハプスブルク家に敵対したが、とりわけフランスは、東西をハプスブルク家に挟まれていたため、頻繁にハプスブルク家との戦争をしかけることとなった。フランスは、富国強兵策・産業育成策をとって国力の向上を図り、こうした戦争を勝ち抜くことで陸軍を中心に大いに軍事力を高めていたものの、産業育成策が十分でなく、度重なる戦争によって国富を消耗してしまっていた。おまけに、17世紀後期には、凋落気味のハプスブルク家に代わって、今度はフランスが各国からの攻撃を受けることとなった。このため、海の向こうであるために比較的力の均衡を守るための攻撃を受けることがなく、産業・商業の育成に努めて国力を高めていたイギリスに、毛織物産業、ヨーロッパでの戦争、植民地での戦争、いずれにおいても敗退してしまったのである。
 イギリスには劣るものの、フランスの商工業は発展を遂げていた。18世紀後期、反乱を契機に、商工業の発展により力を得た資本家層や、国民の大半を占める小農民の利益を代表する政権が樹立された。フランスは、産業によってでは余剰人口を処理しきれず、戦争によって余剰人口を処理しようと図り、積極的な対外進出を行った。また、19世紀前期、生産の機械化が進み、商工業が更に発展。それを受け、植民地獲得のため、アフリカや東南アジアに進出した。しかし結局、フランスが、商工業先進国のイギリス、19世紀後半から急速に台頭してきたドイツやアメリカとの競争に勝利することはなかった。


<おわりに>


参考文献
歴史研究会会員各位

 趣味にはしったレジュメであり、楽しんで書くことができた。
 世界全エリアコンプリートと、内容の質の向上を目指して、努力したい。


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