2005年2月4日
日本出版史  貫名


0 はじめに

 今回は日本の出版史について概説を試みようと思います。

 出版の歴史を追うと簡単に称しても、いくつかの切り口が考えられます。民衆文化の発展を追う形での、文化史としての出版史。あるいは、印刷や製本の技術の進歩を中心にした、技術史としての出版史。しかし同時に、出版は多くの時代において、多数の人間に情報を伝える最も優れた手段の一つであり、この特性は良い方にも悪い方にも様々な側面を作っていました。そしてその側面を制御するために、時には公権力、また時には出版や販売を担う人々、また更には受け手である読者たちが、常にさまざまな方策を重ねてきました。
 本稿では、文化史や技術史の側面を押さえつつ、このような「社会制度としての出版」、そしてそれを通して浮かび上がる表現の自由や言論の自由というものへの配慮、という点を主眼にして論考します(文化史的なことを期待した人はごめんなさい。この点に関しては、読みやすい文献としてNF氏の『日本民衆文化史』が参考になります)。……ただし、法律学(特に憲法学・実定法学)としての自由の有りようについては、ここではあまり扱わないことにします。一つには筆者の知識不足もありますし、何より、哲学的な論考は本稿の主眼ではないからです。
 正直、「出版史」を幅広いジャンルにまたがって取り扱おうとするのは、私の手にはあまるようですし、話題が拡散して分量ばかりを増やす結果を招くように思えます。この観点から、今回のレジュメでは、主に法をはじめとする「ルール」の観点から出版の状況を概観します。



1.通史的な前提−「出版」の誕生まで−

 最初に、江戸時代に至るまでの日本の印刷事業の流れを概観しておくことにする。

(1)紙の誕生

 そもそも、出版のためにまず必要なものとして、ハードウェア、つまりは紙と印刷技術が必要なのは言うまでもない(当然、中身の文章も必要だが)。そこで、まずは紙の誕生について簡単に記しておく。
 紙を発明したのは、後漢の蔡倫だと言われている。……もっとも、実際に「紙を発明」したのが蔡倫なのかは疑問であり、実際、前漢期のものと思われる紙も実際に出土している。しかし、少なくとも蔡倫が従来からあった紙を大幅に改良して、筆記に優れた滑らかな紙を生み出した人物であることは間違いなさそうである。(注1)
 こうして中国で開発された製紙術を日本に持ち込んだのは、601年、高句麗の僧である曇徴である、と日本書紀には記されている。もっとも、それ以前から日本に紙自体が存在した可能性は充分にある。例えば卑弥呼や壱与が魏晋に朝貢したときに、何らかの形で紙と接していたことは充分考えられるだろう。(注2)

(2)百万塔陀羅尼

 日本における印刷の嚆矢としてとりあえず挙げられるのは、百万塔陀羅尼と呼ばれる経典である。これは、764年9月に孝謙上皇の勅願により、恵美押勝の乱の平定を願って作り始められ、770年に重祚した称徳天皇の代に完成したものである。内容としては陀羅尼経という経典であり、これを木製の小さな塔に一つずつ納め、名前通り百万部を作成して、畿内一円の十大寺に十万個ずつ分置したものである。このほとんどは長い時代とともに散逸してしまったが、法隆寺に納められた物は現在に至るまで残されている(注3)。
 さて、この百万塔陀羅尼は、一般的に「年代が確定できる世界最古の印刷物」とも言われている。
 しかし実際には、こう言い切ってしまうのにはいくつかの問題がある。何より問題なのは、これが「印刷」であるかどうかである。印刷過程についてはそもそも木活字・銅活字のどちらであるかを含めまだ諸説が分かれているが、現在のところ有力な説では、バレン摺りではなく、スタンプのように押しつけて印刷したものと考えられている。しかし、このような方式は「印」「刷」のうち「刷」の部分を欠いており、印刷と呼ぶべきではないのではとの指摘もある(阿辻哲次「知的生産の文化史」)。(注4)

(3)寺社による出版事業

 百万塔陀羅尼の完成後、しばらく日本において印刷物は見られない。現在の書物に見られる印刷に関する次に古い記事は、寛弘6年(1009)に当時の中宮彰子の安産祈願のために刷供養――法華経を印刷して仏に捧げること――を行った、という記事である(「御堂関白記)。また、仏像の姿を印刷する摺仏(これは前述の摺り方式である)で寛平3(891)年の年号のものがあった、との記録が明治時代にあるが、これも現存しておらず、真偽を含めて詳細は不明である。
 このように実物が確認されないため、実際に印刷技術が確認できるのは11世紀後半頃からになる。その初期のものとしては、興福寺で行われた春日版、高野山で行われた高野版などが挙げられる。更に、特に鎌倉時代以降は、禅宗寺院を中心とした五山版が制作される。これは、宋や元、明の印刷物をコピーしたものであった(注5)。その工芸技術は秀逸であり、当時の世界的レベルで言っても屈指のものであった。これらの印刷はすべて、製版、つまりは一枚一枚を直接彫った形の版木を使っていた。

(4)活版印刷の登場
 安土桃山時代になり、相次いで2種類の活版印刷技術が日本に入ってくる。
 まず一つ目は、きりしたん版と呼ばれるものである。これは天正遣欧使節がヨーロッパから持ち帰った物であり、グーテンベルクの活字をルーツとする西洋の金属活版技術の輸入品であった。印刷は手作業ではなくヨーロッパから同時に輸入したプレス式の印刷機が使われており、当時の世界的な最新技術を採用したものだった。最初はローマ字のものだったが、後には平仮名やカタカナを使用したものも登場している。この技術が日本に残っていれば、もしかすると出版の歴史も多少は変わっていたかもしれない。
 しかし、秀吉によるキリスト教弾圧により、結局このきりしたん版は、九州の一部で細々と印刷されただけであり、その後の幕府による弾圧などによりほとんど消滅してしまう。なお、現在残っているものの半数以上は、海外に持ち帰られた物である。
 一方、もう一つは朝鮮活字版と呼ばれるものであり、李氏朝鮮で使われていた活版技術を秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正が持ち帰ったと言われている。これはルーツから言えば、北宋の畢昇という人物が発明した技術であるが、印刷方法自体は旧来のバレン刷りであり、この点では稚拙な物であった。従来は、この朝鮮活字版が日本におけるその後の活字版−古活字版−のルーツであるとされていた(注6)。
 さて、日本でのこの頃の活字版、いわゆる「古活字版」の状況はどうだっただろう。日本における活字印刷は、ほとんどが木活版により行われていた。早速文禄2(1593)年には、後陽成天皇自らが「古文孝経」を開版したという記録が残っている。この後陽成天皇はその後も数度開版しているし、徳川家康も伏見版や駿河版などの開版を行っている。これらの権力側の人間だけでなく、民間でも活版印刷は盛んに行われている。中でも大きなものとしては、本阿弥光悦によって発行された、光悦本や嵯峨本と呼ばれる美術的な装丁を持った本が挙げられる(注7)。このような状況の下、いわば活字ブームとも言うべき社会情勢が出現する。

 しかし、結果として活版印刷はこの時代の日本では定着しなかった。その理由としては、まず第一に、そもそも日本語の字数が多くて効率的ではなかったことが挙げられる。また印刷に際し、特に古典籍を印刷する場合には漢文の訓点を活字では組めないと言う問題があった。更に、初版は良いとしてもその後再版する際にはいちいち活字を組み直さねばならないので非常に手間がかかることも挙げられるし、新しい本では古い活字を組むより新しい版を一から作る方がいいという気分的なものもあったのかもしれない。
 いずれにせよ、日本の活版印刷は50年ほどで、寛永期にはほとんど姿を消し、従来の製版印刷に戻ることになる。念を押しておくと、ここで活版印刷が消滅した訳ではなく、その後も江戸末期に至るまで活版印刷は行われ続けている。しかし、それは一部の寺社が版木を持ち小規模に行われるだけのものだった。

(5)「出版」の誕生
 さて、この発表は一応出版史と題しているが……ここまでにおいて、法制度についてはほとんど触れていない。というのも、この時代までは、権力が印刷について介入するようなことはなく、またその必要性もなかったからである。
 ここまでの文章において、私は「出版」という言葉を意図的に使わずにすませている。というのも、ここまでで行われていた印刷事業において、「出版事業」という思想は希薄だったと考えられるからである。この頃までは、そもそも当時の社会の中で書物に接するのは貴族や知識層だけであり、一般的な書物は写本を行うことで充分とされていた。それどころか現代とは逆に、むしろ写本の方がより良いものとされており、印刷本は一段下に見られていた。主に印刷を行っているのは文化人や寺社といったところであり、どちらかといえば社会事業という意識が抱かれており、営利性は薄かったと考えられる。

 ところが寛永年間、ちょうど活字印刷がほぼ消えかけた頃になって、ここで初めて、従来の「印刷」という単なる文化的な行為は、「販売」という経済的活動を伴って社会に供給する「出版」という形態へと発展していく。
 ここで強調しておくべきことは、この「出版」という概念はそれまでの社会にはなかった概念であり、従って当初は制度的にも全く整っていなかった、ということである。江戸時代を通して、この新しい経済活動を行うにあたり、幕府側、そして書店側の双方がさまざまな試行錯誤を繰り返していくのである。
 この変化は単純な要因でくくることは出来ないが、いくつかの要素は考えられる。まず一つは、前述の活字ブームによる出版事業への関心の増大である。そして何より、社会が安定したことにより主な読書層である武士の地位が安定し、従来より読書などに割かれる時間が増えたこと、などが考えられる。
 では、次章でその過程を見るとともに、本論である出版統制の歴史も追っていくことにする。



2 江戸時代の出版について

(1)前提−江戸時代における出版を取り巻く事項の推移

 出版事業が初めて登場したのは、寛永年間(1622〜1644)、京都においてであった。後に京都書林十哲と呼ばれる書店(注8)をはじめ、多くの書店がまずは京都で勃興する。ここで真っ先に勃興したのが京都であったのは、やはり寺社や貴族など文化人の多い土地だったからであろう。元禄期には、大般若経全600巻、朱子文集大全100巻など、驚くほどの大規模出版も行われている。
 もっとも、最初に出版されたのは啓蒙書や仏書、漢籍といった類のものであり、新興の書店中心に発行される仮名草子なども含め、まだ庶民に膾炙するものとは言えなかった。実際、この頃は板木権と呼ばれる版権の移動も多く、特に新興業者はなかなか定着して財をなすのは難しかったという。一方、安定して財を築き大きな書店となったもののほとんどは、幕府や寺社などとの特定のコネクションを持っていた。
 この点で、まだ京都での出版事業は、庶民文化としての出版には距離があったようである。しかし、多少高価であるとは言え、今まではごく一部の上流の知識人のみが独占していた古典籍が、誰でも手に取れるような場所まで降りてきたのは事実である。

 しかしその後、出版の中心は大阪に移る。これは一つには、西回り航路の発達により物流の中心が京都から大阪に移ったことも挙げられるし、前述の通り京都の書店が庶民に膾炙しておらず、販路の拡大努力も少なかったのに対し、大阪の書店は積極的に販路を広げ庶民に働きかけたのもあるだろう。そして、井原西鶴や近松門左衛門などの人気作家が出たことも大きい。これにより、今度は大阪を中心とする元禄文化が栄えることになる。

 その後、文化の中心は江戸に移る。この時期には庶民文学が隆盛し、読本や滑稽本、人情本など、ここにはとうてい書ききれないくらいのさまざまな出版がなされるが、本稿はその文化史を逐一追うのが目的ではないので、ここでは簡単にとどめておくことにする。

 このように、江戸期の出版の発展は、三都を転々とする形で発展している。具体的には、
 京都(出版事業の成立)→大阪(元禄文化期)→江戸(化政文化期)……というものである。

 では、この出版事業の発展の中で、出版統制はどのようにして行われてきたか、次項から追ってみることにする。

(2)書林仲間の誕生−業界の自主規制としての制度−

 幕府の統制策の中心となったのが、書林仲間という存在である。今の言葉で言えば、同業組合、といったところであろうか。
 当初、幕府は自由競争が阻害されることを嫌い、書店に限らず商人たちが仲間を結成することを禁止していた。しかしその頃でも、実質的には仲間が結成されていたことは、その禁制において「物之本屋」が名指しで出ていることから言っても間違いない。
 その後、後述寛文年間(1670年代)には既に事実上の容認状態になっており、幕府が禁令を出す、ときにも、その呈示は実質的な書林仲間の長に向けて行われている。そして享保の改革期、大岡忠相によって、この仲間は公認された株仲間としての存在になる。
 これはこの時に既に存在した同業他者への支配力を追認するという側面もあったが、同時に、幕府の秩序維持のための検閲機関として仲間を機能させることも意図していた。仲間を認めることによって、ほかのモグリによる出版事業を排除することが出来たのである。
 こうして、書林仲間は他の業者を排除した独占的な出版権限を有するようになった。これはその後多少の変化はあるものの、天保の改革において株仲間の解散が命じられるまで継続されることになる。

 出版関係に置けるもめ事では、仲間内で選任された「行事」と呼ばれる人々がまずは仲裁に当たるのが常であった。これは内部だけでなく、江戸と大坂や京都の本屋との間でも行っており、行事を務める人間は東海道をひっきりなしに行き来する忙しい日々を送っていたという。幕府の側も、多少の問題なら仲間の間で解決するように指示していた。
 これにより、出版業界では良くも悪くも保守的な秩序が貫かれるようになる。仲間は幕府の方策に基づき、自己規制を行っていた。明和6年に出た仲間内の禁書一覧を見ると、はっきりとした禁制書以外にも、危なそうなものは仲間内の判断で自主規制を行っていたことがわかる。

 この時代における出版物の権利概念は、「板株」という概念によって形成されている。この「板株」というのは、書店の自店における独占出版権のようなものだった。概念的には印刷する版木に対して持つ権利であり、この権利を持っている業者(注9)のみがその書物を発行できる、というシステムである。また、この権利は売買の対象となっており、中にはこの板株自体を投資の対象とするような人間もいたようである。
 一方、この時代にはまだ著作権という概念は存在していない。いや、それどころか、特に元禄期の作家は原稿料もほとんど受け取っていない。ちなみに、原稿料を初めて得たのは(ただし、留板制度(注10)によって多少の著作権的な内容を主張することは可能ではあった)。
 この板株に基づいて、重板・類板と呼ばれる他人の板株を侵害する行為については幕府に規制され、それを犯した者には、刑事罰が科され、さらに絶板(単なる「絶版」だけでなく、板木の破砕や刊本の焼却処分)が行われることになる。

(3)江戸幕府による規制−公的規制の試行錯誤−

 現在分かっている初めての幕府による出版統制は、明暦3年(1657年)に京都で出されたものである。この頃の京都書林は全盛期へと向かっており、書物なら何でも発行する、といった空気が存在していた。更に、明暦の大火により書物がかなり焼けており、出版機運が非常にあふれていた時期であったと言えるだろう。その後江戸でも、寛文年間(1660〜70年代)に同様の統制令が出されている。
 これらは、軍書・邪説等々の人心を惑わせる本については、奉行所の許可を得てから出版すべし、との趣旨の物であった。この統制令は、徐々に出版が普及し、それに伴ってキリスト教や各種の政治批判などの書物が増えてきたことを踏まえたものと考えられる。この寛文統制令以前にも、山鹿素行『聖教要録』、宇都宮由的『日本人物史』などが言論統制に遭っている。

 そしてこれらの統制令が一つの完成を見るのが、享保7年に出された出版要目である。当時は徳川吉宗による享保の改革が行われていたが、吉宗は実用的なものに関しての禁制をゆるめる一方、実用性の低いものについてはより統制を加えていた。この流れの中で、彼は書物に対しても同様の禁制を加えている。ここでは具体的に禁止されるべき内容が詳細に述べられている。ここにおいて、「猥成儀異説」、すなわち過激な思想が書かれた書物や、人々の家筋・先祖あるいは将軍家のことが書かれた本、作者・版元の実名が無い本、好色本などは禁圧の対象とされ、そして出版に際しては幕府に前もって提出し検閲を受けることが義務づけられることになった(注11)。
 また、この少し後には心中物を禁じる御触れも出され、近松門左衛門の作品なども上演禁止とされてしまうことになる。この統制令は、その後の江戸時代全体を通して適用されていくことになる。(注12)
 もっとも、享保の改革では、まだ強力な弾圧が行われるまでには至っていなかった。規制を強める一方では開明的な政策がなされていたこともその一因であろう。ところが、その後1790年の寛政の改革下で行われた改革では、より厳しい規制が行われている。遊郭のことを題材にした洒落本について作者の山東京伝と版元の蔦屋重三郎が規制されたケースや、林子平が「開国兵談」で閉門処分を受けるなど、厳しい弾圧が行われている。

 その後、天保の改革において、倹約令のもと再び厳しい出版統制が行われる。ここでは風俗紊乱の書物はとにかく発売禁止とされ、また錦絵についても厳しい規制が行われている(注13)。なお、この天保の改革の禁令を出しているのが、粋人である遠山景元であったことは歴史の皮肉であろう。この元で、『春色梅児誉美』の為永春水や『偐紫田舎源氏』の柳亭種彦などが処分されることになった。
 なお、天保の改革においての株仲間の解散においては、書林仲間も例外とはされなかった。しかしこれによって、従来機能していた、特に重版や類板に関する検閲機能が弱められたことは否定し得ない。結局これは混乱を呼ぶだけに終わり、後に元通りに戻されることになる。

 総じて、江戸幕府の規制は確かに享保の統制令を元にして行われているのだが、その強さは時の権力者によってかなりの差異がある。
 また、統制してもそれを破ろうとする表現者との間にはつねにいたちごっこが繰り返されており、現実に貸本屋などでは平然と禁書が扱われていたりしたことが分かっている。規制されていたはずのモグリ出版も、実際にはしっかりと行われていた。いつの時代も表現者は常にしたたかだ、とありがちな感想を抱いた。



3 明治期〜昭和初期の出版について

 明治期に入ってからの出版制度は、法的な枠組みについては語るところが少ない。20世紀初頭にはだいたいの方向性は固まっており、そこから先は、出版統制、思想統制などの政治的な文脈において語られることになる。特に思想統制については、先行研究が数多く、またこれらの思想の一つ一つについて追うことは主眼とはしていないので論じないことにする。
 本章では、時系列が前後するのは承知で、いくつかの事象に沿って論を展開したい。

(1)活版印刷の普及−そして、江戸期本屋の凋落−

 明治期に入り、再度活版印刷は復活を遂げる。この活版印刷の技術が特に影響を与えたのは、むしろ報道の世界だった。即時性を要する新聞の世界では、活字を組むことですぐに記事を作成することが可能となり、初期はまだ木版で刷っていた新聞もすぐに活字へと移行していった(注14)。とは言えまだ活版印刷には未熟な部分もあり、例えば福沢諭吉「学問のすヽめ」は、第一編初版こそ活字であったが、その後大量に増版する際にはそのほとんどが木版で印刷されている。しかし、このような状態も明治9年頃までであった。この年には、大蔵省活版局が印刷に蒸気機関を導入したり、印刷機械の製造販売が着手されるなど、一気に活版印刷が普及している。
 こうして、出版は新しい局面を迎える。西南戦争(明治10年)による時事ニュースへの世間の関心の上昇も手伝い、ジャーナリズムが急速に発展した。
 そしてこのような時代の変化に、江戸期に隆盛を誇った本屋のほとんどは対応することができず、ひっそりと衰退・廃業へと追い込まれていった。時代の変化と片づけるにしても、あまりにも寂しく、急速な衰退だった。

(2)明治新政府の政策−出版法の完成まで−

 一方、明治新政府の出版に対する対応はどうだったであろうか。
 江戸幕府から政権を受け継いだからといって、明治新政府がいきなり制度を刷新した訳ではない。急激な変化をするには、それ相応の様々なコストを負う必要がある。まだ民事法の改革は早期だったが、こと刑事法分野においては、当初は幕府の政策をそのまま受け継ぐところから始めており、裁判制度一つ取っても、トップの数人を馘にしただけで後の職員はそのまま新政府に継続採用されていたという。
 このような状況は、出版規制においても例外ではなかった。当初の明治新政府は、従来の制度を引き継いで、出版前の事前検閲を義務づけていた。それを発展させ、1869(明治2)年には出版条例が成立する。この出版条例では、いくつかの変更点が挙げられる。まず第一点として、検閲制度自体は残存したものの、従来は草稿段階で検閲していたものを刊行段階とした。また、内容についての規制として、従来の政治批判などに加え、風俗を乱すものや猥褻記事の禁止をもうたった点である。そして明治5年にはこれも改定され、猥褻をはじめとする風俗関連の記事への規制は大幅に後退している。また、新聞紙についても同様の規定が設けられている。
 しかし、政治的問題については、その後再び規制が激しくなる。従来は、むしろ政府の意向などが新聞や出版によって広く伝わることを肯定的に捉え、報道の自由などをむしろ積極的・広範に認めようとするのが通例であった。しかし、征韓論の政変で西郷隆盛らが失脚した辺りから、新聞紙が一斉に政府批判に傾き、岩倉具視が襲われるなど実際に危険な状態となっていた。このことから、1875(明治8)年には、讒謗律および新聞条例(注15)が制定された。このうち前者はいわゆる名誉毀損を処罰するための規定であり、一方新聞条例は新聞全体に対する規定であったが、特に治安目的での表現規制を認めた点で大きな画期であった。さらに、その翌年にはこの条例が早くも改正され、これにより広範な行政権による発行禁止が認められることとなった。これにより、実際にここからの数年で発行禁止や記者の投獄が相次いだ。
 出版条例についても、ほぼ同時期に同様の改正が為されている。

 意外に思えるかもしれないが、戦前の出版統制に関する基本的な法律は、明治期に完成されている。その後、いくつかの改正を経ることにはなるが、基本的にはこの時の出版条例・新聞条例をそのまま踏襲していると言って良い。
 これらの規制は、最終的に1893(明治26)年の出版法の公布、1910(明治43)年の新聞紙法の公布によって完成する(注16)。この間には何度も改正を経ているが、それを逐一追うのは煩雑なので、完成後の制度を概観しつつ変化を確認しようと思う。また、新聞紙法(条例)と出版法(条例)には多少の制度差異があるが、主な部分は類似しているのでここでは一括して見ることにする。
 まず、発売前の処分についてであるが、従来の事前提出による許可制度は、1887(明治20)年の改正(後述、版権条例が分離された改正である)によって廃止されている。従って、形式的にはこの段階で検閲制度はなくなったことになる。ただし、その後も出版警察によって検閲がされていたことは否めない事実であり、これを以て検閲が廃止されたと解釈することは困難に思える。
 次に、掲載禁止事項が定められているが、これについて例示されているのはいわゆる政府機密に属するような内容がほとんどである。しかしこれとは別に「内務大臣が差止めた記事」とあるので、ここが広範な規制を認める論拠となりうる。
 更に、発行された後に、政府側は行政処分の権限を有する。発行禁止については1897(明治30)年に司法処分とされたが、その他の発行差止・発売禁止などの処分については未だ内務大臣が権限を持っていた。特に掲載事項を理由とする発売禁止については、安寧秩序紊乱・妨害や風俗壊乱の名の下、広範な範囲に渡って規制が可能であった
 そして甚だしい場合には、刑法とは別に司法の名の下で罪に問う規定も置いていた。

 このような流れの中で、大正時代には、従来は一体化して行われていた出版・販売・取次(注17)がそれぞれ別々の事業として行われるようになる。

(3)著作権概念−版権からの分離−

 一方、従来は出版権として認識されていた著作権概念についても、西洋文化の受容に伴い見直しが迫られることになった。明治2年の出版条例の当時は、未だ江戸時代の制度を受け継いだ、出版者の権利、すなわち版権(注18)のみが意識されていた。また、その目的は国家に有益な本を出版する者の費用を担保するため、という側面もあり、この版権は特許制を採っていた。しかし、明治20年に出版条例と版権条例が分離されるとともに、版権条例には今までより大きく踏み込んだ内容が認められることになった。中でも大きいのは、従来は特許制だった版権を登録制にしたこと、そして初めて著作者人格権(注19)を認める規定を置いたことである。この規定はその後、出版条例同様に1893(明治26)年には版権法となった。
 そして、1899(明治32)年に著作権法(旧法)が成立する。ここに於いて初めて、現行著作権法とほぼ同様の規定――例えば、著作権は当然に発生する、著作権の拡大、外国著作者の著作権の保障――などを整備した。そしてこの著作権法の整備により、日本は同年、国際的な著作権条約であるヴェルヌ条約に加盟する。(注20)

(4)性的描写−猥褻罪の制定といろいろ−

 性的な内容については、最初に問題となったのはセクソロジー本と呼ばれる、性医学という名目で書かれた克明な描写の本であった。『造化玉手箱初篇』(1880年)がこの系統における初めての発禁本であり、その後も次々と検閲が厳しくなっている。
 1890(明治23)年に布告、1892(明治25)年に施行された刑法には、猥褻に関する罪も項目として立てられており、ここで初めて単なる「風俗紊乱」に留まらず、犯罪として猥褻物の公然陳列・販売が定義されたことになる。前述の造化玉手箱初篇などは、科学的に徹した類書に対してより読みやすく平易に書かれたものであり、これが規制の対象となった原因であろうと考えられる。
 一方、このような「形」の描写に対し、「ココロ」の方を問題とした発禁も明治30年代ごろから散見されるようになる。
 しかしその一方、昭和初期にはいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」と呼ばれる頽廃的な文化が普及したこともある。
 大きな回収騒ぎでは、1928(昭和3)年の『婦人世界』10月号で「思春期の性的悪癖の予防法と矯正法」として特集を組んだものが20万部回収されたことなどが挙げられる。(注21)
 多くを追うことは控えるが、戦前からこのような問題が存在していたことだけを書き記しておく。

(5)治安維持法の成立−思想統制の時代−

 国内の思想統制のための法律としては、既に1900(明治33)年に治安警察法が存在しており、労働運動や農民運動につき、結社・集会の届け出の義務や、それに対する禁止・解散権、公的身分の者や学生・女性などの政治結社加入禁止などが定められていた。しかし、これらの行政警察的な手法だけでは、特に第一次世界大戦以降の社会主義の興隆には対応することが出来なかった。そこで、加藤高明内閣は普通選挙法と同時に、1925(大正14)年に治安維持法を制定し、国体の変革や私有財産制度否定の思想について刑罰によって処罰しうる制度を置いた。これはその3年後、田中義一内閣によって、最高刑に死刑が加えられるなどの強化改正がなされた。しかしこの法律が、実際には曖昧な条文を楯に弾力的に解釈され、多くの処罰者を産んだことは多言を要しない。そしてこれは出版についても当然に影響しており、小林多喜二の例を出すまでもなく、言論弾圧の中でさまざまな悲劇が起こっている。

(6)少女雑誌に見る戦争の影−言論統制の本質とは?−

 昭和10年代後半から20年代初頭にかけての言論統制については、先行研究が数多く、また網羅的に述べるには複雑すぎる。そこで、ここでは少し変わった資料に沿って論を進めてみたい(以下、中川裕美氏の研究にほとんど拠っている)。
 明治時代中期には、既に「少年園」「少年世界」といった雑誌が創刊されていた。この頃はまだ対象読者について男女は分化していなかったが、やがて1902(明治35)年創刊の「少女界」をはじめとして少女雑誌が創刊される。明治・大正の一時期は少女雑誌が乱立したが、一時期の過当競争などにより、結局戦時規制を受ける時期まで残存したのは「少女の友」(実業之日本社)「少女倶楽部」(講談社)と言った程度だった(注22)。
 この二誌は、編集方針に違いはあったものの、単純化すればいわゆるティーンズの少女の興味を惹くような話題を載せた雑誌であった。(注23)しかし、国家総動員法(1938年)を初めとする軍国主義の進展の中、1940(昭和15)年12月には国主導のもとで日本出版文化協会が誕生、出版統制が敷かれるようになる。この中で少女雑誌も例外とは言えず、表紙の華麗な絵は排除されて片隅には国策スローガンが掲載され、付録も廃止、中身もいわゆる軍国主義を称揚するものへと変わっていった。

 ここで、少し歴史的な観点を離れて述べるのを許して欲しい。……一般にこのような変化は、政府による「上からの押しつけ」として語られることが多い。しかし、単純にそう捉えるのは適切ではない、と私は考える。当時の社会背景や世論が実際にそのような方向に向かっていた――つまりはそれを求めたのは読者自身であった、というのもまた事実であるからである。そして、読者がより求める方向に雑誌の誌面が変わっていくのは、商業的に雑誌が出版されている以上、決して不思議ではない。
 当時は紙も統制されており、まずは軍に認められて配給されないとそもそも本を作ることも出来ない。時には上からの圧力により強制的に合併させられたりもする。類似した雑誌を作っている場合、自分の出している方が「お国のために」なるとアピールしないと潰されてしまいかねない。
 しかし、時には出版社の側が、むしろ必要以上に軍に媚びていたのもまた事実である。自分の出版社を残すため。更には単に権力におもねるという意味で。頼まれもしないのに軍国主義を称揚するような記事を書いていた。
 だからと言って戦時言論統制を正当化するつもりはない。実際に伏せ字だらけの本が出版され、非協力的な出版社には「ぶっ潰してやる」と将校が暴言を吐いた、そんな時代であったことは事実である。しかし同時に、出版が商業行為である以上、出版社側が自主的にそういう方向に向かうのは時には当然であり、そして時にはそれこそが問題である。

 戦後、これらの軍国主義的な規制は排除されるが、今度はGHQの指令によりプレス・コードが設けられ、やはり占領軍にとって都合の悪い記事は検閲により削除される運命を辿った。少女小説もこの例外とはならず、例えば「少女倶楽部」の、原爆投下に関する記事が削除されている。(注24)このプレスコードは、1949(昭和24)年10月のCCD(民間検閲局)の廃止まで続いている。



4 そして現代へ

 終戦とともに、戦前に制定されたさまざまな出版統制は全て廃止されたが、一時的には前述の通りGHQの「プレスコード」がしばらくは適用された。これは1945(昭和20)年9月21日、占領後間もなくに発表されたもので、これによってGHQは事実上の全般的な検閲権を手に入れることになる(名目上は「出版機関を教育し出版の自由の責任と重要性を指し示す」ということになっているが)。しかし、実際には「公安を妨ぐる」とかの理由で都合の悪い内容は規制され(そもそも連合国批判は無条件で掲載禁止だった)、特に原爆を扱った問題などは即削除だった。更に、検閲した跡を×××などとして残すことすら許されず、そのために辻褄を合わせる手間や損失を得ることなども関知しなかったという。正直言えば、戦前より酷い状態である(注25)。
 しかし、このような状態も占領下の数年間だけであった。GHQの規制の終了によって、本稿がこれまで対象としてきた、思想的な点を理由とする統一的な出版政策はほとんど消滅することになる。
 この後の出版の問題については、むしろ憲法学的な「表現の自由」の問題として捉えられることになる。一方で他の人権意識の高まりとともに、例えばプライバシーの権利との対立、名誉毀損、少年法や児童ポルノといった少年保護との関係、あるいはわいせつ罪との関係などが問題となる。これらについては、歴史的な観点より法律論的な問題の方がはるかに多い。
 まず、個人情報については戦後徐々に保護意識が強くなる傾向にある。特に最近はネットの普及によりデータの検索能力が上がるとともに情報流出の危険性も上昇していることから、個人情報保護法の施行をはじめとして強力な規制が行われる傾向にあった(注26)。最近では田中真紀子氏の娘についての記事について週刊文春が発売を差し止められたのは記憶に新しいところである。
 猥褻については、戦後にこの点が問題となった例としては、古くは「チャタレー夫人の恋人」事件から、「悪徳の栄え」「四畳半襖の下張」など、さまざまなわいせつ文書が問題となっている。もっとも、わいせつの概念は時とともに移り変わるのも事実である。最高裁で有罪を認定された「チャタレー夫人の恋人」は既に完全版が出版されており、ヘアヌードは80年代後半に解禁された。
 いわゆる「二次元絵」のポルノの問題は、90年代初頭の有害コミック排除運動により「成年コミック」のロゴが付けられるようになり、21世紀に入ってから起こったいわゆる松文館裁判は未だ係争中である(注27)。全体的には一時的に徐々に規制が緩やかになる方向にはあるとも思えるが、揺り戻しがどう来るかは今後見守るべき課題である。(注28)

 事例をいくつか列挙したが、結局は戦後の出版統制は結局は個別判断に過ぎないと評価しておく。もちろん、時代の変容とともに、それに合わせて制度も変わっていく。しかし、根本的な制度においては大きな変容はない。基本的には「表現の自由」を大義名分に挙げつつ、それは時には政治的な利害とともに、時には「公序良俗」の名の下に左右されている。……もちろん「表現の自由」あるいは「報道の自由」の名の下に全てが許されるわけではない。しかし、戦後の表現規制が「戦前と全く違う」かと言えば、私はそうは言えないと考える。

終章 インターネット時代

 インターネットの普及は、このような出版の歴史をどう塗り替えるであろうか。
 
 出版の効用の一つは、容易かつ広範に情報を提供できることである。口コミで伝わる情報は限られているが、これが書物になると途端に一般人によるアクセスが容易である。しかし、この段階では、そうは言っても出版物を全て自らでコピーすることは容易ではなく、回収する、あるいは撤回することによって、その出版物の影響力を大幅に減じることが可能であった。しかし、インターネットにおいては、差止めは大抵の場合さほど大きな意味を持たない。データは簡単に複写することができ、それはたとえ差し止められても簡単にデータを保存した者により再度提供されてしまう。また、情報提供者が末端の一個人にまで影響することで、隠匿した情報も簡単に明らかにされる。少年犯罪に際して、インターネットで実名が明かされてしまうことは、もはや珍しい事件でもない。発信者、受信者の両方の意味でのアクセスの容易さ、これがインターネットの最大の特徴である。
 口伝から書物が生まれた時、その書物が写本から出版に発展したときと同様、このネットという社会の登場は大きなトピックであると言って良い。表現の自由との関連でも、ニフティ現代思想フォーラムにおける名誉毀損訴訟、「2ちゃんねる」における名誉毀損が認められた事件などが既に発生している(東京高判平成14年12月25日)(注29)。また、それ以上に、P2P技術の発展(もしくは蔓延)は既に無視できないものとなっている。出版物の対価性の中のある程度は失われる可能性を持っている。

 今後、出版が果たしてきた役目のうち一定の部分は、インターネットに吸収されることになろう。一例を示すと、「高等裁判所民事判例集」、法律学文献では普通「高民集」と略される書物がある。これは戦後間もなくから50年以上の長きに渡って出版されてきた雑誌であるが、2001年に、今後はインターネット上に掲載するものとして休刊されてしまった(注30)。特にレファレンス系の資料では、今後このような文献はどんどん増えることが予想される。
 もちろん、現在語られるネット社会はまだ「社会のごく一部」の存在である、という反論はあるだろう。確かに今はまだそうかもしれない。しかし、将来的にこの役割はどんどん大きくなり、それに対して役目が縮小することは(次のより新しい技術が登場するまでは)ないだろう。少なくとも社会全体の構成要素の一部として、既にインターネットは組み込まれている。

 江戸期の出版の状況から歴史が語るように、こういう状況に対して、制度はいつも後手後手の対応しかできない。そして、現在も発展中のこのようなIT文化の行く末がどこにあるのかは、もはやここで語りうる対象ではないだろう。……しかし、出版の歴史を語ることによって、この変化に対する何らかの示唆は与えられているのではないかと私は信じている。
 私はこの文章を、「日本出版史」として記してきた。インターネットが象徴するとおり、今後はもはや「日本」というくくりでは出版史は語れなくなる可能性が高い。しかし、だからと言って一朝一夕にグローバルスタンダードが成立するとは思えない。少なくともこの島国で、どんな経緯が繰り広げられてきたか。それを知ることの意味は失われてないと考える。

 最後に、出版を規制する、表現を規制すると言うことに対して、東京高裁の判決文に現れたいわゆる「対抗言論の法理」と呼ばれる部分を引用して結びに代えたいと思う。
「自らの意思で社会に向かって発言する者は,当然,自己の発言・主張が反対の立場の者から批判され,反論されることを覚悟しなければならない。名誉毀損となる人格攻撃がされたとしても,批判や反論は,論争点に関連している限り,許容される。節度を越えたかどうかは,論争の聴衆によって判断され,論争の場に自ら身を置いた以上,批判には対抗言論で答えるべきであり,公権力を借りて批判を封じるようなことは,よほどのことがない限り許されない。」(東京高判平成13年9月5日)



注釈

(注1)後漢書巻七十八宦者列伝中の蔡倫伝。宦官であった彼は政治的にも活躍したが、最後は政争に巻き込まれて自ら命を断ったと記されている。
(注2)なお、製紙技術については、日本では平安時代に「流し漉き」の技術が導入されたことにより格段に質が上がっている。その特徴としては、繊維に質の良い粘液「ネリ」を混ぜること、そして一気に水を切る「捨て水」をすることが挙げられる(以上、鈴木)。
(注3)なお、これらの百万塔陀羅尼の一部は、明治の廃仏毀釈の時期に、寄付金を得るために一般に流出している。そのため、法隆寺に保管されている物は国宝指定を受けているが、他にも個人蔵のものがある程度あると見られる。現在でも流通しており、ネットで検索した範囲では平成16年東京古典会オークションに出品されているのが確認できた。
(注4)発表当時は韓国でこれより古い印刷物があると記していたが、2007年3月10日付読売新聞の記事によれば、同時に発見された文書が解読され、それによると経文は11世紀の修理の際に収められた可能性が高いとのことである。よって世界最古には該当しないと考えて、該当文章は削除した(合わせて前後の文章も調整している)。以下、参考までに記す。「また、単純に「世界最古」であるかどうかが怪しい、というよりほとんど否定されている。韓国慶州の佛国寺の釈迦塔から印刷された経典が出ており、経自体の年代は明確ではないが、釈迦塔の築造年代が751年とされていることから、経典の印刷時期もほとんど同時期ではないかと考えられている」
(注5)特に宋版は美麗であることで知られ、明の愛書家が自分の妾と宋版の書物を交換したとの逸話まである。
(注6)ただし、この説に関しては最近は異論が強い。その根拠となる最大の点は活字を組む方法の違いであり、朝鮮式は活版の間に接着剤を入れて安定させて組んでいるのに対し、日本の古活字版は接着剤をいっさい使わずに単純な木組みで作られている。このことから、確かに印刷方法自体は朝鮮活字版に近いが、活字版自体の技術はきりしたん版から多大な影響を受けており、朝鮮活字版の技術を使って云々というのは、耶蘇教禁制の状況下での言い訳だったのではないかとも考えられる。
(注7) この光悦本や嵯峨本の定義についても本来は複雑な物があるようだが、煩雑な傍論になるので詳細は省略する。
(注8) ここでいう書店というのは、印刷・出版・販売をすべて行う形のものだった。この形態は江戸時代を通して、書店業者の一般的な営業形態である。
(注9)一人で持つ場合(丸株)だけではなく、複数の書店が共同で持つこともあった。このようなケースを部分株または相合株と呼び、このような場合には板木自体を分割して持ち、片方が無断で出版できないようにしていた。
(注10)板木の中の数枚だけを作者本人が所有しておくことにより、書店が勝手に出版することを防ぐ方法。
(注11)この頃までは好色本どころかいわゆる春画、春本に関しても全く規制が加えられず無法地帯の状況だった。これに対する規制の反動として、本来そんなにポルノ的要素の強くない井原西鶴なども必要以上に規制されてしまった面があるようである。
(注12)心中は風紀紊乱の極致と思われており、現実の心中に関しても、失敗した場合は晒の上で非人身分に落とされることがこの頃に規定された。
(注13)高価で美しい物は皆禁止、わざわざ多色刷りの色数制限まで加えている。茶屋の看板娘などの錦絵も禁止された。原文によると『女絵は大人、中人みな無用、幼女に限り申すべきこと』とのことである。
(注14)読売新聞、東京日日新聞、などなど。
(注15)現代的な地方公共団体の「条例」ではなく国の法律である。念のため。
(注16)なお、この法制度において、雑誌は何故か新聞紙法の側の規制対象とされていた(学術雑誌は例外であったりややこしいのだが……)。この2つの法を統合しようと言う法案も提出されたが、結局成立していない。
(注17)なお、戦前には取次会社は大手4〜5社他多数あったが戦時統合により日本出版配給統制株式会社の一社に統合(現在の日販)。現在はトーハンと日販がほとんど寡占状態である。
(注18)なお、「版権」の後が初めて登場したのは明治8年の出版条例である。
(注19)著作者に一身専属する、財産権とは分離した固有の権限。現行著作権法で言えば公表権、氏名表示権、同一性保持権である。
(注20)その後、日本の著作権法は幾度かの改正を経て1970(昭和45)年に新しく現行の著作権法を公布。一方、国際条約の方も、無方式主義を採っている弊害から万国著作権条約が1952(昭和27)年に成立、日本は1977(昭和52)年に批准している。なお、ヴェルヌ条約自体も現役である。
(注21)本論とは関係ないが、1930(昭和5)年には「有害避妊用器具取締規則」が公布されている。「有害」と一応付いてはいるが事実上は一律規制であったらしい。
(注22)他に「少女画報」(末期は少女画報社、1942年統合)、「日本少女」(小学館、1942-1944)などがあった。
(注23)少女倶楽部は教育的な傾向があるのに対し、少女の友は娯楽的で、「夢のような美しい世界」が意識されていたという。
(注24)その後のこの二誌について簡単に触れておく。戦後、少女漫画の隆盛に押されて、いわゆる文章系の少女雑誌は衰退してゆく。「少女の友」は1955年に終刊(なお、「なかよし」「りぼん」の創刊と同時期)。「少女クラブ」(戦前から改名)はもうしばらく存続したが、結局1963年に終刊。なお、これに代わって創刊されたのが、日本初の週刊少女漫画誌だった少女フレンドである(1997年休刊、別冊フレンドは現存)。なお、同社については、その後80年代に少女小説のブームが起きた際に講談社X文庫ティーンズハートが大躍進したが、その後凋落し、2006年3月をもって発売は終了した。コバルト文庫(集英社)を代表として今も少女向けと呼ばれるレーベルはあるが、従来の少女小説的な作品は数少なくなっている。
(注25)日本人だけでなく、外国記者の記事なども規制を受けていた。例としてGHQに提出された原爆ルポが握りつぶされた事件など。
(注26)ただし、公共に必要な情報との線引きは未だ難しい情報である。平成17年4月25日の福知山線事故で病院が入院者名簿を公表しなかった問題などが挙げられそうである。
(注27)ビューティーヘア「蜜室」がわいせつ文書にあたるとして、出版社の社長、編集長および漫画家が逮捕された事件。出版社社長については正式に起訴され、一審(東京地判H16.1.13判タ1150-291)は懲役1年、執行猶予3年の有罪判決。控訴審(東京高判H17.6.17)は、「漫画は実写よりわいせつ性に相当開きがある」と言った上で、有罪判決は維持したものの罰金150万円に減額。2007年3月現在、最高裁に上告中。
(注28)本稿執筆中に、神奈川県において「グランド・セフト・オート3」が残虐ゲームであるとして有害図書指定を受けた。ゲームにおいては初めての規制である。ただしこれは残虐性の問題であり、性的問題とは一切関係ないことに注意。
(注29)なお、このような匿名掲示板の文化は日本独自のものである、という点は非常に興味深いが、それを分析しうる力がないのが残念である。
(注30)ただし、ネット発表でありながら巻号は従来通りに振られている。



参考文献
◎書物
今田洋三 「江戸の本屋さん」 (日本放送出版協会、1977年)
今田洋三 「江戸の禁書」 (<江戸>選書6、吉川弘文館、1981年)
鈴木敏夫 「江戸の本屋(上・下)」(中公新書568/571、中央公論社、1980年)
鈴木敏夫 「プレ・グーテンベルク時代−製紙・印刷・出版の黎明期」
(朝日新聞社、1976年)
川瀬一馬 「入門講話・日本出版文化史」(日本エディタースクール出版部、1983年)
中村喜代三「近世出版法の研究」(日本学術振興会〔発行〕、丸善〔発売〕、1972年)
日本書籍出版協会京都支部〔編〕
「日本出版文化史'96京都:百万塔陀羅尼からマルチメディアへ」
(日本書籍出版協会、1998年)
章培恒・安平秋「中国の禁書」(新潮社、1994年)
小田光雄 「書店の近代−本が輝いていた時代−」(平凡社新書184、平凡社、2003年)
清水英夫 「出版学と出版の自由」(日本エディタースクール出版部、1995年)
佐藤卓己 「出版統制」(中公新書1759、中央公論新社、2004年)
牧英正・藤原明久編「日本法制史」(青林法学双書、青林書院、1993年)
月刊『創』編集部〔編〕
「「有害」コミック問題を考える:置きざりにされた「性表現」論議」(創出版、1991年)
国文学研究資料館〔編〕「明治の出版文化」(臨川書店、2002年)
半田正夫 「著作権法概説」〔第9版〕(一粒社、1974-1999年)

◎論文
阿部隆一 『五山版から江戸の版本へ』(講演記録)
 (「ビブリア・天理図書館報」79号、1982年)
今田洋三・中尾三敏・宗政五十緒・緒方仂『(座談会)近世の出版』
 (「文学」49巻11号、1981年)
今田洋三 『筆禍と出版機構』
 (「国文学 解釈と研究」42巻11号、1997年)
吉原健一郎『江戸板木屋仲間と違法印刷−化政期を中心に−』
 (「文学」49巻11号、1981年)
渡辺守邦 『版面を読む−古活字版の印刷と出版』
 (「文学」49巻12号、1981年)
中田祐夫 『法隆寺百万塔陀羅尼の印刷』
 (「文学」49巻12号、1981年)
大内田貞郎『近世木活字による印刷と出版』
 (「文学」49巻12号、1981年)
大内田貞郎『「古活字版」のルーツについて』
 (「ビブリア・天理図書館報」98号、1992年)
大内田貞郎『「古活字版」のルーツ、そして終焉(消滅)』
 (「ビブリア・天理図書館報」113号、2000年)
大内田貞郎『東洋における印刷技法と日本の書物装訂・印刷について』
 (「杏雨」4号、2001年)
森上 修 『古活字版印刷術の伝来――きりしたん版との出会い』
 (「日本古書通信」60巻8号〜9号、1995年)
伊藤孝夫 『近世日本の出版権利関係とその解体』
 (「法学論叢」146巻5〜6号、2000年)
中川裕美 『『少女の友』と『少女倶楽部』における編集方針の変遷』
 (「日本出版史料」第9号、2004年)
奥平康弘 『日本出版警察法制の歴史的序説』
 (「法律時報」39巻4号〜11号(7号除)、1969年)
美作太郎 『出版における「自主規制」の問題点』
 (「ジュリスト」378号、1967年)
清田昌弘 『戦前の受験雑誌にみる出版事情』
 (「日本出版史料」第2号、1996年)
川村邦光 『セクソロジー 明治の“造化機論”から戦後版『完全なる結婚』まで』
 (「国文学 解釈と教材の研究」47巻9号、2002年)
川津 誠 『GHQとプレスコード 占領軍検閲の実態』
 (「国文学 解釈と教材の研究」47巻9号、2002年)
石原千秋 『不純な男女交際 『女に思はるゝ法』『きむすめ論』など』
 (「国文学 解釈と教材の研究」47巻9号、2002年)

◎レジュメ
NF   『日本民衆文化史<改訂版>』
 (2002年12月6日〜13日発表)



補足

 本稿は、過去に部分的に発表したいくつかの論考に加筆を加えて歴研内で発表したものです。

 @『「出版」という名の新概念−江戸表現規制の現代的意味を考える−』
     京都大学法学部日本法制史演習(伊藤孝夫ゼミ)発表、2002年11月29日
 A『日本出版制度史(その1)』 京都大学歴史研究会発表、2003年10月24日

 第2章、江戸時代の記述についてはほとんどAの原稿を使用しています。Aの後「その2」として発表する予定がそのまま放置され、それを今回全体的に手を入れたものが本稿になります。
 1年半のブランクに加え間に引っ越しを挟んでいることで当時の資料の散逸は甚だしく、一時は前回の発表データも含めてほとんど全ての文献資料が散逸しているという状況に陥りました。前半部分ももう少し改稿しようと考えていましたが、結局はほとんど原型のままで発表していることを断っておきます。なお、インターネット事情については@の事例は古くなっていますので、ほとんど書き換えています。

 また、2007年3月の段階で、その後の新発見や状況の変化に応じて、若干の加筆訂正を加えています。そのため例会発表時のそのままのレジュメではありません。


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