2005年5月20日
中国史概説  田中愛子


<はじめに>
 私は、学識継承システム化会議から、以下のことを学んだ。歴研には、世界史TB未履修で入会された会員もいらっしゃる。そうした方々への便宜をはかるべく、通史をコンパクトにまとめたものが必要である。また、短時間で手軽に読める史学書があれば、たとえ将来日々の業に忙殺されて歴史研究から遠ざかることがあろうとも、少しでも学識を維持しておくことができる。そこで通史概説を
 ……というのは口実で、平生より、殊に、2004年度11月祭発表展示「ビザンツ帝国史」を作成してより、歴史の本質のみを述べた通史を作成する楽しさにすっかりハマってしまったのである。というわけで、歴史の本質を探究する世界の通史、世界通史概説シリーズを作成したいと思う。
 最後に、歴研会員の皆様にお願いしたい。私の能力のみでは、到底このシリーズを質の高いものにすることはできない。このシリーズを良質で価値ある作品と為すべく、是非皆様にご質問・ご意見・ご批判・ツッコミその他をどしどし入れていただきたい。


<古代>(都市国家の時代〜晋)
 紀元前4000年頃、中国に農耕文明が築かれた。人々は外敵に備えるため、集住して住居域の周囲に防御壁を築造していたが、それが拡張して都市国家が形成された。紀元前17世紀頃から、都市国家は盟主の許に連合するようになった。
 都市国家間の抗争は次第に激化していった。戦争の結果として、征服民と被征服民の身分差が生じる。中国の都市国家の場合、征服民のみが従軍の義務・権利と参政権を保有していた。ところが、戦闘が大規模化すると、従来の被征服民も軍役を負担するようになり、それに伴って参政権が認められるようになったため、身分差が解消されていった。また、都市国家の併呑により、被征服都市の独立が失われ、紀元前5世紀頃、領域国家が形成された。こうした国家規模の拡大により、国の組織化が進展し、成文法の制定や君主権の強化が行われた。この時代、各国の富国強兵策も手伝って、開発や生産技術の発達による生産力向上が遂げられた。そのため、商業活動が活発化、それに伴い、貨幣経済の発生、交通の活発化といった現象が発生した。また、広域流通は、統一統治の必要性を発生させた。
 相次ぐ抗争と征服の結果、紀元前3世紀後期、統一が成された。統一帝国が形成されると、その頂点に立つ皇帝は、交通・流通の整備画一化等、統一政策を進めた。この統一は一時的なもので、性急な改革政策に対する反発のために間もなく倒壊したが、戦乱が終息すると、やがて社会は安定と生産力を取り戻し、再び統一へと向かい始めた。紀元前2世紀後半頃を中心に、中国の経済は好況の時代を迎えた。


<中世>(晋末〜唐中期)
 経済発展により、勢力を伸張する者もいる一方、没落する者もおり、貧富の差が拡大した。好況にも限界があり、開発や技術革新の打ち止め、人口の増加のために、経済状態に翳りが見えるようになった。経済状態の悪化のために小農民の生活が苦しくなってゆくと、小農民は、税負担から逃れるために逃亡、有力者に隷属していった。一方、有力者は、没落民の土地を購入したり、没落民を使役して土地を開拓させたりして、大土地所有を展開した。その内部では自給自足の経済体制がとられており、耕作は土地の主に隷属した農民によってなされていた。また、この隷属民は、非常時には私兵として従軍しもした。自らの土地という財産に基づく権力は、代々相続されるものである。そのため、やがて権力を世襲する貴族という身分が形成された。有力者の保有する土地には、中央政府の支配が及ばない。中央政府は税収・兵力不足により弱体化、支配力を喪失した。2世紀後期、貧困による反乱をきっかけに、軍閥化した有力者達が割拠し、彼らの支配権が強まった。皇帝は、有力者の既得権益を追認・保護し、それにより自らの主権を認めさせることで、彼らを自らの許に統制した。
 1世紀頃から、異民族が中国内地に移住してくるようになった。精強な異民族兵は、重要な戦力供給源であり、各軍閥は彼らを大いに利用した。3世紀後期の一時的統一が程無くして崩壊し、再び激しい軍閥の抗争が巻き起こると、その戦力として多数の異民族軍が取り入れられ、彼らによって華北にいくつかの政権が築かれた。一方、華南には、漢民族による政権が築かれた。
 5世紀中期、華北の一勢力が華北を統一すると、6世紀後期には華南の政権を打倒し、中国全土を統一した。積極策による国内の混乱を経て広域にわたる安定政権が築かれると、国内は安寧を回復、活発な対外交易がなされるようになり、好景気が現出した。


<近世>(唐後期〜)
 従来の私兵の流れをくむ兵制では広大な帝国の辺境を防衛しきれなくなったため、8世紀中期、政府が没落民を傭兵として雇用する兵制に切り替えられた。この頃、人口の増加や外冦による疲弊のため、中央政府の弱体化が進んだ。すると、辺境の駐屯軍によって形成された軍閥が自立化し、一部は王朝を建設した。戦乱が相次ぎ、武力本位の時代となると、長期間の安定や軍事面での変化により最早さしたる軍事力を持たなくなっていた貴族は、没落への道を辿っていった。
 10世紀頃から、資源開発、技術革新、地場産業の発展から、商業活動が活発化した。その結果、流通が促進され、交通網が発達した。中国東部を縦断する大運河が、急激に拡大した交通の需要を支えた。また、商業活動の活発化や生産力の向上、輸送手段の進歩により、貨幣経済の盛行や、絹、陶磁器、茶等の対外輸出の増加といった現象が発生した。中でも、新田開発や地場産業、そして大運河南端という地の利による江南の発展は目覚ましく、14世紀中期頃には、他の地域を圧倒し、中国最高水準の経済・文化水準を誇るようになっていた。商業活動の活発化により、中国社会は商業本位の時代を迎え、兵の傭兵化、商業勢力と政府の結合、塩の専売制等に見られるように、国家も財政国家化した。なお、この政府による塩の専売は、塩の密売人の反乱による王朝打倒という、王朝交代の定番のパターンを生み出した。塩の専売による収益は、政府収入のかなりの領域を占めている。政府は、収入不足になると、塩の値段を吊り上げる。このため、経済状態が悪化した際には、食い詰めた人々が塩の密売人として暗躍する。政府は、収入確保のために塩の密売を厳しく取り締まる。すると、追い詰められた密売人が反乱を起こし、王朝を打倒したり、王朝が打倒される原因となったりするのである。
 没落した貴族に代わり、皇帝と平民が台頭した。独立状態にあった軍閥を抑え、10世紀後期に統一帝国が建設されると、中央集権政策がとられ、皇帝独裁システムが確立された。平民の台頭に伴い、平民の間には階層分化が生じた。上層の平民にあたるのが、大商人及び地主である。地主と小作人とは、土地を貸し付け、その代償に地代を納めるという契約を結んでいた。この契約関係は、地主=資本提供者と小作人=経営者の関係であるとも言える。政治の担い手である官僚を輩出したのは、この地主層であった。
 その後、中国社会は、あまり大きな変容を遂げることは無く、好況と不況とを反復しつつ経済成長を続けてゆき、政治面での失策や経済の行き詰まり、それに伴う内乱や外冦等で王朝が倒壊しては、新たな王朝が建設される、といったことが繰り返された。

 19世紀、西洋は産業革命を経て強大化していた。経済の未曾有の急成長を遂げつつある西洋諸国は、資本を必要とし、中国を利用した商業活動で利潤をあげようとしていた。強大化した西洋の前に、中国はなすすべもなく蚕食されていった。こうなると中国も強国に倣うより他なく、西洋化の時代を迎える。その後、植民地化と内戦、社会主義経済の失敗等を経、現在に至る。


<おわりに>
 中国史を扱った書籍には、名著『中国史』(宮崎市定)がある。このレジュメは、『中国史』の総論と変わりばえせず、こちらを読むまでもないという存在意義の薄いものとなってしまった。書きあがった後、参考にとMy先輩の『軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史』及びNF先輩の「中国民衆文化史」を読み、さらなる存在意義の薄さを思い知らされる始末。こうした先賢からの影響を大いに受けており、その受け売りが多くなってしまったためである。今後、もっと価値あるレジュメを作成できるよう、努力したい。


参考文献
宮崎市定『中国史』(岩波書店、1977-1978年)
My『軍事史概説 戦略と戦術の東西文明五千年史』(京都大学歴史研究会、2005年)
NF「中国民衆文化史」(京都大学歴史研究会、2002年)
歴史研究会会員各位


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