2005年7月15日
古代エーゲ文明  K.K.


石器時代
 アルゴリス半島の南西端にあるフランクティ洞窟では、原ギリシア人(後にギリシア人となる人々)の定住する以前、今から2万年前の旧石器時代から、前4000年紀の新石器時代の終わりごろまで、狩猟・採集のベースキャンプとして断続的に利用された。1万5千年ぐらい前までは、野生の驢馬や鹿を主たる獲物とする狩猟生活が主要形態であったが、1万2、3千年前の旧石器時代晩期になると、小規模な漁労や貝の採集、野生の大麦や木の実(ピスタチオ・アーモンド)、豆類の採集が見られるようになる。石器では細石器に混じって、ミロ(メロス)島産とおぼしき黒曜石が検出されている。これは1万年前にエーゲ海航行のあったことを証明する。
 紀元前7000年紀の中石器時代になると、鮪の骨とミロ島産黒曜石が大量に出土する。漁業や鉱物資源を求めての海上活動が盛んになったと思われる。
 紀元前6000年紀以降の新石器時代には、羊・山羊の家畜類と、大麦・小麦の栽培植物の出現により生活様式は一変する。狩猟・採集生活は後退して、牧畜と穀物栽培を二本の柱とする混合農業が基軸となり、食体系が大きく変わったばかりか、フランクティでも近い開けた土地に集落が営まれるようになった。これらの家畜・栽培植物は、これ以前には遺跡で発見されておらず、栽培・飼育技術ともにアナトリアからもたらされたらしい。ギリシア全体とすれば中部ギリシア以北、特にテッサリア地方の湖沼河川の水利に恵まれた地点(セスクロ、ディミニ)に多く分布している。これは新石器時代の社会基盤が穀物栽培と牧畜であったことに深く関わるのだろう。後期になると、遺跡はギリシア南部からキクラデス諸島の一部まで広がっている。クレタ島ではクノッソスの新石器文化は前6000年まで遡る。新石器時代の指標となるものとして、幾何学的文様を施した彩文土器の他、豊満な肉体の裸婦をかたどった土偶がある。これは明らかに豊穣信仰に関わるようであるが、北ギリシア出土のものは、アナトリアの土偶との類似が濃いのに対して、クレタ島のものはやや趣が異なる。

青銅器時代
 新石器文化から青銅器文化への移行は、前4000年紀末に置かれる。ギリシア本土の青銅器文化はヘラディック文化、クレタのものはミノア文化、キクラデス諸島のものはキクラデス文化と呼ばれる。青銅器時代の文化といっても、エーゲ世界では青銅製品が大量に使用されたわけではない。ミロ島の黒曜石や石器、土器の類は依然として生活用具の根幹を成していた。しかし、経済生活の面で重要な変化が生じた。オリーブ栽培が前3000年紀の初期青銅器時代から始まった。オリーブ栽培の土地利用の最大のメリットは、オリーブ樹間に穀物を栽培できる点にあった。初期青銅器時代に生み出されたこのような混作農業は、新石器時代の牧畜・穀物栽培の二本立ての混合農業と相まって、ギリシアの風土に適合した農業の典型となるものであった。生産力の増強は、定住形態にも変化をもたらし、集落形成を促した。集落は山間部を離れて沿岸に移行する傾向も認められる。
 初期青銅器時代はその第U期(前2600年前から前2100年前ごろ)が飛躍の時期であった。散乱土器片によって集落跡は確認されるものの、家屋は遺構をほとんど残さない粗末な造りで、町と呼ばれるようなものはまだ存在していなかった。だが、ギリシア本土のレルナ、クレタ東部のヴァシリキ、ミルトスにはかなり大きな館や家屋群が出現した。レルナ遺跡は、集新石器時代の集落跡の上に築かれた、前3000年紀の半ばからの集落の存在を明らかにした。そこには繰り返し再建されながら続いた建物の跡が見られる。建物は最後には東西25メートル、南北12メートルの複数階の大規模な建物となった。エウボイア島のマニカ遺跡には道路で区画された大都市遺跡と呼べるものがある。なお、マニカはヨーロッパ最古の都市であった可能性もある。またケオス、シュロス、メロスなどのキクラデスの島々に代表されるキクラデス文化が目覚しい繁栄を誇ったことは大量の墳墓群と、そこから出土する数々の豊かな副葬品や集落に残された生活用具からわかる。「フライパン」と通称される用途不明の円盤土器、カンデラと呼ばれる大理石製容器、下腹部の上に両腕を重ねる大理石の女性石偶は、「初期キクラデス文化」の代表的遺物である。「フライパン」にときおり刻文されている船の図柄や鉛製の模型は、島の住民たちの生活において海との関係を思わせる。ミロ島の黒曜石に加えて、キクラデスのこれらの遺物が、ギリシア本土のアッティカ沿岸やクレタ島のいくつかの地点で出土している。またアナトリア北西部に起源を有する土器がシロス島のカストリから出土している。これらの品々の移動は、エーゲ海を広く取りかこむ形での人と物との交流ネットワークが存在していたことを示している。
 キクラデス諸島と、レルナ、マニカなどのギリシア本土とでは遺物や遺跡の墓域の発掘によって知られるようになった遺物や墳墓形式、葬制に明らかに共通点がある。例えば、ソースボートと呼ばれる特徴ある形の土器は、ギリシア本土からもキュクラデス諸島からも出土している。墳墓形式において、墳墓は集団をなして墓地に設けるが、個々の墓は一般に他の墓と明確に区画された独立の家族簿である。しかもそれらの墓室は家屋を模して、模擬の玄関口がしつらえられている事例が少なくない(マラトンのツェピ遺跡の墳墓群)。
 ところがこのような繁栄は初期青銅器文化末期に集落が次々に火災に遭い、放棄されて終焉を迎えた。レルナは前2200年頃に突如炎上崩壊し、以後再建されることはなかった。廃墟には直径19メートルほどの塚が築かれ、人の立ち入りができなくなり、これまでとは文化的に全く異なる人々がレルナに住むようになった。時期的には、ずれがあるもののギリシア本土の多くの集落が焼失している。事情はキクラデス諸島でも同じで、ほぼ同じ時期にキクラデス文化も姿を消していった。かわって、灰色の表面の滑らかなミニュアス土器を使用する人が定着した。従来この大災害に伴うミニュアス土器の出現はギリシア人の第一波(アカイア人)のバルカン半島からの南下定住と結び付けて理解されていたが、考古学の研究の進展により、エギナ第五市は大規模火災による崩壊以前に原ミニュアス土器を豊富に有したことが、明らかになった。しかもミニュアス土器は器形が極めて限られていた。その理由はこの土器製作に用いられた技術を反映しているのだろう。ミニュアス土器を安易に新しい文化を持つ人間集団の到来と結びつけることができない。

ミノア文明
 クレタ島はペロポネソス半島の沖合約100kmにあり,面積はほぼ8,620平方km。エーゲ海の南側をふさぐように細長く横たわる。クレタ文明の担い手は小アジア系人種,あるいはそれと地中海人との混血と考えられている。
 クレタ島における農耕の開始は、本土ギリシアと同様に前6000年頃のことであった。ギリシア本土とキクラデス諸島と平行して、クレタにも高度な文明が形成された。しかし、ギリシア本土と、キクラデス諸島の初期青銅器文化が多くの共通性を有したのに対して、クレタの初期青銅器文化は独自性を有した。まず前二者では初期青銅器文明から中期青銅器文明に至る前3000年紀末に文化的断絶が見られるのに対して、クレタでは墓の使用や土器の形成などが文化の連続的発展を示している。次にクレタでは、前二者に広く共有されたソースボート型の土器の出土は西端地域を除いて稀であるが、ティー・ポットと呼ばれる土器はクレタに特有である。またクレタの墳墓は、初期青銅器時代初めから中期青銅器時代に至るまで利用された、円形の石積みの合葬墓で、家族単位の埋葬区画を示すものがない。被葬者は共同体のメンバーとして平等に埋葬され、身分的ヒエラルキー秩序を思わせる要素も乏しい。ただし初期青銅器時代の終わり頃から円形の墓に方形の納骨堂のようなものを増築したり、棺の使用が始まったりしている点は何か変化があった事を窺わせる。
 クレタでは前2000年頃の大災害は見られずに、豪壮な宮殿が建設され、第一宮殿時代を迎える。まずクノッソス、フェストスに、次にマリア、カト・ザクロに壮大な宮殿が現れた。これらが代表的な宮殿であるが、宮殿そのものはあまり華やかでなく、壁画も無くてつつましかった。しかし初期のヴァシリカ土器、そして中期の華やかで多彩な様式のカマレス土器(ろくろを使用した卵殻陶器)などが残されている。宮殿はいずれも前1700年頃、原因ははっきりしないが、おそらく地震で倒壊し、前17・6世紀に再建され、第二宮殿時代に至った。宮殿は共通の特徴を備えており、南北を長軸とする長方形の中庭を中心に宮殿付属の建物が政治(基本的に西翼部、ファイストス宮殿は立地の制約上北翼)・祭祀・居住空間・産業・貯蔵など機能別に配置され、西翼の外側には貴族の館・下町へと連続的に展開していく形が一般的である。最大の特徴としては、宮殿と下町の間に城壁を設けずに、開放的である。更にマリア宮殿やカト・ザクロ宮殿では立地においても無防備である。マリア宮殿は海沿いの開けた平野のただ中にあり、海はすぐ目の前に広がっている。カト・ザクロ宮殿では低地平坦部に位置し、200m足らずの所が良港を備えた入り江である。また王族居住区域は周囲の景観に関係していて、海に開けているか、山を望むところにあった。一方、宮殿以外にも小規模な館の遺跡も散在し、それらの館が集まり町や都市を形成している遺跡もある。
 ミノア文化は東部地中海の海上交易権を独占し前17・6世紀に最盛期を迎えた。統治形態としてはオリエントやエジプトの中央集権制度を採用していたがその統治形態はゆるかった。この頃は土器が多彩な様式から単彩な様式に退化する一方、植物文様土器やフレスコ壁画が発達した。壁画は当時交流のあったエジプトの影響と思われるが、それとは違った躍動感のある絵で、後にエジプト新王国のアマルナ美術に逆に影響を与えた。また従来の絵文字とは別に線文字Aがこの時期に使われた。
 前15世紀前半のタコやヒトデが好んで書かれた「海洋文様式」の土器は長い間、後期ミノア文化の指標とされ、東部クレタの文化に限定されていたが、クノッソスにもこの文化は確認されている。更にキクラデスやギリシア本土から出土する海洋文様式土器はミノア文化圏からの輸入品だと断定されていた。しかし、最近の土器組成分析によると、その生産地はクレタに限定されず、ギリシア本土の中南部に数ヶ所の生産の中心地があり、そこからの輸入品であると思われるものも出てきた。これは海洋文様式土器の起源がクレタかギリシア本土かという問題を残すが、エーゲ海世界で一つの趣向があった事は確かであり、この時期始まったミノア文化圏とミケーネ文化圏との直接的な関係が後のミノア文明の終わりに関係してくる。
 ミノア文明の諸宮殿は前1400年頃クノッソスを除いて相次いで崩壊している。これは通説的に、前15世紀後半からミノア文化の中枢クノッソスにおいてミケーネ人が支配権を確立して、ミケーネ人の王朝が出現し、その新王朝による地方的宮殿勢力の攻略、中央の政変に呼応した地元住民の旧支配者層に対する蜂起略奪が広範囲で起こったためと解釈される。クノッソスの最終的破壊は前1380年頃の事と考えられているが、それはクノッソスのミケーネ王朝に対する地元住民の反乱による崩壊と考えられている。またミケーネ人たちは線文字Bを残した。
 ミケーネ人の進出を示すものとしてサントリーニ(古代名テラ)島のアクロティリのフラスコ壁画がある。アクロティリは前1625年頃の火山の大噴火で埋没したが、遺跡の発掘によって、宮殿を持たずに、町には大規模な独立家屋が並存していることや、出土品からエーゲ海域の交易で得られた豊かな生活を享受する人々の存在が明らかになった。また植物文様土器やフラスコ画などミノア文化の影響を色濃く残す(フラスコ画はミノア文明をしのぐとも言われる)も、キクラデス文化の伝統に立った独自の土器を持った、クレタからの独立性を維持した高度な都市文化が存在し、ギリシア本土との接触もあったことが明らかにされている。そのフラスコ画には、クレタに対してギリシア本土のミケーネ人がアクロティリの戦闘要員として海外遠征に従事したと思われる絵もある。つまりこの時期に既にミケーネ人のクレタに対する進出があったと考えられる。
 クレタから巨大な宮殿勢力が消えても、地方的にはミノア文化の伝統は保持された。しかし本土ギリシア勢力が活動を活発化させ、キクラデス諸島のミケーネ化や、ミノア勢力に代わってロドス島やアナトリア西岸に商業都市を設けた。

ミケーネ文明
 前16世紀にギリシア本土では、ミケーネ、ピュロス、マラトンなどで繁栄の兆しが認められる。ミケーネ人たちはミノア諸宮殿の滅亡後(前14世紀以降)、ミケーネ、ティリンス、ピュロス、テーベでのギリシア的なシンメトリカル(左右相対)な平面を持つメガロン様式の宮殿を造った。これは長方形の居城の建築様式であり,中央に炉をもち,壁が厚く,クレタの開放的な形に対して北方的な要素を備えている。ピュロスを例外として、これらの宮殿の半分以上が石積の巨大な城壁をめぐらせた城塞があり、更に貯水槽への地下道や、山麓での給水保全策など明らかに敵に備える対策が見られる。また戦士、狩りなどの尚武的壁画、円頂墓、黄金の仮面、金杯、銀杯などが発見されている。
 ミケーネ社会の様相はヴェントリスによる線文字Bの解読によって、かなり詳細に明らかとなった。史料の多いピュロスにおける通説的解釈によると、ワナカ(wanaka)と呼ばれる王がいて、彼が、ラワゲタス、エケタなどの中央の役人と、コレステル、プロコレステル、家畜徴収役人などの役人を動かしていた。地方からは亜麻、羊毛、家畜や銅、武具などの手工業製品が貢納・徴収され、王宮の奴隷・職人、地方の職人などへの食料品や原材料の配分がなされていた。土地制度に関しては、共同体(ダモス)が管理し、構成員によって保有されていたコトナ=ケケメナと呼ばれる公有地と、有力者によって私的に開発され、第三者にも貸与できた私有地コトナ=キィティメナがあり、前者が主要な形態であった。この他に、ワナカやラワゲタスなどにその役職ゆえに供されたと思われるテメノスがあった。ピュロス王国には大規模な宮殿奴隷が存在した。宮殿の奴隷は女性とその子供に限られ、家内労働に携わり、その仕事にちなんで呼ばれるか、「ミラトス女」のように地名で呼ばれていた。奴隷所有は個人にまで及んでおり、王国の比較的高い階層のものに限らず、地方の青銅工にまで奴隷所有は見られた。これは国家形成後によって整備された官僚的貢納制と考えられていたが、国家形成以前の首長制に基づく再分配制度の上にワナカが乗っていたという説もある。最近では、ワナカはその上に乗っていただけではなく権力をある程度システム化したのではないかと言われている。地方共同体の長クァシレウ(qasireu・職能集団の長などとする異論もある)がワナカに先行し、しかもワナカの下位の存在として同時期に存在していたことは、首長制的な小共同体を統合しつつ、貢納制に基づくワナカの王国が成立していたことを示すだろう。ただし、ピュロスの線文字B文書から復元される政治・社会システムを、ミケーネ時代のギリシア全体に敷衍することに慎重であらねばならない。
 このような政治構造、社会制度は後のポリス社会と断絶しているが、宗教的側面ではある程度の連続性が認められている。例えばギリシア神話で有名なゼウスやヘラ、アテナ、ヘルメス、アルテミスなどのオリンポス神の名が確認されている。
 前1200年頃、ミケーネ、ティリンス、ピュロスなど、ミケーネ文化圏の宮殿や城塞が炎上・崩壊し放棄された。この大災害は東地中海域に広く見られた現象で、ヒッタイト帝国とウガリットなどが滅び、エジプト新王国は衰微、アッシリアやバビロニアも衰退した。この混乱の中で鉄器時代への移行がなされた。ギリシアには、鉄器は今日では東からキプロスを経て伝えられたとされる。小アジアではフェニキア人、アラム人の台頭が見られ、ギリシアではポリスが成立した。ギリシアにおける大災害は古代ギリシアの伝承に基づいてドーリス人の侵入とされていた。しかも二度にわたってエジプトを襲った「海の民」と関連付けて、壮大なヨーロッパ規模の民族移動の波を想定して、ドーリス人のその中に位置づけて理解されていた。しかし、エーゲ海の島々には破壊・混乱の痕跡が何ら認められないことから、ドーリス人の侵入説を、そのまま維持することは困難である。一方で、広範な後期青銅器文化の崩壊を気候変動と結びつけて理解する見方もある。気候変動説は興味深いものであるが、データを得る観測の目が未だ粗く、他の研究者の提出するデータと齟齬を生じている例もあって、全面的に受け入れられる状況には至っていない。その他後期ヘラディックVB期の二度の地震で崩壊したと言う説、疫病流行説、ミケーネ社会の下層民―これをドーリス人と考える―の反乱によって崩壊したと言う説、人口過剰などが提起されているが、いずれも反論を受けて単一の原因をもってしては、ミケーネ王国の崩壊を説明しきれない。いずれにしても、各地で防御施設が強化され、破壊も何回かにわたっていた。ピュロス文書から、公有地の未貸与、貢納の未収・不足、青銅が少量しか分配されていないことを読み取り、収奪装置として再分配システムの上に乗っていた貢納王政そのものの行き詰まりに、上記の諸説のいくつかが複合して崩壊を招いたと考える複合原因説が有力となった。このような状況に加えて、軍事動員記録に海からの脅威の存在を窺って、外部からの侵入・掠奪が崩壊を決定的にしたと解するのである。

参考文献
 『《ビジュアル版》世界の歴史 ギリシア・ローマの栄光』 馬場恵二 講談社 1984
 『世界の歴史 5 ギリシアとローマ』 桜井万里子 本村凌二 中央公論社 1997
 『岩波講座 世界歴史 4 地中海世界と古典文明』 「構造と展開」 古山正人 本村凌二 岩波書店 1998
 『ギリシア文明のあけぼの(1) エーゲ文明の道』 加藤静雄 三修社 1988


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