2005年12月2日
アテナイ下り坂の歴史  K.K.


アテナイ黄金期とペロポネソス戦争
 アテナイとスパルタの確執の兆候はすでにペルシア戦争期から見られた。前464年(?)突如スパルタに起きた地震はヘイロータイたちの反乱を引き起こし、スパルタはアテナイに援助を求めた。アテナイはその要請に応じてキモンが援軍を率いていくが、その留守中にアテナイ国内で「エフィアルテスの改革」が断行された。これは反スパルタ派による一種のクーデターであった。それを受けてスパルタはアテナイからの援軍を即刻国外退去させるが、それによって反スパルタ派が勢力を増し、前461年に新スパルタ派のキモンを陶片追放する。続いて「ギリシア連合」の根幹を成すスパルタとの同盟を破棄し、反対にスパルタと交戦中のアルゴス人・テッサリア人と同盟を結んだ。それによってアテナイは東方のペルシアに対する戦闘のみならず、西方のスパルタとの戦いにも挑むことになり、二正面作戦時代とも呼ばれる時代となった。
 この二正面作戦は前455年にエジプトの対ペルシア反乱に赴いていた艦隊の潰滅によって危機を迎える。アテナイはスパルタと五年の平和を結ぶと共に、翌年デロス同盟の金庫をデロスからアテナイへ移した。そして前449年、ペリクレスが二正面作戦の不利からついにペルシアと「カリアスの和約」を結ぶこととなった。一方アテナイはギリシア本土のボイオティア、エウボイアの反乱に手を焼き、スパルタとは30年の和約を結んで陸上の支配権を放棄、逆にスパルタはアテナイの海上帝国化を認めざるを得なかった。そしてこれ以降、アテナイの帝国の実態が顕在化してくる。ペリクレス主導の下、アテナイは同盟諸国に対し、システマティックな貢租徴収制度や不穏な動きを監視する体制が強化した。アテナイは同盟諸国から集められた貢租を用いて、前447年にパルテノン神殿に着工するなど、アテナイ国内に批判する者がいたにもかかわらずペリクレスを中心としてアテナイ美化を進め、黄金時代を謳歌することになる。それと共に海外進出が激しくなり、スパルタやその同盟諸国との確執も増していった。
 前440年以降コリントスを軸にアテナイとスパルタの関係は悪化、30年の和約も未だ半ばにおいて前431年、テーベがアテナイの同盟国プラタイアイに親スパルタ的なボイオティア同盟に加入するよう力で要求した事から、ついにアテナイ・スパルタの三十年和約が破棄されペロポネソス戦争が勃発する。だがアテナイは戦争当初の前430年に疫病が市民の立てこもるアテナイに蔓延し、翌年にペリクレスが病没するなど市民の三分の一を失う損害を出した。それにも関わらずその後継者であるクレオンによって戦争は推進される。前422年そのクレオンが死ぬと、翌年には双方が一時的な和平(ニキアスの平和)を結んだ。しかしアテナイは前420年に将軍に選ばれたアルキビアデス主導の下、前415年に更なる版図拡大を目指したシチリア遠征を行うことになる。この遠征は二年後に失敗、艦隊は救援も含め壊滅的打撃を被り、戦局はアテナイ不利に傾いた。更にそれを主導したアルキビアデスによって同年スパルタがアッティカ北部のデケレイアに常駐、エウボイアからアテナイへの陸上輸送路を遮断する。アテナイは海上輸送路に活路を求めたが、スパルタも、アテナイへの反感を持つ小アジアのギリシア諸都市を支援して対応した。そして前412年にはペルシアの使節がスパルタを訪れ、スパルタにとってのペルシア戦争を終わらせ、逆にアテナイに対する戦争を協力する協定を結んだ。ペルシアはスパルタに対して資金援助を惜しまなかった。苦境に貶められたアテナイでは前411年に「400人会」の寡頭制によって民主政が一時倒壊されるも、すぐに民主政に回帰、軍事的にも復調の兆しを見せるが、ペルシアの莫大な資金には所詮敵うはずもなく、前405年にはリュサンドロスによってアテナイへの食糧輸入路であるヘレスポントスを抑えられ、翌年アテナイはスパルタに降伏する。スパルタはアテナイの自主独立は認めるものの、ペイライエウスの城壁・長城の撤去、アッティカとサラミス以外の領土解放、軍船は12隻のみ残して残りを引き渡すことを命じた。海軍国家であるアテナイにとって、事実上の武装解除であった。

表舞台からの退席
 敗戦後の前404年、スパルタの将軍リュサンドロスによってアテナイに三十人僭主による極端な寡頭制がしかれると、スパルタの監察官の下で政治は腐敗・堕落する。そして亡命者の一人トラシュブロスが同志と共に帰国したことで内乱に陥る。前403年には寡頭派トップのクリティアスがペイライエウスで戦死したことで和解が成立し、民主政が復活した。
 その後アテナイは、スパルタとペルシアの戦いの際、ペルシア側につく事となる。アテナイの軍人がペルシア海軍を率いてクニドスでスパルタ海軍を打ち破ったり、アテナイとテーベが結んで「コリント戦争」起こしたりするなどし、前386年にペルシアに有利な「大王の和約」を結ぶのにアテナイは一役買った。その戦争でスパルタが衰退する一方、アテナイはペルシアの資金で長城を修復し、ペイライエウスを要塞化した。それと共に一時失っていた海外領のレムノス島、インブロス島、スキュロス島の所有が認められた。
 前377年早春に、アテネはテーベとの同盟関係を発展させ、対スパルタの「第二回アテナイ海上同盟」を発足させた。アテナイは前回の反省を生かし、この同盟ではなるだけ加盟国への干渉をしないようにしている。前376年秋には、アテナイの将軍カブリアスが、ナクソス島西方沖合の海戦でスパルタを打ち破った。これは前394年のペルシア海軍を率いたコノンの勝利とは違い、アテナイ軍自らの船隊によって勝ち得たペロポネソス戦争期以来の勝利だった。アテナイは制海権を回復し、海上同盟の加盟国は増えた。そして加盟国のシュンタクシス(防衛分担金)も増大、外港のペイライエウス港も再び活況を呈した。
 しかし前371年のレウクトラの戦いでテーベがギリシアの覇権を握っていた頃に、アテナイは非同盟国の内紛に干渉し、クレールーキア(軍事入植団)を送りこむことを再開している。前365年にはサモス島を攻略してクレールーキアを派遣し、その後には北ギリシアのポテイダイアにも同様のことを行っている。このようにアテナイが再び力による支配の影をちらつかせると、前357年には同盟諸国が離反し始め、二年間に渡る「同盟市戦争」が展開された。アテナイが軍事力で屈服させ、駐留軍と駐在官の配置を強行できたのはごく一部で、半分以上が容易に同盟から脱退していった。

マケドニアの支配
 同盟市戦争が勃発した際、フィリッポス2世率いるマケドニアによってアテナイも目をつけていたトラキア北岸の要衝の町アンフィポリスを占領された。前348年にはエウボイアの反乱に手を焼くアテナイを尻目にオリュントスも占領され、そのため窮地に陥ったアテナイは前346年にフィリッポスと和議を結んだ。しかしアテナイでは未だかつての帝国を夢見るデモステネスらの弁論に誘導されて、テーベ・フォキス間の対立に端を発した「神聖戦争」の泥沼に便乗し、ギリシア本土に勢力を拡張していくマケドニアとの対立的立場をとることになった。前338年にはテーベと共同戦線を張り、カイロネイアでマケドニアと戦ったが、あえなく敗れることになった。この戦いでギリシア支配を決定付けたフィリッポス2世は、諸ポリスに「コリントス同盟」を結ばせ、諸ポリス間及びポリス内の内紛も終結させた。前336年に彼が暗殺されると、アテナイではデモステネスによって独立運動が為されたが、フィリッポスの後を継いだアレクサンドロスによって鎮圧され、コリントス同盟を確認させられることとなった。更にアテナイは、アレクサンドロスがマケドニア北境の反乱鎮圧中に死んだとの噂が流れるとテーベと結んで反乱を起こした。しかし反乱を主導したテーベが敗北と共に徹底的に破壊されると、アテナイをはじめとする諸ポリスは和平を申し出て、アレクサンドロスに寛容に受け入れられた。前365年、彼はペルシアへの遠征を実行に移した。ギリシアでは、東征の間マケドニアを統治していたアンティパトロスの厳しい占領政策がギリシア諸ポリスに反マケドニア感情を募らせ、逃亡したハルパロスの資金と私兵もこれに合流して、不安定な状態となった。これに対してアレクサンドロス大王は、「亡命者帰国令」を発して、諸ポリスの政治的追放者(約2万人)を帰還させるように命じた。この内政干渉はギリシア人の反感を煽る結果となった。

ディアドコイ戦争の中で
 前323年にアレクサンドロスが死に、その知らせが伝わるとアテナイを筆頭にしてギリシア諸国がマケドニアから離反して、大王の留守役アンティパトロスをラミアに包囲した(ラミア戦争)。しかしアテナイ海軍がアモルゴス島沖でマケドニア海軍に壊滅せられると、前322年にアテナイは降伏した。フィリッポス2世・アレクサンドロス大王を通し、「ギリシアの学舎」として寛大に取り扱われてきたアテナイだったが、アンティパトロスは厳しい態度で臨んだ。マケドニア軍を外港ペイライエウス港に駐留させ占領体制をとり、アテナイの領域であったサモス島及びオロポス地方を取り上げた。更にアテナイの内政に干渉して市民の参政権を2,000ドラクマ以上の有権者(9,000名)に限定して12,000人以上から公民権を奪った。そして民主政の三本柱の一柱であった民衆裁判所に代わってアレイオス・パゴス評議会がその裁判権を拡大されるなど富裕者の寡頭政治の体制が作られた。これに反対する有力者は逮捕殺害された。
 しかし、アテナイの情勢は後のディアドコイ戦争の状況に左右されることになる。前319年のアンティパトロスの死後、後継者となったポリュペルコンが政治的打算復活を支持すると、アンティパトロスの子カッサンドロスはアテナイにニカノールを遣わして暗躍させた。そのためアテナイの政情は不安定となり、それに乗じて前318年春ポリュペルコンの息子アレクサンドロスがアテナイに進駐して市民権を元に戻し、寡頭制を廃止して民主政を復活させた。
 しかしカッサンドロスは海上から大軍を率いてペイライエウスに来たりて、ポリュペルコン軍を敗走させ、民主政を廃止した。前318/7年にはデメトリオス(ファレーロン区の人)をアテナイの「エピメレーテース(管理者)」に起用して以前よりいくらか緩和されているものの参政権を一定財産額以上の者に制限した寡頭制を敷き、法の監督や修正の大権は自らが有する事とした。この市民権の制限によって、従来の市民軍隊は力を失い、傭兵で以ってこれを補強した。また当時のアテナイの海軍力は往年のものには遠く及ばず軍船20隻ほどであり、すでに過去の栄光の回復は断念され沿岸防衛力の整備を目標としていた。この体制は前315年にマケドニアで権力闘争が生じると、アテナイの政情は不安定化し、最後の海外領レムノスとインブロスの2島が独立、翌年にはアテナイの実力でつないでいたデロス島も独立した。この混乱はマケドニアでカッサンドロスの優位が再確立されると落ち着くが、失われた島々はもはや戻ることはなかった。前309/8年にはデメトリオスがアルコンを兼ね、改革を更に推進した。この時期にアテナイ民主政の特徴であった日当支給とレイトウルギア(公共奉仕)の制度が廃止された。
 その後カッサンドロスと熾烈な権力争いを展開していたアンティゴノスがギリシア人を味方に引き込もうと、前307年春に彼の息子デメトリオスが武力でもって、和議を求めるデメトリオス(ファレーロン区の人)を拒絶し、アテナイの民主政を回復させた。当初人々は歓喜に満ちたが、レイトゥールギアは復活されず、国家財政の支出不足分は役職者自身の財産から出ることになった。よって民主政の建前の下、要職につくものは自ずと富裕者に限られる事となったのである。前306年にデメトリオスの不在をついたカッサンドロスの攻撃は救援軍のおかげでなんとか乗り切ることが出来たが、アテナイの内部ではデメトリオスによる形だけの民主政について、本来の民主政を復活させ真の独立を果たそうとするデモカレスと、マケドニアへの従属によってアテナイの安定を保とうとするストラトクレスを代表として対立が生じていた。前303年にはストラトクレスとデメトリオスが手を結び、翌年にはデメトリオスが反対派の追放を強行した。
 その後、再びデメトリオスがアテナイを去ると、アテナイでデメトリオスとストラトクレスに対する憤懣が爆発し、これに乗じてまたもやカッサンドロスがギリシアに侵入してきた。そんな中アテナイではラカレスらを中心とする「中庸派」が事実上の僭主として政権を握り、新しい外交政策として「中立」堅持を内外に宣言した。これによって兵力は自衛のものだけでよくなり、前301年に「市民皆兵制」は廃止され「志願兵制」となって訓練も短縮化された。中庸派は同年、ラカレスの働きでカッサンドロスの新政権承認を得て援助を受けると共に、デメトリオスからとも和を結ぶことに成功した。更に同様の関係をヘレニズム諸国とも結ぶ事となり、中立政策は成功したかに思えた。
 しかし前298/7年にカッサンドロスが死ぬと、翌年デメトリオスが艦隊を率いてアテナイを攻撃、海上封鎖を行った。アテナイは徹底的に抗戦したが、頼みにしていたプトレマイオスの海軍も撃退され、抵抗派の指導者ラカレスもボイオティアに亡命し、前294年春デメトリオスはアテナイに入った。彼は親マケドニアのストラトクレスによる自治政権を承認し、穀物を供与するなど寛容な態度をとった。一方で、ペイライエウス周辺やアクロポリス南西の丘ムーセイオンにマケドニア軍の駐留基地を設けて厳重な占領体制を敷いた。前294年にはデメトリオスはマケドニア王位につき、翌年にストラトクレスが死ぬと、反民主政的傾向はより強まっていくことになった。
 しかしヘレニズム諸王朝の反デメトリオス共同戦線が形成され、デメトリオスがマケドニアから追放されると、アテナイはエジプトのプトレマイオス1世が支援したことも加わり、前286年春反乱蜂起し、ペイライエウスとムーセイオンでは失敗したものの何とかアテナイからは駐留軍を追い出すことに成功した。プトレマイオスはその後テラ島、ケオス島、サモス島、クレタ島東部に海軍基地を設け、そのエーゲ海制海権の下にアテナイの民主政は保たれた。前281年にギリシア世界北方の防壁であったリュシマコスの王国が崩壊によって北方からのガリア人の侵入を受ける事になると、デメトリオスの息子のゴナタスがそれを決定的に打ち破って頭角を表し、前277年にはマケドニア王アンティゴノス2世としてアンティゴノス朝を開いた。マケドニアの支配権を確立し、ギリシア本土への進出を図るゴナタスに対して、前267年アテナイはプトレマイオス2世と結んで、「クレモニデス戦争を挑み、善戦したものの前261年には破れた。そしてアテナイではマケドニア軍が駐留し、ゴナタスの選任した役人が行政を司り、民会の機能も(前256年まで)停止され、穏和な寡頭制の下でマケドニアの支配が続いた。同年にはアテナイとペイライエウスを結ぶ長城が破壊され、クレモニデスなどの民主派指導者の多くがプトレマイオス2世の下に亡命した。ゴナタスは前259年にエジプトと平和条約を結び、更に艦隊を増強して前256年デロス島を制してエーゲ海の制海権を握った。これによって反マケドニア派の活動の余地もなくなり、アテナイ側もゴナタスに自治を申し出てムーセイオンから駐留軍を撤退させ、民会も再び開けるようになった。この時期にアテナイはマケドニアの下に忠実に従い、マケドニアの野心家アレクサンドロス、次にはペロポネソス半島で勢力を持っていたアカイア同盟とエジプト、更にアカイア同盟と中部ギリシア西方部を中心とするアイトリア同盟の反マケドニア戦線と戦い、幸運にも戦火を免れ得た。前232年には北方からのイルリュア人の劫掠に遭い甚大な損害を被ったが、富裕者によって国土復興を進めた。

マケドニアからの解放とローマの影
 このように外敵との接触の中で国際政治での立ち振る舞いを身につけたアテナイは、ゴナタスの死後に没落の傾向を強めていたマケドニアから独立に踏み切った(前230年)。これを指導したのがエウリュクレスであり、マケドニア駐留軍の統率者ディオゲネスもこれに賛成した。この動きに、アカイア同盟とボイオティア諸市も援助をし、翌年には65年ぶりに外国軍隊を撤退させ名実共に独立を果たした。その後アテナイは、アカイア同盟への加盟を上手く拒否して中立政策を貫き、先ずボイオティア諸市と、続いてアイトリア同盟やマケドニアとも友好関係を結び対アカイア同盟への威圧とした。更に前228年にはペルガモン王国のアッタロス1世と友好関係を深め、セレウコス朝やプトレマイオス朝に新興のローマとも平和関係を結んだ。
 独立したアテナイは先ず自衛力強化に着手し、次に公共建造物の修復・新設を行い中心市もその美観を取り戻した。政局の中心はエウリュクレスとその兄弟ミキオンで、軍事面・経済面の改革を行い、前203年(?)に至るまで30年近くアテナイ再興に務めた。また外交においても軍隊を常時出動できる状態にし、保全策もとるものの、中立を貫いた。
 そして前200年、外交問題からマケドニアと戦うこととなったアテナイはエウリュクレスの後継者ケフィドロスの外交政策によって諸国から援助を受け、特にローマの力を借りてマケドニアを撃退した。これによってマケドニアとアテナイは完全に絶縁する。
 この頃のローマの東方への台頭はアテナイ内部にも親ローマ派と反ローマ派の対立を生み出したが、前者が有力だった。前192‐191年に起きたセレウコス朝のアンティオコス3世とローマとの戦いでローマが勝利するとアテナイはローマに近づくことになる。前172-168年のマケドニアとローマの対決においては終始ローマ側につき、ローマの寵愛を独占することになる。アテナイはこの戦いの褒賞として多くの領土を得、そこにクレールーキアを行っている。そこは自治が認められたが、それはアテナイの統轄下の自治であり、各地域の最高役職はその地域からではなくアテナイで任命されて派遣された。
 しかしデロス島の領有は当初アテナイに必ずしも利益にはならなかった。追放されたデロス人の賠償問題でアカイア同盟と対立したこともあるが、何よりもローマによってデロス島が自由港とされ関税を徴収できなかった事による。イタリア商人にとってデロス島は東部地中海域の商業取引上の繁栄の中心であって、関税の撤廃を求めていたのである。しかしシチリアやイタリアで展開されたラティフンディア制の下で奴隷の需要が増大し、奴隷供給源がアジアであったことからも、その中心にあったデロス島は奴隷の受け渡し場所となった。それに伴い、デロス島に多くの外国人商人の往来や居館設置も活発になったのである。これによって唯一デロス島に土地を所有できたアテナイ人は土地貸付で利益を得ることが出来た。このように富を蓄えた新しい富裕者層がやがてアテナイの国政に深く携わるようになり、反民主政的・寡頭政的な主張を行った。彼らは親ローマ派であり、獲得した富を高利貸の重圧によって民衆の生活は困窮化し、それと共に反ローマ感情が高まって、当時ポントス地方(黒海東南岸より小アジア内陸部を含む)の王としてローマの東方進出に対して毅然たる態度を示していたミトラダテス6世に希望をいだいた。
 前103/2年にはとうとうクーデターが起き、富裕者層が政権を奪取した。エウリュクレス以降尊重された民主政は完全に転覆され、役人は抽選選出ではなく少数特権者たちの間からの選出制となり、その執務報告審査制度も廃止され、任期の制限も取り除かれた。富裕者による寡頭制はほぼ12年間存続し、支配がますます進められると、民衆は解放の期待をますますミトラダテスにかけるようになった。
 前92年にミトラダテスとローマの決裂が決定的になると、アテナイは政権転覆の運動を起こした。その後、民衆にストラテーゴスに推され、事実上の独裁者となったアテニオン(アリストテレス学派の哲学者)はローマに亡命する富裕者を見つけ次第逮捕して処刑、財産没収による豊富な財源で反ローマ派の民衆の力を強化した。このような親ミトラダテス・反ローマの政策に批判もあり、アカデメイアの学頭フィロンはローマへ避難し、デロスもアテナイとの友好関係を解消した。そのデロス島を巡る争いではミトラダテス軍がそこを占領し、アテナイに寄贈している。前87年夏ローマの将軍スルラが3万人の兵を率いてアテナイ制圧を目指して到来した。アテナイはミトラダテスからの援軍も来たことでこの年はローマの猛攻を防ぎきった。しかし翌春戦闘が再開されると、中心市はローマの侵入を受けて壊滅的ダメージを被った。ついにアクロポリスも陥落すると、アテニオンなどの革命の主導者はことごとく処刑された。アクロポリス陥落に先立って誕生した臨時政府はスルラとの友好の姿勢をとり、これから後は親ローマ派の富裕者らがローマの事実上の隷属下で、再びアテナイの政治を運営していくことになった。

ローマの支配
 ギリシア世界は、ローマが内乱の一世紀に入るとポンペイウスやカエサル、アントニウスやオクタウィアヌスなどに物資や兵員の供給を要求されたり、掠奪を受けたりするなど、負担を押し付けられることになる。そんな中アテナイは前86年以来同盟国として名目上は独立を保っていたが、実質ローマ軍の支配下に置かれた。彼らは総じてギリシアに好意的であり、特にアテナイに敬意を払っていたのはアントニウスであった。彼は前38年、アテナイに貴族政権を成立させ、アイギナなどの島々をアテナイの帰属にしている。彼を破り、アウグストゥスの称号を得たオクタウィアヌスは、経済的に衰退し、ローマにあまりよくない感情を抱いていたギリシア地方の安定・和解に力を入れた。アテナイは前22/21年にアイギナとエレトリアの貢租徴収を禁じられ、また前1世紀に枯渇したラウレイオン銀山に代わって大きな収入源となっていた市民権の販売も禁じられたが、前31年にはアウグストゥスがエレウシスの秘儀に入信、前27年にはアテナイに貨幣鋳造権を与えている。アテナイはこの恩恵に対して彼を「神」と呼ぶなど彼を褒め称え、アウグストゥスもアテナイ市内やペイライエウスでの神殿再建活動や、アゴラにおける建築活動を積極的に推進した。その後もアテナイはギリシア文化を愛好する皇帝たちによって都市景観整備のための財産援助を受けることができ、その皇帝たちを顕彰している。このように国際世界において軍事・経済などではもはや中心ではなりえなかったアテナイも、文化・学問の中心としての体面はかろうじて保っていた。この事はローマが力を伸ばしていく過程の戦いで、アテナイが4度も判断を誤っていながら、アテナイがローマ皇帝の愛するところとなっていること事からも窺えるのではないだろうか。

参考文献
『《ビジュアル版》世界の歴史 ギリシア・ローマの栄光』 馬場恵二 1984年 講談社 
『世界歴史大系4 ギリシアとローマ』 鈴木雅也・村川堅太郎ほか 昭和34年 誠文堂新光社
『岩波講座 世界歴史2 古代2』 pp.180-203「ヘラス」 岩田拓郎 1969年 岩波書店
『新版世界各国史17 ギリシア史』 桜井万里子・澤田典子ほか 2005年 山川出版社
『図説 古代ギリシア』 ジョン=キャンプ・エリザベス=フィッシャー 2004年 東京書籍株式会社
『世界の歴史2 ギリシア』  秀村欣二・伊藤貞夫 昭和51年 講談社
『世界の歴史5 ギリシアとローマ』 桜井万里子・本村凌二 1997年 中央公論社


2005年度例会発表一覧に戻る
西洋史に戻る
政治・経済史に戻る

inserted by FC2 system