2007/06/22
西欧中世における恋愛、性の諸相  YanoII



「愛、この十二世紀の発明品!」 シャルル・セニョボス



 現代に生きるわれわれは、「恋愛」を普遍的なものであると考えがちである。しかし、少なくとも古代ローマにおいては、結婚とは家同士の結びつきと家財の継承手段であり、愛欲とは市民を再生産する道具に過ぎなかった。歴史を紐解けば、今日的な意味での「恋愛」がきわめて人為的、時代特殊的な概念であり、誕生してから長く見積もっても千年ほどにしかならない比較的新しい様式であるとわかる。現に、ホイジンガは大胆にも「南仏吟遊詩人の宮廷恋歌において……愛欲(エロティック)の形式が創造された」と主張する。同様のことをさらに直接的な表現で指摘したのは、フランスの若き歴史家ラ・クロワだ。彼は『中世のエロティシズム』において「十一世紀末に南仏で女性に対する恋愛感情が発見された」と述べている。現代の歴史家にとって、恋愛とは「創造」し、「発見」するものなのである。
 そもそも、歴史的に恋愛が成立した背景とはなにか。また、中世における恋愛とはどのようなものだったのか。まずは古典古代からそのルーツをたどってみよう。



古典古代の性愛観

 社会学の黎明期をつくりあげたM・ウェーバーは『世界宗教の経済倫理』の中間考察において次のように述べている。

古典期以前のギリシア人のばあいでも……一女性の略奪は英雄が戦争を行うための理由として立派に通用しえた。……が、ギリシアの古典時代つまり重装歩兵軍の時代になると、すべての証言が示しているように、この領域においては比較的まれなほどの節度がみられ、〔旧〕中国の教養層に比べてさえそうだったといってよい。

 古典期ギリシアにおいて、男性の女性に対する性愛はあまり重要視されなかった。女性の女性に対する性愛については完全に忌むべきものとされ、女性が快楽を感じることさえも一般的には不道徳とされていたのである。
古代ローマではどうだろうか。通俗的なイメージに反し、ローマ人は厳しい性道徳を強要されていた。セックスは軍事と公民意識によって支配されていたとさえ言える。ローマの性と聞いて今日のわれわれが真っ先に思い浮かべる『サテュリコン』の放縦、乱痴気騒ぎは、厳格な性管理に対するローマ人の反抗であって、後に詳しく述べることになるオヴィディウスの『愛の技法』もアウグストゥスに対する反発がその発端になっている(現に、オヴィディウスはローマを追放されている)。ローマの上流階級にとって結婚とは、家財の確保と家名の存続の手段であり、情熱や性的欲望とは切り離して考えられたため、男女の愛情が社会的に承認されることはなかった。したがってまた、ローマ時代の家族組織ファミリアは今日のファミリーとはまったく異なる組織であり、一つの家財を共有する集団――それには召使、奴隷、そして家畜さえ含まれた――とされていたのである。
 ただし、古代人があたかも現代人より性欲が薄かったとか、我慢をする術に長けていたというふうに考えるのは、まったくの誤りである。ギリシアの市民たちは厳格な性道徳に縛られながらも、一方で奴隷相手に好きなだけ性欲を発散させることができたし、愛情への欲求も別な手段で満足させることができた。ウェーバーは前掲書のなかで次のようにも述べている。

  これはなにも、古典時代には性愛の真剣さがもはや忘れ去られていたなどというのではない。いや、そうではなく、むしろその反対こそがこの時代の特徴をな  していたのであって……「戦友」つまり少年こそが、まさしくあらゆる愛の儀式をもって求められた対象であり、ギリシア文化の中心に見出されるものであった。  (傍点部原文ママ)

 少年への愛! これこそが古典期ギリシアを象徴する文化であった。それゆえ、「バッカス的な激情の美」はギリシアに成立しながら、戦友に対するのにふさわしく、抑制された形となってしかあらわれなかったのである。
一方、ローマはギリシアほど少年愛を重んじることはなく(むしろ、社会的には嫌われていた)、もっぱらファミリアの外において、娼婦や内縁の妻を相手に性欲を発散した。しかし、そうした行為と今日的な意味での恋愛が、非常に異なるものであることについては注意する必要がある。女の欲望は不道徳なものとされ、当時の愛も快楽も、男性が女性に求める一方通行のものだった。



ユダヤ教と初期キリスト教における性愛観

古代ローマにおけるユダヤ教共同体はどのような性愛観を持っていたのだろうか。まず重要なのは、ローマ人の一般的な結婚ほど嫁資は重視されず、むしろ本人同士が魅力を感じあうことが結婚の本質であるとさえ考えられたことである。これによってはじめて、愛情関係が社会的に承認される土壌が作り出されたと言っても過言ではないだろう。
また、ユダヤ教の文献には性行為の喜びを歌い上げたものが多く残されている。その代表的なものとして、旧約聖書の雅歌があげられる。

  ああ、あなたはだれよりも美しく、だれよりも優しい
  あなたがおいでになって、神もどれほどお喜びでしょう
  神があなたに
  熱き抱擁をおあたえになったとき
  あなたは幼子を授かりました!
  あなたの胎は歓喜に満ち
  天上の妙なる調べを
  響きわたらせました
(『全詩集』より「讃歌」)

 この雅歌ひとつをとってみても、ローマや後世のキリスト教ほど性に対して厳格な態度をとっていたわけではないことがわかる。しかし一方で、ユダヤ教は性行為を善なるものとして称賛していたというわけでもない。ここで問題になってくるのがユダヤ教的な「穢れ」の意識である。日本では死や汚物に対して強い「穢れ」の意識があったが、ユダヤ教では性的なものに「穢れ」を感じる傾向があった。月経については特別な嫌悪感があり、「レビ記」は月経について「七日間不潔なり」とし、「すべて彼に触るものは晩まで穢れるべし」と述べている。今でも、厳格なユダヤ教徒は初めて会った女性と握手するのを拒むといわれているが、それは月経周期を知らない女性に触れることによって自らの体が穢れることを恐れるゆえである。ユダヤ教は、子どもを産むための性行為とそれに伴う快楽については否定しなかったが、その強い「穢れ」意識のために、子どもを産まざる性行為についてはやはり否定的であった。
 結婚は「契約」であるとみなされていた。夫が妻に要求するだけでなく、妻の要求に対して夫は答える義務があるというわけである。しかし、その契約の強度については、ユダヤ教のなかでも解釈が分かれていた。たとえば、シャンマイ派は妻が不貞を働いたときのみ離婚を認めるとしたが、ヒレル派は妻の料理に不満がある場合は離婚をしても良いと考えていた。さらに、アキバというラビは、妻よりも魅力的な女を見つけた場合は、妻を離縁し、この女を娶っても良いと主張した。とはいえ、その場合は妻の実家に対してそれ相応の償いをしなければならないため、多くの男性にとって離婚はそう簡単に決断できるものではなかった。
 また、先に見たような離婚の規定だけでなく、男女の性に対する権利はあらゆる面で差別されていた(当時ではそれが普通だったのである)。たとえば、妻が不貞を働いた場合は必ず重罰を科せられたが、既婚男性と未婚女性の交際は犯罪にならなかった。女性を「誘惑する者」として見、本質的に罪人と考えるこうした男女観は、後にキリスト教にも受け継がれる。
 さて、いよいよキリスト教の性愛観を見ることにしよう。初期キリスト教的性愛観の特徴は、ユダヤ教的結婚観の純化にあった。
「神のあわせ給いしもの、人これを分かつべからず」(マタイ伝)、一度結婚をした者は二度と別れてはならない。このイエスのきわめてラディカルな主張に対し、弟子たちは言う――「人もし妻のことにおいて、かくのごとくば、娶らずにしかず(もし離婚が許されないのなら、誰も妻をとろうとはしないでしょう)」(前掲書)その弟子の疑問に対しイエスは、一生涯一人の女性に愛を注ぐことができないのならば、結婚などしないほうが良いのだ、と答えるのである。ユダヤ教の結婚観、性愛観を受け継ぎながら、一方でそれを内面的に純化し、結婚の価値観を嫁資でもなく快楽でもなくただ愛にのみ求める思想は、きわめて大きな意味を持っていた。妻の社会的な地位が離婚の禁止によって保障されたというだけでなく、結婚とそれに伴う性行為がもはや重要視されなくなったのである。
ユダヤ教徒は性を穢れと見ながら、その意義を認めていた。しかし、キリスト教においてはもはや性に対する積極的な意味は存在しない。マリアが聖母たるゆえんは、まさに罪なる性行為を伴わずして受胎したことにあるのであり、結婚が秘蹟(サクラメント)として認められることがあったとしても、性行為の甘美さが崇められることはなくなったのである。パウロは言う。「汝ら知らぬか。正しからぬ者は神の国を継ぐ事なきを」(以下、コリント人への第一の手紙)、そして「自ら欺くな。淫行の者」。ここで注意してもらいたいのは、パウロは別に性行為一般が赦されざる罪だった主張しているわけではないということだ。ここで言う淫行とは、婚姻外の人間と性行為にふけることであり、配偶者との性行為はさして重い罪ではなかった。しかし、結婚をしないほうがもっとよい。「兄弟たちよ、あなたがたに言っておく。時は差し迫っている。これまで妻を持っていたものたちは、もう妻がいないかのようにして暮らすように」「私は結婚せぬ者、およびやもめにいう。もしわが如くにしておらば、彼らのためによし」多くの者は結婚をしなければ性欲に耐えられず、淫行に走ってしまう。ゆえに、結婚をして双方の明らかな同意と契約のもとで性行為に及んだほうがまだましなのである。もちろん、その際にも快楽は罪であって、なるべく快楽を感じないように性行為を終えなければならない。行為中に余計な行動を取ったり、配偶者とのセックス以外の性行為で性欲を発散させるなどは論外である。
 かくして、性愛それ自体に罪のレッテルを貼るキリスト教的「聖性」が誕生した。以後、中世を通して西欧の人々は、この聖性に大なり小なり縛られながら性生活を営み、またそれが西欧中世の恋愛、性愛の一つの特徴をなすことになるのである。十二世紀においてすら、神学者ユーグ・ド・サン=ヴィクトワールは「男女の結びつきは肉の欲望なくしては成立しない。したがって、罪なくして子供はできない」と主張した。人間が罪深い存在であるという一つの証として、また純潔を保つ義務を課せられた(と建前上はされている)聖職者たちの権威のために、この聖性の呪縛は強固に維持されていく。



聖性の解体

 言うまでもなく、原初の形のままで聖性を維持することは原理的に不可能だった。キリスト教共同体が弾圧され、マイノリティであった時分には過激な禁欲主義によって共同体の団結をはかることができたが、キリスト教が広まるにつれて無理が生じてくる。中世初期に入りキリスト教の中で聖職者階級が確立されると、完全な聖性は聖職者のみの義務となっていく。アナール学派の泰斗J・ル=ゴフは慧眼にも次のように主張する。

  聖職者と俗人とを隔てる壁として、性愛で区別する以上に適当な基準があったでしょうか?……たとえば、聖職者は不純な体液を一滴たりとて流してはならな  かった。それが血にせよ精液にせよ、です。それに対して俗人は、流れる体液を一定方向に集中させることが要求された。こうして、修道院的精神にそそのか  され、教会は独身者が集まる社会となりました。

 しかし、それでもまだこの聖性の規範は現実的なものではなかった。実際、聖職者の妻帯を禁じたのは三〇三年のエルヴィラの会議がはじめであるが、その後も聖職者が妻帯するべきか否かという問題は尾を引き、ベネディクトゥス八世が聖職者を教会の奴隷であると定め、レオ九世が聖職者は童貞に限ると定めるまでは、常に聖職者の妻帯を求める声が存在し続けたのである。
 では、聖職者の妻帯が禁じられた時代、修道院のなかでは厳格な性規範が守られていたのだろうか。否、事実は全くの正反対である。性の歴史学に端緒をつけた天才的歴史家フックスは、大著『風俗の歴史』のなかで修道院の現状を「売春宿よりも劣悪」と述べている。そのほかにもフックスは、中世修道院の堕落したさまを鬼気迫る筆致で描き出しており、キリスト教的厳格主義の崩落は当時より明らかであったと言えるだろう。もっとも、彼の表現はマルクス主義、もとい進歩史観を信奉する歴史家にありがちな、描写のカリカチュアライズがいささか過ぎるようにも思われる。まあ、いずれにしても修道院の規律がほとんどの場合あってなきに等しいものであったということは、今日でもほとんどの歴史家が同意するところであろう。
 しかし一方で、教会は「快楽は罪」という教理を変更しようとはしなかった。十三世紀になり、やっとトマス・アクィナスが「夫婦の間では快楽を得てもよろしい」という大胆な主張を行うが、それまでは誰一人としてそういう見解を持つ神学者はいなかったし、それ以降もトマス・アクィナスの主張を支持する人間はなかなか現れなかった。いや、それどころか一般にはますます性規範は厳格化していたのである。
 当初、教会は婚姻の問題について介入しなかった。たとえば、ルードヴィヒ敬虔王は婚姻にまつわる裁判を教会に委託しようとするが、教会はそれを拒絶する。あくまで夫婦関係そのものは「カエサルのもの」なのであった。しかし、そうした教会の態度は十世紀、十一世紀になると変わっていき、結婚を教会の支配下におさめようという動きが高まっていく。
その端緒を開いたのがクレルモン公会議である。十字軍結成に隠れて一つの歴史的決定がなされた――フランス王フィリップ一世の破門だ。フィリップは妻ベルト・ド・フリースと離婚し、ベルトラードと再婚した。これは、もちろんキリスト教的にはまったく赦されざる行為だったのだが、それまでの教会は世俗の問題だとして口を出さなかった。事実、フィリップとベルトラードの婚礼にしても、多くの聖職者が訪れ、彼らを祝福する。要は、教会はフィリップの離婚を宗教的問題にすることによって、教会が結婚に対して権力を振るった前例を作りたかっただけなのだろう。哀れなフィリップはこの破門によって、栄誉ある第一回十字軍に参加することができず、歴史上はじめて破門されたフランス国王という不名誉まで背負ってしまう。興味深いことに、この会議ではもう一つの重要な議論がなされている。妻帯した者が十字軍に参加する場合、妻の同意を得る必要があるのか否か。ヨーロッパをあげての大事業であるだけに、当時の教皇イノケンティウス三世は妻の同意なしでも参加できると主張していたが、当時の多くの神学者、たとえばシャルトル司教イヴォや後のトマス・アクィナスはこの解釈に反対していた。彼らの主張は、結婚の誓いがなされたのは十字軍の誓いよりも前なのだから、結婚のほうが優先されるべきだというものである。
こうした教会の結婚に対する姿勢の変化には、家族形態の変容が背景にあった。カール大帝の時代から徐々に、ローマ的、あるいはゲルマン的ファミリアが、今日の家族形態ファミリーに置き換わっていく。つまり、原始的な血族集団としての家族から、感情的な絆によって結び付けられた家族へと移行していったのだ。教会はこうした動きのなかで個人の生活を管理するために、結婚をも自らの支配下に組み込む必要が生じてきたのである。だがそれだけではなく、十二世紀ごろから、性生活のありようにも教会がいちいち口を出すようになっていった。
例として、ブランテージがまとめた贖罪規定書を見てみよう。性行為をするための条件として、まず結婚して三日以上たっている、妊娠しておらず授乳中でもないことがあげられる。もちろん月経期間中はだめ。クリスマスなどの祭日もだめだし、日曜、水曜、金曜、土曜にするのも罪になる(つまり、月曜火曜と木曜だけ)。さらに服を着てしなければいけないし、昼間にはしてはいけない。教会の中でやるのはもってのほか……などなど。フランドランという歴史家は、この贖罪規定書にしたがった場合、中世の夫婦が一年間に何日ぐらい行為を行えたのか『アナール』誌上の論文で詳しく検討している。それによると、セックスの解禁日は一年に四十四回、月に四回ぐらいの計算になるそうだ。もちろん、体調のことなどを考えると、実際にできる日はもっと少なくなるだろうから、相当厳しい規定であると言わざるをえない(彼によれば、現代の先進工業諸国の大半の国民はこれの三倍程度をこなしているそうである)。人々がこの規定を厳密に守っていたのかという問題については、歴史家の間でも議論がある。フランドラン自身は十世紀、十一世紀の人々はこれを守っていたと主張しているが、どんな時代でも欲望というものは存在する以上、厳密なかたちでは守られていなかったのではないだろうか。なにせ修道士ですら、姦淫にふけっていたのだから。
 いずれにせよここで重要なのは、教会がいっそう締め付けを厳しくするなかで、他方、教会や修道院のモラルは堕落していったというアンビヴァレントな状況である。このアンビヴァレンスこそが、中世を象徴する性愛観であるといえよう。人々は素朴で未開な状況におかれ、性のかたちもまたゲルマン的野蛮さに満ちながら、社会的にはキリスト教的禁欲主義が支配していた。キリスト教的救済を求める人々はそうした社会に絶望し、修道士や教会でなく、独自に禁欲的な生活を行う聖者に理想を見るようになる。そしてそのかたわらで、洗練された宮廷風恋愛「フィナモール」が花開くのである。
 次節では、華やかなるフィナモールの理念と、その実際を見ていこう。



吟遊詩人のフィナモール、「恋愛」の誕生

 先ほども述べたように、中世の恋愛観はきわめてアンビヴァレントな観念に支配されている。前節では未開で生々しい性の様相と、キリスト教的禁欲主義の不思議な共存について述べたが、本節では典雅な宮廷風恋愛の様式と男性的な騎士道精神、そしてホイジンガが述べたような、ルネサンス的な懐疑主義と様式化された欲情の間の対立について記述したい。
 宮廷風恋愛が精神的、ないし様式的に確立されるのは十二世紀であった。今回、主要テキストのひとつとしたカペルラヌスの『宮廷風恋愛の技術』も十二世紀に成立しているし、ホイジンガによれば「否定の基調音に立つ愛の理想」が文学のなかに登場した時期でもあった。それは、ギリシア悲劇の特徴である「結ばれたものたちの離別」による悲嘆ではなく、「結ばれえないこと」に対する悲嘆が発明されたことを意味する。
ゲルマン人やギリシア人にとって、「結ばれえないこと」の悲劇は理解しがたいものだったのだろう。ローマの歴史の幕開けを思い出してもらいたい。粗野な羊飼いの集団によるザビーネ女の略奪が、後のパックス・ロマーナにつながっていくのである。彼らの時代、女性を略奪することが半ば公に認められていたのだから、結ばれえない男女の悲哀をドラマにすることはできなかった。
しかし、中世となると事情は異なってくる。キリスト教は夫婦の結びつきを両性の愛に基づくものであると規定した。信仰の変化は政治にも影響を及ぼし、ローマ法における「アフェクチオ・マリターリス(結婚の愛情)」に対する解釈も変化していく。ローマ時代のアフェクチオ・マリターリスは単に結婚をする意志という程度の意味だったが、ユスティニアヌス法典においては両性の感情的な愛という意味に解釈されるようになった。十二世紀のグラティアヌス教令集でもユスティニアヌス法典と同じ解釈が行われ、カノン法学者たちの思想に決定的な影響を及ぼした。
そうなると、これまでの一方通行な愛のかたちでは通用しなくなる。女性の愛を求めること、奉仕することがはじめて生まれ、その愛が貴婦人に通じないことが悲劇として認識されるようになった。そうした変化が大きく結実した時代、それが十二世紀なのである。ところでこの時期、もうひとつこの変化を後押しする事件があった。キリスト教的「煉獄」の思想の発明だ。それまでの天国か地獄の二分法であれば、罪を犯した人間は即座に地獄へと落とされてしまう。しかし、この偉大な発明品によって、罪を犯した人間でもいったん煉獄に入り、そこで罪を浄化するために苦しみを味わった後、天国へ行くことができると信じられるようになった。前節で述べたように、キリスト教において男女の愛や快楽は根本的に罪であるが、煉獄でその罪を浄化できるということになると、性愛は次第におおっぴらなかたちで語られるようになったのである。
では、ホイジンガをはじめとする多くの歴史家が十二世紀に誕生したと言ってはばからない「恋愛」あるいは「フィナモール」がどのようなものだったのか、以下で詳しく見ていこう。

  気高き婦人よ! たとえ私を召使として扱ってくださっても
  私はあなたになにも求めません
  なぜなら高貴なお殿さまのようにあなたにおつかえするので
  あなたがどのような褒美をくださろうと
  あなたの命令にしたがうだけだからです……
(「私の歌ほどすばらしいものがあるだろうか」、ベルナール・ド・ヴァンタドゥール)

 上は十二世紀のトルバドゥール(南仏の吟遊詩人)の歌である。トルバドゥールたちの説いた「恋愛」の理念は、イブン・ハズムのアラブ的要素とオウィディウス的性愛観の綜合として立ちあらわれた。すなわちそれは、オウィディウスの「恋愛」「奉仕」の礼賛とイブン・ハズムが説いたプラトン的恋愛観の融合であり、オウィディウスが説いたような恋愛術を実行しながらも、一方で恋愛が欺瞞的遊戯に堕することなく、魂の善美に適うような内面的要素を重視するというものであった。それまで社会的に受け入れられてきた性愛観とは異なり女性を尊重し、いや、野島秀勝の言葉を借りればそれはむしろ「恋する男は、その身分が恋の相手より高かろうと低かろうと、自分のことを彼女の奴隷と呼ぶ」ような、一種のマゾヒズムをも含有する愛の様式である。
 こうした恋愛観は、ホイジンガやラ・クロワが指摘したように、西欧ではまず南仏のトルバドゥールが歌を通して作り上げたものだった。トルバドゥールの多くは王侯身分や騎士であり、その題材は若い騎士が貴婦人の愛を求めるというものに偏重していた。ここに、フィナモールの起源を占う鍵がある。当時、騎士階級の次男以下は領土を継承することができないため、城を得るために武者修行の旅にでる必要があった。つまり、旅先で貴婦人の愛を得て結婚し、領土や地位を手に入れるのである。身分の高い女性たちに恋をする、あるいはしなければならなかった若い騎士たちの間で、フィナモールのような洗練された恋愛様式が発生するのは一種の必然であったといえよう。
 トルバトゥールたちが歌の中で表現した、この漠然としたフィナモールを具体的に理念化したのがアンドレアス・カペルラヌスである。フィナモールが社会的承認を受けるためには愛と聖性の調和が必要であり、カペルラヌスの『宮廷風恋愛の技術』(『愛の技法』と訳されることもある)は、そうした試みを行った最初の書であると言えよう。
われわれからすれば、恋愛と禁欲は矛盾するように思われる。しかし、宮廷風恋愛の理念によれば、恋をする人間はそれだけで徳を高めることができるのであり、恋愛と欲望は切り離されたものだった。宮廷付き司祭でもあったカペルラヌスは、『宮廷風恋愛の技術』のなかで、欲望から発する恋愛を徹底的に弾劾し、金品やセックスを目的とした恋愛は成立しえない、と断言したのである。それは次のような文章によって象徴的に示されている。

さて、真の恋人は如何なる貪欲によっても堕落し得ないというのは、恋の功徳である。恋によって、猛々しく粗野な男も際立って立派な男になりおおす。……嗚呼、恋とはなんと素晴らしいものか! かくも多くの美徳で男を輝かせ、全ての人に、それが何人であろうと、かくも多くの善良な人格を学び取らせる、この恋というものは!

 全三巻構成である本書の、第一之書においては聖性と恋の調和、恋の功徳について語られ、後半部では有名な男女の想定問答集が収められている。それは、今日のわれわれが恋人同士の会話と聞いて想像するような軟派なものではなく、スコラ哲学に基づいた激しい議論の応酬である。そして第二之書では恋を保持する方法について語られ、恋にまつわる問題について具体的事例をあげながら、裁判形式で読者に理想の愛のかたちを説くというユニークな章も収められている。かくして、理想的な恋愛についてカペルラヌスは大胆に論を進めていくのであるが、その主張はもろくも聖性と愛の理想の間できしみをあげて破綻してしまう。なぜなら、第三之書においてはまったく正反対のことを書かざるをえなかったからである。

ところで、賢明な人間が恋のあらゆる行為を避け、その命じる所全てに抗わなければなららぬ理由は多々ある。その理由の先ず第一は、何人も反対することが出来ぬものだが、恋の奉仕に献身している限り、たとえ如何に善行を積もうと神のお気には召さぬということだ。

 それでは、なんのためにこの本を書いたのだろうか。カペルラヌスは「罪を犯す能力がありながら罪を犯さぬ人間のほうが、罪を犯す機会も持てぬ人間より、神のお気に召すのは確実だからである」とその理由を述べているが、どう見ても言い訳である。第三之書を書かなければならなかった理由は、どのように修辞を凝らしても、結局聖性と愛は矛盾し対立するものであることを、著者でありまた聖職者でもあるカペルラヌス自身がもっとも良く知っていたからであろう。
 その矛盾にもかかわらず、カペルラヌスの著作は中世を通して恋愛術の教科書となる。洗練された恋愛の様式が、結局のところトルバトゥールが歌い上げた恋愛の理想に適っていたからであろう。しかし、ここでわれわれはもう一つの矛盾に直面する。つまり、こうした洗練された様式と、騎士道精神や、中世特有の未開な性が同居しえたのだろうか。この疑問に対してル=ゴフは、宮廷風恋愛は文学の産物であり、現実にはほとんど成立しなかった(唯一、わかっている例外はエロイーズとアベラールのみである)と喝破する。逆説的ではあるが、文学や絵画にそうした宮廷風恋愛の情景が残されたのは、そうしたことが理想とされながらも、現実にはほとんど起こらなかったからであると考えられる。それは考えても見れば当然のことで、現代のわれわれが読む恋愛小説やゲームのシナリオに登場する恋愛の情景は、実際の愛の模様からは大幅にずれていると言えよう。現実に存在しない理想を仮想世界に求めようとする傾向は、二十一世紀のわれわれも中世人も変わらないのである。



フィナモールの実際――黄金色の愛が煤ける時

それでは、西欧中世の人々は、どのような性愛を楽しんでいたのだろうか。文学や絵画以外の資料が伝える中世の模様は、実に素朴な性のありようを描いている。たとえば、会計簿が伝えるところによれば、十五世紀のブルゴーニュ候であったフィリップ善良候は、自らの館に次のような設備をもっていたそうである「その下を通る貴婦人たちをびしょぬれにする仕掛け」あるいは、ヴァランシエンヌでイギリスの使節団と会談する折に、彼は町の浴場に対して「使節のかたがたのために[……]ヴィーナスの仕事に必要なものすべてを容易万端ととのえ」る旨を通達したという。しかも、こうしたブルゴーニュ候の行いは、「あまりに節制が過ぎて、王侯たるものにふさわしくない」と同時代人から非難されたというのだ。
 実際、この時代は倒錯の時代でもある。処女性の象徴的人物であるジャンヌ・ダルクは、倒錯者ジル・ド・レとともに戦った。聖なるもの、美しい愛を規範として求めれば求めるほど、人々の性倫理は乱れていった。後に、こうした不道徳が社会問題にまで発展したイタリアでは、一四〇三年、教皇庁のなかに「夜間局」と呼ばれる部署が設けられ、同性愛者を狩り出す職務を行っていたという。女性の同性愛も盛んだった。レズビアンセックスは問答無用で地獄行きだといくら教会が力説しても、宮廷婦人の間でこの病はペストのごとく広がっていったのである。抑圧は倒錯を深化させるが、キリスト教倫理があまねく場所を支配していた中世においてさえ、それは例外ではなかった。
抑圧と中世恋愛の関係にとって、さらに重大な要素がある。それは、不倫だ。結婚によって縛り付けられた当時の夫婦、特にキリスト教的性道徳最大の犠牲者である女性にとって、性欲のはけ口はもはや不倫しか残されていなかった。結婚という最大の壁に阻まれた二人を描き出すことが、まさにトルバドゥールの歌い上げた「結ばれえないこと」の悲劇を表現する最大のツールであった。黄金色の愛の様式は、不倫という灰色のピースをはめることによって、はじめて完成を見る。史上はじめて生まれた純粋なる恋愛の様式が、一方で最大の背徳をその基礎としていたとは、なんという歴史の皮肉であろうか。実際、宮廷風恋愛を描いた最大の作品『トリスタン物語』も不倫関係がそのテーマであるし、アーサー王伝説に登場するランスロとギネビアもまた不倫関係にある。こうした傾向をさらに煽ったのは戦争であった。人妻を寝取る最大のチャンスは、彼女の夫が従軍していなくなった時である。戦争に行った男のほうは男のほうで、戦地に多くの娼婦がいたし、配偶者を連れてきてそのまま戦死する人間も多いことを考えれば、非常においしい状況であった。もちろん、戦地に残された敵国の女たちが獲物になったのは言うまでもないことだ。実際、ル=ゴフによれば、十字軍に従軍した兵士の多くが「ガールハント」を目的としていたという。
 こうした状況の一方で、キリスト教的禁欲主義は減衰するどころか、より進化していた。むしろ、現実世界が粗野であればあるほど、信仰に陶酔する者たちは、過激な方向へと走っていく。欲望の源泉であるペニスを、汚れた器官であるとして去勢するものたちさえ現れた。中世の神学者にとって、精液もペニスも悪魔の所産であり、乳房は邪悪の象徴として宗教画の題材にさえなった。自らの乳房を切り落とした聖アガタの絵は、それの代表的な例だ。そして皮肉なことに、トルバドゥールの歌がもっとも高く美しい調べをかなでていた十三世紀こそ、西欧で聖母マリア信仰をはじめとする「処女崇拝」が生まれた時代なのである。



結論

 現代の我々は、恋愛を自然な欲望の結果であると考えがちである。しかし、実際には恋愛とはまさに中世の発明品であり、もともとは欲望を当時の社会倫理に都合がいいかたちで制御するための枷であった。恋愛の形式が欲望それ自体と結びつき、そして結婚にまでつながるようになるのは、いわゆる「ルネッサンス」とさらに後の近代化を待たねばならない。
そしてまた、生まれたばかりの恋愛は矛盾を含む形式であった。それ故、恋愛の理想は貴族階級に強く意識されながらも、現実に実行されることはほとんどなかった。貴婦人を尊重し、貪欲にならず、快楽ではなく徳(美)を目的とした愛を追求せよ……これらは宮廷文学の占有物であった。キリスト教は直接的な性行為への罪悪感を植えつけることに成功したが、中世人の素朴な生活を根本的に変えることはできなかったのである。
ホイジンガは言う。

  文学やモードは、みせかけの現実を作りだし、その美しい生活という幻影にかれらは生きていた、と。高い身分のものたちの愛の生活も、その底を洗ってみれ  ば、いいようもないほど粗野なものであったのだから。おしなべて生活風俗そのものに、なお、のちの時代の知らぬ、あけっぴろげな厚かましさが残っていたの  である。

 この表現すらも、中世人の粗野を言い表すにはまだ手ぬるいと言えよう。ル=ゴフの見るとおり、愛欲の規律が守られることは通常なく、現実は洗練からは程遠いものであった。しかしそれでも、この中世の発明品は(いわゆる)ルネッサンスの懐疑主義を経て、枷としての役割がとりはらわれ、現代的な意味での恋愛へとつながっていくのである。



<参考文献>
京大西洋史辞典編纂会『新編西洋史辞典』
阿部謹也『西洋中世の男と女』、筑摩書房
アルノー・ドゥ・ラ・クロワ『中世のエロティシズム』、吉田春美訳、原書房
フックス『カラー版 風俗の歴史』1〜3巻、安田徳太郎訳、光文社
マックス・ヴェーバー「世界宗教の経済倫理 中間考察」(『宗教社会学論選』、大塚久雄、生松敬三訳、みすず書房)
マリリン・ヤーロム『乳房論』、平石律子訳、筑摩書房
ホイジンガ『中世の秋』、堀越孝一訳、中央公論社
ジャック・ル=ゴフ、『中世の身体』池田健二、菅沼潤訳、藤原書店
ジャック・ル=ゴフ、『中世とは何か』池田健二、菅沼潤訳、藤原書店
ジャック・ル=ゴフ、アラン・コルバン他『世界で一番美しい愛の歴史』小倉孝誠、後平隆、後平澪子訳、藤原書店
スチュワート・リー・アレン『愛の林檎と燻製の猿と 禁じられた食べものたち』、渡辺葉訳、集英社
アンドレアス・カペルラヌス『宮廷風恋愛の技術』、野島秀勝訳、法政大学出版局
池上俊一『身体の中世』、筑摩書房
同上『遊びの中世史』、筑摩書房
徳井淑子『服飾の中世』、勁草書房
バーン&ボーニー・ブロー『売春の社会史 上』、香川壇、家本清美、岩倉桂子訳、筑摩書房
浜本隆志『指環の文化史』、三陽社
上村くにこ『恋愛達人の世界史』、中央公論社
桐生操『淫らな世界史』、祥伝社
中江克彦『世界史・おもしろすぎる「性」の話』、日本文芸社
デビッド・フリードマン『ペニスの歴史』、井上廣美訳、原書房
イェルト・ドレント『ヴァギナの文化史』、塩崎香織訳、作品社
O・F・ショイエル『愛撫のひみつ』、高山洋吉訳、刀江書房
エリック・ホイエル『豊満の美 美と魅惑の歴史<上>』、高山洋吉訳、刀江書房
エリック・ホイエル『悪女の魅力 美と魅惑の歴史<下>』、高山洋吉訳、刀江書房


2005年度例会外発表一覧に戻る
日本史に戻る
政治・経済史に戻る

inserted by FC2 system