2006年1月13日
インド史  田中愛子


<はじめに>
 私は、学識継承システム化会議から、以下のことを学んだ。歴研には、世界史TB未履修で入会された会員もいらっしゃる。そうした方々への便宜をはかるべく、通史をコンパクトにまとめたものが必要である。また、短時間で手軽に読める史学書があれば、たとえ将来日々の業に忙殺されて歴史研究から遠ざかることがあろうとも、少しでも学識を維持しておくことができる。そこで通史概説を
 ……というのは口実で、平生より、殊に、2004年度11月祭発表展示「ビザンツ帝国史」を作成してより、歴史の本質のみを述べた通史を作成する楽しさにすっかりハマってしまったのである。というわけで、歴史の本質を探究する世界の通史、世界通史概説シリーズを作成したいと思う。
 最後に、歴研会員の皆様にお願いしたい。私の能力のみでは、到底このシリーズを質の高いものにすることはできない。このシリーズを良質で価値ある作品と為すべく、是非皆様にご質問・ご意見・ご批判・ツッコミその他をどしどし入れていただきたい。


<古代>(BC2000年頃〜6世紀)
 BC3000年紀、インドにおいて文明が形成され始める。そのうちの一つが、インダス文明と呼ばれる文明である。都市国家段階、もしくは都市国家連合段階にあり、印章の使用や秀でた都市整備技術、メソポタミアとの通商の可能性等で有名である。この文明は、BC1500年頃滅亡する。以降の文明との連関は不明である。

 BC2000年紀、中央アジアから、アーリア人が侵入する。彼らは、BC1500年頃パンジャブ地方に定着し、BC1000年頃ガンジス川流域へと進出する。アーリア人の社会は部族制で、司祭、戦士、平民の三つの階層を有していた。インドへと侵入すると、部族間で抗争しつつ、先住民を征服、賤民化していった。やがてこれが、司祭、王侯・軍人、平民、賤民の四階級からなるヴァルナ制と呼ばれる身分制へと発展してゆく。
 インド侵入時の経済は牧畜主体であったが、次第に農耕へと移行してゆき、BC8世紀頃には鉄器使用による生産力の拡大もあって定住化。農耕村落主体の社会を形成していった。村落は後々までインドにおける経済・社会の重要な単位たり続ける。また、農耕の発展を背景に、ガンジス川沿いを中心に商業活動が発生した。
 宗教はアニミズムである。その神々の様相は、BC1000年頃成立した「リグ・ヴェーダ」をはじめとする、ヴェーダと呼ばれる聖典に見られる。祭式権等宗教的権威は司祭に独占されており、首長や貴族に宗教的権威はほとんど無かった。この宗教はやがて難解な哲学や複雑な祭式を伴うバラモン教と呼ばれる宗教へと発展し、司祭の権威と宗教独占は一層強力なものとなってゆく。
 部族制は次第に解体、また、基本的に首長の権限は伸張してゆき、BC6世紀頃、王国、共和国が形成される。抗争により、国同士の統合が進展、BC5世紀中期、鉄の産地を有するなど地理条件に恵まれたマガダ国により、ガンジス川流域が統一される。この時代、商業が発展する。同業者組合が形成され、また、富裕な商人が有力な階層となった。またこの時代、政治や経済の変化を背景に、身分制や司祭階級による宗教の独占を批判する様々な新思想が次々と生まれた。仏教もその一つである。その後、王朝の変遷を経て、BC3世紀前期、マウリヤ朝がインド半島南端部を除くインド全域を統一するに至る。
 マウリヤ朝の統一は長続きせず、BC3世紀後期頃から再び分裂割拠の状態を呈する。この頃以降、ギリシア人、続いてスキタイ人、さらに月氏が侵入、西北インドを支配する。このような西北インドや中央アジアにおける諸民族の移動が、陸路の交易を刺激、活発化させた。AD1世紀、月氏支配下のスキタイ人土豪の一派によりクシャーナ朝が成立する。中央アジアから北インドにかけての地域を支配し、陸路の交易による経済力を背景に繁栄した。クシャーナ朝の許、陸路西北インドと中央アジアがより緊密に結ばれ、ローマ‐中国を中継する役割を果たした。また、活発な対外交渉が行われたことから、異文化要素を取り入れた文化が発達した。クシャーナ朝は、3世紀前期にササン朝ペルシアに敗れ、衰亡への道を辿った。

 北インドに遅れてBC1000年紀後半、南インドは歴史時代に突入する。南インドは、北インドに比べて、大規模且つ肥沃な平地が少ない。このため、分立傾向が強く、また、農業による収益が比較的少なかった。しかし、この地、とりわけインド半島南西部は、地の利に恵まれ、活発な対外貿易活動が展開された。
 BC2世紀、タミル地方に、チョーラ朝、パーンディヤ朝、チェーラ朝の3つの国が成立する。BC1世紀前期、デカン地方にサータヴァーハナ朝が成立する。紀元前後頃より海路による西アジア、ローマとの通商が活発化し、続いて東南アジアとの、さらに中国との通商が行われるようになった。こうした対外貿易とデカン高原の物産が、サータヴァーハナ朝の豊かな財政を支えた。サータヴァーハナ朝は3世紀前半に衰微し、新たな政権にとって代わられる。3世紀頃から、西方、特にローマとの貿易はやや翳りを見せるようになり、4世紀頃にはローマとの貿易は停止、東南アジアとの貿易に従来より大きく比重が置かれるようになった。
 サータヴァーハナ朝成立以降、デカン地方の国及びタミル地方の三国が、貿易問題や領土問題をめぐって抗争するという構図が成立、これが16世紀まで続いた。


<中世>(7世紀〜12世紀)
 4世紀前半、グプタ朝により北インドの統一がなされる。グプタ朝期はインド文化の確立期であるといわれる。この時代、純インド文化が隆盛したし、二大叙事詩等、この時代に現在の形にまとめられたものは多い。その中で最も重要なものが宗教である。アーリア人が持ち込んだ宗教がインド各地に伝播してゆく中で、インド在来の宗教がその内に取り入れられて次第にヴェーダの神々への信仰にとって代わってゆき、そしてこの時代、新たな神々の体系が完成された。従来のこの宗教と以降のものとを区別して、前者をバラモン教、後者をヒンドゥー教と呼ぶことがある。もう一つ、完成をみたもので重要なものに、身分制度がある。人々の職業は、身分制の存在もあって、ほぼ世襲されていた。そのため、職業が身分化、従来の四階級の身分制に代わり、ジャーティ制と呼ばれる職業に基づく身分制が確立された。非常に細かく身分が分けられているのがこの身分制の特徴である。身分制の完成とほぼ時を同じくして、身分規定の厳格化も進んでいった。また、この頃、南インドではタミル系文化とアーリア系文化の融合が進んだ。
 5世紀中期、エフタルをはじめとする諸民族の侵入により、グプタ朝は衰退、6世紀中期に滅亡する。外冦及びそれに伴う国内情勢の悪化により、商業は衰退。流通の狭域化、村落の自給自足化が進んだ。その後、7世紀前期にヴァルダナ朝により統一がなされるも、一時的なもので、すぐに崩壊した。
 こうした変化を背景に、7世紀頃、自らの領地に拠って立ち自立化した土地所有者層が発生、それぞれに自己の地方政権を構築していった。中でも、ラージプート族と呼ばれる、前述のエフタルやスキタイ人等の侵入者や賤民層を起源とし、軍事力によって台頭してきた者たちが有名である。土地所有者達は、最早王の官吏ではなく、王に対して土地(保有の追認)の代償にその収入の一部と兵力を提供する封建領主であり、彼らの土地は移動の自由の無い農民によって耕作された。こうして、領主による地方政権が割拠し、互いに抗争する時代を迎えた。なお、この時代は分裂の時代であるが、文化面においても、11世紀頃から、地方語文学等、地方主義の気風が見られるようになる。

 8世紀、アラブ人が、インド海上貿易の要所であるインド半島南西部の海岸地方に移住。穏便にこの地に受容され、以降、この地方の対西アジア貿易の担い手となっていった。アラブ人はその後も続々とインド及びインド周辺に進出、南アジアを舞台とした海上貿易のかなりの領域を占めるようになっていった。対外貿易は発展を続け、特に11世紀頃に急成長、貿易による利益が国富の内において非常に大きな比重を占めるようになる。そのため、しばしば貿易問題から、南インドの国同士の、あるいは南インドの国と海外の国との戦争が起こった。また、対外貿易が国内の商業活動を刺激しもした。
 6世紀頃から10世紀頃にかけて、タミル地方では、村落単位の自治が発達していた。村落の自治組織は非常に広範な事項に関して権限を有しており、土地所有者からなる村落会議により行政についての諸事項が決定されていた。また、村落は、政治的のみならず経済的にも、自給自足性が強かった。
 北インドにやや遅れて南インドでも封建制が発展。11、12世紀に南インドの覇権を掌握した後期チョーラ朝を除き、基本的に領主層の力が強かった。南インドでは、封建制は北方ほど顕著であり、南方ほど弱いものであった。


<近世>(13世紀〜)
 7世紀以降、異民族の侵入はアラブ人を除いてほとんどなかったが、10世紀頃から、しばしばアフガンから略奪目的の大小の侵入があった。そして13世紀初頭、アフガンからの侵入者が、北インドを勢力圏とする政権を樹立した。この政権はいくつか王朝の変遷を繰り返したが、王朝交代は社会の様相に大した影響を与えてはいない。なお、この政権の許でも、独立・半独立の地方政権はやや弱体化しつつも存続しており、20世紀中期まで命脈を保ち続ける。この北インドの政権は総称してデリー=スルタン朝と呼ばれる。この時侵入してきたアフガン人・トルコ人はイスラム教徒であった。これを契機に、インドにイスラム教文化が流入する。その結果、インド在来の文化と新来のイスラム教文化が融合した文化が形成された。宗教もその一例である。7世紀頃、バラモンの権威主義に反発し、神への帰依を至上とするバクティ運動が起こっていたが、この運動は15、16世紀頃頂点に達し、イスラム教の影響を受けて新思想が生まれていった。異民族の侵入は経済にも影響を与えた。アフガン人やトルコ人の移動に刺激され、交易活動が再び活発化してきたのである。

 14世紀中期、デカン地方に北インドのイスラム政権からの独立政権であるバフマニー朝が成立する。一方、同じく14世紀中期、タミル地方では、デリー=スルタン朝の侵攻に対抗し、タミル地方のヒンドゥー勢力が糾合され、ヴィジャヤナガル王国が成立する。こうして、北インド、デカン地方、タミル地方の大きな3つの政権が抗争するという構図が形成された。バフマニー朝は、イスラム教徒の人口が少なかったためイスラム教徒誘致政策を取った。しかし、在来者と移住者との間に宗派や人種にまつわる問題が生じ、それが元で16世紀前期にバフマニー朝は分裂した。ヴィジャヤナガル王国も、西アジア、東南アジア、中国、アフリカ等との貿易により繁栄したが、16世紀中期、バフマニー朝から生まれたイスラム諸国の連合に破れ、滅亡した。

 16世紀前期、北インド政権の内紛から、ムガル帝国が成立する。ムガル帝国は、各地の地方政権を打破してゆき拡大、17世紀後期にはインド半島南端部を除くインド全域を統一する。そして、強力な皇帝権をバックに、中間介在層を極力抑えた税制等、中央集権体制を樹立した。広域にわたる統一とそれを統治する安定した政権とが出現したことにより、国内、対外共に商業活動が活発化した。
 やがて、ムガル帝国は、大規模な軍や官僚制度の維持のため、財政難に陥った。官吏の俸給を徴税権に切り替えた結果、中間介在層が増加し、また、地方官が自立化していった。中間介在層の増加故に農村からの徴税が厳しくなり、また、人頭税の問題からヒンドゥー教徒の反発を招いたため、反乱が多発した。反乱や地方官の自立化により軍事費が増大、これがさらに財政を圧迫した。また、商業活動等によって得られた国富を産業育成に振り向けなかったために、あまり産業の成長が進まなかった。18世紀前期、ムガル帝国は崩壊へと向かう。自立した地方官や反乱勢力、かつての封建領主層の末裔等による政権が各地に分立した。

 ヨーロッパでは、古代よりインドの産品が非常に珍重されていた。そのためヨーロッパ各国は、中絶はあるものの、インド貿易のために力を注いできた。15世紀末のインド航路発見により、アラブ人を介さずにインドとの貿易ができるようになり、各国はこぞってインドに進出してきた。
 18世紀中期、産業・商業の育成に努めて国力を高め、ヨーロッパ諸国との戦争を勝ち抜いて軍事力をつけ、植民地獲得重視の外交を展開していたイギリスが、ベンガルの政権との戦争に勝利し、ベンガルの徴税権、つまりは支配権を獲得する。以降、分立する諸勢力を相互の反目に乗じて各個撃破、19世紀前期にはインドのほぼ全域がイギリスの支配下に置かれる。こうして、インドは、世界を挙げての西洋化の潮流にのみこまれてゆくのである。
 インドの産業は、近代的生産体制によって生産されるイギリス製品との競争に勝ち得るだけの競争力を有していなかった。イギリスへの富の流出及びイギリス製品の流入がインドの人々の生活を圧迫しているとの、イギリスに対する反発が強まり、対英抵抗運動、独立運動が展開された。この際、ムスリム層からは分離独立の要求が出された。イスラム教徒に多い小作人層とヒンドゥー教徒であるその地主層との相克、そしてそれに助長された宗教上の問題がその原因である。
 第1次、第2次世界大戦によって国力を減じ、インドへの支配力を失いつつあったイギリスは、独立を承認。1947年、インド共和国及びパキスタン・イスラム共和国が成立した。インドでは、独立運動指導者達からなる政党が政権を執り、経済に国家統制をかけることによって経済発展と経済的平等を実現することを目指す政策がとられたが、はかばかしい成果はあげられなかった。パキスタンは独立直後から政情が不安定で、結局軍部が政権を握り、独裁を行うこととなった。この政権はある程度の経済成長を実現したが、そのために貧富の差が拡大するなどして国民の反発をかい、1971年にはそうした政権への反発故にバングラデシュ人民共和国が独立した。インド・パキスタン両国は領土問題等で対立、それが国民生活をさらに厳しいものにしている。


<おわりに>
 敢えて自分にとって縁遠い領域の、それも通史に挑戦してみました。発想力・洞察力の獲得、もっと深く確かな自説の構築が私にとっての大いなる課題であることを、改めて痛感させられました。願わくは、このレジュメ制作作業により私に少しでも実力がつかんことを。そして、このレジュメによって活発な議論がなされ、それが歴研会員各位の学識向上の一助とならんことを。


参考文献
近藤治『インドの歴史 多様の統一世界』(講談社、1977年)
近藤治編『インド世界 その歴史と文化』(世界思想社、1984年)
中村元『インド史』(春秋社、1997-1998年)
山本達郎編『インド史』(山川出版社、1960年)
ロミラ=ターパル『インド史』(辛島昇他訳、みすず書房、1970-1975年)
歴史研究会会員各位


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