2007/06/22
食卓越しの政治史  YanoII


「食卓にこそ政治の極地がある」――ブリア・サヴァラン

 アダムとイヴは食事をし、しかる後に自由意志を得た。イエスは晩餐の席で、パンを片手に語った――「これはわたしのからだである。」そして現代でもなお、人びとは商取引や結婚の取り決めを食事の席で行っている。ことほどさように、人間の精神生活を語る上で、食卓とは欠くべからざる要素なのである。人間の自由意志と社交の集大成である政治の場ではなおのこと、食事は重要な役割を果す。

 美味しいものを口にすれば、どんな人でも心が緩む。料理が政治に利用されるのは、考えてみれば当然のことである。18世紀イギリスのホイッグ党指導者ニューカスル公爵は、天才料理人クルーエの助けを借りて、料理を政治的連携の道具として活用した。後に自由党下院議員たちが結成した「改革クラブ」は、その進歩性の宣伝のために、会合で使う料理やキッチンを一般公開した。だが、料理の政治的活用という点で遥かに優れていたのは、フランス人であった。フランスという国民国家が誕生した19世紀はフランス料理の黄金期でもある。

 18世紀、革命勢力がジャコバン主義を選択したとき、今日われわれが「フランス料理」と呼ぶものが生まれた。雑多な地方の田舎料理は無視され、人々の献立はフランス料理という名のパリ料理で埋め尽くされた。それは、中央集権制とフランス国家の統一を象徴する出来事である。実際に、三百種以上あった洋梨はデュシェス種に統一され、料理の本からは田舎料理が消えうせた。そして19世紀、革命によって豪華な宮廷料理は街へと流出し、レストランが爆発的な勢いで増加した。飛び切りの美食を出すレストランには大きな権威が与えられるようになり、優れた料理人の手で料理評論やグルメ本が書かれた。これは、料理が政治と同じく論評や議論に値する対象とみなされるようになったことを意味する。実際に、当時の啓蒙主義を代表する二人の思想家、ヴォルテールとルソーは「料理論争」を戦っている。高度な技術による料理を支持するヴォルテールと、素材を生かした自然食を支持するルソーの激しい戦いは、フランス最高の知識人たちを巻き込んだ大論争に発展した。近代のあらゆる社会思想は、結局のところ豊かさを目標とするものであったが、そもそも社会が豊かであることをどのようにして証明する手立ては限られている。つまり、美しい女と、華やかな恋愛と、そして美食である。自分たちの思想にもとづいてつくられた社会こそが、本当の美食を提供できるのだと主張することは、とりもなおさず思想の正当性につながった。啓蒙主義者を自称するフリードリッヒ二世は、「啓蒙君主たるもの、フランス料理以外を口にすべきではない」と公言してはばからなかったという。フランス料理こそがフランス共和主義の正しさそのものだったのだ。イギリス人だけは断固としてフランス料理の優越性を認めようとはしなかったが、しかし優秀な料理人は次々にパリへと流出していった。フランス国民は「《フレール・プロヴァンソー》の広間の細部について述べるよりも、ルーヴル宮殿の柱廊がどの建築様式に属するのかを言うことのほうに困惑させられる」といった冗談がまことしやかに語られたが、外国では次のような有様だった。

   ヨーロッパ中がフランスに襲いかかったとき、その大軍の隊長たちは皆、唯ひとつの叫び声を上げていた。パリへ! パリへ! と。彼らはパリでまず始めに  何を尋ねるのだろうか? パレ=ロワイヤルだ! ある若いロシア将校は馬に乗ったままそこに入った。パレ=ロワイヤルでの彼らの最初の望みは何だったの  だろう? 輝かしくも彼らのところまで伝わってきたレストラン業者たちの名前を、彼らはよく引き合いに出していたが、それらの店の食卓に就くことこそ彼らの   望みだったのである

デパートに代表される、19世紀の巨大な物流網は、中央集権体制とあいまって全世界の物産をパリに集積することに成功した。フランス料理とは、中央集権主義とブルジョア資本主義の勝利を告げる凱歌なのである。



補足

 本稿は統一テーマでの発表という性質上、A4用紙一枚の分量という制限の中で書かれており、参考文献等省略してあります。


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