2013年4〜5月
一人の公家が見た戦国日本  三波


 前章
 14世紀、足利尊氏が京に樹立した政権の至上命題は、地方を治める守護の統制であった。代々征夷大将軍に任命された足利家当主の中で、尊氏から数えて3代目に当たる義満、6代目の義教、9代目の義尚、10代目の義稙らは軍事討伐などで権力拡大に努めたが、それらの努力がほとんど水泡に帰す出来事が起こった。将軍に対するクーデターである。義稙が河内の畠山義豊征伐へと出征していた最中、細川正元ら幕府側の有力守護が、将軍の従兄弟にあたる清晃を足利家の当主として擁立したのである。義稙は正元が派遣してきた軍勢に敗北、京に幽閉されてしまう(注1)。
 この事件により、足利政権の首班である征夷大将軍の権威は失墜した。首班の地位が、本来は家来でしかないはずの守護の意向によって決まるのである。時を同じくして、全国各地に、足利政権の統治制度を支えていた大名に対して公然と反旗を翻し始めた地方豪族が続出した。大名は、政権の顔を自分たちで決める『特権』を得た半面、その政権に依存している自分たちの存続を危うくすることとなったのである。

 ここで存在感を高めてきたのは、天皇を頂点とする公家階級である。将軍義満が天皇の頭越しに明帝国から「日本国王」として冊封を受け、皇統を足利家へ引き込もうと画策した頃、公家の権威は地に堕ちていた。しかし、全国政権としての足利政権が崩壊すると、大名や地方豪族は、自身の地位や領土を保持するために、あるいは隣国へと攻め込む口実を得るために、朝廷への官位の任官要請に上洛するようになった。以前は足利政権が一括して行っていた任官を全国津々浦々の有力者が直接依頼することで、朝廷、ひいては公家の権威が上昇したのだ。また公家の側にも、任官の見返りとしての献金、住居の新築、儀式の財源など、何かと助かる機会でもあった。
 しかし、公家にあるのは権威だけで、自力で全国を統一する軍事力はない。任官された諸大名も、全国統一に至る戦略・軍事力を持ってはいない。現職将軍の失脚に端を発する全国規模の紛争は、半世紀が過ぎた現在もなお、収まる気配が見えなかった。

 天文5年(1536年)、この年関白に再任された近衛稙家に、男児が誕生した。名は、義理の叔父であった12代将軍義晴から一字賜り、晴嗣といった。
 晴嗣の生まれた近衛家は、公家社会の中では皇室に次ぐ序列を持つ家柄である。まだ公家社会が名実ともに全国の統治者であった頃から600年以上の長きにわたって政界の頂点である摂政・関白の職を独占し続けている藤原氏の宗家の末裔に当たる。藤原氏宗家は、足利家が東国の一領主であった時代に五つの系統に分裂し、以降その五家が摂政あるいは関白の職を交互に担当していた。五家は、その住居地を家名とし、互いを区別していた(近衛・九条・鷹司・一条・二条)。その中でも近衛家が特に筆頭とされていた。
 公家社会の頂点に君臨するだけあって、晴嗣の叙任速度は極めて早い。天文10年1月にはわずか6歳で、従四位上左近衛権少将に任官された。その後も、他家の年長公家を追い抜いて昇進してゆき、10歳で権大納言、12歳で内大臣、18歳で右大臣、19歳で左大臣と、実務能力を無視した昇進を重ねていった。そして天文24年(1555年)、弱冠20歳で、父よりも年上である帝(後奈良院)の“後見役”たる関白に就任した。関白就任はたいてい20代のうちに任官することが多かったが、20歳での就任となると数百年来の出来事であった。
 もっとも、10歳前後で本来なら高度な統治能力が求められる官職に就いていることからして、国家を治める権限が全く与えられていないのは明白であった。実際、武士が鎌倉に打ち立てた地方政権に朝廷軍が敗れ、三上皇が配流されてから300年以上、本来朝廷に属するはずの統治総覧の権限が一時期を除いて侵食されていたのである(そのさらに数百年前から、貴族の政治とは自家の私腹を肥やすことにあったのだが)。

 晴嗣が実体のない昇進を繰り返していた間にも、畿内の情勢はめまぐるしく転換していた。
 足利家及びその補佐役たる細川家の主導権を巡る争いは、天文元年(1532年)を境にして、宗教が絡むことになった。長引く戦乱に急進化した畿内の一向宗門徒が、ようやく京を手中に収めようとしていた細川晴元と対立した。晴元は京内に勢力を持っていた法華宗を動員して弾圧を行う(山科本願寺の焼き討ち)も、一向宗のますます激しい蜂起を招いた。翌年、門徒は晴元が拠点を構える堺を攻めた。晴元は淡路への逃亡を余儀なくされるが、ここでも法華宗を動員し、石山本願寺へ本拠を移した一向宗と対決することとなる。戦功を挙げた法華宗は、京内の自治権を得るが、今度は比叡山と反目、天文5年(1536年)に京内の3分の2を焼き尽くす戦いの末、討死一万という犠牲を出して敗北した。そして晴元は足利義晴を擁して入京し、政権の実権を握った。
 その後も敵対勢力の残党などが京へ攻め上ることもあったものの、晴元方の武将である三好長慶の活躍もあって晴元政権は安泰であるかに思われた。しかし天文17年(1548年)、長慶が突如として残党の盟主であった細川氏綱の元へと奔り、翌年には晴元を京から追い落してしまった。
 天文21年(1552年)、2年前に父の後を受け継いだ将軍義輝と長慶との間に和議が成立し、義輝が入洛するも、翌年には早くも出奔した。以降5年間、長慶は足利家から傀儡将軍を立てることすらせずに、自らの名で政権運営に当たった。弟3人に阿波・淡路・讃岐を治めさせ、堺商人とも結び、配下の武将松永久秀は大和の興福寺や河内の畠山氏を攻めるなど、盤石な政権基盤を築いた。永禄元年(1558年)、再び入洛を目指した義輝と和解が成立し、京の政権は、5年ぶりに“正常な姿”(注2)へと戻った。のちに晴元との間にも和議が成立する。この年の暮れ、義輝は関白前嗣(3年前に、晴嗣から改名)の姉を正室に迎えた。義輝は前嗣の従兄弟にあたる。

 東へ
 永禄2年(1559年)、越後の大名長尾景虎が2度目の上洛を果たした。
 長尾家は、代々越後の守護代を務めてきた家である。越後守護の上杉家は、足利政権創設当初から東国の統治に当たってきた関東管領家の分家に当たり、本家とは養子相続などで緊密な血筋を保ってきた。
 景虎の父為景は永正6年(1507年)、守護房能を破り、その従兄弟にあたる定実を守護の座に就けた。2年後、関東管領家に養子入りしていた兄顕定が大軍を率いて出陣してきたのをも破った。ここに長尾家は、守護上杉家にかわって越後統治の実権を握ることになる。
 天文5年(1536年)、為景の跡を継いだ晴景は、父の負の遺産ともいうべき国内豪族との対決に苦しめられた。天文17年(1548年)、守護定実の仲介により、林泉寺で学僧となるはずであった弟の景虎を、養子として受け入れた。景虎は、国内の長尾一族を糾合することにより、天文20年(1551年)、越後統一を成し遂げた。
 景虎の目は、国外へと向けられることとなる。天文21年(1552年)、関東管領上杉憲政は、関東に勢力を拡大していた北条氏康軍に攻められ、越後へと援助を求めてきた。景虎は求めに応じ、生涯通じて繰り返される関東出兵の最初が行われた。
 天文22年(1553年)、今度は信濃から、村上義清が亡命してきた。甲斐の武田晴信の侵攻に追い立てられたものである。景虎は、義清の求めにも応じて、今度は信濃へと出兵した。
 天文23年(1554年)、景虎にとって都合の悪い事態が起こる。北条氏康、武田晴信、そして駿河の今川義元が、善徳寺において、三国同盟を結んだのだ。景虎も、周辺大名と結ぶことによってこれに対抗することとなったが、東海から関東にかけて広がる三国と正面切って戦う羽目に陥った。
 そんな中、京の義輝から上洛要請の報せが届いた。

 上洛した景虎は、帝や将軍義輝、三好長慶などの有力者たちのもとを訪れた。
 中でも意気投合したのは、関白の前嗣である。前嗣は公家にしては珍しく、自身の信念に従って行動する性格の人物であった。景虎に全国統一の可能性を感じでもしたのか、現職の関白でありながら、景虎とともに東国へ赴く決心をした。そして翌永禄3年(1560年)、本当に越後へと下洛したのである。現職の関白が京を離れるのは、前代未聞のことであった。
 前嗣が東国へ旅立つ前の5月19日(6月12日)、今川義元が戦死した。尾張の織田氏を併合しようとして、桶狭間で奇襲に遭ったのだ。三国同盟には亀裂が入った。
 景虎は自ら兵を率いて再び関東へと攻め込み、厩橋城へと入った。北関東の豪族は、続々と景虎の下へと馳せ参じた。遅れて合流した現職の関白前嗣の存在も効果があったようだ。両者この年を厩橋城で越し、翌年3月、大挙して小田原城を包囲した。
 この戦況については、信頼のおける詳しい資料が少ない。はっきりわかるのは、小田原城が難攻不落であったこと、氏康から景虎出兵の報を受けた晴信が越後を狙っていたこと、景虎方の武将が、長陣の不利を説いたことである。 鎌倉へと引き揚げた景虎は、憲政から関東管領職を正式に譲られることになった。この時から景虎は正式に上杉氏の人間となり、政虎と改名した。閏3月16日(1561年4月30日)、八幡宮拝賀が行われた。
 政虎は信濃の対武田戦況に対処するため、領民への管領職継承の披露も兼ねて一時越後へと帰国することになった。前嗣はそのまま関東に残り、互いに戦況を報告しあうこととなった。この頃、前嗣は前久へと改名している。

 9月、政虎は晴信と信濃で激突した。晴信の弟の副将信繁が戦死し、しかもその手柄を挙げたものが誰なのかわからないというのだから相当の激戦だったことがうかがわせる。政虎も単騎敵陣へと切り込み、晴信の軍配に数太刀浴びせたと伝えられる。
 前久は、政虎に戦勝を祝う書状を送った。しかし、関東の現状は前久方にとって不利になってきていた。政虎が去って以降、北条方の勢力が巻き返していたのだ。関白前久を以てしても、この不利は跳ね返されなかった。
 また、この戦いで両者の抗争が終結したわけではなかった。前久の援軍要請を受けた政虎は11月には早くも関東へと戻ってきたが、大損失を与えたはずの晴信も上野へ出陣してきて、両者の戦いは所を変えてまた繰り返されることになったのだ。

 政虎が関東出兵を始めてから10年近くがたったが、一向に平定の見通しは立たない。越後兵は農民を徴用して編成した軍なので、いつまでも戦場に留めておくわけにはゆかない。そして、戦線が広がりすぎたのだ。なので、政虎が頻繁に越後へ帰ってしまう。どれだけ関東奥深く攻め込んでも、越後への道が雪で閉ざされる前に越後へ戻ると、あるいは北信濃への出兵のために兵を向けると、関東平野のほとんどが北条方へと帰してしまう。
 北信濃への出兵も、村上義清に泣きつかれ、彼の領地を取り戻してやるがために行われたのだ。仮に成功したところで、政虎の利益は一切ない。そこにあるのは、日本を統一する構想ではなく、義理に篤い政虎の性格だけだ。中途半端に戦力を小出しして10年かかって何の成果もあげていない政虎に、日本を統一するだけの力量はあるのか?

 永禄5年(1562年)8月、前久は失意のうちに帰洛の途に就く。一向に進展しない戦況に嫌気がさしたのだ。関白の離脱に立腹した政虎であったが、その後も生涯、不毛な転戦を続けることとなる。

 将軍家の争い
 京では再び、形勢が大きく変わっていた。
 当初政権を主導していた三好長慶は徐々に政務を執らず、飯盛城に引きこもるようになり、実権はその右腕である松永久秀および三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)へと移った。久秀は、長慶没後の永禄8年5月19日(1565年6月17日)、二条御所に将軍義輝を襲撃、自殺に追い込んだ。興福寺にいた弟の覚慶のみ脱出に成功し、越前へとのがれた。
 前久はこの政変で、義輝の母である叔母慶寿院を失った。一方、義輝の正室であった姉は、無事に近衛邸へと送り届けられた。
 将軍継嗣の問題が浮上した。この時には管領も不在であったため、朝廷が将軍選出に関わることになった。久秀は阿波に滞在していた義輝の従弟にあたる義栄を推した。一方、越前の覚慶改め義昭も自身の将軍就任を主張し、全国の大名に檄を飛ばしていた。両者の間での綱引き状態がしばらく続くこととなった。
間もなく、義栄側の間で久秀と三人衆が断交して、内紛に突入した。前久は興福寺の要請に応じてこれを調停しようと、大和にまで出向いているが、内紛終結には至らなかった。

 その最中、三河から一人の大名が上洛してきた。松平家康である。松平氏は今川氏の圧迫をうけてきたのだが、今川義元の敗死をきっかけに勢力を盛り返し、三河統一を果たした。これを機に、朝廷から「三河守」の官職を正式に任命してもらうことを望んだのだ。しかし、官職に任官されるためにはしかるべき血筋の持ち主でなければならない。当時、松平は源氏の庶流を名乗っていた。
 そこで、前久が藤原氏の中で絶家になった系図を探し出し、これに松平を無理矢理くっつけた。そしてその家が「徳川」であったため、前久が藤氏長者の裁量で家康の家系を「藤原氏徳川家」とみなしたのである。

 結局、永禄11年2月8日(1568年3月6日)、義栄が征夷大将軍に正式に任官した。しかしそれから間もなく、義昭が東海の大名織田信長を頼って、上洛の兵を挙げた。美濃を発った織田軍は、近江・山科の敵兵を平定し、永禄11年9月26日(1568年10月16日)には入京を果たした。三人衆は逃走し、久秀は降伏した。義昭は誅罰を強く主張したものの、信長はこれを退け、のちに久秀は大和平定を命じられることとなる。
 10月18日(11月7日)、義昭は征夷大将軍に任ぜられた。義昭は信長の副将軍または管領への就任を求めたが、信長は固辞した。

 信長包囲網
 織田氏は、尾張の守護代の家系である。守護であった斯波氏は管領として京に宅を構え、国元の管理を織田氏にゆだねていたのである。やがて織田氏もいくつかの血統に分裂したのであるが、織田弾正忠すなわち信秀が勢力を広げ、他の織田家を束ねるに至った。
 そしてその才覚は、息子の信長にも引き継がれた。永禄2年(1559年)に尾張統一を成し遂げた。翌年には、隣国駿河の大名今川義元が侵攻してきたのを返り討ちにし、桶狭間の今川軍を奇襲して義元を討ち取ったのである。
 信長はその後、三河の松平元康(注3)と同盟を結び、自身は西の方へ向かって勢力を拡大し続けた。そして京を脱出してきた義昭を岐阜に迎え、上洛した。

 前久は義栄の将軍就任を支持した経緯から、義輝暗殺への関与を義昭に疑われた。久秀との交流が、前久にとって不利に働いた。元関白の二条晴良からも追及を受けた。結局、前久は朝廷から追放され、京を出奔、14年間にわたって務めた関白を解任された。後任の関白には、晴良が復帰した。
 前久は大阪に居を構え、同行した嫡子明丸あるいは一条院へ入っていた庶子尊政だけは京へ帰し、近衛家を存続させようと働きかけたが、義昭・信長・晴良らの間で意見がまとまらず、叶わなかった。
 この頃から前久は、京の信長打倒に向けてひそかに動き始める。この時代、全国規模で騒ぎを起こすには、宗教団体の協力を得るに限る。永禄13年(1570年)春には、石山本願寺との交渉をもっていた。その後前久は石山本願寺に入り、本願寺11世顕如の長男教如を猶子とした。

 元亀元年(1570年)、信長は越前の朝倉義景討伐中に、北近江を治める浅井長政の謀反を受ける。これに呼応し、三好三人衆が摂津中島に上陸した。近江の姉川で浅井・朝倉連合軍を破った信長は直ちに取って返し、義昭とともに大坂方面へ出陣してきた。ここで顕如が9月6日(10月5日)、諸国の門徒に檄を飛ばし、参戦の意を示した。12日には一向宗門徒が信長の陣所を襲い、これを破った。
 同じ頃、本願寺と連絡を取り合った朝倉・浅井連合軍が進軍を始め、近江坂本にまで至った。信長は西部戦線を一旦放棄して京へと戻っていった。すると延暦寺が、連合軍に比叡山を基地として提供する形で反信長同盟に加わったのだ。戦線は、膠着状態に陥った。
 信長はしかし、敵陣営の隙をついて窮地を脱する。将軍義昭である。天下統一が信長主導で進むことに不満を抱いていた義昭は、内心では反信長同盟に肩入れしていたのだが、唯一気になるのは三好三人衆であった。このまま信長が敗北すれば、その後の領地分割によって京が三好三人衆の領地になる可能性が高い。三人衆は兄義輝を暗殺した前科があり、また、自身も入京直後に宿舎を包囲された経験がある。潜在的な恐怖を抱いていたのだ。
 信長は義昭に取り入り、帝(後陽成院)の仲裁という形で、12月14日(1571年1月9日)、朝倉・浅井連合軍との間で和議が成立した。朝倉軍にしても、兵農未分離の軍隊は雪で帰路が閉ざされる前に帰国しなければならないため、内心では信長以上に和議を望んでいたのである。
 この頃はまだ、前久も信長包囲網の取りまとめ役として積極的に活躍していた。信長に反感を持つ全国の勢力と連絡を密にとり、また、越前には自ら出向いている。

 元亀2年(1571年)、信長は京へは入らず、東国で活動を行っていたが、晩秋に突然、比叡山に出兵した。そして9月12日(9月30日)、延暦寺を焼き討ちし、僧兵から女子供に至るまで皆殺しにした。この日は本願寺の奇襲からちょうど1年に当たる日であり、顕如に対する信長の無言の警告であった。
 しかし、顕如(と義昭)は再び、反信長包囲網を形成しようと動き始めていた。前回の包囲網の綻びであった義昭と三好三人衆は、翌年3月には和解し、同盟を結んだ。これに、松永久秀も加わった。義昭入京時にいち早く信長の実力を見抜き、三人衆と袂を分かった久秀が、今度は信長に見切りをつけたのである。これに加えて顕如は、甲斐の大名武田晴信を包囲網に引き入れることに成功した。晴信は信長の盟友である家康が統治する遠江へと侵入した。京・岐阜周辺で手一杯の信長は身動きが取れず、わずかな加勢を家康のもとに送ることしかできなかった。元亀3年12月22日(1573年1月25日)、晴信は三方ヶ原の戦いで家康を大いに破った。これによって、晴信西上の障害は消えた。

 元亀4年2月26日(1573年3月29日)、義昭は今こそ信長打倒の好機と見て、近江に挙兵させた。信長は臣下の柴田勝家・明智光秀に破らせ、3月29日(4月30日)には自ら入京、下賀茂、嵯峨、上京などを焼き払った。信長の態度が意外に強かったのか、晴信の到着の当てが外れたのか、義昭は和平を求め、勅命で両者は講和した。信長は今一度義昭を大目に見ることにして、岐阜へと戻った。カギを握る晴信は、遠江から甲斐へと引き返した後、一向に上洛する気配を見せなかった。義昭は、西の毛利輝元にも援助を依頼し、兵糧米を徴収した。
 7月3日(7月31日)、義昭は晴信がやってこないまま宇治槇島で挙兵した。直後の5日、信長がかねてから建造させていた大船が完成し、9日には早くも入洛、二条御所を破却した。そして腰を落ち着かせる間もなく槇島の義昭を攻め、18日には義昭の降伏、河内への追放に至った。これによって義昭、ひいては足利家の権威は大いに失墜することとなった。
 武田晴信は遂に上洛することがなかった。実は三方が原の戦勝直後に死亡していたことが分かったのは、大分先の事である。
 28日(8月25日)、信長は元号を天正へ改元させた。元亀への改元の直後から諸勢力の敵対が始まっており、元亀は信長にとって縁起の悪い元号であった。改元後は打って変わって、信長の越前朝倉、近江浅井両氏の討伐は順調に進んだ。
 顕如はというと、信長に対する不信感を解いてはいなかった。天正2年には、信長が制圧したばかりの越前を加賀一向一揆が掌握する。信長は他地域の制圧を優先せざるを得なかったため、この勢力はしばらく継続した。

 ところで、顕如が危惧しているように、信長は一向宗の殲滅をたくらんでいるのだろうか?山科の焼き討ちは、思想を違える法華宗の門徒によるもので、彼らは当然一向宗そのものを目の敵にして、徹底的に本願寺を破壊しつくしたのだ。
 だが、信長はどうか。信長には、一向宗を目の敵にするような動機はない。信長自身は、南の海からやってくる耶蘇教の信仰者と付き合いがあるが、だからといって仏教そのものは禁じていない。延暦寺を焼き討ちした際にも、その直後に天台宗の禁教令を出せば、天台宗は完全に根絶やしになったにも関わらず、その信仰を許した。
 では、何故延暦寺を焼き討ちしたのか。それは、彼らの宗教に対する信仰心が多宗教に対する敵対心に発展し、武力を蓄えて圧迫するようになったからである。更に、その武力を使って俗界における権力の乱用(通行料をとるためだけの関所の設置など)を行うようになったからだ。
 これは全国の諸大名にも言えたことである。京から遠く離れた地域では、足利政権などあってないようなものである。彼らにとっての中央政府とは、自分自身である。よって、軍隊を持つ。財政基盤も、商人から通行料をとって賄う。面倒くさい財政政策などを行ったところで、他国との国境に関所があったら商人は往来を渋るので、自国内完結の小さな規模になってしまう。
 信長がやろうとしているのは、この状況の打破である。陸奥から薩摩まで全ての土地を、自身を首班とする政権の影響下におく。安全保障上の意味をなさない、金銭目的だけの関所は廃止し、経済を活性化させる。諸国の軍隊は、中央政府の軍隊に逆らうことは許されない。当然、宗教団体が軍事力を行使することは許されない。その代わり、政府の軍事力をもって彼らを保護する。
 つまり、信長には本願寺そのものを潰す理由などはない。顕如が本願寺を存続させたいのであれば、直ちに信長との戦いを止め、武器、僧兵のない寺院本来の姿に戻ればよいのである。しかし、顕如は信長の真意に気づいていない。相変わらず、風向きが悪くなったら講和を求め(当然信長はそれに応じる)、しばらくすると講和を保護にして、また反乱を起こすことを繰り返すのである。

 前久の心中からは、信長に対する敵意は消えていた。信長こそは、長尾景虎の成し遂げられなかった天下統一こそを成し遂げられる資格を持っているのである。そして、前久を追放した義昭は敗れ、京を去った。前久を毛嫌いしていたのは、義昭だ。
 間もなく前久は、信長との不毛な争いを続ける顕如の許を去った。かといって、京へと戻るわけにもいかない。そこで、姻戚である丹波黒井城の赤井直正のもとに落ち着くことにした。直正のもとに嫁いでいた妹の渓江院と再会を果たした。直正もやはり、反信長の戦いを続けていた。

 信長の当面の敵は、甲斐の武田と、長島・越前を占拠する一向一揆であった。
 信長がまず手を付けたのは、長島である。天正2年(1574年)夏、信長軍は3か月に及ぶ籠城戦の末、城を丸ごと燃やすという手法で一揆軍を全滅させた。
 天正3年(1575年)4月、晴信の跡を継いだ勝頼は、三河国へと侵入してきた。越前出兵の準備を進めていた信長は家康の援軍要請に応じ、武田軍が長篠城を攻めていたところに駆けつける。5月21日(6月29日)、設楽原で行われた合戦で、信長は大量の火縄銃を使用し、武田軍の騎馬隊を壊滅に追い込んだ。武田軍は、国内では産出しない硝石の輸入ルートを信長に抑えられていたため、鉄砲を使うことができなかったのだ。勝頼は重臣も数多く失い、命からがら甲斐に逃げ帰った。
 信長は合戦勝利の凱旋の意味も込めて、6月に上洛した。公家衆や近国の諸将の礼参を受け、禁中へも参内した。

 ちょうど時を同じくして前久も追放が解かれた。信長の将明智光秀が赤井攻めを行う時期が迫ってきており、前久を引き離すことによって直正の気勢をそごうとしたのだ。渓江院の将来を案じつつ前久は赤井城を後にした。渓江院はわずか2ヶ月後、光秀の攻撃を受ける前に亡くなった。前久が京の地を踏んだのは、天正3年6月28日(1575年8月4日)のことである。

 西へ
 7年ぶりに京都へと還ってきた前久であったが、しかし、京に落ち着く暇はなかった。その行動力を買った信長に、九州下向と現地豪族の調停を依頼されたのだ。当の信長は、先延ばしになっていた越前出兵のため、滞在半月で京を去った。
 当時の九州は主に、北半分を大内宗麟が、南半分を島津義久が統治していたが、その他に伊東義祐・相良義陽らの小大名もあり、小競り合いを繰り返していた。信長は、中国治める毛利輝元と対峙するに際して、九州の安定を望んでいたのだ。

 9月20日(10月23日)、前久は在京3か月で再び旅に出た。そして12月25日(1576年1月25日)、薩摩国出水へと到着した。
 出水を治めていたのは、島津氏の分家である薩州家の島津義虎であった。宗家の島津義久は、前久の来意が、島津氏とその北の伊東氏の和平であることに気付いていた。島津氏はかねてから伊東氏を圧迫し続けており、もう少しでその領地を併合するところまでこぎつけていた。ここにきていきなり前久主導の和平調停を実行されたら、全てが無に帰してしまう。そこで義久は、義虎に足止めを命じた。義虎は専修寺で鷹狩や犬追物など、前久を接待攻めにし、結局3か月近く足止めをすることに成功した。前久がやっとの思いで首府鹿児島へとやってきたのは、天正4年3月29日(4月27日)のことであった。
 ところが、鹿児島到着後間もなく、信長から帰洛を求める書状が届いたのだ。6月26日(7月22日)、前久は当初の目的をほとんど果たせないまま、元来た道を引き返した。専修寺に滞在中の8月16日(9月8日)、義久が伊東領へと出兵したとの情報が入り、前久もこれに「出馬」しようとしたが、義虎に引き留められた。この戦いで義久は、伊東氏の支城を落とすことに成功した。
 これをきっかけに、島津氏がさらに北上を続ける可能性があったため、前久は義久と相良義陽との間での和睦を実現させようと、両者の間を取り持った。今度は前久は、鹿児島まで引き返してでも談判する構えを示したため、義久も受けざるを得なかった。
 その後前久は、豊後の大友宗麟、土佐の長宗我部元親の下を訪れたのち、天正5年(1577年)2月頃に帰洛した。

 本願寺講和
 前久が薩摩へ向かって出発したころ、信長は越前一向一揆を完膚なきまでに打ちのめしていた。そして上洛し、従三位権大納言兼右近衛大将に任官された。右近衛大将は律令制下では武官の序列2位の要職であり、源頼朝以降では武家の棟梁の官職として征夷大将軍とならぶ意味合いを帯びるようになる。
 この時、講和を結んでいた石山本願寺が再び武力行使を始めた。天正4年5月3日(1576年5月30日)、信長軍は本願寺を三方から包囲して戦ったが、重臣の一人原田直政ら多数が戦死して敗れた。信長は自ら出陣し、5日には一揆勢を大破した。すると一揆勢は、石山に籠城を始めた。信長は兵糧攻めにして持久戦に持ち込んだが、将軍足利義昭と毛利輝元率いる村上水軍は、木津川河口から直接本願寺へ乗り付け、兵糧を運び込んでいた。これでは兵糧攻めにならないので、信長は九鬼嘉隆統率の水軍を、河口沖に敷き詰めて、村上水軍の行く手を遮ろうとした。
 ところがいざ村上水軍が到着すると、焙烙という名の手投げ爆弾が飛んできた。九鬼水軍は爆弾の当たったところから瞬く間に爆発・炎上し、完敗。兵糧運びは続くことになった。以降しばらくの間、兵糧攻めは不完全な状態が続いた。
 翌年2月、信長は本願寺方の鉄砲集団の根拠地である紀伊の雑賀を攻め、これを破った。前久が帰洛したのは、ちょうどこの出陣中のことであった。信長は、このままでは一向宗との戦いが永遠に続くことに気づき、信長・顕如双方と交流のある前久に仲介を依頼したのだ。信長は対本願寺政策を、対九州政策に優先させたのである。

 閏7月12日(1577年8月25日)、信長の宿舎である二条御新造において、前久の嫡子明丸の元服の儀が執り行われ、信長の偏諱をうけて信基と名乗った。通常摂関家子息の元服は足利将軍が行っていたが、信長はそれを継承した。
 8月17日(9月28日)、信長陣営再び帰属していた松永久秀が突然信長に反旗を翻し、大和信貴山に立てこもった。細川氏の被官の一人から身を起こし、見事な立ち回りで戦国の世を生き抜いてきた久秀であったが、今度ばかりは勝算が見えなかった。10月10日(11月19日)、織田方の軍勢の攻撃を浴び、波乱の一生を終えた。
 天正6年3月13日(1578年4月19日)、越後の大名上杉輝虎が関東大出兵の直前になって急死した。かつて前久と天下統一を夢見た輝虎が生涯かけて平定した国は、越後・越中・能登の3ヶ国であった。上杉家では間もなく家督争いから内乱に発展し、信長の北方の憂いは当面のぞかれることになった。
 4月9日(5月15日)、上洛中の信長は突然、右大臣兼右近衛大将の辞任を願い出た。これによって信長は、従二位散官となった。朝廷もあわてた突然の事態に、公家衆の間ではいろいろと憶測が流れた。
 6月、信長がかねてから九鬼水軍に命じて造らせていた新たな軍船が完成した。新たにできた船はなんと、鉄で覆われていた。河口に留まり、特に動く必要もなかったため、塩に弱く、重く小回りの利かない甲鉄船で差し支えはない、と信長は発想したのだ。村上水軍の焙烙で船が使用不能にならなければよいのである。甲鉄船は紀伊半島を回り、木津川へと向かった。9月30日(10月30日)、堺で信長の視察が行われ、前久もこれに参加した。
 これにより本願寺包囲網は完成し、顕如の降伏も時間の問題と思われた。

 ところが、10月21日(11月20日)、予期せぬ事態が起こる。摂津守護の荒木村重が本願寺と連絡を取り、信長にそむいたのである。これに、高槻城主のキリシタン大名高山右近友祥も加わった。
 信長の動揺は大きかった。本願寺が健在である限り、周囲の領主の誰かを籠絡してくるのだ。まして今回自分に刃を向けたのは、自身の部下である村重と、信仰の自由に気を使っていたキリシタン門徒の右近である。これでは、誰が敵に寝返ってもおかしくない。
 信長は直ちに上京し、11月4日(12月2日)、朝廷に本願寺に向けて和平の勅命を下すように依頼した。庭田重保・勧修寺晴豊が本願寺へと向かったところ、毛利方にも同じ綸旨を送るよう求められたため、4日付で毛利輝元宛ての綸旨を作成した。輝元に同じ内容の綸旨が下ったことによって本願寺の態度があいまいになってしまった。
 ところが勅使出発の直前になって、村重の有力な属将であった中川清秀が信長方に帰参した。右近は本願寺からの直答の前に既に信長方に帰参していた。またちょうど甲鉄船の配備が完了し、6日には毛利軍600艘をわずか6艘で打ち破り、本願寺包囲網は完成した。
 信長は、本願寺が和平を求めるまで辛抱強く待つ作戦に切り替えた。相手に余力がある時点で講和を切り出せば、他の勢力を巻き込んで自分に都合がいいように話を進めてしまうためだ。
 信長は、長期戦を覚悟して本願寺包囲網と村重・毛利戦線にほぼ全軍を投入した。兵力を一年中休むことなく活用できるのは、兵農分離をいち早く行っていた信長軍の利点だ。これこそ、信長が全国統一事業に乗り出せる大きなきっかけの一つである。
 以降しばらくの間、信長は嫡子信忠に戦線を預け、自身はほとんど戦線に関与せず、長期の骨休みに入っていた。戦場へ赴いたのは、3月と9月の2度、諸将の激励を行っただけだった。これには前久も同行した。その他の時期は、鷹狩や乗馬などを行う日が例年よりも多かった。

 その最中、5月11日(6月5日)、信長が琵琶湖のほとりに建築させていた安土城が完成し、信長が入城した。西洋趣味の信長らしく、その日はちょうど信長の誕生日であった。
 安土城はともかく、今までの城と比べると明らかに、違っていた。軍事施設としての城に政庁機能を備えつけており、内装はとても奇抜で豪華になっている。更には地下室には仏塔があり、日本には例のない吹き抜けがあり、第六層は八角形に設計されており、…という調子だ。
 極めつけは、最上階第七層である。三皇五帝・孔門十哲などの絵が所狭しと描かれていて、その中央に信長がいる。これは明らかに、信長の国内全勢力に対する恣意行為である。また誕生日といえば、明では王や神の誕生日を祝う習慣がある。信長は、天皇をも越えようとしたのではないか?それとも、自身が神になろうとしたのか?

 11月19日(12月7日)、織田軍は、有岡城を落とした。村重は一足早く尼崎城に脱出し、次いで毛利輝元の下へ亡命した。
 ここに至って遂に、本願寺側から講和の申し入れが来た。庭田重保・勧修寺晴豊両名が講和に出向き、石山退去を前提として聞き入れられない場合は信長は講和を罷めにする意向であると伝えた。顕如は、法流断絶を避けるために条件をのむこととした。晴豊が安土の信長へ連絡を入れ、前久も加わって3人が再び本願寺へ出向き、交渉を重ねた。 天正8年3月17日(1580年4月1日)、信長の講和条件が前久に託された。本願寺に入った前久と顕如の間で条件に若干の修正を行い、閏3月5日(4月18日)、和議が成立した。
 ところが、教如がこれに強く反発し、籠城・徹底抗戦を呼びかける檄文を門徒に飛ばした。顕如もまた檄文を飛ばし、教如に従わないよう諭した。東宮誠仁親王からも石山開城を促す消息が流された。4月、前久は帰洛し、顕如は紀伊雑賀に移った。この時顕如は教如を絶縁し、あらたに準如を後継に定めた。
 以降不穏な空気が漂ったが、7月になって信長と顕如との間で贈答品の交換が行われるなど、和平の機運が強くなった。遂に教如も屈服の意を表明して、今度も前久を通して信長と交渉を行なった。8月2日(9月10日)、教如は石山を退いた。
 信長はやはり、一向宗の存続自体は許した。10月24日(11月30日)、顕如から前久に、感謝の意を込めて三十六人衆が贈られたが、前久はこれを辞退した。以来、この書状は本願寺に保管されている。

 天下人との日々
 本願寺問題が片付いたあと、前久がやり残した任務にとりかかった。九州勢力の和解である。
 前久帰洛の直後、伊藤義祐は薩摩に日向を追われて大友宗麟の下へとのがれ、薩摩・大友が日向で境を接する状況になった。
 天正6年10月、大友軍が薩摩に攻め入り、返り討ちに遭って耳川で大敗した。以降、大友領下では反乱が続出し衰退の一途をたどるのに対し、島津は九州制覇を目指して北進を始めた。
 前久は信長がいよいよ毛利と対決するための下準備として、九州の両者を和睦、さらには関門海峡を越えての毛利挟激に協力させようとした。宗麟から家督を受け継いでいた大友義統にはすでに、周防・長門の領有を認める朱印状が発行されている。
 前久から両者への書状は、天正8年8月から9月にかけて次々と発送され、伊勢貞知に託され西国に下った。翌天正9年(1581年)3月、急ぐ信長は前久に再び書状を送らせた。
 もとより劣勢に陥っていた大友方にとってはまさに渡りに船で、薩摩の対応が焦点であった。島津は6月に至り、朝廷を受諾する旨を伊勢貞知に伝えた。

 一方の信長は、依然としてなお自ら戦に赴くことは少なく、再び遊興的な行動が多くなる。これは前久も同様で、公家らを伴って放鷹を頻繁に行っている。前久は当時の公家としては珍しく、鷹狩の名手であった。年末、信長から初めて鶴を贈られた。
 天正9年、信長は京において御馬揃を発案し、朱印を以て諸国に参加を呼び掛けた。2月28日(4月1日)、御所東の京極通において、全国から集められた名馬が披露された。群衆も数多く、奈良からわざわざ上洛するものも多かった。前久は、公家で唯一この行列に参加した。
 この時帝は、信長に左大臣任官を打診した。しかし信長は「帝が東宮に譲位された暁にはお受けする」と述べ、任官を断った。間もなく信長は安土に戻り、以降1年以上にわたって上洛しなかった。
天正9年の間中、信長はほとんど安土を離れることはなかった。8月1日(8月29日)、翌天正10年正月15日(1582年2月10日)に安土で小規模な馬揃えが行われ、前久はその両方に参加した。
 この頃信長が気にかけていたのは、暦の問題だった。当時西日本では京暦が、東日本では三島暦が、さらに九州では大陸と同じ明暦が使用されており、それぞれ閏月を置く月が異なっていた(注4)。信長は、この暦を少なくとも国内で統一させないと統一後に混乱を招くし、統一してもそれが明暦と異なっていたら貿易の支障になると主張した。朝廷の専権事項であった暦の使用にまで、信長は口を挟むようになっていのである。しかし、この時は暦を変えると正月が1ヶ月ずれてしまう状況だったため、公家衆の反対で実現しなかった。

 天正10年、信長は天下統一へ向けて再び動き始める。きっかけは2月1日(2月23日)、武田勝頼の武将木曾義昌の寝返りであった。ところが情報が予想外に早く勝頼に漏れてしまったため、信長に出陣を要請してきたのだ。
 信長は信忠・家康・さらには2年前に同盟を結んだ関東の北条氏政らに分担させ、各方面から一斉に甲斐へ攻め込ませた。武田軍の疲弊は著しく、織田軍は信長が出陣するまでもなく、連戦連勝で勝ち進み、信長が安土を発った3月5日(3月28日)にはほぼ勝負が決していた。前久も同行しようと、5日になって安土に駆けつけた。
 信長軍は信濃へ入ったが、11日には勝頼一族が自害し、結局信長の出番はまったくなかった。14日、信長は浪合で勝頼親子の首を実検した。そして太平洋に出て安土に凱旋するまで、家康をはじめ各地の大名から大変な歓迎を受けた。安土着は、4月21日(5月13日)のことである。

 5月4日(5月25日)、京の勅使勧修寺晴豊が下向し、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに推任する、と伝えた。この時点で、太政大臣には前久が、関白には一条内基が、征夷大将軍には足利義昭がそれぞれ在任中であった。信長は即答を避けた。
 15日、信長は武田軍を牽制して自身の統一事業を陰から支えてきた家康を安土に招き、歓待した。19日には舞・猿楽を主催し、前久もこれに招かれた。この時、前久と信長の間で推任問題についてどのような会話が交わされたのかは分からないが、前久はこの頃、太政大臣を辞任した。21日、信長は安土での歓待を終え、家康を畿内の遊覧に送り出した。

 東部戦線に片が付いたことにより、信長はいよいよ、毛利輝元と対決することとなった。担当している羽柴秀吉に加勢すべく、信長は5月29日、上洛した。同時に、息子の信孝に四国出兵を命じた。
 6月1日(6月20日)、前久以下公卿たちが信長の武田征伐を祝い宿舎にしている本能寺を訪れた。信長は彼らを歓待した。そこで信長は、当日に起こった日食を朝廷は予測できていなかったことを取り上げ、1月に話題に挙げた暦の話を蒸し返した。信長のことであるから、同年10月に伴天連の故郷である南蛮でも暦の改定が行われる(注5)ことも引き合いに出したのかもしれない。信長はやはり、海外を常に見据えていた。
 夜には、先に家康とともに上洛していた信忠が合流し、妙覚寺に泊った。

 暗転
 2日未明、本能寺の方向で大きな騒ぎが起こった。しばらくして、信忠が妙覚寺を出た。本能寺へ向かおうとしたが、結局、近衛邸の隣にある二条御所に入った。直後、本能寺から兵士が押し寄せ、御所を包囲した。朝になって、御所の主であった誠仁親王父子が囲みを解き、内裏へ向かった。直後に、戦闘が始まった。

 しばらく時間が経って、信長と信忠の戦死、明智光秀の謀反が明らかになった。光秀はそのまま、安土に向かった。京は混乱に陥っていた。権力を持った為政者が不在だったのである。信長父子は死んだ。光秀は安土に向かった。畿内を遊覧中の家康は行方不明。大坂で待機していた信孝は何故か現れない。その他の諸将も京の近くにいなかった。
 朝廷はともかく京の秩序を回復させるために、京の一番そばにいる実力者、つまり安土の光秀に勅使を遣わし、9日の光秀上洛を公家が総出で出迎えた。光秀もとりあえず公家衆の支持を得るために、帝・東宮以下の公家・有力寺社に安土城から軍資金として引き出してきた銀子を贈っている。この時、征夷大将軍に任ぜられた可能性もあるが、定かではない。
 12日、大坂の軍勢が逃散して身動きができなかった信孝と、備前から駆け付けた秀吉が山崎にたどり着いた。光秀も軍を進めたが、兵力で明らかに劣った。
 13日の戦で、信孝軍は勝利を収める。光秀は落ちのびる途中、農民に襲われて死亡した。わずか12日の天下であった。

 前久は、最大の親友であった信長を失った。この時、ある噂が立った。明智軍が二条御所を攻める時に、隣の近衛邸から鉄砲を射た。前久が、明智軍を手引きしたというのだ。無論これは濡れ衣であり、明智軍が勝手に近衛邸に押し入り、御所攻撃の足場として利用しただけのことだ。この頃、前久は出家し、龍山と号した。そして、嵯峨に、そして醍醐山に逃れた。この時は、信孝に申し入れをした結果、疑いが解けた。

 27日、清州に織田家重臣が集まり、信長亡き後の織田家当主及び遺領配分を巡って会議が持たれた。当主に選ばれたのは、次男の信雄でもなく、三男の信孝でもなく、信忠嫡子の三法師であった。重臣で三法師の擁立に異を唱えたのは、信孝を推した柴田勝家一人だった。
 一方、遺領分割で山城を与えられたのは、秀吉であった。7月8日(7月27日)、秀吉は山城の指出を徴した。国内の公家の家領は秀吉の裁量に帰することとなったのである。
 10月15日(11月10日)、大徳寺で信長の葬儀が行われた。喪主は信長の四男で、秀吉の養子となっていた秀勝であった。葬儀にはなぜか三法師・信雄・信孝のいずれも参列しなかった。朝廷からは信長に従一位太政大臣が追贈された。

 ここにきて、前久の信長父子暗殺への関与の疑いがまたしても浮上し、秀吉がそれに同調する見方を示し始めた。龍山はしばし都から離れて様子をうかがうこととし、11月12日(12月7日)、信長の盟友である遠江浜松の徳川家康のもとに転がり込んだ。信長暗殺の当時堺に滞在していた家康は、家臣数人と決死の帰国を果たしたのち、混乱の中で領主不在となった旧武田領を手に入れようと、北条・上杉らと戦火を交えていた。講和を結び、浜松に戻ったのは12月である。

 秀吉暗躍
 三法師の居城は安土と決まっていたが、安土城は6月の政変の最中に焼失していた。そこでしばらくの間、叔父の信孝に与えられた美濃の岐阜城で居住することとなっていた。
 12月、信雄と秀吉は信孝の岐阜城を包囲し、降伏させた。名分は、信孝がいつまでたっても三法師を安土に移す決定に従わないことであった。三法師は安土に移され、信孝からは人質として、自身の母と娘が差し出された。 天正11年(1583年)2月、秀吉軍は伊勢の滝川一益を攻めた。するとこの時、北陸から柴田勝家が出陣し、近江に入った。同じころ、岐阜の信孝が再び兵を挙げた。
 信雄は、直ちに信孝から送られてきた母と娘(信雄本人から見れば、母と姪)を処刑し、信孝を攻めた。秀吉は勝家を包囲し、一族を自殺せしめた。信雄に包囲された信孝は、勝家滅亡を聞いて降伏し、一旦は出家を条件に許されたが、大御堂寺に入ったところで、信雄から切腹を申し付けられた。5月2日(6月21日)のことである。
 龍山は、この時点ですでに秀吉のやろうとしていることを理解していたのかもしれない。秀吉は、織田家の天下を乗っ取ろうとしている。
 秀吉は、清州の会議で一番扱いやすい三法師を信長の後継者に指名した。そして、織田家の中で一番頭の切れる信孝と、その後見役である勝家を、三法師や信雄を使って排除したのだ。信雄は折り紙つきのバカ殿だから、秀吉にとってやはり造作ない相手である。秀吉はその二人の名の下で、わずか1年前まで頭を下げていた主君の妻と息子と孫と忠臣を打ち取ったのである。これでは、大逆臣もいいところだ。
 しかし、信長死後政界から遠ざけられている龍山には、どうすることもできなかった。

 6月2日(7月20日)、龍山は龍禅寺において、信長追善の連歌をとりおこなった。同日、秀吉も大徳寺で法要を営んだのち、同日の内に石山本願寺跡に入った。そしてこの地に、巨大な城郭を築城し始めた。
 9月、家康から秀吉への取成しも落着し、龍山は帰洛した。

 信雄はバカ殿であったが、それでも信長の次男、あるいは信忠の弟として、織田政権での役目が務まるように、国の経営を回す家臣がついていた。ところが天正12年3月6日(1584年4月6日)、家老4人のうち秀吉と近かった3人が、信雄の命により打ち取られた。信雄が秀吉の真意に気付いたのか、信雄が3人を誤解したのか、秀吉が裏で手を回したのかは明らかではない。いずれにせよ、信雄は間もなく秀吉のもとを離れ、家康の庇護を受けることとなった。
 8日、秀吉は大坂を出陣した。遂に織田家に忠誠を誓うという衣をはぎ取ったのだ。本来ならば、この時点で秀吉は信孝や勝家のように「逆臣」に成り下がり、孤立無援の戦いを強いられる、はずであった。
 ところが10日、信長の乳兄弟である池田恒興が、秀吉に味方すると宣言した。秀吉の使者から、美濃・尾張・三河の三国の領有を条件に勧誘されたのだ。恒興の受諾の返事によって、織田家の、というよりむしろ、武家政治の原理原則である「御恩と奉公」というシステムが、いとも簡単に崩れ去ったのである。恒興は、信長に世話になった「御恩」を、織田家への忠誠(具体的に誰に対するものであるのかは別にして)という「奉公」で示す(秀吉も形式上は守っていた)べきところ、「秀吉が三国くれるから、そっちに乗りかえる」という開き直りで無視したのだ。
 13日、信雄と家康も清州で合流し、秀吉との戦いに備えた。
 秀吉と家康が対決すると、京の龍山も政治抗争に巻き込まれかねない。そこでやむなく15日、再び下洛し、大和へ入った。

 この戦い、家康の戦術の上手さは秀吉のそれを圧倒した。数で優勢な秀吉軍は家康軍に翻弄され続けた。しして4月9日(5月18日)、長久手での会戦で、信雄・家康軍は秀吉軍に圧勝した。家康の生涯で最も完璧な勝利であった。秀吉は苦境に立たされた。信雄と袂を分かって自らの正当性を公然とかなぐり捨てたのだ。この上で戦闘にも勝てないとなると、周りの大名が信雄と家康のもとに集まってくる。下手にもう一戦行うこともできない。
 秀吉は、戦いの優劣そのものを帳消しにする作戦に出た。そのまま信雄領国の伊勢に向かい、ここを攻めた。信雄は家康に尾張を任せ、秀吉の後を追った。信雄は、一人になった。そして11月、信雄は家康と相談することなく、秀吉と講和を結んだのである。
 家康は、虚を突かれた。秀吉が信雄をまさか取り込めるとは思ってもいなかったし、信雄がそこまでバカ殿であるとも思っていなかったのである。しかし、ここは矛を収め、講和成立の「祝意」を述べるほかなかった。
 龍山も、信雄のバカさ加減にはほとほとあきれながら帰洛の途についた。

 足軽の天下
 秀吉の生家は、名もない足軽の家であった。苗字を名乗ることすら許されなかった。最初の苗字「木下」は、婚姻の際に妻の実家に婿入りすることで得たものである。
 秀吉が信長死後の天下をうかがう地位にまで上り詰めたのも、信長が主君であったからに他ならない。時は戦国といえども当時の世の中は基本的には家族経営で、重臣は譜代の家柄の他からは採用していなかった。秀吉は信長にその才を見抜かれて、その身分の卑しさを超越する大出世を果たしたのである。その他の重臣もやはり抜擢が多かった。光秀が信長を殺すのも、秀吉が信長の天下を奪うのも、信長が実力本位で人材登用を行ったためであるというのは、皮肉な話である。

 秀吉の天下乗っ取り作戦の概要は、家康を滅ぼし、信雄も体よく追放して、敵を完全に排除するというものであった。しかし、二人の連合の前に引き分けにせざるを得なかった。そこで、既成事実をどんどん積み上げる戦術に出た。すなわち、信長の統一事業の継続と、官位の昇進である。

 信雄との講和が成った直後、秀吉はそれまでの正五位下筑前守から一気に従三位権大納言に昇進した。あまりに急な昇進であったため、その間の官位への昇進を遡って成立させることで、バランスをとった。統一事業も、対毛利政策を双方の養子同士の縁談という形で収め、順調なスタートを切った。
 だがここで、身分の壁が立ちはだかった。当時、公家官位の最高峰は関白、武家官位の最高峰は征夷大将軍であった。しかし両官には任命規定があり、関白は藤原氏、将軍は源氏でなければならなかった。秀吉の家系は父親の代から織田家に仕えていた足軽で、当然公家や武家の血は一切引いていない。しかも信長にとってかわることなどみじんも考えていなかったため今更系図を適当にでっち上げることもできず、便宜上信長に倣って平氏を名乗っていたにすぎなかった。
 秀吉は、征夷大将軍就任を望んだ。そこで、安芸にいる足利義昭に連絡を取り、自身を猶子として足利源氏に加えるよう依頼した。京での何不自由ない生活を保障した。
 しかし、この試みは失敗した。義昭が出自不明の秀吉を自家の系統に組み込むことを拒否したのである。また、「征夷大将軍」の本来の語源である東国の征伐を、秀吉は成し遂げていなかった。家康と戦い、ほとんど負けかけていたのである。
 そこで将軍はあきらめ、公家官位の中で関白を目指すこととなった。しかし、関白は藤原氏の中でも五つの家系に限られている上、そこに至るまでの他の官職は、他の公家も加わり、競争率が高い。「定員外」である武家は、うまく取り入らなければ、順番がいつまでたっても回ってこないのである。
 ここで秀吉に接近したのが、公家の菊亭晴季である。菊亭家は藤原氏の氏族で、太政大臣にまで昇進できる家柄である。以降、信長が前久に頼ったように、秀吉は晴季に公家社会との交渉を任せた。

 天正13年3月、秀吉は仙洞御所を造営した功で再び昇官することになった。当初は右大臣への昇進を示されたが、秀吉は晴季に言われたとおり、「信長様が最後に就いた官職だから」という理由で辞退し、一つ下の内大臣に就いた。ついでに晴季は空いた右大臣に納まった。
 これが気に入らなかったのが、左大臣近衛信輔である。近衛家は代々、左大臣在任のまま関白に就任する前例があった。秀吉が今度昇進するときには右大臣を飛ばして左大臣になるため、自身が辞任することになる。武家の秀吉は功を立てやすく、いつ昇進しないとも限らない。そこで信輔は関白の二条昭実に対して、秀吉が左大臣になる前に関白職を譲るよう要求した。
 しかし昭実も、2月に関白に就任したばかりである。3月には信輔に左大臣を譲っており、間をおかずに関白まで譲れという要求は理不尽も甚だしい。
 5月には、両者が朝廷に申し立て、関白の座を巡って争う事態になった。すると自然に、二人に次ぐ地位にいる晴季と秀吉が話に絡んでくるようになる。秀吉は四国の長宗我部元親征討に向かう予定だったが、任務を弟の秀長に丸投げして大坂城に留まっていた。秀吉は事情を双方から聞いて、こう提案した。
 「このまま双方が争えば、お互い名門の家に傷がつく。いっそ、名門の家でもなんでもない私が関白に就き、丸く収めましょう。」
 これにはさすがの龍山も、仰天したことであろう。藤原氏の、それも選ばれた者だけが就くことを許される関白に、祖父の名さえも明らかでない足軽の子が就任するのである。
 龍山は大坂へ赴いて、秀吉と面会した。秀吉は改めてこの提案の利点を説き、自身が龍山の猶子となり、藤原氏近衛秀吉として関白に就任し、いずれは信輔に関白職を返すことを約束した。また、摂家に各500石、近衛家には1000石を奉ずることを誓った。龍山は、秀吉の提案を断ることができなかった。
 龍山と秀吉は相次いで上京した。京の秀吉邸にて、龍山はこの1歳年下の足軽の倅を猶子にした。7月11日(8月6日)、関白二条昭実が辞任し、近衛秀吉は従一関白兼内大臣となった。前久が何の苦労もなしに20歳で達した地位に、秀吉がたどりついたのは49歳の時だった。

 この頃、秀長の圧倒的な物量作戦に、元親は1か月で降伏した。元親は、土佐一国のみを安堵された。8月、今度は秀吉自らが東国へ出陣し、越中の佐々成政、飛騨の姉小路自綱を破った。

 しかし秀吉は、あくまで藤原氏の一員として1年程度関白を務めるだけしかできないことに不満であった。すると晴季は、新しい氏の創設と、藤原氏からの独立を提案した。
 そして9月9日(10月31日)、新姓「豊臣」が朝廷から下賜された。これによって秀吉は、「平氏木下秀吉」から「平氏羽柴秀吉」、「藤原氏近衛秀吉」を経て、「豊臣氏豊臣秀吉」、豊氏長者となった。
 11月25日(1586年1月14日)、帝(正親町院)が退位し、東宮周仁親王が即位した(後陽成天皇)。当日はまず秀吉が太政大臣に就任し、そのあとの即位式では新帝が執り行う仏教的秘儀の伝授を、秀吉が太政大臣の職責としておこなった。この瞬間、秀吉は名目ともに国家の頂点に立ったのである。
 12月16日(2月4日)、秀吉は龍山の女前子を養女として入内させた。そして、帝の弟である六宮を、自身の猶子とした。今後関白は豊臣氏で世襲していく決意を示したのである。
 天正17年5月27日(1589年7月9日)、秀吉に男児が誕生した。鶴松である。秀吉は帝らに了解を取ったうえで、家督は鶴松に継がせることにした。六宮は翌年に、八条宮を創設した。八条宮はのちに桂宮と名称を変え、明治まで続いた(注6)。

 摂関家は、秀吉にものの見事に関白職を奪われたことへの不安から、関白を奪われる原因を作った近衛信輔に非難が殺到した。信輔の苦悩も次第に高じていき、3月頃には一時的に座敷籠に押し込められる事態に陥った。信輔は4月、関東に出兵中の秀吉に手紙を送り、自身の左大臣辞任と内覧への就任を求めた。内覧は関白に準ずる職で、到底秀吉にとっても受け入れられるものではなかった。

 外征
 国内を武力で統一した政権は外征に乗り出すのは、歴史の鉄則である。信長は、日本統一後の明出兵を計画していた。秀吉は統一が成る前から、外征の下準備をしていた。スペインに協力を求めたのである。
 当時のスペインは、明を武力で占領する意図を持っていた。明が征服されれば、日本も危険になる。秀吉は、それに気づいていた。そこで秀吉はそれを先取りし、スペインと同盟する形で明に出兵しようと考えていた。
 しかし当時耶蘇会士の長ガスパル・コエリョは、秀吉の軍の力を過小評価しており、明よりも先に日本を征服する考えであった。そして、天正15年(1587年)、九州平定を終えた秀吉がいる博多沖で大砲を積んだフスタ船を運航させ、威嚇した。
 それを見た秀吉は、かつての一向一揆を連想したのか、一転して耶蘇教に不寛容な態度をとるようになる。天正15年6月19日(1587年7月24日)、秀吉は伴天連追放令を発布し、耶蘇教の布教活動を禁止した。

 天正16年(1588年)、スペイン海軍が本国近海の海戦で大敗北を喫した。スペインは急激に衰えた海軍力を日本近海にまで割くことができなくなった。
 これによりスペインに先に明を征服される恐れはなくなったものの、日本による明征服も自力で行わなければならなくなった。そして、スペインに外洋航海船の提供を求めることができなくなった。ならば、朝鮮半島経由でゆくしかない。
 しかし、秀吉は朝鮮の情勢について思い違いをしていた。朝鮮半島全体が対馬の大名宗義調の支配下にあると思い込んでいたのである。しかも周囲の人間は何故か、その思い違いを正そうとしない。当の宗義調も、異議を申し立てずに秀吉・朝鮮双方に都合よく働きかけた(注7)。
 天正18年7月5日(1590年8月4日)、小田原の北条氏政が降伏。秀吉は日本統一を成し遂げた。直ちに秀吉は、明出兵の準備に取り掛かった。

 天正19年8月5日(1591年9月22日)、鶴松が死去した。秀吉は甥の秀次を養子に迎え、関白職を継がせた。秀吉の思惑通り、関白職は豊臣氏で世襲されることになった。

 10月、肥前に出兵拠点である名護屋城が完成し、秀吉もそこに移った。そして翌天正20年(1592年)3月、第一陣が朝鮮半島に上陸した。大名のほとんどは、大陸での更なる領土拡張を夢見て意気揚々であった。秀吉政権の潜在的な反抗分子であると目されていた家康は名護屋に留められ、領地を拡大させる機会に恵まれなかった。
 この頃、左大臣信輔も名護屋城を訪れている。少年期を京を追放された龍山とともに過ごした信輔には、父親譲りの行動力があるようである。その後、7月に秀吉が母大政所の危篤に際して一時的に大坂へ戻ったのとほぼ同時期に帰洛した。
 当初は連戦連勝で首都漢城を陥落させた日本軍だったが、援軍に駆けつけた明軍に敗れ、また朝鮮水軍に補給路を遮断されて一転して形勢が悪化した。ここで講和が結ばれたが、両国首脳には「敵国降伏」と伝えられた(注8)。

 文禄2年8月3日(1593年8月29日)、秀吉に男児が誕生した。秀頼である。以降秀吉は、秀次を疎むようになる。

 文禄3年4月15日(1594年6月3日)、信輔は薩摩に左遷された。秀吉に疎まれたのが原因であるらしいが、実際にはここ数年の信輔の言動について讒言する者があったようである。後任の左大臣には、秀次が就任した。
 5月21日(7月9日)、信輔は薩摩坊津に着いた。かつては日明貿易の寄港地として栄えた地だが、この時代にはすっかり寂れ果てていた。

 文禄4年(1595年)7月、秀次は突如秀吉から出家、次いで切腹を命じられた。そして右大臣菊亭晴季も、秀次と姻戚であったことから越後へ配流され、右大臣を解任された。武家関白制を守るため両大臣の後任がおかれなかったため、太政大臣の秀吉を除く大臣が不在という事態になった。しばらくのちに家康が内大臣に任官するが、左・右大臣は空席のままであった。

 この騒ぎが、信輔にとっては幸いした。讒言した者が遠ざけられたためか、秀吉の態度が和らいだのである。8月には島津の首府鹿児島に移され、さらに2千石の知行が割り当てられた。
 そして京では、父の龍山や、兄の尊勢らの尽力によって、信輔の帰洛が許されることとなった。文禄5年4月29日(1596年5月26日)のことである。
 同年には晴季も許され、帰洛している。

 慶長元年(1596年)、明使が大坂城へやってきた。国書を読んだ秀吉は、激怒した。自身は明が降伏したと思っていたのに、逆に日本が降伏したように書かれていたからである。
 秀吉は、行長に死刑を言いつけた。行長は、自分も朝鮮に騙されたのだ、明との交渉を朝鮮が邪魔したのだ、と苦し紛れの言い訳をした。
 秀吉は、それを信じた。そして、朝鮮に対する報復戦に乗り出した。再び諸大名に出兵を求め、慶長2年(1597年)、朝鮮に再び兵を進めた。
 しかしここで、日本軍に対して予期せぬ敵が現れた。義兵、つまりゲリラ軍である。前回の日本軍の侵略に対して正規軍が驚くほど無力であった(注9)ため、民衆がそれに代わって立ち上がったのである。すると、都市を全滅させなければ敵に襲われ続けることになる。やがて民衆を殺すこと自体が目的になってきて、兵の間で厭戦感が広がってきた。
 慶長3年8月18日(1598年9月18日)、秀吉は大坂城で生涯を閉じた。日本軍は直ちに、朝鮮から撤退した。

 家康暗躍
 秀吉が死んだとき、残された秀頼は幼少であった。そして太政大臣も空席になったため、秀吉が一番警戒していた内大臣家康が、朝廷の首席になった。家康は大大名の中で唯一外征に参加できなかった。そのため領地を獲得できずに凋落した他の大名の実力を抜きんでた。そして家康は、豊臣政権を乗っ取ることに何ら抵抗を持っていなかった。秀吉が、織田政権を乗っ取ったように。
 因果が、巡ってきた。

 家康は、秀頼を支える気など端からなかった。秀吉が禁じていた大名間の任意の縁談を勝手に推し進めた。これを石田三成が咎めると、家康は我を排斥するか、と言いがかりをつけた。
 この時は、前田利家の取成しで円満に事は納まった。利家は秀吉が家康への抑えとして期待していたのである。ところが、慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)、利家が病死した。間もなく家康は、前田家を自陣営に引き入れた。
 慶長5年(1600年)、会津の上杉景勝が反乱を企てている、との報せが入り、家康が討伐に向かった。ここで石田三成が、反家康の策動を始めた。そして毛利輝元を総大将に仕立てた。
 しかし、家康の策がそれを上回った。9月15日(10月21日)の関ヶ原における両陣営の戦では、輝元方から家康方に寝返った大名が複数出たのである。これにより戦は1日で決着がつき、現地で最高指揮官を務めた三成は斬首された。
 そして家康は、自分に敵対した大名の領地を没収し、その大部分を自身の利益とした。そして、豊臣の数倍に至る大大名に成長したのである。

 公家の黄昏
 慶長6年5月15日(1601年6月15日)、家康は公家衆の知行改めを行った。その結果、全体的に公家衆の知行は減少した。公家衆の多くが何らかの方法をとって経済的安定を勝ち取ろうとした。しかし、請願、歎願などに留まった他の公家とは違い、近衛家、特に龍山は積極的に家康と渡り合う覚悟を示した。龍山には、家康が三河の一大名だった時、藤原氏に取り立てるなど、身を立てる手助けをしてやったという自負があった。また、彼が足がかりにした豊臣秀吉、そして織田信長にも手助けはした。戦国の世を生き抜いた公家の長老として、龍山は家康と相対した。
 その結果がどうなったのか、詳しいことは伝わっていない。しかし、龍山をもってしても、この劣勢を跳ね返すには至らなかったらしい。翌年正月、左大臣に復帰していた信輔が伏見城を訪れ、家康と和解している。

 足利将軍家の権威が衰え、戦国の世になってから、公家の力はよみがえった。前久が全国統一に向けて動き回ったのも、その力によるところであった。しかし、そして統一が成し遂げられると、公家の力は再び弱まり始めた。公家は、国家が分断されたときに表舞台に現れ、国家が統一されると表舞台から去らねばならない。前久は、その表舞台で主役を演じきった。そしてそれ故に、自身のみならず公家全員がその舞台から去ることになったのである。家康は、表舞台を去る公家たちに関白職を返還した。そして、前久からもらった藤原姓を、源氏に改めた。武家が表舞台に立つことの”委任状”である征夷大将軍に就任したのである。

 家康は豊臣家を圧迫し続けており、秀頼らはそれに精一杯の対抗をしている。近い将来、彼らの間で日本の統治者の座をかけた決戦が行われるであろう。しかし、それは舞台を去った公家のあずかり知らぬことだ。公家は、次の出番まで、京の町で待ち続けるだけだ。
 前久は、その決戦を見ることなく、慶長17年5月8日(1612年6月7日)、没した。決戦が行われたのは、それから3年後のことである。

 公家が歴史の表舞台に還ってくるまで、250年の年月を要した。

 注釈
(注1)その後義稙は諸国を放浪、のちに将軍復帰も果たしたが、以前のような将軍の権力を取り戻すことはできなかった。
(注2)傀儡の将軍を擁立する、という形式的な問題である。義満の全盛期と比べたら、当然“正常”どころではない。
(注3)この時、元康は家康に改名した。「元」の字は義元から一字貰い受けたものだ。
(注4)それぞれ世月、12月、2月に閏月が置かれていた。
(注5)この年の9月15日、ローマ教会はそれまで使用されていたユリウス暦をグレゴリオ暦に変更することになっていた。前日の10月4日から、15日にまで日付を飛ばすことになった。
(注6)明治14年(1881年)、12代目に当たる淑子内親王の死没によって断絶した。現在宜仁親王の名乗る桂宮とは、直接の関係はない。
(注7)秀吉は朝鮮国王の上洛・服属を要求したが、朝鮮側には「日本再統一の祝賀の使節(通信使)を送ってほしい」と内容を変えて伝えた。朝鮮内部での派閥争いもあり、秀吉の真意は最後まで朝鮮首脳に伝わらなかった。
(注8)日本代表の小西行長と明代表の沈維敬は共謀して、明には秀吉の降伏文書を送り、秀吉にはこれから日本に有利な条件で交渉が始まる、と報告された。
(注9)当時の朝鮮は長期間平和で、その軍隊は実戦経験もなかった。また、そもそも日本軍の侵略があるとは知らず、奇襲に等しい状態であった。

 参考文献
「近世公家社会の研究」(橋本正宣 2002年)吉川弘文社
「日本の歴史11 戦国大名」(杉山博 1974年)中央公論新社
「日本の歴史12 天下一統」(林家辰三郎 1974年)中央公論新社
「日本の歴史13 一揆と戦国大名」(久留島典子 2009年)講談社
「逆説の日本史9 戦国野望編」(井沢元彦 2005年)小学館
「逆説の日本史10 戦国覇王編」(井沢元彦 2006年)小学館
「逆説の日本史11 戦国乱世編」(井沢元彦 2007年)小学館
「逆説の日本史12 近世暁光編」(井沢元彦 2008年)小学館
「英傑の日本史 信長・秀吉・家康編」(井沢元彦 2009年)角川学芸出版
「織田信長 最後の茶会」(小島毅 2009年)光文社
「別冊歴史読本5月号 織田信長天下布武への道」(1989年)新人物往来社


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