2013年11月1日
チベット近代史  月瀬まい


 1. 前史
 古代チベットには吐蕃と呼ばれる国家があり、763年には長安を占領するほどの勢力を有していた。しかし9世紀になると衰退、やがてチベットはいくつもの小王国に分裂した。この時代にチベット仏教が興隆、権威を確立した。そして13世紀にはモンゴルの支配下に置かれたものの明代に入ると中国の統制は及ばなくなった。14世紀にゲルク派が誕生、チベット仏教の主流となった。16世紀、明が衰退すると再びモンゴルがチベットに侵入。しかしチベット仏教はモンゴル人を魅了し1576年にアルタン・ハーンが改宗するに至った。
 1577年、アルタン・ハーンはゲルク派の僧侶ソナム・ギャムツォに「ダライ・ラマ」の称号を授けた。モンゴルの庇護のもとダライ・ラマはチベット全土に権威を確立していき、1642年にはダライ・ラマ5世が聖俗両界の主権者となりガンデンポタン(注1)が樹立された。18世紀に入ると、清がモンゴルを破りチベットに侵入、1724年、チベットはアムド地方を失った。さらに清は駐蔵辨事大臣(アンバン)を置きチベットの軍事を握った。さらに18世紀末になると清はダライ・ラマの選定にも介入するようになった。しかし、19世紀に入り清が動揺するとチベットへの介入は弱まった。

 2. 列強の侵入
 1879年、3歳の少年トゥプテン・ギャムツォがポタラ宮殿でダライ・ラマ13世として即位した。1895年、ダライ・ラマ13世は宗教教育を修了し国政を担当することになる。
 一方、この頃ヨーロッパ列強がチベットに目を付けはじめていたがチベットは外国排斥政策を取り、1880年にはキリスト教禁止令が出された。
 まず侵入したのはロシアだった。1860年以後、ロシアはチベット方面に探検隊を送った。なお、ロシアはウイグル(新疆)にも侵入している。イギリスは1860年代中頃から80年代中頃にかけて探検家を送り測量を行った。この中にはダライ・ラマ13世に拝謁した者もいる。フランスも1889年、探検隊を送っている。
 1888年、シッキムの宗主権を巡りチベット・イギリス間で戦争が勃発。ここでチベットは大敗した。1890年3月17日に条約が結ばれ、イギリスのシッキムに対する宗主権が承認され、シッキム・チベット間の国境が画定された。さらに1893年12月5日の追加条約で交易に関する条項が加えられた。これらの条約により、チベットは国際関係に組み入れられた。
 イギリスの圧力を除こうとしたチベットはロシアに接近した。1900年、ロシアの首都サンクトペテルブルグに仏教寺院が建立されていることはその表れといえる。イギリスがボーア戦争に苦しんでいる間ロシアはチベットに勢力を及ぼした。一方、イギリスは日英同盟などでロシアの東アジア進出を牽制しようとした。1902年7月、ロシアはチベットに関する十二か条の協定を中国と結び、さらに1903年2月にはチベットと防衛協定を締結した。緊張はさらに高まった。
 イギリスは、中国のチベットに対する宗主権は名目的なものにすぎないと考えチベットへの圧力を強めた。しかしチベット政府はイギリスとの一切の接触を拒んだ。1903年12月、ヤングハズバンド大佐が率いるイギリス軍がチベットに侵入、翌年2月から本格的な侵攻が始まった。ちょうど日露戦争が勃発し、ロシアは介入できなかった。防衛協定があったにも関わらず、ロシアはチベットに兵器を提供しておらず、近代兵器を駆使するイギリスにとってチベットは敵ではなかった。7月30日、ダライ・ラマ13世は北に逃れ、8月3日にイギリスはラサ郊外に達した。イギリスはラサで摂政などと交渉を始め、9月7日に十か条の協定が署名され、国境の画定や賠償金の支払いが規定された。またイギリス以外のあらゆる外国勢力がチベットに介入し利権を持つことは禁止された上、イギリス官吏はラサまで自由に往来することができるようになった。
 しかし、これに対しロシアが反発、11月11日条約が改定され賠償金の金額は下げられイギリス官吏の自由往来も取り下げられた。また清も反発し、勝手に賠償金の支払いを宣言しイギリスにチベットに対する宗主権を認めさせた。

 3. 清の侵略
 これらの出来事を機に、清はチベットへの統制を強めた。1905年3月、駐蔵大臣鳳全がバタン(巴塘)で寺院を攻撃し僧侶に還俗を強制するなどすると、これに反発した民衆が反乱を起こした。反乱は東カム全域に広がり、雅龍江西岸から清の勢力を一掃した。これに対し四川省政府は趙爾豊を反乱平定に派遣した。趙爾豊はわずか数週間でバタンに達した。彼は残忍で「僧侶の屠殺者」または「殺戮者趙」と呼ばれた。彼はチベット人の生活様式を中国化しようとして改革を行い、寺院を攻撃し多くの僧侶が処刑された。さらにはバタンを省都とする新しい省、西康省を設置し中国人の植民を行おうと考えた。これはチベット人が敵対的であることや、気象条件が厳しいことにより頓挫した。一方、ラサでは駐蔵大臣がチベットを中国化させようと努力していたが清の財政状態の悪さからうまく進まなかった。
 1909年12月、ダライ・ラマ13世はラサに帰還した。これを危険視した趙爾豊は部下の鍾頴に二千名の兵を与えてラサへ差し向けた。ラサは占領され、ポタラ宮殿は略奪を受けた。ダライ・ラマ13世はロシアに支援を要請したが断られ、1910年2月にはチベットの使節が北京で日本、フランス、ロシア、イギリスの大使にそれぞれ面会し支援を要請したが無駄であった。2月12日、ダライ・ラマ13世はインドへ亡命した。駐蔵大臣はダライ・ラマを追跡したが振り切られた。ダライ・ラマの不在に乗じて清はチベットの中国化を進めようとした。しかし、まもなく清は崩壊した。

 4. チベット独立
 湖北省での蜂起の知らせが西康に伝わると、反乱が始まった。駐蔵大臣は逃亡し、趙爾豊は処刑された。ラサでも寺院が反乱を起こし、さらにイギリスが介入し袁世凱に抗議、1911年12月に中国兵は撤退を始めた。1913年1月にはダライ・ラマ13世が再びラサに帰還した。
 1913年2月14日(チベット暦で癸丑年1月8日)、ダライ・ラマ13世は「チベットと中国の関係は「宗教者・保護者」の関係であり、一方が他方に隷属する関係ではない」「我々は小さな、宗教的な、独立国である」などと演説を行い、独立を宣言した。外務省が設立され、日本の元軍人矢島保次郎らにより軍が組織された。さらに切手が発行された。また、新しい通貨単位(注2)が作られ紙幣や金貨、銀貨が発行され通貨の統一が図られた。これらは20世紀中頃まで用いられた。中華民国はチベット弁務官を任命したが、チベットに入れずインドのカルカッタに駐在した。
 ダライ・ラマ13世はチベット独立を諸外国に承認させようと試みた。そこで、1911年12月に独立を宣言していたモンゴルに目を向けた。1913年1月、互いに独立を承認する協定(ウルガ条約)が結ばれた。
 さらに、イギリスに対し、チベット・イギリス・中国の三ヶ国で会議を開くよう働きかけた。中国は不本意ながら会談に参加した。この会議はインドのシムラで行われたのでシムラ会議と呼ばれ、チベットの使節も英中と同等の資格で加わった。激しい交渉の末、1914年7月3日に三ヶ国の代表が条約案に署名した。チベットは内政に関する主権は確保したものの中国の宗主権が認められることとなった。さらにラサに政府の代表を置く権利が中国に与えられた。なお、中国はチベットを省として編入することはできず、イギリスはチベットを併合してはならないとされた。東部国境の画定は紛糾したが、メコン川を境界とすることで両者とも妥協した(注3)。一方イギリスは北東辺境地域(NEFA)(注4) を獲得した(注5)。ダライ・ラマ13世は領土の一部をイギリスに割譲することについては不満だったが、イギリスの援助が必要だった。またイギリス・チベット間に通商条約も結ばれ、両国代表は中国が条約を批准しない場合には中国はすべての特権を剥奪されるという共同声明を出した。袁世凱は条約の内容に不満でこれを批准しなかったので、チベット政府は中国の宗主権を認めないと宣言した。
 しかし、その直後カムで小王国の継承問題を契機に軍事的緊張が高まった。不幸にも、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発、イギリスはチベット問題に関与する余裕がなくなった。軍事的衝突を避けるため、1914年12月にダルツェンド(打箭炉)でチベットと中国の間で交渉が始められた。英国の援助を当てにできないチベットは中国の内政干渉権を認めざるを得なかった。

 5. 軍事的成功と近代化
 チベット側は、ダルツェンドでの合意は中国を欺くための工作にすぎないと考えており、その間軍隊の育成を進めた。大隊が4つ編成され、そのうち1つは矢島保次郎が指揮した。銃は英国製や日本製のものが使われ、英語で司令が行われた。
 一方、中国はいくつもの軍閥に分かれ混乱していた。1917年の冬、内チベットの軍司令官彭日昇は外チベットへの侵略を開始、しかしチベット軍は反撃し逆に長江まで進撃した。チベット軍の給料が高かったので中国軍からの脱退者も多かったという。これに対し、中国はイギリスに訴えた。1918年5月、イギリスは領事タイクマンを派遣し休戦交渉を開始、8月19日に調印され、長江が中国とチベットの境界とされた。チベット側は中国からの独立承認が欲しかったがこれは失敗した。10月10日、追加協約が署名され軍隊の撤退と両国間の敵対行為の停止が決められた。1919年5月に北京で二国間の交渉が行われた際も、この時決められた国境が認められた。
 しかし、常備軍の整備には莫大な経費がかかる。そこでダライ・ラマ13世は中央集権的な改革により歳入を増やそうとした。土地税の一部は直接国家に納められることとなった。また行政職の世襲が禁止された。収入を減らされた寺院の勢力は揺らぎ、貴族も打撃を受けた。保守的寺院勢力は近代化に反対した。チベット第二の高僧パンチェン・ラマは広大な荘園を有していたため、特に莫大な税金を課せられた。1923年11月15日、負担に耐えかねた(注6)パンチェン・ラマ9世(注7)は中国に亡命した。ダライ・ラマ13世は、僧侶に対しパンチェン・ラマの許に行くことを禁止した。パンチェン・ラマ9世はこの後チベットに戻ることができず、1937年12月1日に青海のジェクンド(玉樹)で死去した。
 ダライ・ラマ13世にとって、イギリスがチベットの最大のパートナーであり、近代化をするにあたって重要な存在であった。1920年11月から1921年10月まで、ダライ・ラマの招請によりイギリス人ベルがラサに派遣された。チベットはイギリスから武器と弾薬の援助を受けることとなり、軍事顧問が派遣されることが決まり、鉱山の調査・採掘にイギリス人技師が協力することとなった。さらに、1923年には英語学校が開設された。
 だが、これにより政治的摩擦が起こった。まず寺院勢力が反発、1921年2月のモンラム・チェンモ(大祈願会)の最中にガンデン寺、セラ寺、デプン寺の僧侶が反英を表明した。最終的にはセラ寺、デプン寺はダライ・ラマ側についたが、デプン寺は処罰された。一方軍はツォンドゥ(国会)の議席を要求し、議場に力ずくで侵入しようとさえした。ダライ・ラマが制裁を下しこれを鎮め、一部の将軍と大臣が免職となった。
 近代化は着々と進み、1922年5月にはラサと英領インドを結ぶ電報線が開通し、1924年には水力発電所が造られ、さらに兵器工場も造られた。西洋の生活様式がチベットに入り込み、上流社会の家々には化粧品やカルカッタの新聞が入り、洋風の家具が置かれた。若い役人は伝統的な長い髪型を切って英国風にした。

 6. 対英関係の途絶とその後の対中関係
 1924年5月、軍が肢体切断の刑を行ったことから、民衆は軍に抗議、国の軍事化を危険視する意見が現れた。軍は予算を減らされ、同時に親英的な政治家が一掃された。1926年には英語学校も閉鎖された。ダライ・ラマ13世はチベットの独立の国際的承認を得る努力は無駄だと考えてしまった。これまでイギリスはチベットと他国が関係を持たないようにしていたため、チベットは一気に閉鎖的となった。
 一方、中国との関係は続いていた。ダライ・ラマ13世は、1922年には黎元洪の許に、1924年には曹コン(金へんに昆)の許に使節を派遣した。さらにパンチェン・ラマ9世は中国の軍閥と関係を持っており、段祺瑞が組織した中国再編会議に出席したほか国民党と連絡を取るなどしており、1932年には北京で世界平和のための法要を10日間営んだ。蒋介石はチベットに何度も使節を送ったがチベットは対等な関係に固執した。1930年、蒋介石は「西康省」の設立を決め、劉文輝がその長となった。
 同じ頃、1930年に小王国同士の抗争が勃発。これにチベット、中国それぞれが介入し紛争となった。当初はチベット優勢であったが、1932年7月には中国が長江左岸を奪回した。ダライ・ラマ13世はイギリス、日本、アメリカ、国際連盟に訴えたが成果はなかった。結局、1932年10月に休戦条約が署名され、長江が国境と決められた。さらに、1935年には国境地帯の非武装化が合意され、それは1950年まで守られた。また、この時ダライ・ラマ13世は中国の宗主権を認めた。

 7. ダライ・ラマ13世の死とダライ・ラマ14世即位
 1932年、死期が近いことを感じたダライ・ラマ13世は政治的な遺言を記した。その中で彼は隣国との友好関係の維持、軍隊の重要性などを説き、さらに共産主義についても触れ「(共産主義がチベットを支配すれば)寺院は略奪され、すべての心は苦しみにうちひしがれ、夜は長く暗いであろう」と述べた(注8)。
 1933年12月17日(癸酉年10月13日)、ダライ・ラマ13世は亡くなった。結局、ダライ・ラマ13世はチベット独立の国際的承認を得ることができず、チベットを完全に近代化することもできなかった。しかし近代化の一部は成功し、軍隊が編成され、能力に応じた人材登用が行われ、残忍な刑罰は廃止された。何より、チベットの実質的独立を保つことはできた。チベットの人々の大半は、ダライ・ラマ13世をチベットが持ちえた最良の指導者であると考えていた。
 ダライ・ラマ13世の死後、権力の空白が生じたチベットは政治的に不安定になった。権力闘争により何人もの重臣が追放された。
 また、ダライ・ラマ13世の死を利用して、蒋介石はチベットとの接触を試みた。彼は黄慕松を代表とする弔問使節を送った。チベット側も宗教上の使節は認めざるを得ず、使節は1934年8月から11月までラサに滞在した。この時、黄慕松は三つの提案を行った。すなわち、チベットは中国の一部となることを同意する、チベットの国防は中国が担う、中国人弁務官がラサに駐在する、というものである。チベットは、中国が1914年のシムラ協定を認めるならば中国の宗主権を認めると答え、代表の駐在は認めたが、国防権と外交権は譲らなかった。翌年にはイギリスも使者を送り、マクマホン・ラインの国境問題について議論した。
 さらに、1934年の暮には紅軍兵十万人が中国領の東チベットに侵入した。長征である。さらにそれを追跡する国民党軍も侵入した。チベット軍が派遣されたため、両者とも進路を変えチベットに侵入することはなかった。
 一方、ダライ・ラマ13世の転生者の捜索は伝統的手順に則り、秘密裏に進められた。生まれ変わりの子供は中国領の青海省に発見された。チベット政府は、中国側の許可を得るため中国使節の派遣を受け入れねばならず、青海の軍閥馬歩芳にも譲歩せねばならなかった。1939年になってようやく子供をチベット領に連れていく許可が下りた。 無事にチベット領に入れた直後、国会はこの子供がダライ・ラマ13世の生まれ変わりであると公式に認定しチベット全土にこの決議が公布された。1939年11月23日、摂政ラデンが少年の頭を剃髪し、テンジン・ギャツォと命名した。1940年2月22日(庚辰年1月14日)に行われた即位式には中国・イギリス・ネパール・ブータンの代表が参列した(注9)。

 8. 第二次世界大戦での中立
 1937年、日中戦争が勃発。日本が沿岸部を占領したため、連合国はビルマ経由で中国を援助した。しかし、1942年初頭に日本がこれを占領したため、新しいルートを開く必要が生じた。イギリスはチベットの南東部を経由して英領インドと中国を結ぶ道路を建設する計画を立てたが、チベットはこれを拒否、ラサ駐在中国代表は追放された。中国は戦争も辞さないと脅しをかけ、イギリスが外交的支援を取りやめ通商も停止すると圧力をかけたので、軍事物質以外の輸送のみ許可した。
 一方、この頃チベットはアメリカと接触した。1942年末、イリヤ・トルストイとブルック・ドランの二人が、ラサを公式訪問した最初のアメリカ人となった。彼らはアメリカ政府から前述の物資輸送ルートの調査任務を与えられていた。二人はダライ・ラマ14世に拝謁し、大統領からの親書を献上した。1944年、アメリカの軍用機がチベットに不時着する事件があった。この時チベット政府は乗員に惜しみない援助を与え、インドのアメリカ大使館は感謝し今後チベット領空を侵犯しないことを約束した。
 第二次世界大戦が終結すると、チベットはイギリス・アメリカに贈答品と祝辞を送った。また、中国に派遣した使節が勝手に1946年5月5日の人民大会に出席するという事件もあった(注10)。
 さらに、チベット政府はインドからの招待に応えて、1947年3月23日デリーで開催された国際アジア会議に使節を派遣した。同年10月25日には、インド・イギリス・アメリカ・中国に通商使節団を送った。外国と直接通商関係を結ぶこと、通貨の裏付けとなる金を買い付けること、外国と正式な外交関係を結ぶことがその目的だった。この時チベット政府はパスポートを発行、これは訪問各国で承認された。
 1947年8月15日、インドが独立。ラサの英国公使館は、チベットがかつてイギリスから受けていた援助をインド及びイギリスから今後も得ることができると確約した。

 9. 中国の侵略
 1949年10月1日、中華人民共和国の建国が宣言され、12月、蒋介石は台湾に逃れた。共産中国の脅威が迫っていた。チベット政府は危機を認識しており、1947年、1949年と二度に亘ってインドから武器を輸入した。共産主義の侵入を恐れたチベットは、1947年7月全ての中国人を追放した。チベットでは一種の総動員令が発布され、中国との国境警備を強化した。さらに無線通信網が整備された。またアメリカ・イギリス・インド・ネパールと連絡を取ったが、無駄であった。1949年11月、インドはチベットに対する中国の宗主権を認めると宣言し、ソ連はチベットを中華人民共和国の一部であると宣言した。青海の西寧で認定されたパンチェン・ラマ10世(注11)は中国の手に落ち共産党支持を強要されていた。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、チベットは注目されなくなった。
 1950年9月、劉伯承とトウ小平(登におおざと)はチベットの「解放」を発表した。侵略は10月7日に開始された。中国は、チベットが中国に統合されること、人民解放軍が国境に配置されること、チベットが即時「帝国主義」国家との関係を絶つことの三つの条件を提示した。10月17日、チャムドが陥落した。
 10月25日になってようやく中国は人民解放軍のチベット進軍を公式に発表した。翌26日、インドは激しく抗議した。イギリスもチベット侵略に対し遺憾の意を表した。11月11日、チベット政府は国連に対し中国の侵攻に対する抗議文を送った。エルサルバドルがこの問題を提起したもののインドが国連での討論は不要と説得したため、国連が介入することはなかった。
 1950年11月7日(庚寅年10月8日)、ダライ・ラマ14世は摂政から権限を譲られ正式に即位した(注12)。12月20日、ダライ・ラマ14世は国会の提案に従ってヤトゥン(亜東)に移動した。富裕層は財産をインドに送った。チベット政府はチャムドの中国軍と国連に使節を送ったが、国連には出席できなかった。
 1951年4月、北京で交渉が始められた。交渉ではチベットの代表は一切決定権を持たず、チベット政府と連絡を取ることもできなかった。中国側は合意文書と偽造した印璽を用意しており、合意しなければ侵攻を続けると述べ合意を強制した。1951年5月23日、チベット平和解放に関する協約(通称「十七か条協定」)が結ばれた。この協定ではチベットは中国の一部であり、人民解放軍が国防を担当するとし、その上中国が内政をも管理すると決められた。
 1951年7月、チベット軍事・民事行政官兼弁務官に任命された張経武将軍がヤトゥンに到着し、ダライ・ラマ14世にラサへの帰還を要請した。7月20日、ダライ・ラマはヤトゥンを出発し8月17日にラサに帰還した。9月9日、数千の人民解放軍がラサに入り、その後2万の人民解放軍がラサに到着した。中国軍はチベット政府に対し駐屯用地と食料の支給を強要し、結果として食料が不足し物価が跳ね上がった。ラサ市民は飢餓に陥った。二人の国務相がこれに抗議したが、中国側は彼らを帝国主義者の手先として糾弾し、ダライ・ラマに対し解任を強要した。彼は中国の報復を恐れ、要求をのみ二人を解任した。その上、中国側はチベット人の強制労働によりラサから青海、ウイグル、四川に通じる三本の道路を建設し大量の死者を出した。多くの僧侶が投獄され、寺院は組織的に略奪された。1952年には中国人の入植が開始され、その数は年々増加した。この頃、タンラン・テンスン・マカル(国民防衛義勇軍)などの抵抗勢力が形成されていった。
 1954年、中国はダライ・ラマとパンチェン・ラマを北京の第一回全国人民代表大会に招待した。チベットの民衆は反対したが、7月11日ダライ・ラマは出発し北京で毛沢東・朱徳・周恩来と何回か会談した。1955年3月、中国はチベットに戻る前のダライ・ラマに対して西蔵自治区準備委員会の設立を提案した。1956年4月、西蔵自治区準備委員会が発足した。主席はダライ・ラマで委員51名中46名(注13)がチベット人ではあったが、委員会は中国政府が決定した事項を承認することしかできず、新たな提案をすることも決定に反対することもできなかった。
 1956年、ダライ・ラマ14世はインドで行われる釈尊入滅2500年記念祭に招待された。中国は反対したが結局認め、ダライ・ラマはインドへ旅立ち11月25日にデリーに到着した。しかし、この時インドなどの明確な協力を取り付けることはできず、翌4月1日に帰還した。
 1955年から1956年にかけての冬にはチャムドで反乱が起こり、中国は鎮圧のため4万の兵士を派遣した。アメリカはこれを反共政策強化の機とみて、CIAが「ガーデン作戦」で抵抗組織の構成員に訓練を施した。やがてこの反乱は収まるが、蜂起の機運は高まっていた。

 10. チベット動乱
 1958年、「大躍進」開始以来、中国はチベットに対する圧力を強めた。中国側は宗教に対する信仰を絶滅させると宣言し、寺院は大きな被害を受けた。8万人が地下抵抗運動に従事し、抵抗組織チュシ・ガンドゥク(四江六山)が結成された。民間人相手の軍事行動に嫌気がさし脱走した中国人もいた。中国はチベット政府に対し反乱の鎮圧を求めたがチベット政府はこれを拒否した。
 1959年3月10日、ついにラサで反乱軍が蜂起した。17日、内閣と国会は公式に十七か条協定を破棄しダライ・ラマ14世は変装してラサを脱出、インドに向かった。翌日からラサは爆撃にさらされた。28日、中国国務院はチベット地方政府を廃止し全権を人民解放軍に与えた。
 一方、脱出途上の3月29日、ダライ・ラマは臨時政府を樹立した。インドにたどり着いたダライ・ラマ14世は6月20日国際記者会見を開き、十七か条協定の破棄を通告し、条約は強要されて合意させられたものであると確言した。1959年から1965年頃までの間、約8万人のチベット人がインドに亡命した。
 1959年9月にはダライ・ラマは国連にチベットの状況を訴え、10月21日国連はチベット問題をとりあげ、決議を可決した。東側諸国は反対したが台湾は賛成した。1960年には、国連は二度目の決議を行い、中国による人権及び国際法の侵害を認めた。
 現在もなお、チベットは中国の占領下にある。

 注釈
(注1)チベットの行政府の名称。
(注2)通貨単位はサンとタムカ。タムカはサンの4分の1。
(注3)ラサ政府の統治地域を「外チベット」、中国領を「内チベット」と呼んだ。
(注4)現在のアルナーチャルプラデーシュ州。現在、中国が領有を主張している。
(注5)この時定められた英蔵間の国境を「マクマホン・ライン」と呼ぶ。
(注6)パンチェン・ラマは1910年の清によるチベット侵略の際、清に協力的であり、このときの行動に対する報復でないかと恐れていた。
(注7)最初の3代を含めるか否かで、パンチェン・ラマ6世とも数えられる。
(注8)既に1925年には共産主義の拠点が四川に作られ、ビラがダルツェンドなどに撒かれていた。また1930年頃には東カムにソビエト政府を樹立する運動もあった。さらに、ダライ・ラマ13世はモンゴルの様子も知っていた。
(注9)中国側は、中国代表呉忠信が式典を取り仕切ったと主張しているが、これは真実ではない。
(注10)彼らは、人民大会を見学しただけで中国の憲法を承認せず調印もしなかったと述べた。また中国側が別の「チベット代表」を捏造し出席させていたとも述べた。
(注11)亡命していたパンチェン・ラマ10世の侍従たちが発見し認定した候補者で、それとは別にチベット側でも捜索が行われており別の候補者がいた。1949年8月10日、国民党政府が彼をパンチェン・ラマと認定した。1952年4月、彼はチベットに入った。
(注12)まだ15歳で成人に達しておらず、本人は望まなかった。
(注13)しかし、チベット人のうち20人は中国側だったうえチベット政府は15人しか代表を出せなかった。

 参考文献
ロラン・デエ 著 今枝由郎 訳『チベット史』 春秋社 2005
W・D・シャカッパ 著 三浦順子 訳『チベット政治史』 亜細亜大学アジア研究所 1992
C・B・ルヴァンソン 著 井川浩 訳『チベット―危機に瀕する民族の歴史と争点』 白水社 2009


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