2013年11月1日
遼東公孫氏 紫柴砦
【はじめに】
紀元2世紀終盤から3世紀にかけて、中国大陸において数多の英雄達が互いに覇を競った、所謂「三国志」の時代。幾多の戦いを経てほとんどの勢力が魏・呉・蜀のいずれかに吸収されていく中、最後まで独立を保った勢力があった。遼東半島に割拠した公孫氏である。彼らはいかにして遼東を支配し、そして滅亡したか。それを見ていくこととする。
【公孫度-幸運な始まり】
遼東公孫氏の独立王国としての礎を築いたのは
公孫琙の援助のもと学問を学んだ公孫度は、後に有道の科に推挙され、尚書郎に任命され、次第に昇進して冀州刺史となった。ここまで順風満帆であった公孫度であったが、流言に遭い罷免されてしまった。しかし、ここで救いの手が差し伸べられた。189年、中央で権力をふるっていた董卓の中郎将・徐栄[2]が公孫度を遼東太守に推挙されたのである。徐栄といえば、諸侯が反董卓を掲げて連合を組んだ時に、その急先鋒である曹操・孫堅の両名をうち破った董卓軍きっての猛将である。徐栄によって公孫度は、一度閉ざされた身を立てる好機を掴んだのである。
さて、遼東太守となった公孫度であったが、玄菟郡の小役人からの成り上がり者であったため、遼東郡の人々に軽んじられていた。そこで彼は恐怖政治を行った。公孫度の遼東太守就任以前、公孫昭というものが襄平県令の立場にあり、公孫度の子である
190年に起こった中原での騒乱(前述の反董卓連合)を知った公孫度は目をかけていた官吏達に対して「いまこそ、諸君らとともに王の位を狙うべきだ」と述べたという。遼東郡を分割して遼西中遼郡を設け太守を置き、海を渡って東莱郡(現・山東省東部煙台市付近)の諸県を支配下におさめ、営州刺史を置いた。自立して遼東侯・平州牧と名乗り、父の公孫延に建義侯の称号を追贈した。更に漢の二祖(高祖・光武帝)の霊廟の建立・籍田の儀式・閲兵式などを行った。以上いずれも天子のみに許される所業であり、甚だ不遜な行いであったことは言うまでもない。しかし、郡内の恐怖政治に加え、中央の軍乱、遼東という辺境に位置する地理条件が合わさって、その所業に鉄槌を下すものは現れなかった。
董卓死後、勢力を伸ばした曹操が上表し、異民族討伐の功で公孫度を武威将軍・永寧郷侯に取り立てたが、公孫度はその地位を不満に思い、印綬を受け取ったものの、自らを遼東の王と称して印綬を武器庫にしまい込んでしまった。
204年に公孫度はその生涯を終える。彼の地位は子の公孫康に引き継がれ、武器庫にしまい込まれた永寧郷侯の印綬は公孫康の弟・
【公孫康・公孫恭-外患への対応】
公孫度が遼東における実権を握って以後死に至るまで、中原では大きな動きが起こっていた。反董卓を掲げて立ち上がった連合は足並みがそろわずに目的を果たすことなく瓦解し、諸侯は相争い始めた。専制的な権力を振るっていた董卓も部下の呂布によって弑され、中原は大いに乱れた。この混乱の中で天子を保護し奉戴したのが曹操である。曹操は苦しみながらも中原を着実に制圧していき、一大勢力となった。一方、反董卓連合の盟主であった袁紹は、同じく連合に加わっていた
そして袁氏に止めを刺す出来事が発生する。後継者争いである。袁紹には後継者候補となる息子が3人おり、長男を袁譚、次男を袁煕、末子を袁尚といった。このうち、特に有力であったのは袁譚と袁尚であり、袁氏はこの二派に分かれて互いに争い始めた(なお、袁煕は袁尚側についた)。曹操はこの事態を利用し、河北に自らの勢力を着実に伸ばした。結果、袁譚は曹操に滅ぼされ、袁尚・袁煕は北へ北へと追われていった。207年、追い詰められた袁尚・袁煕は遂に遼東に逃げ込み、公孫康を頼った。この時、袁尚・袁煕は共謀して隙あらば公孫康を討ち取り、遼東を我が物にしようと画策していたが、公孫康の側も袁尚・袁煕を討たなければ、後々の禍根となり、また天子に申し訳が立たないと考えていた。結果として公孫康は袁尚・袁煕を討ち取ることに成功し、その首を曹操のもとへ送り届けた。この功績によって公孫康は襄平侯に取り立てられ、左将軍に任命された。以上のことによって公孫康は外患を逃れたのである。
また公孫康は父と同様、異民族の討伐にも乗り出し、東方(朝鮮)の高句麗や韓濊へ攻撃を加え、一定の成功を収めている。その際に楽浪郡の南に帯方郡を設置した。
その後公孫康は死去したが、子の公孫晃・公孫淵らはみな幼かったため、弟である公孫恭が擁立され遼東太守となった。なお、公孫康の具体的な生没年は不明であるが、魏の曹丕から大司馬の官位を追贈されているため、曹丕死没の年である220年以前には死去したと思われる。曹丕は皇帝即位後、公孫恭を車騎将軍・仮節に任じ、平郭侯に取り立てた。
以上のように、公孫康・公孫恭兄弟は父の公孫度とは異なり、さしたる野心を見せることなく、自らの勢力を保つべく曹操・曹丕に従属していたように見える。実際に、『魏名臣奏』に記載されている夏侯献の上表文には、公孫康とその妻は朝廷に対して『臣』『妾』と自称したとあり、更に跡を継ぐとみられていた公孫晃(公孫康の子・公孫恭の甥)を洛陽に送り、官位につかせていた。
【公孫晃・公孫淵-悲運の兄と倨傲な弟】
公孫康・公孫恭の治世では遼東における公孫氏の版図は大きく変わることはなかった。しかし、中国大陸の南方では208年の赤壁の戦いをはじめ、大規模な戦いが繰り広げられた後、220年には曹丕によって魏が、221年には劉備によって蜀が、222年には孫権によって呉が建国され、有名な三国鼎立が成った。三国は互いに牽制し、時には戦火を交えながらも、三者いずれも強国となっていたために決定打を与えることはかなわず、三国は皆安定した国家運営を行っていた。
公孫晃は前述のように公孫康の子で、叔父である公孫恭の跡を継ぐとみられており、それもあってか公孫晃は公孫恭によって洛陽に送られ、官位についていた。しかし、このことが公孫晃の悲運の始まりであった。遼東の主たる公孫恭は政治的能力に乏しく、かつ性的不能であった。当時の中国において大きな影響力を持っていた儒教の観念からすると、子孫を残せないことは非常に不孝なことであった。そこに付け込んだのが公孫晃の弟である公孫淵である。公孫淵は公孫恭を脅迫し、その地位を譲らせた。228年のことである。洛陽においてそのことを聞いた公孫晃は、公孫淵はその位を最後まで保持しきれないと考え、国家によって公孫淵を討伐するよう、何度か上表した。しかし、魏の曹叡(曹丕の息子)は公孫淵がすでに権力を掌握しているのを見て、彼に揚烈将軍・遼東太守の位を授け、慰撫する方針をとった。
遼東の主となった公孫淵は早速不審な動きを見せた。南方に使者を派遣し、呉の孫権と誼を通じ、贈り物のやり取りを持ち掛け、孫権もそれに応じたのである。この時、公孫淵は呉に送った書簡の中で魏について「私は魏王朝を裏切ってはいないのに、魏のほうでは私と絶縁した」と述べている。後に孫権は臣下の反対を押し切って使者を立て、宝物を送ると共に公孫淵を燕王としようとした。それに対して公孫淵はその使者を捕え、首をとって魏に送り届けてしまった。公孫淵は宝物が欲しかっただけだったのである。これに対して魏の曹叡は、公孫淵が魏と呉の二股をかけていたことを知りながら、公孫淵を大司馬に任命に、楽浪侯に取り立てた。なお、呉の使者の首を魏に送り届ける際の書簡で公孫淵は、「孫権をだまし、恥辱を与えるために行ったことで、魏に対して叛意はないので許してほしい」といった趣旨を述べている。また、楽浪侯の位を授けられるにあたって、公孫淵は魏からの使者が剛勇の者ばかりが選ばれているという情報を耳にし、疑心暗鬼に陥った。そのために使者を迎えた際に、武装兵を配し陣構えを整えて会見を行い、使者を威圧するばかりか、使者に対して罵詈雑言を放った。
以上のように公孫淵は魏と呉の間で二枚舌外交を繰り広げた。この行いは魏の怒りを買い、魏は公孫淵に対して強硬路線を採るようになった。237年、魏の曹叡は幽州刺史の
238年、魏は重臣の司馬懿を公孫淵討伐に派遣した。これに対し公孫淵は将軍の
ここにおいて、公孫度以来50 年間、遼東を支配した公孫氏は滅んだのである。しかし、残されたものがまだいた。公孫晃と公孫恭である。公孫晃は前述のように、公孫淵を追討するように早くから上表していたが、公孫淵が反旗を翻した際に、謀叛人の一族として国法によって拘留された。公孫晃は以前から訴えを起こしていたことを理由に、連座を逃れたいと申し出ていたが、内心では公孫淵が敗北した場合、自分に累が及ぶことを悟っていた。そのため、公孫淵の首が洛陽に届けられた時、息子と向かい合って号泣したという。曹叡も公孫晃を助けるつもりであったものの、所轄の役人が反対したため、公孫晃は結局殺されてしまった。また、公孫恭は公孫淵が討たれた際に城内に幽閉されていたが、これを知った司馬懿は「公孫恭が太守であった時代は公孫氏が魏に忠実であった」として釈放されている。しかし前述のとおり、公孫恭は性的不能であったために子をなすことはなく、公孫恭の死をもって遼東公孫氏の血統は途絶えたのであった。
【余談‐遼東公孫氏と倭】
陳寿の記した『三国志』の内、魏志には『倭人伝』と称される古代日本に関する記述が存在することは周知の事実である。その記述中に、漢の霊帝の光和年中(178~184 年に相当)に「倭国大乱」が起こったとされ、その先238年の卑弥呼による
この空白の期間は、公孫氏が遼東に君臨した時期とほぼ重なる。238年の卑弥呼による朝貢は帯方郡を通して行われていることと、238年に公孫淵が滅ぼされたことを考えると、「倭国大乱」の間にも倭には中国に朝貢しようとする勢力があったものの、遼東公孫氏がそれを遮り、自らが朝貢を受けていた可能性が浮上する。しかし、史料が乏しいため、このことが事実かどうかは不明である。