2013年11月8日
辺境の江戸  三波


 江戸は、関東を領地を与えられた右大臣徳川家康が征夷大将軍に任じられて以来、「将軍の御膝元」として未曾有の繁栄を見せていた。しかし、その繁栄はアメリカの軍艦の来航をきっかけに急速に衰えてはじめた。幕府には既に、独裁的に政策を決めるだけの腕力が無い事が露見したのである。
 そして、京の朝廷が主導権を握って政治が行われるようになった。京は桓武帝の遷都以来玉座が置かれた都市であったが、幕府が盤石になってから200年以上に渡って政治の中心とは言い難い状況であった。その朝廷が、不死鳥のように蘇ったのである。
 それが如実に顕れたのが、文久2年(1862年)の勅使下向である。当時朝廷は長州藩に近い急進的な反幕攘夷派公家で占められており、その筆頭格であった権中納言三条実美が勅使としてやってきたのである。
 勅使が江戸まで来ることは幕府全期間を通じて例があったが、そのときの対面の礼は将軍が上座、勅使が下座に座る慣例であった。三条はこれに異を唱え、強引に席次を入れ替えてしまったのである。

 翌文久3年(1863年)、将軍徳川内大臣家茂は朝廷の要求を受けて上洛することとなった。将軍の上洛などは久しく無いことであった。先発して将軍後見職一橋中納言慶喜ら幕閣が京へ発ち、一時は京が首都になったかのような観を呈した。
 家茂は攘夷の期日の明言を迫られ、「5月10日」と回答せざるを得なかった。しかし下洛を認められたのは慶喜のみで、家茂は依然上方に留められていた。幕府は業を煮やし、老中小笠原図書頭長行が兵を率いて大坂へ向かい、漸く帰府の許可が下りた。

 その年の8月、薩摩藩主導で政変が起こり、長州藩ら攘夷派は軒並み追放された。家茂と慶喜は再び上洛し、翌文久4年(1864年)1月、有力諸大名が朝議に出席する権利を獲得した。この諸大名の会議は、明らかに旧来の幕府とは異なる。慶喜はあくまで徳川家代表であって、徳川家が政務に参画する(政務を見るのではなく)ために上洛しているのである。政治の中心は、完全に京に移っていた。
 幸か不幸か、この諸侯会議は慶喜と諸大名との意見の相違によって3月には早くも解体し、家茂は江戸に戻った。しかし慶喜は、それから長い間、京に留まることとなる。

 元号が変わって元治元年(1864年)7月、長州藩が軍を率いて上洛し、御所に向かって発砲する事件が起こった。会津・薩摩の反撃に遭い、長州は敗退した。
 幕府は、これを機に長州を叩き潰し、幕府復権を成し遂げようと目論んでいた。しかし、その狙いを察知した薩摩藩士の参謀西郷吉之助隆永は、長州に話し合いで降伏させ、直接出兵せずに矛を収めてしまう。その直後、長州では内乱が起き、再び反幕派が藩政を握った。

 江戸の幕府は、これで幕府の威信は完全に回復したと思い、一旦緩めていた参勤交代の制等を元に戻そうとした。しかし実際には勝利にほど遠い和平で、処分の条件もまた非常に弱気なものであった。それ故に、幕府は不満であった。幕府は、再度の長州征討を決意した。家茂は、嘗て家康が関ヶ原に出陣して天下を獲ったのに倣い、華やかな行列で三度目の上洛の途についた。

 征討は、勅許を得るのに反対の勢力が多く、勅許を得た直後に神戸開港について外国と問題が起き、征討軍の編成が行われたのは1年以上経った慶応2年(1866年)4月。薩摩が長州方に付いて不参加を決め込み、出兵した兵も戦意は低かった。戦闘が始まってみれば長州軍が幕府軍を撃破し、逆に領外に進出し始めた。
 そして7月、家茂が大坂城で死去した。跡は京に留まっていた慶喜が継いだが、間もなく出兵は中止される。12月、慶喜を信頼していた帝が崩御した。

 慶喜はフランス公使レオン・ロッシュの助言を容れて、幕府改革を進めていた。老中の専任制、軍制軍備改革などである。慶喜はこれを上方に留まったままで実行したのである。
 しかし、江戸の幕府は慶喜の真意を理解していなかった。慶喜は異色の水戸藩主徳川大納言斉昭の息子で、一橋家を継いだ後、家茂と将軍職を争っていた。そして永らく京に滞在しており、事あるごとに朝議に乗り込むなど、幕府の本来の姿をあからさまに否定する路線を進んでいる。この改革の目的についても慶喜と十分な意思疎通が行われておらず、互いの不信感は増していた。更に、フランス本国の方針が変わり、改革の資金が降りなくなったのである。
 京では、討幕を決意した薩長の勢力が強まっていた。慶喜はこの時点で幕府独裁の政体を諦め、新たな政体に江戸徳川家として加わることを覚悟した。そこで先手を打って土佐藩邸の大政奉還の提案を容れ、これを朝廷に上表を出した。朝廷はそれを受理した。
しかし江戸の留守組は、全く相談を受けていなかったため狼狽した。陸軍総裁松平縫殿頭乗謨・海軍総裁稲葉兵部大輔正巳が上洛して、出兵して薩長を討つ決意を示したが、慶喜に宥められている。

 一方の薩長は、慶喜を信用しかねて、慶喜を挑発して絵踏をすることにした。慶応3年(1867年)12月9日、薩長は慶喜を禁裏から締め出し、征夷大将軍職を廃絶、慶喜の辞官納地を命じた。慶喜は逸る会津・桑名両藩を抑えて、一先ず大坂に引き下がったが、江戸に対して、手持ちの兵を大坂へ送るよう命じた。

 然しその頃、江戸では西郷が送り込んでいた浪士・無頼漢が闊歩していた。彼らは幕府が弱体化したことを関東一円暴れ廻って示し、これに便乗する本物の盗賊も現れ、人心は不安動揺を極めた。23日には、江戸城二の丸が全焼した。
 堪り兼ねた幕府は25日、薩摩藩邸を包囲し、藩士らを討ち取った。

 一報を受けた大坂では、これを機に一気に薩摩を叩け、と主戦論が沸騰した。そして慶喜も抗しきれず、これに乗って出兵を命じた。
 慶応4年(1868年)1月2日、慶喜は兵を率いて京へ上った。しかし3日の戦闘で、幕府軍は薩長軍に完全なる敗北を喫したのである。会桑の復讐心のみで突っ走った幕府軍は、武備で勝る薩長に勝ち目は無かったのである。
 そして薩摩は、幕府は朝敵である、と宣言した。大坂へ戻った慶喜は、6日夜、単独で城を抜け出して海路江戸へ帰ってしまった。これを知った軍勢は、7日に霧散した。

 12日、慶喜は江戸へ着き、この時点では幕閣に対し、直ちに上方へ反転する、と強硬な所見を述べている。
 19日、遅れて江戸に着いたロッシュと会見を行っている。しかしこのあたりから、慶喜は敵対を諦め、一藩としての徳川家存続を願う方向に転換し始めた。そして、従来の老中らを罷免し、新たに陸軍総裁勝安房守義邦らを登用して後を任せ、自身は隠居することを宣言した。2月12日、慶喜は蟄居先の上野寛永寺に入った。
 徳川家に代々仕えてきた幕臣らは、この展開に非常なる不満を抱いた。有志は将軍警護の名目で彰義隊を結成し、寛永寺を拠点に続々と人員を増やしていた。

 3月5日、薩長主導で組織された東征軍は、駿府に入った。そして、15日の江戸総攻撃を決定した。
 勝は、山岡鉄太郎高歩に文を託して、寛大な処置を求めた。14日には西郷自ら勝を訪れ、勝は降伏の歎願を渡した。慶喜は水戸で謹慎し、江戸は田安家に預ける、という内容である。西郷は江戸攻撃を見合わせ、総督府と相談の上、京へ上った。
 勝は西郷不在の間に、英国公使ハリー・パークスを味方に付けることに成功した。パークスは駿府に戻ってきた西郷に会い、前将軍やその支持者に対する過酷な処分は、欧米諸国の意見に拠ると、新政府の権威を傷つけることになる、と警告した。
 4月4日、江戸城にて勅使左近衛中将橋本実梁から朝旨が伝えられた。主に徳川に対する寛大な処罰は認められたものの、新たな江戸城主は田安家でなく、尾張徳川家になっていた。尾張藩は、真っ先に新政府方に加わった藩である。この点に幕閣が不満を示し、勝が交渉した結果、江戸開城を形式的なものにすることとなった。
 11日、征討軍参謀が各藩兵を率いて江戸城に入城し、形式上は尾張家の管理下に置かれた。しかし城の実質的な管理は依然田安家が行っていた。さらに前夜、多数の兵が兵器を持って脱走していた。同日、慶喜は謹慎先の水戸へと発った。
 以降、脱走兵らの不満分子が次々と反乱の兵を挙げ、一方の町民は将軍が不在となった現状を憂い、江戸の将来を案じて落ち着きを無くしていた。総督府は、むしろ反乱兵を宥めすかす方策をとっていたが、混乱は容易に落ち着きそうになかった。

 この頃、幕臣の前島房五郎密は混乱する江戸を収める方策を考えていた。すなわち、江戸への遷都である。前島は丁度大坂へ向かう外国船に乗って、大坂行幸に従っていた新政府の実力者・大久保正助利通に意見書を提出した。

・帝都は、帝国の中心である。蝦夷地を開拓した後は、大坂よりも江戸の方が都合がよかろう。
・大坂は海運が盛んだというが、今後は大航海の時代である。大型船を発着し、なおかつ修繕もできるような港が必要であり、それには江戸湾や横須賀が適当である。
・大坂は道路が狭く、市街地も小さく、帝都には不適切である。対して江戸は道路も広く、開けており、景観も良好である。
・大坂の道路では、貴族・官吏や軍隊の行き来ができるように、或いは今後増えるであろう陸上輸送に備えて、拡張工事をするのに費用が掛かる。江戸ならば工事は不要だ。
・大坂には宮城や政庁、学校などを全て新築せねばならないが、江戸では、諸藩の藩邸などが在るため工事が簡単である。
・大坂は帝都でなくても疑いなく、本邦の大都市である。しかし江戸は、首都としての地位を失えば市民は四方に離散して、東海の一小都市に成り下がる。江戸は世界の大都市である。この大都市江戸を寂れ果てた辺境の一都市にするのは、甚だ痛恨の極みである。帝都をここに移せば、内は百万の市民を安心させ、外は世界の大都市を保存し、皇謨の偉大を示す。国際上・経済上の観点から、これは重要な問題である。

 大久保は、京の奥深くに住む軟弱な存在であった天皇の在り様を変えようと、大坂遷都を計画していた。そしてこの行幸は、その為の第一歩であった。
 しかし、この前島の提案には心を動かされた。江戸は、かつて家康が領地替えで関東一帯を与えられて入った時には、全くの田舎であった。だからこそ、政敵の関白豊臣秀吉はこの土地を与えたのである。今、遷都先を大坂にしてしまえば、江戸は300年前の状態に戻ってしまう。既に都会の要素を備えている江戸を、みすみす捨ててしまって良いのだろうか。
   その頃、勝は大総督府をほぼ丸め込むことに成功した。勝は、徳川家を百万石以上の大大名として存続させ、藩主は江戸に残り、慶喜も後見役として入ることを企図していた。西郷は再び上洛し、朝議が開かれていた。
 丁度行幸が終わったため、大久保は急いで引き返し、あくまで徳川の政治生命を絶つべし、と述べた。結局、駿府70万石に決まり、勅使三条実美が西郷を率いて江戸へ向かった。
 閏4月29日、三条は江戸に幕府方を呼び、とりあえず相続者名(田安亀之助)のみを伝えた。領地は、慎重を期して後日に延期したが、かえって幕閣の動揺を招いた。
 西郷はここで、のさばる不平分子を一発叩かねばならぬ、と従来の融和路線を改め、彰義隊討伐を決定した。5月15日、政府軍は寛永寺を包囲して、彰義隊を壊滅させた。24日、三条は心置きなく、駿府70万石を通達した。政府軍の威力を見せ付けられた幕府は、承諾するしかなかった。この日こそが、徳川幕府の最終的な滅亡の日である。

 江戸は完全に首都の地位を失い、辺境都市への没落の道を転げ落ち始めた。一刻も早く遷都を行い、民を江戸に繋ぎ止めねばならない。大久保は自ら江戸へ向かい、江戸遷都の準備を開始した。
 7月11日、御前会議で江戸行幸が発表され、17日には江戸を東京に改めた。幕府期には明確でなかった両都の関係を、対等なものであると位置づけたのである。

 9月20日、天皇は御所を発し、東へ向かった。道中、天皇は稲刈りや地引網を天覧し、饅頭などが下賜された。このような民衆との交流は、絶えて無い事であった。天皇の在り様は、国家の在り様とともに変化して来つつあった。
 10月13日、天皇は江戸城に入った。同日、江戸城を東京城と改め、皇居となった。この時点で正式に、京都と東京、二つの都市が首都として並び立つ形になった。

 11月4日、東京市民に酒が下賜された。それからは数日、東京の町では祭りが続いた。新政府は、東京市民の心を掴んだのである。東京は、辺境にはならなかった。
 この直後、天皇は一旦京都に戻り、天皇と東京市民との繋がりは未だ確固たるものではなかった。しかし、この日を境に確かに東京は、新しい時代を歩み始めたのである。

 参考文献
石井孝『戊辰戦争論』(2008年 吉川弘文館)
佐々木克『江戸が東京になった日』(2001年 講談社)


2013年度例会発表一覧に戻る
日本史に戻る

inserted by FC2 system