2013年11月8日
千年の旧都  三波


 京都から奈良までは、地下鉄烏丸線から近鉄京都線・奈良線を通る直通急行が1時間に1本の割合で運行されている。京都の市街地を抜けてから電車は地上を走り、近鉄奈良駅までは50分余りで着く。
 大和西大寺駅を出ると、奈良線は平城宮跡を横切る。車窓からは、左手に大極殿、右手に朱雀門が見える。終点手前の新大宮駅を降りて、南隣の国道369号線を西に向かう。すると右手に、朱雀門が聳え立つ。門の手前には200mに渡り、朱雀大路が再現されていた。土固めの幅50m以上の道の端には、柳の並木がある。
 朱雀大路の端に、一つの銅像がある。植木商の棚田嘉十郎である。

 平城京は、和銅3年(710年)、奈良盆地の南の端にあった藤原京から、この地に移ってきた。しかし奈良朝では政変・天災が相次ぎ、8代目に当たる桓武天皇は、更に北方、山背国へと遷都した。
 その後、平城院が奈良へ戻り還都を宣言した。しかし、この陰謀は平安京の朝廷の素早い対応によって封殺された。そして、奈良の都の命運も途絶えたのである。これが大同5年(810年)のことである。首都奈良の繁栄は、100年で終わったのである。
 以降、「寧楽」の都は忘れ去られた。大和国は皇祖以来の都の地位を山背に奪われ、辺境の地になった。奈良の市街地は比較的栄えていたが、その中心地は宮跡よりも東の地域であった。宮跡一帯は市街地の西の外れにある田畑の地となっていた。そして、資料も散逸し、どこに何が建っていたのかさえも定かではなくなっていた。
 1000年以上の年月が経ち、既に山城の都も旧都となっていた。この時、平城宮復元に立ち上がったのが、棚田であった。棚田は私財を投じ、そして篤志家や政治家とも交流を持って、その生涯を宮の復元に捧げた。宮跡が史跡に指定されたのは、棚田の死の翌年、大正11年(1922年)のことである。その志を顕彰して建てられた銅像は、大極殿を見つめている。

 奈良朝第3代の天皇である聖武天皇は、その在位中に東国への行幸・遷都を繰り返した。その際に平城京の大極殿を取り壊して流用した。そして数年後に還都したときには、元あった場所の東隣に新たに大極殿を設置したのである。
 現在の宮跡では、西側の第一次大極殿が再建されている。そして東側の第二次大極殿は、土台のみが残っている。明治32年(1899年)、奈良県技師の関野貞は、一面の畑の中にある土壇を見つけた。そこは、当時の乏しい平城京研究の中で平城宮の場所と推定されていたところである。更に、近くの農夫に聞けば、あの場所は「大黒(国)の芝」と呼ばれているという。関野は、ここが旧大極殿であると確信した。登って見渡すと、南にあった官庁の跡がやはり小さな土壇になって残っていた。
 現在でも第二次大極殿の跡地には、「大極殿址」とのみ書かれた巨大な石碑が建っている。その南の官庁跡は、史跡として買い上げられた後も、特に手を付けられるでもなくそのままにされ、現在では嘗ての田畑は数十cmの高さの雑草が生い茂っていた。この一帯だけは、復権した平城宮の中で唯一、かえって寂れたように見えた。

 平城宮のすぐ西を、秋篠川が流れている。平城京の北西にある秋篠の地を源流としており、平城遷都の時に南北一直線になるよう治水された。平成2年(1990年)には、礼宮文仁親王の宮号として下賜されている。
 秋篠川を上流へ行くと、東側、田畑の中に白い鳥居が見える。孝謙天皇陵、高野陵である。孝謙天皇は、皇太子を経て奈良朝第4代の天皇として即位、遠縁の大炊王に譲位(淳仁天皇)した後に再び即位した(称徳天皇)。その後、信認する道鏡に譲位しようとするが、それは果たせなかった。神護景雲4年(770年)崩御。
 陵は、三重の柵に囲まれた白洲の広場で構成されており、第一の柵の内側までは一般人でも立ち入り出来、宮内庁の事務所もある。立入禁止、狩猟禁止、伐採禁止の立札はあるものの、警備者はおらず、遥拝者の良識に任せる方式だ。鳥居は一番奥に在り、そのすぐ向こうが幅数mの水濠になっている。陵は、その向こうの木々が生い茂る山である。
 鳥居から向かって左側に進むと、生垣が山の内部へ入って行き、そのすぐ外側には山道がある。生垣は山に入っても続くが、既に所々で欠損しており、その気になれば苦も無く陵に侵入できるほどである。100mほど歩くと、開けたところに出る。すると北隣に、新たな古墳がある。成務天皇陵、佐紀石塚山古墳だ。成務天皇は黎明期の第13代天皇で、日本武尊の弟、という方が通りは良いだろう。成務天皇60年(190年頃)崩御。この古墳は、前方部はかなり広い水濠で区切られている。
 更に東へ進むと、やはり北隣に似た形状の古墳が現れる。垂仁天皇后日葉酢媛命陵、佐紀陵山古墳である。垂仁天皇は第11代天皇、日葉酢媛命は、嫌疑をかけられた実兄に殉じた先后に替わり擁立されたが、天皇に先立ち垂仁天皇32年(3年頃)崩御。その陵墓には、初めて埴輪が埋納されたという。すぐ南に山上八幡神社があるため、遥拝所の奥行きは狭い。
 南西側には、孝謙天皇陵の丁度裏側が見える。道から森の中を覗き込むと、10mほど先に環状の土塁が続いているが、その上に植えられるはずの生垣は最早全く生えていない。その向こうの濠は空である。
 成務天皇陵と日葉酢媛命陵の間の小道を通って北に行き、近鉄京都線を越えると、八幡神社がある。その横を廻ってゆくと、山を登ってゆく階段があった。階段を登りきると、舗装された小奇麗な道が続き、やがて白洲になる。そして北側には、神宮皇后陵の遥拝所があった。神宮皇后は、第14代仲哀天皇の皇后。朝鮮出兵の間際に急死した天皇に代わって海を渡り、帰邦後は誉田別尊(応神天皇)の即位まで摂政として政務を見た。神功69年(269年)崩御。陵の遥拝所は、立派な参道が整備され、生垣の土台も石垣で造られるなど、特に厳かな造りである。そして、鳥居の向こうの水濠も特に幅広かった。

 奈良は、1000年に渡って辺境の地であり続けた。しかし、それは功名の面も持っていた。
 平安京は1000年間首都であり続けたが、その為あらゆる戦乱に見舞われ、建都当時の都は失われた。現在は、大極殿は影も形もない。それに対し、平城宮は1000年間土の下に埋もれ、誰からも見放されていたが故に、その姿を復活させたのである。
 盆地に点在する、嘗て都があった頃の天皇・皇后・皇族の陵は、遷都して、更に朝廷がその権力を失って以降顧みられることは少なく、荒れるがままにされていた。木々が生い茂り、築造当初の葺石は見えなくなっていた。
 しかし、それによって葬られている天皇はより神聖な存在となったのである。人間が自然に従って生きる日本の風土には、草木を押さえつける葺石より、自然で覆い尽くされた森のほうが、より神々しく映るのである。遥拝所から、木々の隙間から陵の山中を覗き見る時、天皇は日本の天皇となるのである。


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