2013年月日
豊臣衰亡史  三波


 はじめに
 最初このプレゼンでは、豊臣氏が秀吉没後20年足らずで滅んでいった過程を、北政所の視点から描く予定であった。しかし途中で読んだ笠谷和比古著『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』の中で、これ迄の豊徳関係史の通説とは全く異なった史観が描かれており、途中から原稿にこの説の取り込んだため、北政所の比重が場所によって異なっている。通説と異なる説明が為されている部分はほぼ例外無く、氏の意見に拠るものである。

 織田家臣時代
 豊臣秀吉がその正室である北政所と結婚したのは、永禄4年8月3日(1561年9月12日)のことである。当時秀吉は藤吉郎、北政所はおねと名乗っていた。両者の家系は共に織田家に仕える侍であったが、身分ではおねの実家である木下家が上であった。その為、おねの母朝日の猛反対を受けたのである。その為、母方の叔母である七曲(浅野長勝妻)のもとに養子に入り、其処から藤吉郎の下へと嫁いでいる。この時、藤吉郎は妻の実家の姓である「木下」を名乗っている 。婚姻は藤吉郎の自宅で、土間に藁と薄縁を敷いて行われた。前年、藤吉郎の主君である織田信長は隣国の大名今川義元を破る大金星を挙げたが、この時点では未だ全国数多の大名の一人にすぎなかった。
 その後、秀吉は信長政権の一部将として頭角を顕わし、信長の天下統一事業に携わって日本中を駆け回る日々が続いた。信長の人材登用は、本当に本人の実力だけで抜擢された。他家なら、秀吉が武将と成るなど有り得ない話だ。天正2年(1574年)、秀吉は近江長浜城の城主と成り、おねと実の母なかを引き取った。おねは実の母よりも姑のなかとの間で親密であった。そして以降、秀吉とおねの親類は秀吉の家臣として続々と取り立てられてゆくことになる。またおね自身も、合戦に忙しい秀吉の長浜統治に積極的に協力している。
 しかしこの時、20代後半であったおねは未だに子を産んでいなかった 。秀吉も城主に出世したら、後継者のことが急に気になりだした。後継ぎが無いと、家はつぶれてしまう。
 この頃、秀吉に男児が生まれたらしいが、生母はおねではない。側室の「南殿」と呼ばれる女性である。そして、その側室の方が先に子を産んだ。この子は「秀勝」と名付けられた。
 天正4年(1576年)、おねは秀吉の代理として 、安土城を新築させた信長の下に挨拶に訪れている。信長はおねの妻としての役割を高く評価し、おねを秀吉の正妻として「公認」している。ところがこの年の10月14日(11月4日)、秀勝が死亡した。信長は不憫に思ったのか、自身の四男於次丸を秀吉に養子として与えている。於次丸は亡くなった実子と同じ、二代目の「秀勝」と成った。
 秀吉は西国方面の毛利氏らとの戦いを担当することになり、長浜城を留守にすることが多くなる。おねは秀吉に代わって、長浜の統治に取り組んだ。秀吉は天正8年(1580年)4月にはには播磨の姫路城を与えられた。翌年にはおねもここへ移り、長浜城は堀秀政に与えられた 。

 天下人へ
 天正10年(1582年)、秀吉は安土の信長に、出陣を依頼した。信長は出陣した。ところが6月2日(6月22日)、信長は滞在先の本能寺で武将の明智光秀に襲われ、自害してしまう。この時長浜城にいたおねは、難を避けて大吉寺に避難している。
 この時、秀吉は取って返して京へ駆けつけ、光秀軍を大いに破った。そしてそのまま、織田政権を乗っ取ってしまおうと策をめぐらせ始めた。そして実際に、翌年には殆どその野望を達成してしまうのである。唯一これに対抗したのは、信長の次男信雄を担いだ徳川家康のみであったが、秀吉は信雄を取り込んでこの対決を有耶無耶にしてしまった。
 そして秀吉は、名実ともに日本の頂点に上り詰める。天正13年3月10日(1585年4月9日)、秀吉は内大臣に任官された。そして、近衛・二条両家の間で起こった関白の座を巡る争いに介入し、「代わりに私が関白に就任しましょう。」と言い出した。そして7月11日(8月6日)、秀吉は関白に就任した。同時に、なかは「大政所」、おねは「北政所 」と呼ばれるようになる。結婚してから25年目のことであった。11月25日(1586年1月14日)、新帝(後陽成院)の即位式の日、秀吉は太政大臣に任官され、即位式では首座になった。

 この直後、12月10日(1月29日)、二代目秀勝が死亡した。公式発表では病死だというが、実際のところは不明である。その後、秀吉の甥である小吉が養子に迎えられ、三代目の「秀勝」が誕生した。二代目の遺領を継いだ上に両方「丹波大納言」と呼ばれており、明らかに密かに交代させた意図が窺える。
 秀吉はその後も、まだ統一していない辺境地域へ出陣した。その最中、天正16年(1588年)11月、側室の茶々が妊娠した。茶々は柴田勝家の妻市の連れ子であり、秀吉が織田政権を乗っ取る過程で柴田家を滅ぼした時に妹二人とともに救出され、秀吉の側室となったばかりであった。茶々は翌年5月27日(1589年7月9日)、男児を出産した。鶴松である。秀吉は喜び、二人のために淀城を築造した。茶々を事実上の正室として扱う為に、北政所のいる大坂城と別に建設したのである。以降、秀吉は茶々を事実上のもう一人の正室として扱うこととなる。

 ところが関東平定が終わった後の天正19年8月5日(1591年9月22日)、鶴松が息を引き取った。以降秀吉は、淀城を使うことは少なくなった。
 秀吉は、後継者を立てなければならなかった。既に養子に取っていた三代目秀勝は、人間性及び人格で後を託せないと見做された。そこで、秀勝の兄である秀次を養子に迎えた。当時権中納言であった秀次は1か月足らずの間で権大納言、次いで内大臣に昇進し、12月28日(1592年2月11日)秀吉の後を継いで関白となった。秀吉と北政所は表向きは隠居の身となり、京の聚楽第を秀次に譲って大坂城に移り住んだ。

 年が明け、秀吉は予ねて計画していた朝鮮出兵の用意を開始した。秀吉自身も茶々と共に、肥前の名護屋城へと向かった。
 ちょうどその時、大坂の大政所が急病にかかり、亡くなった。秀吉は一旦大阪に戻り、大徳寺で葬儀を盛大に行った。
 10月、秀吉は名護屋へ戻った。すると翌年の春、茶々が大坂に戻った。再び妊娠していたのである。そして文禄2年8月3日(1593年8月29日)男児を出産した。秀頼である。秀吉は再び大坂へ戻り、今度は伏見に城の建設を命じている。
 文禄4年7月8日(1595年8月13日)、秀次は突然関白を解任され、高野山へと追放された。そして15日、切腹させられたのである。原因は不明であるが、やはり後継を巡って秀吉と諍いがあったのではないか。だが少なくとも、秀次に叛意は無かった。
 朝鮮出兵は情報収集の不足もあって、思うように捗らなかった。その最中、秀吉は病に倒れた。

 慶長3年(1598年)夏、秀吉は五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜田秀家)・五奉行(長束正家・石田三成・増田長盛・浅野長政・前田玄以)ら諸大名に、秀頼への忠誠を誓わせた。特に秀吉が気がかりなのは、家康の存在であった。家康とは和解が既に成立し、秀吉の臣下に降っていたが、今も関東の大々名である。家康はひょっとすると、豊臣政権をひっくり返すかもしれない。秀吉は、前田利家を頼りにしていた。利家は、秀吉が一介の侍百姓であった頃からの盟友であった。秀吉は、この二人に重ねて秀頼援助を依頼した。8月18日(9月18日)、秀吉は伏見で死去した。その死は厳重に伏せられた。直後から、秀吉を神として祀るための準備が始まった。場所は、方広寺裏手の阿弥陀ヶ峰一帯であった。
 北政所は、もう一つの悲しみに見舞われた。母の朝日が11日に死去したのである。朝日は遂に、秀吉を婿として認めることは無かったのである。北政所は一足早く大坂へ戻り、朝日を弔った。

 家康と利家は、秀吉が朝鮮に送っていた軍の撤退を行っていた。それも、秀吉の死を悟られないように、である。撤退は年内いっぱいかかった。12月18日(1599年1月14日)、帰国した大名たちにも秀吉の死が明かされた。慶長4年1月10日(2月5日)、秀頼は大坂へむかい、利家とともに本丸に入った。北政所は本丸を譲って、西の丸に移った。伏見には家康が残り、政務を見ることとなった。

 家康策謀
 この頃、既に家康と他の大名らとの諍いは絶えなかった。諸大名との縁談など、秀吉の禁などお構い無しに勝手な行動をとり始めたのである。これに石田三成らが反発すると、家康は言い逃れをするばかりでなく、その言葉尻をとらえて言いがかりをつけるようになった。何とか、利家の取り成しによって事なきを得たのである。
 ところが、今度は利家が病を得た。そして閏3月3日(4月22日)、大坂の屋敷で歿した。重しが突然いなくなった大坂では、当日に早くも騒ぎが起こった。前田屋敷に詰めていた三成が、加藤清正・黒田長政・浅野幸長・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・福島正則の七将に襲撃された。朝鮮出兵での彼らの働きが、三成によって矮小化された事に不満を持っていたのである 。三成は大坂から逃げ出し、伏見の自宅へと逃げ込んだ。七将との睨み合いが続くところに、伏見に駐在していた家康が仲裁に入った。三成が隠居することを条件に、七将の矛を収めさせたのである。そして、三成を佐和山城へと送り届けた。政権奪取に向けて、豊臣陣営の中でも敵の多い三成を当分生かしておくのである。

 この頃、阿弥陀ヶ峰の社殿の造営が終わり、4月16日(6月8日)から正遷宮祭が行われた。秀吉には『豊国大明神』の神号が宣下され、神廟の名は『豊国社』となった。別当には吉田神道家の吉田兼見、宮司にはその子兼治、社僧には弟の梵舜が充てられたが、間もなく梵舜が別当になった。以後、梵舜は北政所の右腕として働くことになる。19日、家康が秀頼の名代として社参し、豊国社は幕を開けた。北政所は、祭りが終わった翌日の25日に、親類縁者らと共に社参した。

 北政所は既に大坂を去る決意をしていた。
 北政所は、豊臣家が秀吉の時のように政権を維持してゆくのは不可能だと思っていたらしい。秀頼は幼少である。秀吉が織田政権を乗っ取ることが出来たのは、信長の後継ぎとして秀吉が幼児の孫を推したことであった。そして織田家は現在、東海の一大名にすぎない 。いくら巧妙に立ち回ろうとも、秀頼幼く、利家亡い今、家康を止めることは出来ない。ならば、穏便に家康に政権を譲り渡して、豊臣家は一大名として存続したらよいではないか。
 北政所は利家の死後、洛内の三本木 に新居を構えた。そして毎月18日、豊国社に社参し続けた。家康も北政所と意を通じていたらしい。他の四大老が領国へ帰国した隙に大坂へ出て、空になっていた石田三成邸に入った。9月26日(11月13日)、北政所は西の丸を正式に退去した。2日後、家康が入れ替わり西の丸に入り、ここにも天守閣を建て始めたのである。

 慶長5年(1600年)、正月参賀の大名はまず秀頼に挨拶を行ってから、家康に挨拶している。この時点では、家康はまだ豊臣家の重臣であると誰の目にも映っていたのである。一方で、北政所の下まで訪ねてくる大名は少なかった。北政所は、豊臣家の表向きのことは茶々らに任せ、自分は京で秀吉を弔うことに専念していたのである。

 2月、会津の上杉景勝謀反の報せが届いた。武器を集め、城や道路を修復しているというのである。家康は、詰問状を送りつけた。景勝は、口を極めて家康を批判した。自分は国造りの為にすべき事をしているのみである、翻意が無いのならば上洛せよ、とは全く意味のない話である、というのだ。家康は、上杉征討を決意した。6月18日(7月28日)家康率いる征討軍は伏見を発ち、東国へと向かった。
 家康の読み通り、石田三成が策動し始めた。親友であった大谷吉継が征討軍に参加していたのを呼び戻し、計画を打ち明けた。吉継は三成の口のきき方が横柄で、無駄に敵を増やしてしまう性質であるのを気にして反対したが、最後には協力を申し出た。
そして三成は、総大将格を広島の毛利輝元に依頼した。以前から英雄であった祖父元就 と較べられることに引け目を感じていた輝元は、この申し出を快諾した。
 ここで板挟みになったのが、小早川秀秋である。
 秀秋は、北政所の兄である木下家定の五男である。子がいなかった秀吉の後継候補として養子に取られたものの、天下の後継としての器量は備わっていなかった。そこで秀吉は、秀秋をどこかの大名家に養子として押し付け、その家を乗っ取ってやろうと画策していた。そして広島の毛利輝元に目を付け、秀秋を養子に取らせようとした。
 すると輝元の叔父の小早川隆景が、自らの養子として引き受ける、と言い出した。毛利本家は元就の血統を守らせようとしたのだ。そして輝元はその間に手を打ち、従弟の秀元を養子とした。秀吉は、小早川を取ることで満足するしかなかった。
 秀秋は朝鮮出兵の際、総大将という地位を与えられる。秀秋16歳の時である。秀秋に手柄を獲らせて、秀頼政権においても側近として登用しよう、という思案だ。しかし朝鮮での秀秋の行動は軽挙であるとして、戦役途中に呼び戻され、領地の筑前・筑後を召し上げられた。
 秀吉はその直後に歿したが、すると家康が「太閤殿の遺言が在った」と言って秀秋の旧領をそのまま返したのである。実際にそのような遺言が在ったのかは定かでは無いが、単純な秀秋は家康に感謝した。
 家康が出陣した6月中旬、秀秋は家康と連絡を取っていた。そして兵乱に備えて、兄の木下延俊の持つ姫路城を借りようとした。延俊にしてみれば、すぐに賛成できるような提案ではない。依頼を断った。
 7月17日(8月25日)、毛利輝元が総大将を引き受け、大坂城に入った。血縁は無いとはいえ、毛利は小早川の本家である。秀秋は、毛利軍に参加せざるを得ない。すると、三成は秀秋を疑ったのか、伏見城攻めに参加させようとした。伏見城には、秀秋の兄である木下勝俊がいる。兄を攻めよ、と命じられたのだ。
 困り果てた秀秋は京へ行き、北政所に相談した。北政所は、豊臣家の存続と同時に、実家である木下家の存続をも果たさなければならなかった。そこで秀秋に、次のように答えた。
 「先駆けの軍に加わって城へ向かいなさい。私が次いで城に入り、『兄弟が相別れて戦うのは良ろしくない。和解せよ。』と呼びかけよう。城中は私を人質にもってこいだと思うであろう。秀頼も、私がいるならば攻めることは出来まい。その内に徳川殿も上ってこられることでしょう。」
 秀秋は結局、城攻めに加わった。ところが勝俊は、弟が攻め手の軍に加わっているのに慄き、城を脱出して三本木の北政所の下に転がり込んだ。結局、城は陥落した。

 9月3日(10月9日)、大津城の京極高次は、公然と家康方に加わる構えを見せた。実は高次は予てから家康に味方する考えで、上杉討伐に向かう道中の家康と密談を行っていたのである。7日、毛利元康らが総攻撃を開始した。
 高次の妻は、茶々の妹の初である。今度は、茶々が身内を救う番である。ここでは、北政所と茶々は共に行動にあたった。双方が使者を送った時には、本丸を除いてすべて陥落していた。そこで使者は、開城の説得にあたったのである。家康方が勝ったとしたら、高次は敵兵をくぎ付けにしたため高く評価されるであろう、また、もし家康が負けたとしても、初夫人は茶々の妹であるのだから、心配するには及ばない、と。
 14日、高次は降伏した。使者が述べた通り、高次を攻撃していた軍は翌日の決戦には間に合わなかったのである。

 上杉討伐を終えた家康は、軍議の席で首尾よく三成が豊臣の敵である、と論を纏めることに成功した。家康の参謀黒田長政が秀吉親族の福島正則を取り込み、正則が真っ先に三成征討に賛意を示したのである。そして、三成が秀頼あるいは輝元を戦場に連れてきて自陣営の指揮を弱まらせないように手を打った。大坂城に内通者あり、輝元が出陣すれば、彼らが秀頼を連れて家康方についてしまう、と風聞を流したのだ。その為、輝元は出陣出来なくなった。

 15日朝、両軍は関ヶ原で睨み合っていた。徳川本隊を任せられた徳川秀忠は、信州の真田昌幸に足止めを食らって、まだ到着していなかった。しかし、家康はこれ以上待てなかった。内通者が本当に寝返るのか、秀忠の到着を待っていたら毛利軍についてしまうのではないか、と思ったのだ。
 実際、秀秋はまだ迷っていた。三成からは、我が方が勝利したら秀頼様が成人するまで将軍の地位に就いていただく、と打診されていたのだ。大谷吉継は秀秋の迷いに気付いたのか、石田本隊と秀秋隊との間に割り込む形で陣を敷いていた。
 そして、戦が始まった。しかし、石田方の島津隊が参戦しなかった。島津は前日の軍議での三成の横柄さに嫌気がさし、ヘソを曲げて参戦を拒否したのである。三成は焦った。まさかそこまで自分が反感を持たれていることに気づいていなかったのである。吉継の言うとおり、三成は指揮官に向いていなかった。三成は慌てて、秀秋に合図の狼煙を挙げた。しかし、秀秋はまだどちらに参戦するか決めかねていた。
 家康もまた、落ち着いていなかった。その時、毛利軍が押していたのだ。これを見て秀秋が毛利方に着いたら、間違いなく負ける。家康は、賭けに出た。秀秋の陣に向けて、鉄砲を打ちかけたのである。
 縮み上がった秀秋は、全隊に裏切りを命じた。そして、毛利軍に右手から襲いかかったのである。吉継はいち早く気づきこれを止めようとしたが、兵数で圧倒されなすすべがなかった。
 これで形勢が一気に逆転、毛利軍は崩壊した。三成は再起を期し、佐和山城に向けて単独戦場を逃げ出した。
 戦いの終わった後、家康は諸将から勝利の祝いを受けた。秀秋は、家康から催促されてからやっと現れ、非常に恐縮していたという。
 報せは当日の内に京に届き、騒ぎを巻き起こした。
 北政所は17日夜、准后勧修寺晴子のもとに身を寄せ、18日の豊国社月例祭の際に、自宅にあった秀吉の遺品などを豊国社へ避難させた。この遺品はこのままこの地で保管されることになった。北政所は22日まで滞在し、公家女房衆らから見舞いを受けている。
 家康は戦が終わって間も無く兵を佐和山城に向け、石田一族を殲滅させた。三成は佐和山をあきらめて大坂へ戻ろうとしたが、途中で体調を壊してしまう。更に、匿ったものは村中皆殺しにする、と触れが出ていた。三成は、領民に迷惑はかけられないと、投降した。

 22日、家康は大坂城に入った。そして、大名の領地替えを行った。
 木下家は、命運が分かれた。北政所の警護に当たって京にいた兄の家定は2万5千石を安堵された。三男延俊は、豊後に3万石を得た。五男の小早川秀秋は、家康の感状とともに、岡山51万石に加増された。一方で、石田方に付いた次男利房と四男俊定は、所領を没収された。長男勝俊は伏見城を脱走したことで非常な怒りを受け、夫人や弟たちからも見放されてしまった。北政所本人は、豊国社の所領ともに安堵された。勝俊と利房は北政所の下に、俊定は秀秋の下に寄食することとなった。
 また、京極高次は、一旦は高野山で蟄居していたのを家康に呼び戻され、勝俊が没収された若狭小浜8万5千石がそのまま与えられた。茶々も胸をなでおろしたことであろう。

 領地替えで徳川方の所領は増えたものの、家康は不満があった。関ヶ原に秀忠の本隊が遅刻したせいで、徳川軍の中で占める豊臣恩顧の大名の割合が高くなってしまったのだ。当然、知行割り当てでも彼らに配慮しなければならない。
 この時点で、家康はまだ豊臣政権の筆頭重臣であるという立場は変わっていなかった。今回の知行割り当てでも、宛行状が発行されなかった。配置換えの主体が形式上家康によるのか秀頼によるのか、決めることが出来なかった故だ。
 豊臣政権を乗っ取るという家康の野望は、ここに来て挫折を余儀なくされた。止む無く家康は目標を変え、豊臣政権からの独立を目指すことになる。家康は武家政権を創始させた源頼朝を尊敬しており、頼朝が打ち立てた源氏政権の編年書である『吾妻鏡』を愛読していた。家康は、この源氏政権の成り立ちにヒントを得た。頼朝存命中の源氏政権は、その勢力圏を東国武士にしか及ぼしていなかった。西国の統治は京の朝廷が主導権を握っており、頼朝はそれとなく牽制することしか出来なかったのである。家康は同様に、関ヶ原の戦いで徳川方に付いた豊臣恩顧の大名も、あるいは敗れて減封された大名も、ともに西国に領地を回した。そして、大坂の秀頼に統治させることにしたのである。そして、じわりじわりと徳川の勢力を拡大させてゆくのである。

 独立
 茶々は秀頼を早く関白の座に就けようと、早い段階での官位昇進を朝廷に働きかけていた。そして慶長6年3月27日(1601年4月29日)、秀頼は9歳にして権大納言に任官された。ところが翌日、秀忠がやはり権大納言にされたのである。茶々は衝撃を受けた。そして、家康が秀吉後継になろうとしているのではないかと疑った。
 さらに翌年には家康が洛内に城を築き始めた。その際、諸大名に普請手伝いを命じたのである。かつて秀吉が聚楽第などを建てる際に採った手法と同じである。北政所が手伝いに上洛してきた親族との再会を喜んだのとは対称的に、茶々の家康への不信感は高まった。

 慶長7年10月18日(1602年12月8日)、秀秋が急死した。合戦での裏切りに対する悪夢に唸らされての狂死とも言われている。更にこの前後、寄食していた俊定も没したのである。所領は没収され、小早川家は断絶した。

 慶長8年2月8日(1603年3月20日)、家康は大坂を訪ね、秀頼に面会をした。これは、家康が豊臣体制から独立する前の最後のケジメであったのかもしれない。21日、家康は伏見城で自身を征夷大将軍に任ずる宣旨を迎えた。家康は日を改め、3月27日(5月8日)、新築の二条城で宣下を受けた。家康は武家の棟梁と成ることで、豊臣関白家の統治下にある西国の大名も潜在的に自身に臣従させることを目論んだのである。
 同時に、家康は自身の孫にあたる千を秀頼のもとへ嫁がせている。7月28日(9月3日)、千は母の江と共に大坂へ至った。江は、茶々の妹である。家康にとっては、両政府を結び付けるものであり、一方茶々は、家康は引き続き秀頼の後見をしてくれる保証と解釈した。

 北政所は、家康の将軍就任を以て天下は家康の下に移ったと解釈し、出家を決意していた。またこの年の4月、叔母の七曲を亡くしていたのも影響した。叔母のために一寺建立し、そこを終の棲家にしようと思ったのである。北政所は秀吉生前に従一位という高い位階を得ていたため、朝廷に院号の宣下を願い出た 。すぐさま、院号『高台院』が贈られた。
 慶長9年(1604年)は秀吉の7回忌に当たっており、8月12日(9月5日)から臨時祭が行われた。湯立神楽や御馬揃え、四座による神事能の披露、京の町からやってきた風流踊りなど、趣向を凝らした出し物が8日間の日程の間じゅう続き、京の町は太閤賛美一色に染まった。
 しかし、家康は伏見城から一歩も出なかった。また大名で参加したのは、秀吉や高台院の親族だけであった。

 慶長10年2月24日(1605年4月15日)、秀忠が10万の兵を率いて江戸城を発ち、京へと上った。類を見ない大軍に大坂は警戒態勢に入った。すると4月16日(6月2日)、秀忠が征夷大将軍に任命されたのである。茶々は、激怒した。家康が、「今後将軍職は徳川で世襲する。豊臣方に政権を返すつもりはない」と宣言したと見做したのだ。
 家康は、官職の上で茶々に配慮した。将軍宣下とともに秀忠を権大納言から内大臣に昇進させたが、既に内大臣になっていた秀頼はもう一つ上の右大臣に転出させたのである。しかし、茶々は祝賀の使者を立てることもしなかった。北政所は家康に依頼されて大坂へ下り、直接茶々の説得に当たったが、茶々は頑として首を縦に振らなかった。結局、家康が折れることとなった。

 豊徳共生
 高台院の終の棲家は、豊国社の近くに決まった。その地を別荘として領有していた公家鷲尾家との交渉は、家康の協力もあって無事纏まった。造営に主に協力したのは、特に秀吉に近かった福島正則、加藤清正、浅野長政の三人である。家康からは、伏見城の建物の内薬医門が総門として与えられるなど数棟が移築され、さらに実母朝日が眠る寺町の康徳寺からも移転させる計画であったため、高台院の周辺は大騒ぎであった。秀忠の入洛も高台院にとっては想定していた通りの出来事であったため、茶々の説得に向かった他は移転の指揮に専念した。そして、普請半ばの高台寺に、6月28日(8月12日)に移り住んだ。9月1日(10月13日)、家康から高台寺に対して新たに100石が与えられた。10月には高台院自ら再び大坂へ出向き、茶々から秀吉の御座船 を譲り受けた。さらに自身の禁裏参内用の御所車まで解体し、高台寺の建築材に充てた。
 慶長11年8月8日(1606年9月10日)、家康が土産を持って訪ねてきたこの日が、高台寺落慶の日であると思われる。直後の18日の豊国社大祭では、大坂から2年前の7回忌の臨時祭が描かれた屏風(『豊国祭礼図屏風』)が届いた。描者の狩野内善は、豊臣家の画工を務めており、当日の華やかさが特に緻密に再現されたと見られる。

 以降、豊臣と徳川の間では数年間の間、平穏な時間が過ぎてゆく。しかし家康に因る大坂圧迫は少しずつ進んでおり、時折、波風が立つこともあった。
 慶長11年4月28日、家康は参内し、帝に対して「武家の官位は、徳川方の推挙なしには賜らないように」と願い出ている。実はこれ以前は、豊臣方からの奏請によっても武士に対して官位が与えられていたのである。官位授与決定権の独占の重要性は、頼朝が弟の義経を排除した故事から明らかである。
 慶長13年8月26日(1608年10月4日)、高台院の兄である木下家定が没した。高台院はその冬まで、長い喪に服した。家康は、家定の2万5千石を、未だに高台院の下に寄生していた長男勝俊と次男利房に分与することとした。しかし高台院は、これを勝俊に全て与えるべきであると考えた。伏見城の一件でさんざん悪評を建てられた勝俊が、不憫でならなかったのである。高台院は江戸にいる浅野長政を通じて、秀忠から単独相続の認可を取り付けた。
 ところが、家康は激怒した。家康は、武士としてあるまじき姿態を演じた勝俊に所領を与える気など毛頭なかったのである。秀忠の認可を取り消し、2万5千石を没収、2人の息子はまたしても一文無しになってしまったが、父に代わって高台院の所領の管理という仕事が回ってきた。2万5千石は、長政の二男、長晟に与えられた。
 慶長15年(1610年)、家康が名古屋城築城の普請を発し、豊国社も西国大名が立ち寄って賑やかになった。その中に、所領へ向かう途中の長晟が社参した。高台院との間で、微妙な空気になったと想像できる。

 この名古屋城の普請は、家康の豊臣包囲網の一環であった。家康は、豊臣家にも普請を依頼したが、やはり茶々の反対で免除された。
 それよりも豊臣家は、慶長7年に焼失していた方広寺の再建で忙しかった。実はこれも家康による、豊臣家の財力を落とすための策であり、家康の隠居所、駿府城落成の際、大坂からの参賀の使者に家康自ら勧めたのである。家康は板倉勝重を通じて、進捗状況を監視していた。

 慶長15年は秀吉の13回忌に当たった。今回は方広寺が再建途中であるため、7回忌の時とは違って、8月19日(10月5日)に1日限りの神賑行事が行われた。規模は縮小したものの、当日は神楽・田楽・能などが行われ、境内は群衆に埋め尽くされた。

 再び対決へ
 慶長16年3月17日(1611年4月29日)、家康は6年ぶりに上洛し、二条城に入った。上洛の名目は息子義利と孫忠直の叙位任官とその御礼言上であり、また丁度帝(後陽成院)が東宮政仁親王(後水尾院)に譲位(3月27日)するという事情もあったが本当の狙いは秀頼を上洛させ、二条城で面会することであった。
 茶々はやはり反対した。それに対して、加藤清正らが必死に説得したのである。そして秀頼は、上洛する決意をした。茶々も、認めざるを得なかった。
 3月29日、秀頼は鳥羽まで迎えに来た義利とその弟の頼将とともに上洛し、二条城に入った。家康は庭先にまで出て秀頼を出迎えた。家康は城の中で最高の座席「御成の間」に案内し、「互いの例」、乃ち対等の立場で礼儀を行うことを提案したが、秀頼は遠慮した。家康は妻の祖父であるし、公家社会に権力の基盤を置いている秀頼にとっては、自分よりも官位が上である家康 は対等ではなく目上の存在なのである。
 結局、家康と秀頼は上下の関係で対面することになった。対面そのものは終始和やかに行われていたが、秀頼のそばには加藤清正が寄り添い、秀頼が打ち取られた時には家康と刺し違える覚悟であったと言われる。
 高台院も又、この対面の場にいた。そして対面の後、秀頼を豊国社に案内した。秀頼が豊国社に社参したのは、これが初めてであった。
 秀頼が無事に大坂へ帰ってきたのち、4月2日(5月14日)には家康からの返礼として、義利と頼将が大坂へやってきた。ここでも互いに贈答が行われた。高台院も、豊臣の安定が見えてきたことにほっと胸をなでおろした。

 しかし、家康は危機感を得ていた。
 秀頼は既に右大臣にまで達しており、年齢的に見ても、いつ関白に任官してもおかしくないのである 。
 家康はこの二重政権の体制を安定させるために、孫の千を秀頼に嫁がせていたのであるが、それとともに、皇室とも血縁を結んで、天皇、関白双方の外戚になって平和裏に徳川の天下を確立してしまおうという策を立てていた。千の妹である和子を、新帝に嫁がせようとしていたのである。
 しかし、豊徳両家が妻や養子のやりとりによって一体化することによってうまくやってゆく、という家康の希望は、重大な欠陥があった。これはあまりに複雑なシステムであり、この体制で今まで20年近く平和裏にやってこられたのは、家康個人の実力と、秀頼が幼かったことであった。家康も年である。数年後、秀頼が成人して、家康よりも器量に劣る秀忠がこれに対するようになると、大名は雪崩を打って豊臣方に奔るかもしれない。そして寄ってたかって秀忠を潰すか、あるいは関東の一大名に押し込めてしまうのである。
 家康は、日本を分割統治するというやり方が長続きしないことは解っていた。鎌倉政府は頼朝没後暫くして京の公家政権と対決し、これを破って全国制覇を成した。その後の足利政権は、鎌倉の出張所を統率することすらできず、戦国の世を招いた。豊臣とは、いつかは決着をつけなければならないのである。
 ただし、当時の頼朝と比べて、現在の家康は格段に敵が多い。頼朝は平氏を滅ぼして武家の頂点という地位を確立していたのに対し、家康には秀吉政権の元同僚が西国に多数いる。だから、家康の死後まで待つことはできない。一方で、それゆえに、今一気に豊臣を叩こうとしたら返り討ちに遭いかねないのである。

 二条城対面が何事もなく済み、家康以外の全員が安堵したその直後、4月7日(5月19日)に浅野長政が江戸で病没した。長政は北政所の妹ややの夫であり、秀吉には長浜時代から仕えていた豊臣政権の古参大名であった。
 そして6月24日(8月2日)、今度は熊本に帰国していた加藤清正が亡くなったのである。清正は秀吉の従弟で、長浜城主となった秀吉の下に単身駆けつけて、やはり百姓から身を立て秀吉を支えてきたのである。
 高台院は、二重の悲しみに襲われた。家康も慰めようとの気遣いか、翌年5月には高台寺の所領を5倍の500石にまで引き上げている。

 慶長18年2月2日(1613年3月23日)、大坂城の二の丸が焼失した。高台院は見舞いの使者を送るとともに、あることを思い立った。大坂城に豊国社の分社を建立し、大坂城の鎮守社としようというのである。直ちに聞き届けられ、遷宮の日程も決まった。社殿の造営と神宝物などの運搬が短期間で一気に行われ、27日に梵舜らを迎えて遷宮祭が営まれた。3月1日(4月20日)、高台院にも詳細が伝えられ、喜んだ高台院は彼らに食事をふるまっている。

 8月25日(10月9日)、再び悲しい報せが届いた。浅野長政の嫡男幸長が病没したのである。しかし今度は高台院は悲しむとともに、幸長の遺領(和歌山37万6千国)の行く末を気にしていた。幸長には子がいなかったのである。幸長には二人の弟長晟と長重がいたが、長晟は幼い時から秀吉に近侍していたため、長重に遺領を与えるべきだ、という意見が出て、議論が紛糾していたのである。結局家康の裁定で、遺領はそのまま長晟に継がせて、長晟の2万5千石は徳川方が公収することになった。長晟は豊国社に社参し、今度は晴れて高台院に挨拶して、御礼言上のために駿府へ向かって旅立って行った。

 家康が豊臣方の大名の内、特に警戒していたのは、浅野幸長、加藤清正、福島正則の3人である。ところがその内、清正と幸長が相次いで死亡した。この3人が力を合わせればこそ、徳川方への牽制効果があった。正則ひとりでは、家康ならどうとでもなる、と考えられた。
 他にも、池田輝政、前田利長も没した。豊臣方にとっては不運な展開であった。家康は、豊臣方と決着をつけるべく準備を進めていた。

 慶長19年(1614年)は秀吉の17回忌に当たっていた。そしてこれに併せて方広寺の落慶を行うべく、建物は次々と竣工の時を迎えていた。落慶は8月だというのに、4月の例大祭の時点でおびただしい群衆が訪れている。4月16日(5月24日)に行われた最後の工事である梵鐘鋳造の際には、午前4時の時点で、夥しい人の波で身動きが取れない状況であったという。5月29日(7月6日)、梵鐘は鐘楼に吊るされた。
 6月17日(7月23日)、梵舜は8月の例大祭を17回忌の臨時祭とすること提案し、大坂方の了承を得た。8月3日(9月6日)には大仏の開眼供養が行われることにもなり、双方の準備が進んだ。

 7月21日(8月26日)、家康は方広寺大仏殿の鐘銘に次の句が刻まれていることに気付いた。

    国 家 安 康

    君 臣 豊 楽

 家康は、自身の諱と豊臣の苗字が埋め込まれていることを問題視した。常識で考えて、これは非礼である。無断で諱を入れるのは、家康を呪詛しているのか、あるいは連絡を怠っていたのかどちらかであろう。対して豊臣の方は、埋め込まれているのは苗字である。
 26日、家康は、開眼供養の無期限延期を通達すると共に、豊臣方の釈明を求めた。大坂と京には、全ての準備が済んだ29日になって通達が届いた。
 臨時祭の準備も大詰めを迎えていたため情報は混乱した。梵舜は大坂方と連絡を取り、8月12日(9月15日)になって臨時祭も中止にすると決めた。
 しかし豊国社は、中止の後始末に加えて、急遽例年通りの例大祭を行うことになった為、さらに多忙になった。

 豊臣方の使者に立ったのは、直臣筆頭の片桐且元である。且元は梵舜と連絡を取って後、13日には駿府へ旅立った。そして17日に駿府手前の丸子宿に至ったが、ここで同行していた撰文者の清韓と離されてしまう。
 清韓が取り調べに述べた所ではやはり、家康の諱と豊臣の文字を、漢詩でよく用いられる「かくし題」として織り込んだのだ、というのである。家康は、禅僧らにこの行為の当否を諮問した。諮問はいずれも、鐘銘の中に家康個人の諱を織り込むのは問題である、と答申した。しかも、対する豊臣方は諱を用いず、苗字を織り込んだに過ぎないのである。
 且元は19日になってようやく駿府に入ることを許されたが、本田正純や金地院崇伝を通じて家康とやり取りをするばかりであった。
 帰ってこない且元にしびれをきらした茶々は、大蔵卿局をあらたに派遣した。家康は、大蔵卿局は懇ろにもてなし、茶々と秀頼への慰問の言葉を与えて帰した。
 そして且元に対しては、徳川に異心が無いのなら、証拠を示せ、と迫った。且元は帰路、家康との談判をヒントに、納得させられるような案を考えていた。

 1. 大坂城を出て、他の領地へ移る。
 2. 他大名と同じく、駿府や江戸へ参勤する。
 3. 茶々を人質として江戸へ差し出す。
 
 帰路大蔵卿局に追いついた且元は、次第を伝えた。大蔵卿局は、委細は且元に伝える、としか聞いていなかったため、この提案(実は且元の腹案)を聞いて仰天した。しかし、且元は家康には直接面会していないのである。大蔵卿局は、且元の心中を疑った。そして、一足先に大坂へ戻り、茶々らに讒訴した。
 筆頭重臣への讒言に茶々らは烈しく動揺した。然し暫くすると、大坂城中でもやはり、且元は家康の回し者であるという風聞が立ってきた。身の危険を感じた且元は城に上ることも出来ずに、大坂から引き払い、茨城城に移ったのである。

 大坂城の決戦
 大坂情勢を聞いた家康は、且元の退去と同じ10月1日(11月2日)、大名に大坂出陣の檄を飛ばした。
 同じ日、高台院も茶々の説得に向かおうと、京を発った。だが淀まで来たところで徳川方に行く手を遮られ、戻らざるを得なかった。
 2日には秀頼も大名に檄を飛ばしたが、応じた大名は一人も無かった。秀吉恩顧の大名で唯一生き残っていた福島正則は、家康の命で江戸に留められており、大坂の蔵屋敷から兵糧が徴収されるのを黙認することしか出来なかった。その代わり、関ヶ原の合戦で領地を失った浪人が続々と集結し始め、大坂城はおよそ10万の兵で溢れかえった。対して、城攻めの軍は総勢20万であった。

 戦いは11月19日(12月19日)に始まった。しかし、流石に天下の名城と云われた大坂城である。徳川軍の総攻撃により、補給路こそは絶つことができたけれども、城は全く落ちる気配を見せない。唯一の弱点であった南側も、真田幸村の設けた出丸で完璧であった。攻撃した徳川軍は多数の死者を出して敗退した。
 家康はここに来て、砲撃戦で豊臣方を揺さぶることにした。大量の大砲を淀川の中州に並べ、天守閣目掛けて昼夜を問わず撃ち続けたのである。その内天守閣は傾き始め、茶々の居間まで打ち砕かれた。

 豊臣方は心理的に追い詰められてきた。食料は未だしも、武器はかなり節約せざるを得ない状況に置かれている。しかも、城外からの援助は無いに等しいのである。豊臣方は、講和を申し出た。
 12月18日(1615年1月17日)、大坂城からは大蔵卿局と、茶々の説得にあたっていた妹の初が、包囲軍からは家康側室の阿茶局が出てきた。この時は、豊臣方が浪人を養うための加増を願い出たため、決裂した。翌日の交渉で、城を一部破却し、堀を埋めるならば、身の安全を保証する、という結論に落ち着いた。22日には家康と秀頼の間で誓詞を取り交わし、戦闘は終わった。そして23日には早くも堀を埋める作業が始まった。豊臣方は、自身が担当することになっていた二の丸・三の丸の破却を心なしかゆっくり執り行おうとしていたが、徳川方の兵が待ちくたびれて手伝いを申し出、翌慶長20年正月22日(2月19日)頃には完了してしまった。

 しかしこの時、豊臣方ではどうしても和平を結ぶわけにはゆかない理由があった。浪人の処遇である。彼らは、徳川方に奪われた土地を取り戻して再び大名や領主に返り咲くという野望を胸に大坂へやってきたのである。豊臣が和平を結んでしまったら、自分たちが返り咲く機会は永遠に失われてしまう。彼らは、失うものなど何もない。しかも大坂城内で見れば、彼ら主戦派の人数が圧倒的に多いのである。
 秀頼は、それに流された、否、引き摺られたのかもしれない。3月には、堀や石垣の修理を始めた。更に、浪人を追加で集め始めたのである。駿府に戻っていた家康は、直ちにこれを中止し、別の地へ移るよう命じた。予想通り、豊臣方は応じなかった。4月4日(5月15日)、家康は再び大坂へ向かって発った。
 大坂方は、こうなっては堀の修復は間に合わないと、野戦に打って出ることになった。秀頼はせめてもの士気高揚として、5日、諸将を引き連れて城の南側の平原の視察に赴いた。行列は秀吉の生前を髣髴とさせる華やかさであった。
 豊臣軍は徳川軍が到着する以前にその進軍を食い止めようとしたが、何れも上手くはゆかなかった。そして、大坂城を前に両軍が向かい合った。
 5月7日(6月3日)、両軍は激突した。
 これを最後と腹を決めた豊臣軍の勢いは凄まじく、序盤は徳川軍を押し込んだ。特に毛利勝永隊の攻撃の前に、徳川軍の先鋒は壊滅し、次の部隊が敗走兵と混ざり混乱する中にさらに真田幸村隊が追い打ちを掛けた。一時は家康本隊に突入した。
 しかし結局は兵数の差がものを言った。一気に投入された救援部隊に今度は真田隊が総崩れとなり、幸村は神社に逃げ込んだところを討たれた。
 午後4時ごろ、豊臣軍は次々と大坂城へ押し込まれていた。秀頼は自ら出馬しようとしたが、戻ってきた諸将らによって本丸に移された。直後、城が炎上し始めた。もはや防御の指揮をする者も居らず、午後5時には三の丸、二の丸が相次いで陥落した。
 この時、自害する将士が相次いだ。秀頼も、天守閣に入って自害しようとしたが、ここもまた家臣に留められ、豊国社分社のそばの土蔵に入った。そして且元に代わって城内を取り仕切っていた大野治長の手引きで、千姫が侍女らとともに本丸を出た所を徳川軍に保護された。
 8日朝、徳川軍では千姫による秀頼の助命嘆願が議されたが、家康は拒絶した。正午、土蔵で待ち続けた秀頼に対する回答は、蔵へ向けての発砲であった。秀頼、茶々、それに最後まで従った30人の男女は自刃し、蔵は炎上した。

 豊臣の落日
 大坂城から落ち延びた兵は、4万ほどいた。家康は、雑兵に至るまで草の根を分けて探し出すよう指令を下した。過去に例を無い過酷な残党狩りであった。京の三条河原や六条河原では、連日数十人の斬首が続いた。首棚は京から街道沿いに伏見にまで達したという。
 梵舜は、豊国社の存続が気がかりであった。方々に手を尽くして安堵を働きかけたものの、肝心の家康には会うことが出来なかった。高台院はというと、家康に先手を打たれていたため何もできず、怒りと恐怖心とで、高台寺に閉じこもってしまっていた。
 7月9日(9月1日)、梵舜に家康の沙汰が伝えられた。豊国社一円取り潰し、廟墓の大仏殿への移動、そして神号の剥奪。梵舜の予想を超えていた 。そして13日、家康はこれで豊臣の世は終わったとばかりに、元号を慶長から元和へと変更させたのである。

 秀頼らの喪に服していた高台院は決定を聞くと二条城に駆けつけて、文字通り家康に泣きついた。しかし家康が沙汰を取り消す余地が無いと分かると、「崩れ次第」にしてくれ、と懇願した。建物が傷んでも修繕せず、壊れるに任せるのである。家康も折れて、内苑一帯を「崩れ次第」にすることを許した。さらに後を追って、秀吉の遺品などを収めた神宮寺は特にそのまま残すことが許された。ただし、その神号は取り上げられた。
 家康は伏見で大名統制の手を打った 後、伏見に戻る直前に、浅野長晟の旧領である備中足守2万5千石を、木下利房に与えた。かつて家定が持っていた所領が、やっと利房のものになったのである。しかし家康は遂に、勝俊を許すことはなかった。
 元和2年4月17日(1616年6月1日)、家康は駿府で死去した。高台院は、近い内に秀忠によって、豊国社に対する待遇も良くなるのではないか、と期待した。

 元和5年(1619年)、5月頃から梵舜の周辺で何やら噂が立っていたらしい。6月28日(8月7日)、方広寺の住職として派遣されていた妙法院が、突然神宮寺の引き渡しを求めてきたのである。梵舜は、当時家康との交渉で折衝にあたった板倉勝重に問い質した。すると勝重は、家康のお墨付きを得ていないことを指摘した。確かに、あの時の認可は勝重からの口頭であった。更に、勝重の連絡を受けたもう一人の交渉役である金地院崇伝は、そのようなことを言った覚えはない、と言い切ったのである。
 9月になると、妙法院、京都所司代の双方から使者が次々にやってきて神宮寺の明け渡しを催促し始めた。更に、豊国社の明け渡しまで迫ってきたのである。やむなく梵舜は、明け渡しの旨を伝えた。
 この直前、秀吉恩顧の大名で最後まで生き残っていた福島正則が改易された。立て続けに不幸に襲われた高台院は、もはや訴え出る気力すら失っていた。梵舜はもう一度勝重に会おうと京へ上ったが、事情を知っていた勝重は顔向けできず、会うことを避けた。勤務を終えた勝重を待ち伏せして捕まえ、抗弁した。しかし、それが最後であった。梵舜は、自らの手で神宮寺を解体した。解体された建物は、高台院や梵舜の伝手を辿って方々へ移築されていった。そして跡には、秀吉の柩を納めた廟堂だけが残された。

 元和8年(1622年)、高台院は後が長くないことを悟った。この時、高台寺内で内輪揉めが起こっていた。3年前の住職扶天和尚の没後、山内を纏める力量を持った僧が現れなかったのである。高台院は、木下家の菩提寺である建仁寺の三江紹益を高台寺に迎え、その弟子である家定末子の紹叔に託そうと思った。そこで江戸の秀忠に、高台寺の宗派を曹洞宗から臨済宗に変更させることを依頼した。秀忠は要請にこたえようとしたが、曹洞宗が反発して紛争に突入した。

 寛永元年(1624年)8月、高台院は危篤に陥っていた。報せを聞いて、親戚縁者が高台寺に駆けつけて来ていた。この時に至ってもなお転派の件が落着していなかったが、高台院の危篤を知ってか、血縁関係を理由に強引に裁定に持ち込まれた。そして9月3日(10月14日)、三江紹益が高台寺に入った。最後の望みが叶えられた高台院は安堵した。そしてそれから時をおかず、6日に息をひき取った。77歳であった。
 23日、雨の降る中、高台寺で葬儀が営まれた。豊臣の時代の、完全なる終焉であった。

 参考文献
「戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣」(笠谷和比古 2007年)吉川弘文館
「北政所おね」(田端泰子 2007年)ミネルヴァ書房
「淀殿」(福田千鶴 2007年)ミネルヴァ書房
「北政所と淀殿 豊臣家を守ろうとした女たち」(小和田哲男 2009年)吉川弘文館
「北政所 秀吉歿後の波乱の半生」(津田三郎 1994年)中央公論社
「淀君」(桑田忠親 1958年)吉川弘文館
「逆説の日本史12 近世暁光編」(井沢元彦 2008年)小学館
 


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