2014年10月10日
満洲切手  三波


 大日本帝国は、その成立から半世紀近くを経て、中華民国東北部に当たる満洲地方を自身の権益として確保しようと画策した。そして、現地に展開する関東軍が独断でことを起こした。
 中華民国暦20年(1931年)9月18日、奉天で満州鉄道の線路が爆破される事件が起こった(注1)。関東軍はこれを機に中国軍へと攻撃を開始、中央政府の追認を得て、翌民国暦21年(1932年)1月には満洲地域全土を制圧するに至った。2月18日、東北行政委員会は満洲地方の独立を宣言、3月1日に「満州国」は建国された。国家元首に迎えられたのは、清朝の遜帝(注2)、愛新覚羅溥儀で、その地位は「執政」とされた。9日、溥儀の登位の式が行われた。また、新たな元号「大同」が定められた。

 さて、清朝崩壊後の中国大陸は、軍閥が割拠して中華民国中央政府の威光は全土にはとても及ばなかったが、郵政事業は比較的安定に運営されていた。清朝末期日本に倣った近代化改革の中で、郵政事業は政治的混乱に左右されない中立性を獲得するに至っていた。
 4月1日、満洲国政府は、国内の郵便関係の資本を押収し、人員はそのまま引き継ぐ方針を奉天の管理局長に通達した。郵政側の返答は、最終的な解決策を日中両国が政治決着するまでは従来通りに運営を続ける、という強気なものであった。対外的には「満洲民族による自発的な建国」と宣伝していた当局は譲歩し、名義のみ「満州国郵政」に改めたが、実質は従来の組織をそのまま容認した。消印に「中華民国暦」を用いるか「大同」に改めるかで問題になったが、西暦を用いることで妥協を見た。
 満洲国政府は改めて自前の切手を作成することとなり、東京の逓信博物館と共作で普通切手を制作した。デザインは、国内有数の古都遼陽の象徴とも云うべき白塔と、執政溥儀の肖像の二種類で、前者が半分・1分・1分半・2分・3分・4分・5分・6分・7分・8分・10分の11種類、後者が13分・15分・16分・20分・30分・50分・1圓の7種類である(注3)。
 関東庁と現地の郵政代表との交渉の結果、8月1日を以て新切手を発行し、為替など他業務も移管することとなった。東京で印刷された新切手は7月16日に満洲に持ち込まれた。
 然し、中国側は譲り渡しに不満であった。23日、南京政府は満洲地域の郵便局閉鎖を発表、25日には職員が全て引き揚げてしまった。慌てた満洲郵政は、新切手発行を26日に繰り上げ、現地民に求職者を募って「郵政は一日休んだのみですぐに再開した」との体裁を整えた。

 9月15日、日本は満洲国を国家として承認し、「日満議定書」を結んだ。18日は満州事変一周年に当たり、一日限定の特別印が押された。

 大同2年(1933年)3月1日、建国一周年の記念式典が行われると同時に、記念切手が発行された。図柄は満洲の地図に国旗(1分・4分)、行政府に当たる国務院の庁舎(2分・10分)の二種類である。

 関東軍は満洲国が帰属を訴えていた熱河省に出兵、南下した。中国は抵抗したが、国際連盟の脱退を宣言していた日本に対する国際圧力は弱かった。5月31日、両国は停戦し、中華民国は事実上満洲国を承認した。
 承認を取り付けた満洲国は、溥儀を皇帝に推戴することとなった。建国二周年に当たる大同3年(1934年)3月1日、溥儀は清朝皇帝としての儀礼の後、宮内府にて登極の儀を行い、満洲帝国皇帝に即位した。元号は大同から康徳へと改められた。
 同日、紀念切手が発行された。図柄は、式場である宮内府勤民楼(1分半・6分)と鳳凰瑞雲(3分・10分)の二種類。

 中華民国は満洲での郵政事業を撤退した直後から、「満州国郵政」なる団体が「切手」と称する発行物は承認せず、それを貼られた郵便物は料金不足とみなしていた。そして、受取人から差額を徴収するという手続きをとっていた。然し満州国の国家承認を事実上行ったからには、こうした制裁措置をとるわけには行かない。
 両国は、北平で協議を進めた。そして民国暦24年/康徳2年(1935年)1月1日より、切手や消印に満洲の字を用いないことを条件に切手を有効とする協定(満華通郵協定)が結ばれた。「郵政」とのみ書かれた切手が発行された。図柄は、満洲皇室の紋章である蘭花(2分・8分)と満洲の風土を象徴する白頭山に黒竜江(4分・12分)の二種類。

 康徳2年、皇帝は日本を訪問した。前年の即位に際し、天皇が弟の秩父宮雍仁親王を名代に参列させたことへの答礼である。
 4月2日、皇帝が大連から黄海へ乗り出したその日に、日満両国で記念切手が発行された。満洲側の図柄は、富士に瑞雲(1分半・6分)と鳳凰一対に瑞雲(3分・10分)の二種類。日本側の図柄は、皇帝が乗船した軍艦「比叡」に遼陽の白塔(1銭5厘・6銭)と赤坂離宮(3銭・10銭)の二種類。
 6日、皇帝は歴代の中華皇帝として史上初めて日本の土を踏んだ。天皇・皇后をはじめとする皇族、内閣総理大臣岡田啓介ら政府高官と対面、大正・明治両天皇陵参拝、金閣寺・東大寺・厳島神社訪問など濃密な一ヶ月を過ごし、24日に日本を離れた。
 皇帝はこの訪日を経て、満洲は日本と共にある限り心配には及ばない、との思いを強くした。帰国直後、日満両国の「一徳一心」を理念とすべし、との「回鑾訓民詔書」が発せられた。

 康徳3年(1936年)1月26日、日満郵便条約が発効した。従来、両国間の郵便料金は中華民国時代に日中間で取り決めた国際料金に従っていたのだが、日満は改めて、両国を単一の郵便境界として定めた。つまり、郵政上は一ヶ国として扱うこととなる。
 同日、紀念切手が発行された。図柄は、両国の地図に通信を象徴する雁(1分半・6分)と郵政事業を扱う交通部庁舎(3分・10分)の二種類。

 関東軍は、独立当初の最大都市である奉天に替わる首都として、一地方都市に過ぎなかった長春(後に新京と改名)を定めた。中華民国やソ連との位置関係の都合上、或いは国内統治のバランスの観点から、白羽の矢が立ったのである。そして、地価の安い周辺土地を買い上げ、大規模な計画都市を建設した。
 康徳3年12月、国務院庁舎が他に先駆けて落成した。中国伝統様式と西洋バロック建築との折衷構造で、設計者は石井達郎である。
 12月5日、落成に時を併せて、普通切手の改版が行われた。図柄は、国務院庁舎(半分・1分・1分半・3分・5分)、満洲の主要農産物である大豆を運ぶ荷馬車(6分・20分・50分)、清朝開祖太宗の眠る奉天北陵(7分・9分・13分・15分)、清朝皇帝の避暑山荘である熱河離宮(10分・30分・1圓)の四種類。

 康徳4年(1937年)3月1日、満州国は建国五周年を迎え、紀念切手が発行された。図柄は、太陽に瑞雲の下の広大な畑(1分半)と霧に霞む建設中の新京の都心(3分)の二種類。丁度この頃から、日本国内の農民の集団移民が盛んに行われるようになる。

 新京の国都建設は、9月16日の完了記念式典が行われるに至った。同日発売の紀念切手は事業の内外への誇示の為に図案の公募が掛けられ、石川酵佑が最高賞に選ばれた。図柄は、太陽に瑞雲の下で月桂樹を咥えた鳩(2分・10分)と国務院庁舎に翻る満洲国旗(4分・20分)の二種類。月桂樹は勝利の象徴であり平和の象徴ならばオリーブのはずである。後日石川が不明を詫びている。
 この直前、日本軍は中国軍と盧溝橋付近で激突し、長い戦争へと突き進んでゆく。

 満州鉄道の沿線地域は、ロシア、次いで日本が鉄道権益を握るときに共に付属地として実質的に治外法権の権益を握るに至った。然るに今、満洲全域が日本の支配権になった上は、わざわざ治外法権を設ける意味が無くなる。日本政府はこの現状を鑑みて、治外法権の制度は消滅した。最も、既に関東軍が満州国の内政外交を指導している現状では、さほど満洲側に割りのよい話であるわけではなかった。
 然し、治外法権撤廃は国家の慶事であることには変わりはない。そこで、条約が発効する12月1日に紀念切手が発行された。図柄は、満州国の地図(2分)、治外法権撤廃により解散することとなった新京居住民会館(4分・8分)、満州国郵政を担当する交通部の庁舎(10分・20分)、法の運用に当たる司法部庁舎(12分)の四種類。

 12月15日、翌年用の年賀切手が発行された。日本郵政では前々年から発行されており、この年は日満同日発行となった。満洲柄の図柄は、「双喜」の文字(2分)の一種類。日本側の図柄は、しめ飾り(2銭)の一種類。
 満洲年賀切手はこの一回のみであった。また、日本側もこの年を最後に中断し、年賀切手が再開するまで十年の歳月を費やした。

 赤十字社は、同じ国家・統治体制の中に複数の国別組織が存在してはならない規約がある。戦場における医者の保護の為である。満洲の治外法権が撤廃された場合、皇帝の下賜金で設置された恩賜普済会と満鉄付属地で活動する日本赤十字社満洲委員会の活動範囲が重なり、並立状態となってしまう。日中間での戦争は激しさを増し、一刻も早く体制を整える必要があった。康徳5年(1938年)10月1日、両社が統合することにより、財団法人満州国赤十字社が発足する。
 創立記念式典の行われた10月15日、紀念切手が発行された。図柄は、満洲の地図に赤十字のマーク(2分・4分)の一種類である。

 満洲独立後、満鉄は国営路線も営業傘下に収め、着々と営業路線の新設を続けた。康徳6年(1939年)9月、梅茸線の開通で、国内の鉄道路線が1万キロを突破した。
 その年の5月になって、満鉄から紀念切手発行の要望が出された。原画の作成には、満鉄弘報課のデザイナーであった佐々木順が担当した。切手発行は、10月21日である。図柄は、満洲地図に重ね合わせた路線図(2分)と豪華特急列車あじあ号(4分)の二種類である。

 康徳7年(1940年)は、日本の皇紀2600年に当たる。皇帝は祝意を伝えるため、二度目の訪日を行った。
 6月26日、皇帝が横浜に到着したその日に紀念切手が発行された。図柄は、軍用艦に鶴(2分・4分)の一種類である。前回の訪日の時、つがいの鶴がお召し艦に飛来したことに着想を得てのものである。
 皇帝は天皇に直接祝意を伝えた後、靖国神社参拝や日比谷音楽堂での奉迎式典に出席した。滞在中、皇帝は新京に創設する建国神廟について、祭神として天照大御神にお越しいただきたい、と依頼した。先だって相談を受けていた政府は反対であったし、天皇も困惑を隠しきれなかったが、結局のところは満洲の祭神は満洲の自由に任せる、と事実上の容認に踏み切った。
 皇帝は西へ向かい、伊勢神宮、神武天皇陵などを参拝したのち満洲へ帰還した。7月15日、建国神廟に天照大御神が鎮座した。

 この年の10月1日、帝国全土で国勢調査が行われることになっていた。しかし満洲では嘗て国勢調査というものが行われた経験が無く、日本からの移民を除いて、国勢調査の意義を理解させることは困難を極めた。国勢調査事務局は、宣伝媒体として切手を活用することを思いつき、交通部に相談を持ち掛けた。
 交通部は、9月に発行予定の皇紀2600年紀念切手の準備で忙しく、印刷所の移転の時期とも重なって日程上の余裕は無かったが、結局は同時進行で準備が行われることになった。
 紀念切手の図柄は、満洲地図に調査員(2分)と中国語・モンゴル語の宣伝標語に手渡しされる申告書(4分)の二種類である。印刷が完了し次第順次全国へ発送され、9月10日発行。印刷所からの搬入が全て終了したのは、18日になってからであった。

 皇紀2600年の記念式典が行われたのは、国内都合などによって数度延期され、9月19日であった。紀念切手発行もその日に合わせられた。図柄は、国務総理張景恵の「慶祝日本紀元二千六百年」の書(2分)と干支にちなみ龍燈(4分)の二種類である。後者の原画作成は、それまでの日本人ではなく、漢人の李平和が担当した。

 康徳8年(1941年)6月、前年に成立した国兵法に基づき、満洲帝国最初の「国兵」が入営した。5月25日に紀念切手が発行された。図柄は、宮内府親衛隊を撮影した写真を基に描かれた国兵(2分・4分)の一種類である。
 この年の12月、日本はアメリカ合衆国を相手取って戦争を開始した。開戦日、皇帝は詔書を発し、日本軍に全面協力する決意を示した。

 東南アジア諸島へ進軍した日本軍は、連戦連勝。日満両国民は、開戦の大義名分である「八紘一宇」、「大東亜共栄圏」に熱狂した。康徳9年(1942年)2月、日満両国郵政は共に、大英帝国の極東進出の拠点であるシンガポールの解放に併せて、紀念切手を発行する準備を進めた。満洲の図案は、2分・4分の普通切手に「紀念新嘉坡 復歸我東亞 康徳9年」の加刷切手。日本の図案は、2銭・4銭の普通切手(乃木希介・東郷平八郎の肖像)に「シンガポール 陥落」、更にそれぞれ1銭・2銭の寄付金付き加刷切手。
 切手はシンガポール侵攻が進む中印刷・配給され、15日夜に陥落の正式発表があると同時に16日の発行が決まった。丁度春節に重なったため郵便局には長蛇の列が出来、売り切れの局が続出した。発行が正式に発表された18日には、最早販売する窓口が殆ど無かった。

 康徳9年は、建国十周年に当たる。日満両国で紀念切手を発行することとなり、独立記念日の3月1日と、日本の国家承認を得た9月15日の二度に分けて発行された。
 3月1日、満洲で四種類、日本で二種類が発行された。満洲の図案は、建国忠霊廟4(2分・4分)、鳥瞰図調の満洲地図(10分)、風にはためく満洲国旗。日本の図案は、建国神廟(2銭・10銭)。
 日本は中華民国を率いる蒋介石を南京から追い落としたのち、親日派の汪兆銘を迎え入れて南京に新たに中華民国を建設していた。5月8日、汪兆銘が中華民国国家主席として満洲に来訪した。満洲建国以来、国家元首の来訪は初めてのことであった。これを祝し、両国の国旗を描いた特印が8日付で使用された。
 次いで28日、高松宮宣仁親王が天皇の名代として来訪、やはり特印が用意された。滞在中、陸軍高官の関東軍幹部と海軍中佐である高松宮との席次などを巡って日本側と関東軍との間で意見が対立した。
 9月15日、記念式典が新京と東京で同時に行われ、両国から各二種類の紀念切手が発行された。満洲の図案は、農夫と漁夫を描いた日常風景(3分)と手をつなぐ日・漢・満・蒙・朝五民族の少女達(6分)。日本の図案は、手をつなぐ日満の子供(5銭)と蘭花紋章(20銭)。

 12月1日、大東亜戦争開戦一年に当たり、改めて戦意高揚の切手が発行された。普通切手に標語が加刷された。「興亞自斯日(興亜はこの日より) 8.12.8」

 開戦当初は連戦連勝であった日本軍は、6月のミッドウェー海戦で頭打ちとなり、退却を余儀なくされた。満洲国は国民をより一層戦争準備に動員するために、国民勤労奉仕法を公布する。二十代前半男性に、計12か月の勤労奉仕を義務付けるものである。
 康徳10年(1943年)4月1日から施行された同法の周知宣伝の為、5月1日に施行紀念切手が発行された。先の開戦一周年の紀念切手と同じ普通切手に、奉仕隊員の識別章と「勤労奉仕」の四文字が加刷された。

 それでも労働力不足に悩む政府は、女性の労働力活用に焦点を当てるが、満洲は日本と較べて、女性の社会進出は必ずしも進んではいなかった。当時満洲で働いていた女性は、殆どが日本からの移民であった。
 ここでもやはり、切手を用いて働く女性を示すこととなる。10月1日、満州国赤十字創立五周年の紀念切手が発行された。図柄は、担架を運ぶ看護婦(6分)の一種類である。

 12月8日、開戦二周年に合わせて、産業増強を呼びかける切手が発行された。図柄は、鞍山の昭和製鋼所(6分)。スローガンは「努力増産協助聖戦」。

 康徳11年(1944年)、連合国空軍による空襲が始まり、国内の物流すらも事欠くようになる。普通切手の印刷技術もより簡素なものへと変わり、図柄の精巧な美しさは失われた。目打の技術も、大幅に低下した。

 10月1日、戦意高揚の切手が発行される。図柄は最早文字のみで、中国語で「日本之興即満洲之興」(揮毫:国務総理張景恵)、日本語で「日本の興は満洲の興」(揮毫:国務院総務長官武部六蔵)の連刷、10分と40分の二種類。

 康徳12年(1945年)5月2日、回鑾訓民詔書発布十周年紀念切手が発行された。図柄は象形文字で「一徳一心」(10分)。直後の8日、ドイツ第三帝国が連合国に降伏し、日満がただ一国、全世界を向こうに回して戦っていた。

 満州国郵政は、戦費調達の為、建国以来初となる寄付金切手の発行を計画していた。寄付金で戦闘機を購入しようというのである。二年程前から準備されていた為図柄は絵入りで、練習機での教習に標語「青年荘子縦横大空」「一機でも多く」、戦闘機を見送る母子に標語「献納飛機撃滅宿敵」「大空へ征かう」の二種類。売値は前者が葉書相当3分に寄付金47分を加算して50分、後者が封書相当6分に寄付金44分を加算して50分。これが発行された後に購入されるべき戦闘機は、僅かに三台である。
 準備中に郵便料金が改定され、前者が5分+95分、後者が10分+90分の一枚1圓で発行されることとなった。額面部分に訂正の加刷を行い、康徳12年9月20日に発行される予定であった。

 然し、寄付金付き切手は発行にも、額面改定の加刷にも至らなかった。8月9日、ソ連軍が満洲侵攻を開始した。15日、天皇から降伏の意志が発せられた。
 満洲帝国は崩壊し、移住日本人は本国へ向かって蜘蛛の子散らし逃走を始めた。その背後から、軍靴の足音が迫っていた。


 注釈
(注1)関東軍は自ら爆破して、これを中国軍の仕業であると偽った。
(注2)中華民国初期の有力者袁世凱は、溥儀を「廃帝」(玉座を引き下ろされた皇帝)ではなく「遜帝」(自発的に譲位した皇帝)と扱うことによって、民国政府の正当性を歴代中華帝室の伝統に求めた。
(注3)当時の通貨単位は、1圓=10角=100分である。
(注4)満州国の英霊を祭る神社で、日本でいうところの靖国神社に当たる。

 参考文献
貴志俊彦「満州国のビジュアル・メディア」(吉川弘文館 2010年)
内藤陽介「満洲切手」(角川選書 2006年)
「さくら日本切手カタログ2013年版」(日本郵趣協会 2012年)
 


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