2014年10月17日
花山院、そして義懐  三波


 藤原の生まれは天徳元年(957年)、父は蔵人頭藤原、母は恵子女王。当時藤原氏は他氏との権力闘争を続けており、義懐の大伯父実頼、祖父師輔兄弟がそれぞれ左大臣・右大臣と上位二官の座にあった。
 翌天徳2年(958年)10月27日、師輔の娘が帝の中宮に立てられた。実頼の娘はいずれも既に死去しており、中宮の候補がいなかったのである。また、英名の評判高かった長男敦敏も早世しており、将来の政権は自然と師輔の系統に転がってくる様相であった。安子は憲平親王、次いで守平親王を生み、外戚としての立場を固めた。天徳4年(960年)5月4日、師輔は右大臣在任のまま薨御した。伊尹は喪に服したのち、8月22日に参議に任官した。

 康保4年(967年)、帝は不例が続いた。関白太政大臣となっていた実頼は、東宮憲平親王即位後の新たしい東宮は誰とするかたずねた。帝の答えは、守平親王であった。5月25日、帝は崩御した。
 伊尹は、帝の伯父となった。外戚では最長老である。この年の正月に権中納言に昇進した直後だったが、12月には更に権大納言に昇進した。伊尹の弟である兼通と兼家も、即位前後に相次いで短期間蔵人頭を経た後、共に東宮職に就いた。但し両者とも位階が低く公卿1でなかったため、東宮大夫と東宮傳は、兄弟の叔父にあたる中納言藤原師氏と大納言藤原師尹が就いた。
 安和元年(968年)10月26日、帝の中宮となっていた伊尹の娘懐子が男児を出産した。師貞親王である。
 安和2年(969年)3月26日、左大臣源高明の謀反を告げる讒言があった。高明は参朝を止められ、太宰権帥への左遷が決まった。高明は先帝の弟で非藤原勢力の筆頭であり、これを疎ましく思った藤原勢力がこれを追い落としたのである。伊尹は大納言に昇った。

 8月13日、帝は東宮に譲位した。新東宮は、師貞親王である。先帝は内裏を出て冷泉院に落ち着いたため、冷泉院と呼ばれた。
 安和3年(970年)正月27日、伊尹は右大臣となった。そして実頼の死を受けて、5月27日に摂政となる。天禄2年(971年)11月2日には、太政大臣にまで至った。
 然し伊尹は、翌年にかけて病を得た。天禄3年11月1日、伊尹は薨御した。義懐が、従五位下に叙された直後のことである。後任の関白は、参議から一年足らずで内大臣にまで昇った兼通である。
 兼通と兼家は、不仲であった。兼通は、自身は太政大臣に昇る一方で兼家を大納言に留めたが、兼家の娘超子が冷泉院の子親王を産んだ(天延4年(973年)正月3日)。兼通は、外戚となることが出来なかった。
 兼通は死期が近づくと、兼家に関白の座を譲り渡すよりはと、実頼の息子で右大臣に昇っていた頼忠を更に左大臣に任官させた。貞元2年(977年)11月8日、兼通は薨御した。頼忠が関白になった一方で、兼家は兼帯していた右近衛大将を外され、治部卿となった。
 然し、兼家が外戚であるという事実は動かされなかった。貞元3年(978年)10月2日、兼家は右大臣に昇る。天元2年(979年)6月3日、兼通が帝の中宮として送りこんでいたが子女を残せないまま死した。一方で兼家の娘詮子は帝の女御であり、天元3年(980年)6月1日に親王を出産した。頼忠の娘遵子も宮中におり、天元5年(982年)3月11日に中宮に立てられたが、結局子をなさなかった。

 義懐は東宮外戚として、天元2年より東宮亮を勤めていた。
 元号が永観に改まり、帝は譲位を願っていた。自身に男児が生まれたため、東宮を即位させて懐仁親王を東宮にせんとしたのである。
 永観2年(984年)正月7日、義懐は東宮出仕の功で従四位上に叙された。8月27日、帝は東宮に譲位し、懐仁親王が新しく東宮となった。義懐は同日付で蔵人頭に、次いで右近衛中将に補任された。
 10月10日、大極殿で即位礼が執り行われた。義懐は従三位に叙せられ、公卿になった。更に17日には、正三位に昇った。
 18日、大納言藤原為光の娘?子が女御となった。外戚としての伊尹家の勢力が小さかったため、義懐がその拡大を図ったのである。為光は、東宮大夫を務めていた。

 新政は、義懐が指揮を執り、東宮職時代からの親交があった蔵人藤原惟成が実務を整えた。11月28日、撰銭(欠銭などの悪貨の使用を忌避すること)を禁ずる「破銭の法」と、延喜2年(902年)に荘園の増加防止の為に出された「荘園整理令」以降の荘園を無効とする令が発せられた。
 その一方で、兼家をはじめとする権門に対する敵対意識も垣間見えることがあり、両者の間では軋轢が生じていた。
 然し、これらの新政は民衆の心理や歴史的な帰結に反するものであったため、はかばかしい成果は上げられなかった。あとには政府高官との反目が残った。
 寛和元年(985年)9月14日、義懐は参議となり、次いで12月27日には権中納言となった。然し、義懐の政治権力は次第に縮小せられ、兼家らが主導権を取り戻しつつあった。

 帝は、悲しみに暮れていた。7月18日、帝が寵愛していた?子が卒去したのである。?子は当時、妊娠七月であった。8月10日の殿上歌会で、帝はその悲傷を詠んでいる。

    秋の夜の 月に心の あくがれて
       雲井に物を 思ふころかな

    萩の葉に おける白露 玉かとて
       袖につつめど とまらざりけり

 8月29日、先帝は出家剃髪し、譲位後の居所であった堀川院を出て円融寺に入った。先帝は譲位後、自由で身軽な生活を送っていたことは帝の耳にも入っていた。
 またこの頃、貴族社会そのものに息苦しさを感じて出家するものが相次いだ。寛和2年(986年)4月25日、大納言藤原朝光の息子相中が出家入道した。相中は、帝の若い時分から親しかった。28日には、帝の大叔父にあたる盛明親王が続いた。
 帝もまた、出家というものに魅力を感じていた。そこに、兼家一門はつけ込んだ。

 6月22日深夜、帝は密かに禁裏を出た。つき従ったのは、兼家三男の蔵人道兼であった。道兼は予てから自身も出家する、と云って帝をその気にさせていたのである。
 帝が禁裏を出ないうちに、神璽・宝剣は兼家の他の息子たちが東宮の下に運んで、形式上は帝位が既に移っていた。帝は月明かりに照らされて出家をためらったり、保管していた?子からの手紙を取りに戻ろうとした。ことが義懐一派の者に露見すると兼家一門は糾弾されて大打撃を受けかねないので、道兼は引き留めて花山寺へ急いだ。
 花山寺に着き、帝は剃髪を済ませた。すると道兼は、「父大臣に、この姿を今一度見せんと思う」と云って、まんまと立ち去ってしまった。帝は漸く事情に気付いたが、最早如何ともし難い。
 帝が失踪したことは間もなく知れ渡り、宮中は大騒ぎになった。義懐と惟成は方々探し廻った末、明け方になって花山寺に至り、法体の先帝を拝した。義懐と惟成は今後を協議した。惟成は「これから、血縁の無い新帝に引き続きお仕えするのは、不体裁で面目の無いことでありましょう」と、共に出家することを提案、義懐もこれに同意した。
 24日、両者揃って出家した。都では兼家が摂政となり、道兼は蔵人頭になっていた。

 先帝は政治とは縁遠い生活を送るようになった。9月16日、延暦寺に登って廻心戒を受けた。然し永祚元年(989年)頃になると、延暦寺と園城寺との間での抗争が激化した。先帝は抗争を続ける天台宗に幻滅し、また先帝の身分が悪用されるのを避けて、下山した。11月1日、惟成は卒去した。その後、先帝は熊野へ入山し、数ヶ月を過ごした。義懐は同行せず、比叡山近くの別所谷飯室に落ち着いて、仏道に専念した。

 都へ戻った先帝は、望みどおりの政治から離れた生活を送っていた。一方宮中では、栄華を極めた兼家も既に亡く、長男道隆遺児の内大臣伊周と五男の左大臣道長が権力を競っていた。
 その争いの最中、先帝は?子の妹儼子を愛し、故為光邸に通い詰めていた。これを伊周は、自身の妾である他の娘に夜這いしていると誤解した。伊周に相談された中納言隆家は、先帝を一つ脅かしてやろうとした。長徳2年(996年)正月16日、隆家配下の者が、為光邸を出た先帝に矢を射かけた。恋敵に矢を射かけるのは、当時よくあることであった。
 然し、隆家は政治状況についての考慮が欠けていた。道長は、この事件を最大限に利用して、伊周と隆家をそれぞれ大宰府と出雲へ配流することを決め、先帝の「宣旨」の形で発した。その上で、移送中に「道長の思し召しで宣旨を改めさせて」、それぞれ播磨と但馬に変更となった。先帝は、敢えて抗弁することなくこの損な役割を引き受けた。そして以降、先帝と道長の仲は良好になった。
 但し、実際の権力の点では道長が遥に勝った。翌長徳3年(997年)4月16日、先帝の家人数十人が道長邸を退出した官吏を襲撃した。翌日、道長指揮の検非違使が先帝の屋敷を包囲し、先帝は下手人を差し出さざるを得なかった。以降先帝は、このような粗相が無いよう注意を払った。

 仏行も、譲位当初ほどではないが行っていた。長保元年には再び熊野に向かおうとしていたが、供奉するものが多すぎて道中或いは熊野に迷惑がかかる、と帝が述べて前日に取り止めになった。長保4年(1002年)、播磨の弥勒寺に行幸して数日滞在した。

 先帝との交流が続く内に、道長の天下はほぼ固まった。先帝を翻弄し続けた政争は、その結果の是非はともかくとして、漸く終息しそうな様相であった。
 寛弘4年(1007年)、先帝は病にかかった。一時は小康を保ったが、翌寛弘5年(1008円)2月5日に重篤になった。6日には道長が、7日には帝が見舞いに訪れた。8日夜、先帝は崩御した。11日より、旧令により五日間、廃朝が命ぜられた。
 葬送は17日に執り行われた。御棺を担いだのは、高貴な官吏ではなく、先帝の家司たちであった。

 7月17日、義懐は世を去った。先帝とは違い、仏法に専念した後半生であった。その死を知った洛内の人々は、これで義懐も極楽往生を遂げたに違いない、と語り合ったという。

 参考文献
今井源衛「花山院の生涯」(1968年 桜楓社)
藤井讓治・吉岡眞之 監修・解説「花山天皇実録」(2007年 ゆまに書房)
山中裕・秋山虔・池田尚隆・福長進 校注・訳「栄花物語」(1995年 小学館)
 


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