2014年1月16日
琉球王国史概説 えんぴつ
貝塚文化
琉球列島では長い旧石器時代を経て、本土の縄文文化の影響を受けながら先史文化が始まる。旧石器時代においては具志頭村で発見された港川人の発見が有名であるが、旧石器人の使用した遺物が出土しないので詳しい生活の様子が不明である。
およそ6600年前のものとされる沖縄最古の土器は爪型文土器で、これは九州で発見されたそれよりも5000年ほど時代が下る。関連する出土物が異なることから、沖縄独自の文化発生とみる説が有力である。もう少し時代が下り、日本で言う中期縄文時代(前2000年頃)には曾畑式土器といわれる九州全域に分布した土器が沖縄でも出土するようになり、九州縄文文化の影響が伺える。この頃の遺跡は海岸沿いの平野部から発見され、漁労中心の生活が想像できる。
中期から後期縄文時代(前800年頃)にかけては面縄前庭式土器という奄美沖縄独自の形式の土器が各地で出土するようになる一方で、この時代の終わりごろには九州から運ばれてきた後期縄文時代の市来式土器が出土する。沖縄独自の文化を築いていた人々が次第に奄美、九州との交流を深めていったことが伺える。この頃には土器や石器、貝殻を利用した生活用具の他にも中国の影響を受けた芸術的な装身具[1]も出土するようになる。大陸からの渡来人や文化の移入が伺える。この頃になると遺跡は小高い琉球石灰岩層の崖下に多く見つかる。水の得やすい崖下の洞窟や竪穴住居に住んで、漁労と狩猟による採取生活を営んでいたことが分かる。
本土で農耕が始まる弥生時代前期(前200年頃)には生活の場は内陸部の広い台地に移り、人々は炉のある竪穴住居に住んでより大きな生活集落を形成する。この時代の特徴に、魚介類遺物の著しい減少が挙げられる。木の実などの植物性食糧の保存跡や黒曜石で出来た石鏃がみつかり、採集や弓矢による狩猟があったことを伺わせるが、農耕を裏付けるこの時代の遺物はまだ見つかっていない[2]。
弥生時代から平安時代半ばにかけての沖縄諸島では生活の場は内陸部の台地から海岸砂丘地帯へと移り、大集落が形成された。網による漁法で海の幸が大量にもたらされ、魚介類を食べた痕跡による貝塚が各地に形成された。沖縄諸島の今までの一連の文化はこうした貝塚から見ることができるため、貝塚文化と呼ばれる。弥生系の土器や鉄器が出土していて、弥生文化の影響を伺い知ることができるが、水稲耕作跡は発見されておらず、弥生文化とは独自の路線を歩んでいる。この時期から本土との交易があったことも明らかになっていて、ゴボウラ・イモガイなどの貝が沖縄諸島北部から九州北部を流れる黒潮に乗って九州にもたらされた。これら九州にもちこまれた貝は貝輪など装飾品に加工されて瀬戸内海、日本海を経由して全国へ広まる。この交易路は「貝の道」と呼ばれ、最も遠いところでは北海道の古墳時代の遺跡からゴボウラの貝輪が出土している[3]。また、唐の開元通宝[4]も出土していて、中国大陸との交流を既に伺える。
グスク時代
前述の貝塚時代に続き、12世紀から15世紀初頭にかけて農耕を主体とした生産経済の時代へと沖縄諸島は移行していく。この時期、海岸砂丘に住んでいた人々は再び琉球石灰岩の台地上に集落を形成するようになった。農耕と集落防御に適しているためである。集落は水稲、麦・栗などの畑作、牛の飼育などによる複合農耕を行なった。
こうした農耕社会は定住化、食糧の備蓄を可能にし、人々の生活が安定して人口が急速に増大した。村落発生当初は貧富、階級の差はゆるやかで、血族集団(マキョ)の主家(
血縁集団から地縁集団への発展は土地と富を蓄積する支配者の登場を促し、支配者間での対立が生まれる。こうして統合を繰り返し、誕生した大域的支配者を按司(あじ)[5]と呼ぶ。按司は城塞としてグスク[6]を築き、武力を背景に各地に小国家を形成した。このグスクが各地に建造されたことからこの時期をグスク時代と呼んでいる。按司たちは政治的指導者としてそれぞれの集落に「
人々は台風、旱魃、四季、疫病など、自然現象を神の成せる業だと考え、これら災害に強い畏れを抱いた。こうした災害への対処法を知らない当時の人々はひたすら神に祈る以外には救いの道はなかったのである。そこで人々は集落の森に
村落の政治は男性が、祭事は女性が担当した。女性はセジと呼ばれる霊力を備えているとされたためである。兄弟はエケリ、姉妹はオナリと呼ばれ、エケリが長い航海や旅、危険な仕事に出るときには、オナリは常にエケリのために祈り、祭事を行った[7]。エケリが按司になると、そのオナリは集落全体の祭祀を司る宗教的支配者、ノロとなった。兄妹が政治、宗教を分担する形の祭政一致の体制がこの時期の沖縄諸島の政治であった。
天孫王統
ここからは琉球王国の作った最初(1650年)の正史『中山世鑑』[8]に書かれた神話の世界から統一政権樹立までの中山王統の移り変わりを見ていくことにする。
天帝の命を受け、阿摩美久という神が下界に下って島々をつくり、そこに二人の男女を住まわせた。二人は三男二女をもうけた。長男は国王の始めとなり、天孫と自らを称した。次男は按司の始め、三男は百姓の始めとなった。長女は大君[9]の始め、次女はノロの始めとなった。天孫は沖縄を国頭、中頭、島尻の三つに分け、住居の建て方、農耕の方法、塩や酢の作り方を教えた。都城を中山に築き首里と名づけた。行政区として間切を定め、それぞれに按司を配置して国を治めた。天孫王統は25代17802年間続いた。当然粉飾された内容であるが、その後の王統との繋がりのため一通り述べておいた。
舜天王統(1187〜1259)
天孫氏につぐ次の王統は舜天王統で、一応史実最初の王統の始まりとされるが、まだ神話の域を脱していない。天孫王統も25代目になると国力が衰え、臣下の利勇という人物に滅ぼされる。これにより国中に兵乱が起こり、治安は大いに乱れる。このような時代に徳をもって政治を行い、人望を集めていたのが浦添の按司、
この舜天王は源為朝の子という伝説[11]があり、『中山世鑑』にもそのように記されている。源為朝は後期平安時代の弓の名手で、鎮西を名目に九州で暴れ、保元の乱でも崇徳上皇方に就いて戦ったが敗れ、大島に流刑となった人物である。流刑となった為朝は、密かに大島を脱出するが、途中で嵐にあい漂着したのが沖縄本島の
舜天王の統治は51年続き、2代目の舜馬順煕王の統治も11年続き安泰な統治であったと言われている。しかし3代目の義本王のとき、飢饉が起こり疫病も蔓延した。不安定な社会情勢のなかで政権を任され摂政となったのが民衆からの人望が厚かった英祖であった。そして災難は収まり、国民の生活は再び豊かになった。義本王は自らに徳がないことを悟って、英祖に位を譲って辺戸で隠居生活を送ったといわれている。
英祖王統(1260〜1349)
英祖は浦添に勢力をもっていた
英祖は即位の翌年、国内を遍く巡視して、耕地の境界を定めて、農民に等しく田畑を分配した。穀物は豊かに実り、租税は滞りなく納められ、国は大いに栄えたという。浦添の地に陵墓を築いて極楽山と称した。この陵墓は現在も「浦添ようどれ[12]」という名前で浦添市に残っており、刻まれた銘文と発掘調査の年代推定に矛盾がないことから、英祖の存在はほぼ確実視されている。1264年には久米島、慶良間諸島、伊平屋島からの入貢があり、1266年には奄美大島からも入貢があったという。港にはこれらの島々を治めるための公館と、貢物を保管するための公倉を建てた。またこの頃、出自不明の禅鑑という僧が那覇にやってきたので、浦添城の西に極楽寺を創建して住まわせたという。これが琉球における仏教伝来の始まりのようである。
英祖の死後、長男の大成王、次男の英慈王と問題なく続いていった英祖王統であったが、英慈王の息子で4代目の玉城王は酒色におぼれ、国を省みなかったために政治が乱れたという。そのために国内は乱れ、中山、北山、南山の三山に分立したと言われるが、これも統一王権が分裂したというよりは、この頃に諸按司勢力の抗争の結果三つの勢力にまとまり始めたというほうが適切である。
玉城王が死ぬと、中山の勢力は急速に衰え、奄美を始めとした諸島の朝貢も途絶えた。世子の西威が幼少で王位を継いだが、母親が実権を握って放漫な政治を行なったために、人々の心も王家から離れ、新しい権力者の台頭を望むようになった。
察度王統(1350〜1405)
そのような人々の声に応えるように登場したのが、貧農から頭角を現した現在の宜野湾市出身の察度という人物である。察度は西威が死ぬと、腐敗しきった王国を立て直すべく西威の世子を廃止、人民の推挙で王位に就いた。その頃東アジアは転換期を迎えており、中国ではモンゴル政権の元王朝に変わり、漢民族が再び主権を回復し明王朝が樹立した。
そして1372年、明からの使者、楊載が中山を訪れて朝貢を促した。察度はこれに応えて、弟の泰期を派遣して冊封[13]を受けた。1380年には南山の承察度が、1383年には北山の
冊封のために中国から派遣される使節がいた。彼らは冊封使と呼ばれ、団長は正使、副団長は副使と称し、総勢およそ400人に及んだ。彼らは琉球におよそ半年間滞在した。琉球側はその間定期的に宴会を開いて彼らをもてなした。近世にこの招宴は「
一方琉球から中国へ朝貢のための使節も派遣されていた。これを進貢使という。進貢使節団は総勢約300人、中国皇帝への恭順の意を示す文書と献上物を携え、2年に一度派遣された。船は9月から10月に中国の福州に入港し、陸路北京へ向かった。旅程およそ3000kmに及び、40日余りを経て12月ごろ北京に到着する。北京では、朝貢国使節団のための施設である会同館に滞在し、皇帝との謁見に臨む。正月の皇帝との謁見の際には、携えた文書と進貢品を献じて、琉球国王への文書と返礼品を拝領した。滞在費用はすべて中国側の負担だった。貿易は福州と北京で、指定された商人によって行なわれた。使節はこの進貢使の他にも、皇帝の即位を祝う慶賀使、国王の冊封を感謝する謝恩使などさまざまな名目で毎年送られていた。
第一尚氏王統(1405〜1469)
察度の跡を継いだ武寧は酒色に耽り政治を省みない人物であったため、佐敷按司の尚巴志にその罪を責められ滅ぼされたという。佐敷は豊かな地域で、与那原など良い港に恵まれていたので、交易で富を蓄えた結果察度王統を凌ぐ力を手に入れたといわれる。尚巴志は与那原港に入った日本商船から鉄を買い求め、農具を作り農民に分け与えて人望を得たという。そうして武寧を討った巴志は父の思紹を中山王として、自らは世子として琉球統一の準備を進めた。これが第一尚氏王統の誕生である[14]。
そのころ、北山では
統一を果たした第一尚氏王統であったが、安泰な道を歩んでいた訳ではなかった。尚巴志が亡くなって以降、尚忠、尚思達、尚金福の三人が順に即位したがいずれも短命な政権に終わった。しかしこの間にはジャワなど南方との貿易の発展や貿易港としての那覇の整備、首里との接続など国力は発展していたと見られる。そして金福が亡くなると世子の志魯が王位を継ぐことになった。しかし、金福の弟布里が、自らこそ正当な後継者と名乗りを挙げ、双方の間に武力抗争が発生した。志魯・布里の乱と呼ばれる。戦火で首里城は焼け、志魯・布里ともに命を落とした。戦乱の結果、王位を継いだのは尚巴志の7男、尚泰久であった。
尚泰久は金福の事業を受け継ぎ、仏教を重んじて寺社を建立したことでも知られる。これは彼の治世に芥隠承琥という臨済宗、南禅寺の僧が来琉したことが大きい。芥隠は仏教の源流を究めたいとかねてから思っており、琉球は小邦でありながら人々は潔くしっかりしているということを聞いて来訪した。尚泰久は彼の法を慕い、話を聞き大いにうなずき、廣厳寺、普門寺、天龍寺を建立した。また、「万国津梁の鐘」をはじめ多くの梵鐘を鋳造した。この万国津梁の鐘は、首里城正殿に掛けられた梵鐘で、琉球が中継貿易によって世界の架け橋になっていることを誇るその銘文から名が付けられた。大交易時代の発展の象徴である。また海外交易にも力を注ぎ、貿易、財政の要職である
しかし尚泰久の治世も安泰というわけではなかった。勝連按司として勢力を誇っていた阿麻和利は首里城を攻め落とし、自ら王位に就こうという野心を抱いていた。それに気づいた泰久は娘を阿麻和利に嫁がせて、忠臣の護佐丸を
第二尚氏王統の開始
護佐丸・阿麻和利の乱を平定した尚泰久が亡くなり、その第3子八幡王子が王位をついで尚徳となった。長男と次男の実母は謀反を起こしたとされる護佐丸の娘であったので、護佐丸の血がない彼が推戴されたのである。尚徳は9年間の在位中、11回中国へ進貢するなど、海外諸国と積極的に貿易を行なった。若くして王位に就いた尚徳は、尚泰久のころから財政・外交を任されていた金丸ら要人の忠告を聞き入れず、喜界島遠征を強行した。国王自身による離島遠征は尚巴志以来のことで、一応は成功を収め喜界島を領土に加えたものの、まれにみる暴君でもあり、自らに従わないものは厳罰し、罪のない多くの人々を苦しめた。金丸も見限って自らの領地である内間村に隠居してしまった。国内は大いに乱れ、悪人が蔓延り善人が虐げられる社会となった。王は失意のうちに病死した。享年29歳と早逝であった。尚徳の死後、家臣団の間で会議があり、次の王が審議された。世子をそのまま継がせるという意見が出されたが、その場に居合わせた
尚円王が亡くなると、世子尚真はまだ幼いという理由で群臣の推挙により弟の尚宣威(1477)が即位した。しかしその年2月、新しい琉球国王の即位の可否を占う神事において迎えられる神である陽神キミテズリの神託で、その場にいた尚真が祝福されたという。この神託は尚真の母、オギヤカの陰謀によるものという説がある。とにもかくにも尚宣威はわずか半年で退位、尚真(1477-1527)が即位する。尚真は中央集権的な支配体制を整えるため、各地に割拠する按司を首里に住まわせた。これを集居という。また地方には按司掟という役人を派遣して領地管理を任せた。諸按司には旧領からの相応の収入、得分権を保障し、版図は王府の支配下に置いた。地方の行政区画を整備し、現在の市町村にあたる区域を間切、字にあたるそれをシマといった。按司には位階が与えられ、身分に応じてハチマチ[19]の色、かんざしの種類が決められた。神女職を王の姉妹を最高神女とする
尚真王は琉球王国の支配権の拡張も行なった。この頃宮古・八重山諸島方面では、石垣島の大浜地域を拠点とするオヤケアカハチの勢力が拡大し、周辺諸島に統一政権を築こうとしていた。これに対し、宮古島の首長[20]であった
仲宗根豊見親は、オヤケアカハチの乱の平定後、その勢いで与那国へも軍隊を派遣した。琉球の最も西側の領土を確保するためである。この頃の与那国は女性首長のサンアイ・イソバが4人の弟を従えて島を治めていた。上陸した宮古軍は、最初各村の首長を始め多くの民衆を殺戮、火を放ちながら進撃してきたが、それに怒ったイソバに撃退されたという。その後1510年、琉球王府は与那国を強引に八重山の行政組織に組み込んだ。しかしイソバのあとに与那国の実権を握っていた
大交易時代
今まで紹介してきた時代の発展を支えていたのは、中国や東南アジア諸国との交易であったことはいうまでもない。いつごろから各国と貿易を開始するようになったかは分かっていないが、察度が明に入貢する1372年以前から私貿易が行なわれていたことは確かなようである。察度の入貢以後16世紀半ばに掛けては、琉球が東南アジアで買い入れた商品を日本で売り、日本から日本刀や扇、漆器などを買い入れて中国や東南アジアに売って利益を上げる中継貿易で大きく発展を遂げた時代であったため、「大交易時代」と呼ばれる。ここでは大交易時代の各国との貿易状況をみていく。
中国では、1368年に明が成立して元朝を退けると、伝統的な中国を中心とした国際秩序、華夷思想の回復を目指し、近隣諸国に入貢を呼びかけた。中国人の海外渡航を禁ずる海禁政策を敷いて私貿易をなくし、公貿易のみを行なうようにした。これが琉球にとっては中継貿易で利を得る好機となったのである。先に述べたように琉球は明からの招諭に積極的に応じ、三山が競って入貢した。琉球は進貢貿易に大変熱心であったので、他の国々に比べて特に優遇された。こうした中国・朝鮮など東アジア諸国とのパイプ役は、久米島にいた中国帰化人が担っていたようである。
日本は琉球にとって重要な交易国で、特産品の乏しい琉球は、中国への進貢品や交易品の多くを日本から調達した。そして日本は中国や東南アジアから仕入れた品物を売りさばくための市場でもあった。琉球から日本への輸出品は中国産の生糸・絹織物、南方産の皮革・香料などで、日本からは日本刀・漆・扇・漆器・屏風・銅を輸入した。琉球から日本へ渡航し、貿易をすることをヤマト旅と称した。ヤマト旅には、室町幕府に使節を送って交易する形態と、堺、博多など民間商人と取引をする方法とがあった。琉球からもたらされた品々は上流階級の間で重宝され、幕府も琉球奉行をおいて貿易を奨励した。幕府への文書は東アジア地域の外交文書に使用された漢文ではなく、琉球語の表記がしやすい仮名書き文が使用された。これは琉球が、日本を中国や東南アジア諸国と同様の外国としてではなく、同族の住む地域として考えていたからではないかといわれている[21]。15世紀後半になると、幕府権力が弱体化して応仁の乱により日本国内の治安が乱れた。海上では倭寇の活動が活発化し、琉球船は次第に日本から遠ざかった。代わりに堺、博多、坊津などの日本商船が琉球にやってきて貿易をするようになった。琉日間の交易でパイプ役の役割を果たしたのは、日本からやってきた僧侶であった。彼らは琉球に永住し仏教や文字を伝える文化使節の役割を果たすだけでなく、王府に登用され対日外交に大きく貢献した。先の項で紹介した芥隠がよい例である。
琉球と朝鮮との交流は、1389年[22]に中山の察度が高麗に使者を派遣したことに始まる。察度は倭寇に捕えられていた朝鮮人を返還し、南方産の蘇木[23]、胡椒を献上した。これに対し高麗から返礼の使節が派遣され、両国の交易が行われるようになった。琉球から朝鮮への経路は奄美諸島を北上し、九州西岸から対馬を経由して釜山に至る航路であった。尚巴志が派遣した
東南アジアは、琉球の古語で
このように琉球は、東アジア世界に君臨する中国皇帝との冊封関係を後ろ盾にしつつ、明の海禁政策を背景に中継貿易で大きな発展を遂げた。しかし16世紀に入ると、ヨーロッパ諸国は大航海時代に突入、ポルトガル、スペイン船がアジアに進出するようになった。中国でも海禁政策が緩み、中国商人が盛んに商業活動を繰り広げるようになった。さらに16世紀半ばには、日本商船も東南アジアに進出するようになり、東南アジア交易に国際競争の波が押し寄せてきた。琉球にはこの国際化を乗り切る力はなかった。やがて琉球船は東南アジアの表舞台から姿を消した。
島津の侵入
東南アジアからは手を引いた琉球王国であったが、中国との冊封・朝貢関係は保たれており、日本商船との交易も引き続き行なわれていた。そのため王国体制の存亡に大きく関わることはなかった。しかし、これまで善隣友好国として交流してきた島津氏の態度が、琉球貿易の独占と琉球列島への領土的野心に変わってきたことで王国体制に危機が生じ始めるのである。
応仁の乱以後、特に大内氏による勘合貿易が断絶した後は、堺・博多を中心とした日本商船が頻繁に来琉するようになったのは既に述べた通りであるが、その際これらの商船は薩摩の領海を通過する必要があり、その許可を島津氏に求めなければならなかった。島津氏も領海権の侵犯を防ぐことを名目に、王府に対して幕府を通じ島津の印判のない商船との貿易は認めないように求めてきた。この印判は有料で発行されたので島津氏の金策にもなったのである。多くの日本商船との貿易を望む琉球側からすれば、島津氏の要求とはいえすんなり飲み込むわけには行かず、こうした琉球側の態度が島津氏との間に軋轢を生み、島津氏の琉球に対する友好関係を強圧的立場に一変させるきっかけとなった。
島津氏の九州制覇の野望は、1587年、全国平定を進めていた豊臣秀吉の武力の前に破れ去った。九州を支配下に置いた秀吉は、琉球に入貢を強要し、以下に見えるように日本国内同様の扱いをした。1582年の本能寺の変の後、秀吉が中国大返しで姫路城に戻った際、毛利氏と講和してしまったため、
1591年には、島津氏が琉球の支配権を確固たるものにするため、朝鮮侵略の軍役を秀吉の命令と称して琉球にも求めてきた。その内容は「薩摩・琉球をあわせ15000人の軍役であるが、琉球は戦闘経験がないので軍衆を免除する。かわりに7000人の10ヶ月分の兵糧米と、名護屋城建築の負担金の供出をすること」というものであった。ところが、この時期の琉球は、尚元王の跡を継いだ尚永王(1573-1588)が30歳の若さで亡くなり、嗣子がいなかったので第二尚氏の分家である
窮地に追い込まれた琉球は、三司官[26]の
1598年、秀吉の病死をもって朝鮮出兵は終了する。朝鮮、明、日本の三国ともに衰退、疲弊する結果となった。豊臣政権の弱体化に伴い徳川家康が実権を握り、1603年に江戸幕府を開いた。1602年、陸奥国・伊達領内に琉球船が漂着した。翌年、家康は島津氏に命じて琉球人を送還した。もし琉球人が死亡することがあれば、琉球人1人につき島津氏の家臣5人を成敗するとの厳命が下されていた中での送還だった。家康は島津氏を通し、琉球国王に幕府への聘礼[27]を促した。家康は海外貿易に積極的で、琉球を幕府に従属させることで、明との貿易再開交渉に利用しようとしたのである。琉球側はこの意図をみてとり、聘礼には応じなかった。1605年、平戸に漂着した琉球船が送還されてきたときも同様の態度を取った。琉球はあくまでも明との冊封・朝貢関係において王国体制を保とうとした。
一方、島津氏は関ヶ原の戦いで西軍に加担し1602年にその罪を赦され旧領を安堵されたばかり、その地位を回復するためにも琉球の説得は必要不可欠であった。さらに島津氏は、薩摩・日向・大隅の平定以後、九州制覇を巡る秀吉との戦いや朝鮮出兵、関ヶ原の戦いと相次ぐ戦乱で破綻した財政の再建、分散していた内部権力を藩主家久の元に再編するという課題も抱えていた。また幕府は平戸の松浦氏にも琉球と交渉し、聘礼問題を解決するよう命じていた。島津氏はこれまで築き上げてきた琉球に対する特権を失うことを恐れた。こうした問題を解決するために企図されたのが大島出兵であった。これによって版図を拡大し、幕府の信任を得、藩財政の再建と家久による権力統一を図ろうとした。幕府は当初、明を刺激しないように琉球への武力行使は極力避けていたが、硬直した状況を打開するため、1606年に家康は伏見城で島津家久に謁見、これまでの琉球の非礼を聞き、大島出兵要求を受け入れた。これにより大島出兵に反対した家臣団も従わざるを得なくなり、結果的に権力集中が図られた。
だが大島出兵はすぐには実行に移されなかった。同年、尚寧を中山王に封ずるための冊封使が来琉していたため、彼らに日明貿易の復活交渉の手がかりを期待したからである。しかしこれも不調に終わり、1609年2月21日、島津義弘は尚寧に対して日明貿易復活を斡旋すれば出兵を中止すると最後通牒を伝えた。当然応じられることはなく、3月上旬、島津氏は樺山久高を総大将に、約3000の兵と100隻あまりの軍船を琉球に差し向けた。鉄砲隊を主軸とし戦に長けた薩摩軍は、奄美大島・徳之島・
戦後処理と日本の対明和平交渉
島津氏は、家康から琉球の支配権を与えられると琉球の検地を行い、1611年9月、奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島の5島を島津の領土とし、沖縄諸島以南を琉球王府の領土とした。琉球の総石高は8万9000石余りで、5万石を王家の収入、残りを家臣団への知行として配分した。島津への貢物を
島津の侵攻の翌年1610年は、琉球の進貢の年であった。島津氏は
江戸上りと薩摩支配下の進貢貿易
琉球は国王の代替わりごとに、その就任を感謝する使節として謝恩使を、幕府将軍の代替わりごとに、これを祝する使節として慶賀使を幕府に遣わした。幕藩体制国家への服属儀礼であった。使節団は100人程度、旅程はおよそ300日で、その間に日本文化との触れ合いや学者・芸術家との交流もあり、琉球文化に大きな影響を与えた。江戸滞在期間は1ヶ月ほどで、公式行事として将軍に対する御礼の儀、奏楽の儀、辞見の儀などがあった。この使節団のことを「江戸上り」と称して1644年から1850年の間に17回行なわれた。その際一行は「異国風」を装わされ、島津氏に伴われて行くのが慣わしとなった。
幕府にとっては琉球が「異国」であることを強調することでそれを従える徳川家の権威を高める役割を果たすことになり、薩摩藩にとっても、琉球の支配を任され、江戸上りの使節を伴うことで幕藩体制内における島津氏の地位を高めることが出来た。島津氏は、琉球が中国の朝貢国として朝鮮についで2番目の席次を与えられていることを理由に、琉球を従える島津が幕府内においてそれ相応の官位がないと琉球の支配に不都合が生じるとして官位昇進を申し出て、受け入れられた。
一方の琉球にとっては「異国」であることを演出させられることによって、中国への進貢を継続させることが可能になり、王国としての体面を保つことが出来た。「江戸上り」は幕藩体制に組み込まれた中、王国としてのアイデンティティーを主張するための重要なセレモニーだったのである。進貢貿易が大幅赤字に転じ、薩摩からの借財を重ねながらも中国への進貢、幕府への使節をやめなかったのはそのためであった。
島津氏の琉球侵略の目的が、大島分割による藩財政の建て直しにあったことは既に述べたとおりだが、その後島津氏の財政は好転することなく、累積債務はふえるばかりであった。江戸の島津藩邸の火災もこれに拍車をかけた。そのため藩主島津家久は、年貢の増徴、家臣団への徴収金賦課などで歳入増加を図ったが、慢性的窮乏を立て直すに至らなかった。それどころか、強引な財政政策に対して家臣団から不満が募った。
こうした状況下で取られた窮余の策が、家臣川上忠通の提案した琉球の進貢貿易を掌握しその経営に乗り出すこと、進貢貿易の名を借りて中国から生糸を買い入れて大坂市場で売りさばき、そこから上がった利益を財政補填に当てるという方策であった。当時、中国で買い入れた品物は「唐一倍」といわれ、国内ではその倍以上の値段で売れたという。
1621年、琉球では尚寧に代わって親日派の尚豊(1621-1640)が王位に就いた。尚寧には嗣子がなく、5代尚元王の血を引くものから、薩摩の息が掛かった尚豊が選ばれた。これ以後、琉球国王の即位は薩摩の承認を得ることが慣わしとなった。明との関係も改善し、10年1貢から5年1貢に改められ、旧来の2年1貢に復する道もひらかれていた。島津氏は1631年、薩摩仮屋を那覇に設けて正式に在番奉行をおき、鹿児島には琉球仮屋[30]をおいて本格的貿易経営に乗り出した。当初、島津氏による進貢貿易は必ずしも順調とはいえなかったが、1633年に2年1貢が許されてから次第に利益も上がるようになり、琉球の進貢貿易は島津氏に掌握された。琉球側は、島津氏が指定した生糸買い入れの要求に対し、粗悪品や水濡、あるいは鉛を混入して重量を誤魔化したものを仕入れてくるなどして抵抗した。また、琉球を知行国として公式に将軍から与えられた薩摩藩は、検地高を上積みして年貢の増徴を図ることで財政策の一端としていた。
琉球王府財政は、年貢のほか砂糖・ウコンなどの専売商品で賄われた。この専売制は尚豊王の次の尚賢王(1641-1647)の時代に始まった。砂糖やウコンを販売して薩摩からの借入額を返済し、残った利益で中国への貿易品を買い入れた。しかし、王府財政は年々逼迫し、貿易資金の大部分を島津氏や薩摩藩の御用商人から借りなければならなかった。鹿児島の琉球館には
中国での商取引は、福州の琉球館を拠点に行なわれた。中国商人へは昆布[31]・あわび・フカヒレなどを売り、生糸・反物・漢方を仕入れた。しかしその大部分は借入銀の返上物として島津氏・薩摩藩に返さなくてはならなかった。薩摩藩はこうして利益をあげ、琉球は王国としての体面をなんとか保った。
しかし、琉球の進貢貿易による経済的利益はそう長くは続かなかった。18世紀後半には大幅赤字に転じ、進貢貿易の意義は利益を上げることより、冊封・朝貢体制を維持することに重きが置かれるようになった。
近世琉球への転換
島津の侵入によって、「異国」のまま幕藩体制に組み込まれていった琉球は、王国としての主体的な政治を見失い、約半世紀もの間混迷した時代を送った。そんな混迷を象徴するのが
こうした時代に登場し、尚質王の摂政として新たな政策を打ち出し、古琉球から近世琉球への転換をはかったのが
第一の政策は質素倹約であった。王家をはじめ、一般民衆に至るまで贅沢を禁じ、虚礼を廃止して生活が華美になることを戒めた。王府の諸行事も簡素化し、無駄な財政支出を抑えた。第二に風紀の粛清を行なった。第三に、古琉球的な古い伝統行事を改めた。聞得大君を王妃の下位に位置づけ政治的影響力を弱め、行政から女官がつかさどる祭事を遠ざけた。また国王の久高島参拝[32]をとりやめ、本島から拝礼する遥拝形式に改めた。また、民間で流行していたシャーマニズム的信仰の「ユタ」を風紀が乱れるとして厳しく取り締まった。第四に役人の不正取締りと農村の復興を図った。当時、過重な夫役の負担と役人による搾取で農村の疲弊は深刻な問題であった。そこで羽地は夫役を軽減し役人による不正を厳しく取り締まり、開墾を奨励して百姓にも土地の所有権を認め、生産意欲を向上させるように努めた。第五は諸芸の奨励であった。とくに、若い
薩摩支配のもと、このような日本寄りの大胆な政治改革を主導していった朝秀の政治思想は「日琉同祖論」といわれ、琉球人と日本人とは元を辿ると同じ祖先であるという思想に基づく政治改革であった。先に紹介したように、朝秀の書いた歴史書『中山世鑑』では、琉球最初の王朝を開いた舜天を源為朝の子孫として、日本との融和を図ろうとしていることにその姿勢が現れている。他にも国王の久高島参詣を廃止させるのは、琉球の人々の祖先は日本からわたってきたものであり、五穀はそれに伴ってやってきたものであるからどこで五穀豊穣を祈っても同じであるというように、琉球独自の古いしきたりを破り、新たな政策を実施していくうえでの理論付けとして日琉同祖論の思想を意味づけていた。このように羽地の政策は保守派の批判をかわしつつ展開され、その後の為政者へと受け継がれていった。
尚質王以後、尚貞王(1669-1709)、尚益王(1710-1712)の治世を経て、尚敬王(1713-1752)の時代に三司官に就任した蔡温は、羽地朝秀の政策を受け継ぎ近世的な民衆支配制度を確立し、諸政策に反映していった。蔡温は、察度王統時代に中国から渡来した帰化人の子孫で、若い頃中国に留学して儒教思想、地理学を学んだ。王府に仕えるようになると尚敬王に重く用いられ、政治家としての非凡な才能をいかんなく発揮し三司官の地位に上り詰めた。
蔡温の行なった政策は、基本的に羽地朝秀の改革路線を継承するものであった。蔡温は琉球の立場を「薩摩のおかげで現在の琉球があるのであって、その指導に従うことこそが琉球の発展する道である」と規定し、島津氏との主従関係を明確にした。島津氏による琉球支配が士階層から民衆に至るまで、まだ徹底していなかったことを意味していた。それゆえ島津氏の王府への締め付けも厳しかったので、「幕藩体制の異国」として独自国家を存続させるには島津氏との主従関係を明確にすれば都合が良かった。
蔡温の取り組んだ主な政策は、農村地域の活性化、山林資源の確保、都市地域の士階層の就職難の解消、王府財政の整備であった。特に農業こそ国を支える基盤として、農村経営には力を入れた。農業の担い手である百姓が都市に移り住むことを禁止し、各村に諸役人・農民が守るべき道徳規範・生活心得などが記された『御教条』を配布し儒教思想による意識革命を図った。この御教条は各間切・村で毎月1日、15日に読み合わせ会を行なう徹底ぶりであった。18世紀半ばに『間切公事帳』を発布し、地方職人の職務を明確にした。さらに、農業の手引書である『農務帳』を配布して、農業生産の拡大に努めた。蔡温自身も各地域を巡視して、河川の改修工事を率先して指導するなど治水・植林事業を積極的に推し進めた。
都市地区では、士階層の人口増加が問題となっていた。士の就職難を緩和する目的で士が商工業につくことを奨励し、税制面でも優遇を行なったので那覇では商業活動が活発になった。蔡温がもっとも力を注ぎかつ後世になって高く評価された政策が造林と山林保護であった。蔡温は、建築資材や燃料資源の供給地としての森林を治水・灌漑の面からも重要であると考え、植林・山林管理方法の規定を定めてその指導を徹底した。そのため、山林管理が及ばない地域には他村からの寄百姓(移住)で新村を作らせ、山林の管理を任せた。また、財源確保としてウコン・砂糖の専売制を強化し、1735年には、貢納品以外の砂糖を農民から安値で買い上げる買上糖の制度もはじめた。このように、農村と生産者である百姓を完全に王府の統制下に置くとともに、士階層の商工業への転職を奨励することによって経済の活性化を図った。蔡温はほかにも、那覇港をはじめとする各地の港湾の整備、道路・橋梁改修などの土木事業、そして教育などに力を入れた。三司官を勤めながら多くの著作物を残し、後の政治家に大きな影響を与え、「三司官は4人いる」と言わしめたほどであった。
こうした蔡温の改革は、何の抵抗もなく円滑に行なわれたわけではなかった。和文学者の平敷屋朝敏らによる王府批判の文書が薩摩役人に届けられる平敷屋・友寄事件も発生したが、平敷屋らは国家転覆を図る謀反人として処刑された。一味十数人が斬首される近世まれに見る過酷な事件であったが、いまだに謎が多い事件である。
蔡温以後、尚敬王の跡を継いだ
列強来航
19世紀ヨーロッパの産業革命は、大きな利潤を追求するための大規模工場建設と海外への市場拡大を進める資本主義世界の拡大をもたらした。原料供給と商品販売市場拡大のため、欧米列強は激しい植民地獲得競争を展開し、その波は日本・琉球にも押し寄せていた。
19世紀になると、琉球近海にも頻繁に欧米船が姿を現すようになり、王府はその対応に追われた。異国船への対応は
19世紀半ばになると、英・仏船の来航目的が和親・貿易目的に変わったことで状況は一変した。彼らの本当の狙いが日本への進出にあったので、琉球はその防波堤としての役割を求められた。しかしこのような事態の変化に対し、王府は明確な対応策を打ち出すことが出来ず、薩摩を頼るのみであった。神仏の力により、国難からのがれようと歌・三線や踊りを禁じて、役人を社寺や御嶽に詣でさせて国家の安泰を祈らせる法令を出すなど、神頼みであった。
1842年、清国とイギリスとの間に南京条約が結ばれ、欧米諸国は競って中国市場に乗り出した。その矛先は、門戸を固く閉ざしていた日本にも向けられるようになる。
琉球に最初に通商を求めて来た国はフランスだった。1844年、軍艦アルクメーヌ号で遭難を装い那覇に来航してきた。琉球が江戸幕府の鎖国体制下にあったことを承知していたのである。艦長のデュプランは、船舶修理と食糧補給を口実に琉球と接触、巧みに和親と貿易を求めてきた。琉球は島国で大国と通商するほどの資源・産物がないことを理由に申し入れを断ろうとしたが、デュプランは、回答は後からやってくる艦船に申し渡すようにと、宣教師フォルガードと清国人通事を残し中国へ向かった。アヘン戦争でイギリスに敗れ、開国を余儀なくされた清国と通商条約を結ぶためであった。
フランスは清国と通商条約を結ぶと、1846年に再び琉球に艦船を派遣した。司令官のセシルは三隻の艦船を沖縄島北部の運天港に集結させた。運天港を海軍兵站基地及び通商基地としようとしていたことが伺える。そこで正式に前回の要求に対する回答を琉球側に要求するとともに、和親・貿易に加えて布教も要求した。琉球はあらかじめ準備していた交易拒否の返答を述べたが、フランス側は琉球が黒糖・焼酎・硫黄などを産出し、中国や日本と交易していることを見抜いており、その回答に納得しなかった。それどころか、王府に対して薩摩支配から逃れるためにも、ヨーロッパ諸国との交易で経済的自立を図るべきではないかと説得してきた。しかし、交渉は進展せず、セシルもフォルガードと中国人通訳を引き取り長崎へ向かったため問題は拗れずに済んだ。
琉球に押し寄せてきた外圧の対処方法を、薩摩は老中・阿部正弘のもとに調所広郷を遣わして、「海外貿易は国禁ではあるが、フランスの要求を拒み、戦乱にでもなったら薩摩が危機に陥るだけでなく、日本にとっても大変な災いとなる。この際、琉球に限り通商を許すのが得策だろう。琉球を異国として考えれば開国も矛盾しない」と建言させた。これに対し阿部は、「もとより琉球は異国なので、その政策についてもいちいち幕府の支持を受けることなく薩摩の判断に任せる、止むを得ない場合はフランスに限って交易を許しても良い」と答え、この問題を藩主斉興の世子で、開明的な考えを持っていた島津斉彬に一任した。西洋諸国の日本進出を琉球で食い止め、日本国内の安寧を保とうと考えたのである。斉彬はこの「琉球防波堤論」を盾にフランスとの交易を企てていて、幕府からの許しをもらったのは大きな成果であった。後は琉球の説得だけであったが、王府はフランスと貿易することで島津との関係が中国に知られ、進貢に支障をきたすのではないかと恐れ消極的であった。琉球にとっては王国体制の維持のみが一大関心事なのであった。結局この問題はフランスの国内事情により進展せず、うやむやにおわった。しかし、引き続きイギリスが交易を求めてくるなど、欧米諸国のアジア進出の波は確実に琉球に押し寄せてきた。国元の薩摩では、斉彬が政敵の調所、父斉興ら保守派を失脚させて藩主となり、積極的外交政策を推し進めるようになった。
1853年5月、東インド艦隊司令長官のペリーは日本との交渉の前に、琉球に来航した。アメリカは、琉球が日本の支配下にあることを十分に察知していて、日本との交渉が失敗した場合には琉球を占領する計画であった。そのことによって、窮乏した琉球の農民を薩摩の支配下から解放し、アメリカの経済力で生活を向上させることが出来るとさえ考えていたようだ。
一国も早くペリーに立ち去って欲しい琉球王府の外交戦術は、琉球が産物にとぼしく貨幣も流通しない弱小国であることを強調し、相手の必要な食糧や薪炭を与え早々に立ち去ってもらうことであった。ペリー艦隊への対策には、架空の王府組織が作られた。現地対策本部として「泊詰」、「那覇詰」が置かれ、ペリーとの交渉に当たらせた。彼らはペリー側の意見を聞くだけで何の決定権も持っておらず、そのつど「地方官」に伺いを立てた。この対応に痺れを切らしたペリー側が「地方官」への面会を求めると日程調整に時間をかけ、ようやく「地方官」に引き合わせた。そして「地方官」もそのまた上司である「布政官」に伺いを立てなければならないと答え、のらりくらりと交渉を引き延ばした。ペリー艦隊からの食糧の注文に対しても、貧困を理由に半分程度しか提供しなかった。こうして王府は時間を稼ぎながら対策を練り、ペリー艦隊を琉球から立ち去らせることに腐心した。結局、琉球側はこの架空王府を最後まで貫き通した。ここまで欧米諸国との交流を避けたのは、日清両属の王国体制を崩さないためである。ペリーはしばらく滞在した後小笠原に行き、父島に貯炭地を設け那覇に戻ってきた。1853年7月に幕府への開国要求の準備を整え、江戸に向けて出発した。
浦賀に来航したペリーは大統領親書をおしつけ、武力を背景に開国を強く要求した。幕府は対策を打ち出せないまま親書を受け取り、翌年回答することで日本を去らせた。那覇に戻ったペリーは琉球に対し、貯炭地を設けさせること、乗組員に尾行を付けさせないこと、乗組員に必需品を自由に売ることなど、有無を言わさず認めさせ、香港に向かった。その後ペリーは日本に戻り日米和親条約を締結する。こうして日本の開国に成功したペリーは、琉球とも、米人の厚遇、必要物資と薪水の供給、難破船員の生命財産保護、米人基地の保護、水先案内の提供を規定した琉米修好条約を結んだ。琉球はオランダ、フランスとも同様の条約を締結した。
江戸幕府は、こうして欧米諸国の圧力に押し切られ鎖国政策に終わりを告げた。幕府は崩壊し、日本は近代国家形成への道のりを急いだ。その道程には琉球王国の解体が内包されているのであった。
琉球処分
1866年8月、開国によって目覚めた日本が新政府を誕生させていた頃、琉球では清朝から冊封使を迎え、尚育王(1835-1847)に代わって尚泰王(1848-1872)を即位させる式典を行なっていた。これが琉球最後の国王の冊封になるとは、誰一人として知る由もなかった。西欧諸国に侵食され、弱体化した清国にとっても、大国の威信を示す最後の大見得であった。
1871年、廃藩置県が実施されると、琉球はひとまず鹿児島県の管轄下に置かれた。琉球はこのような日本国内の変革も、単なる政権交代によって生じた出来事で、王国存亡そのものには大きな影響はないだろうと高をくくっていた。
1872年、明治政府は鹿児島を通じて入朝を促した、王府は、これを維新政府のための慶賀使派遣の要請として受け止め、伊江王子朝直を正使に、宜湾親方朝保を副使として東京に派遣した。明治政府は、琉球からの使節に対し、「尚泰を藩王となし、叙して華族に列す」旨を宣告した。琉球藩の設置であり、いわゆる「琉球処分」の始まりだった。首里政府は、琉球の管轄が薩摩から中央政府に移管しただけのことだと考え、ことの重大さに気づいていなかった。
尚泰を藩主ではなく藩王としたのは、琉清関係を考慮してのことであった。日本の一部となれば冊封・朝貢関係はなくなってしまうためである。そこでいったん琉球を藩として、次の廃藩置県で県政へと移行しようとしたのである。そんな中で、日本にとってこの対清問題を解決する格好の事件が発生する。
1871年暮れ、那覇に年貢を運んだ後帰路についた宮古船が台風で遭難、台湾に漂着した。そこで乗組員66人のうち54人が地元住民に殺害される琉球人の台湾遭難事件が起こった。明治政府はこの事件を利用し、琉球の日本領有と台湾への進出を企てた。そこで琉球は国内領土であるという建前を作っておくことが必要となり、そのために先の琉球藩設置が行なわれたのである。
政府は、清国に琉球人の台湾遭難事件を問いただしたが、清国は「台湾は未開の蛮地で、中国の政令、教化の及ばない化外の遠地である」として取り合わなかった。明治政府はこれを盾に、1874年、陸軍中将西郷従道に命じて、3600名余りの兵を台湾に差し向けた。これに対する清国からの抗議に対し、政府は先の清国の回答を言質として強引に交渉を進めた。結局、イギリスの調停で清国に50万両の賠償金を支払わせることで和議を成立させ、「台湾の先蕃が日本国属民を殺害したので、日本国政府はこの罪をとがめて彼らを征伐したが、これは人民を守るための正当な行動であった」という事件収拾のための条文を交わすことに成功した。ここにいう「日本国属民」とは琉球人のことで、政府は清国から琉球人が日本人であるという言質を引き出したのであり、これによりその領土も必然的に日本の一部であるという一方的解釈を打ち出すことが出来た。政府は台湾の進出こそ出来なかったが、琉球が日本の領土であることを清国政府に認めさせることに成功した。
明治政府は「琉球処分」の方針を固めると、1875年1月、琉球藩の高官を上京させ、中国の琉球に対する先の条約を理由に、日本政府の琉球に対する意向を伝えた。すなわち、琉球の王国制度を解体し、日本国に属する沖縄県を設置することであった。さらに同年7月、政府は松田道之を処分官として琉球に派遣し、清国との冊封・朝貢関係を廃止し中国との関係を一切絶つこと、新制度や学問を研究させるための官吏を派遣すること、日本の一般刑法を施行するなど藩の政治制度を日本の府県制度にならって改めること、これらの改革を混乱なく実施するため鎮台分営を設置することなどを要求した。
これを受けた首里王府は、国家存亡に関わる大事件として認識し、これまでの日清両属的な状態を保持してもらうよう強く嘆願したが、松田の強硬な姿勢は変わらなかった。
松田らの強い説得工作によって、王府内の官僚にも賛成派(開化党)があらわれ始め、反対派(頑固党)と意見を戦わすまでになった。だが、官吏の多くが清国との関係を絶ち日本に帰属すると、自分の生命・身分・財産が危うくなるのではないかと恐れていたため、琉球の将来像を描く積極的な論争は望むべくもなかった。彼らにとっては琉球の発展や民衆の生活よりも、みずからの保身こそが重要問題だったのである。松田は二度の渡琉で王府を説得したが、対応はかたくなで埒が明かなかった。その間、琉球では盛んに清国に使者を送り救援を求めていた。
明治政府は、説得による「琉球処分」が困難であることを知ると、藩王の逮捕権を織り込んだ武力を背景とした処分案を決定した。1879年3月、政府の強硬な処分案を受けた松田は、軍隊と警官を率いて来島し、首里城内で尚泰代理の今帰仁王子に、琉球藩を廃し沖縄県を設置する廃藩置県を通達した。これにともない、藩王尚泰は華族として東京に居住を命じられ、琉球の土地・人民及びそれに関するすべての書類を政府に引き渡すことになった。もちろん松田は、このときには反対派の嘆願には一切耳を傾けず、処分を断行した。琉球は強権的に日本の1県に位置づけられたのである。
こうして、第二尚氏は19代410年で滅び、察度王統から500年余りも続いた「琉球王国」は終わりを告げた。