2015年2月13日
志賀越道  月瀬まい


 志賀越道とは
 志賀越道とは、荒神口を起点とし、白川・山中を経て標高420mの志賀峠を越え坂本に至る古道。山中越・今道越などとも呼ばれる。荒神口は中世には「今道ノ下口」と呼ばれた。北国から京都に入る主要路線であった。

 志賀越道の歴史
 志賀越道は天智天皇の志賀宮以来開かれた古道である。
 「日本後記」弘仁六(815)年4月12日条に嵯峨天皇が崇福寺を経て唐崎に御幸したとあり、このときに志賀越道を通過した。これが記録に残る最古の通過例である。また、「志賀の山越」は歌枕として使われており、「古今集」の紀貫之の詞書に「しがの山ごえに女のおほくあへりけるによみてつかはしける」と記されているほか、「後拾遺集」には橘成元の「さくらばなみちみえぬまでちりにけりいかがはすべきしがのやまごえ」の歌が載っている。また西行が「春風の花の吹雪にうづまれて行きもやられぬ志賀の山越」と、定家が「桜花散らぬ梢に風ふれて照る日もかをる志賀の山越」と詠んでいる。
 延暦寺にとって志賀越道は重要であったようだ。久安三(1147)年7月15日、延暦寺衆徒が洛中に乱入するとの風聞があったときにはこの道に兵士が派遣されている。また延暦寺がこの道の保全に配慮していた。また延暦寺が戦乱に巻き込まれたときにはこの道に軍勢が殺到した。建武三(1336)年6月には延暦寺に籠っていた後醍醐天皇を討つため足利尊氏方の園城寺衆徒がこの道の攻撃を担当しており、永享六(1434)年10月室町幕府と延暦寺が戦った際には、幕府はこの道の防備を検討した。
 また京都から日吉大社を参拝する際、この道が用いられた。応永元(1394)年9月11日に将軍足利義満が日吉大社を参拝したときにはこの道を通っている。
 戦国時代に入ると、東海道よりも距離が短いことから軍事的重要性が高まった。長享元(1487)年と延徳三(1491)年の二度に亘って行われた六角征伐に際しては、一部の軍勢がこの道を通って近江へ向かっている。また、志賀越道の沿線、北白川には大永七(1527)年細川高国によって瓜生山城が築かれた。
 さらに、織田信長は岐阜と京都を結ぶ最短経路の一部として志賀越道を重視していた。永禄十三(1570)年3月頃、信長の家臣 森可成が宇佐山城を築いた際、志賀越道と逢坂越(東海道)を通行止めにして宇佐山城の近くに新道を建設した。宇佐山城は延暦寺焼き討ち後すぐ廃城となったが、新道は利用され続けた。明治十四(1881)年の『近江国滋賀郡誌』に「白川越新路」として載っている。
 また天正元(1573)年7月に宇治で挙兵した足利義政を討つ際、信長は岐阜城を出発し彦根から坂本まで琵琶湖を進み、そこから志賀越道を通り京都へ向かっている。信長は天正三(1575)年2月、志賀越道の修復を近隣の村々(白川郷、吉田郷、山中郷)に命じ、信長の上洛に合わせ十日足らずで幅三間、両側に松が植えられた道に整備させている。同六年9月末に洪水で志賀越道が破壊された時には、直ちに修理を近郷に命じている。

 しかし、江戸時代に入ると西廻り航路が開拓されたことにより志賀越道の重要性は低下した。だが時々大津を迂回して山中越から京都に入る商人がおり(19世紀前半まで現れている)、これに対して大津の商人が幕府に訴え志賀越道の使用を阻止し逢坂越を主要路にしようと努めている。
 現在、京都大学吉田キャンパスにより志賀越道は分断されているが、これは文久二(1862)年に造られた尾張屋敷によるものである。このことからも、当時志賀越道の重要性が失われていたことが伺われる…と言いたいところだがそうではない。図2に示されている地図にあるように、尾張屋敷の北側に道が描かれており、この頃にはこちらがメインルートになっていた可能性があるからである。(以下、この新ルートを今出川ルートと呼ぶ。現在の今出川通に相当するため)
 昭和九(1934)年11月16日、山中越ドライブウェイが開通した。全長6110m、道幅は4.6m。工費は93000円余り。これが現在の主要地方道下鴨大津線であり、経路は先述した新道に近い。これに合わせ、昭和十年度には京都府側の改修も行われた。また昭和四十五(1970)年4月15日には山中バイパスが開通した。


1691年志賀越道地図
図 1 元禄四(1691)年『新撰増補 京大絵図』より志賀越道周辺
左下の橋が荒神橋。今出川ルートはまだできていない。

1754年志賀越道地図
図 2 宝暦四(1754)年『名所手引 京圖鑑綱目』より志賀越道周辺
既に今出川ルートが出来ており、従来のルートはちゃんと描かれていない。この時には既に旧ルートは衰退していたか。


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