2015年4月3日
いろは丸沈没事件 〜銭闘士 坂本龍馬〜  紫柴砦


 はじめに
 本稿では慶応3年4月23日(1867年5月26日)23時頃に備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島付近で発生した海援隊のいろは丸と紀州藩の明光丸が衝突した事件の顛末を述べる。この事件は日本初の海難審判事故とされ、坂本龍馬の巧みな政治術が発揮された格好の例である。

 海援隊といろは丸
 慶応3年2月、脱藩浪士であった坂本龍馬は土佐藩の後藤象二郎と会談し、脱藩の赦免を得ると共に、龍馬が中心となって運営していた亀山社中を土佐藩公認の組織とすることが決まった。その折に亀山社中は海援隊へと名を改め、龍馬は海援隊隊長となった。
 土佐藩の公認と援助を得た海援隊は、早速伊予大洲藩から長崎・大坂間の人員・物資運送を目的として船舶を借り入れた。これがいろは丸で、帆走も可能な150トン・45馬力の小型蒸気船であった。なお、なぜ海援隊が船舶を借り入れたのかというと、海援隊が自前の船舶を所有していなかったためである。この借り入れを斡旋したのは龍馬と親交のあった薩摩藩の五代友厚であった。
 慶応3年4月19日、海援隊の初仕事のため長崎港から出航したいろは丸は瀬戸内海を順調に進んでいた。しかし、出航4日目の深夜23時頃、備中国笠岡諸島の六島付近で紀州藩の蒸気船・明光丸と衝突。明光丸は887トン・150馬力を誇る船舶で、いろは丸の約5倍の大きさであった。明光丸と衝突したいろは丸は大破した。いろは丸の乗員は明光丸に乗り移ることで全員無事だったが、いろは丸は備後国鞆の浦まで曳航される途中で沈没した。

 事故の詳細
 事故直前、いろは丸は右舷に大船が接近しているのを発見、左に舵を取った。遅れて明光丸も左舷に船舶の存在を認め、右に舵を取った後、左に戻した。結果明光丸がいろは丸の右舷に突っ込む形で衝突する。この際にいろは丸の乗員は明光丸に乗り移った。この時はまだいろは丸はなんとか沈没を免れていた。
 衝突の後、明光丸は後退。その後明光丸は前進し再びいろは丸に衝突。これが致命打となり、鞆の浦への曳航途中にいろは丸は積荷もろとも沈没した。

 鞆の浦での交渉
 鞆の浦に到着後、海援隊と紀州藩は事故処理交渉を開始した。龍馬は航海日誌や談判記録の確保に努めたほか、海援隊の隊員たちに「一戦交える覚悟を」と激を飛ばして臨戦態勢を整えている。焦点となったのは事故責任の所在であるが、状況は海援隊側が不利であった。
 今も昔も国際航法では右側航行船に通行優先権がある。正面に向かい合った場合も、互いに右に避けて右側通行となる。そのため夜間航行中は右舷に青灯、左舷に赤灯を灯して目印とする。赤灯が見えた場合、相手は右側航行船ということになるため、速度を落とすか、進路を変えることで相手を優先的に通行させなければならない。
 前節で述べたとおり、衝突直前においていろは丸の右舷に明光丸はいた。明らかに明光丸が通行優先権を有しており、いろは丸には回避義務があったのである。当然ながら、交渉において海援隊側は「右舷に青灯が見えた」と主張。紀州藩側は航行方向からしていろは丸に青灯が見えるはずはなく、また明光丸は右に舵を切ることで、いろは丸に赤灯を示そうとしたと主張し、またいろは丸は赤青いずれの舷灯も灯していなかったと述べた。これに対し、龍馬らは「自分たちは勝海舟の門下生であるから、そんな初歩的ミスをすることはあり得ない [1]。」と主張した。
 事故当時の状況から見て、海援隊側が不利であることは明らかだった。そこで龍馬は「航路に関する証拠が残されていないため、いったんこの事は脇に置く」ことを提案、紀州藩側も承諾した。有利な状況にあるはずの紀州藩側がこの提案に賛同したのは、明光丸の派遣目的にあると考えられる。明光丸は紀州藩の軍制改革の一環として、銃器および大型蒸気船の購入のために長崎に派遣されていた。購入のための会談には期限があり、これが破談すると甚大な損失が出てしまう。それ故、紀州藩側は交渉をいったん打ち切ることを望み、龍馬の提案に乗ったのである。
 先を急ぐ紀州藩側は再交渉を約した上で、当初の目的地である長崎へと向かおうとする。これに対し龍馬は「現状の回復」を要求。すなわち、明光丸が当初の目的のために長崎に向かうのならば、海援隊も当初の目的である大坂への人員・物資運送を果たすために大坂に向かうべきであり、その実現のために紀州藩から船舶の借用及び積荷の購入に充てる1万両を借用したいと申し出たのだ。しかし、龍馬がこの借用金を事件解決の際に支払われる賠償金で相殺されるものと考えていたのに対し、紀州藩側は単に龍馬が紀州藩から借り入れをし、後に返済するものであると考えていた。そのため、紀州藩側が龍馬に返済期日を設けた借用証書を提示した際、龍馬は期日記入を拒否した。
 結局交渉は決裂し、明光丸は長崎へと向かった。置き去りにされた格好となった海援隊も後を追って長崎へ向かった。

 長崎での交渉
 両者は長崎に向かった後、交渉を再開した。交渉の焦点は変わらず事故責任の所在であり、海援隊側が衝突直後に「明光丸に乗り移った際、甲板上に人影はなく、見張りを怠っていた」と主張したのに対し、紀州藩側は「その時すでにいろは丸救助に配置されていた」と主張。海援隊側が二度の衝突を咎めると、紀州藩側は「潮流が激しく、両船が離れすぎてしまったために近づこうとした」と主張。それぞれが自らの理を言い募り、議論は平行線であった。
 この交渉において、龍馬は万国公法によって解決すべしと唱え続けていた。万国公法とは1864年に清朝において漢訳された西洋の万国公法を幕府の開成所が翻訳出版したもので、当時の国際法に当たるものであった。これは交渉相手が徳川御三家の一つである紀州藩であったため、幕府の判断を介入させまいとしたことが理由として考えられる。実際、紀州藩が長崎奉行所に「いろは丸は舷灯を灯していなかった」という旨の書類を提出していたことに対し、長崎に駆け付けてこの交渉に加わっていた土佐藩の後藤象二郎が証拠不十分の書類を提出したとして紀州藩を咎め、遂にその上書を撤回させている。その他、後藤象二郎は長崎に入港していたイギリスの提督に判例を尋ね、その裁可を仰ぐことを提案している。
 また、龍馬は長崎の市井にこんな歌を流行らせた。

志づめられたるつぐいのい金を首で取のがよござんしょ       
             (福山市鞆の浦民俗資料館『坂本龍馬といろは丸事件』p.86)

 この歌は次第に変化していき、「船を沈めた償いは、金を取らずに国を取る」とか「船を破られたその償にや金を取らずに国を取って蜜柑を食ふ」などといったものが残されている。同時に土佐藩が長州藩と結んで紀州藩と一戦交えるという噂を流し、民衆を煽って海援隊支持へと傾かせていった。
 状況不利を悟った紀州藩は薩摩藩の五代友厚に金銭で解決するよう調停を依頼した。ここから交渉の焦点は賠償金額に変わる。海援隊は積荷には米や砂糖のほか、ミニエー銃という当時の最新式ライフル銃を400丁積んでいたと主張。紀州藩は事故直後にいろは丸に乗り移っていろは丸の乗員に積荷について質問したところ、米・豆・砂糖といったものしか積んでおらず、銃火器の類が積載されているなどということは全く聞いていないと主張した。龍馬はその指摘を証拠不十分として取り合わず、調停を依頼されていた五代友厚と龍馬が旧知の仲であったこともあって海援隊に有利な裁定が下り、紀州藩が海援隊に8万3526両198文という莫大な金額を支払うことが決められた。
 日本銀行金融研究所貨幣博物館によれば、幕末における1両の価値は現代の米価で計算すると4000〜10000円であり、8万3526両198文は約3億3400万〜約8億3500万円に当たる。
 多額の賠償金を背負うこととなった紀州藩はその決定に不満を持ち、再交渉を望む声が上がったことから岩橋轍輔という人物が派遣され、結果賠償金額は7万両に減額された。

 後日談
 紀州藩から多額の賠償金を得た海援隊であったが、その賠償金が如何なる用途に用いられたかは明らかになっていない。賠償金の支払いは慶応3年11月7日に完済されたが、その8日後の11月15日、京都近江屋にて坂本龍馬は何者かに襲撃され、その命を落とした。
 また、2006年に水中考古学研究所が行った調査では、いろは丸と推定される沈没船の埋蔵地点からは海援隊が主張した銃火器などは全く確認されなかった。

 おわりに
 稀代の英雄、坂本龍馬の類まれな政治術が発揮されたこの事件は、最近の研究によって少しずつその全貌が明らかになってきている。何やら詐欺まがいのことが行われていたようにも思われるが、そのような面も坂本龍馬という人物の魅力だろうと筆者は考える。


    注釈
  1. ^ 「我士官ハ勝房州公ニ従学シ外国ヘモ到リシ者ニテ航海ノ規則ハ略々知セル者ナリ。然カルニ左右ノ舷灯、点ゼズシテ暗夜ニ船ヲ行ルベキノ理ナシ」(新人物往来社『坂本龍馬辞典』p.120)

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