2015年4月24日
“別格”南禅寺  紫柴砦


 京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。この寺院は臨済宗が大いに栄えた室町時代、寺格を定めた五山制度において別格として京都五山および鎌倉五山の上位に位置づけられた寺院である。本稿は室町時代から江戸時代に至るまでの南禅寺の歴史についてごく簡単な概説と考察を試みるものである。

 南禅寺のある土地には元々、後嵯峨天皇が造営した離宮・禅林寺殿があった。そこを後嵯峨天皇の子・亀山法皇が正応4年(1291年)に寺院に改めたことで南禅寺となった。亀山法皇と臨済宗の関係は深く、上皇であった頃に起きた元寇の際には父・後嵯峨天皇が帰依していた圓爾辧圓(えんにべんねん)禅師に自戒・問法していた。元寇後に亀山上皇は落飾(出家)し、無関普門禅師を開山として南禅寺を開いた。つまり南禅寺は勅願禅寺であり、非常に格式の高い禅寺なのである。
 以上のことをふまえると、室町時代に五山・十刹の制が定められた際に南禅寺が別格として京都五山および鎌倉五山の上位に叙されたのは自然なことと思われる。しかしながら、南禅寺には権威は与えられていたものの、権力は与えられなかった。室町時代には官寺の管理及び住職などの任免を行う職として僧録が設置されたが、これは南禅寺ではなく京都五山第二位に叙せられた相国寺に置かれた。これは一体なぜなのか。
 五山・十刹の制度は南宋の制度に倣って禅寺の格式を定めたもので、鎌倉中期からその萌芽が見られた。建武の新政の頃には寺院間の序列は確定していなかったものの、京都では南禅寺・大徳寺・建仁寺・東福寺、鎌倉では建長寺・円覚寺・浄智寺の各寺が五山の列にあった。
 しかし、足利尊氏によって天竜寺が造営させると五山の列位が問題となった。足利尊氏が自らの建立した天竜寺を五山の列に加えることを望んだためである。この時は第一位・建長寺(鎌倉)・南禅寺(京都)、第二位・円覚寺(鎌倉)・天竜寺(京都)、第三位・寿福寺(鎌倉)、第四位・建仁寺(京都)、第五位・東福寺(京都)と定められる。五山以外では、浄智寺(鎌倉)は五山に准ずるものとされ、さらに浄妙寺(鎌倉)以下の十刹の列位も定められた。この段階ではその列位は京都・鎌倉の禅寺が交ざった状態であり、その後追補や変動もあったが、寺院の序列は一応明らかになった。
 ところが足利義満によって相国寺が造営されると、再び五山の列位が問題となり、再定されることとなる。義満もまた尊氏と同じく、自らが建立した相国寺を何としてでも五山の列位に入れたかったのである。しかしながら尊氏の代で決定されたものを見てみると、すでに京都における五山の枠はすべて埋まってしまっていた。そこで義満は一計を案じる。つまり、南禅寺を五山の上とし、第一位・建長寺・天竜寺、第二位・円覚寺・相国寺、第三位・寿福寺・建仁寺、第四位・浄智寺・東福寺、第五位・浄妙寺・万寿寺という序列にすることで、相国寺を五山の列に加えることに成功した。更に僧録を相国寺に置き、五山の実質的な頂点として相国寺を据えたのである。更に義満はこれでも満足しなかったのか、後に天竜寺と相国寺の列位を入れ替え、相国寺を京都五山の第一位に叙している。これは義満の死後元に戻されるが、このことは義満の強い自己顕示欲を感じさせる。
 以上のことから、五山・十刹の制は寺院の由緒を考慮したものというよりは、時の権力者の意向を反映した政治的なものであり、そのために南禅寺に僧録が置かれなかったと考えられる。以後南禅寺は大きな権限を持つこともなく、不幸にも応仁の乱の戦火に巻き込まれて伽藍が消失してしまう。権力が無いためか、臨済宗に良く帰依していた室町幕府の下にありながら、再建はなかなか進まなかった。
 桃山時代末期から江戸時代初期にかけて南禅寺から「黒衣の宰相」の異名を持つ金地院崇伝が出ると、状況は好転し南禅寺は復興されていく。更に江戸幕府によって室町幕府以来相国寺におかれていた僧録の座が南禅寺に移る。ここにおいて南禅寺はようやく名実共に臨済宗最上位の座についたのである。
 しかし、禅宗の世界において五山の力はかつてほど強大ではなく、大徳寺や妙心寺といった山隣派と呼ばれる一派が勢力を伸ばしていた。江戸幕府は五山・山隣派各々の独立を認めていたため、五山・南禅寺の下での統括した禅宗の展開は成らなかった。南禅寺の復興を支えた金地院崇伝も、徳川家康没後に後ろ盾を失って影響力をなくしていったため、南禅寺は政治の舞台において活躍することはあまりなかった。
 臨済宗の絶頂期には権力を持てず、ようやく力を手にしたと思いきや臨済宗自体が斜陽化していた南禅寺。政治に近づけなかったことは不運だったが、修行僧にとっては雑音に惑わされない良い環境だったのかもしれない。
 なお、南禅寺は京都大学から程近く、徒歩でもなんとかなる場所にある。境内には国宝や重要文化財が多数存在し、更に近代において京都・大津間の輸送で活躍した琵琶湖疎水の水路閣が境内にあるほか、蹴上インクラインもすぐ近くにある。様々な時代の歴史遺産を一挙に楽しめる絶好の場所であるので、もし興味と時間があれば、南禅寺を訪れてみてはいかがだろうか。



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