2015年6月12・19日
アレクサンドロスの帝国  skrhtp


 マケドニア王国の勃興
 マケドニア王国は前7世紀半ばにオリュンポス山麓のアイガイ(現ヴェルギナ)を都として成立した。王国は北へと領土を広げ、やがて広大な平原地帯を支配するに至った。マケドニア王国はアルゲアス家が代々支配し、ヘタイロイと呼ばれる貴族たちが王政を支えた。平民は農業・牧畜をして暮らし、奴隷制度は存在していなかった。
 マケドニアは木材の輸出によってギリシア諸都市との結びつきを強め、次第に王たちはギリシア化政策をとるようになっていった。特に前413年に即位したアルケラオスは富国強兵策を進め、都をペラに移してギリシア人芸術家たちを多数招いた。
 アルケラオスの死後、内紛やイリュリア人の侵攻でマケドニア王国は危機的状況に陥った。しかし前359年に即位したピリッポス2世の改革で危機は去り、マケドニア王国は強国へと成長した。ピリッポス2世は王国再建に成功するとギリシア征服にとりかかった。

 アレクサンドロスの誕生
 アレクサンドロスは前356年にピリッポス2世とモロッソイ[1]王女オリュンピアスの子として産まれた。ピリッポス2世はラニケを乳母とし、彼女の弟クレイトスとアレクサンドロスは幼馴染となった。ピリッポス2世はアレクサンドロスに英才教育を施すことを決め、彼が13歳になるとアリストテレスを教師として招いた。学校はペラ西方のミエザに設けられ、プトレマイオス、リュシマコス、ヘパイスティオンら同年代の貴族の子弟も集められた。アリストテレスは彼らに広範にわたる教育を施し、アレクサンドロスも彼のことを深く敬愛した。また、ピリッポス2世は不在のことが多かったため、アレクサンドロスは母の影響を強く受けて育った。
 この頃ギリシアでは第3次神聖戦争[2]が起こっていた。ピリッポス2世はこれに介入し、前346年に戦いを終結させた。これによって彼は隣保同盟[3]における主導権を獲得、ギリシア中・南部での影響力を確立した。更に前341年にはトラキアをも手中に収めた。
 前340年、ピリッポス2世はビザンティオンに遠征し、16歳のアレクサンドロスが留守を預かることとなった。この時トラキアのマイドイ族が反乱を起こした。アレクサンドロスは軍を率いて難なくこれを鎮圧した。彼はマイドイ族の地を占領してギリシア人を入植させて都市を造り、アレクサンドロポリスと名付けた。

 コリントス同盟とピリッポス暗殺
 一方アテナイでは、弁論家デモステネスを中心に反ピリッポスの主張が高まっていた。その結果、前339年にはアテナイとテバイの間で反マケドニアの同盟が成立した。
 前338年8月、カイロネイア東の平原でギリシア連合軍とマケドニア軍が衝突した。ピリッポス2世は右翼の近衛歩兵部隊、アレクサンドロスは左翼の騎兵部隊を率いた。騎兵部隊はマケドニア軍の中心であり、これは大役であった。まずピリッポス2世が正面のアテナイ軍を陽動し、戦列が乱れた所を撃破した。ギリシア連合軍は全体を統括する指揮権を欠いていたため、テバイ軍の戦列にも隙間が生じた。そこに騎兵部隊が突入してテバイ軍を圧倒した。特にテバイの精鋭部隊であった神聖部隊は300人中生存者46人の壊滅状態となった。
 戦いはマケドニアの圧勝に終わり、敗戦の知らせを受けたアテナイは非常措置をとった。しかしピリッポス2世はアレクサンドロスと重臣アンティパトロスをアテナイに派遣し、寛大な条件で講和条約を結んだ。一方テバイに対しては厳しい処置をとった。ピリッポス2世は捕虜と戦死者の返還に多額の身代金を要求し、更に反マケドニア派の指導者を処刑もしくは国外追放し、亡命者を帰国させて寡頭政権を打ち立てさせた。
 前338年スパルタを除くギリシア諸都市の代表がコリントスに集まり、マケドニアの覇権の下での新たな秩序維持機構としてコリントス同盟が結成された。翌前337年ピリッポス2世はこの同盟の盟主となり、ギリシア支配を確固たるものとした。
 同年の秋、ピリッポス2世はクレオパトラを妻とした。これは7回目の結婚だったが、マケドニア貴族出身の后は彼女が初めてだった。彼女の伯父アッタロスは披露宴で、2人から正当な世継ぎが生まれるようにと言い、これに激怒したアレクサンドロスはアッタロスに杯を投げつけた。更にピリッポス2世がアッタロスに味方したため、アレクサンドロスは母と共に国を飛び出した。間もなく父と和解して彼は帰国したが、父子のわだかまりは残った。一方アッタロスは外戚として宮廷で大きな影響力を持つようになった。
 翌前336年ピリッポス2世はペルシア遠征にとりかかり、重臣パルメニオン、アッタロスら3人を指揮官とする1万の先発部隊を出発させた。先発部隊は小アジアに上陸、順調に南下していった。
 同年の夏、アイガイでピリッポス2世の娘クレオパトラとモロッソイ王子アレクサンドロスの結婚式が催された。祝典は多数の著名人を招待しての盛大なものであった。翌日、ピリッポス2世は音楽の競技会のため2人のアレクサンドロスと共に劇場に入った。彼が玉座に向かうため2人から離れたとき、側近護衛官[4]パウサニアスが駆け寄り、短剣でピリッポス2世を殺害した。パウサニアスは逃走したが、すぐに護衛官ペルディッカスによって殺害された。この直後、オリュンピアスはクレオパトラの部屋に乗り込み、生まれたばかりの女児を殺してクレオパトラを自殺に追い込んだ。

 アレクサンドロスの即位
 ピリッポス2世の後継者としては、アレクサンドロスと従兄弟アミュンタスの2人が候補となった。新しい王は事実上少数の有力貴族によって決められ、アンティパトロスの支持が決め手となってアレクサンドロス3世が即位した。
 アレクサンドロス3世はまず父の葬儀を行い、それから国内の反対勢力の排除にとりかかった。最も厄介な相手はこの時ペルシアへの先発部隊を指揮していたアッタロスであった。アレクサンドロス3世は援軍と称して部隊を派遣し、その隊長にアッタロス暗殺を命じた。パルメニオンはアレクサンドロスの即位を支持してこれを黙認し、暗殺は実行された。更に翌年アレクサンドロス3世はアミュンタスを反逆罪で処刑し、自身の権力を確保した[5]。パルメニオンの支持も王権の安定に大きく寄与し、彼の一族は一大勢力を形成した。
 一方ピリッポス2世の死を知ったギリシアでは反マケドニアの動きが高まっていた。アテナイではデモステネスが独立回復に乗り出した。
 これに対し、アレクサンドロス3世はまずテッサリアに向かった。彼は説得を行い、テッサリア騎兵部隊を手中に収めることに成功した。次に彼はテルモピュライに隣保同盟評議会を招集、テッサリア人の協力で父の議席を継承した。
 隣保同盟を味方につけたアレクサンドロス3世はテバイに軍を率いて向かった。テバイはこれに驚き、すぐに抵抗を放棄した。この事態にアテナイも驚愕し、慌てて使節団を派遣して恭順の意を表明した。
 アレクサンドロス3世は全ギリシア諸国の代表者を招集、自身を全権将軍とすること及びペルシア遠征に協力することを決議させた。こうして彼は父のギリシア支配体制を継承することに成功した。

 トラキア・イリュリア征服
 前335年春、アレクサンドロス3世は諸部族の反乱の制圧のためトラキア遠征に出発した。彼は1万5千の部隊を率い、ハイモス(現バルカン)山脈を越えてドナウ川に達した。このとき周辺のトラキア人たちはドナウ川中の島に避難した。川の北側にはケルト系のゲタイ族が住んでおり、騎兵4千・歩兵1万の部隊でマケドニア軍を待ち構えた。
 アレクサンドロス3世はゲタイ族攻撃のため、一夜の内にドナウ川を渡った。マケドニア軍は夜明けと共に攻撃を仕掛け、ゲタイ族を打ち破った。周辺の諸部族は戦意を喪失し、彼に臣従を誓った。以降これらのケルト人たちはマケドニアの同盟者として戦い、バルカン半島での勢力を強めていった。
 アレクサンドロス3世は更に西へと向かったが、そこにイリュリア諸部族蜂起の知らせが届いた。彼はイリュリア人の町ペリオンに向かい町を包囲した。しかし翌日、イリュリア人部隊がマケドニア軍背後の高台を占拠、マケドニア軍はイリュリア人に挟まれる形となった。これに対してアレクサンドロス3世は部隊に複雑な動きを次々にとらせ、敵が度肝を抜かれた所で攻撃を仕掛けた。これが功を奏し、イリュリア人部隊は高台を放棄した。3日後マケドニア軍は奇襲攻撃をかけ、イリュリア人の本拠地だった山岳地帯まで追撃を行った。

 テバイ滅亡
 一方ギリシアでは、追放されていたテバイ市民たちが9月に密かに市内に侵入、マケドニア兵士を殺害して民会に現れた。彼らはアレクサンドロス3世がイリュリアで戦死したと報告し、マケドニア支配からの脱却を訴えた。テバイは謀反を決議し、駐留するマケドニア軍を包囲するとともに他のギリシア諸国に援助を求めた。
 この知らせはイリュリアを平定した直後のアレクサンドロス3世の下に届いた。彼はすぐさまテバイに向かい、険しい山を越える約400キロの道のりをわずか2週間で走破した。彼は布陣するとテバイに考え直す猶予を与えたが、テバイ人は逆にギリシア解放のスローガンを叫んだ。アレクサンドロス3世は徹底攻撃を決めて市内へ強行突入し、そこにマケドニア駐留軍も合流して市内は修羅場と化した。
 テバイを制圧したアレクサンドロス3世は、テバイの処遇を決めるためコリントス同盟の会議を開いた。この会議に参加したのはテバイ攻撃に参加した国々のみで、そのいずれもが嘗てテバイと敵対していた。当然、処分は過酷なものとなった。都市を徹底破壊し神殿領以外を諸国に分配すること、生き残った市民は全員を奴隷とすることなどが決定された。救われたのはマケドニア王家の友人や詩人ピンダロスの子孫などわずかな者たちのみで、死者は6千人、奴隷となった者は3万人に上った。
 テバイの消滅はギリシア諸国に衝撃を与え、離反を企てていた諸国も抵抗を放棄した。アレクサンドロス3世は王国の基盤固めを達成し、ギリシアでの覇権を確立した。

 東方遠征へ
 マケドニアに帰還したアレクサンドロス3世は東方遠征の準備に着手した。当時マケドニアの財政は火の車であった。国庫には60タラントンしかなく、一方でピリッポス2世の借金は500タラントンにも上ったという[6]。そこで彼は800タラントンもの借金をして遠征費用に充てた。
 前334年春、マケドニア軍約3万7千がトラキアのアンピポリスに集結し東方遠征が始まった。20日後、副将格のパルメニオンが本隊を率いてヘレスポントス(現ダーダネルス)海峡を渡り小アジアに上陸した。アレクサンドロス3世自身は60隻の船と共にトロイアへと向かった。彼は上陸にあたって浜辺に槍を投げ、真っ先に上陸して神からアジアを受け取ったと宣言した。これはトロイア戦争の英雄に自分を準えての行動であった。この後パルメニオン率いる先発部隊が合流し、兵力は4万7千100に達した。
 一方ペルシア側では、小アジア各地の総督や将軍がゼレイアに集まり協議を行った。ギリシア人傭兵隊長メムノンは焦土作戦でマケドニア軍を撤退に追い込むことを提案した。しかし総督アルシテスの強固な反対でこの案は却下された。
 マケドニア・ペルシア両軍はグラニコス川で初めて対決した。マケドニア軍が川を渡って攻め込み、騎兵同士の乱戦となった。大王自身も敵指揮官を2人倒したが、直後に攻撃を受けそうになったところを間一髪でクレイトスに救われた。その間に歩兵隊が敵を圧迫、ペルシア軍は敗走した。
 ペルシア軍が敗走すると、アレクサンドロス3世はギリシア人傭兵団を包囲し、降伏の申し入れを拒絶して猛攻を加えた。ギリシア傭兵の戦死者は3千人に及び、2千人が捕虜となった。彼は捕虜をマケドニアに送り、ギリシアの大義に背いたとして重労働に就かせた。この処置はペルシア側のギリシア傭兵たちを恐怖させ、以降彼らは捨て身の抵抗に打って出るようになった。
 戦いの後、アレクサンドロス3世は戦利品の一部をアテナイのアテナ女神に捧げ、自らの遠征の大義を示した。また戦死者を丁重に埋葬した上で遺族の義務を一部免除し、更に最初の突撃で戦死したヘタイロイたちにはディオン[7]に自身の騎馬像と共に彼らの青銅像を建てるという破格の名誉を与え、人々が厭戦的になることを防ぐと同時に将兵の戦意を高揚させた。
 戦いに勝利したマケドニア軍は小アジア西岸を南下しサルディスに向かった。ここはペルシアの小アジア支配の拠点だったが、駐留軍指揮官は町を明け渡した。彼はギリシア諸都市を次々に「解放」し、各都市で寡頭制を解体して民主政を樹立し自治を許した[8]
 カリアでは、元カリア総督で弟に追放されていた女性アダを支配者の地位につけ、その際彼女と義理の母子関係を結んだ。これにより彼はカリアの事実上の後継君主となった。
 諸都市がアレクサンドロス3世に臣従する中で、ミレトスとハリカルナッソスは頑強に抵抗した。特に後者はメムノンが籠城する堅固な要塞都市であった。マケドニア軍は強力な攻城兵器を用いてこれを下した。このときギリシア人傭兵たちが小島に逃げ込んで徹底抗戦の構えを見せたが、アレクサンドロス3世は遠征に従軍するという条件で彼らを許した。この戦いの中で側近護衛官プトレマイオスが戦死し、王の親友ヘパイスティオンが後任となった。
 ミレトス占領後、ペルシア海軍には敵わないと判断したアレクサンドロス3世は港を奪うことでペルシア海軍を陸から解体に追い込むという作戦を決定し、ギリシア海軍を解散した。
 冬、アレクサンドロス3世はパルメニオン率いる部隊をサルディスへ向かわせた。また同じ頃、遠征出発前に結婚したばかりの将兵たちに休暇を与え、前年にパルメニオンの娘[9]と結婚していたコイノスに率いさせて本国に送り返した。この措置により、彼は将兵たちからの人気を高めた。
 王自身は歩兵部隊と共に小アジア南岸を進み、それから北上してプリュギアの首都ゴルディオンに至った。こうしてアレクサンドロス3世は1年で小アジアの西半分を征服した。小アジア南西部のリュキア・パンピュリア総督にはクレタ出身のネアルコスが任命された。

 イッソスの戦い
 前333年春、パルメニオンの部隊とコイノス率いる本国からの増援部隊が本隊に合流した。ゴルディオンで王は城塞を訪れた。そこには古代の王ミダスが奉献したという荷車があり、その荷車の轅の結び目を説いたものが王になるという伝説があった。大王はこれに挑戦し、剣で結び目を一刀両断したという[10]。また同じくゴルディオン滞在中、アテナイが使節を送ってきて、グラニコスで捕虜になったアテナイ人の釈放を求めた。アレクサンドロス3世は状況が好転すればもう1度使節を送るよう回答してこれを拒否した。
 このときエーゲ海ではメムノン率いるペルシア海軍がギリシアの島々や諸都市を奪回していた。メムノンは戦争をギリシア方面に逸らせ遠征軍をマケドニア本国から遮断させようとしていたが、夏の初めに病死してしまった。それでもペルシア海軍はエーゲ海の制海権を保持し続けた。背後を脅かされた大王はやむなくヘゲロコスに命じて海軍を再建させた。
 初夏、マケドニア軍はゴルディオンを出発してアンキュラから南下し、キリキア門の戦いに勝利して地中海沿岸のタルススに到着した。ここで大王は水浴が原因で高熱を発し、約2ヶ月間床に伏せてしまった[11]
 秋の初め、熱から回復したアレクサンドロス3世はイッソス湾へと向かった。その途上で、ペルシア軍がアマノス山脈東に宿営しているとの情報を得た大王は、軍を山脈の南へと進めた。
 一方ダレイオス3世率いるペルシア軍は8月にバビロンを発ち、10月にはアマノス山脈東部に到着していた。ここは騎兵部隊を展開するのに適した広大な平原地帯であった。ところが、マケドニア軍の進軍の遅れによりダレイオス3世は待ちきれなくなり、軍を山脈の北からイッソスに進めた。
 この結果両軍はすれ違う形となり、敵が背後に現れたと聞いて驚愕したアレクサンドロス3世は直ちに北上してイッソスの南でペルシア軍と衝突した。数の多いペルシア軍は狭い土地で戦列をうまく展開できず、軍の中央めがけて突進してくるマケドニア軍を見たダレイオス3世は逃走した。これを機にペルシア軍は総崩れとなり、イッソスの戦いはマケドニア軍の圧勝に終わった。
 戦いの後、王は負傷した兵士たちを1人1人見舞い、手柄に応じた褒賞を与えた。戦いの結果、ダレイオス3世が残した豪華な天幕と調度品はすべて鹵獲され、彼の家族全員が捕虜となった。大王は彼女らを王族として扱い、ダレイオス3世の母シシュガンビスを「第2の母」と呼んだという。西アジアには先代の王母を丁重に扱う習慣があり、この行動はアジア支配の正統性主張に有利なものであった。
 パルメニオンもダマスコスにあったペルシア軍の拠点を占領した。ここでは戦争を早期に終結させようとギリシア諸都市の代表が秘密裏に先回りしていたのが発見された。遠征軍はダマスコスでも夥しい財貨を手に入れた。これによりアレクサンドロス3世は遂に財政難を脱することができたのだった。このとき彼はダマスコスで捕虜となったバルシネを愛人とした。彼女はメムノンの姪であった。彼女の父アルタバゾスは以前マケドニアに亡命したことがあり、アレクサンドロス3世と彼女は顔見知りであった。

 フェニキア・エジプト征服と制海権の行方
 イッソスから逃走したダレイオス3世は、アレクサンドロス3世に講和を持ちかけ、ユーフラテス川以西の割譲を申し出た。しかしアレクサンドロス3世はこれを一蹴して進撃を続けた。
 前333年の晩秋、マケドニア軍はフェニキアに辿り着いた。このときフェニキア諸都市の王たちは艦隊を率いてエーゲ海にいたため、大半の都市は王不在のまま抵抗を放棄した。しかしティルスは、市の主神メルカルト[12]に供犠を捧げたいというアレクサンドロス3世の申し出を拒否した。アレクサンドロス3世は強大な海軍を有するティルスを放置するのは危険と判断し、前332年1月にティルス包囲戦を開始した。
 ティルスは沖合の島に築かれた堅固な要塞都市であった。アレクサンドロス3世は島に向けて堤を築き、先端に攻城兵器を据えて攻撃を行った。ティルス側は必死に反撃を試みたが、そこにフェニキアとキプロスの王たちが計200隻の艦隊とともにアレクサンドロス3世に帰順した。
 一方小アジアではイッソスから逃れたペルシア将兵たちが兵を集めており、春にリュディア地方に攻め込んだ。プリュギア総督に任命されたアンティゴノスはこれを撃破し、小アジア内陸部は完全に平定された。
 夏、アレクサンドロス3世は島を封鎖し城壁を破壊して一気に歩兵を突入させた。マケドニア軍は容赦ない殺戮に走り、ティルス人8千人が戦死し、3万人が奴隷として売られることとなった。その一方で、アレクサンドロス3世はアゼミルコス王らメルカルト神殿に逃げ込んだ人々に全面的赦免を与え[13]、さらにメルカルトに捧げる祭典を行った。
 マケドニア軍が更に南下すると、今度はガザが頑強に抵抗した。ガザはナバテア人の香料貿易の終点であった。包囲戦は2ヶ月に及び、その末にガザの男性住民は全滅、女子供は奴隷として売られた。アレクサンドロス3世はガザの香木・没薬を全て没収した。
 前332年秋、マケドニア軍はペルシウムに到着した。ペルシア人のエジプト総督マザゲスは抵抗を放棄し、エジプトを明け渡した。エジプト人はアレクサンドロス3世を解放者として歓迎した。アレクサンドロス3世はまずヘリオポリス[14]へと向かい、次いでメンフィスに到着した。ここで彼は聖牛アピスに犠牲を捧げ、事実上のファラオとなった。
 メンフィスを発ったアレクサンドロス3世は川を下りナイルデルタ西端に着いた。彼はこの場所の地形を気に入り、大規模な都市を築こうと測量・市街の区画を行った。これが後のアレクサンドリアである。そこへ艦隊司令官ヘゲロニコスが到着し、ペルシア艦隊をエーゲ海から完全に駆逐したことを報告した。マケドニア軍は遂にエーゲ海・東地中海の制海権を手にしたのである。
 前331年2月、アレクサンドロス3世はシワ・オアシスへと向かった。嘗てペルシアのカンビュセスの軍勢5万が砂漠に消えたことを知っていた一行は、砂漠を通るその旅路に戦々恐々としていた。しかし幸運にも雨が降り、さらに風の影響で道に迷ったときにはカラスが先導するように飛んで道を示した。おかげで一行は無事オアシスにたどり着くことができた。
 シワ・オアシスで一行はアメン神殿を訪れた。神殿では、アレクサンドロス3世だけが奥の信託室に導かれた。信託室で最長老の神官は彼にギリシア語で「神の子よ」と呼びかけた[15]。この言葉は中庭で待っていた随員たちにも聞こえ、彼らを驚かせた。次いでアレクサンドロス3世は神官に質問をし、隣の控室で頷きの仕草で答えを伝えられた。
 信託所から出てきた彼は、ただ全て望み通りの答えを得たとだけ言って帰途についた。彼は信託で自分が神の子であることが証明されたと発表した。このことに対しては、ピリッポス2世を貶めることとして反発する者もあった。これ以降、アレクサンドロス3世は自らを「神」と称することが多くなった。
 信託を受けたアレクサンドロス3世は再びメンフィスへと向かい、その途上で4月7日にアレクサンドリアの起工式を行った。
 アレクサンドロス3世はエジプトを1人の人物が掌握することがないように配慮した。初めは上・下エジプトそれぞれに行政官を任命しようとしたが、1人が辞退して結局ドロアスピス1人が全土の行政権を統括することになった。またリビア統治はアポロニオス、シナイ統治はナウクラティス[16]の金融家クレオメネスに委ねた。しかしクレオメネスにはエジプト全土の貢租徴収権を与えたため、彼は実質的な総督となりアレクサンドリアの建設まで監督することになった。

 アギスの反乱とペルシアの滅亡
 アレクサンドロス3世は前331年4月末にエジプトを発ち、フェニキアに入った。そこにギリシアでスパルタ王アギス3世が反乱を起こしたとの報せが入った。スパルタはコリントス同盟への参加を拒否しており、アギス3世はペルシア海軍の提督と連携し、マケドニアから増援部隊が東方へ出発したのを好機として反乱を起こしたのである。兵力は歩兵・騎兵合わせて2万2千にも達し、これはマケドニアの代理統治者アンティパトロスの軍勢を大きく上回っていた。アレクサンドロス3世は直ちに艦隊を派遣した。スパルタはアテナイにも協力を呼びかけたが、ピリッポス2世から寛大に扱われていたアテナイはこれに応じなかった。
 同じ頃、ダレイオス3世はアレクサンドロス3世に親書を送り、ユーフラテス以西の割譲を申し出た。しかしアレクサンドロス3世はこれを拒否し、フェニキアを発って内陸へと向かった。マケドニア軍は7月末頃にユーフラテス・ティグリス両河を渡り、進撃を続けた。
 一方ダレイオス3世は、大軍を編成し武器を改良するなど万全の準備を整えてガウガメラの平原に布陣した。アレクサンドロス3世は兵力で劣る自軍が包囲されないよう戦列を二重にし、両端には騎兵部隊を鉤状に配置した。10月1日、両軍は激突した。アレクサンドロス3世は右翼の騎兵で敵戦列に切れ目を作り、そこから楔形隊形でダレイオス3世めがけて突入した。ダレイオス3世はエクバタナへと逃走し、ペルシア軍はマケドニア軍左翼を圧倒していたにもかかわらず総崩れとなった。この戦いでアレクサンドロス3世の勝利は決定的なものとなり、ペルシア帝国は事実上崩壊した。
 ガウガメラの戦いの後、アレクサンドロス3世はティグリス川沿いに南下した。10月18日、アレクサンドロス3世はシッパルでバビロニア人に対し、自らがバビロニアの聖域を尊重し町の略奪を行わないことを布告した。彼は10月21日にバビロンに至った。総督マザイオスはアレクサンドロス3世が到着する前に彼の下を訪れ、都市と財貨を差し出した。アレクサンドロス3世は統治のためマザイオスを引き続き総督に任命した。これ以降旧ペルシア人支配層との協調路線が本格化していくことになる。布告を受けて、バビロニアの住民たちはアレクサンドロス3世を総出で歓迎した。住民たちは彼をマルドゥク[17]に選ばれた正統な王として迎え入れたのである。
 アレクサンドロス3世は11月25日にバビロンを発ち、12月25日にはスーサを平和裡に占領した。スーサに滞在中、アレクサンドロス3世は兵士たちが負っていた借金を全て弁済した。この時彼は兵士たちに証文の提示だけを求め、名前を知られずに済むようにした。下賜金は総額2万タラントンに及び、この行動は兵士たちの心を掴んだ。またこの頃、側近護衛官メネスが地中海沿岸地方の監督官に任命され、ペルディッカスが後継の側近護衛官となった。
 マケドニア軍は12月末にスーサを発つと、ウクシオイ人やペルシア軍を撃破して翌前330年1月末にペルセポリスに到着した。
 一方ギリシアでは、春にアギス3世率いるスパルタ軍とアンティパトロスの軍勢がメガロポリスで衝突した。スパルタ軍はアギス3世自身を含む5300人以上が戦死し、反乱は遂に終結した。
 マケドニア軍はペルセポリスに4ヶ月間滞在し、その間に宮殿の莫大な財宝を接収した。このことはペルシス地方の住民たちに反感を抱かせ、彼らは帰順を頑強に拒んだ。アレクサンドロス3世はこれに業を煮やし、5月下旬、兵士たちに1日間の宮殿略奪を許した上で、翌日にペルシア人への懲罰として宮殿に火を放った。その次の日、彼はエクバタナへと進撃を開始した。
 ダレイオス3世はこれを知ると9千の部隊を率いて再決戦に挑もうとした。しかし行軍はあまりに過酷なものだったため脱落者が続出し、側近たちまでもが次々に離脱してアレクサンドロス3世に帰順していった。更にバクトリア総督ベッソスらがクーデタを起こし、ダレイオス3世を拘束して実権を握った。7月末、ベッソスらはダレイオス3世を刺殺して逃走し、ペルシア帝国は滅亡した。アレクサンドロス3世は彼の遺体をペルセポリスに送り、丁重に葬るよう指示した。これにより、アレクサンドロス3世はペルシア帝国の領土をまるごと引き継ぐことになった。

 東方政策による亀裂
 アレクサンドロス3世はカスピ海の南で軍を再結集し、大義名分が果たされたことを宣言してコリントス同盟軍を解散した。エクバタナには副将パルメニオンを残らせ、自身は更に東へと進もうとした。そんな矢先、ベッソスがバクトリアで王を名乗っているという知らせが入った。アレクサンドロス3世はこれに対抗し、アカイメネス朝の後継者としての正当性を示すため、ペルシア風の衣装や宮廷儀礼を採用、更に旧王族を側近とした。
 アレクサンドロス3世の東方化路線は遠征軍内に亀裂を生んだ。彼は自らを「神」と称したが、生きている人間が神になるというのはギリシア人には考えられないことだった。前330年秋、ドランギアナ地方の都市フラダで王暗殺の陰謀が発覚し、騎兵隊指揮官ピロタスが関与を疑われた。ピロタスはディムノスという若者が立てた陰謀を知ったケバリノスから王への取次ぎを依頼されたが2度にわたりそれを無視したため、共犯者と疑われたのである。
 ピロタスは東方政策反対派で、また尊大な性格だったため側近たちから疎まれており、兄弟たちの死もあって完全に孤立していた。アレクサンドロス3世も彼に目をつけており、彼の愛人をスパイとして監視させていた。陰謀事件はこのような時に起きたのである。側近たちは反ピロタスの立場で結束し、義兄弟だったコイノスにも見捨てられてピロタスは処刑された。またこの事件で側近護衛官デメトリオスも処刑され、ラゴスの子プトレマイオスがその跡を継いだ。
 ピロタスの父であったパルメニオンはこの事件には無関係であった。しかしアレクサンドロス3世は、東方協調路線と対立する立場にあったパルメニオン一派をこの機を捉えて一掃し、軍隊を完全に掌握することにした。彼はピロタスからの手紙を偽造し、軍指揮官たちへの命令書を作成した後、パルメニオンと親しかったポリュダマスをエクバタナに派遣して彼を殺害させた。パルメニオンは兵士たちに人気があったため、謀殺を知った兵士たちは暴動を起こす寸前に至った。しかしポリュダマスが王の命令書を示したことで騒ぎは収まった。アレクサンドロス3世はこれらの不平分子を集めて「懲罰部隊」を編成した。
 ピロタスを排除したアレクサンドロス3世は、騎兵部隊の指揮権を2つに分割するという異例の人事を行った。彼は親友ヘパイスティオンと、古参兵たちに人気のあるマケドニア中心主義者クレイトスに指揮権を与えた。

 東の果てへ
 冬、マケドニア軍はヒンドゥークシュ山脈に入った。兵士たちは初めて経験する極寒に大いに苦しめられた。遠征軍はカブールで越冬し、前329年春にバクトリアに侵攻した。遠征軍はバクトリアで砂漠の灼熱と乾燥に苦しめられることになった。ようやくオクソス川(現アムダリア川)に着いて水を得たが、兵士の中には急いで水を飲んだために気管を詰まらせて死亡する者も出た。
 ベッソスはマケドニア軍に対抗するため、山中で焦土作戦をとった。しかしマケドニア軍が進撃を続ける中で仲間が離反し、ベッソスはペルシア人貴族スピタメネスの手でアレクサンドロス3世に引き渡された。アレクサンドロス3世はベッソスを反逆罪に問い、ペルシアの伝統に従って彼の鼻と耳を削ぎ落した上でエクバタナに送って処刑した。
 ベッソス討伐を果たしたマケドニア軍は、それまでアジアの果てとみなされていたヤクサルテス川(現シルダリア川)に到達した。アレクサンドロス3世はスキタイ遠征を見越し、河畔に軍事的拠点としてアレクサンドリアを建設した。
 ところがスピタメネスの指導下で、ソグディアナの住民が一斉に反乱を起こした。これに対しアレクサンドロス3世は、まずヤクサルテス付近の7つの町を陥落させ、虐殺を行った。ある町では男性は全員殺害し、女子供は奴隷とした。最大の町キュロポリスでは住民1万5千人の内8千人が犠牲となり、捕虜にした住民はアレクサンドリアに入植させられた。
 ソグディアナ人は騎馬遊牧民スキタイとも連携していたため、マケドニア軍は初めてゲリラ戦を経験することになった。ポリュティメトス河畔では一部隊が壊滅し、これを知ったアレクサンドロス3世は一帯を劫掠、砦に逃げ込んだ住民を片端から殺戮した。こうしてソグディアナで最も肥沃で人口が多かった地域は荒廃することになった。
 翌前328年、ソグディアナ人たちは町を捨てて各地の砦に立て籠もった。アレクサンドロス3世は部隊を5つに分けて派遣しこれらを陥落させることにした。このときにはリュキア・パンピュリア総督ネアルコスも傭兵部隊を率いて合流していた。
 アレクサンドロス3世自身も包囲戦を敢行し、深い谷に囲まれたコリエネスの砦では谷底から木を組み上げて平坦な足場を築き攻撃態勢を整えた。これにソグディアナ人の首長は狼狽し、自ら砦を明け渡した。更に同年に分隊がスピタメネスの部隊を撃破し、追い詰められたスピタメネスはスキタイ人に謀殺された。こうして2年に及んだ平定戦は終了した。
 秋、マケドニア軍本隊がマラカンダ(現サマルカンド)に宿営していた時、再び東方路線への反発が表面化する出来事が起きた。辞任したバクトリア総督アルタバゾスの後任としてクレイトスが選ばれ、彼の出発の前日に宴会が開かれた。この宴会で、詩人たちが半神の英雄もアレクサンドロス3世には及ばないと言い、更に別の者が迎合して、ピリッポス3世の業績も大したことではないと言った。既に酔いが回っていたクレイトスは我慢できず、発言を非難し更に東方政策を批判して王の偉業の大半はマケドニア人の働きによるものだと言い放った。
 周囲の者たちはクレイトスを非難したがそれでも彼は収まらず、続けてグラニコスの戦いで自分が王を救ったことを持ちだした。自身の政治路線と神性を否定されたアレクサンドロス3世は怒り、更にクレイトスが挑発的な発言をしたために我を失い、護衛兵から槍を奪って彼を刺殺した。アレクサンドロス3世は我に返ると激しく後悔し、テントに籠って嘆き続けた。側近たちはこの事件での王の罪を軽減するため、形ばかりの裁判を開いてクレイトスを有罪とし辻褄を合わせた。
 前327年春、アレクサンドロス3世はソグディアナの豪族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚した。これは彼の初めての正式な結婚であり、またソグディアナ人との和解という意味を持ったものであった。またこの頃から、彼はアジア人の部隊を遠征軍に編入するようになった。
 この背景には、代理統治者アンティパトロスと王の関係が疎遠になって前330年を最後に増援部隊の派遣が途絶えていたこともあった。アンティパトロスはオリュンピアスの政治への干渉に悩んでおり、2人はそれぞれ王への手紙で中傷合戦を繰り広げていた。このことによりアレクサンドロス3世とアンティパトロスの溝が深まっていたのである。
 同年、バルシネが男子を出産しヘラクレスと名付けられた。しかし彼は嫡子と見做されることはなかった。

 跪拝礼への反発
 この頃、アレクサンドロス3世は統一的宮廷儀礼確立のためにペルシア風宮廷儀礼である跪拝礼をマケドニア人・ギリシア人に対しても導入しようとした[18]。しかしギリシア人にとって、人間に対して平伏して跪拝礼をとるのは侮辱的行為であり、将兵の強い反発を買った。特に歴史家カリステネス[19]は酒宴の席[20]で、王は人と神の区別を混乱させていると批判し、跪拝礼導入に正面から反対した。この発言はアレクサンドロス3世を激怒させた。
 更に同じ頃、王暗殺の陰謀が起こった。ある狩猟の最中に王によって侮辱的な仕打ちを受けた近習[21]ヘルモラオスが、東方化路線や粛清を耐えがたく思っていた仲間たちと共に就寝中の王を暗殺する計画を立てたのである。しかしその日アレクサンドロス3世は偶々宴会で夜通し酒を飲み続けて難を逃れた。翌日近習エピメネスが計画を親友のカリクレスに打ち明けて陰謀は発覚した。直に関係者全員が捕えられ、裁判の結果全員が投石で処刑された。カリステネスもこの陰謀に連座して処刑された。
 こうして反対派は強制的に排除されていったのである。その一方で、これらの事件を受けてアレクサンドロス3世もマケドニア人・ギリシア人に対する跪拝礼導入は断念せざるを得なくなった。また若い世代による反抗は王に大きな衝撃を与え、以降は自分に少なくとも公然とは反対しない者だけを登用するようになった。

 インド侵攻
 前327年初夏、アレクサンドロス3世はインドに向けて出発した。まず準備のためにヤクサルテス河畔のアレクサンドリアに数ヶ月滞在した。晩秋、アレクサンドロス3世は属州総督たちに若者を選抜して軍事訓練を施すよう命じた後、2万近い大軍を残留させてバクトリアを出発した。ニカイアに着くと、王はインダス川西岸の首長たちに使節を送り、速やかに帰順するように命じた。これによりタクシラ王タクシレスらの首長らが彼に臣従した。その後アレクサンドロス3世はヘパイスティオンとペルディッカスに先発隊を率いさせ、インダス川までの地域を制圧するよう命じた。
 王自身は本隊と共に、冬の間にスワート地方へと進軍した。マケドニア軍はこの地でも抵抗する町は徹底的に破壊し、住民たちを殺戮した。マケドニア軍の攻撃を受けたバジラの住民たちは、周囲36km、高さ2千mにも及ぶ巨大な岩山アオルノスに立て籠もった。これに対しアレクサンドロス3世は、砦に向かう土壇を築いて攻撃を仕掛けた。彼の作戦に住民は戦意を喪失して降伏した。
 インダス川では、先発部隊が船橋[22]を建造して渡河の準備をしていた。前326年5月、マケドニア軍はインダス川を渡ってタクシラに入り、タクシレスから町を引き渡された。タクシラはバクトリア・ガンジス流域・カシミールを結ぶ交通の要衝であった。
 マケドニア軍は次いでヒュダスペス川(現ジェルム川)へと向かった。ヒュダスペス川東岸では、パンジャブ地方の王ポロスが5万3千の兵士と戦象130頭の大軍を率いて待ち構えていた。このとき川は雨で増水していたが、アレクサンドロス3世は嵐の夜に、別働隊を敵軍の正面に残して本隊を上流で密かに渡河させた。本隊はポロス軍を破り、クラテロス率いる別働隊の追撃で勝敗が決まった。アレクサンドロス3世はポロスの武勇と2mにも及ぶ体躯に感嘆し、領地を安堵し更に新たな土地を与えた。また勝利を記念して川の両岸に町を建造し、東岸の町をニカイア[23]、西岸の町をこの直前に老衰で死んだ愛馬に因んでブーケファラと名付けた。
 この頃、正妃の1人であるロクサネが男子を出産した。しかしこの子供は夭折し、後継者となることは叶わなかった。
 マケドニア軍は更にアケシネス川(現チェナブ川)・ヒュドラオテス川(現ラヴィ川)を渡り、ヒュファシス川(現ベアス川)に達した。王はヒュファシス川の向こうには豊かな土地が広がると聞き胸を高鳴らせた。しかし兵士たちは相次ぐ戦いと進軍、荒天、宿営地に出没する毒蛇やサソリによって気力体力を喪失しており、遂に将兵たちが進軍を拒否した。部隊長以上が集められた会議で、アレクサンドロス3世はあくまで進軍を訴えた。誰もが王に反対するのを憚る中、コイノスが立ち上がって帰還を進言し、遂にアレクサンドロス3世は反転を決意した。彼は記念として、ヒュファシス河畔にオリュンポス12神の像を建てた。コイノスは間もなく病死し、アレクサンドロス3世は彼を盛大に葬った。

 反転
 帰還といってもただ帰るわけではなかった。アレクサンドロス3世はインダス川を河口まで下り、南の大洋を目指すことにした。彼はネアルコスに三段櫂船の艤装を命じ、前326年11月初めに、ヒュダスペス河畔のニカイアを出発して川の両岸の2部隊と共に大船団で南下を始めた。
 最初は凱旋航海のようであったが、インダス本流に着く前にマッロイ人とオクシュドラカイ人が手を結んで9万の軍で抵抗してきた。各地で激戦となり、あるマッロイ人の町でアレクサンドロス3世は城壁内に単身で飛び降りるという無謀な行動を行い、敵に囲まれて瀕死の重傷を負った。幸い3人の側近に救出されたが、王が死んだとの噂が流れ一時行軍が止まった。
 マケドニア軍の兵士たちは精神的に疲弊しきっており、不満が蓄積していた。不満は敵への残虐行為となって表れ、マッロイ人・オクシュドラカイ人との戦いでは帰順しない住民に対する殺戮が続いた。王はこれを容認したが、このことは住民たちを恐怖させた。結果として増々多くの住民たちが帰順を拒否し、新たな犠牲が生まれるという悪循環に陥った。ヒュドラオテス東岸の町サランガの町では住民1万7千人が犠牲となり、その近くの町では病気で逃げ損なった住民500人が皆殺しとなった。更に2万人が立て籠もったある町には火が放たれて大半が死亡した。マッロイ人に対しても凄惨な攻撃が行われた。ある砦に立て籠もった住民は全員が殺害され、最大の町では王の重傷に激怒したマケドニア兵たちにより容赦ない無差別殺戮が行われた。
 前325年夏、マケドニア軍はようやくインダス川デルタの入り口に位置する町パタラに到着した。ニカイアを出発して実に10ヶ月もの月日が経っていた。王はヘパイスティオンに命じてパタラに港と砦を築かせた。王はまた河口を探検して大洋の存在を確認し、また初めて潮の干満を経験した。その後王はネアルコスを指揮官として、ユーフラテス河口までの探検航海を命じた。
 本隊は10月にパタラを出発し、西へと向かった。この後2ヶ月間、マケドニア軍はガドロシア・マクラン両砂漠の只中を進むことになった。行軍は途轍もなく過酷なものとなった。猛暑と乾燥、砂丘が兵士たちの体力を消耗させ、ときには山に降った雨が鉄砲水となって襲った。マケドニア軍は重大な被害を受け、ようやくカルマニアに達したときには全軍疲弊しきっていた。
 10月下旬に出航したネアルコスの艦隊も苦難の連続であった。12月頃ネアルコスはハルモゼイアに到達し、そこで本隊が5日の距離の所にいることを知り王と偶然の再開を果たした。この時アレクサンドロス3世は彼らの無残な姿に艦隊が失われたと思い悲嘆にくれ、無事を知ると涙を拭おうともせずに喜んだ。その後ネアルコスは再び航海に出発した。

 不穏な情勢
 冬、アレクサンドロス3世はスーサへと出発した。この頃東方諸属州では、ペルシア人総督たちがインドに向かったアレクサンドロス3世はもう帰って来ないだろうと考えて乱脈不正な行政を行っていた。ペルシア時代と比べて総督の権限が大きく制限されたこと、王との個人的紐帯が断ち切られたこと[24]などが総督たちの忠誠心を弱めていたのである。 
 総督たちの不正は王の下にも告発された。アレクサンドロス3世はペルシア総督オルクシネス、カルマニア総督アスタスペス、スシアナ総督アブリテスとその子オクサトレスの4人を処刑し、後任には全てマケドニア人を任命した。こうして東方協調路線は大きく後退を迫られる形となった。更に王は告発を受けてマケドニア軍駐留軍指揮官らも厳罰に処し、更に反乱を防ぐため属州総督たちに私兵解散令を布告した。
 翌前324年1月、マケドニア軍はバサルガタイに到着した。ここでアレクサンドロス3世は、キュロス2世の墓があらされているのを見て怒り、アリストブロスに修理を命じた。その後スーサに向かう途中、ペルセポリスを通過した。ここでアレクサンドロス3世は宮殿放火のことを後悔した。
 この頃、私兵解散令で解雇されたギリシア傭兵たちが各地で乱暴狼藉を働いて大きな社会不安を生んでいた。彼らは西へ移動し、雇用を求めてペロポネソス半島のタナロス岬に集結した。彼らの募集にはアテナイの将軍レオステネスや元総督なども関わっていた。
 この問題の解決のため、春にスーサに辿り着いたアレクサンドロス3世はギリシア諸国に亡命者帰国礼を発し、側近ニカノルをギリシアに派遣した。しかし多数の亡命者の一斉帰国は、アギス3世の蜂起鎮圧以降平和が続いていたギリシアに政治的緊張と没収財産を巡る紛争をもたらすことが予想された。この布告で特に影響を受けるのは、オイニアダイという町の住民を追放して不法に自治領としていたアイトリアと、サモス島の住民を追放して植民地としていたアテナイであった。またこの布告は、政治体制と社会秩序の維持を定めたコリントス同盟条約に反するものであった。当然ギリシア諸国は布告に反発し、アレクサンドロス3世の下に使節を派遣して交渉を行った。各国はコリントス同盟をも最早意に介さなくなった彼に敵意を募らせ、アイトリアとアテナイは戦争の準備に取り掛かった。またこの布告は代理統治者アンティパトロスの政策[25]を否定するものでもあったため、彼は保身に走りアイトリアに密かに同盟を打診した。アンティパトロスは布告を強制する立場にあったが、もはや強制する権威も意思も持ってはいなかった。
 前324年5月には、アテナイで想定外の事件が起きた。アレクサンドロス3世の側近ハルパロスが多数の傭兵と船団を率いて亡命を求めてきたのである。彼はバビロンで帝国の財務責任者を務めていたが、王がインド遠征に向かうと享楽に耽るようになった。しかし王が帰還して総督たちの粛清を行ったことで恐れを抱き、自身が以前に市民権を与えられていたアテナイに逃亡することにしたのである。アテナイはアレクサンドロス3世と全面対立することを恐れ、最初は彼の入国を拒否した。そこで彼は3隻の船と資金の一部だけを携え、嘆願者としてアテナイに赴いた。デモステネスは入国に反対したが、結局反対を取り下げてハルパロスの入国が許可された。
 ハルパロスはしばらくの間アテナイで監視下に置かれ、資金はアクロポリスに保管された。マケドニア側は度々[26]彼の引き渡しを要求したが、アテナイは王の直接の代理人ではないからと言ってこれらを退けた。また複数の人物が国家の代表として使節を送ってきたことはギリシアでのマケドニア王国の権威低下にもつながり、コリントス同盟は増々空洞化していった。そのこうする内にハルパロスの監視は事実上解かれ、彼は脱出に成功し傭兵を集めてクレタ島に移った。
 スーサ滞在中、アレクサンドロス3世はペルシア式の集団結婚式を執り行った。彼は自らアカイメネス朝の2人の王女パリュサティスとスタテイラを娶り、側近80人をペルシア人・メディア人の女性と結婚させ、マケドニア人がアジアにおいて新しい支配層として君臨することを示した[27]。彼はまた遠征中にアジア人女性を妻としていた兵士1万人に夫婦関係を承認して祝い金を送った。このとき王はダレイオス3世の妻の1人を親友ヘパイスティオンに嫁がせ、さらに彼を事実上の宰相である千人隊長に指名して、王位挑戦者の出現を未然に防いだ。
 この頃、3年間のマケドニア式軍隊訓練を受けていたアジア人の若者たちがスーサに到着した。アレクサンドロス3世は彼らのパレードを見て満足し、彼らを「後継者」と呼んだ。更に彼は東方出身者を騎兵部隊や親衛騎兵隊に編入し、いざとなればいつでも東方人に頼れるという姿勢を見せた。
 これらの措置でマケドニア兵たちの不満は高まり、前324年王がオピスでマケドニア人古参兵1万人の除隊帰国を発表したことで遂に騒擾が起こった。しかし3日後に和解し、饗宴が盛大に開かれた。宴にはペルシア人も参加し、王はマケドニア人とペルシア人が帝国を共同で統治するとの誓いをたてた。彼はまた古参兵たちの子共たちをマケドニア兵士として育てることを約束して引き取り、彼らに恩賞を与えてクラテロスと共に本国に送り出した。王はアンティパトロスを更迭して本国の統治をクラテロスに委ねることを決めた。
 このときマケドニアにいたアンティパトロスの子カッサンドロスは、バビロンを訪れて弁明を行った。しかし反って王の怒りを買い、カッサンドロスは後々までアレクサンドロス3に対して恐怖心を抱くようになった。

 大王の死
 前324年秋、エクバタナでヘパイスティオンが病で急死した。アレクサンドロス3世は3日間食事も喉を通らないほどに嘆き悲しんだ。王は嘗てないほど大規模な葬儀を行った。この時彼は哀悼の意を示すため、ペルシア人の聖火を葬儀が終わるまで消すように命じた。しかしこの行動はペルシア人が王の死に際し行う習慣だったため、多くの人々はこれを凶兆ととり、天がアレクサンドロス3世の死を予言していると考えた。
 また王はヘパイスティオンを半神の英雄として祀ることを決め、クレオメネスに手紙を送り彼を祀る霊廟をアレクサンドリアに造営するよう命じた。当時クレオメネスは数々の不正を犯したと取沙汰されていたが、王は手紙の中で霊廟が立派に建造されたならば彼の過失を咎めることはしないと述べた。一方千人隊長の地位はペルディッカスが継ぎ、彼はマケドニア王国のナンバー2となった。
 一方ギリシアでは、秋にハルパロスが部下によって殺害された。この後アテナイでは保管されていたはずの彼の資金が半分しかないことが判明し、調査の結果デモステネスが賄賂を受け取ったとして告発された。
 冬には、ヘパイスティオンの弔い合戦と称してザグロス山中のコッサイオイ人に対する討伐遠征が行われた。
 前323年初頭、アレクサンドロス3世はバビロンに移った。このとき彼の下にマルドゥクの神官たちが訪れ、信託を伝えて町に西から入るようにと忠告を与えた。しかし地形の問題では東側から入らざるを得なくなり、意図せず信託に逆らうこととなった。
 バビロンに戻ったアレクサンドロス3世の下には各国からの使節団が続々と訪れた。中でもギリシアの使節団は、要求に応えてアレクサンドロス3世を神として崇拝するという決議をもたらした。またこの頃、ペルシス総督ペウケスタスが集めたペルシア歩兵2万がバビロンに到着し、マケドニア歩兵は数の上でも士気においてもペルシア歩兵に圧倒されることとなった。
 バビロンでは奇妙な事件も起きた。ある時、見知らぬ男が王不在の間に玉座に王の衣装を着けて座った。王は陰謀を疑って彼を尋問したが何も分からなかった。占い師からこれは不吉な前兆であると聞いた王は、男を死刑にして犠牲を捧げた。結局この男の素性と行動の意味は分からず終いであった[28]
 アレクサンドロス3世はバビロンでアラビア半島周航計画を立てた。彼はネアルコスを指揮官として準備を進めた。しかし出発直前の6月1日、アレクサンドロス3世は熱病に倒れた。数日間は病床から指示を出し続けたが、5日夕方に容体が悪化した。9日に重体となり、声を出すこともできなくなった。翌日の6月10日、王が死んだと思いこんだ兵士たちが押しかけたが、王は声こそ出ないものの寝台の側を通り過ぎる1人1人に会釈を返し、目で頷いた。同日の夕方、アレクサンドロス3世は32歳で死去した。死に臨んで彼はペルディッカスに印璽を与え、事実上の後継者に指名した。

 バビロン会議
 アレクサンドロス3世が死ぬと、彼が後継者についての遺言を残さなかったため後継者問題が発生した。妻ロクサネは当時まだ妊娠8ヶ月で、彼には嫡子と見做される子がおらず、更に異母兄弟アリダイオスは知的障害により政務・軍事の担当が不可能だった。側近たちは会議を開き、アリダイオスをピリッポス3世として即位させ、ロクサネが産んだ子が男子であればピリッポス3世と共同統治をさせることを決定した。ピリッポス3世即位に当たっては、ペルディッカスが摂政を務めることになった。
 会議ではまた、側近たちが総督に指名されて王国を分配した。アンティパトロスは改めてギリシア・マケドニアの全権将軍に認められた。セレウコスは総督には指名されず、ペルディッカスの下で2人の王を守る役目を受けた。
 会議の後、ペルディッカスとロクサネは手を組み、王妃の1人スタテイラを偽の手紙で呼び出して殺害した。数ヶ月後にロクサネは男子を生み、アレクサンドロス4世として即位させた。
 アレクサンドロス3世の死を受け、バビロンでは埋葬の準備が行われ豪華な霊柩車が2年がかりで作られた。ペルディッカスは遺体をアイガイに埋葬しようと考えた。前321年霊柩車はマケドニア本国へと送り出された。しかしシリアを通過する際、プトレマイオスが軍を差し向けて遺体を奪い取り、「大王はシワのアメン神殿に葬られることを望んでいた」と称してエジプトへ運んだ。彼はメンフィスで葬儀を行い、後に遺体をアレクサンドリアに移し黄金の棺に安置した[29]。アレクサンドロス3世の遺体を自ら埋葬することで、プトレマイオスは自身が彼の後継者であることを示し政治的・宗教的優位に立ったのである。
 この頃エジプトでは、クレオメネスが職権を乱用して私腹を肥やしていた。彼は人々から搾取を行い、神殿を略奪し、兵士の給料を着服した。そこでプトレマイオスはクレオメネスを裁判にかけて処刑した。これによってプトレマイオスはエジプトでの実権を掌握した。
 アレクサンドロス3世が死去したことで、東方では事実上の島流し状態だったギリシア人入植者たち約2万3千人が蜂起してギリシアへ帰還しようとした。ペルディッカスは軍を派遣してこれを鎮圧したが、東方地域は不穏な情勢となった。
 ギリシアでも、アテナイを中心として諸国が反乱を起こしラミア戦争が勃発した。親マケドニア派と見做されたアリストテレスは?神罪で告訴されエウボイア島へ逃れた。しかし翌前322年、アモルゴス島沖海戦でアテナイ海軍が壊滅、更にテッサリアのクランノンでギリシア連合軍は敗北し、ラミア戦争は終結した。アンティパトロスはアテナイにマケドニア軍を駐留させ、更には参政権を上層市民に限定する一種の寡頭政治を樹立させた。

 アルゲアス家の滅亡
 ペルディッカスは地位の確立のために反対派を排除し、更にアンティパトロスの娘を妻とした。しかしその後ペルディッカスは彼女と離婚してアレクサンドロス3世の妹クレオパトラを娶ろうと考え、これにアンティパトロスは激怒した。更にペルディッカスと対立してヨーロッパに逃れたアンティゴノスが彼の野心を宣伝したことで、反ペルディッカス連合が形成されていった。こうして後継者戦争が勃発することになった。
 前321年、ペルディッカスは軍を二分し、一方を小アジアのアンティパトロス討伐に向かわせ、自身はもう一方の軍と共にエジプトのプトレマイオス討伐に向かった。しかしペルディッカス軍はナイル渡河に失敗し2千人もの溺死者が出た。部下たちは激怒し、ペルディッカスを殺害した。
 ペルディッカスが殺害されると、後継将軍たちはトリパラディソスに集まって会議を開き、総督領の再分配などの協定を結んだ。この協定でセレウコスはバビロニア総督に就任した。アンティパトロスは新たに摂政となり、王族と共に本国に帰国した。これにより宮廷はアジアを離れることになり、アジアにおける最高権力者はプリュギア総督アンティゴノスに変わった。彼は息子デメトリオスと共に勢力拡大を始め、またペルディッカスと結婚する予定になっていたクレオパトラをサルディスで監視下に置いた。
 前319年、アンティパトロスは息子カッサンドロスではなくポリュペルコンを後継の摂政に指名して死去した。ポリュペルコンは兵士たちからの人気もある有能な部隊長だったが、既に60代で総督の経験もなかった。カッサンドロスはこの人事に我慢できず、翌前318年にアンティゴノスの援助を受けてポリュペルコンに反旗を翻した。ロクサネとオリュンピアスはポリュペルコン側、ピリッポス3世とその妻アデア・エウリュディケはカッサンドロス側につき、王権は二つに分裂した。エウリュディケはカッサンドロスを摂政とすると宣言し、夫を差し置いて事実上の王として振る舞うようになった。
 前317年秋、エウリュディケはカッサンドロスとの合流を待たずに軍を進めてオリュンピアスの軍と対峙した。しかしエウリュディケ側の兵士たちはアレクサンドロス3世とオリュンピアスへの敬意から一斉に寝返った。戦闘が起こることもなく、エウリュディケとピリッポス3世は捕虜となった。オリュンピアスはピリッポス3世を殺害し、エウリュディケには自殺を強要した。同時に彼女はカッサンドロスの弟ら有力者を多数殺害した。その後カッサンドロス軍が到着し、オリュンピアスをピュドナで包囲、籠城戦が始まった。翌前316年春に、オリュンピアスは降伏して処刑された。
 オリュンピアスを倒したカッサンドロスはマケドニアの事実上の単独統治者となった。彼はポリュペルコンに対抗してアレクサンドロス3世の異母妹テッサロニケと結婚し、新都を建設してテッサロニケと命名した。同時に彼はロクサネとアレクサンドロス4世をアンピポリスに事実上幽閉した。
 この頃アジアでは、アンティゴノスが他のディアドコイを指揮下に置こうとする動きを始めた。彼は遠征を行って総督たちを服属させ、バビロニア総督セレウコスを追放した。セレウコスはエジプトのプトレマイオスに身を寄せた。これによりアンティゴノスの支配領域は東地中海からイラン東部までという広大なものとなった。更に彼はカッサンドロスとも戦い、その際に自らを盟主とするキクラデス島嶼同盟を組織してエーゲ海における勢力固めを行った。
 前313年、プトレマイオスはアレクサンドリアをエジプトの首都とし、ムセイオンを設立した。翌前312年プトレマイオスはエジプト総督に就任した。
 同翌312年、プトレマイオスがガザでデメトリオスを破った。これによりアンティゴノス朝の勢力は一時シリア北部に後退した。セレウコスはこの機を捉え、プトレマイオスの援助でバビロニア総督に復帰した。セレウコスはティグリス河畔にセレウキアを建造して首都とした。これ以降彼は約60の都市を新設または再建していった。
 前311年、アンティゴノス、カッサンドロス、リュシマコス、プトレマイオスの4人は現状維持を基本とする和約を結び、当時12歳のアレクサンドロス4世が成人するまではカッサンドロスがヨーロッパの将軍となることが定められた。この和約により後継者戦争はアンティゴノス優勢の状態で一旦は収束した。
 翌前310年、カッサンドロスは最早邪魔な存在でしかなかったアレクサンドロス4世とロクサネを殺害した。彼はこのことをすぐには公表せずに隠した。これによりアルゲアス朝は滅亡した。
 一方ポリュペルコンは未だカッサンドロスとの抗争を続けており、ペルガモンにいたバルシネと17歳のヘラクレスを切り札として呼び寄せた。しかし彼はカッサンドロスの策謀に乗せられて2人を殺害した。
 前308年頃、アレクサンドロス3世の妹クレオパトラはサルディスから脱出しエジプトに向かおうとした。しかしこのことはすぐに発覚し、彼女はアンティゴノスの部下に殺害された。こうしてアレクサンドロス3世の血統は完全に断絶した。

 王朝の乱立
 前4世紀末、アテナイはカッサンドロスの傘下にあり、ファレロンのデメトリオス[30]を中心に温和な寡頭制が布かれていた。しかし前307年にアンティゴノスの子デメトリオスがアテナイを占領し、寡頭政権を倒して「父祖の国制」の復活を約束した。アテナイ市民は感謝の決議をあげ、アンティゴノス父子を神格化した。以降アテナイから2人への使節は「神事使節」と呼ばれるようになった。またこの年、アンティゴノスはオロンテス河畔に新都アンティゴネイアを築いた。
 前306年、デメトリオスがサラミスの海戦でプトレマイオスの艦隊に大勝利した。海戦の後アンティゴネイアではアンティゴノスの即位式が行われた。この時にはアレクサンドロス4世が死亡したことは広く知られており、王位を宣言するのを憚る理由は最早なくなっていたのである。即位式では使者が唯1人宮殿に赴き、アンティゴノスを王と呼び勝利を伝えた。民衆もアンティゴノス父子を王と呼び、朋友たちが彼に王冠を授けた。ここにアンティゴノス朝が成立した。
 一方セレウコスはアンティゴノス派を排除して権力を固めることに成功し、東方へ目を向けるようになっていた。前306年彼はイランを通ってバクトリアへと遠征を行った。またこの頃彼は王位を宣言し、セレウコス朝シリア王国が成立した。
 前305年、ロドスがデメトリオス軍の海上包囲戦に対して勝利した。ロドスを同盟国としていたプトレマイオスはこれを機に王位を名乗り、プトレマイオス朝エジプト王国が成立した。彼は即位を記念して自身の横顔が彫られた銀貨を発行した。後継将軍が自身の肖像を貨幣に刻印するのはこれが初めてであった。彼はエジプトの伝統文化を受け継ぎ、支配の安定化に努めた。
 前304年にカッサンドロスも王位を宣言し、カッサンドロス朝マケドニア王国が成立した。この頃にはリュシマコスも王位を宣言してリュシマコス朝トラキア王国を建国した。

 イプソスの戦いと後継者たちの死
 アジアでは、バクトリアを平定したセレウコス1世がインドへと侵攻した。しかしインドではマウリヤ朝がインドを統一したばかりであり、セレウコス1世はチャンドラグプタの軍勢に敗れた。戦いの後講和が結ばれ、セレウコス1世はアレクサンドロス3世が征服したインドの地域を放棄し、代わりに500頭の象を手に入れた。
 前302年、アンティゴノス父子はカッサンドロスとの対決に備えるため、コリントスでヘラス連盟を結成した。
 一方トラキアでは、リュシマコスが財宝をペルガモンのアクロポリスに保管し、宦官ピレタイロスにその管理を委ねた。ピレタイロスはそのままペルガモンの支配者となった。
 前301年、アンティゴノス軍とリュシマコス・プトレマイオス・カッサンドロス・セレウコス連合軍の間でイプソスの戦いが起こった。戦いはアンティゴノス軍の優位に進んだ。しかしデメトリオス1世の深追いにより、アンティゴノス1世は孤立して戦死した。81歳だった。
 イプソスの戦いの結果アンティゴノス1世の王国は崩壊し、諸王たちはその領土を分配した。プトレマイオス1世はキクラデス島嶼同盟を受け継いだ。アテナイは再びカッサンドロスの勢力下に置かれ、その後ろ盾を得たラカレスが僭主となった。一方デメトリオス1世には小アジアやギリシアの一部が残されるのみとなったが、彼は強力な海軍を保持してなおも活動を続けた。後継者戦争の中心にいたアンティゴノス1世が死去したことで、帝国の分裂は決定的なものとなった。
 イプソスの戦いの後、セレウコス1世はシリア北部を重視するようになった。前300年、彼はアンティオキア、セレウキア・ピエリア、アパメア、ラオディケアの4都市の建設に着手し、アンティオキアを新都とした。
 前297年頃、カッサンドロスが死去した。彼の死により後継者争いが起こり、その中で次男は母テッサロニケを殺害した。カッサンドロスの死を好機と見たデメトリオス1世は勢力挽回の動きを始めた。同年彼はアテナイを包囲し、2年後ラカレスを追放して駐留軍を置いた。更に翌前294年にはカッサンドロス朝の内紛に乗じて、マケドニア王位に就くことに成功した。
 前293年、セレウコス1世は息子アンティオコスを共同統治者とし、東方に派遣した。
 前288年頃、リュシマコスとエペイロス王ピュロスがデメトリオス1世をマケドニアから追放し、マケドニアを分割した。同じ頃、アテナイもオリュンピオドロスとカリアスの指導の下で反乱を起こし、駐留軍を追放した。デメトリオス1世はその後も勢力回復の機会を窺い続けたが、前286年セレウコスに捕えられた。
 前285年、プトレマイオス1世はプトレマイオス2世を共同統治者に指名し王権の安定化を図った。晩年彼は王室日誌を活用してアレクサンドロス大王伝を記した。前282年にプトレマイオス1世は死去した。プトレマイオス2世は彼に「神なる救済者」という諡号を与えて神格化し、更に彼を称えるプトレマイア祭を創始した。この祭典は4年ごとに開催されることになった。
 前283年には、デメトリオス1世がセレウコス1世に幽閉されたまま没した。一方この頃、リュシマコス朝では内紛が発生し、それがセレウコス朝との争いにまで発展した。前281年、リュシマコスはコルペディオンの戦いでセレウコス1世に敗れて戦死した。こうしてリュシマコス朝トラキア王国は滅亡し、その領土はセレウコス朝の支配下に入った。
 リュシマコスを破ったセレウコス1世は翌前281年、ヘレスポントス海峡を渡ってマケドニアへの侵攻を始めた。しかしその矢先、彼はエジプトから亡命してきていたプトレマイオス・ケラウノスに暗殺された。享年77。こうしてディアドコイの最後の生き残りも姿を消した。セレウコス1世が死去すると、セレウコス朝は広大な領土の維持に苦戦し、暫くの間弱体化を続けることになった。

 ヘレニズム時代の行方
 リュシマコスの王国の崩壊は、異民族へのギリシアへの侵入を促した。前281年ボルギオス率いるケルト人たちがマケドニアに侵入、マケドニア王となっていたプトレマイオス・ケラウノスを敗死させてマケドニアを荒廃させた。その後ケルト人たちは指揮権を巡る内紛で分裂したが、ボルギオスらは更なる進撃を続けデルフォイ付近にまで達した。しかし悪天候の中で進軍したためにテルモピュライ峠でボイオティア人とアイトリア連邦[31]により撃退され、ボルギオスは自殺した。これを機にアイトリア連邦は急速に台頭していくことになった。
 一方ボルギオスの下を離れた3部族は小アジアに向かい、ビテュニア王ニコメデスの援軍としてセレウコス朝と戦ったが、前275年アンティオコスに敗れた。その後彼らはニコメデスから報酬として土地を与えられてアナトリアに定住し、ガラティアを建国して長きにわたって近隣の諸国を荒らしまわった。
 前277年、デメトリオス1世の子アンティゴノス・ゴナタスがトラキアのリュシマケイアでケルト人に決定的勝利を収めた。これ以降バルカン半島のケルト人社会は徐々に衰退していった。この年アンティゴノス・ゴナタスはマケドニア王位につき、アンティゴノス朝マケドニア王国初代国王となった。これによりマケドニア支配者が目まぐるしく変わる時代は終わりを告げた。こうしてマケドニア・シリア・エジプトのヘレニズム3王国が確立した。
 その後、嘗てのアレクサンドロス3世の帝国の版図内ではバクトリア王国やペルガモン王国なども独立し、シリア王国・マケドニア王国・エジプト王国の3王国を中心としてギリシア人の王国が多数並立して覇権を争う時代となった。一方それは、ローマが急速に台頭し地中海世界に勢力を拡げていく時代でもあった。


ギリシア地図

図1 ギリシア

アレクサンドロス3世の遠征路

図2 アレクサンドロス3世の遠征路(黄線は別働隊進路)

インダス川支流

図3 インダス川支流 (紫線は遠征路)

    注釈
  1. ^ エペイロス地方にあった王国。
  2. ^ デルポイの聖域を巡るテバイとポキスの対立に端を発し、ギリシア全土を巻き込んで10年にわたって続いた戦い。
  3. ^ デルポイを共同管理するための組織。
  4. ^ 優秀な護衛兵7人からなる王の最重要側近。
  5. ^ マケドニア王家は一夫多妻制で正室側室の区別はなく、また長子相続も確立されていなかったのもあって、王位を手にしたものが兄弟や従兄弟を抹殺することは珍しくなかった。前述のオリュンピアスの行動もこのことが背景にある。
  6. ^ アレクサンドロス3世自身がそう述べている。
  7. ^ マケドニアの聖地。
  8. ^ これは自らを支持する政体を植え付けるための行動で、「自由と自治」は実質的には制限されていた。またアレクサンドロス3世はメッセニアなどには僭主政を承認した。
  9. ^ 彼女はアッタロスの未亡人であった。
  10. ^ 留め釘を抜いてから結び目をほどいたともいわれる。
  11. ^ 急性肺炎にかかったと思われる。
  12. ^ ギリシアにおいて、メルカルトはアレクサンドロス3世の祖先とされた英雄ヘラクレスと同一視されていた。
  13. ^ メルカルトの信仰にはアジール(不可侵の避難所)の制度が含まれていた。
  14. ^ エジプトにおける太陽信仰の中心地。
  15. ^ 本来これは太陽神ラーの息子とされていたファラオに対する通例の挨拶にすぎない。
  16. ^ ナイルデルタ西部にあったギリシア人植民地。
  17. ^ バビロンの主神。
  18. ^ それまでは帰順したペルシア人たちのみから跪拝礼を受けていた。
  19. ^ カリステネスはアリストテレスの推薦で記録係として従軍していた。
  20. ^ 遠征中のマケドニア軍において酒宴は半ば公式の場であり、しばしば重要問題の提起が行われた。
  21. ^ 10代後半の貴族の子弟を選抜し、3年間王に仕えさせる制度。王の日常的な世話や就寝中の警備などを担当した。
  22. ^ 船を並べ、その上に橋を渡したもの。
  23. ^ 「勝利」の意。
  24. ^ ペルシア時代には総督たちは王と縁戚関係で結びついており、また毎年の宮廷行事で相互の絆が再確認されていた。
  25. ^ 彼はいくつものギリシア都市に僭主政・寡頭制を植え付け、そこから多数の亡命者を出していた。
  26. ^ アンティパトロス、王母オリュンピアス、カリア総督フィロクセノスの3人が使者を送った。
  27. ^ 側近たちは必ずしもこの結婚を歓迎していなかったようで、スピタメネスの娘アパマと生涯連れ添ったセレウコスのような例外を除いて殆んどは後に離婚したようである。
  28. ^ この事件はメソポタミアにおける「身代わり王」の儀礼に関連したものだったと考えられている。
  29. ^ 遺体はその後、水晶(もしくはガラス)の棺に移し替えられたという。
  30. ^ ペリパトス派の哲学者としても知られる。
  31. ^ ギリシア北西部に成立した連邦で、前3世紀後半に全盛期を迎えたがローマに敗れて独立を失った。

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