2015年10月23日
Wikipediaに見る日本人の歴史対象に関する比重  三波


 Wikipediaとは、何とも便利なサイトである。古今東西、様々なジャンルに関する知識について、「匂いをかぐ[1]」ことができる。また各自が集めた情報を、紙の辞典では不可能なほどに複数の秩序原理に基づいて並べられるのは、コンピュータプログラムの恩恵に他ならない。ユーザーは、秩序だった世界を旅する読者としての楽しみと、その秩序の形成に確たる資格を求められずに参与するという編者としての楽しみを享受できるのである。
 Wikipediaの全記事を秩序立たせる仕組みの一つが、Categoryの存在である。編者は記事を立項・編集するとき、その記事の対象の属性に関するグループを記事の末尾に書き込む。完成した記事の末尾には様々なグループ(カテゴリ)へのリンクが張られており、それぞれのリンク先にはそのカテゴリに含まれるすべての記事、あるいはそのカテゴリを包括する更に大きなカテゴリが存在する。例えば、細川護熙、岸信介、伊藤博文などの記事には全て「日本の内閣総理大臣」のカテゴリが張られているが、有名な項目名となるとそれにとどまらない。細川の項には「肥後細川氏」、「日本の陶芸家」、岸の項には「革新官僚」、「A級戦犯容疑者」、伊藤の項には「暗殺された政治家」、「暗殺者」など、多くのリンクが張られている。
 さて、ここで取り上げたいのは、「没年」に関するカテゴリである。歴史上の人物の殆どは、カテゴリの一つ(慣例上、末尾に来ることが多い)を「○○年没」、「没年不明」、「存命人物」が占める。人間の没年は概ね活躍した時代の少し後に来るため、「没年カテゴリに多くの記事が含まれる年」はすなわち、「日本語版Wikipediaに多くの人物が立項される時代」を表す目安になると考えた。この記事では、Wikipedia日本語版没年カテゴリによる「日本人に人気のある時代」調査を行った。なお、データは全て2015年10月20日前後のものである。

 日本語版Wikipediaにおいて、史上最初の「没年が正確に登録されている人物」は、紀元前2491年にまで遡る。その人は、ウセルカフ。エジプト第五王朝の創始者であり、「アブシールに太陽の神殿を建設する伝統を開始した最初のファラオ」だと記されている。ただし、記事本文を見る限りにおいて、没年をこの年に限定する理由は乏しいように思われる。英語版においては、「エジプト第五王朝」へのカテゴリのみである。
 二例目は飛んで紀元前985年、周の4代王である昭王である。先の3代は、本文には没年が書かれているものの、カテゴリには含まれていない。以降、5代穆王(紀元前940年)以下周王歴代が続き、他国の君主では前887年の詞(魯6代)が最初に加わり、宋、秦などが加わる。中東第一号は、アッシリア王アダド・ニラリ3世(紀元前783年)。
 最初に複数が登場するのは、紀元前771年。鄭の開祖たる桓公と、西周の最後の王である幽王である。この年、時代は春秋に入る。二例目は近く紀元前766年、秦の襄公と宋の戴公。紀元前753年、ヨーロッパ第一号としてローマ建国王レムスが登場する。片割れのロームルスは、2例目として紀元前717年に続く。聖書の関連では、紀元前715年のユダ王アハズが最初である。
 紀元前738年、晋の分家の桓叔が没。一国の君主でない陪臣としては最初である。王公族を除く純粋な役人陪臣では、鄭の大臣祭仲(紀元前682年)。
 日本人として最初に登場するのは、名草戸畔である。日本書紀に、神武東征の途上、紀伊半島で誅殺された、とのみ記される、おそらくは地元の豪族である。紀元前663年、日本建国の3年前のことである。
 後宮第1号は、晋の献公の寵姫、驪姫である。典型的な傾国の美女であり、紀元651年、部下によって一族皆殺しにされる。
 紀元前6世紀から5世紀になると、該当者がいない年度(いわゆる赤リンク)が半分を切り、まれに5人程度登場するようになる。紀元前546年、ギリシアの哲学者アナクシマンドロス没。自然哲学を考え、「最初の哲学者」とも呼ばれる。純粋な在野の知識人としては初めての登場である。紀元前496年、ピタゴラスが続く。中国では、紀元前481年の顔回と子路が並んで最初である(二人の師である孔子は紀元479年没)。紀元前468年、文学者として登場したのが、ギリシャの詩人シモーニデースである。
 一般人として最初に登場するのは、スパルタの戦士アリストデモスである。紀元前479年、プラタイアの戦いで戦死した彼は、嫉妬により顕彰されなかった。ヘロドトスが主著『歴史』の中でこの出来事に言及している。そのヘロドトスは「紀元前420年代没」であり、歴史家第1号ではない。第1号は、『戦史』を著したトゥキディデス(紀元前395年)である。
 医学の父たるヒポクラテスは紀元377年、医者第1号となっている。
 紀元前326年、動物として最初に登場するのがブケパロス。アレクサンドロス大王の愛馬である。翌紀元325年、アレクサンドロスに反乱して処刑されたムシカノスは、最初のインド人である。この前後の時期には、アレクサンドロス大王の関係記事が多い。
 紀元前3世紀にはいると、各国の君主以外では、ギリシャの学者が多くを占めるようになる。末の中国統一期には、秦の武将や政治家、秦に滅ぼされた王侯が多い。秦は瞬く間に滅亡し、項羽と劉邦の臣下、あるいは敵対者が、項羽戦死の紀元前202年まで多くを占める。同時期の第二次ポエニ戦争の関係では少なく、紀元前183年、ハンニバルと大スキピオがともに没している。
 以降一世紀、概ね1年あたり3〜4人以下の年が多くを占める。紀元前50〜40年代にかけては、ガリア戦役やローマ内乱などによってローマ人の死者が多い。西暦が始まった紀元1年は、ページはあるものの該当者はゼロ人。紀元前の間での最高登録数は、紀元前91年、巫蠱の獄(前漢におけるクーデター未遂)が起こった年の9人である。

 23年、王莽の簒奪による新帝国が滅亡し、後漢が復活する。この年の登録者は、従来の記録の倍以上の23人。このうち、新と無関係なのはローマの小ドルスス(ティベリウスの後継者)のみであり、王莽以下22人がこの政変で没したことになる。
 紀元後に入ると、赤リンクの年が激減し、10人以上の年も数年おきに登場するようになる。しかし、23人の記録には追い付かない。後漢が滅亡した220年は、10人。390年を最後に、赤リンクは姿を消す。(以後、数例の復活例あり)西ローマ帝国が476年は、6人。487年は6人であるが、このうちの一人が顕宗天皇である。それまでの天皇には、生没年は「不明」も含めて一切加えられていなかったのである。494年は、21人。471年ぶりの20人越えである。この年、南朝斉第5代の明帝が登玉し、王族を皆殺しにしたのである。
 528年、北魏で政変が起こり(河陰の変)、皇帝含め多数が殺害される。この政変による登録が、28人。同年に磐井の乱を起こした磐井を含め、29人の新記録を打ち立てた。この余波が続き、530年、21人。549年も21人だが、これは様々な原因での死(多くが自然死)が重なった結果である。隋滅亡の618年が、21人。大化の改新が起こった645年は10人のみであり、日本人では、蘇我蝦夷・入鹿親子と、古人大兄皇子の3人にとどまる。橘奈良麻呂の乱の757年は、24人。関係者は7人だが、同年に唐で安禄山が失脚しており、こちらの死者も加わった。
 9世紀以降は、人数が激減し、ほとんどの年で10人を下回る。1006年には、史上最後のゼロ人を記録する(英語版は13人)。

 12世紀にはいることから、10人台の年が増える。日本、欧州ともに、名族が増えたことが理由と思われる。1156年、保元の乱が発生、23人。399年ぶりに20人を超えた。左大臣藤原頼長など、高位高官が敗死した。次いでおこった平治の乱の1160年は、19人。1162年は、自然死が重なり、22人。
 1180年、以仁王の令旨が発せられて、源平内乱が勃発。同年は35人の新記録を打ち立てる。そのあと19人、9人と続き、平家都落ちの1183年は23人。一の谷合戦の1184年は40人。壇ノ浦の1185年は32人であった。義経自害の1189年が31人。以降も10人台で推移する。梶原景時の変の1200年は26人。畠山重忠の乱の1205年は24人。和田合戦の1213年は26人。承久の乱の1221年はさらに更新し、43人。1227年は自然死が重なり、21人。チンギス・ハーンもこの年である。1241年と1246年も同じく、22人と20人。欧州の王侯貴族の国籍も豊かになり、13世紀後半は10人台で推移する。文永の役の1274年が22人だが、役による死者は少ない。弘安の役の1281年は平年並みの16人。
 1333年、鎌倉幕府滅亡で北条氏が一族郎党討死し、前年3倍増の63人の新記録を立てる。北条氏と内管領の長崎氏を合わせて、29人を占める。1335年が護良親王以下24人、1336年が楠正成以下39人、1338年が北畠顕家以下21人。1340年、1341年は各20人、1348年は25人、1351年は高師直以下27人、1353年は20人、1359年は23人、以降再び10人台ベースに戻る。1406年は22人、1416年は20人、1425年は24人、嘉吉の乱の1441年は26人、1443年は21人。このころからさらにベース人数が増え始め、20人を超える年も増える。1454年は7人だが、10人未満の年はこれが最後である。翌年から、20人以上の年が連発される。なお、1467年に始まった応仁の乱の影響は、ほぼないといってよい。

 10人〜29人の範囲をはみ出すことなく長年立ち、1521年、32人に到達。185年ぶりに30人を超えた。1529年、最後の10人台(16人)。1546年には40人に達し、1557年には50人を突破(55人)。1558年は22人だったが、これを最後に20人台は姿を消す。
 1570年、64人。237年ぶりの新記録である。この年、信長は金ヶ森、姉川と二つの戦いを経た。1573年、三方ヶ原の戦いなどで74人。1578年、上杉謙信以下75人。
 1582年、武田氏滅亡に本能寺の変、山崎の合戦が重なり、165人。100人の大台を突破した。1570年代、80年代は50〜70ベースで進行し、78人の1590年で一段落つく。1596年は30人。関ヶ原の1600年は135人だが、翌年以降は40〜60人ベースに落ち着いた。大坂の陣の1615年のみ突出して、157人。江戸時代通じての底値は、1681年の30人である。1703年、四十七士の切腹が重なり、94人。

 1780年代、60人越えの年が増える。50人を切ったのは1779年(45人)が最後であった。60人未満も1802年の58人が最後である。1820年代で80人以上の年が4年を占める。下級士族や一般民衆などの登録が増えたためと思われる。1842年は102人。大坂の陣以来の3桁である。ペリー来航の1853年は96人だが、以降の年は全て100人以上となる。ここから100人台前半を右肩上がりで増加し、寺田屋事件の1862年で新記録の183人。南北戦争での死者も含まれた。更に、第二次池田屋事件や禁門の変、四国艦隊下関砲撃事件が重なった1864年は216人に達する。Wikipediaのカテゴリは、201件を超えた場合には1ページ200件ずつ表示する使用であるが、今回がその初めての適用例である。100人台が3年続いたのち、1868年の253人でピークに達する。
 明治初期は一旦下落し、100人台前半で推移する。西南戦争の1877年は153人だが、1879年の108人で底を打つ。その後徐々にベースが上がり、150人前後で20世紀に突入、日露戦争の1904年で186人に達すると、ベースも同時に上がって1910年には209人、3度目の200人越えを達成。以降200人を切ったのは、1913年の194人のみである。第一次大戦とロシア革命が重なった1918年、352人。以降、俳優や歌手など、様々なジャンルが入り乱れ、1934年に356人、1936年に365人、1938年に398人と、毎年のように記録が更新される。
 日米戦争勃発以降は戦死などでやはり記録が増えた。1941年が409人。942年が428人。1943年が474人。1944年は急増して701人。1945年は直接リンクが795人だが、「阿波丸事件の犠牲者?」、「1945年に自殺した人物」、「東京大空襲で死亡した人物」、「被爆死した人物」がさらに下部カテゴリに含まれ、すべて足すと914人に達する。

 1946年以降は、400人前後に再び落ち込む。1955年が谷で319人。ここから再び増加に転じる。1959年に400人越えの408人。1969年に500人越えの510人。1977年に600人越えの610人。1986年に700人越えの717人、史上2位。1999年に800人越えの820人。2004年には924人となり、1945年の記録を54年ぶりに追い抜いた。
 2005年は、その没年カテゴリが設置された年だった。976人。年頭から設置されていた2006年は1195人、4桁になった。2009年、全世代最高の1215人を記録する。
 2010年代は、1100人前後と、2006〜2008年の3年間とほぼ同じベースで推移している。2015年は、10月23日現在で731人が登録されている。


    注釈
  1. ^ 「少しかじる」からさらに弱めた理解の程度を示す、筆者による造語。中間段階として、「少しなめる」がある。

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