2015年12月18日
テオドシウス朝  月瀬まい


 テオドシウス1世の登場
 378年8月9日、アドリアノープルの戦いでローマはゴート族に大敗、東方皇帝ウァレンスが戦死した。これに対処するため、西方皇帝グラティアヌスは将軍フラウィウス・テオドシウスを東方皇帝に任命した。彼がテオドシウス1世であり、テオドシウス朝を創始する人物である。テオドシウスの同名の父親はブリテン島やライン沿岸での作戦で功績をあげ、司令官に任命されて北アフリカの反乱鎮圧に派遣されたが375年にカルタゴで処刑され、そのため息子のテオドシウスも免官となって領地のあるスペインに戻っていた。379年1月19日、ドナウ中流域の都市シルミウムでテオドシウスは皇帝となった。
 テオドシウスは、アドリアノープルの敗戦で混乱した帝国の東方を立て直さねばならなかった。アドリアノープルで勝利を収めたゴート族は思うようにローマの都市を攻略できず、テオドシウスはこれを個々に撃破した。381年、ゴート族の王アタナリックがコンスタンティノープルに迎えられたがまもなく死去、テオドシウスは丁重に彼を弔ったためゴート族は感激したという。そして講和条約が成った。382年10月3日、テオドシウスはゴート族と講和条約を結び、4年に亘った戦争を終わらせて東方の情勢を安定化させた。この条約によってゴート族は同盟部族(フォエデラティ)として、帝国内での居住を許され、ローマ軍への兵士提供を求められたものの戦闘の際はローマ軍の隊長ではなく部族長の指揮に従うこととされた。
 一方西方皇帝グラティアヌスは、383年6月にアラマンニ族の侵攻に対処するためガリアに向かった。しかし、ブリテン島の軍隊が司令官マグヌス・マクシムスを皇帝と宣言、これにライン沿岸の軍隊も呼応した。更に重臣メロバウデスも寝返ったためグラティアヌスは逃亡、しかしガリアの都市ルグドゥヌム[1]で捕えられて8月23日に処刑されてしまった。マクシムスはテオドシウスに対し帝位を承認するよう使者を送った。東方の情勢が未だ不安定であり、幼年の皇帝ウァレンティニアヌス2世[2]の領土イタリアは保たれていたためマクシムスによる支配をアルプス以北に限るという条件でテオドシウスはやむなく帝位を認めた。しかしマクシムスは387年にイタリアに侵攻、ウァレンティニアヌス2世はテオドシウスのもとに逃亡した。この頃には東方の情勢が安定しており、テオドシウスは西方へ出兵、北イタリアでマクシムスを捕えて388年8月28日に処刑し、西方の領土をウァレンティニアヌス2世の支配下に戻した。なお、メロバウデスは388年に自殺に追い込まれている。
 テオドシウスは有能な軍人であると同時にキリスト教の熱心な擁護者でもあり異端の排除に力を注いだ。ところが390年、ミラノ司教アンブロシウスに破門を宣告されてしまう。腹心の司令官がテッサロニカ市民に殺されたのに怒って市民を虐殺したためであった。彼は懺悔をしてようやく許された。またテオドシウスはキリスト教国教化で有名である。テオドシウスは391年に勅令を出し、伝統的な多神教崇拝に加えてそれまで黙認されていたキリスト教の異端派を禁止した。この勅令により、異教や異端の信者は集会を禁じられ職業からも追放され、遺言の権利も奪われることになった。
 西方では、フランク族出身のバウトとアルボガストがウァレンティニアヌス2世を補佐することになったが、やがてバウトが死ぬとアルボガストが皇帝を影響下に置く。成長し統治の意欲を見せたウァレンティニアヌス2世は392年の春頃アルボガストを解任するが、5月15日に暗殺されてしまう。8月22日、アルボガストは修辞学教師エウゲニウスを皇帝に推戴するがテオドシウスは彼を承認せず、長子アルカディウスをコンスタンティノープルに残して自ら軍を率い西へ向かった。394年9月6日、フリギドゥス川の戦いでテオドシウス軍はエウゲニウス軍を破り、アルボガストは自殺し、エウゲニウスは処刑された。なおこの戦闘の際にゴート族は最前線で戦わされ、それがローマへの不信感につながることになる。
 こうしてテオドシウスは唯一のローマ皇帝になったがまもなく病に倒れ、次子ホノリウスを呼びフラウィウス・スティリコを補佐役に付け、395年1月17日にミラノで死去した。スティリコは母がローマ人であったが父がヴァンダル族の出で、テオドシウスの信頼が厚く彼の姪を娶り、またローマ軍総司令官に任じられていた。

 東西分裂と蛮族侵入
 ローマ帝国は17歳のアルカディウスと10歳のホノリウスに分割されて継承された。双方ともまだ若年であり、補佐が必要であった。東方皇帝となったアルカディウスを補佐したのはガリア出身の官僚ルフィヌスであった。しかし、彼はスティリコとの間でマケドニアとダキアの帰属を争うことになる。この争いを察知したゴート族の指導者アラリックは395年の後半、ギリシアへ移動し帝国領内を略奪する。これに対しスティリコは東方の軍隊も自らの指揮下に入れて進軍するがアルカディウスの勅令で帰還を命じられた。この勅令を出させたのはルフィヌスであり、スティリコはこれを恨み同年11月にルフィヌスを暗殺させた。その2年後、再びスティリコはギリシアに軍を派遣するが再度アルカディウスの勅令で帰還を命じられた。この勅令を出させたのはルフィヌスの後継エウトロピウスであった。更にエウトロピウスは、コンスタンティノープルの元老院にスティリコを「国家の敵」とする決議を出させ、アラリックを「イリュリクム総司令官」に任じた。イリュリクムは東西の係争地帯となっている地域であった。こうして東西の対立は激化した。
 アラリックは北イタリアに侵入し、401年11月ついにミラノを包囲した。スティリコはこの時ミラノを離れていたが、軍勢を集めて402年のポレンティアの戦いとヴェローナの戦いでアラリックを撃退した。同年、西方の宮廷はミラノからラヴェンナに移った。しかし、また新たな危機がイタリアに迫った。ラダガイススに率いられたゴート族の一派が405年に北イタリアに侵入し現在のフィレンツェ近郊まで迫ったのである。スティリコは奴隷まで徴集して軍隊を集め、これをも撃退した。 しかし北方で事件が起こる。406年の大晦日、ヴァンダル族、スエウィ族、アラニ人の諸集団が凍結していたライン川を渡りローマ領に侵入した。ライン沿岸の軍隊はイタリア防衛のために招集されていたためこれを撃退することができなかった。彼らはフランク族を退けて西進、マインツなどの諸都市は破壊されガリアの上層市民たちはイタリアなどに避難した。更にブルグンド族やアラマンニ族もライン川を渡りローマ領に入った。ガリアが受けた災禍について、同年代の詩で「全ガリアが、ただひとつの火葬用の積薪の上で煙っていた」と書かれている。
 ガリアへ蛮族が侵入したことで、ローマはブリテン島も失った。406年、フラウィウス・クラウディウス・コンスタンティヌス(コンスタンティヌス3世)が皇帝に推戴された。407年、コンスタンティヌス3世はガリアに侵入した諸部族を退けるため軍隊を引き連れ大陸に渡り、アルルを本拠に一時イベリア半島にも進出した。これはブリテン島の支配を放棄することであり、409年にコンスタンティヌス3世が任じた総督は放逐された。410年、ホノリウスはブリテン島の民は自分の街を自分で守れと指示を出した。
 一方、スティリコはマケドニアとダキアの確保を計画していたが、ガリアでの動乱のため延期されていた。この計画では、アラリックと同盟しイリュリクム総司令官の職を与えるはずであったが幾度も延期されたためアラリックは怒り、スティリコは巨額の賠償金を支払う約束をした。このことが西方政府内でのスティリコへの不信を招いた。
 408年、東方皇帝アルカディウスが死去し、7歳のテオドシウス2世が即位することになった。ホノリウスは兄の葬儀に参列し自らの存在感を示したいと考えたがスティリコは反対し、皇帝は西方から離れるべきでないと具申した。皇帝とスティリコの不和に政敵が付け込んだ。8月、息子を帝位に就けようとしたという罪でスティリコは逮捕され、まもなく処刑された。西方は有能な指揮官をみすみす失ってしまった。
 スティリコの処刑後まもなく、ローマ軍の一部が離反しアラリックの軍に合流した。そしてアラリック軍はローマへ向け進軍した。ラヴェンナの政府はこれに対処できず、ローマは包囲され飢餓に苦しんだ。そして410年8月24日、アラリック率いるゴート族中心の軍隊はローマに侵入し、3日間殺戮と略奪を働いた。当時ラヴェンナにいたホノリウスはローマという名の鶏を飼っており、宦官が「ローマが失われました」と報告した際「なに?さっき朕の手から餌を啄んだばかりではないか」と答え、ローマが都市のことであると指摘されると安堵したと言われている。なおローマ略奪の際にホノリウスの異母妹ガラ=プラキディアは人質として連れ去られ、414年にアラリックの義弟アタウルフと結婚した。まもなくアラリックは死去するが、アタウルフの下でゴート族はその後も移動を続け、ホノリウスは418年にガリアのアクィタニア地方への定住を認めた。アタウルフの死後、ガラ=プラキディアはローマ側に返還された。
 帝国の政治の中心がローマを去って久しくローマ陥落の軍事的重要性は小さかったが、それでもローマ人の心の中ではローマは首都であり、「永遠の都」の陥落は人々に大きな衝撃を与えた。ヒエロニムスはローマの陥落に際し「全世界を照らす最も輝かしい光は失せた。実際、ローマ帝国から首が切り離されてしまったのだ。より正しくいうならば、全世界はひとつの都市とともに死んだのだ」と述べた。なお、この時期キリスト教がローマの衰退をもたらしたという主張が高まり、これへの反駁のためアウグスティヌスが『神の国』を執筆したのは有名である。

 フン族の襲来
 その頃、フランク族や西ゴート族に追われたヴァンダル族がイベリア半島に移動し、411年に定住を認められた。しかし、西ゴート族もまたフランク族に追われてイベリア半島に渡った。ローマは両者を争わせようと試み、その結果ヴァンダル族はアフリカに渡るに至った。また、413年にブルグンド族が同盟部族としてライン沿岸に定住を認められた。
 蛮族がローマ領を荒らすなか、西方は内乱に追われていた。ブリテン島でコンスタンティヌス3世が擁立されたほか、イベリア半島やアフリカなどでも簒奪者が皇帝の名乗りを上げた。これらの僭称帝は将軍コンスタンティウスに破られ、コンスタンティヌス3世も411年に殺された。
 東方もまた、蛮族の侵入に苦しんでいた[3]。395年冬からフン族の大軍がコーカサスを越えてシリアを襲った。テオドシウス1世が西方に軍を移していたためこれに抵抗できず、398年に宦官エウトロピウスが兵を集めて交戦、撃退した。更に408年、ウルディン率いるフン族がドナウ川を渡り、トラキアを襲った。彼は莫大な賠償金を要求したが、ローマ側は彼の部下を買収して離反させ、ウルディンはドナウの北方へ逃れた。襲撃を避けるため、近衛長官アンテミウスは412年にドナウ川の艦隊を増強する計画を公布し、更にコンスタンティノープルの陸側に「テオドシウスの城壁」と呼ばれる城壁を建造させた。
 コンスタンティウスはガラ=プラキディアと結婚し、421年2月に共治帝となったが9月に死んでしまった。ホノリウスには子が無く、彼は423年、38歳で死去した。テオドシウス2世が唯一の皇帝となるはずであったが、書記官長のヨアンネスがローマで皇帝に擁立された。ガラ=プラキディアはコンスタンティノープルに逃れ、424年、コンスタンティノープルの宮廷はコンスタンティウスとガラ=プラキディアの間の息子で当時5歳であったウァレンティニアヌス3世を副帝とし、母親ガラ=プラキディアと軍隊とともにイタリアへ派遣した。ヨアンネスは捕えられて処刑され、425年、ウァレンティニアヌス3世はローマで正帝と宣言された。しかし427年にアフリカの総督ボニファティウスが反乱を起こした。
 西方皇帝交代を機に東西の政府は協調関係を回復した。西方皇帝ウァレンティニアヌス3世は東方皇帝テオドシウス2世の従兄弟の娘である小エウドキシアと婚約し、更に帝国全体に効力を持つテオドシウス法典が公布された。
 ラヴェンナでは、皇帝の母ガラ=プラキディアが将軍たちのなかから後見人を選び、450年に死去するまで事実上権力を握っていた。429年から、アエティウスが後見人となった。アエティウスは幼少期にフン族の人質となっており、フン族の後援で軍事長官にまで出世した。アエティウスは437年、フン族と協力してブルグンド族を攻撃して滅ぼしこれは『ニーベルンゲンの歌』のもとになっている。またコンスタンティノープルのテオドシウス2世にも実権は無く、姉プルケリアと妻エウドキアの影響の下にあった。433年、エウドキアは失脚してイェルサレムに隠棲しプルケリアが権勢をふるった。
 この時期にも、ローマの領土は失われ、荒らされた。ボニファティウスの反乱に乗じて429年にガイゼリック率いるヴァンダル族がジブラルタル海峡を渡ってアフリカに上陸、アフリカ北岸を東進し、ヒッポ・レギウスを占領して都とした。435年2月、ヴァンダル族はローマの同盟者として定住を認められたが439年10月19日に突如カルタゴを急襲し占領した。そして440年春、ガイゼリックは艦隊をシチリアに派遣し上陸した。これに対しコンスタンティノープルの政府は海軍をシチリア島へ派遣した。更にササン朝がアルメニアに攻め込んだがこれは撃退に成功し442年にペルシア軍は撤退した。
 だがその隙にアッティラ率いるフン族が再びドナウ川を渡った。このときドナウ沿岸の重要都市シルミウムが陥落し、破壊された。フン族襲来に際してコンスタンティノープルの政府はシチリア島から海軍を呼び戻したが、間に合わなかった。続いて443年、テオドシウス2世はアッティラからの逃亡者引き渡しと貢納金の要求を退けたため再び戦端が開かれた。フン族は兵器工廠の所在地ナイスス、更にサルディカ[4]をも陥落させた。フン族の軍勢はコンスタンティノープルに迫り、テオドシウス2世は講和を受け入れざるを得なくなった。貢納金は三倍に増額された。447年春、アッティラは再び東方への侵攻を企てた。折り悪く447年1月26日、大地震がコンスタンティノープルを襲い城壁は倒壊していたが市民も協力して60日以内で城壁を修復、アッティラはコンスタンティノープルには侵入できず448年に和睦が結ばれた。449年、コンスタンティノープル政府はアッティラ暗殺を企てて使節に刺客を忍ばせるが失敗した。

 フン族撃退、王朝断絶
 続いて、アッティラは西ゴート王国攻撃を企てた。しかし450年春、ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアが宦官ヒヤキントをアッティラのもとに派遣した。彼女は元老院議員との結婚を強いられたのが不満で、指輪とともに助けを求める書状を送った。この出来事はすぐウァレンティニアヌス3世に知られ、ヒヤキントは拷問されて処刑された。アッティラはホノリアを自分の妻と主張し、西方領土の半分を相続することを求めた。又このとき、フランク族の王位継承争いが起こり、それぞれの陣営がアッティラとアエティウスに同盟を求めた。ラヴェンナの政府とアッティラの間が険悪となった。
 東方でも事態が動いていた。450年7月28日、落馬が元でテオドシウス2世が死去した。このとき本来はウァレンティニアヌス3世が唯一の皇帝となるはずであるが、プルケリアはマルキアヌスという一士官を皇帝に選び、彼と結婚した。8月25日、マルキアヌスが東方皇帝に即位した。東方がテオドシウス家から離れた[5]。マルキアヌスはフン族に対し強硬姿勢をとり、貢納を取りやめた。
 アッティラ率いるフン族はガリアに侵入した。アエティウスは西ゴート王テオドリックと同盟を結び、その上アラニ人やフランク族も味方させて軍勢を率い進軍、両者はカタラウヌム平原で衝突した。激しい戦いで、テオドリックは戦死した。アッティラは敗北し、撤退した。アエティウスは西ゴート族やフランク族の強大化を防ぐため追撃は避け、両者に帰国を勧めた。
 ガリアから退いたアッティラは451年9月、マルキアヌスを脅すためイリュリクムを襲った。マルキアヌスは北方の情勢が不安になり、ニカイアで行われる予定だった公会議の開催地をカルケドンに変更した。そして452年、今後はイタリアに侵入した。しかしアッティラはすぐイタリアから撤退する。教皇レオ1世が説得したとも言われるが、カタラウヌム平原での敗戦でフン族が弱体化したのも大きい。453年、アッティラは死去しその後フン族の勢力は弱体化していく。
 そしてイタリアでは、ウァレンティニアヌス3世がアエティウスの影響下から脱しようと試み、454年9月、自らアエティウスを暗殺しその後彼の派閥を虐殺した。しかしウァレンティニアヌス3世は、これを恨んだアエティウス派の残党によってローマで暗殺されてしまう。455年3月のことであった。これを以ってテオドシウス朝は断絶した。20年と少し後、西方からローマ皇帝はいなくなった。


    注釈
  1. ^ 現在のリヨン。
  2. ^ グラティアヌスの異母弟であり、彼の共治帝。
  3. ^ この時期の蛮族侵入はフン族の影響とされる。
  4. ^ 現在のソフィア。
  5. ^ マルキアヌスがプルケリアと結婚していることから、彼をテオドシウス朝に含めることもある。

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