2015年11月
〜2/26  堂島米市


 1930年代の日本
 まず最初に、二・二六事件の前提となる当時の日本社会について考えていきます。政治・外交・経済の三つの項目から見ていきますが、これらはそれぞれが独立した内容のはずはなくて、直接的・間接的に関連しあっていることを自分で補完しておいてください。

 政党政治への不満
 1924年から1932年までの八年間は、立憲政友会と憲政会(後、立憲民政党に改名)の二大政党による政党政治、「憲政の常道」と呼ばれる政治が行われましたが、末期には国民の政党政治への不満がピークに達していました。
第一の理由は政争とスキャンダルです。与野党の戦いは現代でも見られますが、当時の野党は与党を倒し、政権を獲得するためには手段を選びませんでした。時には軍部と手を結び、時には財閥と結束し、時には国家主義勢力と同調し、そんなことを延々と繰り返すのです。国民のための政治なのか、政党のための政治なのか、国民の不信感も高まる一方です。それに付随して、政治とカネ問題も浮上します。25歳以上のほぼ全ての男子の選挙権を認める普通選挙法の実現によって、政治資金が莫大になったことが原因です。汚職関連のスキャンダルが暴露され、国民はうんざりしていきます。
 第二の理由は、1920年代の恐慌と不況です。第一次世界大戦中の大戦景気の反動である戦後恐慌、関東大震災による震災恐慌、蔵相の失言がキッカケとなった金融恐慌、世界恐慌とデフレ政策が重なってしまった昭和恐慌。数々の恐慌を経験した国民は、政党への不満が限界まで高まり、政治家を殺害したテロリストのほうが支持されるという状態になってしまいました。
 さらには、社会主義国のソヴィエト連邦、ファシスト党独裁のイタリア、ナチ党独裁のドイツなどが成功したように見えたため、1930年代は一党独裁・計画経済を主張するコミュニズム・ファシズムこそが国家の理想だと思われました。
 以上のことより、当時の政党は現代のそれ以上に国民から白い目で見られてしまったのです。後で書きますが、二・二六事件でも天皇をたぶらかす「君側の奸」に、政党は名を連ねることになってしまいました。

 満州事変と国連脱退
 1931年9月18日、満州事変の発端となる柳条湖事件が勃発しました。中国大陸関東州に置かれた日本軍のひとつである関東軍は、当時の政府の不拡大方針を黙殺して、約四カ月で満州国を建国してしまいました。建国の目的は、ソ連へ警戒、満州に存在した日本権益を取り戻しかけている中国から改めて奪い取ること、恐慌による失業者対策とブロック経済の形成、人口の増加による移民先の確保など、様々なものがあるそうですが、この話にはあまり関係がないため、割愛させていただきます。
 日本は日満議定書を出すことで満州国を認めますが、国際連盟が設置した調査団によるリットン報告書によって満州国は日本の傀儡国家であることが公表されてしまいました。一方でその報告書には、満州に日中双方による自治的政府を設置することを提案しているなど、日本に対して妥協的な面が存在しています。当時の国際社会は植民地支配を否定できない空気であったようです。
 ともかくも、国際連盟臨時総会において対日撤兵勧告決議案が、42対1で可決されると松岡洋右ら日本側全権は総会から退場し、一カ月後には国際連盟からの脱退を通告しました。こうして、日本は国際的に孤立を深めていったのでした。
 国際的に孤立してしまったため、これまで以上に海外に対して危機感を持つ必要がありそうです。そのためには強いリーダーシップを発揮して、国防の必要性を強調し、軍備を拡張しなければならない、そんな考えが軍部内で頭をもたげていきます。

 井上準之助と昭和恐慌
 先にも出ましたが、1920年代は恐慌と不況の連続でした。ここでは1930年代の行き詰まり感に直結するであろう、日本史上最悪の恐慌たる昭和恐慌にスポットライトを当てていきます。その際にキーマンとなるのが、元日本銀行総裁の大蔵大臣井上準之助です。
 1929年7月、立憲民政党の浜口雄幸内閣の蔵相となった井上は金解禁を行います。金解禁とは金本位制に戻ることを指します。この金本位制復帰には@通貨である円の価値回復、A円為替相場の安定、B経済の自動調節機能、の三つの意図があります。井上は金解禁と同時に、緊縮財政の実施、物価引き下げ、産業合理化の促進を行うことで、一時的な不況を覚悟の上で、脆弱な日本経済の体質を改善し、日本の国際競争力を強化しようとしました。
 井上はアメリカの強力な経済力を前提として、金解禁、緊縮財政を行っていました。しかし、1929年にアメリカで始まった恐慌は、世界中のほとんどの人が抱いていた楽観論に反して、世界恐慌に発展してしまいました。
 頼みの綱であったアメリカ経済を失った日本は、1920年代の恐慌により疲弊しきった経済、金解禁と緊縮財政によるデフレーション、世界恐慌の影響によって、空前絶後の大恐慌に飲まれてしまったのです。
 結果として、輸出の急激な減少、大量の金の国外への流出、企業の倒産などによる失業者の増大などに加えて、生糸の対米輸出の激減によって繭の価値が暴落し、農村も深刻な恐慌状態に陥り、東北地方などでは欠食児童や女子の身売りが相次いで、社会不安が増大しました。
 二・二六事件の要因の一つである、農村の困窮を作り上げてしまった井上準之助は、その後、井上日召を指導者としたテロリスト集団、血盟団によって殺されてしまいました。

 高橋是清と管理通貨制
 「台風の中で窓を開けてしまった」と皮肉される井上に代わって、立憲政友会の犬養毅内閣の蔵相となったのが高橋是清です。高橋は組閣当日から金輸出再禁止、すなわち、金本位制からの完全離脱を行いました。そして、通貨供給量を政府・日銀が統制する管理通貨制度へと移行していきました。
 ところで、金輸出再禁止の際に利益を上げた人たちがいます。三井などの財閥系銀行は、イギリスが金本位制を停止させた1931年9月から、日本も近いうちに金輸出再禁止を行うと予想してドルを買いだめました。三カ月後の12月に金輸出再禁止が行われると円の価値は暴落、財閥は巨額の為替差益を獲得しました。この行為は財閥への不満を高めてテロリズムの発火点となり、二・二六事件でも財閥は君側の奸の一つとされてしまいました。
 高橋は昭和恐慌のデフレーションと管理通貨制度を利用して、輸出の拡大策と軍事費を中心とした財政支出拡大策の二つからなる積極財政を行い、昭和恐慌から立ち直ることができましたが、貧困問題は完全には解決することはできませんでした。その後、財政の健全化を図るために、高橋は軍事費の抑制を図ろうとしますが、二・二六事件で青年将校らによって殺されてしまいました。

 皇道派と統制派
 以上のことより、当時の日本を、政治に対する不信感、国際関係への不安感、経済への絶望感が覆っていたことはわかっていただけたと思います。そして、当時の日本人がそれらを甘んじて受け入れるのではなく、なんとかして解決しようとしていた人もいたことは疑いようがないと思われます。それは日本陸軍でも同じことでした。
 まずは統制派についての説明から始めます。
 日本陸軍には、創設以来の軍閥である長州閥などが存在しました。それらに対抗して、大正末期、陸軍内に人事的・軍事的に代謝を促そうとする新たな軍閥が発生してきたのです。昭和軍閥、別名統制派です。統制派は欧州戦の結果を現地で観察して、総力戦とそれを可能にする体制の必要性を実感したようです。それに加えて、ロシア革命による初の社会主義国、ソヴィエト連邦の思想的・軍事的な脅威を警戒しました。当時の日本は大正デモクラシー運動、米騒動など社会運動が盛んであり、日本共産党が結成され、中国では民族運動が激化しつつありました。それらの危機感を感じながら、統制派は省部(陸軍省・参謀本部)の中枢を占め、高度国防国家化を志向しました。その後、統制派はいくつかのグループと大同団結して、陸軍人事を刷新し、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の三将軍を擁立して正しい陸軍を立て直すことを目標にしました。中心人物は永田鉄山や東条英機などで、陸軍大学校出身の中堅実務幕僚が多く、林銑十郎を擁立していました。
 続いて、皇道派についてです。
 皇道派の多数を占めるのは急進的な隊附青年将校、つまり、戦争の前線に出ていく指揮官です。生きるか死ぬかの戦線における犠牲、献身などの仲間意識によって結び付けられ、また、部下は徴兵された貧困層が多くいました。貧困層を生み出した資本主義ではなく、北一輝の主張する革新的な理論にシンパシーを感じ、元老・重臣・財閥・既成政党などを現状維持勢力として、排撃しようとします。中心人物は荒木貞夫や真崎甚三郎などですが、このふたりには青年将校らを利用して、政治的に出世しようという下心もあったようです。ちなみに、皇道派の名前の由来は、荒木が日本を皇国、日本軍を皇軍、日本の政治を皇道であるべきだと唱えたことにあります。

 二・二六事件に至るまで
 皇道派と統制派の派閥争いは二・二六事件の数年前から起こっていました。皇道派の中心である荒木貞夫が陸相であった犬養毅・斎藤実内閣期は皇道派が力を持っていました。岡田啓介内閣となって、陸相が荒木から林に代わり、真崎が陸軍教育総監を辞めさせられ、陸軍省のナンバースリーである軍務局長に永田鉄山がなると、統制派がイニシアチブを握るようになりました。そして、二・二六事件に繋がるいくつかの事件が発生したのです。

 士官学校事件
 1934年11月、皇道派の青年将校たちが、首相・重臣・財閥首脳を暗殺して混乱を起こし、戒厳令を出させて革新的な軍政府を樹立しようというクーデタを企てたとして憲兵隊によって検挙され、軍法会議にかけられました。証拠不十分で不起訴処分となりましたが、統制派によって青年将校の何人かは停職処分にされてしまいました。皇道派と統制派の対立は深まってしまいました。

 陸軍教育総監更迭問題
 1934年1月から陸軍三長官の一つである陸軍教育総監になった皇道派の中心、真崎甚三郎は、1935年7月に統制派に擁された林銑十郎陸相による人事異動で教育総監を罷免されました。
 真崎は、将官以上(大将・中将・少将)の人事は陸軍三長官の同意を要すため、この人事異動は無効であるとして、これを拒絶しました。陸軍の人事内規には、将官以上の人事は「三長官の協議による」とあるので、これを三長官全員の同意が必要だと解釈したようです。さらに、教育総監は天皇直属の官職であり、その人事を陸相が行うことは統帥権干犯であるとして林を非難しました。
 その後、林陸相・真崎教育総監・参謀総長閑院宮載仁親王の陸軍三長官で「協議」した結果、真崎は罷免されてしまいました。皇道派は、陸軍三長官全員の同意を得ておらず、統帥権干犯であるとして、統制派の中心である永田鉄山軍務局長に激しい攻撃を加えました。皇道派と統制派の対立は深刻なものとなってしまったのでした。
 相沢事件
 先ほどから何度も登場している統制派のエース、永田鉄山軍務局長ですが、1935年8月に皇道派の青年将校、相沢三郎によって斬殺されてしまいます。相沢は、統制派からは狂った殺人鬼、皇道派からは偉大な志士とまさに賛否両論でしたが、それら二つの見解は相沢の軍法会議へと持ち込まれました。
 皇道派は、統制派との法廷闘争を望み、そして、維新運動を活発化させる着火点にしようとする一方、統制派はこの場で皇道派の徹底弾圧を狙います。ですが、軍法会議が山場を迎える直前になって、二・二六事件は勃発したのでした。

 政府首脳の強襲
 なぜ相沢事件の軍法会議が続いていたのに二・二六事件は起きたのでしょうか。無理やりクーデタを起こさずとも、法廷闘争によって統制派にゆさぶりをかけ、皇道派の勢力を強くすることはできそうです。
 実は二・二六事件の中心である歩兵第一・第三連隊に属する青年将校達は、統制派の意向によって、すでに満州に派兵が決まっていたのです。早く昭和維新を決行しないといけないという焦りもあったでしょうが、青年将校の一刻も早く矛盾を孕んだ日本社会を改革したいという純心もあったと思います。
 皇道派達の決起部隊は首相等の官邸・私邸を襲撃し、高橋是清大蔵大臣・斎藤実内大臣・渡辺錠太郎陸軍教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長は重傷、永田町一帯を占領しました。
 なぜ渡辺教育総監が殺されてしまったのでしょうか。真崎から教育総監の立場を奪ったと見られるにしても殺すほどではないとも思います。実は、渡辺は天皇機関説を認めるような発言をしたので皇道派から反感を買ってしまったのでした。

 軍内の三つ巴
 そこで日本政府は戒厳令を出しました。これが決起部隊の目的だったのです。戒厳令とは、非常時において国土の一部の行政権・司法権・立法権の行使を軍部に委ねる非常法のことです。皇道派は川島義之陸相と交渉して二・二六事件を正当化し、軍事政権の首班に皇道派を据えることと、統制派幹部の逮捕・罷免を要求します。
 このとき、陸軍内では二・二六事件に対する態度が三つに分裂します。一つは維新軍への同調。中心は荒木・真崎大将。一つは維新軍への同情的態度。川島陸相達です。そして、一つは維新軍への断固鎮圧という態度です。中心となるのは統制派の巣窟たる参謀本部の杉山元参謀次長達です。軍内の混乱は事件の混迷を招くことになってしまいました。
 また、海軍は殺害された政府首脳に海軍出身者が多かったことがあるかもしれませんが、維新軍には強硬な態度を示し、東京湾に連合艦隊を配置したりしました。

 二・二六事件の終幕
 昭和天皇は維新軍をただの反乱軍としかみなしていなかったようです。信頼を置いている重臣達を虐殺されては当然にも思えます。天皇の意向により維新軍に宥和的な軍部は一気に鎮圧方針へと舵を取ります。結局、28日までに反乱軍は鎮圧。主犯たる青年将校らは軍法会議にかけられることになりました。
 軍法会議は非公開、一審制、上告無しというのは軍人である以上、認められているものではありましたが、相沢事件のように法廷闘争を行えなかったこと、真崎や川島は無罪であったのに青年将校に影響を与えたとして北一輝と弟子の西田税は死刑となったことなど、不平等な点が多々あったので暗黒会議と揶揄されるようになってしまいました。
 その後、統制派は皇道派への粛清を進め、日本は総力戦可能な体制へと推移していきました。



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