2015年11月
尼子敗北記  紫柴砦


尼子敗北

 ……冗談はさておき。今回のテーマは狂人・敗者のいずれかということで、敗者たる尼子氏について書き連ねていこうと思います。題して『尼子敗北記』。よろしければお付き合いください。

 尼子氏の成り立ちと発展
 尼子氏は室町幕府における宿老として中央政治に関わった京極氏の分家である。京極氏は代々出雲守護に任じられており、分家である尼子氏は出雲守護代として出雲での政務に当たっていた。尼子氏の重要な任務は、国人と杵築大社[1]の懐柔であった。尼子氏の守護代としての働きは応仁の乱の際によく表れ、領国を離れざるを得なかった京極氏に代わって尼子氏が、敵対していた山名氏に与する国人の懐柔・討伐に当たって大きな成果を上げた。
 京極・尼子両氏の関係性が大きく変わるのは、尼子氏第四代の尼子経久が登場してからである。応仁の乱以降、京極氏の勢力が弱まったことに付け込み、経久は自らの勢力を拡大して出雲を掌握し、ついで隣接する他国への影響力を強めていった。経久が高齢となり、孫の晴久[2]に代替わりしてからもその傾向は続き、最盛期には出雲・隠岐・因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後の守護職を兼任する大大名となった[3]

 新宮党の粛清
 尼子晴久の代に尼子氏の全盛期を迎えたのは前述の通りであるが、それを軍事面で支えたのが新宮党である。新宮党は尼子氏の本拠地である月山富田城の北麓、新宮谷を根拠とする軍事集団で、尼子氏一門が率いる親衛隊のような存在であった。実際に新宮党という名称が用いられるようになったのは尼子国久(経久の子・晴久の叔父)がこの集団を率いるようになってからで、幾多の合戦で多大なる武功を挙げ、尼子氏の伸長に大いに貢献した。
 このように、新宮党は尼子氏の中核をなす存在であり、当然それを率いる国久の家中における影響力は非常に大きいものであった。しかし、こうした強大な勢力を持つ集団は往々にして内紛の原因となる。多大な武功を背景として、国久とその息子誠久の家中での振る舞いが徐々に傲慢なものとなっていき、主君の晴久及び他の重臣たちとの間での軋轢が著しいものとなってしまう。晴久は家中統一のため、1554年に新宮党を粛清、国久・誠久親子も誅殺された。この一件には尼子氏と敵対していた毛利元就の陰謀が働いたという説もあるが、真偽のほどは明らかでない。
 新宮党の粛清により、尼子宗家の権力基盤は強固なものとなった。しかし、精鋭たる新宮党を失ったことは、とりもなおさず軍事力の低下を意味していた。

 月山富田城陥落
 尼子氏は経久の代より、安芸制圧を狙って大内氏や毛利氏と何度も抗争を繰り広げたが、1541年の吉田郡山城の戦いで一門の尼子久幸(経久の弟)を失う手痛い敗戦を喫するなど、安芸制圧を果たすことはできなかった。他の方面でも対外政策が行き詰まり、尼子氏の影響力が弱まると、それまで尼子氏の圧迫を受けてやむなく従っていた国人たちがたちまち反乱を起こし、尼子氏はその対応に追われた。
 そのうちに毛利氏が毛利元就の下で拡大し、厳島合戦で陶晴賢を破り、1557年に大内氏を滅ぼすと、尼子氏への侵攻を本格化させた。特に石見銀山を巡る攻防はそれまで以上に激しいものとなり、尼子氏は毛利氏の猛攻にさらされた。尼子方は1560年に晴久が死去し、息子の義久が家督を継いだ後も毛利氏との抗争を継続したが、徐々に毛利氏に押されていき、国人たちにも見限られて、味方は本拠地の月山富田城のみという状況にまで追い詰められた。兵糧の補給が全く途絶え、脱走者が後を絶たないなかで、1566年11月に義久は降伏した。義久は安芸に移され、軟禁状態となった。これは尼子旧臣が御家再興のために義久を報じて毛利氏に反抗しないようにするためであった。

 御家復興運動
 戦国大名としての尼子氏は滅び、主君は毛利氏に捕らわれた。しかし旧臣たちはあきらめていなかった。山中鹿之助幸盛・立原久綱は京都に潜伏し、御家再興を企図していた。
 1568年、毛利氏はかねてから対立していた豊後の大友氏との全面対決へと突入した。毛利氏の主力が北九州に出兵しているこの好機をとらえ、幸盛・久綱両名は京都東福寺の僧となっていた尼子誠久の遺子を還俗させ、尼子勝久と名乗らせた上で御家再興の旗頭として推戴し、1569年に密かに隠岐に渡った後、そこから出雲に乱入した。この反乱には但馬の山名氏と豊後の大友氏が深く関わっていたようで、山名氏は毛利氏に奪われていた備後・伯耆・因幡といった過去の領国の奪還、大友氏は毛利氏の後方攪乱の意味で、それぞれ尼子氏に期待を寄せ、支援を図った。それを受けて勝久らはかつての本拠地月山富田城の奪取を目指した[4]が、堅城たる富田城を陥落させることはできず、北九州から戻った毛利氏の主力の攻撃に遭い、大敗を喫して1571年に出雲から撤退した。こうして尼子氏の再興計画は水泡に帰した。

 上月城の戦い
 御家再興に失敗した勝久・幸盛・久綱だったが、彼らはまだあきらめなかった。勝久・幸盛は出雲から脱出した後、但馬に潜伏し、1572年には山名氏の再起を図っていた山名豊国と共に因幡へと攻め込んだ。因幡を足掛かりに出雲奪還を図る計画だったと思われる。因幡に進軍した尼子軍は勝利を重ね、遂に鳥取城を陥落させる。鳥取城には豊国が入り、勝久らはなおも各地を転戦して勢力を広げていった。しかし、毛利氏が因幡討伐のために進軍したという知らせが届くと、豊国が毛利方に寝返ってしまう。やむなく若桜鬼ヶ城に拠点を移すが、1576年に毛利氏の攻撃を受けて鬼ヶ城は陥落、二度目の御家再興も失敗に終わった。
 それでも彼らはあきらめない。この頃、織田氏は石山本願寺と敵対しており、本願寺を支援する毛利氏討伐のため、羽柴秀吉がその任を受けて播磨に出兵していた。一度目の御家再興失敗後に織田氏と誼を通じ、二度目の御家再興失敗後織田氏の下で各地を転戦していた尼子勢は、秀吉に従って播磨へ赴く。秀吉は備前・美作・播磨の国境に位置する重要拠点である上月城を1578年に陥落させると、そこに尼子勢を入城させた。織田方として毛利方と戦うことになった尼子勢であったが、同年のうちに播磨東部三木城の別所長治が織田氏に反旗を翻すという事件が起こる。毛利氏はこれを好機と捉え、三万の大軍を擁して上月城に押し寄せた。東西から敵軍に挟まれる形となった織田方は劣勢となる。秀吉が織田信長に状況を伝えると、信長は秀吉に対し三木城攻略に注力するよう命じたため、秀吉は上月城から引き払うこととなった。結果、上月城は孤立無援の状態となってしまう。毛利方の猛攻にさらされることとなった上月城は同年7月に落城、勝久・氏久(勝久の弟)らは切腹し、幸盛・久綱は捕えられ、ここに尼子氏再興の夢は完全に絶たれたのである。

 その後
 上月城落城後、生き残った尼子旧臣は他家に仕え、幸盛は生け捕りにされた後、毛利氏によって謀殺された。久綱は生き残り、阿波の蜂須賀氏の下に身を寄せて天寿を全うした。また、月山富田城陥落時に毛利氏に捕えられていた尼子義久は毛利氏の監視の下ではあるが生きながらえ、弟倫久の息子元知を養子に迎えて尼子氏を継がせ、その系譜は昭和の世にまで続いた。

 おわりに
 「我に七難八苦を与えたまえ」と月に願った、という逸話で有名な山中鹿之助ですが、彼と同じくらい尼子氏再興に尽力した立原久綱は現代の知名度的にどうにも不遇です。鹿之助ほどのぶっとんだエピソードが無いから、と言われてしまえばそれまでなのですが、それにしたってもうちょっと注目されてもいいじゃないかと思うのです。あと、尼子十勇士とかいうどこか真田さんの所で聞いたことあるような名前の集団があったりします。後世の作り話の類ではあるのですが、一応一部の人は実在の人物がモデルになっているらしいです。ただ、やっぱりこれもマイナー…… 他にもいろいろネタがあるのにどうにも知名度がない尼子氏。もっと有名にならないのかなぁ……なんて思う次第でございます。
 ともあれ、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


    注釈
  1. ^ 出雲大社のこと。現在のように呼ばれるようになったのは明治時代以降なので、今回はこちらの名称を用いる。
  2. ^ 経久の嫡子政久は将来を渇望された名将であったが、出雲攻略中に戦死している。晴久は政久の嫡子であり、経久の嫡孫である。
  3. ^ 当然ながらあくまで守護職を兼任しただけであり、実際にそれらの地域全域にわたって支配を及ぼしていたわけではない。しかし、これらの職を得られるほどの影響力を持っていたことは確かである。
  4. ^ はじめ尼子氏を支援していた山名氏であったが、毛利氏の要請を受けた織田氏によって但馬を攻撃されていたため、十分な支援を行う事が出来なくなっていた。

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